大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 056 》
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ
白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、
日本書紀の〔 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権
2010年 4月 2日 発行
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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ https://waikoku.sakura.ne.jp/yamato.html 2:32 PM Apr 2nd webから ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(890) 『古代の日本で、如何に重要な史実だったかが分かるというものだ。『源氏物語』に隠された史実とは?』 2012年2月12日(日)
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やはり、この事だ。なんと言っても、古代の日本で、如何に重要な史実だったかが分かるというものだ。『源氏物語』に隠された史実とは?
十一世紀初めの作品とされ、二年前に千年紀と騒がれた『源氏物語』を見てみます。
『源氏物語』は平安時代の作品とされてきましたが、筑紫の京を舞台とし、源氏の年齢に600を加えた年次の記録になっています。
◎特に、ここですね。
『旧唐書』倭国日本伝には、次のように記されます。
貞観五(631)年、使を遣わして方物を献ず。
631年に最初の遣唐使が送られます(『日本書紀』は630年とする)。
『源氏物語』には太政大臣と式部卿が亡くなったことが記されますが、さらに二十六歳の弾正尹(だんじやうのいん)(現在の警察庁長官)為尊(ためたか)親王も亡くなる事件でした。
このことは『源氏物語』と『和泉式部日記』から明らかになります。
事件は博多駅辺にあった高津の宮に唐の使節を迎えての会談の場で起こったと考えられます。
強大な国家唐が意図して起こしたと考えられる外交事件です。
この時の緊張感は『和泉式部日記』にも記されており、633年5月5日のことと分かります。
帥(そち)の宮の侍従の乳母(めのと)が、和泉式部のところに出かけようとする帥の宮に小言をいう場面があり、その中で次のように言う。
世の中は今日明日とも知らず変わりぬべかめるを、殿のおぼしきつることもあるを、世の中御覧じはつるまでは、かゝる御歩きなくてこそおはしまさめ。
(現代語訳)最近の政情は今日明日と関係なく変ってゆくに違いないのですから、殿が御計画を立てておかれたこともあるように、政情の変化の結果が見極められるまではこのような御歩きをなさらないでいなさい。
殿は源氏であり、政情は唐との緊迫した関係である。
『源氏物語』と『和泉式部日記』と『旧唐書』は同じ事件を三様に記録していることが分かります。
尚、フィクションである『源氏物語』の記録性については、641年3月10日過ぎの明石の女御の御産に対応して、写実的著述である『紫式部日記』を著わしたことで解るように、紫式部自身が特に重要と考えていたと思われます。
『源氏物語』は、時間と空間の正確さの中に、源氏の存在を記録した作品と言えます。
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『唐からの一団は冊封関係を強いる使いであったため、王子である為尊親王は拒否をし、高表仁と言い争いになり、切られてしまいます。
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この『殺傷事件』が古代の日本(=当時は九州王朝「倭国」)で、如何に重要な史実だったかが分かるというものだろう。
『源氏物語』に隠された史実とは?
冊封関係を強いる唐の使い高表仁に対し、危険を顧みず、九州王朝「倭国」の王子である「為尊親王」がこれを拒否をし、自らも切り殺され、更に、傍にいた「太政大臣」と「式部卿」も巻き添えを食ったという事件です。
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即ち、
●唐の冊封使「高表仁」が、倭国に「冊封関係」の強要。
●⇒「為尊親王」がこれを拒否し、「対等外交」を主張。
●⇒「為尊親王」と「太政大臣」と「式部卿」が切り殺された。
…が為に、この「殺傷事件」を起点に、九州王朝「倭国」は、“一気に”滅亡の道をたどります。
その後、天下立評、白村江敗戦、大宰府開城、近江朝「日本国」独立、壬申乱倭国再統合、プロト大化改新を経て滅亡します。。
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もちろん、唐の「高表仁」使「高表仁」が、旧唐書にあるように『表仁、綏遠(すいえん)の才無く、王子と礼を争い、朝命を宣(の)べずして還(かえ)る。』といったものではなくて、
とはいえ、“まさか”倭国の「為尊親王」が、これを「拒否」するとは思いもしてなかった、ということでしょう。
逆に、このことは、唐の太宗の「倭国」を含む周辺夷蛮諸国への懐柔統治策が「大失敗」だった。ということでもあります。
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【歴史年表】
●608年、戊辰(推古16:光充4)桐壺帝:法興帝18年、『隋が文林郎裴清を俀国へ派遣』
●618年、戊寅(推古26:倭京1)桐壺帝:法興帝28年、『倭京完成・隋滅亡・高祖李淵唐立国』
●620年、庚辰(推古28:倭京3)桐壺帝:法興帝30年、『唐の掌客裴世清等・秦国至』
●632年、壬辰(舒明4:仁王10)冷泉帝:聖徳帝4年、『唐冊封使高表仁が為尊親王を切殺す』
前々回608年、前回620年、のいずれもに「裴世清」が、訪日している。
前回620年、訪日の「裴世清」は、隋使としてではなく、唐使としてではあるが、唐の建国(618年)の直後でもあり、隋使、唐使の差はなかったものだろう。
しかし、今回632年、の訪日は唐もその外交方針がはっきり樹立し、『唐冊封使』として、唐太宗が、新たに、その懐刀の「高表仁」を派遣してきたのである。
が「為尊親王」他倭国側重臣は、従前どおりの「対等外交」の主張をした。ということだろう。
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●632年、壬辰(舒明4:仁王10)冷泉帝:聖徳帝4年、『唐冊封使高表仁が為尊親王を切殺す』
●642年、壬寅(皇極1:命長3)冷泉帝14年、『「国宰」任命の詔勅』
●645年、乙巳(孝徳1:命長6)冷泉帝17年、『唐太宗が高句麗攻撃』
●647年、丁未(孝徳3:常色1)甘木王元年、『甘木「常色王」即位、6月新羅「ひどんの乱」発生。』
●649年、己酉(孝徳5:常色3)甘木王3年、『倭国「天下立評」・「造複都難波京」詔を宣す』
●652年、壬子(孝徳8:白雉1)甘木王6年、『(天下立評・難波副都完成)⇒白雉改元儀式』
●660年、庚申(斉明6:白雉9)甘木王14年、『百済滅亡』
●661年、辛酉(斉明7:白鳳1)白鳳王1年、『常色白雉甘木王崩御、伊勢王崩御、白鳳王薩夜麻即位』
●662年、壬戌(天智1:白鳳2)白鳳王2年、『洲柔・白村江戦、唐が倭国白鳳王「薩夜麻」捕獲連行』
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この極東アジアの歴史の流れの中にあって、
◎ 632年:『唐冊封使高表仁が為尊親王を切殺す』
史実が有ることがうなづけるというものだろう。
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特に、『『倭国「天下立評」⇒「造複都難波京」詔を宣す』は、大国・唐に対し、如何に「倭国の独立」を維持するか、「暗中模索」し、苦悩の末の編み出された「中央集権化政策」だったのだと分かると言えよう。
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(896) 『大和朝廷・大和王朝は (難波副都で 「天下立評」 した) 九州王朝倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 だ。』 2012年2月17日(金)
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大和朝廷・大和王朝は (難波副都で 「天下立評」 した) 九州王朝倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 だ。
《ま・まさか、大和朝廷・大和王朝「日本国」が九州王朝倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 だったとはな》
◇
“ 抹 殺 ” された
奈良の「日本国」王朝の前に、九州の 太宰府に「 倭国 ゐこく」王朝が実在した。
◇
●〔九州王朝「倭国」は、いつ滅亡したか?それは『日本書紀』のおわりに書いてある。〕
●〔では、大和王朝「日本国」は、いつ発足・開闢したか?それは、『続日本紀』はじめに書かれている。〕
●〔なんの言うことはない。「日本書紀」に書かれている時代は、九州王朝「倭国」の時代だったのである。〕
◇
『696年〔持統10年( x
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『697年〔文武元年:大化3年〕8月1日、(文武天皇が) x
とはいえ、国として正式に発足・開闢したのは大宝律令制定以降と言えよう。
◇
九州王朝「倭国」の時代を、さも、大和王朝「日本国」がずっと昔から奈良に都を置いて、全国を統治していたかの如くした。倭国・秦国の列島史、及び韓半島史を使ってでっちあげたものだったのですね。ということは、これが取りも直さず 「日本書紀の正体」 だったというわけです。
九州王朝「倭国」がどういう経緯で滅亡に至ったか?更に、大和王朝「日本国」が、いきなり、バトンタッチできたわけでなく、それには、いつ産声をあげて、どういう経緯で力強く成長したのかを解明したのが、
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◆ この『大和王朝は(難波副都で「天下立評」した)九州王朝倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 だ』
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ブログは
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「なんだかねー」、ここのツイッターでの「つぶやき」でも、最近は昨年3月11日の震災・原発の話題ばかりになってもうた…、“やれ・やれ”ざんす。
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(897) 『《高市天皇が》【改新の詔】を宣して、《軽皇子の皇太子が》使いを使わして奏請【皇太子使使奏請】したのだ』 2012年2月17日(金)
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『書紀』の「大化改新」箇所では、
① ●645年乙巳皇極4年6月12日、【乙巳の変】で、蘇我入鹿臣を誅殺した。
② ●翌年646年丙午(大化2:孝徳2)春正月一日、賀正の礼が終わるやいなや、《孝徳天皇は、》【改新の詔】を宣して、…云々…となっていて、
③ ●同646年3月20日【皇太子使使奏請】《中大兄皇子皇太子は、》使いを使わして、奏請して、…云々…となっている。
上記の事件発生は、①【乙巳の変】、②【改新の詔】、③【皇太子使使奏請】の順序である。
さてここで、注意しなければならないのは、上記 《 》 内は、『書紀』「孝徳紀」のこの前後記事を読むと、天皇とは孝徳天皇であり、皇太子とは、中大兄皇子であると読むのだと、読者が勝手に想像・理解するように、しむけているだけで、決して「明記」されているわけではないのだ。
これは、五〇年後の「プロト大化改新」が、ほんらいあった「事件の姿」だったとすると、
『696年丙申(大化2:持統即位7)
③ ●同年3月20日【皇太子使使奏請】《軽皇子(=のちの文武天皇)の皇太子は、》使いを使わして、奏請して、…云々…』 となる。
① ●同年7月10日、【後皇子尊『 X
上記「プロト大化改新」の事件発生は、②【改新の詔】、③【皇太子使使奏請】①【後皇子尊が薨じた】、の順序である。
大宰府朝の「白鳳王」が、684年暮れに崩御ののちに、その禅譲を受けて、プロト大和朝の大海人皇子の天武天皇が倭王「朱雀王」に即位する。が、ほんのわずかな在位で、686年、これまた崩御する。
大宰府朝からは、高市皇子がすぐに「朱鳥王」の名乗りをあげたのだろう、て。
決着らしきものがついたのが、690年、大宰府朝からの高市「天皇」の即位であり、プロト大和朝からは、軽皇子の「皇太子」即位であろう。
軽皇子(=のちの文武天皇)が、この時「皇太子」だったからこそ、『書紀』696年7月、後皇子尊『高市天皇』が、暗殺で崩御した。の翌年の『続紀』697年〔文武元年:大化3年〕8月1日、(文武天皇が)
《参照》
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( X
( X
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このとき、 ( X
(
( X
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ということは、『書紀』の「乙巳の変」「大化改新」の前後箇所は、五〇年後の「プロト大化改新」が新羅の『ひどん(毘曇)の乱』を「手本」に、「なぞって」編纂されているとわかります。
《参照》
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ここで、『日本書紀』696年7月、後皇子尊『高市天皇』が、暗殺された「プロト大化改新」のいわば、「プロト乙巳の変」の 「暗殺実行犯」 は、『書紀』末尾に、以下に 「顕彰」 された人物達であると私は、想定している。
●《持統十年(六九六)十月庚寅【二十二】》◆庚寅。仮賜正広参位右大臣 「丹比真人嶋(たじひのまひとしま)」 資人一百二十人。正広肆大納言 「阿倍朝臣御主人(あべのあそみみぬし)」 。 「大伴宿禰御行(おおとものすくねみゆき)」 並八十人。直広壱 「石上朝臣麻呂(いそのかみあそみまろ)」 。直広弐 「藤原朝臣不比等(ふじわらあそみふひと)」 並五十人。⇒この記載順から、首謀者は最後の 「藤原朝臣不比等」であろう。
●《持統十一年(六九七)二月甲午【二十八】》◆二月丁卯朔甲午。以直広壱〔正四位下〕 「当麻真人国見(たいままひとくにみ)」 為東宮大傅。直広参〔正五位下〕 「路真人跡見(みちまひととみ)」 為春宮大夫。直大肆〔従五位上〕 「巨勢朝臣粟持(こせのあそみあわもち)」 為亮。
以上を整理すると、
一方、先に紹介の
『そして、乙巳の変である。乙巳の変の暗殺者として3名の門号氏族が登場する。
「海犬養連勝麻呂(安嘉門)」・「佐伯連子麻呂(藻壁門)」・「葛城稚犬養連網田(皇嘉門)」だ。
この時の功により五十年後、その氏族が門衛に任じられたとは考えにくく、乙巳の変が大化の改新とともに五十年下がるとすれば、宮城の主を守るべき氏族たちが九州王朝を裏切り(或いは見限り)、政権簒奪に反対する大物Xを暗殺した事件となる。この根拠のひとつとして、乙巳の変には次の文章がある。 …云々…』
以上を整理すると、
『書紀』末尾に記載の 「顕彰」記事の位階先着順に従って、「暗殺実行犯」 の上下関係は書かれていると想定できるので、
◆「海犬養連勝麻呂(安嘉門)」とは、「当麻真人国見」のことであり、
とわかるのである。さて、この想定は少々強引かな…、はて・さて。
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上記に関連する〔倭国の遺跡スポットを訪ねてみよう〕の頁は以下の通りです。
2011年7月7日(木)
2011年7月9日(土)
2011年7月14日(木)
2011年8月5日(金)
2011年9月18日(日)
2011年9月19日(月)
2011年9月25日(日)
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