大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 067 》
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ
白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、
日本書紀の〔 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権
2010年 4月 2日 発行
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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ https://waikoku.sakura.ne.jp/yamato.html 2:32 PM Apr 2nd webから ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
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(991) 『「大化の改新」は695年藤原京であった倭王高市天皇暗殺を50年前に移すと同時に、新羅史比曇の乱との合成だ』 2012年4月17日(火)
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●淺井憲@asaiken23
少し違う。「大化の改新」は695年藤原京であった倭王高市天皇の暗殺を50年前に移すと同時に、新羅史・比曇の乱とを合成したものだ。唐におもねたのでしょう。
●淺井憲@asaiken23
鹿島説の早合点といえる。白鳳倭王は倭国を再統合した。
インカの作物ですよね。なんでだろう?これ以降をリツイートしてるんだけど、消えて元に戻っちゃう(1日に送信可能なツイートの制限数を超えています。だって)。。。 あなたのツイートを読んでると私とそっくり、同じな気がします。私より少しお年を召されてる^^RT @asaiken23 ナス科にはナス、トマト、ピーマン、ジャガイモ等の必須野菜が多い。
●淺井憲@asaiken23
えッ『610年、隋とイ妥国が断交した時期…奈良に撤退の記述』初耳ですね…そんな記述どこに書かれていますか?
●淺井憲@asaiken23
倭国は洲柔・白村江戦で敗戦し、倭王が捕虜になり筑紫は開城したが、滅亡したわけではない。倭国の難波副都軍は近江へ遷都し、長門以東を日本国に一旦は独立。為に唐は倭王を解放。倭王は壬申乱で再統合した。のちに、難波副都一派が倭王を暗殺・のっとり、大和朝廷が開闢。RT @asaiken23
●淺井憲@asaiken23
鹿島昂説の誤りは、高市皇子は新羅の王子説ですが…。『壬申大乱:古田武彦著』と読み較べて下さい。
あと、これですかね。
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(996) 『「大化の改新」は50年前に前倒しし、高市天皇暗殺は696年から「乙巳の変」へで、51年前倒しされてる』 2012年4月22日(日)
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別表
九州年号「大化」は、「大化元年」の695年から「大化9年」の703年迄の9年間続いています。「大化2年」の7月10日に、高市天皇は暗殺されていますが…。
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まぁー、といっても九州年号「大化」そのものが理解できてない其処のあなたには、“何のことだかさっぱり”ってか…?
(841)『ワーッ、『「九州年号」の研究(近畿天皇家以前の古代史):古田史学の会編』の本が贈られてきた。 (^O^)/ 』2012年1月10日(火)
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こうして見て来ると、いわゆる「廃評建郡」の「大化の改新」は696年から646年で 50年前に、“きっちり”前倒しされていると分かる。
…が、「高市天皇暗殺」は696年から、645年の「乙巳の変」で、51年前倒しされてると分かる。
高市天皇が「大化の改新」を “詔したが為に暗殺された” を、 “暗殺后に改新した” ことにしたのだろう。
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詳しくは、先に書いたブログをご参照ください。
(897) 『《高市天皇が》【改新の詔】を宣して、《軽皇子の皇太子が》使いを使わして奏請【皇太子使使奏請】したのだ』 2012年2月17日(金)
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《いわゆる『書紀』のいう「大化の改新」は無かった》
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なんとも・いやはや、“うまいこと「新生日本国史」を作文してる”なー (=^・^=) って、感心するわけだが…、
同時に、なんでそんなでっち上げをする必要があったかだろう。
『 唐国・貴国に、“刃向かい”なんて、とんでもありません。実は新羅「比曇(ひどん)の乱」よりも早く、日本国は「大化の改新」なるものがありまして…。(^_^;) 』
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『日本書紀』とは、倭国と唐との 「対等外交」を、「恭順外交」へ軌道修正する為の“でっち上げ史書”だったのだ。
(890)『古代の日本で、如何に重要な史実だったかが分かるというものだ。『源氏物語』に隠された史実とは?』2012年2月12日(日)
唐国が高句麗を攻撃の報せに接し、わが日本国は「大化の改新」で刷新し、以来唐国に、恭順してまいりました。…とか・なんとか。
なんということはない、『日本書紀』の時代は、そっくり、九州王朝「倭国」の時代だったのである。倭国の“難波複都王家が、暗殺という卑怯な手段で、倭国の大宰府王家を乗っ取った”わけだ。
◇
簡単な話だ。もし、「大和朝廷」が有史以来連綿と続いているのなら、何も、『日本書紀』と『続日本紀』を分けて記述する必要は無かった。
それが分けて書かれているのは何故か、どうということはない。
『日本書紀』が九州王朝「倭国」史をなぞったものなら、『続日本紀』は「大和朝廷」の史書だからだ。
これは想像ですが…、『日本書紀』はその編纂に、正木裕氏の「34年遡上説」に代表される「九州年号」を改ざんの為の主な手法としています。ということは、継体天皇から新生日本国が開闢したとして、九州年号建元「善記」以降を抹消したものでしょう。そもそも、継体天皇も「磐井の乱」も有ったのか、どうか?
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この辺の日唐交渉の機微は、先の
(924)『勘違いするな。『古事記・序文』の“どこにも”「壬申の乱」とか、「吉野に入った」とかは、書かれていない』2012年3月12日(月)
に詳しく書いていますので、ご参考ください。
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この時、米田良三氏が言う九州王朝「倭国」の『清明上河図』が、唐朝へ賄賂として渡されたかもしれませんね。
(662)『「清明上河図」に描かれた石とレンガ逢坂の関、近江の海に面して建つ石山寺、更に美しい石造アーチの長柄橋』2011年7月3日(日)
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要するに、米田良三氏は「清明上河図」本図は清明節の日の灘波津(現在の博多)と近江の海(現在の福岡市街)へ注ぐ賀茂川(現在の御笠川)沿いに、長柄橋・石山寺・ 逢坂関・大宰府都城迄を絵巻物にしたもの。唐が九州王朝「倭国」の都・大宰府を占領開城した時、戦利品で持出した物だと言っている、…のだが。はて・さて
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(997) 『古事記や日本書紀は近畿天皇家自らのための「勝者自らの史書」という史料性格 と大局的位置づけが明確』 2012年4月24日(火)
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古賀達也の洛中洛外日記
『歴史学において、取り扱う史料の性格や大局的な位置づけを明らかにするという、史料批判に おける最初に取り組むべき課題・作業があります。
たとえば、古事記や日本書紀は近畿天皇家が近畿天皇家のために作成した「勝者自らの史書」という史料性格 と大局的位置づけが明確なため、歴史研究に使用する場合も、天皇家にとって都合よく編纂されているという視点で読むことになります。』
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と、古賀達也氏は自身の『洛中洛外日記』で書かれているわけだが、私は少し、違った視点でみている。
前の
で、触れたように、元々は『倭国史、及び、日本列島史』の編纂予定だったものが、『倭国・秦国』そのものの抹殺・抹消、更には、それを、『近畿自王朝の出生前史とする』という内容に、変わったがために、それも、それがあまりに徹底していたがために、
結果的に、後代の我々にとっては、『日本書紀』は、
特に、上記で『「勝者自らの史書」という史料性格』となると、“えッ”と、読み返してしまった。暗殺と言う行為が「勝者」と言えるのか?
大宰府朝系の高市天皇の「廃評建郡」即ち「プロト大化改新」で、“追い詰められた” 難波副都朝の軽皇太子(=のちの文武天皇)が、 “窮鼠猫をかむ” で、最後の手段「暗殺」に及んだ というのが、本来の史実だと思えるが…、如何。
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高市天皇の暗殺集団に、大宰府朝系の重臣が参加していたと思えるので、高市天皇が、重臣から“愛想を尽かされてた”というのが、実態だろう。
このことは、幕末に孝明天皇が、“頑なに佐幕攘夷”を主張し、結果、「長州への七卿落ち」に至ったことと符合していないだろうか。
孝明天皇は、岩倉具視が道をつけ、伊藤博文が暗殺したと言われている。京都の朝廷人は、見て見ぬふりをしていた、ということだろう。
そうそう、七卿落ちの公家の中、三条実美か、岩倉具視かの家には、この「真実の倭国史」が伝わっていて、それを真似たと思えるのだが、私の思い過ごしだろうか?
◇
ということは、『古事記』は、『倭国史』をベースに、のみならず、他の「隋書」俀国伝中に言うところの『竹斯国より以東は、皆な俀に附庸す。』の “嘗て「倭が扶養した王国」の出生話” をも、取り混ぜて、記述されていることになる。
一方、『日本書紀』は、途中まで出来上がった『古事記』が、書きあぐねた『継体紀』以降に加えて、
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(1005) 『そこで問題となるのが長屋親王、彼は九州王朝の高市天皇の子ではないか、すると九州王朝の皇族となる』 2012年4月30日(月)
■ ●日野智貴@nihonkakuryokai 最近原発に関する発言が多いのですが、私はそろそろ大化の改新に関する私見を文章にまとめようと思います。そこで問題となるのが長屋親王、彼は九州王朝の高市天皇の子ではないか、すると九州王朝の皇族となる。@tohyan おっしゃるとおりです。あくまでも、私の説ですが…、大和朝廷は、九州王朝「倭国」の難波副都に常駐の王家分家と考えています。「倭国」王家の係累です。 RT @nihonkakuryokai そこで問題となるのが長屋親王、彼は九州王朝の高市天皇の子ではないか、すると九州王朝の皇族となる。
●日野智貴@nihonkakuryokai
なるほど、何故、大和王朝と言わず、大和朝廷と呼ぶか?ですが、本家の大宰府系の上から目線を嫌った、難波副都系は、大宰府系を抹殺したでしょうね。たぶん、現部落民はこの大宰府系の末裔でしょう。
●日野智貴@nihonkakuryokai
いやー、それはどうかな…埒外で、まったく私には判断できませんが…。
●日野智貴@nihonkakuryokai
私は鹿島説です。「皇極天皇は斉明天皇とは同一人だった。」これが、新羅「ひどんの乱」の真徳女王・善徳女王を、コピーした時に2人いたことにした。だから、和名は同じだ、と。RT @nihonkakuryokai 古田先生が皇極天皇は斉明天皇とは別人、といった。理由は送り名が違うから。
●日野智貴@nihonkakuryokai
皇極・斉明の諡(おくりな)は、天豊財重日足(あまとよたからいかしひたらしひめ)で同じです。むしろ、鹿島説では、孝徳紀は『書紀』が編纂当時は無かったと言う。桓武が自分の先祖を百済王につなぐ為に、義慈王の子「孝」を、京都時代になって挿入したと。
●日野智貴@nihonkakuryokai
ほ・ほう、そりゃーまたすごい新説ですね^^頑張ってください。
つまりは、孝徳天皇を割り込ませた、で、本来は皇極・斉明とつながっていたとして、再検討方お願いします。その上で再度考えましょう。
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(1024) 『再掲 ▼ NHKの『平清盛』で、父・忠盛が、上皇の御願に応えたという『得長寿院』こそ、今の『三十三間堂』』 2012年5月14日(月)
■ NHKの『平清盛』で、父・忠盛が、鳥羽上皇の御願にこたえて寄進したという『得長寿院』こそ、今も健在の『三十三間堂』こと、『蓮華王院』の前身と考えられる。平忠盛はこの功により昇殿が許されたという。 が、この『三十三間堂』が、嘗ての大宰府『観世音寺』の『大房』がその別名だとしたら…。 この『三十三間堂』と、法隆寺の『金堂』、更に、『五重の塔』のデザインは、“素人目にも同じ作りだと分かる。” もともとは、同じ九州王朝「倭国」の都・大宰府「観世音寺」に建ってたものだから、当然といえば、当然なのだが…。 先ずは、 『観世音寺の一幅の絵図から分かること』 を、クリックしてください。 『左の挿絵は、米田良三著「法隆寺は移築された」に紹介の写しで、現在の観世音寺に残る一幅の古絵図である。 絵図の奥に描かれている横長の建物が現在は移築されて京都に建つ、 『三十三間堂(=大房)』・《魚拓》 である。 さらに絵図の右奥には、「能舞台」とおぼしき絵が描かれている、当時すでに『筑紫舞』・『延年の舞』などの能が演じられていたのでしょう、また、寺の最前列には鳥居が描かれている、当時の宗教観がおもしろい。―云々 』 上の「絵図」の最奥を見てください。 “観世音寺の横幅一杯に描かれている「横長の建物」”が現在は移築されて京都に建つ、あの『通し矢』で有名な、 『三十三間堂(=大房)』・《魚拓》 である。 “こんな横長の建物”が、当時、どこにでもあったわけがないことは、だれもが“ピーンとくる”ってもんだ。 “こんな横長の建物”が、当時、そんじょそこらにあるわけがない。だれもが“ピーンとくる”。ましてや、千体の仏像が収められているわけで、焼失したとか、鎌倉期に云々とかが、嘘であることは明白だろう。平忠盛がやったことは大宰府観世音寺にあった大房を、京都に移築し、三十三間堂としただけなのだ。 再掲してます。 2012年1月29日(日) 今日、NHKの『平清盛』で、父・忠盛が、上皇の御願に応えたという『得長寿院』こそ、今の『三十三間堂』 ●加藤 魏山@Gizan_KATOH 怖くなって夜中に何度も目が覚める。 この約2年間・・・しくじったら“彫刻家 加藤魏山”は終わる。 .@Gizan_KATOH 貴方の 「一条戻り橋」・《魚拓》 は、その動的な“ド迫力”に、気負わされる。何故か『建築から古代を解く:米田良三著』のⅢ章「三十三間堂の謎」を理解し、更に、其処にある風人像・雷神像・婆数仙人像、等々に一脈通じるものを感じると素人が偉そうに…呟いてみる (=^・^=) これを私流に解釈すると、 『隋使裴世清は隋の天子の朝命である俀王との筑紫での会見は無事に終わった。更に、俀附庸ではあるが、俀国の次に大国の秦王国からも招待したいと言ってくれてるので、更に東のほうへ足を延ばしてみたい。ついては途中の瀬戸内海航路の安全・警護もお願いする』である。 これらを総合すると、 『日本書紀』推古天皇紀の「日本国」とは、「隋書」俀国伝中の(=秦王国)である。 という結論になる。 とはいえ、馬子をはじめとする蘇我氏こそが飛鳥地方の葛城『秦国』王家であり、葛城『秦国』が母体・核となって大和朝廷「日本国」へ発展したと「仮定」した場合、その王朝史となる「日本書紀」が九州「倭国」を抹殺しただろうか、私は思うに抹殺せずその討伐経緯をむしろ誇らしげに書き込んだだろう。 2011年10月1日(土) 『日本書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」 (その1) 誰とは言わないがアカデミーの著作は分かりづらい。それに引き換え、古田武彦氏の著作は分りやすい。 ここに、『失われた九州王朝:古田武彦著』がある。 なんだか、新しい王妃の出現で、NHK・BSの“トンイ”が面白くなくなった。たぶん、もう続きは観ないだろう。想うに、日本史に比べ、統一新羅以降の韓国史って、平板で起伏が無いように思うのだが…どうだろう。韓国人から見た日本史って、どうのように映っているのだろうか。中国一辺倒なのかな? ■
(1053) 『それにしても、なんで、そんな山間部に長谷寺なんでしょうね?又、お寺の跡地に杉神社です?』 2012年6月5日(火)
■ 何気なく、来訪者カウントを見てると、「twitterその12」の人気が高いのが分かった。。。。。 何故だろう? この項目の“いずれかに”読者の興味をそそり、関心が集まってるのは確かなのだが、それが分からない。 ▼ 【 “ 大和朝廷「日本国」出生秘話 ”Twitter その12 】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ▼ 【 2011年2月2日(水) 672年の壬申の乱の記述は、裏に倭国滅亡を含くんでいる? 】 ▼ 【 2011年2月9日(水) 杉神社確認しました:祭神、仲哀天皇、神功皇后、竹之内宿禰1264年野田周防守が香椎宮より分霊とあり 】 ▼ 【 2011年2月10日(木) それにしても、なんで、そんな山間部に長谷寺なんでしょうね?又、お寺の跡地に杉神社です? 】 ▼ 【 2011年2月11日(金) 「八幡大菩薩大明神」の掛け軸、これって神道ですよね。でも「南無」「菩薩」「多宝塔八幡」とかは仏教用語 】 ◇ 久しぶりに、にごり酒の『五郎八』買って飲んでみた。うまいッ!! 田舎のわがやでは、「どぶろく」を造っていた。 蒸した飯に、種麹を振りかけて、発酵させる。麹菌が万遍に咲くと、甕に入れて、あれどうだっけ、少し、水を注ぐ。すると、最初はこれが、甘ーい酒になる。いわゆる酒になる少し前にだ。 これを失敗するとお酢になる。佐賀の三瀬で“どぶろく”を造ってたのをテレビで知った。 筑後川?以南は“どぶろ”くは失敗すると聞いている。だから、焼酎が名産である。 人にも色々あるけれど、酒にも色々あるようだ。 が、“どぶろく”は、私は小学校へ上がる前に甘いの戴いて甕の傍で寝てたらしい^^ 家人・村の人、総出で俺っちを探してくれたらしい。 が、ようとして見つからず、親父の奴、一人二人欠けたってどうってことないと思ったらしく、捜索を打ち切って、一杯飲むことにしたらしい。 で、甕の傍の俺を見つけたとのこと。俺は全然記憶にないけどね。 だから、俺の頭は今も酔っぱらってるらしい。 俺は小学校へ上がる前までは、酔っぱらっていなかったわけだが…、蛙なんかは、生まれた時から酔っぱらってるらしい。 鹿島組の越智さんや、鳴海さんが、五右衛門風呂に入って、「ボン、決して、入れ墨は入れてはあかんぞ」と言ってた。硫酸で消したのだ。 少しのちに、美空ひばりが顔に硫酸かけられた。 ▲▲▲
(1081) 『【古賀達也の洛中洛外日記】● 第426話(2012/06/15)『最古の「戸籍」木簡、太宰府から出土』』 2012年6月21日(木)
■ 本当に久しぶりに ▼ 【古賀達也の洛中洛外日記】 を、覗いてみた。そこには、こりゃーまたすごい記事、 ● 第426話(2012/06/15)『最古の「戸籍」木簡、太宰府から出土』 及び、 ● 第427話(2012/06/16)『「戸籍」木簡の史料性格』 が有った。 この記事中には、『…次に時代ですが、「嶋評」とありますから、評制が施行された650年前後から、郡制に移行する701年よりも前の時期となります。さらには「進大弐」と いう『日本書紀』天武14年に制定された冠位が記載されていることから、685~700年の時間帯まで絞り込めそうです。…』とあります。 私は、とりわけ、 【「進大弐」と いう『日本書紀』天武14年に制定された冠位が記載されていることから、685~700年の時間帯】 に注目します。 何故なら、正木裕氏流に ▼ 『天武14年(685年)⇒白鳳14年(674年)』 と考えるからです。ぜひご一考を希望します。 要するに、 ▼ 『要するに、「八色の姓」制度は【673年(天武2年:白鳳13年)】10月1日、九州王朝「倭国」の白鳳王・薩夜麻が、唐より解放、帰国后に、倭国再統合・倭王復位戦の「壬申の乱」に戦勝後、彼の臣下の功績を顕彰して詔、制定したものである。』 と言う事です。 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ ▼▼▼
(1103) 『当時長州藩の武器は米国南北戦争のおさがりのミネーゲル銃だったが、今はツイッター・ブログ・モバイラーだ』 2012年6月30日(土)
□ 公武合体ののち、長州征討は、長州征伐とも呼ばれた。幕府軍が小倉口、石州口、芸州口、大島口の4方から長州(=山口県)を攻めたため、我ら長州側の山口県では、「四境戦争」と呼ぶ。当時長州藩の武器は米国南北戦争時のおさがりのミネーゲル銃だったが、今はツイッター・ブログ・モバイラーである。 この「四境戦争」というのが、如何に過酷だったか、長州全藩・全藩民をあげての戦争だったのは言うまでもない。親父は例の「寝物語」で私に言ってた。芸州口の岩国へ通じる錦川沿いのご先祖様には、藩から『毎日朝一に、藁ぶき屋根の下端に、長州兵の為の手弁当を刺して置くよう』指示が有ったという。 なぜ、今こんなこと言うかというと、民主・小沢Gは57人分の政党助成金を、党首野田に要求してるだろうからである。大義を捨てて、このまま行けば、小沢チルドレンに次回総選挙での再選は必ず無い。政党助成金を得て分党するのが望ましいが、大義を捨てて明日は無いとも言えよう。ここが、正念場だ。 なにせ、長州藩の場合は、関ヶ原で負けて以来、藩主と家老の年賀のあいさつが決まってて『いつ徳川を打ちましょうか?』『いや、まだ早い、少し待て』と、実に250年間言い続けたというから、この「四境戦争」というのは別に今に始まったことではないのだ。さて、維新の会・小沢Gにその覚悟はあるか? ●エネルギーシフトパレード@enepare http://www.asahi.com/national/update/0629/TKY201206290577.html ▼ 【朝日新聞:全国各地で原発抗議 官邸前「15万人」で騒然】 (※ 動画も掲載されています。その中にヘリからの空撮映像もあります。)
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