大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 057 》
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ
白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、
日本書紀の〔 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権
2010年 4月 2日 発行
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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ https://waikoku.sakura.ne.jp/yamato.html 2:32 PM Apr 2nd webから ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(898) 『軽皇子 ( かるのみこ )とは、はたして、「文武天皇」のことか、「孝徳天皇」のことか?』 2012年2月19日(日)
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『 軽皇子 ( かるのみこ )とは、はたして、「文武天皇」のことか、「孝徳天皇」のことか? と聞かれれば、私は、即座に、「文武天皇」ことだと答えます。
『『日本書紀』の「乙巳の変」・「大化改新」の前後箇所は、五〇年後の「プロト大化改新」が新羅の『ひどん(毘曇)の乱』を「手本」に、「なぞって」編纂されている。』
と、「前章」で書きました。
だから、『 軽皇子 ( かるのみこ )とは、「文武天皇」ことだと考えています。
とはいえ、ネットではどのように流布されているのでしょう。
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文武天皇① ● 【文武天皇 もんむてんのう 天武十二~慶雲四(683-707) 諱:軽皇子】・《魚拓》
文武天皇② ● 【軽皇子 かるのみこ】・《魚拓》
文武天皇③ ● 【軽皇子の立太子をめぐって】・《魚拓》
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孝徳天皇① ● 【第36代 孝徳天皇】 ⇒ 逃げられた!!(リンク切れ)
孝徳天皇② ● 【[感動日本史]軽皇子と鎌足】・《魚拓》
孝徳天皇③ ● 〔2011年7月9日(土)〕【天に双つの日は無く、国に二人の王は無い。
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この系図は
別図の
このウィキペディアの系図には、何故か、孝徳天皇が入っていません。倭国灘波王家の当初の系図には「皇極天皇(斉明天皇)」のところには、伊勢王と記入されていたと考えます。ところが、「プロト大化改新」が50年前に移植される事になり、最寄の新羅「毘曇の乱」をモデルにでっち上げることになり、
更に、唐に恭順を示す為新羅の善徳女王・真徳女王を真似て、女性の皇極・斉明に置き換えた。たぶん奈良朝時代はちょうどこの系図の形だった。ところが、京都の桓武天皇は父祖を百済の義慈王の係累と飾る必要上、義慈王を舒明天皇に、その皇子の孝を孝徳天皇として、途中につなげたものと考えられます。
伊勢王・天智・天武が本来形でしょう。今ひとつは、蘇我倉麻呂はその女=娘を天智・天武の嫁がせています。古代では通常、服従を強いられ屈服した証しに娘を供したでしょうから…、「秦国」の王家が蘇我氏ならば、「秦国」は倭国灘波王家に途中に屈服していたことになります。吸収合併のようにですが。
『日本書紀』を素直に読めば、「蘇我倉山田石川麻呂」と言う人物像とは
『…途中略…』となるんでしょうね。
がしかし、『日本書紀』の記す「乙巳の変」「大化改新」は史実を、50年前へ移植したものと分かった以上、『日本書紀』はフィクションだとみなすほかありません。「好意的に時間・場所・登場人物を変更・切り貼りしたノンフィクション」というものがあるとすれば、僅かに「史実の断片」が残こされている可能性がある、ということかも知れませんね^^
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続1) 軽皇子(かるのみこ)とは、はたして、「文武天皇」ことか、「孝徳天皇」ことか? ◆ 文武天皇①
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文武天皇① ● 【文武天皇 もんむてんのう 天武十二~慶雲四(683-707) 諱:軽皇子】・《魚拓》
《ご注意》: 以下はこの記事の抜粋・転載ですので、あしからず。
◇
天武天皇の孫。草壁皇子の子。母は阿閉皇女(元明天皇)。
大行天皇の吉野の宮に幸せる時の歌
み吉野の山の下風(あらし)の寒けくにはたや今夜(こよひ)も我が独り寝む(万1-74)
右の一首は、或は云はく、天皇の御製歌(おほみうた)。
【通釈】吉野の山から吹き下ろす激しい風が肌寒いのに、もしや今夜も私は仮の宿りに独り寝るのだろうか。
【補記】「大行天皇」は、崩じて未だ諡号が贈られていない天皇。単に先代の天皇のことをも言う。
【他出】五代集歌枕、新勅撰集、歌枕名寄、夫木和歌抄
【主な派生歌】
みよしのの山した風のさむき夜をたれ故郷に衣うつらん(源実朝)
題しらず
龍田河もみぢみだれて流るめりわたらば錦なかやたえなむ(古今283)
この歌はある人、ならの帝の御歌なりとなむ申す
【語釈】
【補記】『古来風躰抄』では聖武天皇御製とし、『定家八代抄』では文武天皇御製とする。足利義尚撰『新百人一首』でも文武天皇の歌として採られている。
【主な派生歌】
はげしさはこの比よりもたつた山松の嵐に紅葉みだれて(藤原定家)
略伝
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続2) 軽皇子(かるのみこ)とは、はたして、「文武天皇」ことか、「孝徳天皇」ことか? ◆ 文武天皇②
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文武天皇② ● 【軽皇子 かるのみこ】・《魚拓》
《ご注意》: 以下はこの記事の抜粋・転載ですので、あしからず。
◇
生没年 683(天武12)~707(慶雲4)
系譜など 天武天皇の孫。草壁皇子の子。母は阿閉皇女(元明天皇)。
中尾山古墳
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続3) 軽皇子(かるのみこ)とは、はたして、「文武天皇」ことか、「孝徳天皇」ことか? ◆ 文武天皇③
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文武天皇③ ● 【軽皇子の立太子をめぐって】・《魚拓》
《ご注意》: 以下はこの記事の抜粋・転載ですので、あしからず。
◇
草壁皇子が薨去したとき、軽皇子は7歳だった。
しかし、軽皇子の立太子が、何の障害もなく進められたというわけではなかった。
高市皇子が亡くなると、持統は群臣を集めて皇太子の問題を論議させた。しかし、「衆議粉紜」でなかなか決まらなかったらしい。
我が国家の法たるや、神代より以来、子孫相承けて天位(皇位)を襲(ツ)げり。もし兄弟相及ぼさば則ち乱これより興らん。……然して人事を以ちて推さば、聖嗣自然に定まれり。この外に誰か敢えて間然せんや。
日本では古来から直系相続が行われており、兄弟相続は争いのもとになる、というような意味である。
ということは、高市皇子存命中は、軽皇子の立太子をテーマにすることさえできなかった、ということである。
その間に、持統は驚くべき頻度で吉野行幸を繰り返している。
柿花氏の紹介する『大日本哥道極秘伝書』には、次のように記されている。
傳に曰、人丸は文武天皇の御子と云々。哉趣は文武寵愛の軽き女房胎みたるを、軽女房故出雲の国の押領司の右の女房下し給ふなり。(後略)
(中略)人丸文武天皇の王子にて座す。人丸傳の所に記すがごとし。深秘不浅事なり……。
これは不可思議というか不可解なことである。
そもそも、草壁と文武の父子関係を疑問視する見方もある(08年2月6日の項)。
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続4) 軽皇子(かるのみこ)とは、はたして、「文武天皇」ことか、「孝徳天皇」ことか? ◆ 孝徳天皇①
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孝徳天皇① ● 【第36代 孝徳天皇】 ⇒ 逃げられた!!(リンク切れ)
《ご注意》: 以下はこの記事の抜粋・転載ですので、あしからず。
◇
父…茅淳王
○皇極天皇は当初、皇位を中大兄皇子に譲ろうとしたが、皇子は中臣鎌足の助言を入れて叔父の軽皇子へ譲位を申し出た。次いで軽皇子は舒明天皇の長子である古人大兄皇子がふさわしいとして即位を辞退した。古人大兄皇子は出家、やむなく軽皇子への譲位が実現した。
○天皇は一種の民主的裁判の鐘匱の制を定めている。また、親族法上の男系主義の原則を示された男女の法も定め、社会改革を志した面も見られる。
○「日本書紀」は鎌足の業績を高く評価し、宰相として諸官の上に位置づけ、政策の立案、実施の要であったように記述している。
○孝徳朝で最大の事件は大化改新である。皇極天皇4年は大化元年である。(年号使用の始まり)
○冠位12階を19階に増やしている。このことは社会の構造が複雑化した結果、より規制する必要が生じたために機構改革に意欲を燃やしされていたと考えられる。
○また宍戸国より献上された白雉にちなんでさらに白雉と改元された。さらに班田や造籍も行われている。
○653年(白雉4年)中大兄皇子は奏上して都を大和に遷そうとしたが、天皇はこれを聞き入れなかった。しかし、皇太子は皇極上皇、間人皇后、大海人皇子らをともなって大和の飛鳥河辺行宮(あすかのかわらのかりみや)に入った。公卿、百官らはみなこれに随行した。難波長柄豊碕に宮が落ち着くにはかなりの時間と労力が払われ、その間、行宮を転々としたため、前年完成したばかりの宮を天皇は簡単に放棄しようとはしなかった。皇太子の独走に業を煮やした天皇は、恨みを込めながら豊碕宮で崩御した。
天皇と宮の名⇒⇒⇒
○御陵は、大和に通ずる要衝の竹ノ内街道に沿って、最も東側の丘陵上に位置する小円墳である。うぐいすの陵とも呼ばれ、古くは石棺が見えており、海獣葡萄鏡が出土したと伝えられている。
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続5) 軽皇子(かるのみこ)とは、はたして、「文武天皇」ことか、「孝徳天皇」ことか? ◆ 孝徳天皇②
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孝徳天皇② ● 【[感動日本史]軽皇子と鎌足】・《魚拓》
《ご注意》: 以下はこの記事の抜粋・転載ですので、あしからず。
◇
(承前)鎌足が神祇伯を固辞したという『日本書紀』の記事は、そのあと、段落を変えずに、こうつづく。
「(鎌足が勤めを休んでいた)ちょうどその時、軽皇子(かるのみこ=のち孝徳天皇、このころ48歳)も脚の病で朝廷を退いていた。鎌足は以前から皇子と親しかったので、お見舞いに行った。皇子は、鎌足が『意気(こころばえ)高くすぐれ、容止(立ち居振る舞い)犯(おか)しがたきこと』を知っておられたので、鎌足に対してきわめて丁重なおもてなしをされた。帰りぎわに鎌足は、皇子の従者に、望外のおもてなしを受けた感謝の言葉とともに、『皇子が天下の王となられることに、誰が逆らえようか』と言った。それを従者から伝え聞かれた皇子は大変よろこばれた」。
私はここでも、アレッと、読みとどまってしまう。
往々にして歴史の本には、こう説明されているからである。
「鎌足は事を共にする人物を皇族の中に求め、まず軽皇子に当たったが、さほどの人物ではないと見て、中大兄皇子に白羽の矢を立てた」と。
しかし「書紀」の文章は上記のとおりで、軽皇子の人物が鎌足にとってはもの足らなかったなどと、どこにも書いてない。天皇として不足なしと書かれているのみである。それではどうして、「軽皇子は気に入らなかったので、中大兄皇子にした」などという説が出てきたのだろうか。その理由は、先を読み進むとわかる。
「書紀」の文章はここまでが第一段落になっていて、次の第二段落は改行して始まる。ここで鎌足の人物像が短く描写される。
「(鎌足は)人となり忠正にして匡済(きょうさい)のこころあり」(まごころのある正しい人で、乱れを正し救済しようとするこころがあった)。
「そのため蘇我入鹿が君臣長幼の序を破り、国家を我が物にする野望を抱いていることを憤って、王の一族の人々に接しては次々と試し、ともに事を起こす君主を探し、中大兄にこころを寄せた」というのである。
第二段落はまだつづくが、ここで一休みする。アレッと思うからである。
というのは最初からここまで読んで気づくことは、第二段落がまるでストーリーの冒頭部分のような書き方になっていることである。特に簡潔な人物像の描写が、冒頭部分の雰囲気なのである。
「書紀」は歴代天皇記の体裁をとっているが、おのおのの天皇の冒頭の書き方には一定のパターンがある。まずその天皇の祖父母・父母などの系図(出自)を書き、つぎにその人物像を簡潔に書くことが多い。
例えば仁徳天皇は「幼くして聡明叡智にして、貌容(ぼうよう)美麗にまします。壮に及びて(成年に達してからは)、仁寛慈恵(思いやりがあり、情け深い)にまします」。
それに対して悪名高い武烈天皇は「刑理(刑罰の理非の判定)を好み、法令、明らけく(法令に通じ)」はいいが、「諸悪をいたし一善をもおさめたまわず。およそもろもろの酷刑、親覧したまわずということなし」(悪事ばかりで善いことはひとつもなさらなかった。残酷な刑はすべて自分でご覧になった)とさんざんである。
というわけで、鎌足の人物描写があることで、物語の始まりのような雰囲気になっている。
つまり、入鹿暗殺の物語は、もともと第二段落の鎌足人物寸評から始まっていたのに、あとから第一段落を追加したのではないか、と私は思う。
「書紀」の編者は、思えば鎌足が反蘇我の態度を示したのは、あの神祇伯を固辞したときが最初だったのかもしれないと、あとで考えついたのだろう。
軽皇子との経緯についても同様に、軽皇子の即位(孝徳天皇)は、早くから鎌足の胸中にあった案だったのではないかと、あとで思いついたのだろう。そしてそれらを冒頭に付け足したのではないか。
その結果、軽皇子の病気見舞いの話しのあと、「(鎌足は)王の一族の人々に接しては次々と試し、ともに事を起こす君主を探し、中大兄にこころを寄せた」とつづくことになり、読者はそのふたつの話を一緒くたにしてしまい、つぎつぎと王族に会ったなかに軽皇子もいたが、結局、中大兄皇子に決めたんだな、と誤解してしまったのである。
鎌足が、軽皇子の人がらを低く評価したなどと読み誤っては、おふたりに対して失礼であろう。(つづく)
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(899) 『「和風諡号一覧」で和風諡号に 天□□ を持つ「皇極・孝徳・斉明・天智・天武」5代が「プロト大和朝廷」』 2012年2月20日(月)
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〔2010年7月11日(日)〕
の中で、
『 私の「皇極・孝徳・斉明・天智・天武」の和風諡号に 天□□ を持つ5代が九州王朝倭国の分家・弟王家の出身であり、大和王朝「日本国」の前身ということだが、「伊勢王」が「皇極、孝徳、斉明」の1人3役ということからして、「伊勢王・天智・天武」の3代が 、本来の 「プロト大和朝廷」 ということになる。
和風諡号に天□を持つ5代の天皇とは、
㉟ 皇極 : 天豊財重日足姫 ( あまとよたからいかしひたらしひめ )
㊱ 孝徳 : 天万豊日 ( あまよろずとよひ )
㊲ 斉明 : 天豊財重日足姫 ( あまとよたからいかしひたらしひめ )
㊳ 天智 : 天命開別 ( あまみことひらかすわけ )
㊵ 天武 : 天淳中原瀛真人 ( あまのぬなはらおきのまひと ) 』
と書きましたが、より詳しい、『和風諡号一覧』について、下記を抜粋・引用させていただきます。
◆
《ご注意》: 以下はこの記事の抜粋・転載ですので、あしからず。
◇ 和風諡号一覧
《…途中略…》
漢風諡号(読み)
というように列記している。
神武(じんむ)
綏靖(すいぜい)
安寧(あんねい)
懿徳(いとく)
孝昭(こうしょう)
孝安(こうあん)
孝霊(こうれい)
孝元(こうげん)
開化(かいか)
崇神(すじん)
垂仁(すいにん)
景行(けいこう)
成務(せいむ)
仲哀(ちゅうあい)
応神(おうじん)
仁徳(にんとく)
履中(りちゅう)
反正(はんぜい)
允恭(いんぎょう)
安康(あんこう)
雄略(ゆうりゃく)
清寧(せいねい)
顕宗(けんぞう)
仁賢(にんけん)
武烈(ぶれつ)
継体(けいたい)
安閑(あんかん)
宣化(せんか)
欽明(きんめい)
敏達(びたつ)
用明(ようめい)
崇峻(すしゅん)
推古(すいこ)
(ここまで「古事記」「日本書紀」)
――――――――――――――――
(これより「日本書紀」)
舒明(じょめい)
皇極(こうぎょく)
孝徳(こうとく)
斉明(さいめい 皇極天皇重詐)
天智(てんち)
天武(てんむ)
持統
(ここまで「日本書紀」)
――――――――――――――――
(以下は「続日本紀」)
文武
元明
元正
聖武
光仁
桓武
平城
淳和
■
(900) 『難波の近くのここにも有った「芳野町・神崎川」…、なんでー? ひょっとして…』 2012年2月20日(月)
■
先に、
で、次のように紹介しました。
◇◆◇◆◇◆
わたしの
【 『 大和朝廷「日本国」出生秘話 』
説に、重大な影響を及ぼしかねない投稿記事があったので、ご紹介します。
何故かと言うと、詳しくは追って書きますが、投稿記事の途中に、
『「灘波浦」は神崎川の河口、現在の豊中市から尼崎市域にかけての当時の海岸部にあるとされています。
中世の尼崎の史料に「灘波」地名が記載されており、現在も尼崎市に
また、この地域は中世の淀川から瀬戸内海につながる海運の拠点で、たくさんの港湾遺構が見つかっています。』
とあるからです。
若し、ここに、九州王朝「倭国」の「灘波副都」があったとすれば…、
● 「大宰府」から「葦屋駅」の次の「灘波副都」が終点だったと考えられ、『(続)古代の道:木下良監修・武部健一著』p64で言う、山陽道が “唯一の大路” であったことも、頷けるわけですし、
● 「秦国」が今の奈良県「飛鳥」にあったとすれば、 “淀川をはさんで、対峙できた” わけです。
ただ、当面は「灘波副都」を偲ばせる遺構は、残念ながら、見つかっていない模様ですが…。
◇◆◇◆◇◆
難波の近くのここにも有った「芳野町・神崎川」…、なんでー? ひょっとして…
◇
大阪城の南、すぐの、
◇
私的に言うならば、
◇
「山陽大路」が、倭国の首都の九州大宰府「倭京」から、「難波副都」を結ぶ、当時の「ハイウエー」だったとしたら、終点の「難波副都」が、淀川をはさんだ対岸の大阪城南の「難波宮跡」というのは確かに訝(いぶか)しいではないか。
◇
「山陽大路」は現在の「2国」沿いにほとんど変わっていないと、『(続)古代の道:武部健一著』には書かれている。
だとすれば、この「2国」の「難波交差点」、以北が「難波」のようなので、
◇
若し、ここが倭国の「難波副都」の所在地だったとしたら、奈良の飛鳥にあっただろう「秦国」の「津に臨みて…」の港が大和川の河口付近に有ったとして、淀川を挟んで対峙でき、充分に頷(うなず)ける話である。
◇
また、天智が「難波副都」から「近江遷都」した先が、奈良の飛鳥でなく、淀川を遡上した先の、
◇
【「和風諡号一覧」で和風諡号に 天□□ を持つ「皇極・孝徳・斉明・天智・天武」5代が「プロト大和朝廷」】
この和風諡号に、「 天□□ 」
◇
【(265) 『新羅本紀「阿麻来服」と倭皇天智帝:西井健一郎氏』 2010年11月8日(月)】
この新羅本紀「阿麻来服」の「 阿麻 」とは誰か?
◇
この和風諡号に「 天□□ 」、「阿麻来服」の「 阿麻 」、尼崎市の「 尼 」は、何か関連が有るのではないでしょうか?
私一人の “独りよがり” でしょうか?…はて・さて。。。。
■
(908) 『「西郷隆盛は明治天皇すり替え事件を知っていた」 ⇒ 知らないで、明治維新はできなかったでしょうね』 2012年2月23日(木)
■
知らないで、明治維新はできなかったでしょうね。すこーし内容が違いますね。そもそも、錦の御旗も、「宮さん・宮さん」の歌も西郷が田布施に居た時作ったと聞いているが…
《ご注意》: 以下はこの記事の抜粋・転載ですので、あしからずご了承ください。
◇
『西郷隆盛は明治天皇すり替え事件を知っていた』
太田(龍)
薩摩の西郷隆盛は日本の侍の典型ともいえる存在です。
たびたびフリーメーソンから誘われますが、西郷さんはそれを拒否します。
西郷さんは孝明天皇弑逆事件の前後についても、フリーメーソンの謀略であるということを知っていたのです。
もちろん大室寅之祐のすり替えの真相も知っていました。したがって西郷さんが政権を握ればそういう秘密が全部、日本国民に開示されてしまいます。
だから西郷さんはなにも言わないで死んだけれど、沈黙して世を去った陰で明らかになっていないそうした心情というものは日本人に伝わっていて、それはいまでもつづいているのではないでしょうか。
船井(幸雄)
そうした秘密が封印されているし、それを日本人が胸中で感じるのでしょうね。だから、西郷さんは国民に人気があるのでしょうね。
太田(龍)
西郷さんの出発点は島津斉彬(1809~58)に見出されたことにあります。
島津斉彬は50歳前で病気のため急死してしまいます。それは日本にとって致命的な損害というか損失でした。
薩摩は代々、朝廷との関係が深かったのです。朝廷と武家が一致して強力に体制を立て直して、西洋の侵略に立ち向かわなければならないという姿勢をとりました。
この偉大な島津斉彬に見出されて、西郷さんは側用人になったのです。ところが、斉彬は病死してしまいます。これは日本にとって最大の損失といわれています。
内村鑑三は西郷隆盛を「代表的日本人」としていますが、まさしく西郷さんは代表的日本人です。
■
『西郷隆盛はイルミナティから危険視されていた』
太田(龍)
西郷軍のなかには西洋のことをよく知っている人が何人もいたのです。
それで西南戦争に動員された政府の軍隊の規模は莫大なものでした。莫大な西洋式軍隊をつくった資金はサッスーン財閥を通じて、東京の政権に対してあらゆる援助を与えたのです。
鹿児島ではこのような事情が、意識的か無意識的かは別として何らかの形で浸透しているのではないでしょうか。いまでも西郷さんは代表的薩摩人、鹿児島人であり、大久保利通のほうはまったく振り向きもされず、問題外なのです。
しかし、長州と大久保一派がっくった歴史ではまったく逆になっています。「征韓論」論争がそれです。明治6年(1873年)に西郷が韓国を征服するという「征韓論」が出てきて、まず国内を固めることが先だという大久保一派と論争をして、西郷のほうが敗れたという具合に、今でも教科書に書かれています。日本人はそういうふうに教えられていますが事実はそうではありません。
大久保と木戸と岩倉などが欧米を回覧してきた「岩倉使節団」が同年(1873年)9月に帰国した後、西郷の征韓論を批判しました。
なぜ大久保と木戸の一派が強硬に西郷を韓国に派遣することを阻止したかというと、単に彼らの考えではなく、背後に英国・フリーメーソンの支配と指示があったからなのです。
つまり、フリーメーソン・イルミナティの東アジアに対する基本的政策は、数百年来、中国と日本と韓国の3つの国を、絶対団結させてはならないという基本方針があったからなのです。
これはいまに至るまで変更されていません。西洋に対して、この3カ国をそれぞれ分裂させてお互いに争わせ、殺し合いさせ、憎しみを掻き立てる、そういうふうに分断するというのが基本方針です。
この方針を知っていた西郷隆盛は、「自分は韓国に行ってよく話し合って、一緒に西洋と戦おう」と言いに行こうとしたのです。
それができたら次は北京に行って、清国の政府とも話し合いたいと公言しています。
そんなことは絶対許さないはずです。フリーメーソン・イルミナティからすれば、西郷隆盛はその当時におけるアジアのもっとも危険な人物だったのです。
■
【日本人が知らない「人類支配者」の正体:船井幸雄 太田龍(ビジネス社2007年10月刊)
『イルミナティに徹底利用された長州藩の正体』】
《ご注意》: 以下はこの記事の抜粋・転載ですので、あしからずご了承ください。
◇
船井(幸雄)
少し話が脱線しますが、岸信介や安倍晋太郎・晋三が出た土地は、大室寅之祐(=すげ替えられた明治天皇)が出たというあたりとほとんど同じところだといわれています。
伊藤博文などもその辺に近い出身の人です。岸・佐藤栄作、安倍系の政治家についてはそのことも知っておく必要があります。
太田(龍)
大室寅之祐は今の山口県・田布施町という所の出身です。
田布施町の周辺から実際、首相が何人も出ています。これは単なる偶然ではありません。
最近、フリーメーソンの会員と自称している加治将一という作家が、『幕末維新の暗号』(祥伝社刊)という本を書いています。
彼は鹿島さんの『裏切られた三人の天皇』を読んで初めてこの問題に気がついたのです。そこに書かれていることを自分で調べて検証していくわけです。そうすると、明治維新というのは完全なフリーメーソン革命だということに気づくわけです。
船井(幸雄)
もうひとり、鹿島さんの友人だった松重揚江さんという人も『二人で一人の明治天皇』(たま出版刊)という本を書いています。
そういうことを皆合わせると、太田さんの説はやはり正しいようだ、と思います。
太田(龍)
長州藩が幕末からいまに至るまで強固な支配体制を維持している理由は、日本の政治では非常に異質な「忍者・諜報」機関が背後にいたということだと考えられるのです。
そんな国家は日本には他に存在しませんでした。
それは英国というかヴェネチアの国家に非常によく似ているのです。国家の中心が諜報機関なのです。
そういうふうなシステムが毛利藩に継承されていきます。というのは長州をつくった毛利元就(1497~1571)は最初は小さな勢力でした。
ところが、いまの中国地方10力国を支配するような大大名にのし上がったのです。それはもっぱら諜報と謀略活動で大きくなったのです。豊臣秀吉も似ていますが、それとは違います。
そのような性質を持った毛利藩が関ヶ原の戦で負けて小藩になります。しかし諜報機関は維持されて、「忍者集団」になります。そのトップが「上忍」で、「中忍」「下忍」などのシステムができあがります。
そういうシステムこそ英国の国家、諜報機関、フリーメーソンと非常に相性がよかったと思われるのです(笑)。
そして公然と孝明天皇を弑逆して息子の睦仁天皇も殺す、それを平然と行なうわけです。しかも、すり替えして隠蔽しきるという、日本のなかでは異質な手段を用います。
そういうところでは、薩摩は長州の敵ではありません。
グラバーの世話で長州の伊藤博文以下5人がロンドンに留学します。
しかも、長州の諜報機関、忍者集団出身の権力中枢の連中は、薩摩を蹴落とすために分裂させるわけです。
大久保利通(1830~78)と西郷隆盛(1827~77)を分裂させて、西郷派を一掃すると、薩摩の勢力は半分くらいなくなってしまいました。
さらにその次は、大久保利通を消してしまうのです。大久保を暗殺したのは島田一郎という加賀藩の人物でしたが、その動きは長州側が察知していて、彼を泳がせて大久保を暗殺させました。
だからその主犯は木戸孝允と伊藤博文なのです。これは鹿島さんが書いています。
そういう諜報と謀略能力は、長州のほうが日本の他の藩とか勢力に比べて段違いに勝っていたのです。
しかし、そういう諜報能力と謀略の力は英国のフリーメーソン、イルミナティのレペルと比べるとはるかに劣っているので立ち行かなくなってしまいます。
■
(909) 『即位名:高市天皇は「傍証」として、【或本はいう、ヒロヌカ天皇を呼んで、高市(タケチ)天皇とした】とある』 2012年2月24日(金)
■
先の
Ⅶ・⑤『「高市天皇」暗殺が、「乙巳の変」のモデルになっている』
で、
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このとき、 ( X
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と当て嵌め解明してみましたが、もしこれが的を得たものならば、
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となり、『書紀』の「乙巳の変」での「蘇我氏」とは、九州王朝「倭国」の太宰府朝系の王族を表わしていると言えよう。
なお、高市皇子の即位名:高市天皇であるが、あくまでも「傍証」としてだが、
『日本書紀』皇極紀には、
『皇極2年(643年)9月6日、オキナガタラシヒヒロヌカ〔舒明〕天皇を押坂の陵に葬った。
「ヒロヌカ天皇が、高市(タケチ)天皇だ。」という意味ではなく、「高市(タケチ)天皇」という固有の天皇が居たという意味の「傍証」としたい。
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