大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 059 》
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ
白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、
日本書紀の〔 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権
2010年 4月 2日 発行
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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ https://waikoku.sakura.ne.jp/yamato.html 2:32 PM Apr 2nd webから ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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(920) 『自分なりに、『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』を、訳してみることにした。はて・さて…』 2012年3月3日(土)
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『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』
《大唐国の右威衛将軍で、上柱国の故人「祢公」の墓誌銘文、并(なら)びに、その序文について》
◇
● 公諱軍,字温,熊津嵎夷人也。其先與華同祖,永嘉末,避亂適東,因遂家焉。
■ 公諱軍,字溫,熊津嵎夷人也。其先與華同祖,永嘉末,避亂適東,因遂家焉。
《「(祢)公」は、その諱(いみな)を「軍」、字(あざな)を「温」という。
◇
● 若夫巍巍鯨山,跨清丘以東峙;熊水,臨丹渚以南流。
■ 若夫巍巍鯨山,跨青丘以東峙;熊水,臨丹渚以南流。
《若(そこで)、夫(そ)れ巍巍(ギギ:高大な・高位な)たる鯨山(大きな山:百済の旧地名か?)、跨(コ:また)ぐ清丘(静かな丘・平らかな丘:百済の旧地名か?)を以って、東に峙(そびえ立つ)。
◆【白村江の戦いの概要は、百済を滅ぼした唐の水軍基地は、錦江(きんこう)という河の上流の熊津(ゆうしん)にある。白村江とは、その錦江の海に注ぐ河口の古名である。】・《魚拓》
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● 浸烟雲以樆英,降之于蕩沃;照日月而榳惁,秀之于蔽虧,霊文逸文,高前芳于七子;
汗馬雄武,擅後異于三韓;華構増輝,英材継響,綿圖不絶,奕代有聲。
■ 浸煙雲以檎英,降之於盪沃;照日月而榳惁,秀之於蔽虧,靈文逸文,高前芳於七子;
汗馬雄武,擅後昇於三韓;華搆増輝,英材繼響,綿圖不絕,奕代有聲。
《烟(エン:煙)雲で浸(ひたす)を以って、英(英主:すぐれた君主)を擒(キン:とら)え、蕩沃(トウヨク:百済の旧地名か?)に於(お)いて、之(これ)を降(くだ)す。
◇
● 曽祖福,祖誉,父善,皆是本藩一品,官號佐平。併緝地義以光身,佩天爵而懃國。
■ 曾祖福,祖譽,父善,皆是本藩一品,官号佐平。並絹地義以光身,佩天爵而懃國。
《曽祖父の「福」、祖父の「譽」、父の「善」、是れの皆が、本藩(=百済)の一品で、官位は佐平を号した。
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● 忠鉄石,操埒松筠。笵物者,道徳有成,則士者,文武不堅。公狼輝襲祉,鷰頷生姿。
■ 忠鐵石,操埒松筠。範物者,道有成,則士者,文武不墜。公粮輝襲祉,䴏頷生姿。
《忠は、鐵石(鉄と石のように非常に堅固なさま)に、(ボウ:ひとしい)。
◇
● 涯濬澄陂,裕光愛日,干牛斗之逸気,芒照星中;博羊角之英風,影征雲外。
■ 涯濬澄陂,裕光愛日,干牛斗之逸氣,芒照星中;搏羊角之奠風,影征雲外。
《(「祢公」の)涯(ガイ:生涯)は、濬(シュン:深)く、澄(チョウ:にごりがない)陂(ヒ:堤)のようだった。
この「牛斗」とは、
◇
● 去顕慶五年,官軍平本藩日,見機識変,杖剣知帰,似由余之出戎,如金磾子之入漢。
■ 去顯慶五年,官軍平本藩日,見機識變,杖劍知歸,似由余之出戎,如金磾之入漢。
《去る顯慶五年( 660 年)に、官(唐)軍が、本藩(百済)を平(平定)した日に、機(会)を見て、變(化)を識った。
◆【金 日磾(きん じつてい、紀元前134年 - 紀元前86年9月)は、字を翁叔と言い、前漢の匈奴族の政治家である。匈奴の休屠[1]王の太子である。漢武帝より金姓を賜る。】
◆【(nagaichi 2011/11/12 01:10)『「金磾之入漢」は、金日磾の故事を引いているのは間違いないですね。もし金日磾のような境遇だったとするなら、一度奴隷に落とされて宮中に入れられたのか、あるいは皇帝の近臣として篤実に仕えたのかどちらかだろうと思います。』】・《魚拓》
◇
● 聖上嘉嘆,擢以榮班,授右武衛滻川府折沖都尉。
■ 聖上嘉嘆,擢以榮班,授右武衛滻川府析衝都尉。
《聖上(セイジョウ:天子)が、嘆(タン:感じ入ってため息をつき)ながら、嘉(カ:ほめる)に、擢(テキ:抜擢)し、以って、榮(エイ:名誉)ある班(ハン:グループ)の「右武衛滻川府析衝都尉」に授くと。》
◇
● 于時日夲餘噍,拠扶桑以逋誅;風谷遺甿,負盤桃而阻固。
■ 于時日本餘噍,據扶桑以逋誅;風谷遺甿,負盤桃而阻固。
《「日本」の「餘噍(ヨショウ:生き残った人民)」が、「扶桑」に據(ヨ:よ)って、以って、誅(チュウ:誅罰)を逋(ホ:のがれ)んと、于(カン:さからう)時。
◇
● 萬騎亘野,與蓋馬以驚塵;千艘横波,援原虵而縦濔。
■ 萬騎亘野,与蓋馬以驚塵;千艘横波,援原虵而縱沵。
《萬(バン:万に及ぶ大量の)騎(キ:騎兵)が、野を亘(コウ:わたる)。
◇
● 以公格謨海左,亀鏡瀛東,特在簡帝,往尸招慰。公臣節而投命,歌皇華以載馳。
■ 以公格謨海左,龜鏡瀛東,特在簡帝,往尸招慰。公序臣節而投命,歌皇華以載馳。
《以(用い)られた「(祢)公」は、格(カク:ただす・うつ・阻はばむ・捕える)為の謨(ボ:はかりごと)を、海(カイ:広く大きく)左(サ:たすけ)た。
◇
● 飛汎海之蒼鷹,翥凌山之赤雀。決河眦而天呉静,鑑風隧而雲路通。
■ 飛汎海之蒼鷹,翥凌山之赤雀。決河眥而天吳靜,鑒風隧而雲路通。
《汎(広い)海を飛ぶ、之(の)「蒼鷹(ソウヨウ:白い鷹・てきびしい役人のたとえ)」、翥(ショ:飛び上がる)凌(リョウ:厚い氷)山、之(の)赤雀。
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● 驚鳧失侶,済不終夕,遂能説暢天威,喩以禍福千秋。僭帝一旦称臣,仍領大首望数十人将入朝謁,特蒙恩詔授左戎衛郎将。
■ 驚鳧失侶,濟不終夕,遂能說暢天威,喻以禍福千秋。僭帝一旦稱臣,仍領大首望數十人將入朝謁,特蒙恩詔授左戎衛郎將。
《驚(キョウ:おどろ)いた鳧(フ:カモ鳥・ケリ鳥・結末)は、侶(リョ:連れ)を失い、夕(セキ:夕暮れ)の終(わり)を不(待たずに)濟(セイ:すむ・終わる・きまりがつく)た。
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● 少選遷右領軍衛中郎将兼検校熊津都督府司馬。材光千里之足,仁副百城之心。
■ 少選遷右領軍衛中郎將兼檢校熊津都督府司馬。材光千里之足,仁副百城之心。
《(祢公は、)「少選(しばらくして)」、「右領軍衛中郎將兼檢校熊津都督府司馬」に、遷(セン:転任)した。
◇
● 挙燭霊臺,器標于芃棫;懸月神府,芳掩于桂符。衣錦昼行,富貴無革。
■ 拳燭靈臺,器標於芃棫;懸月神府,芳掩於桂符。衣錦晝行,富貴無革。
《「靈臺(たましいの存するところ・天文を見て災いを占うところ)」に、燭(ともしび)を、拳(キョ:ともす)。
◆ 【衣繍夜行(イシュウヤコウ:華やかな衣装を着て夜歩くこと。出世しても故郷に錦を飾らなければ、誰もその成功を知るものはなく、かいがないことのたとえ。)】・《魚拓》
◇
● 雚蒲夜寝,字育有方。去咸享三年十一月廿一日詔授右威衛将軍。
■ 雚蒲夜寢,字育有方。去咸亨三年十一月廿一日詔授右威衛將軍。
《「雚(カン:こうのとりx⇒おぎ=荻)蒲(ホ:がま草・ねこやなぎ)は、夜に寢むる」、「字(子を産)み、育(育て)るには、方(方法・仕方)が有(あ)る」。
◆ 《春秋左氏傳 昭公》
◇
● 局影彤闕,飾恭紫陛。亟、蒙榮晋,驟暦便繁。方謂克壮清猷,永綏多祐。
■ 局影彤闕,飾躬紫陛。除、蒙榮晉,驟歴便繁。方謂克壯清猷,永綏多祐。
《局(キョク:終わりを迎えた)影(エイ:かげ:死者の霊魂)が、彤(トウ:赤い)闕(ケツ:城門)をくぐり、躬(ク:自分自身)を飾(ショク:かざ)り、紫(むらさき色)の陛(ヘイ:階段)を上る。
◇
● 豈啚曦馳易往,霜凋馬陵之樹;川閲難留,風驚惊龍驤之水。
■ 豈啚㬢馳易往,霜凋馬陵之樹;川閱難留,風驚龍驤之水。
《豈(キ:どうして・なんぞ)。曦(ギ:太陽・日の光)・【㬢】⇒(? sunshine)を、啚(ヒ:おしむ)んで、易(安易に)、馳(チ:馳はせる)、往(ゆく)ので、豈(…であろうか)。
◇
● 以儀鳳三年歳在戊寅二月朔戊子十九日景午遘疾,薨于雍州長安県之延寿里第。
■ 以儀鳳三年歲在戊寅二月朔戊子十九日景午遘疾,薨於雍州長安縣之延壽里第。
《以儀鳳三年(678年)歲(在戊寅)二月朔戊子十九日、景(ケイ:ありさま・ようす)が、午(ゴ:昼)に、疾(シツ:病気)に、遘(コウ:あう・出くわす)して、
◇
● 春秋六十有六
■ 春秋六十有六
《「春秋(シュンジュウ:年齢)」は、六十有六(66歳)だった。》
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◇
■ 皇情念功惟舊傷悼者久之贈絹布三百段粟三百升葬
《皇(コウ:天子)は、舊(キュウ:古き、なじみの交わり)に、「傷悼者(ショウトウシャ:痛み悲しむもの)」の功(コウ:てがら)を、惟(イ:よく考え)て、情(ジョウ:あわれみ)に、念(ネン:思)い、「絹布三百段」「粟三百升」〈久之(無意味)〉贈(おく)って葬(ソウ:とむらう)た。》
◇
■ 事所須並令官給仍使弘文舘學士兼檢校本衛長史王行本監護惟公雅識
《事(コト:できごと)の所(ショ:場所)で、須(ス:すべから)く、「並令官」を給(キュウ:たま)うべし。仍(ジョウ:よ)って、「弘文舘學士」兼「檢校本衛長史王行本監護(監督保護)」に、使(シ:せし)むと。
◇
■ 淹通溫儀韶峻明珠不颣白珪無玷十步之芳蘭室欽其臭味四鄰之彩桂嶺
《淹(エン:ひたす・久しく留ま)り、通(ツウ:とお)した、溫(オン:あたたか)く、儀(ギ:正し)く、韶(ショウ:うつくし)く、峻(シュン:大きい)「明珠(メイシュ:すぐれた人」が、「白珪無玷(テン:傷)」を、「不
◆ 【コーヒーを入れる?淹れる?煎れる?点れる?】・《魚拓》
◇
■ 尚其英華奄墜扶搖之翼遽輟連舂之景粵以其年十月甲申朔二日乙酉葬
《尚(ショウ:なお)、其(そ)の「英華(エイカ:名誉)」は、奄(エン:たちまち)墜(ツイ:衰える)。
◇
■ 於雍州乾封縣之高陽里礼也駟馬悲鳴九原長往月輪夕駕星精夜上日落
《「雍州乾封縣之高陽里」に於(お)いて、
◇
■ 山子草色寒風度原子松聲響陟文榭子可通随武山予安仰愴清風之歇滅
《
。》
◇
■ 樹芳名於壽像其詞曰
《
。》
◇
■ 冑胤青丘芳基華麗脈遠遐邈會逢時濟茂族淳秀奕葉相繼獻款夙彰隆恩
《
。》
◇
■ 無替其一惟公苗裔桂馥蘭芬緒榮七貴乃子傳孫流芳後代播美來昆奠聲雖
《
。》
◇
■ 歇令範猶存其二牖箭驚秋隟駒遄暮名將日遠隨年故慘松吟於夜風悲薤
《
。》
◇
■ 哥於朝露靈轜予遽轉嘶驂予跼顧嗟陵谷之貿遷覬音徽之靡蠹其三
《
。》
■
(921) 『要するに、『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』は、『古事記』序文を、相互に補完していると分かる』 2012年3月4日(日)
■
◆【自分なりに、『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』を、訳してみることにした。はて・さて…】
『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』の中の『照日月而
分かる人いますかね?
●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan
●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan
朝日の訳
⇒ この記事、今見ると、「公開期間を終了した可能性があります。」だってさ。
は有料みたいだし、他に無かったので、
◆【自分なりに、『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』を、訳してみることにした。】
訳しながら思ったのだが…
◆【自分なりに、『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』を、訳してみることにした。】
『僭帝は、「一旦(イッタン:ある日)」臣(シン:君主に仕える人・臣下)を稱した。』
で、この僭帝とは、状況からも、古賀達也氏のおっしゃるとおりに、やはり、倭王・薩夜麻のようだ。
◆【(814)『「日本書紀」七二〇年編纂完了後、唐朝では国史編纂資料中から、倭国史五十四年分が抜き取られたのである』2011年10月22日(土)】
で、推論の、いわゆる倭国の欠史時代が、こんな『墓誌』といった形で表面化してきたわけで…実に、貴重な史料ですね。
この中の、
《烟(エン:煙)雲で浸(ひたす)を以って、英(英主:すぐれた君主)を擒(キン:とら)え、蕩沃(トウヨク:百済の旧地名か?)に於(お)いて、之(これ)を降(くだ)す。》
って、倭王・薩夜麻の捕縛状況とも思えるのだが…、
◆「拓本」
本来の『壬申の乱』とは、どういったものだったのか、を実に彷彿とさせるものと言える。
◇
再度いう、王連龍副教授「百済人《禰軍墓誌》考論」での『墓誌』の和訳・解読の結果は、これまで縷々述べてきた事の以下が、やはり、一番“真っ当な”のようだ。
◇
墓誌の『浸煙雲以樆英,降之於蕩沃』⇒これを《煙雲で浸(ひたす)を以って、英(英主:すぐれた君主)を擒(キン:とら)え、蕩沃(トウヨク:百済の旧地名か?)に於(お)いて、之(これ)を降(くだ)す。》と訳したが、拓本は『擒(キン:とら)え』ではなく、飽く迄、樆(キン)の林檎(りんご)なのだ。
「榳惁」の次に、困ったのが、この樆(キン)である。拓本のコピーを拡大して、じっくり見ても、やはりこの木偏の樆(キン:りんご)なのだ。
更に、この「榳惁」の言葉の意味が、有り難や、ネットを駆使して、
●「榳」 ⇒ 㯪榳 ⇒ 㯪 ⇒ 異体字 ⇒ 櫺(レイ:レンジ・窓につけた格子) ⇒ (≒牢屋の格子の中)
●「惁」 ⇒ 忧愁(心配事)・ 恭敬(恭うやうやしいです) ⇒ YELL ⇒ 叫び声
即ち、「榳惁」とは、「牢屋の格子の中からの叫び声」となる。
◇
上記のように、「榳惁」とは、「牢屋の格子の中からの叫び声」だとすると、
◆【(nagaichi 2011/11/12 01:10)】
と、おっしゃるように、将に、
この墓誌は、
【「大唐故右威衛將軍上柱國祢公」自身の百済亡国からの苦節・その後の唐での栄光】と、
同じ境遇の
【「金 日磾」の“故事”】に、重ね合わせて、書き込まれているとわかります。
◇
この故人「祢公」墓誌の取り上げてる時間・期間はというと、故人の遠い先祖が、
①『永嘉末,避亂適東』
②『去顯慶五年,官軍平本藩日,見機識變』
即ち、百済が滅亡した 《去る顯慶五年( 660 年)に、官(唐)軍が、本藩(百済)を平(平定)した日に、機(会)を見て、變(化)を識った。》 を経て、
この墓誌に年次の記載は無いが、662年(壬戌)白鳳2年の『洲柔・白村江戦』での出来事と、私は思っているが…、
③『浸煙雲以檎英,降之於盪沃;照日月而榳惁』
《烟(エン:煙)雲で浸(ひたす)を以って、英(英主:すぐれた君主)を擒(キン:とら)え、蕩沃(トウヨク:百済の旧地名か?)に於(お)いて、之(これ)を降(くだ)す。
更に、
④『于時日本餘噍,據扶桑以逋誅』
即ち、 《「日本」の「餘噍(ヨショウ:生き残った人民)」が、「扶桑」に據(ヨ:よ)って、以って、誅(チュウ:誅罰)を逋(ホ:のがれ)んと、于(カン:さからう)時。》 を経て、
⑤『驚鳧失侶,濟不終夕,遂能說暢天威,喻以禍福千秋。僭帝一旦稱臣』
《…途中略…、僭帝は、「一旦(イッタン:ある日)」臣(シン:君主に仕える人・臣下)を稱した。》と続く。
最後に、故人「祢公」が亡くなる
⑥『以儀鳳三年歲在戊寅二月朔戊子十九日景午遘疾,薨於雍州長安縣之延壽里第。』
即ち、 《以儀鳳三年(678年)歲(在戊寅)二月朔戊子十九日、…途中略…薨(コウ:みまかる)。》 迄が、
この墓誌の取り上げている「記載時間・期間帯」だといえよう。
特に、③・④・⑤項については、『日本書紀』を、隅々まで、いくら読んでも一言も触れられていない事件ではないだろうか、が、この墓誌には書き込まれているのだ。
この拓本になる以前のこの「墓誌」は、どんな状態で発見されたのだろうか?
だからこそ、唐国内おいても、「欠史時代」が温存されたのだろう。実に、貴重な史料である。
■
私が、想定していることは、
③『浸煙雲以檎英,降之於盪沃;照日月而榳惁』
《煙雲で浸(ひたす)を以って、英(英主:すぐれた君主)を擒(キン:とら)え、蕩沃(トウヨク:百済の旧地名か?)に於(お)いて、之(これ)を降(くだ)す。
先に、
【2011年1月14日(金)
『この
660年百済滅亡。翌白鳳元年661年、常色・白雉王(=甘木王)崩御。白鳳王(=薩夜麻・明日香皇子)即位。白鳳2
この歴史経緯の中で、柿本人麿は、[万葉歌239・240では、661年、倭王「甘木王」が狩りの途中で事故死の悲劇を、万葉歌199・200・201では、即位もそそくさに出征の白鳳2
即ち、白鳳2
■
④『于時日本餘噍,據扶桑以逋誅』
即ち、 《「日本」の「餘噍(ヨショウ:生き残った人民)=残党」が、「扶桑」に據(ヨ:よ)って、以って、誅(チュウ:誅罰)を逋(ホ:のがれ)んと、于(カン:さからう)時。》 とは、この“たったの1行”で、下記を、すべて言い尽くしていると言えようか。
先の
【2011年6月21日(火)
『洲柔戦で倭王薩夜麻が行方知れずになり、更に白村江敗戦が伝わると、長門以東を中大兄皇子が唐の占領進駐を防衛。
漸く、薩夜麻が唐の捕虜になってると分り、更に薩夜麻からの無駄な抵抗はしないようにという書簡が届くと、大宰府の降伏・開城が決まったものと考える。唐は大宰府を筑紫都督府と改名し筑紫を占領する。
666年:唐の高宗が麟徳三年正月、泰山で封禅の儀。倭王薩夜麻も参列。
667年:一方、長門以東の中大兄皇子は守備・防衛を堅くし、都を灘波副都から近江京へ遷都する。筑紫都督府の唐軍が瀬戸内海を進撃すると灘波副都では防衛できないとの判断だろう。
668年:高句麗が滅亡する。同年天智近江朝は隣国新羅へ休戦協定の使節を派遣する(新羅本紀に「阿麻(=近江朝の仮名)来服」)。
669年:唐が郭務悰他2千人を筑紫都督府へ派遣。
670年:天智天皇の近江朝が「倭国」更えて「日本」号す。
671年:天智天皇崩御。
671年:倭国白鳳王薩夜麻が唐から解放されて帰国。
672年:壬申大乱・天智近江朝滅亡・倭国再統一・筑紫小郡浄御原宮で白鳳王復位。
壬申大乱は九州王朝「倭国」の再統合戦である。
白鳳倭王薩夜麻が洲柔敗戦で行方不明。その後捕虜になってたと分り、大宰府は無血開城し、唐の占領下におかれ筑紫都督府と呼ばれた。
一方、倭国の「天下立評」で灘波副都に常駐の中大兄皇子は、唐占領軍に抵抗、近江京へ遷都、天智天皇に即位、長門以東を「日本国」として独立させた。』 であり、
【2010年11月8日(月)
【2010年7月14日(水)
■
⑤『驚鳧失侶,濟不終夕,遂能說暢天威,喻以禍福千秋。僭帝一旦稱臣』
《…途中略…、僭帝は、「一旦(イッタン:ある日)」臣(シン:君主に仕える人・臣下)を稱した。》 とは、
【2011年8月13日(土)
『解釈の要点
①「潜龍」とは田んぼの中に潜む龍の姿。未熟で若い潜龍の時、力不足。時期整わず能力発揮できない時。このような時は、逸る気持ちを抑え、隠忍し、じっと我慢して力を貯え、時期を待つ時なのです。
で分かるように、この「祢公」墓誌の「僭帝」とは(=)『古事記』序文の「濳龍」である、と言えよう。
ようするに、『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』は、『古事記』序文を、見事に、相互に、補完している、とわかります。
◇
この『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』は、『古田史学会報』no.108(2012年2月10日)号、《百済人祢軍墓誌の考察:京都市 古賀達也氏》で、遅らませながら、はじめて知った。
詳しく、その内容を知りたくなって、ネットに当然、全文の和訳があるはずだと思って探しまくりましたが…、
そこで、調べるだけ調べましたが…、やはり、ありませんでした。有り難いことに、「墓誌拓本の写し」が、
先に得てた、
ただし、水野孝夫氏の翻案は“一度”現代中国語(簡体字っていう奴ですか)に訳されているのが採用されている模様で、むしろ、「原文との正誤の判断」を必要として対比するとなると、使いづらいと思います。
一方、これに引換え、《枕流亭ブログ》の方は、原碑の拓本にかなり、忠実なようで、途中から、《枕流亭ブログ》に乗り換えました。有り難いことです。この場を借りて感謝申し上げます。@nagaichi3
古田武彦氏は、かさねがさね、“原資料に忠実にあれ”と忠告されている。
原文を忠実に、直訳し、意訳し、それをもとに、解釈しょうではないか。
『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』の私の「現代和訳」が、まったく「正確」だと言う自信は、もちろん無いが…、それでも、これを“たたき台”に、より正確な「現代和訳」が出現して欲しいものだ。
たぶん、各自が内々には「現代和訳」をなされているはずだ。
■
(922) 『『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』に出てくる「百済の旧地名」と思しきは、現・韓国のどこか』 2012年3月9日(金)
■
では、この墓誌に出てくる「百済の旧地名」と思しき下記は、現・韓国のどこに?相当するのだろうか。
◇
この墓誌の記載順に書き出したのが、下記である。
① 熊津
② 嵎夷
③ 鯨山(大きな山:百済の旧地名か?)、
④ 清丘(静かな丘・平らかな丘:百済の旧地名か?)
⑤ 熊水(韓国の現「錦江(きんこう)」の百済時代の旧名か?)
⑥ 丹渚(赤いなぎさ:百済の旧地名か?)
⑦ 於・蕩沃(トウヨク:百済の旧地名か?)、蕩(トウ:動く・大きい・広い・平らか)、沃(ヨク:水を注ぐ・地味がよく肥えている)
⑧ 「日本」
⑨ 「扶桑」
⑩ 「瀛(エイ:大海)東=日本」
⑪ 蒙(モウ:蒙古)
⑫ 馬陵
なお、特に、…於・□□…、とあるものは、以下の通りですが、今回は除外します。
● 於・七子、
◇
⑥ 「丹渚」について
『熊水,臨丹渚以南流』
…で、この「熊水」が、韓国の現「錦江(きんこう)」だとすると、
◇
⑦ 於・「蕩沃」について、
「白村江海戦」半年前には、「百済の州柔城が降伏」している。
さもなくば、今一つ、ここに『壬申大乱:古田武彦著』がある。
然し、古田武彦氏は、同書
『三国史記の「地理四、百済」の項の中に、朝鮮史関係の研究者には著名な、一地名がある。それは「倭山」である…云々、その前後を記せば、
a. 「閔中原」
…云々』とあって、
「和蹔(わざみ)が原」 ⇒ d. 「倭山」だとされている。
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⑨ 「扶桑」について、
「扶桑」
(817) 『「長門以東」とは、倭国王の直轄領地「九州」に対する、間接支配領地「長門以東」のことである』2011年11月6日(日)
で、既に、考証済みなので、今回は、その出典が、中国最古典の『山海経』によっている、とだけ書いておきましょう。
詳しくは、上記をクリックしてご参照ください。
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ところで、アカデミーは、古代の百済地名を、どのように把握しているのだろうか。
◆【『三国史記』記載の百済地名より見た 古代百済語の考察】・《魚拓》
◆【百済地名データ(百済語の基本資料となる百済地名のD/B)】
古代百済語は、むしろ発音から表記されたようだと、指摘している。
それにしても、何でこんなに、地名を変えちまったのだろう?
なんとも、不思議だー。
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