大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 058 》
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ
白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、
日本書紀の〔 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権
2010年 4月 2日 発行
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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ https://waikoku.sakura.ne.jp/yamato.html 2:32 PM Apr 2nd webから ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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(911) 『墓誌の中の「僭帝一旦称臣」この「僭帝」とは九州王朝の天子、薩野馬のことではないでしょうか』 2012年2月25日(土)
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『(古田史学会報 no.108 2012年2月10日)所収記事
及び、
《ご注意》: 以下はこの記事の抜粋・転載ですので、あしからずご了承ください。
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百済人祢軍墓誌の「日本」
(昨年)11月の関西例会で水野さんから紹介された「百済人祢軍墓誌」ですが、どうやらこの墓誌は九州王朝説に大変有利な内容を含んでいるようです。現在、墓誌拓本のコピー入手を試みていますが、新聞発表などでわかる範囲で、見解を述べてみたいと思います。
この墓誌は百済人の祢軍(でいぐん・ねいぐん)という人物の墓誌で、678年二月に長安で没して同年十に埋葬されたと記されています。残念ながら墓誌そ のものは行方不明ですが、その拓本が中国の学者から紹介されました。王連竜さん(吉林大学古籍研究所副教授)が「社会科学戦線」7月号で発表された「百済 人祢軍墓誌論考」という論文です。中国在住の青木さん(「古田史学の会」会員)のご協力により、同論文を読むことができました。この場をお借りして御礼申 し上げます。
墓誌の中に「日本」という表記があり、これは現存最古の「日本」ということで、マスコミは取り上げています。これはこれですばらしい史料なのですが、実はそれ以外に大変興味深い記事が記されています。
たとえば「僭帝一旦称臣」という記事です。くわしい解説は拓本コピーで確認した後にしたいと思いますが、この「僭帝」とは誰なのか、百済王なのか、倭王 なのかというテーマです。関西例会後の懇親会でも喧々囂々の論争を行いました。墓誌の文脈から判断しなければなりませんが、倭王の可能性も高く、もしそう であれば九州王朝の天子、薩野馬のことではないでしょうか。
白村江戦で敗北し、捕らわれの身となった 薩野馬であれば、「僭帝一旦称臣」という表現がぴったりです。少なくとも大和朝廷にはこのような天皇がいた記録はありません。
この他にも、「日本 餘噍(よしょう⇒生き残った人民)、据扶桑以逋誅」という記事がありますが、朝日新聞(2011/10/23)によれば、白村江戦で敗れた「生き残っ た日本は、扶桑(日本の別称)に閉じこもり、罰を逃れている」と解説されています。
唐代において
九州王朝説の立場から見れば、倭国・九州王朝の中枢領域である九州の更に東ということになりそうです。以前、わたしは「九州王朝の近江遷都」という論文 で、白鳳元年(661)に九州王朝は近江遷都したのではないかという説を発表しました。すなわち、白村江戦の直前に九州王朝は近江に遷都したと理解したの です。こうした視点からすると、日本残存勢力が籠もったとする扶桑とは、近江宮か前期難波宮ということになります。
墓誌拓本そのものを見ていませんので、まだアイデア(思いつき)の段階ですが、この墓誌の内容のすごさが予感されるのです。今後、拓本精査の上、詳論したいと考えています。
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【古賀達也の洛中洛外日記
第355話 2011/12/01 】
《ご注意》: 以下はこの記事の抜粋・転載ですので、あしからずご了承ください。
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百済人祢軍墓誌の「僭帝」
この2週間ほど、毎日のように百済人祢軍墓誌のことを考えています。幸い同墓誌の拓本コピーを水野さんから送ってい ただき(古田先生から入手されたもの)、その難解な漢文と悪戦苦闘しているのですが、中でもそこに記された「僭帝」とは百済王のことなのか倭王のことなの かが、今一番の検討課題となっています。
この「僭帝」という言葉は墓誌の中程(全31行中の14行目)に「僭帝一旦称臣」という記事で一回だけ出現します。その6行前には「顕慶五年(660) 官軍平本藩」と官軍(唐)が本藩(百済)を征服した記事があり、同じく4行前には「日本 餘噍(よしょう⇒生き残った人民)、據扶桑以逋誅」という記事があります。そして 「萬騎亘野」「千艘横波」という陸戦や海戦を思わせる記事(白村江戦か)があり、「僭帝一旦称臣」に続いています。次に年次表記が現れるのは「咸亨三年 (672)」の授位記事(17行目)ですから、「僭帝一旦称臣」はその間の出来事となります。更にいえば白村江戦(663)以後でしょう。
従って、660年に捕虜となった百済王ではないようです。しかも「日本」記事の後ですから、やはり倭王と考えるのがもっとも無理のない解釈と思われま す。そうすると、大和朝廷は天智の時代ですが、『日本書紀』には天智が唐の天子に対して臣を称したなどという記事はありませんから、この「僭帝」は大和朝 廷の天皇ではなく、九州王朝の天子、おそらく薩野馬である可能性が大きいのではないでしょうか。
しかも『隋書』によれば、九州王朝の多利思北弧は天子を自称していますから、唐の大義名分から見て倭王は「僭帝」、すなわち「身分を越えて自称した帝」 という表現もぴったりです。また、墓誌には何の説明もなく「僭帝」という表記をしていることから、七世紀末の唐の人々にとっても、「僭帝」というだけで誰 のことかわかる有名な人物と理解されます。すなわち、『隋書』に特筆大書された「日出ずる処の天子」を自称した倭王以外に、それらしい人物は東アジアには いないのです。
以上のような理由から、墓誌の「僭帝」は九州王朝の天子、おそらく薩野馬のことと推定していますが、まだ断定は避けながら、墓誌の検討を続行中です。
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【古賀達也の洛中洛外日記
第356話 2011/12/03 】
《ご注意》: 以下はこの記事の抜粋・転載ですので、あしからずご了承ください。
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南郷村神門神社の綾布墨書
百済人祢軍墓誌の「僭帝」が誰なのかという考察を続けていますが、倭王筑紫君薩野馬とする見解に魅力を感じながらも断定できない理由があります。それ は、百済王も年号を持ち、「帝」を自称していた痕跡があるからです。 百済王漂着伝承を持つ宮崎県南郷村の神門(みかど)神社に伝わる綾布墨書に「帝皇」という表記があり、これが7世紀末の百済王のことらしいのです。「明雲 廿六年」「白雲元年」という年号表記もあり、百済王が「帝皇」を名乗り、年号を持っていた痕跡を示しています(『古田史学会報』20号「百済年号の発見」 で紹介しました)。
また、金石文でも「建興五年歳在丙辰」(536年あるいは569年とされる)の銘を持つ金銅釈迦如来像光背銘が知られており、百済年号が実在したことを 疑えません。こうした実例もあり、百済王が「帝」を自称した可能性も高く、百済人祢軍墓誌の「僭帝」が百済王とする可能性を完全に排除できないのです。
学問の方法として、自説に不利な史料やデータを最も重視しなければならないという原則があります。従って、百済人祢軍墓誌の「僭帝」を百済王とする可能 性が有る限り、どんなに魅力的であっても「僭帝」を倭王とする仮説を、現時点では「断定」してはならないと思っています
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祢軍墓誌研究のすすめ
残念ながら、これだけ貴重な墓誌でありながら、研究はまだまだ不十分と言わざるを得ません。たとえば、「僭帝」と同様に墓誌に見える「簡帝」についても有力な仮説は未提示です。関西例会でも十分な論議検討は尽くされていません。
とはいえ、水野さんからは墓誌の修飾文に『文選』所収「海賦」の影響を受けたと思われる類似の文が散見されるとの指摘もあり、研究の糸口はありそうです。多元史観に基づいた多くの研究発表が期待されます。
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以上の
『(古田史学会報 no.108 2012年2月10日)所収記事
及び、【古賀達也の洛中洛外日記第353話 2011/11/22 】
及び、【古賀達也の洛中洛外日記第355話 2011/12/01 】
を踏まえ、更に、
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(720) 『「潜龍随時・游雷應期」:「濳龍體元・洊雷應期」どう違うのかな?』 2011年8月10日(水)
古田史学会報no103【「筑紫なる飛鳥宮」を探る:正木裕氏投稿】②
三、『古事記』から探る天武の即位宮・項の、
2、『古事記』序文の「壬申の乱」・項の、
①飛鳥の清原の大宮に大八洲御しめしし天皇の御世に曁(いた)りて、潜龍(せんりゅう=太子、ここでは天武)元を體し、洊雷(せんらい同)期に應じき。
とあって、【『潜龍(せんりゅう』 ⇒ 「太子」 】と解されている。
いっぽう、【乾為天(けんいてん)】:『潜龍勿用(せんりゅうもちうるなかれ)』 の占い?頁では、
「潜龍」とは田んぼの中に潜む龍の姿。未熟で若い潜龍の時、力不足。時期整わず能力発揮できない時。会社でいえば新入社員。まだ自分で思っているほど実力はありません。いい格好をしても周囲の人も認めてくれません。このような時は、逸る気持ちを抑え、隠忍し、じっと我慢して力を貯え、時期を待つ時なのです。じっと耐えながら頑張る姿はきっと、有識者の目にとまるはずですから。
とあって、【「潜龍(せんりゅう」 ⇒ 「未熟者」 】と解されている。
同じ【潜龍(せんりゅう】 でも「太子」と「未熟者」と解釈が違っているのだ。私は「未熟者」と解釈しょう。
で、「濳龍體元」とは、⇒ 「はじめに、私は「未熟者」だった。
⇒ 『倭王・薩夜麻は、血気にはやり即位もそこそこに、州柔戦へ出征し、まぬけにも・まんまと捕われたしまった。(少し飛躍しすぎかな^^)』
■「游雷應期」⇒ 「 游 」:泳ぐ、遊ぶ ⇒ 游(=じっと我慢して力を貯え)、好機が来たら、雷の如く轟くぞ(暴れるぞ)。
■「洊雷應期」⇒「 洊 」:しきりに、たびたび ⇒ 私の漢籍では、なんとも落着かない…。本当に古事記・序文は「洊雷應期」と書かれているのだろうか?
◎鹿島神社のしめ石(写真)の「潜龍随時・游雷應期」の方が原型だと思われて仕方が無いのだが…。
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◆ 『古事記』序文の「潜龍(せんりゅう=太子、ここでは天武)」を、 ⇒ 倭王・「薩夜麻」
だと、解釈すると、
◆ 百済人祢軍墓誌の中の「僭帝一旦称臣」の「僭帝」とは、九州王朝の天子、「薩野馬」
のことではないか?
と、つながるわけですね。
皆さんはいかがでしょうか、はて・さて…
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(914) 『「日本」呼称、最古の例か 678年の墓誌?中国で発見上の方に「日本」の文字が見える』 2012年2月26日(日)
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【「日本」呼称、最古の例か 678年の墓誌?中国で発見 上の方に「日本」の文字が見える。
⇒ 朝日新聞デジタル。今は「公開期間を終了」になってる。
《ご注意》: 以下はこの記事の抜粋・転載ですので、あしからずご了承ください。
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中国の古都・西安で見つかった墓誌(故人の事績を刻んで墓に収めた石板)に、「日本」との文字があることを紹介する論文が中国で発表された。
墓誌は678年の作と考えられるとしている。
日本と名乗るようになったのはいつからなのかは古代史の大きななぞ。大宝律令(701年)からとの見方が有力だったが、墓誌が本物ならさらにさかのぼることになる。
中国の墓誌を研究する明治大の気賀沢保規教授(中国史)によると、論文は吉林大古籍研究所の王連竜氏が学術雑誌「社会科学戦線」7月号に発表した。
祢軍(でいぐん)という百済(くだら)人の軍人の墓誌で1辺59センチの正方形。884文字あり、678年2月に死亡し、同年10月に葬られたと記されている。
百済を救うために日本は朝鮮半島に出兵したが、663年に白村江(はくそんこう)の戦いで唐・新羅(しらぎ)連合軍に敗れる。
その後の状況を墓誌は
「日本餘●(●は口へんに焦) 拠扶桑以逋誅」と記述。「生き残った日本は、扶桑(日本の別称)に閉じこもり、罰を逃れている」という意味で、
そうした状況を打開するため百済の将軍だった祢軍が日本に派遣されたと記していると気賀沢教授は説明する。
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(915) 『天武天皇7年(678)には既に用いられていた「日本」国号: 王連龍「百済人《禰軍墓誌》考論」』 2012年2月26日(日)
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【天武天皇7年(678)には既に用いられていた「日本」国号: 王連龍「百済人《禰軍墓誌》考論」】・《魚拓》
《ご注意》: 以下はこの記事の抜粋・転載ですので、あしからずご了承ください。
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『天武天皇7年(678)には既に用いられていた「日本」国号: 王連龍「百済人《禰軍墓誌》考論」』
2011年10月23日 | 論文・研究書紹介 本日、10月23日(日)の「朝日新聞」朝刊には、儀鳳3年(678)に没した百済人将軍「祢軍」の墓誌に「日本」という国名が見えており、早い例だとする記事が載ってましたね。
元になった中国の論文が刊行されてすぐ話題になったため、その号が図書館に届いた際にコピーして簡単なメモをとっておいたのですが、7月刊行の雑誌記事が今頃になって報道されたので驚きました。
入唐留学生であった井真成の墓誌騒ぎの余波なんでしょうか。
その墓誌は、聖徳太子と直接の関係はないのですが、『日本書紀』の外交記事の信頼性に関わるものですし、私が数日前まで滞在していた西安(長安)から出たものですので、その縁で簡単に紹介しておきます。
吉林大学古籍研究所副教授であって、古代文献と石刻の研究者である王連龍氏の論文、
『王連龍「百済人《禰軍墓誌》考論」(『社会科学戦線』2011年第7期)』
です。原文は簡体字ですが、日本の通行の字体に改めます。
論文によれば、墓誌は正確には「大唐故右威衛将軍上柱國禰公墓誌銘并序」であって、最近、西安で発見されたそうです。
墓誌は高さ59センチ、厚さ10センチ、銘文は31行で約30字、総計884字。
日本へ使者として派遣されたことが、典拠を用いた美文で詳しく書かれており、この件が功績として重視されていたことを示すと、王氏は書いています。
銘文では、唐の将軍となった百済人の禰軍の祖先は中国人であったものの、戦乱が続いた西晋の永嘉年間(307-313)の末に百済に移った由。
曾祖の祢福、祖父の祢誉、父の祢善は、百済ではいずれも一品の位にあり、「佐平」の官となっていたとあります。
その百済が660年に唐に滅ぼされ、禰軍が唐に渡ると、皇帝は喜んで栄達させ、右武衛滻川府折冲都尉に任じたとか。
その頃は、「日本余噍、据扶桑以逋誅」、つまり、百済で唐(と新羅の連合)軍と戦って敗れた「日本」の残党は、「扶桑(大陽が昇るという中国伝統の東方海上の島国=唐代には日本と同一視されるようになった)」に立てこもって唐による誅罰を逃れているという状況であったため、禰軍は唐皇帝の命令によって日本に派遣されることになります。
以後、唐と敵対するようになった新羅との交渉も含め、外交成果をあげたことによって、宗の咸亨3年(672)には右衛将軍に任じられ、儀鳳3年(678)2月に長安県で66歳で没した際は、皇帝は絹布300段などを下賜して厚く葬らせたとあります。
同年の10月に葬ったと記されているのは、墓の工事などが終わったためでしょうから、墓誌銘はこの間の時期に書かれたことになります。
禰軍の来日は『日本書紀』本文には記されていませんが、天智天皇3年(664)夏五月条には、唐が鎮圧のために百済に送り込んだ将軍劉仁徳が、朝散大夫の郭務悰等を派遣して表函と献物を進上して来た、と記されています。
むろん、『日本書紀』が描くような表敬訪問ではなく、倭国を叱責して敗戦処理をさせるための交渉であったことは言うまでもありません。
王論文は、『善隣国宝記』が引く『海外国記』には、郭務悰の随員の一人として「百済佐平禰軍」と記されているため、これと対応する墓誌銘の記述は信用できると論じています。
また、『日本書紀』天智天皇4年九月条に見える唐からの使者に関する記事の注に「右戎衛郎将上柱国百済禰軍」とあることも注意されています。
ここで問題になるのは、墓誌銘に見える「日本」です。
王論文は、
『三国史記』新羅本紀第六の「文武王十年(670)十二月、倭国更号日本。自言近日所出、以為名(倭国、更[あらた]めて日本と号す。自ら言う、日出ずる所に近し、以て名となす)」という有名な記述を引いた後、678年に記された禰軍の墓誌銘に「日本」という国名が見えるため、『三国史記』のこの記述を認めて良いとし、734年に死んだ井真成の墓誌に見える「日本」の用例より早い例だと説いています。
これまで見てきたことによれば、『日本書紀』の外交記事は、編纂時の為政者たちに都合良く改められて書かれているものの、神功皇后関連記事のような作文ばかりでなく、個々の事柄については、予想以上に事実に基づいている場合がある、と言ってよさそうです。
また、「天皇」と「日本」の誕生は天武朝から、あるいは大宝律令(701年)からとする説はあやしくなりましたね。
というか、何かの表現が見えることと、その表現を律令において正式名称として規定することとは区別して考えるべきだ、という当たり前のことを、もう一度確認すべきなんでしょう。
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【追記:2011年10月25日】
論文通り「祢軍」と簡体字(日本では俗字・新字)で表記してましたが、『日本書紀』を見て検索する人のことも考え、「禰軍」と改めたほか、数カ所、文言を訂正しました。
上註国 (阿部 学)
漢字の誤り (阿部 学)
678年墓誌についての事実と
■
この上記の解釈が、一番 “真っ当な” 解釈のようだ。
近江朝遷都と、天智の列島内最初の『天皇』即位、「阿麻来服」のちの「倭国更えて『日本』号す」に象徴される「長門以東」の『独立』だ。
〔近江朝遷都・天智『天皇』即位・『日本』号す〕 が象徴するのは、『長門以東』が倭国から『独立』したということだ。
今まで、この頁で2年に亘って書いてきた記事内容と、王連龍副教授「百済人《禰軍墓誌》考論」での解釈とが “期せずして、ピッタリと”符合している と分かる。
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(916) 『大唐故右威衛将軍上柱国祢公墓誌銘并序:水野孝夫氏翻案◆王連竜吉林大学副教授「百済人祢軍墓誌論考」より』 2012年2月26日(日)
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【古賀達也の洛中洛外日記
第353話 2011/11/22 百済人祢軍墓誌の「日本」】へ
《ご注意》: 以下はこの記事の抜粋・転載ですので、あしからずご了承ください。
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《このページは全文検索msearchで検索できません。閲覧ソフト(Explorer.etc)で検索して下さい。》
《これらは翻案です。史料批判される場合は、必ず論文と拓本で確認して下さい。》
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《 資料 》
【 『 大唐故右威衛将軍上柱国祢公墓誌銘并序 』
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● 『大唐故右威衛将軍上柱国祢公墓誌銘并序』
● 公諱軍,字温,熊津嵎夷人也。其先與華同祖,永嘉末,避亂適東,因遂家焉。
● 若夫巍巍鯨山,跨清丘以東峙;熊水,臨丹渚以南流。
● 浸烟雲以樆英,降之于蕩沃;照日月而榳惁,秀之于蔽虧,霊文逸文,高前芳于七子;
汗馬雄武,擅後異于三韓;華構増輝,英材継響,綿圖不絶,奕代有聲。
● 曽祖福,祖誉,父善,皆是本藩一品,官號佐平。併緝地義以光身,佩天爵而懃國。
● 忠鉄石,操埒松筠。笵物者,道徳有成,則士者,文武不堅。公狼輝襲祉,鷰頷生姿。
● 涯濬澄陂,裕光愛日,干牛斗之逸気,芒照星中;博羊角之英風,影征雲外。
● 去顕慶五年,官軍平本藩日,見機識変,杖剣知帰,似由余之出戎,如金磾子之入漢。
● 聖上嘉嘆,擢以榮班,授右武衛滻川府折沖都尉。
● 于時日夲餘噍,拠扶桑以逋誅;風谷遺甿,負盤桃而阻固。
● 萬騎亘野,與蓋馬以驚塵;千艘横波,援原虵而縦濔。
● 以公格謨海左,亀鏡瀛東,特在簡帝,往尸招慰。公臣節而投命,歌皇華以載馳。
● 飛汎海之蒼鷹, 翥凌山之赤雀。決河眦而天呉静,鑑風隧而雲路通。
● 驚鳧失侶,済不終夕,遂能説暢天威,喩以禍福千秋。僭帝一旦称臣,仍領大首望数
十人将入朝謁,特蒙恩詔授左戎衛郎将。
● 少選遷右領軍衛中郎将兼検校熊津都督府司馬。材光千里之足,仁副百城之心。
● 挙燭霊臺,器標于芃棫;懸月神府,芳掩于桂符。衣錦昼行,富貴無革。
● 雚蒲夜寝,字育有方。去咸享三年十一月廿一日詔授右威衛将軍。
● 局影彤闕,飾恭紫陛。亟蒙榮晋,驟暦便繁。方謂克壮清猷,永綏多祐。
● 豈啚曦馳易往,霜凋馬陵之樹;川閲難留,風驚惊龍驤之水。
● 以儀鳳三年歳在戊寅二月朔戊子十九日景午遘疾,薨于雍州長安県之延寿里第。
● 春秋六十有六
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(917) 『ふぇーッ、すごい “迷” 解釈もあったもんだ。参った…「祢軍墓誌の碑文解釈 (2011/12/10) 」』 2012年2月26日(日)
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【祢軍墓誌の碑文解釈 (2011/12/10) 】・《魚拓》
《ご注意》: 以下はこの記事の抜粋・転載ですので、あしからずご了承ください。
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祢軍墓誌の碑文解釈 2011/12/10
<はじめに>
朝日新聞(2011年10月23日)のネット記事を下記に抜粋します。
「中国の古都・西安で見つかった墓誌(故人の事績を刻んで墓に収めた石板)に、「日本」との文字があることを紹介する論文が中国で発表された。
墓誌は678 年の作と考えられるとしている。
…祢軍(でいぐん)という百済(くだら)人の軍人の墓誌で1辺59センチの正方形。
百済を救うために日本は朝鮮半島に出兵したが、663 年に白村江(はくそんこう)の戦いで唐・新羅(しらぎ)連合軍に敗れる。
その後の状況を墓誌は「日本餘噍據扶桑以逋誅」と記述。「生き残った日本は、扶桑(日本の別称)に閉じこもり、罰を逃れている」という意味で、そうした状況を打開するため百済の将軍だった祢軍が日本に派遣されたと記していると気賀沢教授は説明する。」
以上
ここで問題にしたいのは、碑文の「日本餘噍據扶桑以逋誅」に対する気賀沢教授の解釈である。
気賀沢教授の解釈
碑文の「日本餘噍據扶桑以逋誅」を原文に従って読めば、「日本の餘噍は、扶桑によって、もって誅からにげる。」となる。
「扶桑」は、中国神話で東方にある太陽を生む樹と言われ、同じく東方にある日本をも指す。
「據」は、「依也。引也。援也。拒守也。」(『康煕字典』)。
「逋」は、「亡(にげる)也」(『説文』)。
「誅」は、「小國敖、大國襲焉、曰誅。<小国おごり、大国これを襲うことを誅という>」(『晋語』)、「罰也」(『玉篇』)。
しかし、気賀沢教授の「生き残った日本は、扶桑(日本の別称)に閉じこもり」という解釈はどこから出てくるのか? また「扶桑」を「日本」とすれば、「日本に依って」となり、意味は「日本に守られて」となる。
これでいくと語句先頭の「日本」と「国」の意味の詞が重複する。
気賀沢教授はこの「日本」の文字を「国号」と考えているようだが、「扶桑」に対応させた「方位」としての「日のもと」と読んだ方が「国」の重複を避けられるのではないか。語の意味としては「東方」となり、語句の解釈は「東方にいる餘噍は、日本に守られ、罰から逃げた。」となる。
「祢軍」とは
次に「餘噍」とは誰かが重要になる。ここでの「餘噍」は、唐側から見て、ある時期に「罪」を犯し「誅(罰)」の対象となったものである。「餘噍」とこれが「誅」の対象となった原因や時期などを特定するには、墓誌全文と関連史料とを見ていく必要がある。
先ず墓誌の主人公である「祢軍」であるが、『日本書紀』にも彼の記事が下記のようにある。
『日本書紀』天智天皇四年(六六五)九月壬辰《廿三》
「唐國遣朝散大夫沂州司馬馬上柱國劉徳高等〈等謂右戎衛郎將上柱國百濟禰軍。朝散大夫上柱國郭務○。凡二百五十四人。七月廿八日至于對馬。九月廿日至于筑紫。廿二日進表函焉。〉」
ここの「右戎衛郎將上柱國百濟禰軍」が「祢軍」である。時期としては百済が「唐、新羅連合軍」により滅亡に追いやられた時期にあたり、その中の「白村江の戦い」とは、「日本、百済残党連合軍」と「唐、新羅連合軍」が対峙した一つの戦いである。(結果は「日本、百済残党連合軍」の惨敗に終わる。)
祢軍は、その碑文冒頭に「公諱軍、字温、熊津蝸夷人也。」とあるように百済の人である。
続いて「其先與華同祖、永嘉末、避亂適東、因遂家焉。」とあり、その祖先は、西晋末の時に「永嘉の乱」をのがれてきた中国人であると言う。
そして百済に臣下として仕え、「曾祖福、祖譽、父善、皆是本藩一品、官號佐平。」とあるように、曾祖父、祖父、父が「佐平」と言う百済で最高位の官職を務めた家柄でもあったと記す。
『海外国記』には「・・・百済佐平禰軍」とあり、彼自身も「佐平」の地位にあったものと思われる。
次に、「去顯慶五年( 660 年)官軍平本藩日、見機識変、杖劍知歸、似由余之出戎、如金磾之入漢。」
<去る顯慶五年( 660 年)、官軍(唐軍)本藩(百済)を平らぐ日、機を見て変を識って、剣を杖つき、(唐に)帰すことを知る。(これ)由余の戎を出でることに似、金磾の漢に入るが如し。>
と碑文にあります。
「由余」は、西戎の人だが先祖は中国人。
そして
「聖上嘉嘆、擢以榮班授右武衛滻川府析衝都尉。」
<聖上(唐の高宗)がほめ嘆じて、あげるに、栄班をもってし、右武衛滻川府析衝都尉を授ける。>
と彼は唐の官職を受け、唐の臣下になったことを記す。
つまり、祢軍は百済を裏切り唐軍側に寝返ったことになる。
原因と時期
碑文に「于時日本餘噍・・・」
<時に、日本の餘噍・・・>
とあるので、時期としてはこの顯慶五年であろう。
この時期の『日本書紀』での記述は、
「百濟遣達率。〈闕名〉沙彌覺從等來奏曰。〈或本云。逃來告難〉今年七月。新羅恃力作勢不親於隣。引搆唐人。傾覆百濟。君臣總俘、略無噍類。・・・
於是西部恩率鬼室福信赫然發憤據任射岐山。〈或本云。北任叙利山〉達率餘自進據中部久麻怒利城。〈或本云。都々岐留山。〉各營一所誘聚散卒。兵盡前役。故以庁戰。
新羅軍破。百濟奪其兵。既而百濟兵翻鋭。唐不敢入。福信等遂鳩集同國。共保王城。國人尊曰佐平福信。佐平自進。唯福信起神武之權。興既亡之國。」
『日本書紀』巻二六斉明天皇六年(六六〇)十月
「百濟佐平鬼室福信遣佐平貴智等。來獻唐俘一百餘人。今美濃國不破。片縣二郡唐人等也。又乞師請救。并乞王子余豐璋曰。唐人率我螯賊。來蕩搖我疆場。覆我社稷。俘我君臣。〈百濟王義慈。其妻恩古。其子隆等。其臣佐平千福國。弁成。孫登等。凡五十餘。秋於七月十三日。爲蘇將軍所捉。而送去於唐國。蓋是無故持兵之徴乎。〉而百
流國遥頼天皇護念。更鳩集以成邦。方今謹願。迎百濟國遣侍天朝王子豐璋。將爲國主。云云。
詔曰。乞師請救聞之古昔。扶危繼絶。著自恒典。百濟國窮來歸我。以本邦喪亂靡依靡告。枕戈甞膽。必存拯救。遠來表啓。志有難奪可分命將軍百道倶前。雲會雷動。倶集沙喙翦其鯨鯢。嘔彼倒懸。宜有司具爲與之。以禮發遣云云。〈送王子豐璋及妻子與其叔父忠勝等。其正發遣之時。見于七年。或本云。天皇立豐璋爲王。立塞上爲輔。而以禮發遣焉。〉」
(長文となるので、この読みは岩波文庫などの『日本書紀』注釈本を参照されたし。)
ここに、百済が滅亡し、その王族の一員である福信が百済残党のリーダーとなり、唐、新羅連合軍に抵抗活動を続け、日本側に、日本にいる「王子豐璋」を迎えて百済王とし、亡国を復興することや援軍を求め、斉明天皇がそれらを決定するまでが記述される。
つまり
この時期は660 年であり、663 年の「白村江の戦い」の前と言える。
また唐側史料と言える『資治通鑑』「巻二百唐紀十六高宗上之下」に、「主上欲滅高麗、故先誅百済」とあり、その原因と「誅」の対象は「百済」であることが簡潔に述べられる。「百済」と言ってもその具体的対象は人民ではなく、勿論国の主権者たる王や王族やそれに忠誠を誓う臣下達である。
「餘噍」とは
先に引用した『日本書紀』のところに(赤字部分)、「傾覆百濟、君臣總俘、略無噍類。」
<百済をかたぶけ覆し、君臣みなとりことなり、ほぼ噍類(のこれるたぐい)無し。>
とあり、碑文の「餘噍」とは、百済の「君臣」の残族であると推定できる。
また「書紀」の「福信赫然發憤據任射岐山・・・唐不敢入」は、碑文の「風谷遺氓、負盤桃而阻固。」
<風谷の遺民、盤桃を負いて阻固なり。>に対応するであろう。
結論
結論としては、碑文の問題語句の「時期」は、660 年斉明天皇六年であり、「餘噍」とは、当時日本にいた百済の王族や臣下達である。
よってその解釈は「時に、東方にいた百済の王族やその臣下達は、日本に守られ、罰をのがれた。」であり、朝日新聞に掲載した気賀沢教授の解釈は恐らく誤読であろう。
余談
今回の墓誌碑文で個人的に興味を抱く部分は、問題にした部分ではなく、「遂能説暢天威、喩以禍福千秋、僭帝一旦称臣。」
<ついによく天威を説きのべ、喩えるに禍福、千秋(将来)をもってすれば、僭帝も一旦に臣を称す。>と言う文言である。
ここの「僭帝一旦称臣」の「僭帝」はマザコンと思える天智帝か。
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ふぇー、すごい “迷” 解釈もあったもんだ。参った … (^_^;)
何故だろうと考えた。最初はもっともな解釈になっているが、途中、『日本書紀』を引き合いに出した箇所あたりからが、脱線してるのだろう。やれ・やれ (=^・^=)
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(918) 『 いやー、「百済人祢軍墓誌」年寄には字が細かいと見えづらく特に旧字は判別しづらい。よって、でっかくした』 2012年2月28日(火)
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いやー、年寄には字が細かいと見えづらく特に旧字は判別しづらい。よって、でっかくした。これくらいあれば良いだろうて…。
【大唐故右威衛将軍上柱国祢公墓誌銘并序:水野孝夫氏翻案
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待てよ、少し上記の碑文の読み取りとは違うのが、有るみたいだ。それは以下のこれです。どこが、どう違うか? はて・さて…
【2012-01-07枕流亭ブログ ■[中国史]禰軍墓誌再び】・《魚拓》
《ご注意》: 以下はこの記事の抜粋・転載ですので、あしからずご了承ください。
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■ 『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』
■ 公諱軍字溫熊津嵎夷人也其先與華同祖永嘉末避亂適東因遂家焉若夫
■ 巍巍鯨山跨青丘以東峙熊水臨丹渚以南流浸煙雲以檎英降之於盪
■ 沃照日月而榳惁秀之於蔽虧靈文逸文高前芳於七子汗馬雄武擅後昇於
■ 三韓華搆増輝英材繼響綿圖不絕奕代有聲曾祖福祖譽父善皆是本藩一
■ 品官号佐平並絹地義以光身佩天爵而懃國忠鐵石操埒松筠範物者道
■ 有成則士者文武不墜公粮輝襲祉䴏頷生姿涯濬澄陂裕光愛日干牛斗
■ 之逸氣芒照星中搏羊角之奠風影征雲外去顯慶五年官軍平本藩日見機
■ 識變杖劍知歸似由余之出戎如金磾之入漢 聖上嘉嘆擢以榮班授右
■ 武衛滻川府析衝都尉于時日本餘噍據扶桑以逋誅風谷遺甿負盤桃而阻
■ 固萬騎亘野与蓋馬以驚塵千艘横波援原虵而縱沵以公格謨海左龜鏡瀛
■ 東特在簡帝往尸招慰公序臣節而投命歌 皇華以載馳飛汎海之蒼鷹
■ 翥凌山之赤雀決河眥而天吳靜鑒風隧而雲路通驚鳧失侶濟不終夕遂能
■ 說暢 天威喻以禍福千秋僭帝一旦稱臣仍領大首望數十人將入朝謁
■ 特蒙 恩詔授左戎衛郎將少選遷右領軍衛中郎將兼檢校熊津都督府
■ 司馬材光千里之足仁副百城之心拳燭靈臺器標於芃棫懸月神府芳掩於
■ 桂符衣錦晝行富貴無革雚蒲夜寢字育有方去咸亨三年十一月廿一日
■ 詔授右威衛將軍局影 彤闕飾躬紫陛除、蒙榮晉驟歴便繁方謂克壯清
■ 猷永綏多祐豈啚㬢馳易往霜凋馬陵之樹川閱難留風驚龍驤之水以儀鳳
■ 三年歲在戊寅二月朔戊子十九日景午遘疾薨於雍州長安縣之延壽里第
■ 春秋六十有六 皇情念功惟舊傷悼者久之贈絹布三百段粟三百升葬
■ 事所須並令官給仍使弘文舘學士兼檢校本衛長史王行本監護惟公雅識
■ 淹通溫儀韶峻明珠不颣白珪無玷十步之芳蘭室欽其臭味四鄰之彩桂嶺
■ 尚其英華奄墜扶搖之翼遽輟連舂之景粵以其年十月甲申朔二日乙酉葬
■ 雍州乾封縣之高陽里礼也駟馬悲鳴九原長往月輪夕駕星精夜上日落
■ 山子草色寒風度原子松聲響陟文榭子可通随武山予安仰愴清風之歇滅
■ 樹芳名於壽像其詞曰
■ 冑胤青丘芳基華麗脈遠遐邈會逢時濟茂族淳秀奕葉相繼獻款夙彰隆恩
■ 無替其一惟公苗裔桂馥蘭芬緒榮七貴乃子傳孫流芳後代播美來昆奠聲雖
■ 歇令範猶存其二牖箭驚秋隟駒遄暮名將日遠隨年故慘松吟於夜風悲薤
■ 哥於朝露靈轜予遽轉嘶驂予跼顧嗟陵谷之貿遷覬音徽之靡蠹其三
■
(919) 『相違点の抽出対比表『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』』 2012年2月28日(火)
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相違点の抽出対比表『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』
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『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』
● 公諱軍,字温,熊津嵎夷人也。其先與華同祖,永嘉末,避亂適東,因遂家焉。
■ 公諱軍,字溫,熊津嵎夷人也。其先與華同祖,永嘉末,避亂適東,因遂家焉。
● 若夫巍巍鯨山,跨清丘以東峙;熊水,臨丹渚以南流。
■ 若夫巍巍鯨山,跨青丘以東峙;熊水,臨丹渚以南流。
● 浸烟雲以樆英,降之于蕩沃;照日月而榳惁,秀之于蔽虧,霊文逸文,高前芳于七子;
汗馬雄武,擅後異于三韓;華構増輝,英材継響,綿圖不絶,奕代有聲。
■ 浸煙雲以檎英,降之於盪沃;照日月而榳惁,秀之於蔽虧,靈文逸文,高前芳於七子;
汗馬雄武,擅後昇於三韓;華搆増輝,英材繼響,綿圖不絕,奕代有聲。
● 曽祖福,祖誉,父善,皆是本藩一品,官號佐平。併緝地義以光身,佩天爵而懃國。
■ 曾祖福,祖譽,父善,皆是本藩一品,官号佐平。並絹地義以光身,佩天爵而懃國。
● 忠鉄石,操埒松筠。笵物者,道徳有成,則士者,文武不堅。公狼輝襲祉,鷰頷生姿。
■ 忠鐵石,操埒松筠。範物者,道有成,則士者,文武不墜。公粮輝襲祉,䴏頷生姿。
● 涯濬澄陂,裕光愛日,干牛斗之逸気,芒照星中;博羊角之英風,影征雲外。
■ 涯濬澄陂,裕光愛日,干牛斗之逸氣,芒照星中;搏羊角之奠風,影征雲外。
● 去顕慶五年,官軍平本藩日,見機識変,杖剣知帰,似由余之出戎,如金磾子之入漢。
■ 去顯慶五年,官軍平本藩日,見機識變,杖劍知歸,似由余之出戎,如金磾之入漢。
● 聖上嘉嘆,擢以榮班,授右武衛滻川府折沖都尉。
■ 聖上嘉嘆,擢以榮班,授右武衛滻川府析衝都尉。
● 于時日夲餘噍,拠扶桑以逋誅;風谷遺甿,負盤桃而阻固。
■ 于時日本餘噍,據扶桑以逋誅;風谷遺甿,負盤桃而阻固。
● 萬騎亘野,與蓋馬以驚塵;千艘横波,援原虵而縦濔。
■ 萬騎亘野,与蓋馬以驚塵;千艘横波,援原虵而縱沵。
● 以公格謨海左,亀鏡瀛東,特在簡帝,往尸招慰。公臣節而投命,歌皇華以載馳。
■ 以公格謨海左,龜鏡瀛東,特在簡帝,往尸招慰。公序臣節而投命,歌皇華以載馳。
● 飛汎海之蒼鷹,翥凌山之赤雀。決河眦而天呉静,鑑風隧而雲路通。
■ 飛汎海之蒼鷹,翥凌山之赤雀。決河眥而天吳靜,鑒風隧而雲路通。
● 驚鳧失侶,済不終夕,遂能説暢天威,喩以禍福千秋。僭帝一旦称臣,仍領大首望数十人将入朝謁,特蒙恩詔授左戎衛郎将。
■ 驚鳧失侶,濟不終夕,遂能說暢天威,喻以禍福千秋。僭帝一旦稱臣,仍領大首望數十人將入朝謁,特蒙恩詔授左戎衛郎將。
● 少選遷右領軍衛中郎将兼検校熊津都督府司馬。材光千里之足,仁副百城之心。
■ 少選遷右領軍衛中郎將兼檢校熊津都督府司馬。材光千里之足,仁副百城之心。
● 挙燭霊臺,器標于芃棫;懸月神府,芳掩于桂符。衣錦昼行,富貴無革。
■ 拳燭靈臺,器標於芃棫;懸月神府,芳掩於桂符。衣錦晝行,富貴無革。
● 雚蒲夜寝,字育有方。去咸享三年十一月廿一日詔授右威衛将軍。
■ 雚蒲夜寢,字育有方。去咸亨三年十一月廿一日詔授右威衛將軍。
● 局影彤闕,飾恭紫陛。亟、蒙榮晋,驟暦便繁。方謂克壮清猷,永綏多祐。
■ 局影彤闕,飾躬紫陛。除、蒙榮晉,驟歴便繁。方謂克壯清猷,永綏多祐。
● 豈啚曦馳易往,霜凋馬陵之樹;川閲難留,風驚惊龍驤之水。
■ 豈啚㬢馳易往,霜凋馬陵之樹;川閱難留,風驚龍驤之水。
● 以儀鳳三年歳在戊寅二月朔戊子十九日景午遘疾,薨于雍州長安県之延寿里第。
■ 以儀鳳三年歲在戊寅二月朔戊子十九日景午遘疾,薨於雍州長安縣之延壽里第。
● 春秋六十有六
■ 春秋六十有六
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■ 皇情念功惟舊傷悼者久之贈絹布三百段粟三百升葬
■ 事所須並令官給仍使弘文舘學士兼檢校本衛長史王行本監護惟公雅識
■ 淹通溫儀韶峻明珠不颣白珪無玷十步之芳蘭室欽其臭味四鄰之彩桂嶺
■ 尚其英華奄墜扶搖之翼遽輟連舂之景粵以其年十月甲申朔二日乙酉葬
■ 於雍州乾封縣之高陽里礼也駟馬悲鳴九原長往月輪夕駕星精夜上日落
■ 山子草色寒風度原子松聲響陟文榭子可通随武山予安仰愴清風之歇滅
■ 樹芳名於壽像其詞曰
■ 冑胤青丘芳基華麗脈遠遐邈會逢時濟茂族淳秀奕葉相繼獻款夙彰隆恩
■ 無替其一惟公苗裔桂馥蘭芬緒榮七貴乃子傳孫流芳後代播美來昆奠聲雖
■ 歇令範猶存其二牖箭驚秋隟駒遄暮名將日遠隨年故慘松吟於夜風悲薤
■ 哥於朝露靈轜予遽轉嘶驂予跼顧嗟陵谷之貿遷覬音徽之靡蠹其三
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