ホームへ戻る



《 大和朝廷の 「はしり」 は、 「 難波朝廷 ( なにわのみかど=九州王朝「倭国」の難波複都 )」 に始まる 》  即ち、大和朝廷「日本国」 は、九州王朝「倭国」の 【 同じ血族・分流・分家 】 である。


大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 010 》



大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕

《 大和朝廷の 「はしり」 は、ここで言う 「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」 に始まる。
  即ち、大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」【 同じ血族・分流 】 と分かった。 》



 白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、日本全国 長門以東を実効支配したが、その司令官が「両京制」・「兄弟王朝」である 倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 である。
 日本書紀の〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇はこの倭王家 〔分家の弟王家〕 の出身である。
 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権 の禅譲を受け をクーデター「プロト大化の改新」で乗っ取り、倭国連邦の解体・改組してのち成立したのが、奈良の中央集権国家・文武天皇(大宝元年:701年)の大和朝廷『日本国』である。いわば倭王家 〔分家の弟王家〕 はプロト大和朝廷である。


“とうやん”@t0_yan 「つぶやき:twitter」

Counter

2010年 4月 2日 発行




《 前 へ 戻 る 《  ( つぶやき「古代」 その010 )  》 次 へ 進 む 》


つぶやき「古代」目次 a2 へ 戻る



(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

つぶやき「古代」目次 a2 へ 戻る




(303) 『嘉瀬川が初瀬川(=泊瀬川・長谷川)というのは分かりますが、吉野川だというのは、今一納得出来ません』 2010年12月30日(木)

 jyoumonjn @tohyan 葦は護岸工事で少なくなり汽水域の生態を変えていますが・・それでも筑後(千年)川、嘉瀬(森)川の下流には生息が黙視できます。干満差が8メートルくらいあるため古代には肥前国府、又は神崎周辺までは潮が逆流した可能性もあるかと・・

 jyoumonjn 木綿と草綿に分かれるかと思いますが、塩分の含んだ土壌には先ず木綿栽培からの実績がありますが、史料的には推測を交えるしかRT @tohyan ウッソー、と言われるかもしれませんが、私は米田良三氏と同じ意見で、「木綿・木棉(もめん)ワタの種子から取れる繊維コットン(英語cotton

 前回、私が一方的にしゃべりまくって、話を終えてましたので、てっきり見限られたと思ってまして嬉しいです。『まぼろしの邪馬台国:宮崎康平著』には、宝満川・御笠川はかつて海峡であり、それが狭まったのでやむを得ず運河を築いたが「筑石」の起こりと確かありました。 RT @jyoumonjn

 大宰府南の二日市温泉掘削時のコアを見ると確か20m下はかって海底だった。筑後川沿いの浮羽は入り江を表わし、筑後川・宝満川の流域はかって内海だった。ある時期、阿蘇山の泥流が一気に崩落し、宝満川・御笠川に陸化し、又干満の激しい有明海を形成したと書かれていた。RT @jyoumonjn

 この崩落は甘木市を扇の要に扇状地が広がりを形成した。で、「私の意見は^^この扇状地こそ「邪馬台国」、更には筑紫野市「馬市」が都だった」になります。肥前国府は佐賀大和インタのすぐ南ですよね(MapFanに記入無い)ここら辺で、真東に折れ曲ったとしてです。RT @jyoumonjn

 嘉瀬川が初瀬川(=泊瀬川・長谷川)というのは分かりますが、吉野川だというのは話を蒸し返すようですが、今一納得出来ません。「古田武彦著:壬申大乱」での吉野川解釈には??です。『まぼろしの邪馬台国:宮崎康平著』には、米も当初塩分を含んだ入り江で育ったとある。RT @jyoumonjn

 『史料的には推測を交えるしか』の史料が日本書紀を言われているのなら、何をかいわんやです。著名な先人が何度もアタックし、泣いて来たわけでしょう。倭国史・秦国史を単に名前を書換えたならともかく、短冊に切刻んで34年後に貼付けたり時・場所を変えていますからね。RT @jyoumonjn

 〔しらぬひの 筑紫の綿は 身に付けて いまだは着ねど 暖けく見ゆ〕沙弥満誓でさえも『いまだは着ねど』と言っている、移築に伴い仏像の緩衝材に高価な綿が使用されたか。RT @jyoumonjn 史料的にはの件は考古学的、文献的に残らない史実も多いにありうると推測されるという意味です。

 吉野ヶ里から三瀬にかけて、綿の花粉とか、種子が遺跡から発見されると良いのですが、この一帯の甕棺出土は実に特殊です。米田良三氏の言う「吉野ヶ里が倭王墓だった」説は、王族が揚子江中流域の出身・移民と言うことになり、日本のお米の遺伝子・酔っ払いとかの起因です。RT @jyoumonjn

 書紀が当てにならないとなると、
〔日本人の源流を探して〕第3部・弥生文化と渡来人の登場『04.長江中・下流域からの直接の渡来』《魚拓》
この頁は最新の知識を教えてくれた。
 そもそも、日本人とはどんな人種か?を探る上で、色々な切り口からアプローチし解説されている。笹竜胆(ささりんどう)は源氏の家紋であるが、これがポーランドの蒙古来襲図にあり、蒙古と源氏が同族となる。でも、満州の方々は女性も酒に強くとても同族ではない。

 jyoumonjn 被服史の方からでも綿の登場が見られるといいのですがRT @tohyan 吉野ヶ里から三瀬にかけて、綿の花粉とか、種子が遺跡から発見されると良いのですが、この一帯の甕棺出土は実に特殊です。米田良三氏の言う「吉野ヶ里が倭王墓だった」説は、王族が揚子江中流域の出身・移民と言うことになり

 「縄文人」jyoumonjnさんですが、何故わざわざ「縄文人」を採用されたかを、一度は聞いてみよう思ってまして、弥生人が、半島から、或は揚子江河口付近から上陸の九州北部は本来は、弥生人が大勢のはずなのに、RT @jyoumonjn被服史の方からでも綿の登場が見られるといいのですが

 実際には酒に強いとか、彫りが深いとか、毛深いとか。で、縄文人の形質が強く表面化しています。それは、何故か?
 弥生人の形質は何故か本州の西半分に表れている。甕棺墓の人骨は揚子江中流域の出身と思われるが、彼らの子孫は近畿にそっくり移動してしまったのでしょうか?RT @jyoumonjn


つぶやき「古代」目次 a2 へ 戻る




(304) 『《み吉野の瀧》って、そもそも、どの川にあった滝なのか?』 2010年12月31日(金)

〔泊瀬女の造る木綿花、み吉野の瀧の水沫に咲きにけらずや〕この歌の『み吉野の瀧』って、そもそも、どの川にあった滝なのか?秋津川(=城原川or田手川)か、吉野川(=嘉瀬川or筑後川)か?或は秋津川が初瀬川(=嘉瀬川)へ滝となって落込み合流したか、秋津川が吉野川(=筑後川)落込んだか?

 jyoumonjn @tohyan たいへんお世話になりました。縄文人としたのは生まれは東北岩手県で原日本人の血を引いていると思ったからで(九州南部も)す。ミトコンドリアからは日本のルーツは9種類の渡来ルートとか聞きましたので、単純に縄文、弥生の構図に納まらないと思いました。よいお年をお迎えください

 あはっ、そうでしたか、岩手県でしたか?9種類もですか。こちらこそ、年の瀬遅くまでお世話になりました、来年もよろしくお願いいたします。 RT @jyoumonjnミトコンドリアからは日本のルーツは9種類の渡来ルートとか聞きましたので、単純に縄文、弥生の構図に納まらないと思いました。

 今年は4月twitterで夢中になって暮れてゆきます。大変お世話になりました。来年が皆様の良き年でありますようお祈り申し上げます。

 jyoumonjn @tohyan おめでとうございます。難しいことはともかく大いに啓発をいただき楽しみの糧にしたいと思います。縦横無尽に古代史を料理されるよう期待しております。

 あけましておめでとうございます。私は当然九州説ですが、古田武彦説も内容によっては「あんれ」ってのもあって^^「点と線からストーリへ」否「相棒」かな^^今から川崎大師へ初もうでに行きます。今年もよろしく。RT @jyoumonjn縦横無尽に古代史を料理されるよう期待しております。


つぶやき「古代」目次 a2 へ 戻る




(305) 『わぁーま・まさか、感激です。古田武彦ご本人とtwitterでお目にかかれるとは、お孫さんに感謝です』 2011年1月3日(月)




● “ とうやん ” ‏@t0hyan 2011年1月1日
あけましておめでとうございます。私は当然九州説ですが、古田武彦説も内容によっては「あんれ」ってのもあって^^「点と線からストーリへ」否「相棒」かな^^今から川崎大師へ初もうでに行きます。今年もよろしく。 RT @jyoumonjn縦横無尽に古代史を料理されるよう期待しております。



● 古田 武彦 @takehikofuruta · 2011年1月3日
@tohyan 新年おめでとうございます。孫のおかげでつぶやき拝見。うれしく思っています。去年から今年にかけて、新発見の連続です。やがてお目にかけます。ありがとう!



● “ とうやん ” ‏@t0hyan 2010年12月31日
〔泊瀬女の造る木綿花、み吉野の瀧の水沫に咲きにけらずや〕この歌の『み吉野の瀧』って、そもそも、どの川にあった滝なのか?秋津川(=城原川or田手川)か、吉野川(=嘉瀬川or筑後川)か?或は秋津川が初瀬川(=嘉瀬川)へ滝となって落込み合流したか、秋津川が吉野川(=筑後川)落込んだか?



● 古田 武彦 @takehikofuruta · 2011年1月3日
@tohyan 壬申大乱の件、あなたのご想像の通りです。柿本人麻呂がこの地帯、吉野ヶ里の東にあたる於保に来たときのことを歌った歌が見つかりました。吉備の釆女が死んだとき彼の作った歌(万葉集)です。



● “ とうやん ” ‏@t0hyan 2010年12月30日
嘉瀬川が初瀬川(=泊瀬川・長谷川)というのは分かりますが、吉野川だというのは話を蒸し返すようですが、今一納得出来ません。「古田武彦著:壬申大乱」での吉野川解釈には??です。『まぼろしの邪馬台国:宮崎康平著』には、米も当初塩分を含んだ入り江で育ったとある。RT @jyoumonjn



● 古田 武彦 @takehikofuruta · 2011年1月3日
@tohyan 嘉瀬川の件。柿本人麻呂が歌った吉野川は、嘉瀬川のことです。私はそう理解しています。できれば現地で嘉瀬川の全体を観察していただければ幸いです。どうぞ。(壬申大乱のテーマです)



● 古田 武彦 @takehikofuruta · 2011年1月3日
バイブルに関する新発見がありました。ヨーロッパ人やアメリカ人には思いもつかぬ新世界です。1月下旬には東京古田会に掲載。なお、中国の文字の成立についても、まったく新しい発見にあいました。




 わぁーま・まさか、感激です。古田武彦ご本人とtwitterでお目にかかれるとは、お孫さんに感謝です。それも私が最初です。
RT @takehikofuruta孫のおかげでつぶやき拝見。うれしく思っています。去年から今年にかけて、新発見の連続です。やがてお目にかけます。ありがとう!

 おっしゃる歌は、『於保尓見敷者』の万葉集217、218、219でしょうか?
RT @takehikofuruta壬申大乱の件、あなたのご想像の通りです。柿本人麻呂がこの地帯、吉野ヶ里の東にあたる於保に来たときのことを歌った歌が見つかりました。吉備の釆女が死んだとき彼の作った歌です。

 『万葉集歌217:吉備津采女の歌』《魚拓》
この歌から分かるのでしょうか、前書きの高市皇子云々はこじ付けでしょうが、さて、早く解き明かされるのが楽しみです。RT @takehikofuruta

 『現地へ行って《嘉瀬川の全体》を己の目で観察しろ』ですね。横浜からは遠いなー@takehikofuruta 嘉瀬川の件。柿本人麻呂が歌った吉野川は、嘉瀬川のことです。私はそう理解しています。できれば現地で嘉瀬川の全体を観察していただければ幸いです。どうぞ。(壬申大乱のテーマです)

 仏教の慈悲との接点とか?オリエントの表意文字が原点とか?早く知りたいです。RT @takehikofurutaバイブルに関する新発見がありました。ヨーロッパ人やアメリカ人には思いもつかぬ新世界です。1月下旬には東京古田会に掲載。なお、中国の文字の成立についても、まったく新しい発見にあいました。

 先に大桃さんと麻木さんのことが話題になりましたが、古田武彦氏が私に直接、語りかけて頂けたことはまさに青天の霹靂です。ここでの輪も広がりますように。RT @takehikofuruta @2000BMW740i @n_kensaku @bunnakamura @jyoumonjn

 全てが完結する仮説を一番に読んで欲しい人、でも、84歳というご高齢で、とてもtwitterには程遠い方と半ば諦めていたのですから、感激ひとしおです。RT @takehikofuruta @2000BMW740i @n_kensaku @bunnakamura @jyoumonjn

 .2000BMW740i @tohyan 山本さん、よかったですね!古田先生がtwitterをされているとは知りませんでした。

 でしょう^^ 私は「古田史学会」での最初は、古賀達也氏を想定してたので、てっきり、そうだと早合点してまして、途中、気付いたってわけです。お孫さんに感謝するばかりです。RT @2000BMW740i山本さん、よかったですね!古田先生がtwitterをされているとは知りませんでした。

 各位RT乞う @2000BMW740i @n_kensaku @jyoumonjn @takehikofuruta @tohyan 新年おめでとうございます。孫のおかげでつぶやき拝見。うれしく思っています。去年から今年にかけて、新発見の連続です。やがてお目にかけます。ありがとう!

 各位RT乞う @2000BMW740i @n_kensaku @jyoumonjn. @takehikofuruta @tohyan 柿本人麻呂がこの地帯、吉野ヶ里の東にあたる於保に来たときのことを歌った歌が見つかりました。吉備の釆女が死んだとき彼の作った歌(万葉集)です。

 各位RT乞う @2000BMW740i @n_kensaku @jyoumonjn. @takehikofuruta @tohyan 嘉瀬川の件。柿本人麻呂が歌った吉野川は、嘉瀬川のことです。私はそう理解しています。できれば現地で嘉瀬川の全体を観察していただければ幸いです。どうぞ


つぶやき「古代」目次 a2 へ 戻る




(306) 『古田武彦師のこの柔軟な発想はどこから湧き出るのでしょうね^^』 2011年1月5日(水)

 古田武彦氏twitterデビューに正月3日立会えた。
RT @takehikofuruta @tohyan新年おめでとうございます。孫のおかげでつぶやき拝見うれしく思っています。去年から今年にかけて、新発見の連続です。やがてお目にかけます。ありがとう!4:33 PM Jan 3rd

 古田武彦師のこの柔軟な発想はどこから湧き出るのでしょうね^^
RT @takehikofurutaバイブルに関する新発見がありました。ヨーロッパ人やアメリカ人には思いもつかぬ新世界です。1月下旬には東京古田会に掲載。なお、中国の文字の成立についても、まったく新しい発見にあいました。

 古田武彦氏のこの「バイブルに関する新発見」は、「ヨーロッパ人やアメリカ人には思いもつかぬ新世界」となっている。ということは、我々アジア人だからこそ想い付く。
RT @takehikofurutaバイブルに関する新発見がありました。ヨーロッパ人やアメリカ人には思いもつかぬ新世界です。

 『1月下旬には東京古田会に掲載』となってる。なぬっ、俺っち、ここの会員ではない。ということは、読めないということか?ほぇーッ
 RT @takehikofurutaバイブルに関する新発見がありました。ヨーロッパ人やアメリカ人には思いもつかぬ新世界です。1月下旬には東京古田会に掲載。

 『中国の文字の成立』って、当然、漢字ですよね。「鹿島昴氏は秦の始皇帝は大秦国(=ペルシャ)の出身でアレキサンダーの副官だった」と書く。中国語が周辺の膠着語と違う理由が分かるか?
RT @takehikofuruta なお、中国の文字の成立についても、まったく新しい発見にあいました。

 今日は、女房と近くの「ららぽーと」で映画を観て来た。「相棒:劇場版Ⅱ」だ。官房長は最後に死んじまうのだ、で、女房が言うに、「次回からもう官房長出ないのかね?」はいー、皆さんはどう思いますか?

 shinjihi これは酷い! 拡散
RT @tokuchama: これは酷い!日本が行なった人類史上類を見ない →
『残酷な植民地支配の証拠写真』《魚拓》

 いや、これはあまりに、世にもにも絶する酷さだ。@shinjihi これは酷い! 拡散
RT @tokuchama: これは酷い!日本が行なった人類史上類を見ない→
『残酷な植民地支配の証拠写真』《魚拓》

 chan8514 @hyunjungeee @bujapapa @eiichiro7 @JonathanOJordan @puchikasegu @tohyan 선팔 감사 합니다. 맞팔 완료!

 少し嫌味だったかなー、でも写真が在りし日の姿覚えていると思わない? RT @chan8514 선팔 감사 합니다. 맞팔 완료!


つぶやき「古代」目次 a2 へ 戻る




(307) 『吉備の津の采女の死(みまか)りし時に、柿本朝臣人麿の作れる歌一首並せて短歌』 2011年1月5日(水)

 おっしゃる歌は、『於保尓見敷者』の万葉集217、218、219でしょうか?RT @takehikofuruta壬申大乱の件、あなたのご想像の通りです。柿本人麻呂がこの地帯、吉野ヶ里の東にあたる於保に来たときのことを歌った歌が見つかりました。吉備の釆女が死んだとき彼の作った歌です。

〔万葉集歌217〕

『(秋山:秋山の) (下部留妹:したへる妹) (奈用竹乃:なよ竹の) (騰遠依子等者:とをよる子等は) (何方尓:いかさまに) (念居可:思ひをれか) (栲紲之:たく縄の) (長命乎:長き命を) (露己曽婆:露こそは) (朝尓置而:朝に置きて) (夕者消等言:夕は消ゆと言へ) (霧己曽婆:霧こそは) (夕立而:夕に立ちて) (明者失等言:朝は失すと言へ) (梓弓音聞吾母:梓弓音聞くわれも) (髪髴見之:おほに見し) (事悔敷乎:事悔しきを) (布栲乃:敷栲の) (手枕纏而:手枕まきて) (釼刀身二副寐價牟:剣刃 身にそへ寝けむ) (若草其嬬子者:若草のその嬬の子は) (不怜弥可:さぶしみか) (念而寐良武:思ひて寝らむ) (悔弥可:悔しみか) (念戀良武:思ひ恋ふらむ) (時不在:時ならず) (過去子等我:過ぎにし子らが) (朝露乃如也:朝露のごと) (夕霧乃如也:夕霧のごと)』 〔万葉集歌218〕

『(楽浪之:楽浪の) (志我津子等何:志賀津の子らが) (罷道之川瀬道:罷道の川瀬の道を) (見者不怜毛:見ればさぶしも)』 〔万葉集歌219〕

『(天數:天数ふ) (凡津子之:凡津の子が) (相日:逢ひし日に) (於保尓見敷者:おほに見しくは) (今叙悔:今ぞ悔しき)』
天数ふ 凡津の子が 逢ひし日に 於保に見しくは 今ぞ悔しき

 国土地理院「背振山」5万分の1の右下隅に鳥栖市三島町『於保里(おおり)』とある。筑後川の北岸沿いにあった場所のようだ。
RT @takehikofuruta 柿本人麻呂がこの地帯、吉野ヶ里の東にあたる於保に来たときのことを歌った歌が見つかりました。吉備の釆女が死んだとき彼の作った歌


つぶやき「古代」目次 a2 へ 戻る




(308) 『鹿島:高市が新羅人だということは「万葉集」にかいてあります』 2011年1月10日(月)

以下は
「日本列島史抹殺の謎:佐治芳彦・吾郷清彦・鹿島昂・共著」
の抜粋です。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『大友皇子の謎』

佐治:  古代史の謎の1つ、壬申の乱_大友皇子にまいりましょう。 鹿島先生の説によれば、大友皇子のくだりも韓国史の借史ということになるわけですか。

鹿島:  白村江のあと、唐は百済王子余隆を熊津都督にした。熊津というのは、例の光州(公州のミスプリ?)あたりで、盆地になっている。
このとき新羅の文武王は禰軍の郭務粽即ち藤原鎌足を抑留して熊津を攻撃した。 すると唐はこれを非難して、「新羅は昔は忠臣だったが、今は逆臣だ」といった。
このときの国書のやりとりは「三国史記」の「新羅本紀」にありまして、なかなかの名文です。
ここで結局、新羅が熊津を奪った為、余隆は逃亡してしまう。 これが、弘文の近江反乱のモデルであります。
 大友皇子の弘文が余隆で百済王善光だと仮定すると、彼が近江で反乱を起こして、新羅軍に討たれたということの実態は、熊津の陥落であります。
 このとき文武王の天武は新羅にいたわけで、実際に新羅軍を指揮していたのは高市皇子(天武の第一王子とされる)であった。高市というのは新羅王子金霜林のことです。
 このとき、余隆即ち善光の子・昌成が、早く死んだとなっているのは、戦乱で殺されたのではないか。私は施基皇子はこの昌成だと思います。

佐治:  近江の乱、つまり壬申の乱も、新羅、唐、百済、日本をめぐる7世紀の国際的争乱の一部と言うことになりますが、原則的にこの事実は何人といえども否定できません。
ただ、その末尾を飾る壬申の乱も、朝鮮半島内の事件の焼き直しであったという説については、戸惑う人もすくなくないと思います。 私個人としては、この乱の主要関係者についての鹿島先生の人物比定は、ほぼ真相をついているのではないかと考えられますが、その舞台については、事件が白村江敗戦以降のものですから、やはり幾内中心ではないかと考えたいのです。もちろん、この乱が実在したとしてです。
簡単に言えば白村江に敗戦後の占領軍統治時代、連合国側の分裂(唐・新羅の関係悪化)が顕著になった時点で、占領地(日本)にもそれぞれのヘゲモニー確立をめぐって、いわゆる壬申の乱と称される事件が起こったとしても、不自然ではないでしょうね。

鹿島:  私も施基皇子のほうは実際日本で殺されたかもしれないと思います。そうすると弘文は余隆とその子の合成となります。・・・・・・・中略・・・・・・・・


  『高市皇子は新羅人だった』

佐治:  鹿島説によると、壬申の乱は高市皇子が新羅軍の指揮者であって、熊津の百済軍を率いる大友皇子の余隆を破ったと言う図式ですね。

鹿島:  高市が新羅人だということは「万葉集」にかいてあります。
柿本人麻呂というのは百済人だといいますが、その人麻呂の作歌で「高市皇子尊の城上のもがりの宮の時」というのがあります。
「ちはやぶる人をやわせと、まつろわぬ国を治めと、皇子ながら、よさし給えば、大御身に、太刀取りはかし・・・吹きなせる、小角(くだ)の音も、敵見たる、虎が吼ゆると、諸人のおびゆるまでに・・・・・・百済の原ゆ、神葬(かみはふ)り、葬りいまして・・・・・・」というのです(巻2・199)
 この意味は、高市が皇子ながら剣を取って、猛虎のごとく戦った。そして百済の地で百済の王族たちを殺し続けた、と言うものです。この時代百済と倭国は連合しており、新羅がそれを破った。だから百済の王族を破ったという高市は新羅の王子でなければならないわけです。・・・・・・・・

佐治:  鈴木武樹氏は「いまわれわれが万葉ぶりといっているのは、案外古代朝鮮ぶりかもしれない」といっていますね。

吾郷:  金思華(「三国遺事」の訳者)氏は万葉と新羅の郷札(ヒャンチル)「新羅の古歌」が似ているといっています。・・・・・・・・・・・以下略・・・・・・・・・・・・・・

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さてここで、鹿島昴は何故?

『この意味は、高市が皇子ながら剣を取って猛虎のごとく戦った。そして百済の地で百済の王族たちを殺し続けたと言うものです。この時代百済と倭国は連合しており新羅がそれを破った。だから百済の王族を破ったという高市は新羅の王子でなければならないわけです』

と解釈したかだ。


つぶやき「古代」目次 a2 へ 戻る




309) 『高市皇子の尊の、城上(きのへ)の殯宮の時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌』 2011年1月10日(月)

以下は、
柿本人麻呂の儀礼的挽歌(万葉集を読む)《魚拓》
の抜粋です。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『高市皇子の尊の、城上(きのへ)の殯宮の時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首(199)、また短歌(200)(201)』


  かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏き
  明日香の 真神の原に 久かたの 天つ御門を
  畏くも 定めたまひて 神さぶと 磐隠(いはがく)ります
  やすみしし 我が王の きこしめす 背面(そとも)の国の
  真木立つ 不破山越えて 高麗剣 和射見(わざみ)が原の
  行宮(かりみや)に 天降(あも)り座して 天の下 治めたまひ
  食(を)す国を 定めたまふと 鶏が鳴く 東の国の
  御軍士(みいくさ)を 召したまひて 千磐(ちは)破る 人を和(やは)せと
  奉(まつ)ろはぬ 国を治めと 皇子ながら 任(ま)きたまへば
  大御身(おほみみ)に 大刀取り帯ばし 大御手(おほみて)に 弓取り持たし
  御軍士を 率(あども)ひたまひ 整ふる 鼓の音は
  雷の 声と聞くまで 吹き響(な)せる 小角(くだ)の音も
  敵(あた)見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに
  差上(ささ)げたる 幡の靡きは 冬こもり 春さり来れば
  野ごとに つきてある火の 風の共(むた) 靡くがごとく
  取り持たる 弓弭(ゆはず)の騒き み雪降る 冬の林に
  旋風(つむし)かも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの恐(かしこ)く
  引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱りて来(きた)れ
  奉(まつろ)はず 立ち向ひしも 露霜の 消(け)なば消ぬべく
  去(ゆ)く鳥の 争ふはしに 度會(わたらひ)の 斎(いは)ひの宮ゆ
  神風に 息吹惑はし 天雲を 日の目も見せず
  常闇に 覆ひたまひて 定めてし 瑞穂の国を
  神ながら 太敷き座(いま)す やすみしし 我が大王の
  天の下 奏(まを)したまへば 万代(よろづよ)に 然(しか)しもあらむと
  木綿花(ゆふはな)の 栄ゆる時に 我が大王 皇子の御門を
  神宮に 装ひ奉(まつ)りて 遣はしし 御門の人も
  白布(しろたへ)の 麻衣着て 埴安(はにやす)の 御門の原に
  あかねさす 日のことごと 獣(しし)じもの い匍ひ伏しつつ
  ぬば玉の 夕へになれば 大殿を 振り放け見つつ
  鶉なす い匍ひ廻(もとほ)り 侍(さもら)へど 侍ひかねて
  春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに
  憶(おも)ひも いまだ尽きねば 言(こと)さへく 百済の原ゆ
  神葬(かむはふ)り 葬り行(いま)して あさもよし 城上の宮を
  常宮(とこみや)と 定め奉(まつ)りて 神ながら 鎮まり座(ま)しぬ
   しかれども 我が大王の 万代と 思ほしめして
  作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思(も)へや
  天(あめ)のごと 振り放け見つつ 玉たすき 懸けて偲はむ 畏かれども(199)

『短歌二首』

  久かたの天知らしぬる君故に日月も知らに恋ひわたるかも(200)

  埴安の池の堤の隠沼(こもりぬ)の行方を知らに舎人は惑ふ(201)

一篇は、天武天皇による壬申の乱から説き始め、戦いの場面が描かれる。その戦いの中での高市皇子の活躍は、「大御身に 大刀取り帯ばし 大御手 弓取り持たし 御軍士を 率ひたまひ」と歌われている。だが、その戦いの栄光も色あせるように、場面はすぐに皇子の死に移る。「遣はしし 御門の人も 白布の 麻衣着て 埴安の 御門の原に あかねさす 日のことごと 獣じもの い匍ひ伏しつつ」とは、持統天皇による葬儀に、官人たちがいそいそと従っている様子を描いているようにも思われる。

この歌は、古来挽歌のうちでも様々な憶測を呼んできたものであるが、筆者などは、持統天皇のお抱え歌人としての人麻呂が、あくまで天皇の意思を体現して詠んだ歌のように聞こえるのである。



つぶやき「古代」目次 a2 へ 戻る




(310) 『この長歌199の中身は「真冬から早春にかけて」で壬申乱の歌ではとてもないのだ』 2011年1月10日(月)

万葉かな原文をネットでさがしたが中々良いのが無いやはりこれかな
〔『万葉集』柿本人麻呂と高市皇子〕
『高市皇子尊城上殯宮之時、柿本朝臣人麻呂作謌一首集歌199、并短謌集歌200・201』
《魚拓》


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 以上が鹿島昂氏をして『高市が新羅人だと「万葉集」に書いてある』と言わしめた万葉集(199)〔高市皇子の尊の、城上(きのへ)の殯宮の時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首〕である。が、古田武彦氏はその著『壬申大乱』で、この長歌は「洲柔城の一大陸戦」で消えた「明日香皇子」に関する歌だという。

 この表題に『高市皇子の尊の、城上の殯宮の時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首』とあり、高市と戦争とを聞くと壬申乱を想像するが、古田武彦氏は、実はこの歌は「高市皇子の父の明日香皇子(=倭王薩夜麻・白鳳王)が百済復活戦の白村江海戦の半年前洲柔の陸戦で行方不明になった悲劇を嘆く歌だ」と書く。

 詳しくは「壬申大乱:古田武彦著」、更には「古代史の十字路:古田武彦著」を読まれるようにお勧めする。

 壬申乱は672年陰暦6月22日始~7月23日終で、現太陽暦7月下旬~8月下旬初頭だ。が、この長歌199の中身は①冬ごもり春さり来れば⇒冬から早春、②み雪降る冬の林に⇒冬、③大雪の乱れて来れ⇒冬、④春鳥のさまよひぬれば⇒春、の「真冬から早春にかけて」で壬申乱の歌ではとてもないのだ。

 この長歌199の中身は「真冬から早春にかけて」で、壬申乱の歌ではとてもないのだ。高市皇子の戦争と言えば、壬申乱以外に無い。ということは、歌の中身は表題と違って、高市皇子の戦争模様をうたったものでないと分かる。では、誰のことか、この歌は明日香皇子の洲柔の戦の悲劇を歌っているという。

 この長歌199の中身は「真冬から早春にかけて」で、壬申乱の歌ではとてもないのだ。高市皇子の戦争と言えば、壬申乱以外に無い。ということは、歌の中身は表題と違って、高市皇子の戦争模様をうたったものでないと分かる。では、誰のことか、この歌は明日香皇子が洲柔戦で行方知れずを歌うという。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


標訓 高市皇子尊の城上(きのへ)の殯宮(あらきのみや)の時に、柿本朝臣人麻呂の作れる歌一首并せて短歌

集歌199 挂文 忌之伎鴨 (一云 由遊志計礼抒母) 言久母 綾尓畏伎 明日香乃 真神之原尓 久堅能 天都御門乎 懼母 定賜而 神佐扶跡 磐隠座 八隅知之 吾大王乃 所聞見為 背友乃國之 真木立 不破山越而 狛劔 和射見我原乃 行宮尓 安母理座而 天下 治賜 (一云 掃賜而) 食國乎 定賜等 鶏之鳴 吾妻乃國之 御軍士乎 喚賜而 千磐破 人乎和為跡 不奉仕 國乎治跡 (一云 掃部等) 皇子随 任賜者 大御身尓 大刀取帶之 大御手尓 弓取持之 御軍士乎 安騰毛比賜 齊流 鼓之音者 雷之 聲登聞麻弖 吹響流 小角乃音母 (一云 笛之音波) 敵見有 虎可叨吼登 諸人之 恊流麻弖尓 (一云 聞或麻弖) 指擧有 幡之靡者 冬木成 春去来者 野毎 著而有火之 (一云 冬木成 春野焼火乃) 風之共 靡如久 取持流 弓波受乃驟 三雪落 冬乃林尓 (一云 由布乃林) 飃可毛 伊巻渡等 念麻弖 聞之恐久 (一云 諸人 見或麻弖尓) 引放 箭之繁計久 大雪乃 乱而来礼 (一云 霰成 曽知余里久礼婆) 不奉仕 立向之毛 露霜之 消者消倍久 去鳥乃 相競端尓 (一云 朝霜之 消者消言尓 打蝉等 安良蘇布波之尓) 渡會乃 齊宮従 神風尓 伊吹或之 天雲乎 日之目毛不令見 常闇尓 覆賜而 定之 水穂之國乎 神随 太敷座而 八隅知之 吾大王之 天下 申賜者 萬代尓 然之毛将有登 (一云 如是毛安良無等) 木綿花乃 榮時尓 吾大王 皇子之御門乎 (一云 刺竹 皇子御門乎) 神宮尓 装束奉而 遣使 御門之人毛 白妙乃 麻衣著 埴安乃 門之原尓 赤根刺 日之盡 鹿自物 伊波比伏管 烏玉能 暮尓至者 大殿乎 振放見乍 鶉成 伊波比廻 雖侍候 佐母良比不得者 春鳥之 佐麻欲比奴礼者 嘆毛 未過尓 憶毛 未不盡者 言左敝久 百濟之原従 神葬 々伊座而 朝毛吉 木上宮乎 常宮等 高之奉而 神随 安定座奴 雖然 吾大王之 萬代跡 所念食而 作良志之 香来山之宮 萬代尓 過牟登念哉 天之如 振放見乍 玉手次 懸而将偲 恐有騰文

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

訓読 かけまくも ゆゆしきかも (一は云はく、ゆゆしけれども) 言(こと)はまくも あやに畏(かしこ)き 明日香の 真(ま)神(かみ)が原に ひさかたの 天つ御門(みかど)を 懼(かしこ)くも 定め賜ひて 神さぶと 磐(いは)隠(かく)り座(いま)す やすみしし 吾(わ)が大王(おほきみ)の 聞(き)こし食(め)す 背面(そとも)の国の 真木立つ 不破(ふは)山越えて 狛剣(こまつるぎ) 和射見(わざみ)が原の 行宮(かりみや)に 天降(あまも)り座(いま)して 天の下 治め賜ひ (一は云はく、掃(はら)ひ賜ひて) 食(を)す国を 定め賜ふと 鶏(とり)が鳴く 吾妻(あづま)の国の 御軍士(みいくさ)を 喚(め)し賜ひて ちはやぶる 人を和(やわ)せと 奉(まつ)ろはぬ 国を治めと (一は云はく、掃(はら)へと) 皇子ながら 任(よさ)し賜へば 大御身(おほみみ)に 大刀(たち)取り帯(をび)し 大御手(おほみて)に 弓取り持たし 御軍士(みいくさ)を 率(あども)ひ賜ひ 斎(ととの)ふる 鼓(つつみ)の音は 雷(いかづち)の 声(おと)と聞くまで 吹き響(な)せる 小角(くだ)の音(おと)も (一は云はく、笛の音は) 敵(あた)見たる 虎か吼(ほ)ゆると 諸人(もろひと)の 怖(おび)ゆるまでに (一云 聞き惑ふまで) 指(さ)し挙(あ)げる 幡(はた)の靡きは 冬こもる 春去(さ)り来れば 野ごとに 著(つき)てある火の (一は云はく、冬こもり 春野焼く火の) 風の共(むた) 靡くが如く 取り持てる 弓弭(ゆはず)の驟(さはき) み雪降る 冬の林に (一は云はく、木綿(ゆふ)の林) 旋風(つむぢ)かも い巻き渡ると 念(おも)ふまで 聞(き)きの恐(かしこ)く (一は云はく、諸人の 見惑ふまでに) 引き放(はな)つ 矢の繁けく 大雪の 乱れし来(きた)れ (一は云はく、霰なす 彼方(そち)より来(く)れば) 奉(まつろ)はず 立ち向ひしも 露霜の 消(け)なば消(け)ぬべく 行く鳥の 争(あらそ)ふはしに (一は云はく、朝霜の 消(け)なば消(け)とふに 現世(うつせみ)と 争ふはしに) 渡会(わたらひ)の 斎(いつ)きの宮ゆ 神風(かむかぜ)に い吹き惑はし 天雲を 日の目も見せず 常闇(とこやみ)に 覆(おほ)ひ賜ひて 定めてし 瑞穂の国を 神ながら 太敷きまして やすみしし 吾が大王(おほきみ)の 天の下 申(まを)し賜へば 万代(よろづよ)に 然(しか)しもあらむと (一は云はく、如(かく)しもあらむと) 木綿花(ゆふはな)の 栄ゆる時に 吾が大王(おほきみ) 皇子の御門を (一は云はく、刺す竹の 皇子の御門を) 神宮(かみみや)に 装(よそほ)ひ奉(ま)つりて 使(つかひ)遣(や)り 御門の人も 白栲(しろたえ)の 麻衣(あさころも)着て 埴安(はにやす)の 門(みかど)の原に 茜さす 日のことごと 鹿猪(しし)じもの い匍(は)ひ伏(ふ)しつつ ぬばたまの 夕(ゆうへ)になれば 大殿を 振り放(さ)け見つつ 鶉(うずら)なす い匍(は)ひ廻(もとほ)り 侍(さもら)へど 侍ひえねば 春鳥の 彷徨(さまよ)ひぬれば 嘆(なげ)きも いまだ過ぎぬに 憶(おも)ひも いまだ尽きねば 言(こと)さへく 百済(くだら)の原ゆ 神葬(かみはふ)り 葬(はふ)りいまして 朝も吉 城上(きのへ)の宮を 常宮(とこみや)と 高く奉(まつ)りて 神ながら 鎮(しづ)まりましぬ 然れども 吾(わ)が大王(おほきみ)の 万代(よろづよ)と 念(おも)ほし食(め)して 作らしし 香具山の宮 万代(よろづよ)に 過ぎむと念(おも)へや 天のごと 振り放(さ)け見つつ 玉(たま)襷(たすき) 懸(か)けて偲(しの)はむ 恐(かしこ)ありども

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

訓読 かけまくも ゆゆしきかも (一は云はく、ゆゆしけれども) 言はまくも あやに畏き 明日香の 真神が原に ひさかたの 天つ御門を 懼くも 定め賜ひて 神さぶと 磐隠り座す やすみしし 吾が大王の 聞こし食す 背面(そとも)の国の 真木立つ 不破山越えて 狛剣 和射見が原の 行宮に 天降り座して 天の下 治め賜ひ (一は云はく、掃ひ賜ひて) 食す国を 定め賜ふと 鶏が鳴く 吾妻の国の 御軍士を 喚し賜ひて ちはやぶる 人を和せと 奉ろはぬ 国を治めと (一は云はく、掃へと) 皇子ながら 任し賜へば 大御身に 大刀取り帯し 大御手に 弓取り持たし 御軍士を 率ひ賜ひ 斎ふる 鼓の音は 雷の 声と聞くまで 吹き響せる 小角の音も (一は云はく、笛の音は) 敵見たる 虎か吼ゆると 諸人の 怖ゆるまでに (一云 聞き惑ふまで) 指し挙げる 幡の靡きは 冬こもる 春去り来れば 野ごとに 著てある火の (一は云はく、冬こもり 春野焼く火の) 風の共 靡くが如く 取り持てる 弓弭の驟(さはき) み雪降る 冬の林に (一は云はく、木綿の林) 旋風かも い巻き渡ると 念ふまで 聞きの恐(かしこ)く (一は云はく、諸人の 見惑ふまでに) 引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱れし来れ (一は云はく、霰なす 彼方より来れば) 奉はず 立ち向ひしも 露霜の 消なば消ぬべく 行く鳥の 争ふはしに (一は云はく、朝霜の 消なば消とふに 現世と 争ふはしに) 渡会の 斎きの宮ゆ 神風に い吹き惑はし 天雲を 日の目も見せず 常闇に 覆ひ賜ひて 定めてし 瑞穂の国を 神ながら 太敷きまして やすみしし 吾が大王の 天の下 申し賜へば 万代に 然しもあらむと (一は云はく、如しもあらむと) 木綿花の 栄ゆる時に 吾が大王 皇子の御門を (一は云はく、刺す竹の 皇子の御門を) 神宮に 装ひ奉つりて 使遣り 御門の人も 白栲の 麻衣着て 埴安の 門の原に 茜さす 日のことごと 鹿猪じもの い匍ひ伏しつつ ぬばたまの 夕になれば 大殿を 振り放け見つつ 鶉なす い匍ひ廻り 侍へど 侍ひえねば 春鳥の 彷徨ひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに 憶ひも いまだ尽きねば 言さへく 百済の原ゆ 神葬り 葬りいまして 朝も吉 城上(きのへ)の宮を 常宮と 高く奉りて 神ながら 鎮まりましぬ 然れども 吾が大王の 万代と 念ほし食して 作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと念へや 天のごと 振り放け見つつ 玉襷 懸けて偲はむ 恐ありども

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

私訳 口にするのも憚れる、言葉でいうのも畏れ多い。明日香の真神の原に長久の天の王宮を尊くもお定めになって、今は神として岩戸に御隠れなされた天下をあまねく承知なされる我が大王の高市皇子尊が、お治めになる大和の背後にある美濃の国の立派な木が茂る不破山を越えて、高麗の剣の技を見せる、その和暫の原の仮宮に、神として降臨なされて、天下を承知なされ、そのご統治される国をお定めになるというので、鶏の鳴き朝が明ける東国の軍勢を呼び寄せなされて、荒々しい人々を従わせ、服従しない国々を統治せよと、日の御子ではありながら任じられなされると、皇子は御体に太刀を取り帯なされ、御手に弓を取り持って、軍勢を統率なされた。その軍勢を整える鼓の音は雷鳴の音と聞こえるようで、吹き渡る小角の音も敵を見た虎が吼えるのかと人々が思って恐れるまでに聞こえ、高く捧げた幡の靡くことは、冬も終わって春がやってきて、あちこちの野に付けた野火の風と共に靡くようで、兵士の手に取って持った弓の弭の動くざわめきは、み雪降る冬の林につむじ風が吹き巻き渡るかと思われるほど恐ろしく聞こえ、引き放つ矢がはげしく大雪の雪が乱れ来るのように飛んで来る。従わずに立ち向かって来た者は、露や霜が消えるなら解けて消えてしまうように、飛び行く鳥のように乱れ争うときに、度会の神を祭る宮の神風で賊軍を吹き惑わせ、天の雲で太陽の光も見せないまでに真っ暗に覆いなされた。神である大王が定めなされた瑞穂の国を神らしく承知なされ、天下をあまねく承知なされる我が大王が、その天下を治めなされると、万年にもこのようにあるだろうと王宮を寿ぐ木綿の花が栄える時に、我が大王、皇子の王宮を神の宮とお飾り申し上げて、皇子の手足としてお使えしていた御門の人々も白栲の麻の喪の衣をつけ、埴安の王宮の原が茜に染まる日の毎日、鹿や猪のように腹ばいになって伏して、漆黒の夜になると御殿を遠く見上げながら、鶉のように背を丸めてはいまわって、皇子の傍に侍しているけど皇子からお呼びがないので、春の鳥のようにあちこちと彷徨っていると、皇子を悼む嘆きが今でも嘆き過ぎないし、皇子への憶いも未だに尽きないが、言葉が通じない百済のその百済の原に神として葬り、葬り申し上げて、朝日が清々しい城上の宮を皇子の常宮として天高く奉じ、皇子は悠久の神でありながら常宮に鎮まりなされた。そうではありますが、我が大王が万代の王宮と思いなされて御作りになった香具山の宮。万代に時を過ごすと思う。その香具山の宮の御殿を天空のように仰ぎ見ながら。皇子送りの葬送の玉襷を懸けて、皇子を心に懸けて偲びましょう。恐れ多いことではあるが。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

短謌二首 集歌200 久堅之 天所知流 君故尓 日月毛不知 戀渡鴨 訓読 ひさかたの天知らしぬる君故に日月も知らず恋ひ渡るかも 私訳 遥か彼方の天上の世界を統治なされる貴方のために、日月の時も思わずに貴方をお慕いいたします。 集歌201 埴安乃 池之堤之 隠沼乃 去方乎不知 舎人者迷惑 訓読 埴安(はにやす)の池の堤の隠(こもり)沼(ぬ)の去方(ゆくへ)を知らに舎人(とねり)は惑ふ 私訳 埴安の池の堤で囲まれた隠沼の水の行方を知らないように、どうしていいのか判らない舎人たちは戸惑っている。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

或書反謌一首 標訓 或る書の反歌の一首 集歌202 哭澤之 神社尓三輪須恵 雖祷祈 我王者 高日所知奴 訓読 哭沢(なきさは)の神社(もり)に神酒(みわ)据ゑ祷祈(いの)れども我が王(おほきみ)は高日知らしぬ 私訳 哭沢の神の社に御神酒を据えて神に祈るのですが、我が王は天上の世界をお治めになった。 右一首類聚歌林曰、桧隈女王、怨泣澤神社之謌也。案日本紀云、十年丙申秋七月辛丑朔庚戌、後皇子尊薨。 注訓 右の一首は類聚歌林に曰はく「桧隈女王の、泣沢神社を怨(うら)むる歌」といへり。日本紀を案ふるに云はく「十年丙申の秋七月辛丑の朔の庚戌、後皇子尊薨(かむあが)りましぬ」といへり。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



つぶやき「古代」目次 a2 へ 戻る




(311) 『久堅乃 「天帰(=甘木)」月乎 網尓刺 我大君者 蓋尓為有』 2011年1月11日(火)

 さて、以下は
〔万葉集柿本人麻呂と高市皇子〕・《リンク切れ》
の転載です。
《長皇子遊猟路池之時、柿本朝臣人麿作歌一首》

『標訓:長皇子の猟路の池に遊しし時に、柿本朝臣人麿の作れる一首239并せて短歌240』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


『壬申大乱:古田武彦著』には、


 「壬申大乱:古田武彦著」には、歌は「長皇子の猟路の池に遊しし時に」と「前書き」されているが、この立場では、およそ“言いようのない愚歌”となる。
 『長皇子(天武第4皇子)が狩にゆくと、地上の猪鹿や空飛ぶ鶉たちが皇子の前に平伏しこれを迎えた。そして皇子は空にある月を、網で採って自分の衣笠として使用しておられる』と。

 反歌240の「天帰月」は“天ゆく月”(従来の訓み)ではなく、「天帰(=あまぎ・甘木)の月」である。福岡県の朝倉郡にある地名だ。「月」は、この「大王」の紋章である(麻氐良布<までらふ>山の祭神に「月読命」あり)。

 その「甘木の王者(大王)が狩に出て斃れた。馬が崖から落下したのだろう。或は、獲物(猪鹿)からの反撃にあったのだろう。そして、彼は死者として「帰還」したのだ、挽歌だ。その葬送の行列の中に、彼の“獲った”動物(猪鹿や鶉)の死屍が引きずられて、列に加えられていた。そのさまを、「あれほど、貴方を悩ませた彼らも、今は平伏しています。」と“歌ってあげた”のだ。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


〔集歌239〕
 八隅知之 吾大王 高光 吾日乃皇子乃 馬並而 三猟立流 弱薦乎 猟路乃小野尓 十六社者 伊波比拜目 鶉己曽 伊波比廻礼 四時自物 伊波比拜 鶉成 伊波比毛等保理 恐等 仕奉而 久堅乃 天見如久 真十鏡 仰而雖見 春草之 益目頬 四寸 吾於富吉美可聞

〔訓読239〕
 やすみしし わご大王(おほきみ) 高光る わご日の皇子の 馬並(な)めて み猟立たせる 弱薦(わかこも)を 猟路の小野に 猪鹿(しし)こそば い匍(は)ひ拝(をろが)め 鶉こそ い匍(は)ひ廻(もと)ほれ 猪鹿じもの い匍ひ拝み 鶉なす い匍ひ廻ほり 恐みと 仕へ奉りて ひさかたの 天見るごとく 真澄鏡(まそかがみ) 仰ぎて見れど 春草の いや愛づらしき わご大王(おほきみ)かも

〔古田現代語訳239〕  八方を支配する わご大王、高光る日の皇子が、馬を並べて御狩(みかり)に立たれた。

 まだ生え切らぬ薦(こも)の中を通り、狩り道となった小野で、猪や鹿などはみな、(亡くなられた大王を)はいつくばって拝んでいる。鶉などはみな、(亡くなられた大王に)はいつくばってとり囲んでいる。

 猪や鹿などという獲物は(亡くなられた大王を)はいつくばって拝み、鶉のような獲物は、はいつくばってとり囲んでいる。そのように(彼等も、今は大王に)恐れかしこんで仕へ奉っているようだ。

 あの天空を見るように、澄み切った鏡に映してみるように、仰ぎ見ているけれど、春草が萌え出るように、何とも言えず輝かしい、わが(亡き)大王よ。


〔反歌一首:集歌240〕
 久堅乃 天帰月乎 網尓刺 我大君者 蓋尓為有

〔訓読240〕
 ひさかたの天ゆく月を網(あみ)に刺しわご大君(おほきみ)は蓋(かさ)にせり

〔古田現代語訳240〕
 甘木の大王は「月」を(旗などの)しるしにし、それを御狩りに使われた網の前に、刺すように立てておられる。(亡き大王の柩の列の)そのありさまを見ると、まるで生きておられた時の行列と同じく、今も「きぬがさ」をたてておられるようだ。

〔古田現代語訳240 《注記》〕
 「天帰」はあまぎ(甘木)の表記。甘木(福岡県甘木市)の大王が、狩りの途次、事故で死したことを「天に帰った」意を託し、特に表記したもの。(従来は、これを「あまゆく」と訓んでいた。)


〔或本反歌一首:集歌241〕
 皇者 神尓之坐者 真木乃立 荒山中尓 海成可聞

〔訓読241〕
 皇(おほきみ)は神にし坐(ま)せば真(ま)木(き)の立つ荒山中に海を成(な)すかも


つぶやき「古代」目次 a2 へ 戻る




(312) 『万葉歌239・240は661年「甘木王」事故死、万葉歌199・200は白鳳2 3年662 663年、洲柔戦で「明日香皇子」行方不明を歌う』 2011年1月14日(金)

 ところで、これら万葉集の各歌には「標訓」というか、「標題」というか、「前書き」がなされている。歌を詠む前に、歌の詠まれた日時・場所・環境を理解しょうとするのは、私に限らずほとんどの方が、そうなさるのではないだろうか?我々素人は特に「標題」から「万葉歌」を理解しょうしてきたわけだ。

 ところが、古田武彦氏は、今見てきたいくつかの歌で、共通して明らかになった特徴は、『その「標題」の意図する内容と、「万葉歌そのもの」が詠っている内容とが、ちぐはぐになっている。』と指摘するのだ。
 確かに、歌本体の中身を詳細に、吟味すると、従来のと全く違った視界が開けてくるようだ。

 分かりやすく言えば、要するに、
〔「倭国」・筑紫大宰府:難波副都対比年表〕
で、万葉歌239・240は、661年「甘木王」事故死を、万葉歌199・200・201は、白鳳2 3年662 663663年、洲柔戦で「明日香皇子」行方知れずになった悲劇を歌っている、ということだ。

 年表を見てくれませんか?貴方が中学校・高等学校で勉強した歴史年表と、どこが、どう違うかわかりますか?九州王朝「倭国」の滅亡がいつか分ります。

 分かりやすく年表を見てほしい。万葉歌239・240は、661年倭王「甘木王」が狩りの途中の事故で崩御し、万葉歌199・200・201は、即位もそそくさに出征の白鳳2 3年662 663年、百済復活戦の洲柔戦白村江戦で「甘木王」の皇子の「明日香皇子」が行方知れずになった悲劇を歌っている、ということだ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 この
〔「倭国」・筑紫大宰府:難波副都対比年表〕
をみると、645年、唐高宗の高句麗攻撃開始に端を発した東北アジアの混乱は、常色元年647年、九州王朝「倭国」に「甘木王(=常色王)」即位。同年、新羅で「ひどんの乱」。「甘木王」は唐侵略対抗上、天下立評・複都「難波京」造発詔などの「常色の大改革」を次々断行。白雉元年652年、天下立評・「難波副都」完成・「白雉」改元儀式挙行。

 660年百済滅亡。翌白鳳元年661年、常色・白雉王(=甘木王)崩御。白鳳王(=薩夜麻・明日香皇子)即位。白鳳2 3年662 663年、百済復活の洲柔戦・白村江戦、唐が倭国白鳳王「薩夜麻・明日香皇子」を捕獲連行、と続くのだ。

 この歴史経緯の中で、柿本人麿は、〔万葉歌239・240では、661年、倭王「甘木王」が狩りの途中で事故死の悲劇を。万葉歌199・200・201では、即位もそそくさに出征の白鳳2 3年662 663年、百済復活戦の洲柔戦・白村江戦で「甘木王」の皇子の「明日香皇子」が行方不明の悲劇を。この『立て続けの悲劇』が、九州王朝「倭国」を襲った〕と歌っている。


つぶやき「古代」目次 a2 へ 戻る




(313) 『万葉歌の標訓は、直して解釈しないと、なんとも意味不明な愚歌といわれても仕方ないだろう』 2011年1月16日(日)

 古田武彦氏が、『この歴史的経緯の中で、柿本人麿は、[万葉歌239・240では、661年、倭王「甘木王」が狩りの途中で事故死の悲劇を、万葉歌199・200・201では、即位もそそくさに出征の663年、百済復活戦の洲柔戦・白村江戦で「甘木王」の皇子の「明日香皇子」が行方不明の悲劇を、この『立て続けの悲劇』が、九州王朝「倭国」を襲った〕 と歌っている。』と示唆するように、私もそう考えている。

 であれば、万葉歌239・240では、標訓が『長皇子の猟路の池に遊しし時に、柿本朝臣人麿の作れる一首239并せて短歌240』
⇒となっているのは、『661年、倭王「甘木王」が狩りの途中で事故死の悲劇を歌った』
 と直すべきで、また、直して解釈しないと、なんとも意味不明な愚歌といわれても仕方ないだろう。

 万葉歌199・200・201では、『高市皇子の尊の、城上(きのへ)の殯宮の時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首(199)、また短歌(200)(201)』
 ⇒となっているのは、『即位もそそくさに出征の663年、百済復活戦の洲柔戦・白村江戦で「甘木王」の皇子の「明日香皇子」が行方不明の悲劇を歌った』
 と直すべきで、また、直して解釈しないと、なんとも意味不明な愚歌といわれても仕方ないだろう。

 この万葉歌239・240、及び、万葉歌199・200・201が意図する歴史的事実は、例えば、660年百済滅亡。翌白鳳元年661年、常色・白雉王(=甘木王)崩御。更に伊勢王の崩御。と連続しており、百済「豊章」の仕掛けた罠だったのでは、とも考えられ、次々と探究されるべき課題が浮かんでくるのだ。

さて、この「つぶやき」をお読みの皆様は如何お思いでしょうね^^

 万葉歌239・240では、標訓が『長皇子の猟路の池に遊しし時に、柿本朝臣人麿の作れる一首239并せて短歌240』となっているのは、
 ⇒『661年、倭王「甘木王」が狩りの途中で事故死の悲劇を歌った』と直すべきであり、

 万葉歌199・200・201では、標訓が『高市皇子の尊の、城上(きのへ)の殯宮の時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首(199)、また短歌(200)(201)』となっているのは、
 ⇒『即位もそそくさに出征の663年、百済復活戦の洲柔戦・白村江戦で「甘木王」の皇子の「明日香皇子」が行方不明 の悲劇を歌った』と直すべきだろう。


つぶやき「古代」目次 a2 へ 戻る




(314) 『九州年号「白鳳」は、661ー684年で、白村江敗戦で倭国は実際には滅亡寸前だったのだ』 2011年1月16日(日)

 中学校の恩師が教えてくれた「何故だかわからないが、白鳳文化は、後の天平文化より優れている」と。今思うに、白鳳文化とは九州王朝「倭国」の文化であり、天平文化とは大和王朝「日本国」の文化だったのだ。九州年号「白鳳」は、661ー684年で、白村江敗戦で倭国は実際には滅亡寸前だったのだ。

 『二中歴』の『白鳳23年辛酉・対馬銀採・観世音寺東院造』の「観世音寺東院造」を、どうとらえるかであるが。九州年号は白薙・朱鳥・朱雀・大化の何れもが遷都をともなっている。ところが白鳳については、甘木王の突然の事故死で明日香皇子が急遽即位したで遷都の代り強いて言えばということだろう。

《ごっそり倭国「筑紫」から大和「奈良」へ移築された》

 だれが何ゆえ、命令したか?当初は大和側の強奪だ、なんと傲慢な仕打ちかと想っていたが、九州年号の改元来歴がわかり、
●朱雀元年684年、白鳳王「薩夜麻」崩御、大宰府⇒難波京遷都「朱雀」改元。
●朱鳥元年686年、「難波宮」焼失で、「浄御原宮」間借再遷都「朱鳥」改元。
●大化元年695年、倭国が「藤原京」遷都記念で「大化」改元。

 と、どうも「倭王」の「高市天皇」自らが言い出しっぺで、倭国の「難波宮」焼失で「藤原京」を造る上で、その建造日時短縮、費用節約で、大量の移築を命令したのではないか?と推量するようになった、のだ。

 ところで、「白鳳文化」なんてだれの言い出しっぺだろう。明治の美術家か?今我々は白鳳が九州年号だと知っているが、『続日本紀』神亀元年冬十月条(724年)に「白鳳より以来、朱雀以前、年代玄遠にして、尋問明め難し。」の聖武天皇の言い訳で「白鳳文化」なんて命名しないよな!

 ウィクペディアで『白鳳文化とは、645年(大化元年)の大化の改新から710年和銅3年の平城京遷都までの飛鳥時代に華咲いたおおらかな文化であり、法隆寺の建築・仏像などによって代表される飛鳥文化と、東大寺の仏像、唐招提寺の建築などによって代表される天平文化との中間に位置する。』と、言うが。

 正しくは、『白鳳文化は、九州「倭国」で、九州年号「善記」建元の522年頃から、696年滅亡の直前の「白鳳」より、更に前の白村江敗戦前の「白雉」末661年頃迄に花開いた文化。飛鳥文化は、同時代の「秦国」に花開いた文化』と言った方が分りやすい。ただし、多くは九州から奈良へ移築されたのだ。

「白鳳文化」というネーミングはともかく、阿弥陀信仰に支えられた、534年建造の薬師寺東塔・東院堂、607年創建の法隆寺、三十三間堂、長谷寺等の各建物・仏像が共通に放つ「気高い調和の美しさ」は我々素人眼にも感動を与える。そして、そのものが移築されたとしないと理解できないものなのだ。

 昨夜の月は突き刺さるような寒い空気に、美しく冴えわたる白い満月だった。現在の法隆寺の建物は狭い空間に押し込められ、何故かいびつである。嘗て、大宰府の『法興寺』として、今の観世音寺の地に、後ろに、京都『三十三間堂』を設え従え、おおらかにそびえた堂宇は如何ばかり厳かであっただろうことか。


つぶやき「古代」目次 a2 へ 戻る




(315) 『《うつけ と たわけ》上通下通婚の「婚」を「たわけ」といったそうです』 2011年1月16日(日)

 美濃では「たわけ」と言われていたようで、上通下通婚の「婚」を「たわけ」といったそうです。信長と妹のお市は浅井に嫁ぐ前から出来てて、その娘が茶々・淀君だそうだ。お市の3人の娘(茶々、初、江)のうち初・江は浅井長政との子で、秀吉が淀君でなければならなかったわけ。

 【織田信長はお市と近親相姦をしていた】《魚拓》
「大うつけ」と言われた信長ですが、
この「うつけ」という言葉、美濃では「たわけ」と言われていたようで、
上通下通婚(=近親相姦)の「婚(=まぐわい・Sex)」を「うつけ」・「たわけ」といったそうです。

 『信長と妹のお市は浅井に嫁ぐ前から出来てて、その娘が茶々・淀君だそうだ。』と思うと、NHKの大河ドラマを食い入るように見入ってる家族を、つい茶化したくなる。先の大桃さんとか麻木さんとかの人間模様なんぞはほんの軽いできごとなのだろう。

 私などは、この「うつけ」を①内部が空になってること、うつろ②ぼんやりしていること・人。「たわけ」を①おどけ、たわむれること。②おろかな人、ばか者。と辞書通りに解釈してたから、幼少時の信長は馬鹿なそぶりで周辺を油断させたと、でも考えようによっては、馬鹿は付入る隙があると言うことだ。


つぶやき「古代」目次 a2 へ 戻る




(316) 『1年ぶりの 「持統紀」はなかった(「高市紀」だった):飯田満麿著』 2011年1月18日(火)


 〔「持統紀」はなかった(「高市紀」だった):飯田満麿著〕
を1年ぶりに読んでみた。
 その時の記憶は、今は無いのだが、蛍光ペンで塗り込んだり、書き込みをしていた。たった1年ですが、今は昔って感じかな^^

 わたしが 『大和王朝は(難波副都で「天下立評」した)倭王家 〔分家の弟王家〕だ』 の考えに至った、今は亡き故飯田満麿氏が世に問う、埋もれた名著の
『 「持統紀」はなかった(「高市紀」だった):飯田満麿著 』
です、より多くの方々へ読んで戴ければ幸いです。

 飯田満麿氏は 『古事記』 に記載なくて、『日本書紀』 にのみ記載の 〔舒明天皇から持統天皇に至る八代の治績〕 中でも、終わりのほうの特に 「持統紀」 に注目されたようです。 が、私は始まりのほうの 『乙巳の変』・『大化の改新』 にカムフラージュされているとしか思えない 『天下立評』 に注目しました。

 おやっ!親孝行な息子さんですこと、私のは早稲田政経でしたので、ふところが^^    RT @2000BMW740i 息子のセンター試験93%、まずまずだったらしい。古都と学風に惹かれて東大ではなく京大を受験予定。

 いやー、それにしても寒いッ・ッ・ッー

 母親は子供の生まれた時から片時も離れずその成長を見守ります。で、その子の能力も見知っていますが、世の父親はそうではありません。合格まで落ち着かないもの。RT @2000BMW740i 合格してくれたら親は京都観光三昧になりそうです。古田先生・古賀さんも京都市在住なので楽しみです。

 稀勢の里、白鵬に連勝^^


つぶやき「古代」目次 a2 へ 戻る




(317) 『再々度:天武天皇は二人いた(日出島哲雄著)』 2011年1月19日(水)

 日本書紀は、673年(天武2年:白鳳13年)2月27日の項に、
●『〔天武〕天皇は、 —略— 帝位に即いた。正妃を立てて皇后とした。后は草壁皇子 「尊」 を生んだ。—略—』
○『天皇ははじめ、鏡王の —略—次に胸形君徳善の娘、尼子娘を納れて、高市皇子 「命」 を生んだ。—略—』
 同じ天武天皇の皇子に 「尊」「命」 の異なった「みこと」表記がされていて出典が違うことがわかる。
 同時に「二人で一役」の合成人間であることもわかります。
●大和王朝:「難波副都倭弟王家」出身の 天武天皇(=大海人皇子・持統の夫・草壁皇子 「尊」 の父)
○九州王朝:「大宰府倭兄王家」出身の 天武天皇(=明日香皇子・薩夜麻・白鳳王・高市皇子 「命」 の父)
 日本書紀が天武天皇を、「二人で一役」の合成人間で記述することは、全編を通じて九州王朝「倭国」を抹殺するが為でしょう。しかし逆に、九州王朝「倭国」を抹殺してるよ、と教えてくれてもいます。さらに、このことは高市皇子 「命」 が九州王朝:「大宰府倭兄王家」の出身であることを、はからずも我々に教えてくれてもいます。
〔参照:天武天皇は二人いた(日出島哲雄著)〕

 日本のひとりでも、多くの方にこのことを知っていただきたいので、繰り返しtwitterしてる。twitterの一過性の良いところでもあり、欠点でもある。実際に、日本書紀の「天武紀下巻」のページをめくって見てほしいのだ。一番最初にこのことが記述されサインペンで2グループ分けて見よう。

 要するに、『天武天皇』と聞いた時は、●大和王朝「日本国」の天武天皇(=大海人皇子・持統の夫・草壁皇子「尊」の父)なのか、○九州王朝「倭国」の天武天皇(=明日香皇子・薩夜麻・白鳳王・高市皇子「命」の父)なのかを、注意深く見分けて判断しないと、とんでもない、結論に達するということだ。


つぶやき「古代」目次 a2 へ 戻る




(318) 『〔近江朝遷都・天智『天皇』即位・『日本』号す〕が象徴するのは、『長門以東』の『独立』だ』 2011年1月20日(木)

 天武は『淑人(=倭王薩夜麻)』が、『よしとよく見て(=きっと了解してくれると読んで)』、『好し言ひし(=分かったそれで良いと言ってくれた)』更に、『芳野よく見よ(=郭務悰へこの作戦でどうだ、良く検討するように)』と、『多良人よく見(=あの時倭王薩夜麻が賛成してくれて良かった)』

 近江朝遷都と、天智の列島内最初の『天皇』即位、「阿麻来服」のちの「倭国更えて『日本』号す」に象徴される「長門以東」の『独立』だ。  筑紫都督府の唐の郭務悰は倭国の占領政策に行き詰まっていた。これに対し、唐が用意した変化球が「倭王」薩夜麻の解放・帰国で復位・倭国再統合だったのだ。


 〔近江朝遷都・天智『天皇』即位・『日本』号す〕  が象徴するのは、『長門以東』が倭国から『独立』したということだ。

 あとになって、「日本書紀」が神武東征以降、奈良・飛鳥に「大和朝廷」をでっち上げ、「日本天皇」が連綿と続くと、その前史にくっ付けたから、後人の我々は気付けなかったのだ。

 九州王朝「倭国」の甘木王に、難波副都での全権を委任されてた伊勢王(=斉明天皇)が亡くなり、後継の中大兄皇子は、洲柔・白村江戦に出征していない。甘木王の皇子の倭王薩夜麻が洲柔敗戦で囚われ連行后、『長門以東』を唐の筑紫占領軍から防衛し、その結果が『長門以東』が倭国から『独立』なのだ。

 ウィキペディアに『唐の高宗は668年、新羅と共同(羅唐同盟)して、隋以来敵対関係にあった高句麗を滅亡させる(麗唐戦争)。こうして新羅を除く朝鮮半島を版図に収め、安東都護府を設置、唐の最大領土を現出したが、676年に新羅が朝鮮半島全土を統一(羅唐戦争)すると、朝鮮半島経営を放棄した。』とある。

 『「倭国」・筑紫大宰府:難波副都対比年表』
を見ると、

○645年、唐高宗の高句麗攻撃開始。
○667年、長門以東(本州・四国)「近江朝」独立・遷都・天智即位。
○668年、新羅本紀に「阿麻(=近江朝の仮名)来服」。高句麗滅亡。
○670年、新羅本紀(天智「近江朝」)「倭国」更えて「日本」号す。
○671年、白鳳王「薩夜麻」帰国。郭務悰2千人・船47隻来。天智天皇崩御。
○672年、「壬申大乱」、倭国再統一・白鳳王「薩夜麻」復位宣言。「壬申大乱」天智「近江朝」滅亡。
○673年、倭国で復位の白鳳王が大宰府で大嘗祭。倭国「真人」大海人皇子が浄御原宮で天武天皇即位。

とある。

 唐の「高宗」は、645年、高句麗攻撃開始、以降。(途中、667年、長門以東「近江朝」独立。)668年、高句麗滅亡、で。当初の目的は達成したとして、対「倭国」戦は終結・撤兵しょうとしたと見るべきだろう。その結果が「壬申の大乱」だろう。

 唐の「高宗」は、拘留中の倭王「薩夜麻」に謁見を許し、『お前の本国は、天智とやらの反乱で揉めていると聞く。倭国はお前にくれてやる。復位を許そう、帰って、倭国を再統合し治めよ、二度と我ら唐に叛くでないぞ。』と、言ったとか・言わなかったとか。

 672年、白鳳王「薩夜麻」の復位・倭国再統一宣言で「壬申大乱」が起こり、大友皇子「近江朝」が滅亡した。673年、倭国で復位の白鳳王が大宰府で大嘗祭。倭国「真人」大海人皇子が浄御原宮で天武天皇即位。然し、天武は敢えて「真人」を名乗り、白鳳王「薩夜麻」に忠節を誓ったということだろう。

 大海人皇子が倭国の「真人」で、且つ、大和の「天皇」に即位というのは、現在の我々には理解できない。この「天皇」位は、半島で安羅王「安」が530年頃、「日本府」「天皇」を自称。列島で天智がこれを真似て踏襲したのが初めで、天武は天皇に即位ではなく「真人(=征討・征東将軍か?)」に即いたのだろう。

 鹿島昴氏はこの天智「近江朝」の子孫が、後に天武の奈良・大和朝廷を乗っ取り、京都の桓武王朝を開いたと書いている。洲柔・白村江敗戦で、祖国を追われた百済遺民は、筑紫・近江更に、東国へ逃れ再起を誓ったのだ。日本書紀は桓武(=百済王帰化人の始祖王)の時にも、更に書き直されたと書いている。








~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ~~




《 前 へ 戻 る 《  ( つぶやき「古代」 その010 )  》 次 へ 進 む 》


つぶやき「古代」目次 a2 へ 戻る







ここは、 ”と う や ん” twitter @t0_yan
山本 俊明 のホームページ です 。