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《 大和朝廷の 「はしり」 は、 「 難波朝廷 ( なにわのみかど=九州王朝「倭国」の難波複都 )」 に始まる 》  即ち、大和朝廷「日本国」 は、九州王朝「倭国」の 【 同じ血族・分流・分家 】 である。


大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 059 》



大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕

《 大和朝廷の 「はしり」 は、ここで言う 「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」 に始まる。
  即ち、大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」【 同じ血族・分流 】 と分かった。 》



 白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、日本全国 長門以東を実効支配したが、その司令官が「両京制」・「兄弟王朝」である 倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 である。
 日本書紀の〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇はこの倭王家 〔分家の弟王家〕 の出身である。
 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権 の禅譲を受け をクーデター「プロト大化の改新」で乗っ取り、倭国連邦の解体・改組してのち成立したのが、奈良の中央集権国家・文武天皇(大宝元年:701年)の大和朝廷『日本国』である。いわば倭王家 〔分家の弟王家〕 はプロト大和朝廷である。


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2010年 4月 2日 発行




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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』


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(920) 『自分なりに、『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』を、訳してみることにした。はて・さて…』 2012年3月3日(土)




『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』

《大唐国の右威衛将軍で、上柱国の故人「祢公」の墓誌銘文、并(なら)びに、その序文について》


◇ 


● 公諱軍,字温,熊津嵎夷人也。其先與華同祖,永嘉末,避亂適東,因遂家焉。

■ 公諱軍,字溫,熊津嵎夷人也。其先與華同祖,永嘉末,避亂適東,因遂家焉。

《「(祢)公」は、その諱(いみな)を「軍」、字(あざな)を「温」という。
 (百済の)熊津、すなわち嵎夷(日の出るところ=東方)出身の人物である。
 其(そ)の先(祖)は、華(人)の與(仲間)で同祖である。
 (西晋の)永嘉年間(307-313)の末に、(戦)乱を避けて、東(百済)に適(赴く・至る)。
 因(より)て、家(家門が繁栄を成し)遂(と)げた、焉(エン:とか)。》




● 若夫巍巍鯨山,跨清丘以東峙;熊水,臨丹渚以南流。

■ 若夫巍巍鯨山,跨青丘以東峙;熊水,臨丹渚以南流。

《若(そこで)、夫(そ)れ巍巍(ギギ:高大な・高位な)たる鯨山(大きな山:百済の旧地名か?)、跨(コ:また)ぐ清丘(静かな丘・平らかな丘:百済の旧地名か?)を以って、東に峙(そびえ立つ)。
 (ビョウビョウ:水が広々として限りないさま)たる熊水(韓国の現「錦江(きんこう)」の百済時代の旧名か?)は、丹渚(赤いなぎさ:百済の旧地名か?)に、臨(のぞんで)、以って、南へ流れる。


◆【白村江の戦いの概要は、百済を滅ぼした唐の水軍基地は、錦江(きんこう)という河の上流の熊津(ゆうしん)にある。白村江とは、その錦江の海に注ぐ河口の古名である。】《魚拓》
◆【大津の宮とは、百済の熊津の宮(韓国の熊に大きいという意味ありより)であり、…】




● 浸烟雲以樆英,降之于蕩沃;照日月而榳惁,秀之于蔽虧,霊文逸文,高前芳于七子; 汗馬雄武,擅後異于三韓;華構増輝,英材継響,綿圖不絶,奕代有聲。

■ 浸煙雲以檎英,降之於盪沃;照日月而榳惁,秀之於蔽虧,靈文逸文,高前芳於七子; 汗馬雄武,擅後昇於三韓;華搆増輝,英材繼響,綿圖不絕,奕代有聲。

《烟(エン:煙)雲で浸(ひたす)を以って、英(英主:すぐれた君主)を擒(キン:とら)え、蕩沃(トウヨク:百済の旧地名か?)に於(お)いて、之(これ)を降(くだ)す。
 日・月を照(てらし)而(て) 「榳惁」(?) 「榳惁(牢屋の格子の中からの叫び声)」 。蔽虧(ヘイキ:草木が茂って日光が欠けて見えない・覆い隠)された靈文(れいぶん)逸文(いつぶん)於(おいて)も、之(これ)に秀でていた。
 前(ゼン:これまでの)七子(シチシ:同時に併称される7人の文人)於(オ:より)高く、芳(ホウ:評判がよい)。
 汗馬(汗血馬:名馬)雄武(ユウブ:おおしく強い)して、後(のち)に、三韓に於(お)いて、異(イ:異才・世間なみでない才能)を、擅(セン:独占する)。
 華(カ:立派に)搆(コウ:かまえ)て、輝(キ:かがやき)を増(ゾウ:ま)す。
 英材(エイザイ:すぐれ才能」ある人)が響(キョウ:評判)を継(ケイ:持ち続ける)して、綿(メン:連綿と連なる)圖(ト:計画・考え)は不絶(たえず)して、奕(エキ:重なる)代々に聲(セイ:名声)が有った。》




● 曽祖福,祖誉,父善,皆是本藩一品,官號佐平。併緝地義以光身,佩天爵而懃國。

■ 曾祖福,祖譽,父善,皆是本藩一品,官号佐平。並絹地義以光身,佩天爵而懃國。

《曽祖父の「福」、祖父の「譽」、父の「善」、是れの皆が、本藩(=百済)の一品で、官位は佐平を号した。
 併せて、緝地に「義」を以(も)って光身(栄誉)とし、天爵(テンシャク:生まれつき備えている徳望)を、佩(ハイ:身に帯びる)而(て)、國に懃(キン:つと)めた。》




● 忠鉄石,操埒松筠。笵物者,道徳有成,則士者,文武不堅。公狼輝襲祉,鷰頷生姿。

■ 忠鐵石,操埒松筠。範物者,道有成,則士者,文武不墜。公粮輝襲祉,䴏頷生姿。

《忠は、鐵石(鉄と石のように非常に堅固なさま)に、(ボウ:ひとしい)。
 (節)操(みさお)は、松筠(イン:たけ)の緑に埒(ラチ:ひとし)く変わらない。
 範(ハン:手本)になる物者(は)、道(人として踏まなければならないとされる行動の筋道)に徳(りっぱな行いや品性)が有れば成る。
 則(ソク:法律)士(シ:官吏)者(は)、文武(学問の道と武芸の道)に墜(ツイ:だめにな)っては、不(フ:ならない)。
 公(コウ:おおやけ)の粮(リョウ:食糧・租税・兵糧)は、祉(シ:福祉)に襲(シュウ:かさねる)て、輝(キ:光り輝く)。
 䴏(エン:つばめ・酒宴)は、生(セイ:うまれたまんま)の姿(シ:すがた)に、頷(ガン:うなづき承知の意を示す)。》




● 涯濬澄陂,裕光愛日,干牛斗之逸気,芒照星中;博羊角之英風,影征雲外。

■ 涯濬澄陂,裕光愛日,干牛斗之逸氣,芒照星中;搏羊角之奠風,影征雲外。

《(「祢公」の)涯(ガイ:生涯)は、濬(シュン:深)く、澄(チョウ:にごりがない)陂(ヒ:堤)のようだった。
 裕(ユウ:ゆたか)な光と、日を愛(いつくし)み、干(カン:えと)で、(二十八宿の)「牛・斗」之(シ:の)「逸氣(世俗を離れた、すぐれた気性)」だった。
 芒(ボウ:光)照(ショウ:かがやく)星(セイ:ほし)が、中(チュウ:満ちる)時に、
 羊の角を搏(ハク:捕え)て、之(シ:これ)を奠(テン:供え物として祭る)風(フウ:ならわし)をして、
 影(かげ:死者の霊魂)が「雲外(空のはるか遠い所)」へ征(セイ:旅立ち行く)。》


 この「牛斗」とは、
◆ 二十八宿【ニジュウハッシュク】の中の 斗(と)(ひきつぼし)・牛(ぎゅう)(いなみぼし)。】




● 去顕慶五年,官軍平本藩日,見機識変,杖剣知帰,似由余之出戎,如金磾子之入漢。

■ 去顯慶五年,官軍平本藩日,見機識變,杖劍知歸,似由余之出戎,如金磾之入漢。

《去る顯慶五年( 660 年)に、官(唐)軍が、本藩(百済)を平(平定)した日に、機(会)を見て、變(化)を識った。
 (兵士が)劍を杖(つえ)につきながら歸って来るを知り、余(残り)之(の)戎(ジュウ:兵士)も出て行った、由(…とのこと)似(らしい)。
 『金(日)磾(テイ:染料に使う黒い石)之漢へ入る故事』如(…のようだ)。》


◆【金 日磾(きん じつてい、紀元前134年 - 紀元前86年9月)は、字を翁叔と言い、前漢の匈奴族の政治家である。匈奴の休屠[1]王の太子である。漢武帝より金姓を賜る。】

◆【(nagaichi 2011/11/12 01:10)『「金磾之入漢」は、金日磾の故事を引いているのは間違いないですね。もし金日磾のような境遇だったとするなら、一度奴隷に落とされて宮中に入れられたのか、あるいは皇帝の近臣として篤実に仕えたのかどちらかだろうと思います。』】《魚拓》




● 聖上嘉嘆,擢以榮班,授右武衛滻川府折沖都尉。

■ 聖上嘉嘆,擢以榮班,授右武衛滻川府析衝都尉。

《聖上(セイジョウ:天子)が、嘆(タン:感じ入ってため息をつき)ながら、嘉(カ:ほめる)に、擢(テキ:抜擢)し、以って、榮(エイ:名誉)ある班(ハン:グループ)の「右武衛滻川府析衝都尉」に授くと。》




● 于時日夲餘噍,拠扶桑以逋誅;風谷遺甿,負盤桃而阻固。

■ 于時日本餘噍,據扶桑以逋誅;風谷遺甿,負盤桃而阻固。 

《「日本」の「餘噍(ヨショウ:生き残った人民)」が、「扶桑」に據(ヨ:よ)って、以って、誅(チュウ:誅罰)を逋(ホ:のがれ)んと、于(カン:さからう)時。
 谷(コク:困窮する)遺(イ:置き去りにされ)た、甿(ボウ:無知な農民)の風(フウ:うわさ)があるが、盤拠(バンキョ:しっかりと動かずに、よりどころにしている)、而(ジ:そして)、阻(ソ:阻む・険しい)固(コ:要害)を、負(フ:頼みとして従わないでいる)。》


◆【扶桑】




● 萬騎亘野,與蓋馬以驚塵;千艘横波,援原虵而縦濔。

■ 萬騎亘野,与蓋馬以驚塵;千艘横波,援原虵而縱沵。

《萬(バン:万に及ぶ大量の)騎(キ:騎兵)が、野を亘(コウ:わたる)。
 与(ヨ:一緒に)、驚(キョウ:おどろく)ほどの塵(ジン:ちりほこり)で以って、馬を蓋(ガイ:おおう)。
 千(セン:千に及ぶ多量の)艘(そう:船)が、波を横ぎる。
 原虵(虵=蛇ノ異体字:へび、をろちx⇒現地?)を援(エン:たすける)。
 而(すなわち)、沵(デイ:なんじ・汝・你・尓・沵mǐ・爾・濔?)を、縱(ジュウ:つかわす)。》




● 以公格謨海左,亀鏡瀛東,特在簡帝,往尸招慰。公臣節而投命,歌皇華以載馳。

■ 以公格謨海左,龜鏡瀛東,特在簡帝,往尸招慰。公序臣節而投命,歌皇華以載馳。

《以(用い)られた「(祢)公」は、格(カク:ただす・うつ・阻はばむ・捕える)為の謨(ボ:はかりごと)を、海(カイ:広く大きく)左(サ:たすけ)た。
 「龜鏡(キキョウ:手本・模範)」は、「瀛(エイ:大海)東=日本」に、特(トク:独り)在(ザイ:居る)「簡帝」であり、往(オウ:死んであの世に行った)尸(シ:しかばね)が、「招慰(ショウイ:よんでなぐさめる)」。
 「(祢)公は、「臣節(臣下として守るべき節操)」に(ジュン:従う)、而(そうして)、命を投(トウ:投げ出す)。
 「歌皇」の華(カ:花)で、以って、載(サイ:のせ)て、馳(チ:走る)。》




● 飛汎海之蒼鷹,翥凌山之赤雀。決河眦而天呉静,鑑風隧而雲路通。

■ 飛汎海之蒼鷹,翥凌山之赤雀。決河眥而天吳靜,鑒風隧而雲路通。

《汎(広い)海を飛ぶ、之(の)「蒼鷹(ソウヨウ:白い鷹・てきびしい役人のたとえ)」、翥(ショ:飛び上がる)凌(リョウ:厚い氷)山、之(の)赤雀。
 「決河(川の水がつつみを切って流れ出るさま)」の眥(シ:まぶた・まなじり・にらむ)、
 而そうして、天は、靜(セイ:静寂)を、吳(ゴ:くれる)。
 鑒(カン:鑑みる・見分ける)に、風の隧(ツイ:地下道・トンネル)、而そして、「雲路(雲の往来する道・仕官して栄達すること)に、通じる。》




● 驚鳧失侶,済不終夕,遂能説暢天威,喩以禍福千秋。僭帝一旦称臣,仍領大首望数十人将入朝謁,特蒙恩詔授左戎衛郎将。

■ 驚鳧失侶,濟不終夕,遂能說暢天威,喻以禍福千秋。僭帝一旦稱臣,仍領大首望數十人將入朝謁,特蒙恩詔授左戎衛郎將。

《驚(キョウ:おどろ)いた鳧(フ:カモ鳥・ケリ鳥・結末)は、侶(リョ:連れ)を失い、夕(セキ:夕暮れ)の終(わり)を不(待たずに)濟(セイ:すむ・終わる・きまりがつく)た。
 「天威(天子の威光)」が、能(ノウ:能力・よく)暢(チョウ:良く通る)ように、說(セツ:説諭)を、遂(スイ:つくす)した。
 「禍福(災難と幸福)」とは、秋(シュウ:時)を、千(カン:違える)てあるものだ(=禍福は糾える縄の如し)。として、(次の)喻(ユ:例え)を以(も)ってした。
 僭帝は、「一旦(イッタン:ある日)」臣(シン:君主に仕える人・臣下)を稱した。
 仍(ニョウ:よって)、領(リョウ:領有する)ところの「大首望」數十人の將が入朝し、謁(エツ:謁見)を求めている。
 特(トク:とりわけ働きが抜き出た)蒙(モウ:蒙古)人に恩詔を授け「左戎衛郎將」に任じた。》


◆【鳧】


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● 少選遷右領軍衛中郎将兼検校熊津都督府司馬。材光千里之足,仁副百城之心。

■ 少選遷右領軍衛中郎將兼檢校熊津都督府司馬。材光千里之足,仁副百城之心。

《(祢公は、)「少選(しばらくして)」、「右領軍衛中郎將兼檢校熊津都督府司馬」に、遷(セン:転任)した。
 (祢公の)材(ザイ:才能・資質)は、光(コウ:栄誉・名声が世に高くなる)千里(至るところ・非常に遠い所)之(の)足(ソク:歩み)となり、(さらに)、仁(ジン:仁徳)の他に、「百城(多くの城)」之(の)心(考え・思慮)が副(フク:備わ)っていた。》




● 挙燭霊臺,器標于芃棫;懸月神府,芳掩于桂符。衣錦昼行,富貴無革。

■ 拳燭靈臺,器標於芃棫;懸月神府,芳掩於桂符。衣錦晝行,富貴無革。

《「靈臺(たましいの存するところ・天文を見て災いを占うところ)」に、燭(ともしび)を、拳(キョ:ともす)。
 芃(ホウ:草の盛んに茂るさま)棫(ヨク:タラの木x⇒地域)に於いて、器(キ:うつわ・器量)と、標(品格)があった。
 懸(ケン:引っかける・遠く隔たる)月神の府(役所)、桂(かつらの木)符(フ:お守り・神仏のお守りふだ)に、於(お)いて、芳(ホウ:よいにおい)掩(エン:覆う・包む)。
 「衣錦晝行(イキンチュウコウ:立身出世して故郷に帰る栄誉のこと。「衣錦」は錦を着ることだが、裕福になって錦の衣服を着て故郷に帰る栄誉のこと。「対義語:衣繍夜行」
 「富貴(フウキ:金があって身分も高い)くて、革(カク:よろい・武具)が無いこと」。》


◆ 【衣繍夜行(イシュウヤコウ:華やかな衣装を着て夜歩くこと。出世しても故郷に錦を飾らなければ、誰もその成功を知るものはなく、かいがないことのたとえ。)】《魚拓》
◆ 【《故事・ことわざ・四字熟語》 辞典・全見出し語】




● 雚蒲夜寝,字育有方。去咸享三年十一月廿一日詔授右威衛将軍。

■ 雚蒲夜寢,字育有方。去咸亨三年十一月廿一日詔授右威衛將軍。

《「雚(カン:こうのとりx⇒おぎ=荻)蒲(ホ:がま草・ねこやなぎ)は、夜に寢むる」、「字(子を産)み、育(育て)るには、方(方法・仕方)が有(あ)る」。
 去る、咸亨三年( 672年 )十一月廿一日、詔は「右威衛將軍」を授く。》


◆ 《春秋左氏傳 昭公》
 【山林の木は、衡鹿之を守り、澤の萑蒲[かんぽ]は、舟鮫[しゅうこう]之を守り、藪の薪蒸は、虞候之を守り、海の鹽蜃は、祈望之を守る。衡鹿・舟鮫・虞候・祈望は、皆官の名なり。言うこころは、公山澤の利を專守して、民と共にせず。】
《魚拓》




● 局影彤闕,飾恭紫陛。亟、蒙榮晋,驟暦便繁。方謂克壮清猷,永綏多祐。

■ 局影彤闕,飾躬紫陛。除、蒙榮晉,驟歴便繁。方謂克壯清猷,永綏多祐。

《局(キョク:終わりを迎えた)影(エイ:かげ:死者の霊魂)が、彤(トウ:赤い)闕(ケツ:城門)をくぐり、躬(ク:自分自身)を飾(ショク:かざ)り、紫(むらさき色)の陛(ヘイ:階段)を上る。
 亟(キョク:あわただ)しく、「蒙榮晋」による、歴(レキ:寿命)の便(ビン:便り)が、驟(ジュ:にわかに)、繁(ハン:ふえ)た。
 方(ホウ:まさに)、壯(ソウ:若者)が、猷(ユウ:はかりごと)の清(清め)に克(カツ:打克つ)の謂(謂われ)のとおり、永(エイ:永)く、多くの、祐(ユウ:おかげ・助け・神仏の救い)に、綏(スイ:安ん)ずる。》




● 豈啚曦馳易往,霜凋馬陵之樹;川閲難留,風驚惊龍驤之水。

■ 豈啚㬢馳易往,霜凋馬陵之樹;川閱難留,風驚龍驤之水。 

《豈(キ:どうして・なんぞ)。曦(ギ:太陽・日の光)・【㬢】⇒(? sunshine)を、啚(ヒ:おしむ)んで、易(安易に)、馳(チ:馳はせる)、往(ゆく)ので、豈(…であろうか)。
 霜(しも)が、凋(チョウ:しおれる)て、馬(うま)陵(リョウ:みささぎ・広大な丘)之樹(立ち木)。
 川(かわ)は、閱(エツ:歳月をへる)て、留(リュウ:とどまる)ことは、難(ナン:難)しい。
 驤(ジョウ:はねあがる)之水(みず)に、驚(キョウ:おどろ)く龍(りゅう)の風(フウ:すがた・様子)である。》


◆ 【馬陵之戦い(B.C.341)】《魚拓》




● 以儀鳳三年歳在戊寅二月朔戊子十九日景午遘疾,薨于雍州長安県之延寿里第。

■ 以儀鳳三年歲在戊寅二月朔戊子十九日景午遘疾,薨於雍州長安縣之延壽里第。

《以儀鳳三年(678年)歲(在戊寅)二月朔戊子十九日、景(ケイ:ありさま・ようす)が、午(ゴ:昼)に、疾(シツ:病気)に、遘(コウ:あう・出くわす)して、
 (住所が)「雍州長安縣之延壽里」の第(ダイ:屋敷)に、於(お)いて、薨(コウ:貴人が死ぬ・みまか)った。》




● 春秋六十有六

■ 春秋六十有六  

《「春秋(シュンジュウ:年齢)」は、六十有六(66歳)だった。》




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■ 皇情念功惟舊傷悼者久之贈絹布三百段粟三百升葬

《皇(コウ:天子)は、舊(キュウ:古き、なじみの交わり)に、「傷悼者(ショウトウシャ:痛み悲しむもの)」の功(コウ:てがら)を、惟(イ:よく考え)て、情(ジョウ:あわれみ)に、念(ネン:思)い、「絹布三百段」「粟三百升」〈久之(無意味)〉贈(おく)って葬(ソウ:とむらう)た。》




■ 事所須並令官給仍使弘文舘學士兼檢校本衛長史王行本監護惟公雅識

《事(コト:できごと)の所(ショ:場所)で、須(ス:すべから)く、「並令官」を給(キュウ:たま)うべし。仍(ジョウ:よ)って、「弘文舘學士」兼「檢校本衛長史王行本監護(監督保護)」に、使(シ:せし)むと。
 惟(イ:思)うに、公(社会一般に関すること)に、雅(ガ:正しい)識(シキ:見識があった)からだろう。》


◆ 【太宗が即位してから弘文館が置かれ、天下賢良の士を選び、欧陽詢・虞世南・褚亮らが選ばれて弘文館学士の称号を与えられた。この職務を授けられることは臣下として大変名誉なことであり、彼らは政府の官僚でありながら、学士を兼ねたのである。】




■ 淹通溫儀韶峻明珠不颣白珪無玷十步之芳蘭室欽其臭味四鄰之彩桂嶺

《淹(エン:ひたす・久しく留ま)り、通(ツウ:とお)した、溫(オン:あたたか)く、儀(ギ:正し)く、韶(ショウ:うつくし)く、峻(シュン:大きい)「明珠(メイシュ:すぐれた人」が、「白珪無玷(テン:傷)」を、「不顧(コ:かえ)りみらず」。
 「十步之(距離が近い)」、「芳蘭(りっぱな人物)」は、室(シツ:家の奥にある土で塗り込めた寝室)の、其(そ)の「臭味(シュウミ:くさみ)」を、欽(キン:慎)しむ。
 四鄰(リン:となり)之(の)、彩(サイ:いろどった・美しい)、桂(ケイ:カツラ)の嶺(レイ:峰)。》


◆ 【コーヒーを入れる?淹れる?煎れる?点れる?】《魚拓》
◆ 【「白珪(=白く清らかな玉)」はもし瑕(きず)がついても、磨けばまた元の美しさに戻すことができる。しかし、人の言葉はもし一度言い放ってしまうと、いかなる手段をもってしても、もう取り返すことはできない。】《魚拓》




■ 尚其英華奄墜扶搖之翼遽輟連舂之景粵以其年十月甲申朔二日乙酉葬

《尚(ショウ:なお)、其(そ)の「英華(エイカ:名誉)」は、奄(エン:たちまち)墜(ツイ:衰える)。
 「扶搖(フヨウ:勢いよく上が)」り、之(シ:行)く、翼(ヨク:つばさ)は、遽(キョ:にわかに)輟(テツ:やめる)。
 (それは、)連(レン:引き続いて)、舂(ショウ:粟をうすでつく)之(の)景(ケイ:ありさま)だ。
 粵(エツ:ここ)に、以(も)って、其(そ)の年「十月甲申朔二日乙酉」に、葬(ソウ:とむらう)た。》




■ 於雍州乾封縣之高陽里礼也駟馬悲鳴九原長往月輪夕駕星精夜上日落

《「雍州乾封縣之高陽里」に於(お)いて、
 礼(儀式)也(…とは)、「駟馬(シバ:4頭立ての馬車)」が「悲鳴(ヒメイ:悲しんで鳴く声)と共に、
 「九原(キュウゲン:めいど)」への長い往(路)を「月輪(月のこと)」の夕(夕暮れ)に、駕(カ:乗り物)が、日の落ちた、星の精(美しく澄んだ)夜に上(のぼ)り行く。》




■ 山子草色寒風度原子松聲響陟文榭子可通随武山予安仰愴清風之歇滅

《 。》




■ 樹芳名於壽像其詞曰

《 。》




■ 冑胤青丘芳基華麗脈遠遐邈會逢時濟茂族淳秀奕葉相繼獻款夙彰隆恩

《 。》




■ 無替其一惟公苗裔桂馥蘭芬緒榮七貴乃子傳孫流芳後代播美來昆奠聲雖

《 。》




■ 歇令範猶存其二牖箭驚秋隟駒遄暮名將日遠隨年故慘松吟於夜風悲薤

《 。》




■ 哥於朝露靈轜予遽轉嘶驂予跼顧嗟陵谷之貿遷覬音徽之靡蠹其三

《 。》





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(921) 『要するに、『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』は、『古事記』序文を、相互に補完していると分かる』 2012年3月4日(日)




◆【自分なりに、『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』を、訳してみることにした。はて・さて…】


◆【(920) 『自分なりに、『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』を、訳してみることにした。はて・さて…』 2012年3月3日(土)
中々、現在でも難しいのに、1350年ばかり前の社会を想像しながら、訳すのは非常に難しい。】


 『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』の中の『照日月而
「榳惁」
(?)』とあるが、なんとも、いやはや、わからない。
 exciteで韓日でやるとバルマーBallmerとなる。…が、これも、意味が分からない。まったく、お手上げ状態です。

 分かる人いますかね?
「榳惁」(?)』⇒Ballmer・バルマー・바루마⇒正しくしますよ


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan
「榳惁」(?)』⇒Ballmer・バルマー・바루마⇒正しくしますよ。 @hotwind12


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan
『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』の中の
『照日月而「榳惁」(?)』とあるが、なんとも、いやはや、わからない。exciteで韓日でやるとバルマーBallmerとなる。これも、意味が分からない。お手上げです。わかる人いますかね? @hotwind12


 朝日の訳
◆【「日本」呼称、最古の例か 678年の墓誌?中国で発見http://www.asahi.com/culture/update/1022/TKY201110220586.html】

 ⇒ この記事、今見ると、「公開期間を終了した可能性があります。」だってさ。

 は有料みたいだし、他に無かったので、

◆【自分なりに、『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』を、訳してみることにした。】

 訳しながら思ったのだが…
【故事・ことわざ】が随所に、書き込んであるみたいなのだが、当時の中国のそれが、ピンとこない事だ。


◆【自分なりに、『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』を、訳してみることにした。】
 のだが…

『僭帝は、「一旦(イッタン:ある日)」臣(シン:君主に仕える人・臣下)を稱した。』

 で、この僭帝とは、状況からも、古賀達也氏のおっしゃるとおりに、やはり、倭王・薩夜麻のようだ。


◆【(814)『「日本書紀」七二〇年編纂完了後、唐朝では国史編纂資料中から、倭国史五十四年分が抜き取られたのである』2011年10月22日(土)】

 で、推論の、いわゆる倭国の欠史時代が、こんな『墓誌』といった形で表面化してきたわけで…実に、貴重な史料ですね。


 この中の、

《烟(エン:煙)雲で浸(ひたす)を以って、英(英主:すぐれた君主)を擒(キン:とら)え、蕩沃(トウヨク:百済の旧地名か?)に於(お)いて、之(これ)を降(くだ)す。》

って、倭王・薩夜麻の捕縛状況とも思えるのだが…、
前後は全く別になってる…、誤字もあるみたいだし…う・う・う


◆「拓本」
の写真を拡大し、原稿の記事が転記ミスか、あるいは、「拓本」自身が誤字かを、同時に、検討しながら、訳してみたわけで、出来栄えは、今一かな、まー、時間はあるわけで…追々修正を加えながらとしょう。

 本来の『壬申の乱』とは、どういったものだったのか、を実に彷彿とさせるものと言える。




 再度いう、王連龍副教授「百済人《禰軍墓誌》考論」での『墓誌』の和訳・解読の結果は、これまで縷々述べてきた事の以下が、やはり、一番“真っ当な”のようだ。


◆「近江朝遷都と、天智の列島内最初の『天皇』即位、「阿麻来服」のちの「倭国更えて『日本』号す」に象徴される「長門以東」の『独立』だ。  筑紫都督府の唐の郭務悰は倭国の占領政策に行き詰まっていた。これに対し、唐が用意した変化球が「倭王」薩夜麻の解放・帰国で復位・倭国再統合だったのだ。

 これをアレンジしたものこそが、「壬申の乱」だといえる。


 〔近江朝遷都・天智『天皇』即位・『日本』号す〕 が象徴するのは、『長門以東』が倭国から『独立』したということだ。




 墓誌の『浸煙雲以樆英,降之於蕩沃』⇒これを《煙雲で浸(ひたす)を以って、英(英主:すぐれた君主)を擒(キン:とら)え、蕩沃(トウヨク:百済の旧地名か?)に於(お)いて、之(これ)を降(くだ)す。》と訳したが、拓本は『擒(キン:とら)え』ではなく、飽く迄、樆(キン)の林檎(りんご)なのだ。


 「榳惁」の次に、困ったのが、この樆(キン)である。拓本のコピーを拡大して、じっくり見ても、やはりこの木偏の樆(キン:りんご)なのだ。
 が、そうすると、文意がいまいち、つながらないのだ。で、ひょっとして、手偏の『擒(キン:とら)え』ではないのか、故意にか、意図的にか隠したのではないかと思ったのだ。


 更に、この「榳惁」の言葉の意味が、有り難や、ネットを駆使して、
“おぼろげに”浮かび上がって来たではないか…。

●「榳」 ⇒ 㯪榳 ⇒ 㯪 ⇒ 異体字 ⇒  櫺(レイ:レンジ・窓につけた格子) ⇒ (≒牢屋の格子の中)

●「惁」 ⇒ 忧愁(心配事)・ 恭敬(恭うやうやしいです) ⇒ YELL ⇒ 叫び声

即ち、「榳惁」とは、「牢屋の格子の中からの叫び声」となる。




 上記のように、「榳惁」とは、「牢屋の格子の中からの叫び声」だとすると、

 ◆【(nagaichi 2011/11/12 01:10)】
『「金磾之入漢」は、
「金 日磾(きん じつてい)」
の故事を引いているのは間違いないですね。もし金日磾のような境遇だったとするなら、一度奴隷に落とされて宮中に入れられたのか、あるいは皇帝の近臣として篤実に仕えたのかどちらかだろうと思います。』

 と、おっしゃるように、将に、
「金 日磾(きん じつてい)」
の“故事”そのものだ、と言えますね。


 この墓誌は、

【「大唐故右威衛將軍上柱國祢公」自身の百済亡国からの苦節・その後の唐での栄光】と、

同じ境遇の
【白鳳倭王・薩夜麻の州柔(つぬ)戦での「捕縛」と「壬申の乱」での倭国再統合・復位】とを、

【「金 日磾」の“故事”】に、重ね合わせて、書き込まれているとわかります。




 この故人「祢公」墓誌の取り上げてる時間・期間はというと、故人の遠い先祖が、

①『永嘉末,避亂適東』
 即ち、 《(西晋の)永嘉年間(307-313)の末に、(戦)乱を避けて、東(百済)に適(赴く・至る)。》 から、


②『去顯慶五年,官軍平本藩日,見機識變』

 即ち、百済が滅亡した 《去る顯慶五年( 660 年)に、官(唐)軍が、本藩(百済)を平(平定)した日に、機(会)を見て、變(化)を識った。》 を経て、


 この墓誌に年次の記載は無いが、662年(壬戌)白鳳2年の『洲柔・白村江戦』での出来事と、私は思っているが…、

③『浸煙雲以檎英,降之於盪沃;照日月而榳惁』

《烟(エン:煙)雲で浸(ひたす)を以って、英(英主:すぐれた君主)を擒(キン:とら)え、蕩沃(トウヨク:百済の旧地名か?)に於(お)いて、之(これ)を降(くだ)す。
 日・月を照(てらし)而(て)、「榳惁(牢屋の格子の中からの叫び声)」》と続き、


更に、

④『于時日本餘噍,據扶桑以逋誅』

 即ち、 《「日本」の「餘噍(ヨショウ:生き残った人民)」が、「扶桑」に據(ヨ:よ)って、以って、誅(チュウ:誅罰)を逋(ホ:のがれ)んと、于(カン:さからう)時。》 を経て、


⑤『驚鳧失侶,濟不終夕,遂能說暢天威,喻以禍福千秋。僭帝一旦稱臣』

《…途中略…、僭帝は、「一旦(イッタン:ある日)」臣(シン:君主に仕える人・臣下)を稱した。》と続く。


 最後に、故人「祢公」が亡くなる

⑥『以儀鳳三年歲在戊寅二月朔戊子十九日景午遘疾,薨於雍州長安縣之延壽里第。』

 即ち、 《以儀鳳三年(678年)歲(在戊寅)二月朔戊子十九日、…途中略…薨(コウ:みまかる)。》 迄が、


 この墓誌の取り上げている「記載時間・期間帯」だといえよう。


 特に、③・④・⑤項については、『日本書紀』を、隅々まで、いくら読んでも一言も触れられていない事件ではないだろうか、が、この墓誌には書き込まれているのだ。

 この拓本になる以前のこの「墓誌」は、どんな状態で発見されたのだろうか?
 多分に、故人の遺影・遺体とともに、地中深く埋められていたのではないだろうか。

 だからこそ、唐国内おいても、「欠史時代」が温存されたのだろう。実に、貴重な史料である。




 私が、想定していることは、

③『浸煙雲以檎英,降之於盪沃;照日月而榳惁』

《煙雲で浸(ひたす)を以って、英(英主:すぐれた君主)を擒(キン:とら)え、蕩沃(トウヨク:百済の旧地名か?)に於(お)いて、之(これ)を降(くだ)す。
 日・月を照(てらし)而(て) 、「榳惁(牢屋の格子の中からの叫び声)」》 とは、


 先に、

 【2011年1月14日(金)
万葉歌239・240は661年「甘木王」事故死を、万葉歌199・200は662年洲柔戦で「明日香皇子」行方不明を歌う】

 で、

 『この
〔「倭国」・筑紫大宰府:難波副都対比年表〕
をみると、645年、唐高宗の高句麗攻撃開始に端を発した東北アジアの混乱は、常色元年647年、九州王朝「倭国」に「甘木王(=常色王)」即位。同年、新羅で「ひどんの乱」。「甘木王」は唐侵略対抗上、天下立評・複都「難波京」造発詔などの「常色の大改革」を次々断行。白雉元年652年、天下立評・「難波副都」完成・「白雉」改元儀式挙行。

 660年百済滅亡。翌白鳳元年661年、常色・白雉王(=甘木王)崩御。白鳳王(=薩夜麻・明日香皇子)即位。白鳳2 3年662 663年、百済復活の洲柔戦・白村江戦、唐が倭国白鳳王「薩夜麻・明日香皇子」を捕獲連行、と続くのだ。

 この歴史経緯の中で、柿本人麿は、[万葉歌239・240では、661年、倭王「甘木王」が狩りの途中で事故死の悲劇を、万葉歌199・200・201では、即位もそそくさに出征の白鳳2 3年662 663年、百済復活戦の洲柔戦・白村江戦で「甘木王」の皇子の「明日香皇子」が行方不明の悲劇を、この『立て続けの悲劇』が、九州王朝「倭国」を襲った〕 と歌っている。』


 即ち、白鳳2 3年662 663年、百済復活の洲柔戦・白村江戦で、唐が倭国白鳳王「薩夜麻・明日香皇子」を捕獲連行した事件の「捕獲情景」だということだ。




④『于時日本餘噍,據扶桑以逋誅』

 即ち、 《「日本」の「餘噍(ヨショウ:生き残った人民)=残党」が、「扶桑」に據(ヨ:よ)って、以って、誅(チュウ:誅罰)を逋(ホ:のがれ)んと、于(カン:さからう)時。》 とは、この“たったの1行”で、下記を、すべて言い尽くしていると言えようか。 


 先の

 【2011年6月21日(火)
『筑紫が都である倭国は、672年に近畿地方の扶桑国に滅ぼされる、云々』について、私説で検討しょう】

 で、

 『洲柔戦で倭王薩夜麻が行方知れずになり、更に白村江敗戦が伝わると、長門以東を中大兄皇子が唐の占領進駐を防衛。
 大海人皇子は九州へとって返し、薩夜麻の皇子の高市皇子と協力し九州筑紫を守備・防衛に当たったものと考える。為に、唐の百済占領軍はすぐには手出し出来なかった。

 漸く、薩夜麻が唐の捕虜になってると分り、更に薩夜麻からの無駄な抵抗はしないようにという書簡が届くと、大宰府の降伏・開城が決まったものと考える。唐は大宰府を筑紫都督府と改名し筑紫を占領する。

666年:唐の高宗が麟徳三年正月、泰山で封禅の儀。倭王薩夜麻も参列。

667年:一方、長門以東の中大兄皇子は守備・防衛を堅くし、都を灘波副都から近江京へ遷都する。筑紫都督府の唐軍が瀬戸内海を進撃すると灘波副都では防衛できないとの判断だろう。
長門以東の独立を決意し、中大兄皇子が天智天皇に即位する。

668年:高句麗が滅亡する。同年天智近江朝は隣国新羅へ休戦協定の使節を派遣する(新羅本紀に「阿麻(=近江朝の仮名)来服」)。

669年:唐が郭務悰他2千人を筑紫都督府へ派遣。

670年:天智天皇の近江朝が「倭国」更えて「日本」号す。

671年:天智天皇崩御。

671年:倭国白鳳王薩夜麻が唐から解放されて帰国。

672年:壬申大乱・天智近江朝滅亡・倭国再統一・筑紫小郡浄御原宮で白鳳王復位。

 壬申大乱は九州王朝「倭国」の再統合戦である。

 白鳳倭王薩夜麻が洲柔敗戦で行方不明。その後捕虜になってたと分り、大宰府は無血開城し、唐の占領下におかれ筑紫都督府と呼ばれた。

 一方、倭国の「天下立評」で灘波副都に常駐の中大兄皇子は、唐占領軍に抵抗、近江京へ遷都、天智天皇に即位、長門以東を「日本国」として独立させた。』 であり、


 【2010年11月8日(月)
新羅本紀「阿麻来服」と倭皇天智帝:西井健一郎氏】

 であり、


 【2010年7月14日(水)
三国史記新羅本紀文武王10年天智9年670年倭国更えて日本と号す】

 である、と言えよう。




⑤『驚鳧失侶,濟不終夕,遂能說暢天威,喻以禍福千秋。僭帝一旦稱臣』

《…途中略…、僭帝は、「一旦(イッタン:ある日)」臣(シン:君主に仕える人・臣下)を稱した。》 とは、

【2011年8月13日(土)
解読の結果『古事記』序文の内実は唐から解放・帰国の倭王・薩夜麻の「倭国再統合・倭王復位戦」である】

 での

『解釈の要点

①「潜龍」とは田んぼの中に潜む龍の姿。未熟で若い潜龍の時、力不足。時期整わず能力発揮できない時。このような時は、逸る気持ちを抑え、隠忍し、じっと我慢して力を貯え、時期を待つ時なのです。
「濳龍體元」とは、「はじめに、私は「未熟者」だった。
 ⇒ 『倭王・薩夜麻は、血気にはやり即位もそこそこに、州柔戦へ出征し、まぬけにも・まんまと捕われてしまった。』

 で分かるように、この「祢公」墓誌の「僭帝」とは(=)『古事記』序文の「濳龍」である、と言えよう。

 ようするに、『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』は、『古事記』序文を、見事に、相互に、補完している、とわかります。




 この『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』は、『古田史学会報』no.108(2012年2月10日)号、《百済人祢軍墓誌の考察:京都市 古賀達也氏》で、遅らませながら、はじめて知った。

 詳しく、その内容を知りたくなって、ネットに当然、全文の和訳があるはずだと思って探しまくりましたが…、
朝日新聞にその“ぱしり”《魚拓》
が、有るだけで、それも有料の入会料払えば、読ませてやるって、言う“感じ”じゃーないですか。


 そこで、調べるだけ調べましたが…、やはり、ありませんでした。有り難いことに、「墓誌拓本の写し」が、
【2012-01-07枕流亭ブログ ■[中国史]禰軍墓誌再び】
にあり、

 先に得てた、
《『大唐故右威衛将軍上柱国祢公墓誌銘并序』:王連竜(吉林大学古籍研究所副教授)氏「百済人祢軍墓誌論考」(「社会科学戦線」7月号発表)より、水野孝夫氏 が、翻案》
とを、対比しながら直訳をはじめました。

 ただし、水野孝夫氏の翻案は“一度”現代中国語(簡体字っていう奴ですか)に訳されているのが採用されている模様で、むしろ、「原文との正誤の判断」を必要として対比するとなると、使いづらいと思います。

 一方、これに引換え、《枕流亭ブログ》の方は、原碑の拓本にかなり、忠実なようで、途中から、《枕流亭ブログ》に乗り換えました。有り難いことです。この場を借りて感謝申し上げます。@nagaichi3  


 古田武彦氏は、かさねがさね、“原資料に忠実にあれ”と忠告されている。
 どうも、《古田史学会》のそれよりも、《枕流亭ブログ》の方が、史料の入手経路上、やむを得ないとはいえ、結果的に、原資料に忠実だというのは如何なものか…、たはッ。


 原文を忠実に、直訳し、意訳し、それをもとに、解釈しょうではないか。
 原文を知らずして、その尤もらしい解釈をするのは、如何なものだろうか。
 ましてや、偽書だとわかった『日本書紀』に照らして、短兵急に、解釈するのは止めようではないか。


 『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』の私の「現代和訳」が、まったく「正確」だと言う自信は、もちろん無いが…、それでも、これを“たたき台”に、より正確な「現代和訳」が出現して欲しいものだ。

 たぶん、各自が内々には「現代和訳」をなされているはずだ。
 ただ、この墓誌碑文が公碑でなく、私碑であるがために、その内容の正否を含め、私見のオープンを躊躇(ためら)われているのだろう。
 間違ってて良いではないか、私見のオープンに挑戦して欲しいものだ。




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(922) 『『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』に出てくる「百済の旧地名」と思しきは、現・韓国のどこか』 2012年3月9日(金)




 では、この墓誌に出てくる「百済の旧地名」と思しき下記は、現・韓国のどこに?相当するのだろうか。




この墓誌の記載順に書き出したのが、下記である。

① 熊津

② 嵎夷

③ 鯨山(大きな山:百済の旧地名か?)、

④ 清丘(静かな丘・平らかな丘:百済の旧地名か?)

⑤ 熊水(韓国の現「錦江(きんこう)」の百済時代の旧名か?)

⑥ 丹渚(赤いなぎさ:百済の旧地名か?)

⑦ 於・蕩沃(トウヨク:百済の旧地名か?)、蕩(トウ:動く・大きい・広い・平らか)、沃(ヨク:水を注ぐ・地味がよく肥えている)

⑧ 「日本」

⑨ 「扶桑」

⑩ 「瀛(エイ:大海)東=日本」

⑪ 蒙(モウ:蒙古)

⑫ 馬陵


なお、特に、…於・□□…、とあるものは、以下の通りですが、今回は除外します。

● 於・七子、
● 於・蔽虧「(ヘイキ:草木が茂って日光が欠けて見えない・覆い隠)された」
● 於・三韓
● 於・芃棫「芃(ホウ:草の盛んに茂るさま)棫(ヨク:タラの木x⇒地域)」
● 於・桂符
● 於・雍州長安縣之延壽里
● 於・雍州乾封縣之高陽里
● 於・壽像
● 於・夜風
● 於・朝露




⑥ 「丹渚」について

『熊水,臨丹渚以南流』
 ● ⇒ 《(ビョウビョウ:水が広々として限りないさま)たる熊水(韓国の現「錦江(きんこう)」の百済時代の旧名か?)は、丹渚(赤いなぎさ:百済の旧地名か?)に、臨(のぞんで)、以って、南へ流れる。》

 …で、この「熊水」が、韓国の現「錦江(きんこう)」だとすると、
丹渚(赤いなぎさ:百済の旧地名か?)とは、グーグル地図を参照するに、きっと、現在の「大韓民国、 『 芙江(プガン) 부강역 Bugang-ri 』チョンウォン郡 チュンチョン北道」、だということになる。




⑦ 於・「蕩沃」について、

「白村江海戦」半年前には、「百済の州柔城が降伏」している。
このことから、州柔陸戦のあった「州柔」そのものこそが、【蕩沃(トウヨク)】だとも考えられる。

 さもなくば、今一つ、ここに『壬申大乱:古田武彦著』がある。
そのp93の、第二章 真実の白村江・『第二「和蹔(わざみ)が原」について』の項にある【(和蹔(わざみ)が原】とは、この【蕩沃(トウヨク)】ではないのだろうか。

   然し、古田武彦氏は、同書
『壬申大乱:古田武彦著』第二章 真実の白村江・『第二「和蹔(わざみ)が原」について』《魚拓》
 の項のp97で、

『三国史記の「地理四、百済」の項の中に、朝鮮史関係の研究者には著名な、一地名がある。それは「倭山」である…云々、その前後を記せば、

a. 「閔中原」
b. 「慕本」
c. 「罽(ケイ:毛織の絨毯・うおあみ)山」は、音が似てるので、ひょっとして、上記③の「鯨山」ではないかと思っている。
《ご注意》この「罽山」は、似ているが…、「蔚山 ウルサン 울산 蔚山/金海/慶尚南道」 の「蔚」ではない。
d. 「倭山」
e. 「蚕支落」
f. 「平儒原」
g. 「狗山瀬」

…云々』とあって、

「和蹔(わざみ)が原」 ⇒ d. 「倭山」だとされている。




⑨ 「扶桑」について、

「扶桑」
については、すでに

(817) 『「長門以東」とは、倭国王の直轄領地「九州」に対する、間接支配領地「長門以東」のことである』2011年11月6日(日)

 で、既に、考証済みなので、今回は、その出典が、中国最古典の『山海経』によっている、とだけ書いておきましょう。

 詳しくは、上記をクリックしてご参照ください。




 ところで、アカデミーは、古代の百済地名を、どのように把握しているのだろうか。

◆【『三国史記』記載の百済地名より見た 古代百済語の考察】《魚拓》

◆【『三国史記』の局所的解題 地名関係】《魚拓》

◆【百済地名データ(百済語の基本資料となる百済地名のD/B)】


 古代百済語は、むしろ発音から表記されたようだと、指摘している。
 ただ、先住民の口から出た、「発声・発音」を聞いて、それをもとにして、その音に対応した漢字を充てて、地名を表示したらしいのだ。
 ということは、漢字の地名の“語義”を、判断の根拠にはできないと言う事だ。逆には、発音が同じか、あるいは、“似かよっていれば”同一地区だということになろう。

 それにしても、何でこんなに、地名を変えちまったのだろう? なんとも、不思議だー。




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