大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 080 》
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ
白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、
日本書紀の〔 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権
2010年 4月 2日 発行
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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ https://waikoku.sakura.ne.jp/yamato.html 2:32 PM Apr 2nd webから □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ ▼▼▼
(1110) 『大室寅之祐の子が昭和天皇であっても、大正天皇の父は多分、田中光顕であろう。「高松宮発言」(昭和58年)』 2012年7月2日(月)
□ 《すこーし、違うと思うが…、まッ良いか》 ◇ ●ken(白人至上主義・世界植民地化反対)@kenkatap http://www.youtube.com/watch?v=K8xoMSYvdG4&feature=youtu.be 【不審死の原因】現皇室の秘密を暴くと、早死します...2/2: ▼明治維新とは、何だったのか..? ▼「大室寅之祐の子が昭和天皇であっても、大正天皇の父は多分、田中光顕であろう。」....「高松宮発言」(昭和58年) ◇ ToranosukeOomuroさんが 2012/06/05 に公開 歴史のタブーに挑んだ佐宗邦皇さんを偲んで... 明治維新とは、何だったのか...? 「大室寅之祐の子が昭和天皇であっても、大正天皇の父は多分、田中光顕であろう。」 ....「高松宮発言」(昭和58年)...... 「鹿島昇」は、弁護士から歴史家に転じた人物。1997年に『裏切られた三人の天皇』を出版し、翌1998年には『明治維新の生贄』が出版されました。 しかし明治維新に隠された秘密を暴いた「鹿島史学」は、大きな力によって歴史の闇に葬られようとしました。なぜなら、それは日本史のタブーの核心に迫るものだったからです。 孝明天皇が暗殺されたものだったことは、徳川慶喜にははっきり分かっていました。そこで慶喜はその真相を渡辺平左衛門に命じて調査させたのでしたが、その結果平左衛門は、岩倉具視と伊藤博文が暗殺を実行した事実をつきとめ、それを徳川慶喜に報告しています。そして鹿島昇は平左衛門の子・宮崎鉄雄から、その様子を詳しく伝え聞いています。それはそれは、あまりにも無惨な殺し方だったのです。 (渡辺平左衛門は)一部始終を目撃していた老女にも会ったというのである。天皇は厠の床下にひそんでいた伊藤博文に、下から突き刺されたという。殺害現場は堀河紀子の家(堀川紀子は岩倉具視の妹)。 1866年12月25日孝明天皇暗殺はまぎれもない事実であり、北朝という一つの王朝の消滅であった。 孝明天皇弑殺は12月24日深夜というが本当は25日の早朝であった。暗殺の立会人となる人物は中山と岩倉の関係者となる。将軍家茂が慶喜と慶永によって毒殺されたあと、孝明天皇は妾の堀川紀子の屋敷の便所で、床下にかくれていた長州の下忍伊藤博聞の忍者刀によって高貴なるお尻をえぐって殺され、その子の睦仁は御所に潜入した長州忍者の猿廻の猿によって手を傷つけられ、岩倉が買収した医者がその手に毒を塗って暗殺した。今やこのことを知る国民は一人もいない。 ...... 何故、伊藤博文と岩倉具視が、天皇暗殺と言う大罪を遂行出来たのか?その事実を、今まで、どうやって、知られる事なくいられたのか?について、不思議に思うかもしれませんが... 当時としては、十分可能だったのです。 現在の日本では、すべての日本人が天皇を知っていますが...当時は、一般には殆ど知られていない存在だったのです。 天皇を一般に知らしめたのは、明治時代の政府のキャンペーンによるモノだったのです。 あのね、当初、「天皇」という呼び名が、インドの下級仏神の「天王」と間違われて、かなりの誤解をよんだそーです。「牛頭天王」とか...国体明徴論で、現人神(あらひとがみ)と宣伝していましたから...笑い話でなくて、コレ、本当の話なんです。 すり替えを行って、そして、平然と、偽物を「万世一系」と呼ばせていたのです。 .....pinkglalemのブログ「糞蟲総理大臣」から.......・《魚拓》 佐宗邦皇さんがお亡くなりになったのは、2009年8月9日午前11時のこと。前日8日、ワールドフォーラムで司会のマイクを握り、御巣鷹山に墜落した日航機の話をしてかなりテンションが上がっていたようだと聞いている(画像が残っているのですが、私には、特に興奮しているよーには見えませんでした)。マイクを握ったまま体調が急変して救急車で病院に運ばれ、翌朝帰らぬ人となりました。 ◇ .@kenkatap .@takeshita_yoshi 《すこーし、違うと思うが…、まッ良いか》 2012年7月2日(月) 大室寅之祐の子が昭和天皇であっても、大正天皇の父は多分、田中光顕であろう。「高松宮発言」(昭和58年) □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ ▼▼▼
(1124) 『これが奇縁となって二人は知り合い、彼女の世話で南部町の料亭紅屋(紅喜)の土蔵に隠れることになる』 2012年7月6日(金)
□ 馬関の高杉晋作と伊藤 馬関(下関)は長州藩の最も重要な貿易基地であったが、元治元年(1864)8月5日、英米仏蘭の四国連合艦隊は攘夷決行の張本人たる長州藩の馬関砲台を一斉に砲撃して砲台を徹底的に破壊し、上陸部隊は装備の劣る長州藩兵を散々に打ち破った。 初陣の奇兵隊は壇ノ浦と前田の砲台を死守して大いに奮戦したが外国の優れた近代兵器の前には為す術もなかった。攘夷なんていってもその実力はなかったのであるが、この時長州が肥前ですでに開発したアームストロング砲を入手していたらムザムザ敗れることはなかったであろう。長州藩は四国に降伏して講和を申し入れた。 同年六月一〇日、井上聞太と二人で英国より帰国して無謀な攘夷の中止を主張した伊藤は急遽、下関に至って講和使節団の通辞を勤めることになった。 伊藤がイギリス軍艦ユーリアラス号の艦上で行われた談判に列席して、正使高杉晋作を援けて和議の成立に活躍したことはよく知られている。半端でも英語が喋れる伊藤と旧知の仲であったアーネスト・サトーの二人が話し合って根回ししたのが効いたか、三回目の正式交渉で和睦が成立した。 しかし、和議成立後の馬関での処理がまた大変で、五,〇〇〇人の外国軍水兵たちの食糧補給と対応、三〇〇万ドルの賠償金の工面などもあった。総じて敗戦側は卑屈になるものであるが、足軽出身の伊藤も色々と頭を悩ました。友人の田北から借りていた秘蔵の太刀を英艦長にプレゼントしたり、南部町の佐甲本陣にサトーを正式の西洋料理で招いたりした。その材料代の未払い分の処理を村田蔵六(のちの大村益次郎)に頼んだお蔭で、田北の刀の代金も藩から出して貰うことができた。 九月には賠償金問題で横浜へ赴くと既に幕府が長州の支払いを引き受けていたので難なく片付いた。ところが九月下旬に山口の湯田で井上が瀕死の重傷を受けた。伊藤も早速駆けつけたが、井上が「今二人が俗論党に殺されると藩内は闇になるからすぐに山口を去れ」というので、伊藤が馬関状況の報告方々山口の政治堂に赴くと、時の俗論党政府もかけがえのない通辞の伊藤が保守派壮士のテロに遇っては困るので、護衛のために力士隊をつけてくれることになった。 力士隊は萩藩のお抱え力士四〇人ばかりが山分勝五郎の肝いりで結成され、遊撃隊の来島又兵衛に所属して元治元年七月の蛤御門の戦いに奮戦した。しかし戦いが敗北して来島も戦死し首領がなくなっていたから、これによって力士たちは若手の新しい親方を持つことになった。 伊藤はこうして『外人応接係り兼力士隊総督』となり力士隊を率いて帰還したが、一一月に三條公以下の五卿が三田尻から長府に移ったので、その護衛を兼ねて力士隊も長府に移動した。 馬関の外人応接所は西南部町の本陣の佐甲家におかれて田中の海門に仮の住居を構えた。これが青年時代の三ヶ年半を下関で過ごした「馬関の博文」の幕開けであった。 ●一二月、力士隊を率いて、功山寺で高杉晋作らと挙兵する。 ●翌慶応元年(1865)正月、太田絵堂の戦いに参戦し諸隊も合流して奇兵隊が快勝した。 ●内戦に敗れた「俗論派は」藩政府から退けられ、「正義派」が復権して長州藩は再び幕府と決戦する体制をつくりあげた。 ●同年三月、高杉と長崎へ行き海外渡航を計る。 四月上旬、帰関直後「馬関開港」に反対する長府藩士泉十郎らテロ集団に狙われ始めたため、高杉はおのうを連れて四国へ逃げ高松の日柳燕石(くさなぎえんせき)を頼り、井上もお静を連れて別府に湯治とシャレ込んだ。伊藤も自宅まで壮士たちが押しかけてきたので、意を決して対馬へ渡る準備のために中之町の船宿伊勢屋に潜んでいた。 そんなある日、伊藤は路上で長府藩士らに見つかって咄嗟に亀山八幡宮の境内に逃げ、そこのお茶子のお梅が境内のゴミを捨てる溜用の穴に伊藤を入れてその上に腰を下ろしてかくまった。色白の長顔で目元はパッチリと大きくキリリとした一七才の娘であった。助けられた方は二四才、小柄ながら骨格たくましく、顔色は黒々として目は細く口は横に広くて男らしい風貌であった。 これが奇縁となって二人は知り合い、彼女の世話で南部町の料亭紅屋(紅喜)の土蔵に隠れることになった。紅屋は俊輔が詰めている外人応接所の佐甲本陣の筋向いにあり、四国へ逃げた高杉がここの男仕の民蔵を伴っている程だから、主人夫婦とも前からの顔見知りで何かと好都合であった。 (高杉の死後、伊藤は山県とともにかれの地位を襲った。高杉の死によって伊藤は維新政府に重きをなし、慶喜を追放してその政策を盗んだことによって維新の指導者となった。) ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ◇ 以上は、『 明治維新の生贄(長州忍者外伝) : 鹿島昇・松重正・宮崎鉄雄・共著 : 新国民社 』のp71、p72、p73に記載記事の抜粋・転載ですが、わが長州藩の明治維新の英雄・伊藤博文公とその妻・お梅さんとの「なれそめ」を書いた「くだり」である。 というのが、わが「高専」の同窓会で、先日4人で飲んでた折、私自慢の「吉田松陰が私の親戚に宛てた手紙」の話を遮って、先輩がやけに詳しいではないか…、こちらも酔っ払っていたので「うら覚え」のところ、確かその話どこかで読んだ記憶があって、それを探して昨日確認したところ、この二人のハネムーンの舞台を提供した 「南部町の料亭紅屋(紅喜)」 こそ、“な・なんと”先輩の母方の曽祖父夫妻だと知った。 「世間は狭いもんだよなー、山本ッ」、「女房はこの話にあまり、のってこないんじゃ」 だとか…ん・だよなー^^ そういえば、私の父方の曽祖父夫妻が徳山毛利藩・井上家老のむすめで身分不相応の結婚だというので、下関に駆け落ちして三人の娘を得た。その一人が私の祖母であるから、ひょっとして、すぐ近くで暮らしていたのかも知れない。今度いつか、戸籍から辿って調べておこうっと^^ それにしても、この著書の詳しいこと、どうやって調べたのだろう。 ●地図で、この二人の奇縁となった ▼ 【 下関市の亀山八幡宮 】 更には、 ▼ 【 高杉晋作が奇兵隊を挙兵した功山寺 】 と、その付近を探索してみよう! □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ ▼▼▼
今(1142) 『この時たぶん捕まって、英国ロスチャイルドと脈が通じ、松方正義の日銀創設に繋がった。日銀はFRBと同じ』 2012年7月19日(木)
□ ●のりかぞく@norikazoku @tohyan いつもリツイートしてくださり、ありがとうございます。歴史の話、実は私も好きなので、興味深いです。 ◎山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan .@norikazoku あれッ歴史に興味ありますか?今年のヒットと自画自賛のブログです。 ▼ 【2012年3月3日(土)自分なりに、『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』を、訳してみることにした。はて・さて…】 この墓誌が出てきたことで、ほぼ(自説を)確信しました。 ●のりかぞく@norikazoku @tohyan すごいですね。これを訳すとは・・・・!!”とうやん”さんのレベルではないですが、歴史は好きです。歴史は、今につながっていますし、歴史は結局、繰り返していますから。さまざまなヒントをくれます。 ●三木竜一 ぽちまる@LongMikI @norikazoku @tohyan histry repeats itself なり ◎山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan .@norikazoku このブログ見ただけで…、“うんざり”されたと、思うんですよね^^ 意訳しょうかとも思ったのですが、直訳のままにしています。九州王朝「倭国」が白村江戦で敗戦して、唐の捕虜になった倭王・薩夜麻が壬申の乱で、倭王復位と倭国再統合したと分かります。今と似てます。 ●のりかぞく@norikazoku @tohyan ひいてませんから安心してください。倭の国の頃はあまり詳しくないので世界が広がります。私は江戸時代ですね。王道ですが。あと昭和初期に、疑いをかけられて戦犯にさせられた人達の話です。 ◎山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan .@norikazoku たはッさよか^^ 唐を現米国に、九州王朝「倭国」を現日本に、置き換えると、白鳳時代が昭和時代に相当し、白村江敗戦は太平洋戦争の敗戦に相当します。大飯原発再稼働・消費税大増税が、米国の意図を“あからさま”に反映している、と感じているのは私ひとりでしょうか? ●のりかぞく@norikazoku @tohyan 私もそう思っています。アメリカをみて、政府は動いています。 ◎山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan .@norikazoku 消費税増税に何故アメリカの影を感じるかですが。長州が英国公使館焼討ち事件に遡ります。高杉晋作、伊藤博文、井上馨他数名が焼討ちしたとなっていますが、この時たぶん捕まって、英国ロスチャイルドと脈が通じ、松方正義の日銀創設に繋がったと。日銀はFRBと同じです。 ●のりかぞく@norikazoku @tohyan そのつもりでまた調べちゃいます。好きなことは苦になりません(笑) ◎山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan .@norikazoku 続》東日本大震災復興資金を得る為日銀に打診すると、日銀は“とあるすじ(=ユダ金)”にお伺いをたてた。日銀券の発行は良いが、その代償は消費税であてるように、とかなんとか指示が有った。ん・なもんで、野豚総理は船橋の駅前演説を反故にして消費税を強引に可決した。 ◎山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan .@norikazoku 続》この辺の事は下々の我々には伏せられててわかりませんが、小沢新党首は先に訪英して何をしたのか?私思うに、英国ロスチャイルドとたぶん、繋がりがあって、敢えて、「国民の生活が第一」党の結党になったとGUESSしています。ロックフェラー系とは早くおさらばしたいす。 ●三木竜一 ぽちまる@LongMikI @tohyan @norikazoku 世界のユダヤ金融に逆らったら殺されるからね。昨日ホロコーストの最後の大物(97才)がブダペストで逮捕された位根深い民族だから。 ●のりかぞく@norikazoku @LongMikI @tohyan また厳粛に守る人達は真夏でもシルクハットで黒のヨレヨレスーツで もみあげ長い。夜、会合で集まっている姿をみて恐ろしかった ◎山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan .@LongMikI .@norikazoku ナポレオン、リンカーン、ケネディと大物の暗殺をはじめ、日本では中川一郎、昭一父子もそうだと言われています。中川昭一はコインを政府が発行するとして暗殺されたと言われています。おっかないす、「原発再稼働反対」はとんでもないことなのです。 ◎山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan .@norikazoku .@LongMikI 先の代々木の集会は大江健三郎氏が主催者だった。瀬戸内寂聴さんも高齢をおして講壇に立たれ、老朽の広瀬隆さんが講壇に立たれたわけですが、広瀬隆と言えば「ロックフェラー・モルガン・ロスチャイルド」研究の一任者でしょう。勇気がありますよね。 ◇ ●のりかぞく@norikazoku @tohyan @LongMikI 私のアメリカ向きの顔というのは、もっと、浅い知識からでした。すばらしい”とうやん”さん。しかし、瀬戸内寂聴さんは、ブームにのっているように見えます。私の斜めから目線なのか。 ●のりかぞく@norikazoku @LongMikI @tohyan しかし、イスラム教徒が、いずれ世界第一人口になる日がくると思うので(増加の勢いがすごい)その時、どうなるんでしょうかね。 ●のりかぞく@norikazoku @onodekita 先生、お時間があれば@tohyanさんの昨晩のツイートを見てください。反原発、小沢一郎新党問題で、面白いことが書いてあります。私の浅さを実感したツイートです。 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ ▼▼▼
昔(1191) 『中国史書には「倭国」「秦国」と出るのに、日本書紀には“一言も”出てこない。「日本国」は新羅本紀が初見』 2012年8月16日(木)
□ ●Conflict@macos9x @tohyan まだトップページしか読破していない状態ですがもうヘトヘトです(笑)。それからトップページのレンダリングに関するご報告を。FireFox、Opera等では「Ⅳ・①・・・」のあたりから「蝦夷国→・・・」までの間で文字が重なっています。IE8では正常表示でした。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan .@macos9x あーッ読んで頂いてるんですね。IE8以外で読むとダメなんです、直さなきゃと思ってるんですが^^ 要は九州王朝「倭国」が白村江戦で敗れ、分家近江朝と分裂し、壬申の乱で再統合、筑紫 ●Conflict@macos9x @tohyan はい、読ませていただいています。いろいろな説がありますし、勉強になります。情報量の多さにビックリです。地域の画像なども拝見しています。やはり難しい印象ですね。恐らくですが、あれだけの記述量は何年間も要されていますよね。また合間を見て引き続き読ませていただきます。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan .@macos9x 前に九州から近畿へ遷都の契機を白鳳地震と書きましたが「筑紫地震」の間違いです、ごめんなさい。中国史書の記述には「倭国」「秦国」と出るのに、日本書紀には“一言も”出てこない。 「日本国」は670年新羅史が初見です。木簡には「評」と出る700年迄が倭国、701年以降が日本国です。 ▼ 【2010年11月8日(月)新羅本紀「阿麻来服」と倭皇天智帝:西井健一郎氏】 ●Conflict@macos9x @tohyan ありがとうございます<(_ _)> 「説」というもには一般的に賛成・反対がつきものですね。信憑性という問題もあるとは思いますが、過去の貴重な文献に「こういうことがあったらしい」という感じのものがあると単純に興味深いですよね。「本当はどうだったんだろう?」っていう。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan .@macos9x 情報量の多さは、いつの間にかですね。これまで先人が発見したり、解明した史実を、ネット等通じて手繰り寄せ、転記しています。ただ列挙するだけでなく、これを系統だって整理し、つなぎ合わせ、これに整合性を持たせた場合、本来はこうだったのではないかと解釈し直しています。 ●Conflict@macos9x @tohyan 気が遠くなるようなホントに大変な作業ですね。通常の執念ではできないと思いました。あれだけの情報をすべて理解しながら、さらに整理をして、つなぎ合わせていく作業ですからね。いかに大変かは想像に難くないです。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan .@macos9x 先に「九州王朝」の隠蔽も、古田武彦氏・古賀達也氏・正木裕氏がほぼ解明された書きました。更に、漫然とでなく ▼ 【「持統紀」はなかった、本来は「高市紀」だった:飯田満麿著】 をヒントに倭国の滅亡と日本国の誕生に照準を絞っています。 ●Conflict@macos9x @tohyan 実際にどういう歴史があったのか、どんなことが発生したのか、面白いです。九州の地理的な意味合いにも関心があります。何せ大陸に近いですから。それに九州は不思議な感じを受ける地域、場所がありますね。熊本などでは「米塚と阿蘇谷」周辺とか。神秘的な印象を受けます。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan .@macos9x 「実際にどういう歴史があったのか」おっしゃるとおりです。たかだか、1年半前の福一事故さえもが解明できないのです。まして、千三百年以上も前の歴史が分かろうはずがありませんが、少なくとも「日本書紀」は九州王朝「倭国」史書の九州年号を巧みに操ることで改竄しています。 ●Conflict@macos9x @tohyan 「改ざん」は昔からずっと続いていますね。歴史探索から急激に現実に引き戻されますね。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan .@macos9x そうです、とりわけ、九州王朝「倭国」と唐国の白鳳期の白村江戦前後と、同様に、日本国と米国の昭和期の太平洋戦争前後が「改竄」が著しいと思います。後者は『戦後史の正体:孫崎享著』に、括目すべき内容が表現されています。若しまだ読まれていないなら、ぜひ一読を勧めます。 ◇ ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan .@macos9x ▼ 【2012年8月16日(木) 中国史書には「倭国」「秦国」と出るのに、日本書紀には“一言も”出てこない。「日本国」は新羅本紀が初見】 □ ▼▼▼
昔(1194) 『曾祖父は花岡八幡宮にある国内最長「破邪の御太刀」(全長4・6米)国綱門下7人衆の一人で刀鍛冶だった』 2012年8月18日(土)
□ ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan 明治維新で、伊藤博文が何故一番出世したのか幼い私には不思議だった。親戚の仏壇には、吉田松陰先生から来たはがきがあると父が良く自慢してたが、確かにその門下生ではあったが、ほとんどが萩近辺の長門出身であり周防呼坂出身の彼はとんと縁が無かったはず。鹿島昇の本を見るまでは分からなかった。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan 曾祖父は花岡八幡宮にある国内最長「破邪の御太刀」(全長4・6メートル)国綱門下7人衆の一人で刀鍛冶だったそうだ。その花岡八幡宮の石段下の向かいに父の友人の児玉金吾という方がいて毛利徳山藩児玉源太郎元帥の甥っ子だといってました。周防での偉人は奇兵隊天皇こと明治天皇と伊藤博文の3人。 ▼ 【 花岡八幡宮大祭 - FC2 】・《魚拓》 ▼ 【 山口県下松市 花岡八幡宮 花岡八幡宮御鎮座1300年式年祭の紹介 2008-4-29 】・《魚拓》 ▼ 【 山口県下松市 花岡八幡宮 花岡八幡宮御鎮座1300年式年祭の紹介 2008-4-29 】・《魚拓》 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan 以上この2つのツイート(つぶやき)は、私がtwitterはじめたばかりのものだが、140字以内の枠内に無理やり押し込もうとしてて、窮屈に感じるけど・・・、 ▼ 【 2010年5月8日(土) 周防での偉人は奇兵隊天皇・伊藤博文・児玉源太郎の3人 】 ◇ ▼ 【 YSミニ辞典(に) > 日本刀(にほんとう、にっぽんとう) 】・《魚拓》 《ご注意》下記は、上記の一部抜粋・転載ですので悪しからず。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ● 【 日本刀(にほんとう、にっぽんとう) 】: 日本固有の製法による刀剣類を総称し、太刀(たち)、刀(かたな)、脇差(わきざし)、短刀(たんとう)などをいうが、広義には薙刀(なぎなた)、槍(やり)など刀鍛冶(かたなかじ)によって製作されたものすべてを含める。 古墳時代から日本人の手になる作刀があるが、普通日本刀として思い起こされる彎刀(わんとう)は、平安時代末期に基本的形態が完成した。鎌倉時代に技術的に最高水準に達し、室町時代以降需要の増大とともに質的低下をみた。 さらに豊臣秀吉の刀狩りを境に質的にも形の上でも大きな変化があり、慶長(1596~1615)以前のものを「古刀」、以後のものを「新刀」と呼ぶ。 また、その外装である拵(こしら)えは高度な機能美を要求され、鐔(つば)・目貫(めぬき)・笄(こうがい)などの金工品は常にその中心的制作対象とされた。 普通、日本刀は西洋の剣(つるぎ)と異なって柄(つか)が長く、両手で使用する様式であり、片刃で反りをもち、長寸のものは鎬造(しのぎづくり)となる。 踏鞴(たたら)を用いて低火度で製錬して得る玉鋼(たまはがね)を原材料とし、軟鉄を心鉄(しんがね)に、鋼(はがね)を皮鉄(かわがね)にして包む独特の鍛造法が用いられ、機能性と造形的均整美に優れたものが多いが、さらに刀身全体でなく刃の部分だけに焼入れがなされる結果、刃文(はもん)(刃の文様)が現れ、鋼を鍛錬したことによる地肌(じはだ)(肌目(はだめ))の文様とともに固有の美しさが表現されている。 ● 【 世界一長い日本刀 】: 山口県下松市の指定有形文化財で花岡八幡宮所蔵の「破邪の御太刀(はじゃのおんたち)」は刃長345.5cm、中茎120cm、反28cm、身幅13cm重ね3cm、重量75kgで世界一長い日本刀である。 1859(安政6)年はちょうど花岡八幡宮の式年大祭に当り、氏子が、刀匠・藤原国綱に製作を依頼したもので、弟子5人、手伝2人を従え、砂鉄三百貫を鍛えあげ、川をせきとめ、焼きを入れて作りあげたという。 【 世界一長い日本刀 】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《抜粋は以上です。》 ◇ ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan この花岡八幡宮「破邪の御太刀(1859年)」を打った「国綱」門下7人衆の一人が曾祖父だ。後に徳山毛利の家老井上公の娘と懇ろになったらしいが、刀鍛冶故、身分が違うということで、結婚を許してもらえなかったらしい。下関へ二人で駆け落ちし、3人の娘を得た。その一人が私の父方の祖母である。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan この「破邪の御太刀」はすごい古い時代の刀ではとも勝手に思ってたが、我が家の言い伝えとも合致するので幕末のものだ。 ▼ 【 2012年8月18日(土)曾祖父は花岡八幡宮にある国内最長「破邪の御太刀」(全長4・6米)国綱門下7人衆の一人で刀鍛冶だった 】 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ ▼▼▼
昔(1258) 『書紀かぶれの岩上さん見てね^^ 【九州王朝「倭国」】【大和朝廷「日本国」出生秘話】【出生《つぶやき》】』 2012年10月3日(水)
□ ●岩上安身@iwakamiyasumi 続き。白村江の戦いでの敗戦という手痛い経験を踏まえ、大化の改新以来続いてきた中央集権体制確立事業をさらに推し進めた天武天皇が、「古事記」「日本書紀」の編纂を行わせたのは、支配階級を形成する各地の諸豪族から天皇一族を聖別し、国家意識の高揚をはかるためでもあっただろう。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan .@iwakamiyasumi 書紀かぶれの岩上さん見てね^^ ▼ 【 九州王朝「倭国」 】 ▼ 【 大和朝廷「日本国」出生秘話 】 ▼ 【 大和朝廷「日本国」出生秘話《つぶやき:「古代」目次編 a 》 】 ●岩上安身@iwakamiyasumi 属国に甘んじ、沖縄にしわ寄せして頬被りしてきたツケ。 RT @yori1335: 日米地位協定では米軍の犯罪を追及できるのは殺人・レイプのみ。韓国では2012年5月23日に地位協定が改訂され、刑事犯罪対象の制限を撤廃。地位協定は改訂できる。 ▼ 【 日米地位協定 】 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan .@iwakamiyasumi 岩上さん暇してる? えッ!って思われるでしょうけど… 『唐と倭国の白村江敗戦』と、『米国と日本の太平洋戦争敗戦』 その結果生まれた 『古事記・日本書紀』と、『安保条約・日米地位協定』 は極端に言うと非常に似ています。 『戦後史の正体』を読むとつくづく思いますだよ ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ ●岩上安身@iwakamiyasumi 神話のふるさと島根から帰ってきて、書庫から古い岩波文庫版の「古事記」を引っ張り出し、昨日、今日とパラパラめくる。つくづく感じるのは、出雲神話の占めるウェートの大きさ、存在感。古事記三巻中上つ巻は、スサノオノミコトや、その子孫、大国主命が活躍するおなじみの物語がずらり。 ●岩上安身@iwakamiyasumi 続き。スサノオが退治したとされるヤマタノオロチは、出雲の斐伊川が氾濫する様子の表象で、退治とは治水事業と解されている。稲葉の白ウサギの物語も、国引きの神話も、国譲りの神話も、出雲神話。島根の地に足を運ぶと、古事記成立の8世紀の時代とさして変わらない、八雲たつ出雲神話の光景が。 ●岩上安身@iwakamiyasumi 続き。神話は、古代の歴史的事実の、なにがしかは伝えているものだと思う。時系列はぼやけているが、舞台となった空間はそう大きく変わらない。現代の事件の現場だけでなく、神話の現場にも足を運んでみるのは大事なこと。地理的空間を実感することで、建国の消息をうかがい知ることができる。 ●岩上安身@iwakamiyasumi 続き。 【 スサノオが新羅から上陸したとされる神島 】 。新羅からはアメノヒボコという新羅の王子もやってきたと、記紀に記されている。地元の方は、「海流の影響か、海岸にハングル文字の書かれた瓶など、いろいろなものが韓国から漂着する」と。昔も今も。 ●岩上安身@iwakamiyasumi 続き。それだけに、国引きの神話の下りには、さまざまな思いにとらわれる。ヤツカミズオミヅノミコト(八束水臣津野命)が、「出雲は土地が狭い。余っている土地をよそから持ってこよう」と言って、周辺四ヶ所の土地に綱をかけ、引っ張ってきた。新羅の岬、隠岐の島、能登半島の珠洲、弓ヶ浜半島。 ●岩上安身@iwakamiyasumi 続き。もちろん、遠くの土地を引き寄せることなど、現実にはできはしない。国引きの神話が伝えるのは、出雲の土地の開拓、干拓などの古代公共事業の記憶であり、「引き寄せた」のは、その土木事業に従事した労働者ではないか、と思うのだ。 ●岩上安身@iwakamiyasumi 続き。大事なことは、出雲を中心としてぐるりと見渡すその視野に、「新羅の岬」が収まっていたこと。地理的に、出雲と新羅はそれほど近いということ、同時に、この神話の成立時期は、高句麗、百済、新羅の三国が並び立った三国時代(紀元4〜7世紀とも)からそう遠く外れていないことを意味する。 ●岩上安身@iwakamiyasumi 続き。新羅が国号を改めて新羅と名乗ったのは、503年。古事記成立は、712年(和銅5年)だから、そう古い昔ではない。地理的にも近い出雲と新羅は、深い関わりがあったことだろう。他方、北九州及び大和の王権は百済と密接な関わりがあった。新羅と唐が組んで百済を滅ぼしたのは660年。 ◇◇ ●岩上安身@iwakamiyasumi 続き。斉明天皇のもとに百済から救援の要請が届いたのが660年。しかし661年、斉明天皇は病没。遠征事業を継いだのは中大兄皇子。蘇我入鹿を自ら斬り捨てた乙巳の変は645年。その後、大化の改新を行い、公地公民制、中央集権制、班田収受法など一大改革事業に取り組んでいた最中の出兵である。 ●岩上安身@iwakamiyasumi 続き。だが、170隻もの軍船を率いて唐・新羅連合軍に挑んだ倭軍は、白村江の戦いで大敗を喫してしまう。7世紀当時としては、世界帝国を相手にした世界大戦で大敗したわけで、大変なショックだったろう。滅んだ百済の王族らを伴って引き揚げたあと、中大兄皇子は即位して天智天皇となる。 ●岩上安身@iwakamiyasumi 続き。その天智天皇の崩御のあと、皇位継承をめぐって戦乱が巻き起こった。壬申の乱。672年。翌673年に天智天皇の弟・大海人皇子が即位。天武天皇を名乗る。これまでの大王(おおきみ)という尊称から、初めて天皇号を名乗り、「古事記」「日本書紀」を編纂させた。 ●岩上安身@iwakamiyasumi 続き。白村江の戦いでの敗戦という手痛い経験を踏まえ、大化の改新以来続いてきた中央集権体制確立事業をさらに推し進めた天武天皇が、「古事記」「日本書紀」の編纂を行わせたのは、支配階級を形成する各地の諸豪族から天皇一族を聖別し、国家意識の高揚をはかるためでもあっただろう。 ●岩上安身@iwakamiyasumi 続き。ミニ<帝国>としての日本、という国家意識は、この7世紀までにはすっかり根をおろしていたものと思われる。大和朝廷の、東国の先住民に対する侵略と征服という事業はずっと継続中だった。 ●岩上安身@iwakamiyasumi 続き。朝鮮へ出兵した斉明朝は、他方では、658年、659年、660年と、安倍比羅夫を将軍とする東国への遠征軍を、三年連続ではるか蝦夷(北海道)の地まで送り込んでいた。この地でツングース系の粛慎(あしはせ)の部族も討っている。 ●岩上安身@iwakamiyasumi 続き。はるか蝦夷(えぞ)まで遠征した安倍比羅夫は、中大兄皇子に命じられ、662年、今度は唐・新羅連合軍との戦いに挑み、663年、破れている。文字通り、東奔西走。列島の西半分に勃興しつつあった小帝国にとって、エミシという夷狄(野蛮な蛮族)は征服し、隷属させる対象に他ならなかった。 ●岩上安身@iwakamiyasumi 続き。東国に先住していた縄文人直系のエミシ(蝦夷とも表記する)は、大和朝廷への服属を拒み続けた。安倍比羅夫の遠征軍のあと、8世紀には坂上田村麻呂が征服戦争を挑み、アテルイらが迎え撃っている。頑強に抵抗したアテルイに手を焼き、懐柔工作によって武装解除させ、関西に送って首をはねた。 ◇ ●氷室隆@himurotakasi 坂上田村麻呂は朝鮮からの渡来人百済系の東漢氏。娘の春子は桓武天皇の妃で葛井親王を生んだ。桓武天皇の母は百済王家の子孫で高野の新笠。桓武天皇の父の白壁王の母は渡来人秦氏系紀氏の一族の紀橡姫。桓武天皇は渡来人の武力で東北を制圧し、渡来人秦氏の本拠地に平安京を築いた。 ●氷室隆@himurotakasi 幕末になると秦氏の正統と称する長宗我部の元家臣の一領具足たちと、信濃の秦氏の子孫である鎌倉武士・島津氏の下級武士たちが、長州藩を巻き込んで明治維新に成功。土佐の自由民権運動の闘士竹内綱の5男に生まれた吉田茂は大久保利通の二男牧野伸顕の女婿となり、その娘は麻生太郎を生んだ。 ◇ ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan .@iwakamiyasumi いえね、まさか岩上さんが古代史に詳しいとは知りませんでしたのでね^^ ▼ 【 2012年10月3日(水) 書紀かぶれの岩上さん見てね^^ 『九州王朝「倭国」』 『大和朝廷「日本国」出生秘話』 『出生《つぶやき》』 】 □ ▼▼▼
昔(1263) 『倭国更えて日本と号す。「日出づる所に近し」とは【東】をあらわす。「日辺に在る」とは【南】を表わす。』 2012年10月5日(金)
□ ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan 日本( ひのもと ) の『( もと )で辞書を引くと、同じ( もと )でも、 ( 本 : 主となるもの・中心・よりどころ) ( 元 : 物事のおこり・はじめ・起源) ( 下 : あたり・そば・かたわら )』、 いっぽう、 『辺( へ ) : ほとり・近く・そば )』 だ。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan 三国史記新羅本紀文武王10年670に、 『倭国更えて日本と号す。自ら言う 「 日出づる所に近し 」 と以って名と為す。』 と記述し、 一方旧唐書には 『その国 「 日辺に在る 」 を以て故に日本を以て名と為す』 と記述している。 明らかに字義が違うと思うが、日本の遣使者達は当地でどう説明したのか、はてさて。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan 新羅は「白日」で「日の出の国」であり、日本は「日出づる所に近し」で同義異字である。 遣唐使は同様に唐朝の官人へ言ったと思うが、彼らは以前に安羅が日本府を号した時「日辺に在る」からと言ったというが、あなた方はその日本を踏襲したいんでしょう。 ならば、「日辺に在る」が正しいのじゃないの。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan 「日出づる所に近し」とは、 【 東 】 をあらわす。「日辺に在る」とは、 【 南 】 を表わす。 安羅が日本府を号した時の「日辺に在る」は、韓半島の最南端にあったからだろう。 たぶん、近江朝天智天皇が言っただろう『倭国更えて日本と号す。自ら言う「日出づる所に近し」と以って名と為す。』東の国という事だ。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan 面白いことに、 ▼ 【 旧唐書 】では、 『…其の國、以って日辺に在り。故に日本を以って名と爲す。』 と 【 南 】 を言い、 ▼ 【 新唐書 】では、 『…日本と號す。使者自ら言う、國、日出ずる所に近きを以って名と爲すと。 』 と 【 東 】 を言う。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan ▼ 百済本紀で500年代初頭に「 日本府 」を称した安羅王の安、 ▼ その約150年後、三国史記新羅本紀文武王10年670年『(長門以東の)倭国更えて 日本 と号す』の天智天皇、 ▼ 更に31年後、旧唐書『その国「日辺に在る」を以て故に 日本 を以て名と為す』の701年の大和朝廷の文武天皇の各王族は同じ係累と考えられる ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan 日夲餘噍とは? 【大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序】 『于時日夲餘噍,拠扶桑以逋誅』 《「日本」の「餘噍(ヨショウ:生き残った人民)」が、「扶桑」に據(ヨ:よ)って、以って、誅(チュウ:誅罰)を逋(ホ:のがれ)んと、于(カン:さからう)時。》 □ ▼▼▼
昔(1265) 『明治天皇の「正統は南朝」発言、何故このような自己否定的発言になるのか?大室寅之祐(明治天皇)の出自』 2012年10月6日(土)
□ ●道産子詩人@pikkipikki (承前)明治天皇「正統は南朝」発言もそうだが、何故このような自己否定的言うのだろうか(言わされたというのが真相かもしれないが)・・日本人は歴史的に何でも矛盾を感じずに受け入れてきたいい加減な民族で、むしろ博物館図書館的性格を否定の明治期の廃仏棄釈や伝統ある鎮守さまの廃棄こそ汚点! ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan .@pikkipikki ありゃ・りゃ、このことご存じない。。。。 ▼ 【 帝国電網省 】 《 20-1.大室寅之祐(明治天皇)の出自と近代皇室について (2002.5.7) 》 ⇒ (このページ前より不便になった)⇒ 歴史再考の17.18.19.20.を読もう! ●道産子詩人@pikkipikki @tohyan 「大室寅之祐(明治天皇)の出自と近代皇室」についての情報ありがとうございました。何度か本で読んで、証拠写真数枚も見たことがあるのですが、本を再読してる暇がないもんで、つい省略を・・これからまた本やブログを読みなしてからまたコメントを・・ ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan .@pikkipikki この帝国電網省を開くと“どひゃー”ってびっくりすると思うんですがね。内容は非常にまじめで論理的です。 ご本人の竹下義朗.@takeshita_yoshiさんがtwitterやってられます、ご本人に聞いてください。 鹿島の本は、なにせ「発禁本」ですからね^^ ◇ ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan ▼ 【 2012年10月6日(土) 明治天皇の「正統は南朝」発言、何故このような自己否定的発言になるのか?大室寅之祐(明治天皇)の出自 】 □ ▼▼▼
昔(1268) 『この戦後の日本がこの「事大主義」に陥っていたとは、私も夢にも思っていなかったのですね』 2012年10月9日(水)
□ ●三宅雪子 @miyake_yukiko35 今日も党員・サポーターのお礼の電話。福生の方はとても喜んでくださった。 しかし。どなたにお電話しても候補をだしてくださいと言われる。メールやツイッターなどでも多く同様のご意見頂く。小沢代表は100人と言ったがもっと出したいところ。 ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan .@miyake_yukiko35 そうだ、私の神奈川4区は決まってますか?候補を出してください。またまた、小沢チルドレンの大量生産になるかも知れないけど、山っ気で大いに期待しています。ところで、三宅先生自身も「辻立ち」と大変でしょうけど、風は吹いてるよーって言いたい。頑張れー! ●旅人 @tomoozw 今日大阪駅前で「大阪宣言の会」が演説とビラ配り活動をしました。ビラがどんどんなくなりましたよ。メディア世論調査は捏造だと感じた。風は吹いてますよ~~ @tohyan三宅先生自身も「辻立ち」と大変でしょうけど風は吹いてるよーって言いたい。頑張れー! @miyake_yukiko35 ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan .@tomoozw .@miyake_yukiko35 ありがとう! 大阪府民は大きな挫折を味わったと思う。古賀茂明.@kogashigeaki ●旅人 @tomoozw 私達も活動終えた後その事を話し合ってました。民主主義の美名の下アメリカはとんでもないプレゼントを押しつけ続けてきた。感謝さえしてた無知な我々と @tohyan 「日本人が日本人を拘束する」 『戦後史の正体:孫崎享著』を知るまでは私も知らなかった@miyake_yukiko35 ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan .@tomoozw .@miyake_yukiko35 半島の統一新羅・高麗・李朝の「事大主義」をご存じですか? まさか・まさか、この戦後の日本がこの「事大主義」に陥っていたとは、私も夢にも思っていなかったのですね。 情けなや!吉田茂の属米が、国の骨幹をむしばんでいます。立て大和魂! ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan .@tomoozw .@miyake_yukiko35 ご存じですか? ▼ 【 古代の日本で、如何に重要な史実だったかが分かるというものだ。『源氏物語』に隠された史実とは? 】 … ⇒ 『源氏物語』には太政大臣と式部卿が亡くなったことが記されますが、さらに二十六歳の弾正尹(だんじやうのいん)(現在の警察庁長官)為尊(ためたか)親王も亡くなる事件でした。 ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan .@tomoozw .@miyake_yukiko35 いうなれば、「戦後史の正体」も、“ぎょ・ぎょ”ならば、『源氏物語』と『和泉式部日記』も、“ぎょ・ぎょ”なのだ。(米国を唐国に変えれば良い。) ご注意、決して『源氏物語』と『和泉式部日記』を平安時代の書物と考えられませんように。 ●旅人 @tomoozw ちょっと、いえだいぶ教養不足で存じませんでした。人間って進化しない生き物なのですね。 @tohyan 『源氏物語』には太政大臣と式部卿が亡くなったことが記されますが、さらに二十六歳の弾正尹(だんじやうのいん)(現在の警察庁長官)為尊(ためたか)親王も亡くなる事件でした。 ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan .@tomoozw 読んで頂けたんですね。この事件は当時のあらゆる書物を改竄隠蔽していますが、米田良三氏が解明されています。唐国は今の米国ですね ▼ 【 古代の日本で、如何に重要な史実だったかが分かるというものだ。『源氏物語』に隠された史実とは? 】 ●旅人 @tomoozw 歴史に学べというけれど、人間の学習能力は低いものですね。私は歴史の知識も低いですが、知識はあっても事大主義にやすんじる指導者が多いということ。 事大主義脱皮行動しようとする稀有な卓越した指導者は潰される。悲しい繰返しに民意で終止符を! @tohyan @miyake_yukiko35 ●山本 俊明 “ とうやん @tohyan .@tomoozw .@miyake_yukiko35 《事大主義脱皮行動しようとする稀有な卓越した指導者は潰される。悲しい繰返しに、民意で終止符を!》 ⇒ そうです、と同時に鳩山政権が辺野古で潰され、菅内閣が誕生したあたりの“からくり”を、十分に解明し対処して置く必要があります。 ◇ ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan .@tomoozw .@miyake_yukiko35 この戦後の日本がこの「事大主義」に陥っていたとは、私も夢にも思っていなかったのですね。 □ ▲▲▲ □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 《 前 へ 戻 る 《 ( つぶやき「古代」 その080 ) 》 次 へ 進 む 》
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