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《 大和朝廷の 「はしり」 は、 「 難波朝廷 ( なにわのみかど=九州王朝「倭国」の難波複都 )」 に始まる 》  即ち、大和朝廷「日本国」 は、九州王朝「倭国」の 【 同じ血族・分流・分家 】 である。


大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 037 》



大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕

《 大和朝廷の 「はしり」 は、ここで言う 「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」 に始まる。
  即ち、大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」【 同じ血族・分流 】 と分かった。 》



 白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、日本全国 長門以東を実効支配したが、その司令官が「両京制」・「兄弟王朝」である 倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 である。
 日本書紀の〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇はこの倭王家 〔分家の弟王家〕 の出身である。
 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権 の禅譲を受け をクーデター「プロト大化の改新」で乗っ取り、倭国連邦の解体・改組してのち成立したのが、奈良の中央集権国家・文武天皇(大宝元年:701年)の大和朝廷『日本国』である。いわば倭王家 〔分家の弟王家〕 はプロト大和朝廷である。


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2010年 4月 2日 発行




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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』


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(684) 『そうか、であれば『書紀』の壬申乱は、九州の局地戦を、近畿の局地戦へ移植したものだと言える』 2011年7月24日(日)

 先にあげた、日出島哲雄氏の
【弘文天皇が天智天皇の子という『日本書紀』の記述は信用できない】
で、信用できないからこそ『書紀』の壬申乱は、九州の局地戦を近畿の局地戦へ移植したと判断できよう。


 大友皇子は、思うに「倭王」薩夜麻が州柔・白村江戦で唐に連行され不在になった九州王朝「倭国」を薩夜麻に代わって、唐の占領に抵抗の王族の一人だったのだろう。  そこへ唐恭順派になった薩夜麻が唐から解放されて帰って来た。

《参照》〔その間の状況は
【「唐人の計」で、薩夜麻の「封禅の儀への参加」を、薩夜麻の「倭国への解放・帰国」に“すりかえ”ている】
を参照されたく〕


『伊賀皇子は、この四人の誰の子なのであろうか。いや、「伊賀采女宅子娘有り、伊賀皇子を生めり、後の字を大友皇子と曰す」という文そのものが、「またの名、更の名は別人である」という●法則その三、に該当していると思える。弘文天皇(=大友皇子)が天智天皇の子というのは信用できないのである。⇒即ち、弘文天皇(=大友皇子)は天智天皇の皇子ではない。』


 だから、大友皇子は長門以東近江朝の天智天皇の皇子ではない。 にも拘らず、系図をいじくることで長門以東近江朝の天智天皇の皇子だとした。  こうすることで、『書紀』の「壬申乱」の読者誰もが、近畿の「壬申乱」だとして疑わない。


 更に、「倭王」薩夜麻の復位・倭国再統合戦ではなく、天智天皇崩御後の大海人皇子と、大友皇子の皇位継承戦だとカムフラージュしたと考える。


 若し、この仮説が正しいならば、長門以東近江朝(=倭国灘波副都弟王家)の天智天皇が亡き後、大海人皇子(のちの天武天皇)は無傷で長門以東近江朝を継承したと考えられる。更に日出島哲雄氏の指摘通り「壬申乱」は九州倭国の王族の大友皇子と、薩夜麻の九州島内での王位継承戦だったという事になる。


 そうだとすれば、長門以東近江朝(=倭国灘波副都弟王家)の天智天皇が亡き後、大海人皇子(のちの天武天皇)は長門以東近江朝を、すんなりと、争乱なく継承したとも考えられる。更に日出島哲雄氏の指摘通り「壬申乱」は倭国の王族の大友皇子と、薩夜麻の九州島内での王位継承戦だったという事になる。


 やはり、日出島哲雄氏の
【弘文天皇が天智天皇の子という『日本書紀』の記述は信用できない】
は正しくて、そうか、であれば『書紀』の壬申乱は、九州の局地戦を、近畿の局地戦へ移植したものだと言える。


「壬申の乱」が九州倭国の王族の大友皇子と、薩夜麻の九州島内での王位継承戦だったとなると、どんなか詳しく知りたくもなるが、約10年前の
【塩川慶子さんとの「壬申の乱ダイアローグ」】
にやっと区切りが付いたことになる。

 というのが、対話を通して当時の彼女の「瀬田の大橋」への思い入れが強く、いやーおっしゃる通りかも?と思ったりして…。地図を首っ引きに辿って行くと、何故か途中で分からなくなったりして…現地の人には叶わないなーと思ったりしてました。そこへ最近になってやっと日出島哲雄氏の九州説ですから…


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(685) 『中国とは通事が必要でしたが新羅百済高句麗とは百済の滅亡の頃迄は方言くらいの違いで同じ言葉を使っていた』 2011年7月25日(月)

約10年前の西暦2000年頃?の恥ずかしいけど懐かしい
【塩川慶子さんとの「壬申の乱ダイアローグ」】
抜粋・載せておきます。


万葉と新羅の郷札(ヒャンチル)「新羅の古歌」


A:
  「元は同じ言葉なのに、ずいぶん変わってきました。」私には、もとは同じ言葉だと言う風にはどうも思えないのですが、なにかの本でも見たなとおもってましたら、それもすぐ真じかの「日本列島史抹殺の謎」に、

佐治:  鈴木武樹氏は「いまわれわれが万葉ぶりといっているのは、案外古代朝鮮ぶりかもしれない」といっていますね。

吾郷:  金思華(「三国遺事」の訳者)氏は万葉と新羅の郷札(ヒャンチル)「新羅の古歌」が似ているといっています。

とありました。

<途中略>

Q:
  少し韓国語をやれば、(感性さえあれば)こんなに基本が同じ言葉が、別々に発生するわけは無いと思います。
 アルタイ語族としてまとめても、種族が同じと言えます。 そして、どの時期から分かれたか、といえば相当近い時代だと思いました。

 中国とは通事が必要でしたが、新羅や百済、高句麗とは百済の滅亡と大移動の頃までは、方言くらいの違いで同じ言葉を使っていたのだと思い始めたのです。
 日本書紀にも、それらのクニと、通事を交えて話をしたとは書いてありませんね。
 現在の韓国語で、足は ta-ri,橋も同じく ta-ri と言います。日本では、a-si ,ha-si ですね。 足りる、と言う言葉もあり、鎌足と読みます。
 こんなのが、ぞろぞろ出てきます。音読みが似ているのは当たり前ですが、固有語、訓読み、がそっくりだと、変です。

 植民地時代など、新しく出来た共通語もあります。土方とか。そう言う語は別として、韓国語を日本語に訳す時、現代日本語より、江戸時代語、もっと、平安時代語に訳したい表現が多いです。
 向こうは向こうで変化しているはずで、違う語も勿論多いのですが。

 動詞の前に打ち消し語が来る事、現代日本語にはありませんね。古典には出てきます。韓国語、入門だけでも齧ってみてください。
 ハングル文字がしんどい、とか、発音がとても無理、とか、全くの外国語なのですが、文の構造を見ると、1300年前は一緒だった、と実感します。
 擬音語が似るのは当たり前だけど、擬態語が似ていたら?とかね。
           

<途中略>

A:
  韓国語について、現代の国語学者・言語学者が、日本語との相互関係を、あなたのように具体的に表現しているのを私は、知りません。

<途中略>

Q:
  私は九州王朝説を結構信じています。ただ、それがどのようにして、大和に吸収統一されたのかは、諸説、どれを信じていいのか、今のとこ分かりません。
 時代は違うにせよ、神武東征のような形だったのか、婚姻などの穏やかな形だったのか。ただ、日本書紀は、少なくとも七世紀以後の記述は、実際に日本で起こった事実をモデルとして書いていると思っています。
100年位の間の出来事を、韓半島で起こったのに、日本の地名をでっち上げたとは思えません。

<途中略>

 韓国語と日本語は1300年前迄は、同じであったと言う説は多くの人が言っています。 作家の豊田有恒は、日本語は滅亡した百済語だから、韓半島の統一新羅語とはまるで違うように見える、と言っています。
 それを裏付けるには、古代韓国語と、古代日本語に精通しなければならず、実際的には無理です。

 日本はまだ万葉集などが残っていますが、韓国は、20首ほどの 郷歌(ヒャンガ)が残っているだけだからです、(このヒャンガ、面白いです)。
 現代韓国語と、現代日本語から、1300年前の共通性を証明しょうと頑張っている人たちが居ます。両国語の癖を知れば、変化の傾向が分かるからです。
 音読みを見ても、癖がつかめます。 「発達」を、日本では「ハッタッ」hattatuと読みますが、韓国はpaltalと読みます。
 同じ発音であった筈の音読み、中国読みの癖から、変化の癖が分かります。平安時代には確かに有った F 音が、日本では H 音になりました。

 固まれ、止まれ、と言う語をプリーズと聞いてしまった服部君の悲劇は、日本語の悲劇です。
 韓国人なら、プリーズすら、フリーズに聞こえるでしょう。
 日本でフランスと言っている国を、韓国ではプランスと言うのですから。
このように変化の癖をとかむと、今は違う二国の言葉が、元は同じだったと分かります。
 私も、日本が統一日本国になったのは、ずいぶん後だと思います。

一応、天智が近江で即位して、内外に「日本」と言う名を宣言した事になっていますが、それが認められたかどうか怪しいものです。本当に認められていれば、壬申の乱は起こらなかったと思います。

<以下略>


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(686) 『天智が近江で即位し、内外に「日本」と言う名を宣言したとなっていますが、それが認められたかどうか怪しい』 2011年7月25日(月)

 この
【塩川慶子さんとの「壬申の乱ダイアローグ」】
の末尾に、
 『一応、天智が近江で即位して、内外に「日本」と言う名を宣言した事になっていますが、それが認められたかどうか怪しいものです。本当に認められていれば、壬申の乱は起こらなかったと思います。』


 と、塩川慶子さんが、既におっしゃっていますが、私も本当に、
『「唐国」が新羅本紀のいう「日本国」を認めていれば、「壬申の乱」は起こらなかったと思います。』

この辺のことは、先に以下の通り触れています。


【新羅本紀「阿麻来服」と倭皇天智帝:西井健一郎著】

【総集編 〔大和朝廷「日本国」出生秘話〕今年その何たるかを語り終えたかな(7)】

【日本国を、文武天皇は「日辺にある」、天智天皇は「日出づる所に近し」】


なお、正木裕氏は
【薩夜麻の「冤罪」 Ⅲ:疑わしい天智一〇年筑紫君薩夜麻帰還:正木裕著】
で、薩夜麻帰還は天智一〇年(671年)ではなく⇒天智六年(667年)一一月の事だとされてるが…、はて・さて?


 この説だと、薩夜麻は唐の高宗の麟徳三年(666年)正月泰山での「封禅の儀」へ出席後、すぐに、天智六年(667年)倭国王薩夜麻を帰国させ、対高句麗戦に協力させられた。結果、天智7年(668年)高句麗滅亡。新羅本紀の天智7年(668年)「阿麻来服」へつながったとなる。更に、この考えでは、長門以東天智近江朝「日本国」の独立、倭国再統合戦とする「壬申の乱」が全く別の意味となってくるが…、はて・さて?


 上記の続きの
【薩夜麻帰国の背景】
項には、

 『天智四年の守君大石等の派遣と薩夜麻の封禅の儀参加は、倭国の降伏と唐への服従の証しであり、もはや薩夜麻を唐に留め置く必要は消滅した。一方、天智六年(六六七年)高句麗に内訌がおこり、国政を摂ていた大兄男生入唐し、「其の国(高句麗)を滅ぼさむことを謀(書紀・同年一〇月条)」った。これにより唐は攻勢を一層強め、天智七年一〇月唐将軍英公によって高句麗は滅ぼされた。このような時代背景を見れば、天智六年薩夜麻を倭国王として帰国させ、対高句麗戦に協力させることに、唐として大きなメリットがあることとなった。』

とあるが、一度は外地の「州柔戦・白村江戦」で大敗を喫した倭国軍をそんな短時期に建てなおし、高句麗戦へ派遣するのは容易でない。先ず、不可能だろう。


 長門以東天智近江朝が唐占領で混乱の筑紫倭国から、「阿麻国」⇒「日本国」の独立を宣言、新羅へ報告。これを新羅は唐へ報告。唐は「日本国」の分離独立を認めるわけに行かず、薩夜麻を解放帰国させ、倭国再統合・復位を企む。


 ところで、『書紀〔天武紀〕上』天智10年10月19日、〔東宮〕は吉野の宮に入ることになった。このとき<略>らが送った。菟道(うじ)からひき返した。あるひとは、「虎に翼を着けて放した」といった。云々、とある。

 この中の『あるひとは、「虎に翼を着けて放した」といった。』のある人とは唐朝の軍参謀だれかが、薩夜麻の倭国への解放・帰国を評し、『それさえも、危惧したエピソードが語られている』と思うのだが如何か?この時の大海人皇子を評したとすると何故か突然で、ちぐはぐに感じるのは私だけか?


 「壬申の乱」が 日出島哲雄氏の指摘通り 、倭国の王族の大友皇子と、薩夜麻の九州島内での王位継承戦であれば、『書紀』の壬申乱は、九州の局地戦を、近畿の局地戦へ何故移植したのか。


【天武は『淑人(=倭王薩夜麻)』が、『よしとよく見て(=きっと了解してくれると読んで)』、『好し言ひし(=分かったそれで良いと言ってくれた)』更に、『芳野よく見よ(=郭務悰へこの作戦でどうだ、良く検討するように)』と、『多良人よく見(=あの時倭王薩夜麻が賛成してくれて良かった)』】
 この歌の、『よしとよく見て、好し言ひし』は、果たして、どういう意味だったのだろうか? 
思うに、次のように解釈できないか?


 『唐占領で混乱の筑紫倭国から、長門以東天智近江朝の「日本国」独立宣言は、あくまで唐占領に対してであり、筑紫倭国に対してではありません。倭王薩夜麻(=淑人)あなたが、ご帰国された今、長門以東近江朝の「日本国」独立宣言は撤回しましょう。
 その代わり、唐占領軍は撤収させてください。更に、近江朝(=灘波副都弟王家)の長門以東を州柔・白村江敗戦以前の天下立評時の委託統治支配をお認め下さい。』


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(687) 『※※※※『日本語の正体:金容雲著』『韓国は日本人がつくった:黄文雄著』『「日韓併合」の真実:水間政憲著』※※※※について』 2011年7月25日(月)

 ここのブログで取上げた、『日本語の正体:金容雲著』・『韓国は日本人がつくった:黄文雄著』・『「日韓併合」の真実:水間政憲著』についてまとめました。


2010年6月29日(火)
これから「倭の国王は百済語で話す」の著者金容雲先生を取材します


2010年7月3日(土)
金容雲(キムヨンウン)氏の著書「日本語の正体」(日本語版)


2010年7月4日(日)
日本=百済に思えるのは錯覚なのか妄想なのか?


2010年7月13日(火)
1300年に及ぶ「事大主義と属国根性が染みついた民族性」


2010年8月12日(木)
「韓国は日本人がつくった:黄文雄著」を読み勉強しよう


2010年8月14日(土)
いまNHKで『韓国人の70%なぜ日本が嫌い』を放映してる、非常に興味がある。


2010年8月15日(日)
長江中・下流域からの直接の渡来:日本のイネに半島にない遺伝子があった


2010年9月3日(金)
韓国と日本は対馬海峡を挟んで対岸にいる。しかし、世界のどんな人種よりも一番近しい。


2010年9月19日(日)
『「日韓併合」の真実:水間政憲著』


2010年9月20日(月)
朝日新聞地方版のマイクロフィルムの中から「大阪朝日新聞・朝鮮版」がたまたま見つかったからです


2010年9月21日(火)
『朝日新聞が報道した「日韓併合」の真実』〔韓国が主張する「七奪」は日本の「七恩」だった〕:水間政憲著


2010年9月22日(水)
古代ローマと秦の始皇帝の焚書(ふんしょ)坑儒(こうじゅ)



 日本の仙石由人が隠した尖閣諸島、福島原発のSPEEDIと、今度の中共の高速鉄道の事故隠蔽なんか似てねぇー^^  だけど、今度の中共の先頭車輌解体・土中埋没、一転掘出しし、移動隠蔽! なんと度肝抜く、図々しさ… ふぇー^^


かわいそーなのは、この子です。 見てやって下せー、聞いてやって下せー^^ 中国の高速鉄道の遺族、なんとかなんねー?


みんな、松阪牛なんて、この際当分見送りして、OGビーフにしとけや^^ いやー、牛肉は贅沢だから、くじらにしとき。


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(688) 『九州年号「大化」年号の継続・695年ー703年)』 2011年7月28日(木)

【古代に真実を求めて(古田史学論集 第十四集)】
 ◎Ⅰ特別掲載:禅譲・放伐論争シンポジウムで、正木裕氏講演部分の抜粋です。



p89
 (禅譲・放伐の定義)

 まず禅譲・放伐の定義ですが、広辞苑等によると「禅譲とは中国で帝王がその位を世襲せずに有徳者に譲ること、天子が皇位を譲ること、放伐とは徳を失った君主を討伐して放逐することをいう。これはいずれも中国人の易姓革命観に基づく」となっています。この定義は中国人の易姓革命観によるもので、天命は一王朝一天子に下るのが前提となっています。逆に言えば一国に複数の王朝、複数の天子が存在する、その並存を許すという概念ではありません。九州王朝と近畿王朝との関係では、こういう意味での禅譲も放伐もなかったと思っています。


p89
 (「大化」年号の継続・695年ー703年)

 その根拠は九州年号で。従前の九州年号の研究では、例えば700年までは九州年号の年号「大化」があって、701年からは近畿天皇家の年号「大宝」にすっかり変わるということでした。これならこの時点で九州王朝の天子に関しての禅譲や放伐がが十分に考えられます。


 しかし近年古賀さんの研究により「大化」は695年から703年まで続き、さらに「大長」が704年から712年まで続いたことがわかってきました。そうであれば九州年号はこの間何らかの形で存続したことになります。注目すべきは、701年から703年まで「大化」と「大宝」が並存するということです。元号が変わらない禅譲とか放伐はないわけで、理由のいかんにかかわらず天子が変われば年号が変わるのは当然です。従って九州王朝の天子は、近畿天皇家の「大宝」建元にかかわらず703年まで変わることはなかったと考えます。(注:私は途中「大化」2年696年暗殺された説)


 一方、701年には近畿天皇家によって律令が制定され、九州王朝の制度である「評」が全国的に近畿天皇家の制度である「郡」に変わった(注:私は「評制」、「郡制」のいずれもが、九州王朝が発案の制度である。「郡制」は「評制」の謂わば改良案説)。全国的な統治の主体が近畿天皇家に変わった。これは木簡等により確実になっており、疑いを抱くことは出来ません。そこから導かれる結論は、「二王朝並列の中で、統治の実権が天子を推戴する九州王朝から、天皇を推戴する近畿天皇家に変わった」と言うことしかありません。


 これは全国的な制度改正ですから、九州王朝がもしこれに真っ向から抵抗したとすれば、全土に及ぶ騒乱があって然るべきです。しかも結果として律令が制定され、郡制が施行されているということは九州王朝の敗北を意味し、その段階、つまり701年に九州王朝の天子が無事でいたとは思えません。ところが諸資料からはそのような騒乱の形跡はない、しかも大化年号が継続している。ここから見ても九州王朝の天子は交代していないと思われます。


 確かに『続日本紀』には文武四年(700年)六月に薩摩及び肥後の叛乱が見られます。これは地方的な叛乱とされていますが、注目すべきは筑紫の立場です。筑紫はどう書かれているかといえば、この叛乱に対して「ここに於いて筑紫総領に勅して犯を決罰せしむ」、つまり筑紫にこの叛乱を収めさせた、とあります。大宝二年(702年)八月の薩摩・多褹の叛乱に対しても、「薩摩の隼人を征する時、太宰の所部の神九処を祷み祈る」と、このときも大宰府は叛乱をを鎮圧する側に回っているわけです。九州王朝の本家本元は大宰府ですから、九州王朝の天子は近畿王朝への権力移譲を容認し、その統治に協力したことになります。


 定義の問題ですけれども、こういう「天子が変わる」というのではなくて「権力の実際の主体が変わる」という事の容認を「禅譲」というなら禅譲があったと考えています。但し、中国的な天子が代わる禅譲でなくて、事実上の統治支配者が変わることを容認した、日本的「多元的」禅譲があったということです。


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(689) 『「大化」・「大宝」から「大長」・「慶雲」への改元、704年』 2011年7月29日(金)

【古代に真実を求めて(古田史学論集 第十四集)】
◎Ⅰ特別掲載:禅譲・放伐論争シンポジウム で、正木裕氏講演部分の抜粋です。


p91
 (「大化」・「大宝」から「大長」・「慶雲」への改元、704年)

 次に九州年号の分析から重要なのは704年です。704年には「大化」と「大宝」の両年号が終了し、各々「大長」と「慶雲」に改元されます。これは704年に九州王朝と近畿天皇家双方に質的変化が起こったことを示しています。


 まず近畿天皇家においては慶雲元年(704年)七月に粟田真人が唐から帰国します。近畿天皇家が唐の則天武后から、「日本国」として承認されて帰ってくるわけです。これに先立ち「慶雲」と改元されています。「慶雲」とは瑞兆の雲ですから、ちょうど粟田真人が七月に帰ってくる、その直前には則天武后から承認されたという情報が入っていて、その正式な報告の前に「瑞兆」を受け改元した年号に相応しいと考えます。


 古田先生も『失われた九州王朝』の中で、則天武后による近畿天皇家の公認がここであった。倭国から日本国への国号の変更という形で、日本列島を代表する国家が近畿天皇家であることが国際的にも認められた。と言っておられます。


 近畿天皇家は則天武后によって「日本国」として対外的にもはっきりと承認され、それによって年号を改めた。同時に先ほど西村さんも指摘されたように『続日本紀』「慶雲」元年十一月二十日には、「始めて藤原宮を定む。宅の宮中に入れる百姓1千5百戸に布賜うこと差あり」との記事があり、まさに「慶雲」元年この時点で近畿天皇家は藤原京の主になったと書いてあるのです。これはぴたりこの年に権力の移行があったことを推測させる記事です。


 一方九州王朝にも変化があります。これは古賀さんが見つけられたのですが、『開聞古事縁起』に「大長」元年(704年)に天智天皇が大宰府に帰還して九州の諸氏司に宣旨を与えたという記事があります。もちろん704年ですから天智天皇であるはずはなく、九州王朝の天子だと古賀さんは言われている。私もこれは九州王朝の天子が九州大宰府に帰って、あるいは移って「大長」と改元したことを示すのではないかと思っております。


p92
 (九州年号の終焉と九州王朝の滅亡・七一三年)

 そして九州年号の「大長」は712年まで続いてそれで終わってしまいます。この後はもう九州年号はないと考えられており、年号がなくなるということは、年号を建てうる権力という意味での国として九州王朝の最終的滅亡を意味すると考えられます。


 ちょうどその「大長」年号がなくなった713年に大隅国が設置されます。設置されたのが大隅半島で、薩摩・宮崎の南ですから九州王朝が最後の拠点とした地域と考えられます。ここに大隅国が設置されます。同じく713年に隼人を討つ将軍等への恩賞記事があります。713年に恩賞ですから、隼人を討つという事象が起こった征服戦というのは712年にあったと考えて恐らく間違いないと思われます。その時点を堺に九州年号が消え、九州王朝の拠点、領土が消えた。「隼人を討つ将軍」への恩賞ですから、これが九州王朝への武力討伐を示していることは疑いがありません。


 この武力討伐を放伐と言うなら放伐はあったと思います。ただ、この時点での九州王朝は全国的な政権でなくなって、最早南九州の一地方政権に過ぎなかったわけですから、これは中国的な「天下は一人の天子が統治している」という意味での禅譲とか放伐ということはあてはまらないと考えています。


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(690) 『「乙巳の変」の時期』 2011年7月29日(金)

【古代に真実を求めて(古田史学論集 第十四集)】
◎Ⅰ特別掲載:禅譲・放伐論争シンポジウム で、正木裕氏講演部分の抜粋です。


p92
 (「乙巳の変」の時期)

 大筋は以上ですが、七世紀末の九州王朝から近畿天皇家への権力移行の詳細は『日本書紀』の分析によって明らかに出来ると思います。ポイントは「大化は五十年ずらされている」ということ、すなわち「書紀に示す大化改新記事は九州年号大化期695年から703年までの間の事件が書紀の大化に持ち込まれている」という考えです。


 時間がないので詳しくは申し上げられませんが、例えば古賀さんが発見された改新の詔の中の「条坊制の記事」や、「十二の門」とか「朱雀門」の記述とかは、当時の飛鳥の宮にはなくて藤原宮にはあった。従って、それらの記事は藤原宮での出来事であり、大化の記事は五十年ずらされているということです。


 大化の記事が五十年ずれているということを徹底して貫いた場合どうなるかというと、乙巳の変は五十年ずれた695年における藤原京での記事になります。藤原京が出来るのは694年末ですから翌年になります。以下は推測の域を出ませんが、蘇我入鹿とか蝦夷とされる人物は九州王朝の関係者、天子とまでは言えないが、九州王朝の中での天子に次ぐナンバーツーか非常な実力者だったのではないか。その時点では九州王朝の天子は恐らくほぼ形骸化していたが、その中での実力者、蘇我氏は近畿天皇家にとっては目の上のたんこぶであった。これを討伐して、その実力者を背景に九州王朝から権力移譲を迫ったとも考えられるのではないかと思います。


p93
 (『書紀』の中の権力移行の記事)

 大化二年の詔の中の皇太子の奏請に、「天に双つの日は無し。国に双つの王無し。是の故に、天下を兼併て、万民を使ひたまふべきところは、唯天皇ならなくのみ」とあります。これは「九州王朝の天子ではなくて近畿天皇家の天皇が国を治めることを同意する」と言う意味であって、これを言ったのは中大兄皇子ということにされていますが、本当は696年時点での九州王朝の天子または皇太子ではなかろうかと思います。

(注:上記正木説は、私の「近畿天皇家の天皇ではなくて(旧来どおり)九州王朝の天子が国を治めることに同意する」とは全く逆の結論となっている。
《参照》
 『書紀』大化元年八月「東国国司招集の詔」は「倭国」が発し、「東国国司の賞罰詔」は大和朝廷が発したもの


   また「別に入部及び所封(よさせる)民を以って、仕丁に簡(えら)び充てむこと、前の処分に従わむ。自余以外は、私に駆役(つか)はしむことを恐る。故、入部五百二十四口、屯倉一百八十一所を献る」という、人民と領地を献るという記事があります。これは中大兄皇子、皇太子が天皇に人民と領地を献るとされている記事で、何でこんなことをするのか良く説明できない。ところが、これは696年の話で「九州王朝の天子が自らもっている人民とか屯倉を近畿天皇家に献上した」記事であれば意味が通ります。

(注:上記正木説は、私の「近畿天皇家が自らもっている人民とか屯倉を九州王朝の天子に(返上)献上した」とは全く逆の結論となっている。
《参照》
 近畿天皇家にとって、上記見直しは「やりすぎ」であり、甚だ不利な内容であった


 更に「東国国司条」というのがあります。これも九州年号大化期に近畿天皇家が九州王朝の官僚をいろいろな勤務評定とかをやりながら、賞罰によって恫喝して近畿天皇家の支配下に組み込む過程を示しているのではないかと思います。


<以下略>


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 以上で見てきたように、正木裕氏と私の意見とどこが、どう違うか?ということですが、九州王朝から近畿天皇家への権力移行が九州年号「大化」期になされたと言う点では「大同小異」といえます。

 私はこのホーム・ページで、『近畿天皇家の前身(=プロト大和朝廷)は、九州王朝「倭国」甘木王の「常色の改革」の一環で「天下立評」を遂行の為に、灘波副都に常駐を命じられた倭王家分家の伊勢王(=斉明)・天智・天武の係累である。』と再三に亘って述べていますが、

 然し、以上これまで見てきた中での、正木裕氏説からは『近畿天皇家が九州州王朝から権力を引継ぐ受け皿の基盤を、何時から、誰が、どのように(特に、倭国と敵対しないで)育んだか? というストーリーが見えて来ない』ということではないでしょうか?


将に、松本清張による長編小説の『点と線』(てんとせん)であろうか^^


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(691) 『九州年号「朱雀」の倭国王「帝位」はだれか?』 2011年7月29日(金)

さて、ここで九州王朝「倭国」からプロト大和朝廷へ「帝位」が禅譲された、と予てより思っている九州年号「朱雀」の倭国王「帝位」はだれか?検討・推定してみたい。

《参照》
 大和朝廷の軽皇子は、天下立評で伊勢王・天智天皇・天武天皇の長門以東の支配を倭国王・高市天皇へ返納した


『壬申大乱:古田武彦著』の【第五章:壬申大乱の真相】p200 年代歴「二中歴」
及び、
【九州年号・書紀天皇表】
をクリックしてみると、

九州年号「白鳳」は二十三年間で、その元年は辛酉:661年(斉明7年)。
九州年号「白鳳」12年は壬申:672年(天武元年)。
九州年号「朱雀」は二年間で、その元年は甲申:684年(天武13年)。
九州年号「朱鳥」は九年間で、その元年は丙戊:686年(天武15年)。
だと分かる。


『壬申大乱:古田武彦著』の【第二章:真実の白村江】p115で『「明日香皇子」は「皇子ながら」父親ないし、先代に当たる「甘木の王者」の狩猟の途次の不慮の死をうけ、その代わりに、この「百済の原」の戦闘の州柔戦・白村江戦(662年)へ出征した。』と分かる。


この明日香皇子は州柔戦で行方不明になる。のちに拘束されて唐に連行されたと分かる。

『壬申大乱:古田武彦著』の【第九章:越(をち)を恋うる嬬の歌】p292 「明日香皇子=筑紫君・薩夜麻」という命題が合理的だったようである。と分かる。


「明日香皇子=筑紫君・薩夜麻」は「壬申大乱」の前年671年解放され、帰国する。

そして、翌年672年「壬申大乱」が発生する。
【天武は『淑人(=倭王薩夜麻)』が、『よしとよく見て(=きっと了解してくれると読んで)』、『好し言ひし(=分かったそれで良いと言ってくれた)』更に、『芳野よく見よ(=郭務悰へこの作戦でどうだ、良く検討するように)』と、『多良人よく見(=あの時倭王薩夜麻が賛成してくれて良かった)』】である。


 『唐占領で混乱の筑紫倭国から、長門以東天智近江朝の「日本国」独立宣言は、あくまで唐占領に対してであり、筑紫倭国に対してではありません。倭王薩夜麻(=淑人)あなたが、ご帰国された今、長門以東近江朝の「日本国」独立宣言は撤回しましょう。  その代わり、唐占領軍は撤収させてください。更に、近江朝(=灘波副都弟王家)の長門以東を州柔・白村江敗戦以前の天下立評時の委託統治支配をお認め下さい。』


日出島哲雄氏氏
【天武天皇は二人いた】
である。

『日本書紀』の「天武紀」下巻を私は、【?】内に解釈している。 【大海人皇子】は正妃を立てて皇后とす。后、草壁皇子「尊」を生れます。<途中略>天皇【=倭王・薩夜麻】は、初め鏡王の女額田姫王を娶して、十市皇女を生しませり。次に胸形君徳善が女尼子娘を納して、高市皇子「命」を生しませり。

要するに、『日本書紀』では、「倭王薩夜麻」と、「大海人皇子」とは、合本されて「2人1役」の「天武天皇」に「化けている」と言うわけだ。


以上を整理すると、

●「白鳳」は明日香皇子こと倭王・薩夜麻の帝位での元号である。

●唐へ州柔戦で拘束され、帰国・壬申大乱までは「空位」だったのだろう。

●『日本書紀』の天武紀は、大海人皇子が壬申大乱后のプロト大和朝廷の皇位にあった皇紀である。

●倭王・薩夜麻は684年の倭国大宰府⇒難波京遷都。白鳳地震。を経験して、その年の瀬に崩御しただろう。

●「壬申大乱」で恩義を受けたと感じてた倭王・薩夜麻は、大海人皇子に次の倭王・帝位を禅譲したと考える。

●倭王・薩夜麻の崩御の684年から、大海人皇子の崩御する天武15年686年(朱鳥元年)までの2年ちょっとの「朱雀」元号紀は大海人皇子が、倭王の帝位にあったとしても不思議ではないと考えられる。

●なお、次の「朱鳥」・「大化」は高市皇子が倭王の帝位にあった。

●大海人皇子の崩御した天武15年686年(朱鳥元年)以降「持統即位」690年までは、プロト大和朝廷の皇位が約束が違うじゃないかと言うことで定まらなかった。

●止むを得ず、両朝で高市皇子の皇位を認めたのが、「持統即位」であり、「持統即位」とは「高市即位」であろう。

●大化2年696年「プロト乙巳の変」で暗殺された以降は「大長」元年までは倭王・帝位は「空位」だっただろう。


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(692) 『645年「乙巳の変」のモデルと考える大化2年696年後皇子尊『高市皇子』が薨じた。登場人物を当て嵌めてみる』 2011年7月30日(土)



696年〔持統即位7年:大化2年〕7月10日、後皇子尊『 X高市皇子X O高市天皇O』が薨じた。  この記事は、倭国側の暗殺下手人:丹比真人嶋・安倍朝臣御主人・大伴宿禰御行。大和側の暗殺下手人:石上朝臣麻呂・藤原朝臣不比等。らによって倭国最後の王「高市天皇」が暗殺・薨去したもので、645年乙巳皇極4年6月12日の「乙巳の変」のモデルになっていると考えるものです。登場人物を「乙巳の変」に当て嵌めてみよう。




 ( X皇極X O高市O )天皇が( X板葺宮X O藤原京O の )大極殿に出御した。 ( X古人大兄X O丹比真人嶋O ) が侍した。


  ( X中臣鎌子連X O藤原朝臣不比等O ) は、 ( X蘇我入鹿臣X O高市天皇O ) が、疑多い性格で、昼夜剣を持っているのを知っていて、俳優をして、たばかって解かした。 ( X入鹿臣X O高市天皇O ) は、笑って剣を解き、入って座に侍した。


  ( X倉山田麻呂臣X O重臣安倍朝臣御主人O ) が、進んで三韓の表文を読み上げた。


 このとき、 ( X中大兄X O軽皇太子:のちの文武天皇O ) は、衛門府を戒め、同時に( 板葺宮 O藤原京O の )十二の通用門を鎖し、往来させなかった。衛門府を一ヶ所に召集して、まさに禄を給しようとした。


  ( 中大兄 O軽皇太子:のちの文武天皇O ) は、自分で長槍を執りもって、〔大極〕殿の側に隠れた。 ( X中臣鎌子連X O藤原朝臣不比等O ) らが、弓矢を持って助けまもった。


 ( X海犬養連勝麻呂X O当麻真人国見O )をして、箱の中の両剣を ( X佐伯連子麻呂X O路真人跡見O )と( X葛城稚犬養連網田X O巨勢朝臣粟持O ) とに授けさせ「努め努めて、いっきょに斬れ」といった。 ー 以下、略 ー




・・・如何だろう?少し当て嵌めに無理があるだろうか。・・はてさて・・・


 新羅の『ひどん(毘曇)の乱』は、新羅が善徳王(632-647女帝)の時、和白の筆頭伊食「毘曇」が唐に唆されて、女王ではダメだといって廉宗と共謀し王位を狙い、647年正月反乱を起こし、この時、王子の金春秋(=中大兄皇子)と重臣の金庚信(=中臣鎌足)が「毘曇」(=蘇我入鹿)を誅殺した。


「乙巳の変」は新羅『ひどん(毘曇)の乱』のコピーすることで、真実の「プロト大化改新」を臭わす意図があったと思える。

 また、見方を変えると「プロト乙巳の変」は藤原朝臣不比等の自慢話だったのだろう。
 『書紀』編纂時に『俺達があの時「倭王・高市天皇」を暗殺していなかったら、この大和朝廷は開闢していなかったからな。』
ってんで、『書紀』編纂者へ「大化改新」の前に記事を書き入れておけと指示したのだろう。


●『696年〔持統10年(持統即位7年):大化2年〕10月22日、かりに、正広参〔正三位〕の位の右大臣丹比真人嶋に、資人120人を賜った。正広肆〔従三位〕の大納言安倍朝臣御主人大伴宿禰御行に、ともに80人。直広壱〔正四位下〕石上朝臣麻呂・直広弐〔従四位下〕藤原朝臣不比等に、ともに50人。


 天皇が崩御したのだ(もちろん、天皇とは書かれていないが…)、3ヶ月後とはいえ顕彰記事は異常だ。以上から「高市天皇」暗殺の下手人は、

★「丹比真人嶋」 ★「安倍朝臣御主人」 ★「大伴宿禰御行」 ★「石上朝臣麻呂」 ★「藤原朝臣不比等」

の合計5人であり、もちろん、リーダーは「藤原朝臣不比等」だったと言えよう。


 筑紫太宰丹比真人嶋らは、「大きな鐘を貢上して助けを求めた」が納得して貰えず、 「三つ足の雀がいました」と打診し、三つ足の雀(=3種の神器) を九州王朝からプロト大和王朝へ貢上した。だがその経過にうとい高市天皇が約束を反古することとなり窮地に立った丹比真人嶋らは高市天皇を裏切ったのだろう。


 なお、念のため暗殺の経緯・下手人の栄達を書き出してみた。
 ▼ Ⅸ・b《追紀》『「日本書紀」が記す「高市天皇暗殺」迄の経緯』
 ▼ Ⅸ・c《追紀》『「続日本紀」が記す「高市天皇暗殺」後の下手人達の栄達』


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(693) 『「日本書紀」が記す「高市天皇暗殺」迄の経緯』 2011年7月31日(日)

○『678年(天武7年:白鳳18年)12月この月筑紫〔福岡県〕の国で、
〔筑紫〕大地震《魚拓》
が発生した。』

●『682年(天武11年:白鳳22年)4月21日、筑紫太宰丹比真人嶋らが、大きな鐘を貢〔上〕した。』

●『682年(天武11年:白鳳22年)8月13日、筑紫太宰が、「三〔本〕足の雀がいました」といった。』

●『683年(天武12年:白鳳23年)春正月2日、百寮(官)が朝廷〔天皇〕を拝した。 筑紫太宰丹比真人嶋らが、三つ足の雀(=3種の神器) を〔九州王朝からプロト大和王朝へ〕貢上した。』

○『684年(天武13年:朱雀元年)10月14日、人定〔午後8時〕になって〔白鳳の〕大地震。』

○『686年(天武15年:朱鳥元年)1月14日、酉の時(午後6時)に、難波〔京〕の大蔵省が失火して、宮室がことごとく焼けた。』

○『686年(天武15年:朱鳥元年)6月10日、天皇の病を卜ったところ、草薙剣が祟っていた。即日、尾張の国の熱田社に送り置いた』

○『686年(天武15年:朱鳥元年)7月19日、詔して、「天下の百姓の、貧乏によって稲と資材とを借りた者は、乙酉〔天武10〕年の12月30日以前は、公私を問わず、みな免除する〔棒引きする〕」といった。』

○『686年(天武15年:朱鳥元年)7月20日、改元して、朱鳥元年といった。そして宮を飛鳥浄御原の宮と名づけた。』

 〔参照:672年(天武元年:白鳳12年)『9月15日、嶋の宮から岡本の宮に移った。この歳、宮室を岡本の宮の南に造営した。その冬に、遷って居住した。これを飛鳥浄御原の宮という。』とあり、重複している。  

 私が思うに、大宰府倭兄王家は遷都してすぐに、難波京が焼失したので、飛鳥浄御原の宮は難波倭弟王家の宮であるが、止むを得ず、その宮を間借りして同居したということだろう、間借りではあるが改元したのだろう。

○『686年(天武15年:朱鳥元年)9月9日、天武天皇(=持統天皇の夫・草壁皇子尊の父)が薨去した。』

●『687年(持統元年:朱鳥2年)春正月1日、納言布勢朝臣御主人が誅した。礼というものだ』

●『687年(持統元年:朱鳥2年)3月20日、丹比真人麻呂が誅した。礼というものだ』

●『688年(持統2年:朱鳥3年)11月11日、布勢朝臣御主人・大伴宿禰御行が誅した。 —略— 礼というものだ』

●『689年(持統3年:朱鳥4年)8月27日、直広弐〔従四位下〕丹比真人嶋に、直広壱〔正四位下〕を授けた。〔食〕封100戸を増し、前〔の封戸に〕通〔算、200戸と〕した。』

●『689年(持統3年:朱鳥4年)9月10日、直広参〔正五位下〕石上朝臣麻呂、直広肆〔従五位下〕石上朝臣虫名らを筑紫に遣わして、位紀を送り給した。また新城を監〔察〕した。』

○『690年〔持統4年(持統即位元年):朱鳥5年〕春正月1日 —略— 神璽の剣、鏡を『皇后 { 高市天皇 } 』に上げ奉った。『皇后 { 高市天皇 } 』は天皇位に即いた。—略—』

●『690年〔持統4年(持統即位元年):朱鳥5年〕7月5日、 皇子高市を、太政大臣とした。 丹比真人嶋に正広参〔正三位~従二位〕を授けて右大臣とした。』

○『690年〔持統4年(持統即位元年):朱鳥5年〕10月29日「 高市皇子 { 高市天皇 } 」が、藤原の宮の〔予定〕地を観た。公卿、百寮〔官〕が従った。』

○『690年〔持統4年(持統即位元年):朱鳥5年〕12月19日「 天皇 { 高市天皇 } 」が、藤原に〔行〕幸して、宮地を観た。公卿、百寮〔官〕がみな従った。』

●『691年〔持統5年(持統即位2年):朱鳥6年〕春正月1日、 —略— 正広参〔正三位~従二位〕右大臣丹比真人嶋に300戸、前と通〔算〕して500戸。直広肆〔従五位下〕百済王禅広に100戸、前と通〔算〕して200戸、直大壱〔正四位上〕布勢御主人朝臣と大伴御行宿禰とに80戸、前と通〔算〕して300戸。その余にも〔食〕封を〔加〕増したが、それぞれ差があった。

○『691年〔持統5年(持統即位2年):朱鳥6年〕11月1日、大嘗。』

●『694年〔持統8年(持統即位5年):朱鳥9年〕春正月2日、正広肆〔従三位〕を、直大壱〔正四位上〕布勢朝臣御主人と大伴宿禰御行とに授けた。〔食〕封をひとり200戸〔加〕増した。、前と通〔算〕して500戸。ともに氏上とした。

○『694年〔持統8年(持統即位5年):朱鳥9年〕12月6日、藤原の宮に遷居した。

○『696年〔持統10年(持統即位7年):大化2年〕7月10日、後皇子尊『 高市皇子 { 高市天皇 } 』が薨じた。

●『696年〔持統10年(持統即位7年):大化2年〕10月22日、かりに、正広参〔正三位〕の位の右大臣丹比真人嶋に、資人120人を賜った。正広肆〔従三位〕の大納言安倍朝臣御主人大伴宿禰御行に、ともに80人。直広壱〔正四位下〕石上朝臣麻呂・直広弐〔従四位下〕藤原朝臣不比等に、ともに50人。


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(694) 『「続日本紀」が記す「高市天皇暗殺」後の下手人達の栄達』 2011年7月31日(日)

○『697年〔文武元年:大化3年〕8月1日、(文武天皇が)持統天皇から位を譲りうけて、皇位につかれた。

○『698年〔文武2年:大化4年〕11月23日、大嘗祭を行った。直広肆〔従五位下相当〕の榎井朝臣倭麻呂が、大楯を大嘗宮の門に立て、直広肆の大伴宿禰手拍が楯と桙を立てた。神祇官の官人と、大嘗祭の仕事(悠紀・主基二田の奉仕)にお仕えした尾張・美濃2国の郡司や百姓らに、それぞれの仕事に応じて物を賜った。』

●『700年〔文武4年:大化6年〕正月13日、詔があって、左大臣・丹比真人嶋に霊寿の杖と輿および供人とを賜った。高齢をいたわってである。』

●『700年〔文武4年:大化6年〕8月22日、 —略— 阿倍朝臣御主人と大伴宿禰御行には、ともに正広参(従二位相当)を授けた、 —略— 何れも善い政治を褒めてのことである。』

●『700年〔文武4年:大化6年〕10月15日、直大壱〔正四位上相当〕の石上朝臣麻呂を筑紫総領に任じた。』

●『701年〔大宝元年:文武5年:大化7年〕正月15日、大納言で正広参(正三位相当)の大伴宿禰御行が薨じた。天皇はその死を大変惜しんで、直広肆〔従五位下相当〕の榎井連倭麻呂らを遣わして葬儀を指揮させられた。直広壱〔正四位下相当〕の藤原朝臣不比等らを邸に遣わして詔を告げさせ、正広弐(正二位相当)の位と右大臣の官を追贈された。御行は難波朝(孝徳朝)の右大臣で、大紫(正三位相当)の位の長徳の子である。』

○『701年〔大宝元年:文武5年:大化7年〕3月21日、対馬嶋が金を貢じた。そこで新しく元号をたてて、大宝元年とした。初めて新令(大宝令)に基づいて、官名と位号の制を改正した。

●『701年〔大宝元年:文武5年:大化7年〕3月21日、左大臣で正広弐(正二位相当)の多治比真人嶋に正冠の正二位、大納言で正広参(従二位相当)の阿倍朝臣御主人に正冠の従二位、中納言で直大壱〔正四位上相当〕の石上朝臣麻呂と、直広壱〔正四位下相当〕の藤原朝臣不比等に正冠の正三位、直大壱の大伴宿禰安麻呂と直広弐〔従四位下相当〕の紀朝臣麻呂に正冠の従三位を授けた。 —略—

 大納言で正冠従二位の阿倍朝臣御主人を右大臣に任じ、中納言で正冠正三位の石上朝臣麻呂・藤原朝臣不比等・正冠従三位の紀朝臣麻呂をともに大納言に任じた。大宝令の発足でこの日、中納言の官職を廃止した。

●『701年〔大宝元年:文武5年:大化7年〕3月29日、右大臣・従二位の阿倍朝臣御主人に、あしぎぬ五百疋・絹糸四百休 —略— を授けた。

●『701年〔大宝元年:文武5年:大化7年〕7月21日、この日、左大臣・正二位の多治比真人嶋が薨じた。天皇は詔して、右少弁で従五位下の波多朝臣広足・治部少輔で従五位下の大宅朝臣金弓らを遣わして、葬儀を指揮させられた。また、三品の刑部親王・正三位の石上朝臣麻呂を遣わし、 —略—、左大臣嶋は宣化天皇の玄孫で、多治比王の子だる。

●『701年〔大宝元年:文武5年:大化7年〕8月16日、正三位の石上朝臣麻呂を太宰師(大宰府の長官)に任じた。

○『702年〔大宝2年:文武6年:大化8年〕12月22日、太上天皇が崩御された。 —略—

●『703年〔大宝3年:文武7年:大化9年〕4月1日、阿倍朝臣御主人が薨じた。正三位の石上朝臣麻呂らを遣わし物を贈って弔わせた。

この時点で、「丹比真人嶋」「安倍朝臣御主人」「大伴宿禰御行」「石上朝臣麻呂」「藤原朝臣不比等」の5人のうち、 「丹比真人嶋」「安倍朝臣御主人」「大伴宿禰御行」 が死に、「石上朝臣麻呂」・「藤原朝臣不比等」が生き残っていることになる。

ちょうど、今木健之著「本能寺の首謀者は秀吉である」の①宇喜多直家、②中川瀬兵衛、③椙原家次、④蒲生賢秀、⑤池田恒興、⑥丹羽長秀、⑦誠仁親王、⑧蒲生氏郷、の早死に・変死に、似ていないだろうか?

●『717年〔養老元年:元正3年〕3月3日、左大臣で正二位の石上朝臣麻呂が薨じた。天皇は大変悼み惜しまれて、このために朝政をやすまれた。

●『720年〔養老4年:元正6年〕8月3日、右大臣正二位の藤原朝臣不比等が薨じた。天皇はこれを深く悼み惜しまれた。ためにこの日は政務はみず、内殿で悲しみの声をあげる礼を行い、特別に手厚い天皇の勅があった。死者を弔い贈り物をする礼は、他の群臣とは異なって盛大であった。大臣は近江朝廷の内大臣・大織冠であった鎌足の第二子である。


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(695) 『防人について(実は九州にも「東国」があるからです):今井俊圀著』 2011年7月31日(日)

 先に紹介の『「壬申の乱」は九州だ』説の
【「不破道を塞げ」と瀬田観音:日出島哲雄著】
中段以降に次の記述がある。


『「毛綱」は「手綱」だと思われる。この後には、壬申の乱の行軍の真実性(リアリティ)を否定する記述が続く。壬申の乱の東国入りは、「駄馬が乗馬になることはぜったいにない」を無視するトンデモ説なのである。

 古田武彦氏の九州王朝説をよく学んだ人は「駄馬が乗馬になることはぜったいにない」を守っている。しかし、古田氏の説の支持者と称しているけど『壬申大乱』をまともに読んでいない人たちの中に、これを破る人たちが出てきた。

 彼らは東国入りを九州に持ち込む説を唱えている。 これらを私は「東国九州持ち込み論」と読んでいる。壬申の乱九州説では決してない。壬申の乱で大分君稚臣が橋を渡った瀬田は熊本県大津町であることで、壬申の乱は九州の事件だったと分かるのである。東国入りを九州に持ち込むのは有害無益である。トンデモ説の一つである

「東国九州持ち込み説」を私は二つ知っている。
●一つは瀬田を無視して、近江の戦いを近畿とする。結局、壬申の乱近畿説の一つである。
●もう一つは、瀬田を熊本県大津町とする。しかし、これは豊後を東国にするためだけである。上に述べた瀬田観音、智尊、天子宮、南郷往還等を隠している。これらは豊後東国論に都合が悪いのである。

 どちらの説も「駄馬が乗馬になることはぜったいにない」を無視している。これらが出てきたのは九州王朝説の危機である。九州王朝説の支持者たちは、まだこれらを危機だと思っていない。それゆえ、私はとても心配している。九州王朝説を守るために本頁を作成した。』


     【我が家の「すもも」ハニーロザ】


 はて、何度繰り返し読んでも、何を懸念されてるのか、今一「東国九州持ち込み説?」云々は私のぼんくら頭にピンとこないのだが…^^


【古田史学会報no94(2009年10月10日)】『防人について(実は九州にも「東国」があるからです):今井俊圀著』のあることをたぶんご存知無いからではと思います。よって、以下抜粋転載します。


『<途中略>もしかしたらこれらの「東歌」五首は、「白村江の戦い」以前の九州の「さきもり」の人たちの歌かもしれません。と言うのは、実は九州にも「東国」があるからです。それは、『和名抄』(注八)の筑後国の上妻郡と下妻郡で、現在の久留米市から八女市にかけての一帯です。「つま」に地名接頭語の「あ」をつけると「あづま」の国になるのです。そして、この地は十世紀の『和名抄』の時代以前からも「つま」の国と呼ばれていたのです。<以下略>』


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 この上記『「つま」に地名接頭語の「あ」をつけると「あづま」の国になるのです。』
『「あ」をつけると云々』は少々、気になるところではありますが…、

であれば位置的にも
■「不破道を塞げ四高良山神籠石の美濃師三千人、基肄城への不破道を塞ぐ」(第十四集、二0一一年四月)

の記載内容に、将にピッタリと言えます。


『防人について (実は九州にも「東国」があるからです) : 今井俊圀著』のあることに気付いてよかったね^^見逃すとこだった。


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(696) 『「不破道を塞げ」とは、鞠智城と他の城の高良山神籠石・水城などを結ぶ道を大友皇子が通れなくせよだった』 2011年8月1日(月)

【「不破道を塞げ」と瀬田観音】


■瀬田は熊本県大津町で明治期迄、合志(こうし)郡であった。
■川向かいの外牧神社(阿蘇一の宮)のある大津町外牧は阿蘇郡。
■瀬田の戦いで橋を渡った大分君稚臣は阿蘇君と同族。
■南郷往還は大津・鶴口(大津)・吐(はけ)(大津)の東・吹田(ふけだ)・大林・代官橋・南郷(阿蘇郡)を結ぶ重要な道路。
■大津町瀬田観音堂は智尊が守っていた。瀬田観音は弘文天皇(大友皇子)の内裏の西殿だった。瀬田観音に日出づる処の天子・多利思北孤がいた。
■瀬田観音堂から東歩き10分で妙見宮の瀬田神社がある。
■瀬田観音堂から西歩き40分にも天子宮が二つある。


【雷山神籠石の防人と不破乃世伎】《魚拓》


阿志加良能 美佐可多麻波理
可閇理美須 阿例波久江由久
阿良志母 多志夜波婆可流
不破乃世 久江和波由久
牟麻能都米 都久志能佐尓
知麻利為 阿例波伊波牟
母呂波 佐久等麻須
可閇利久麻尓
(右一首倭文部可良麻呂)

【現代訳】
足柄の み坂たまはり
顧みず 吾は越え行く
荒男も 立しやはばかる
不破の 越えて吾は行く
馬の蹄 筑紫の崎に
留りゐて 吾は齋はむ
諸は 幸くと申す
歸り來までに
(右の一首は倭文部可良麻呂)


■「み坂」とは前原市大字三坂である。雷山の登山口であり、雷山神籠石への登山口でもある。
■歌の作者の倭文部可良呂は、雷山神籠石を守る防人である。
■三坂は、雷山神籠石を守る防人が住む所。
■不破乃世とは雷山神籠石の水門である。
■山ノ後と山背とは同意義である。
■雷山神籠石の字は、筒原、後山、次久であり、山ノ後は次久の西隣の字である。
■山背筒城とは、山城である雷山神籠石の地である。
■筒城神社跡は、山ノ後の筒城の跡なのである。


【大友皇子と鞠智城(壬申の乱は九州)】

『万葉集』(弓削皇子、吉野に遊びましし時の御歌一首)
242【瀧の上の 三船の山に ゐる雲の 常にあらむと わが思はなくに】

『万葉集』(或本の歌一首:柿本朝臣人麻呂の歌集に出る)
244【み吉野の 三船の山に 立つ雲の 常にあらむと わが思はなくに】


■弓削皇子は天武天皇の皇子で、母は大江皇女で、その大江皇女は天智天皇の皇女である。
■熊本市には弓削町と大江がある。
■熊本県城南町に吉野と宮地がある。
■城南町の今吉野の東部が吉野であり、西部が今である。
■今吉野の隣の坂野には吉野山がある。坂野は吉野山の北麓にあたる坂本と西麓の平野に分かれる。
■『城南町史』によると、平野に益城軍団があったという。
■城南町の東隣の御船町七滝には高さ六0mの滝がある。
■吉野山は七滝の下流の近くにある。
■七滝こそ『万葉集』の吉野の滝である。
■島宮は熊本県菊池市七城町清水の島宮か熊本市島町。
■百済は熊本県八代市坂本町百済来。
■瀬田は熊本県菊池郡大津町瀬田。
■山前は熊本県菊池市七城町山崎(鞠智城の南)か、或は 熊本県宇城市豊野町山崎(古い寺址と伝えられる浄水寺がある)。
■稗田は熊本市稗田。
■龍田は熊本市龍田。
■菟田は大分県豊後大野市清川町宇田枝。
■大野は大分県豊後大野市大野町。
■三重は大分県大野郡三重町。
■越は熊本県合志市。
■大坂は熊本市河内町岳の大坂。
■尾張は熊本県山鹿市小原(おばる)か、菊池市旭志小原(おばる)。
■美濃は福岡県久留米市の耳納山。耳納山には高良山神籠石がある。
■天智紀に出てくる蒲生野は熊本県山鹿市蒲生。
■大津町瀬田と外牧の間の内牧橋(大分君稚臣は甲を重ねて刀を抜いて瀬田の橋を渡っているが、内牧橋ならば、そうして渡ることが信じられる長さである)
■内牧橋の北から西に瀬田観音、付近に白川がある。
■菟田、大野、三重は、吉野からの天武天皇の逃亡先である。この東には海部郡がある。菟田、大野、三重に逃げた人物は大海人皇子だ。
■ところが、吉野から菟田、大野、三重に行くには、近江宮(天子宮)と瀬田の近くを通るのである。
■菟田、大野、三重から不破(鞠智城か高良山神籠石)に行くには、瀬田と近江宮(天子宮)を通るのが最も楽で、他の道は非常に困難だ。
■菟田、大野、三重に行った大海人皇子と、不破(鞠智城か高良山神籠石)に入った天皇(高市皇子の父親)は、別人だ。
■大友皇子最期の山前は、「やまさき」という地名の中で最も瀬田に近い菊池市七城町山崎が自然。
■不破道とは不破(難攻不落の城)を結ぶ道だ。「不破道を塞げ」とは、鞠智城と他の城の高良山神籠石,水城などを結ぶ道を大友皇子が通れなくせよだった。
■鞠智城が大友皇子の居城だった。高良山神籠石の美濃師が不破道を塞ぐとは、大友皇子が高良山神籠石を通って鞠智城に帰れなくすること。
■壬申の乱勃発直前に大友皇子は肥前にいた。


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(697) 『『漂泊の民の山窩の謎:佐治芳彦著』を読まれると良いかと^^』 2011年8月2日(火)

kagachi_ecm 大宰時代の丹比真人嶋は、あるいは志摩王とか呼ばれたりしてないですかね?八色の姓以前に「真人」なんですよね。 QT @tohyan ●『683年(天武12年:白鳳23年)春正月2日、筑紫太宰丹比真人嶋らが、三つ足の雀(=3種の神器) を〔九州王朝からプロト大和王朝へ〕貢上した。』


 多治比真人嶋が志摩王とか呼ばれたか?はともかく「日本列島史抹殺の謎」p241で佐治芳彦氏は多治比一族はタジヒつまり蝮一族・サンカの祖先らしい。RT @kagachi_ecm 大宰時代の丹比真人嶋は、あるいは志摩王とか呼ばれたりしてないですかね?八色の姓以前に「真人」なんですよね。


 丹比真人嶋が、志摩王と呼ばれたか、「真人」だったかについて、私は詳しくありません。

 そこで、ネットで「多治比真人嶋」を検索すると、思ったよりたくさんヒットしましたね。

【帝から「霊寿の杖」を授かった多治比真人嶋】《魚拓》

【竹取物語2:難題「仏の御石の鉢」】《魚拓》

【多胡の碑と三宅麻呂】《魚拓》

【21多治比氏考】《魚拓》

 それに、貴方の
『白瑠璃の碗』《魚拓》
ですね。


kagachi_ecm すいません「タジヒつまり蝮一族・サンカ」が不勉強で解りません、できれば、ご教示ください<(_ _)> QT @tohyan 多治比真人嶋が志摩王とか呼ばれたか?はともかく「日本列島史抹殺の謎」p241で佐治芳彦氏は多治比一族はタジヒつまり蝮一族・サンカの祖先らしい。


 タジヒつまり蝮(まむし)一族・サンカです。大名の前に齋藤道三は「まむし」と呼ばれ蝮を獲って生業にしてた。鹿島昇氏は、確かパンジャブから西に向ったのがジプシーで、東に向ったのがサンカだと言っています。RT @kagachi_ecm 「タジヒつまり蝮一族・サンカ」が不勉強で解りません


kagachi_ecm 宣化の子孫では?精神面がサンカという意味ですか? RT @tohyan: タジヒつまり蝮(まむし)一族・サンカです。大名の前に齋藤道三は「まむし」と呼ばれ蝮を獲って生業にしてた。鹿島昇氏は、確かパンジャブから西に向ったのがジプシーで、東に向ったのがサンカだと言っています。


『漂泊の民の山窩の謎:佐治芳彦著』を読まれると良いかと^^私のブログ の
【懸念は“ずべこう”の『日本書紀』が、「多治比真人嶋」の史実を、果たして正確に記述しているかなんですが】
RT @kagachi_ecm


kagachi_ecm 早速のお返事ありがとうございます。多治比嶋が志摩王だとしても九州にいたからと言って九州王朝とは限らないんですね。百済の滅亡や新羅の枝族?天の王朝とはどこのことですか?多治比嶋の年齢は杖をもらったのを基準にするらしいですよ。


 天の王朝とはどこのことですか⇒うん、この場合は九州王朝でしょう。私の説だと大和も分家ですから同じ天の王朝です。いえね、若造のくせにですよ、大化四年(648)丹比真人嶋等、大きなる鐘を貢れり。RT @kagachi_ecm 天の王朝とはどこのことですか?多治比嶋の年齢は杖を準にする


kagachi_ecm 多治比王の存在を考えてみては?九州の鋳造技術の東漸は観世音寺鐘と妙心寺鐘が天武~持統朝に考えられ嶋の時代です。多治比氏の本貫が河内鋳物師の里であることも関連が? RT @tohyan いえね、若造のくせにですよ、大化四年(648)丹比真人嶋等、大きなる鐘を貢れり。


なるほど、でも今そんなことはどうでも良いのです。いつ、九州王朝「倭国」が滅亡したかを確認中なのですから。RT @kagachi_ecm




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