大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 102 》
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ
白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、
日本書紀の〔 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権
2010年 4月 2日 発行
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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ https://waikoku.sakura.ne.jp/yamato.html 2:32 PM Apr 2nd webから □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
(a0032) 【漢音(かんおん)」は、その後の隋・唐の音を遣唐使や留学生が長安や洛陽地方から伝えたもの】 2013年2月14日(木)
□ 《 書道の四方山話 》 ―漢字の音読み、「呉音」、「漢音」、「唐音」。― (2013年1月20日日曜日)・《魚拓》 《ご注意》下記は上記記事の抜粋・転載ですのであしからず。 なお、この頁《 書道の四方山話 》は、「書道」を視点に語られているようです。 私の亡き兄が「印鑑屋」をしてたこともあり、私にはまた別の知る喜び・歓心があります。 ぜひ、上記を直接クリックし《 書道の四方山話 》の「ホームページ」を閲覧されますようお勧めします。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 最初に伝わった漢字の音は、長江下流域の呉の地方の発音でしたので「呉音(ごおん)」とよばれます。 呉音は、朝鮮半島の百済(くだら)を通じて渡来したので「百済音」、対馬を経由したので「対馬音」とも云われます。 「漢音(かんおん)」は、その後の隋・唐の音を遣唐使や留学生が長安(現在の西安)や洛陽地方から伝えられたものです。 当時中国を一般に漢(から)と言っていたので、漢代の音ではないですが漢音とよびます。朝廷はこの漢音を「正音(しょうおん)」として尊び、勅令を出して、以後の読書は漢音でせよと唱導したため、日本における漢字音は漢音が主流となりました。 『古今』を「コキン」と読むのは、漢音で読んでいるわけです。 時代が下って、中国の宋の時代になると、日宋貿易や禅僧の往来などによって、新しい中国音が伝わって来ました。当時は中国を唐(から)と言っていたので「唐音(とうおん)」ということになりました。 ただし、現代では「唐宋音」とも「宋音」ともよんでいます。その後、明代、清代の音も入ってきますが、これらも大きく唐音に入れています。 漢文はふつう漢音で読みますが、慣用で呉音が定着している言葉も混じっていて、新来の語彙の中には、唐宋音がそのまま使われているものもあります。 これが、日本で使われている漢字音が複雑になっている原因でもあります。 呉音で読むと変な例として、「美人」は「ミニン」、「白金」は「ビャクコン」、「埋没」は「マイモチ」となります。これはとても違和感があります。 呉音が定着している例は、人間(ニンゲン)、六月(ロクガツ)、天井(テンジョウ)、胡麻(ゴマ)などがあります。 これを漢音で「ジンカン」、「リクゲツ」、「テンセイ」、「コマ」と読むととても違和感があります。 唐宋音には、長崎や京都宇治の禅寺などから出た言葉で次のようなものがあります。 和尚(オショウ)、喫茶(キッサ)、椅子(イス)、簞笥(タンス)、行燈(アンドン)、行脚(アンギャ)、算盤(ソロバン)… 漢字字典などには、音の種類も記載されています。呉音、漢音、唐音の他に慣用音などもありますので、とても複雑ではありますが、音から伝わった時代背景を見てみるのも面白いかもしれません。「喫茶」、「世間」など仏教由来の言葉が、唐宋音、呉音になっているので、仏教用語は全て呉音ということでもないわけですが、呉音で読まれることが多いようです。 【参考書籍】 書を学ぶ人のための漢詩漢文入門 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《転載は以上です。》 ●雲海堂 @unkaido @tohyan フォローありがとうございます。 ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan @unkaido 最初に「漢字は仏教とともに日本に伝わってきました。」とありますが、古田武彦氏はたしかもっと以前からだと言われてた気がしますが・・ ▼ 【 漢音(かんおん)」は、その後の隋・唐の音を遣唐使や留学生が長安や洛陽地方から伝えたもの 】 ●雲海堂 @unkaido @tohyan 王仁が千字文と論語を持ってきていますね。 日本書紀などに書いてあるのですから、仏教と一緒というより、論語と一緒の方が正しいかもしれませんね。「仏教とともに広まった」なら正しいかもしれません。 ●雲海堂 @unkaido @tohyan 漢字の伝来には諸説ある・《魚拓》 ようで、面白そうですね。 ●雲海堂 @unkaido @tohyan もしかしてブログ記事のコピー?? ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @unkaido あッそうです。あなたの頁の「ひとつ」だけを「リブログ」させて戴いてます。その古田武彦さんが今の中国の発音は周辺の民族の侵略によって原型を留めぬほどに変化してる、我々の漢字の読みの方が原型に近い、堂々と発音しょう…なーんて書かれてた。(…確か裏覚えです^^) □ □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
(a0033) 【旧唐書が謂う「別種」とは〔倭国と日本国とが別々の国〕か、或いは〔日本国は倭国から別(わか)れた国〕か】 2013年2月14日(木)
□ ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan ところで、 『旧唐書』 には、「 『日本国』 は倭国の「別種」なり、その国日辺に有るをもって日本国を名とす。或いは曰う。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan 倭国自ら、その名雅ならざるを悪み、改めて日本と為す。或いは言う、日本はもと小国、倭国の地を併せたり、…或いは言う、尊大ぶって事実を伝えない」 とありますが、 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan 旧唐書が謂う「別種」とは、〔倭国と日本国とが、別々の国〕と言ってるのでしょうか、あるいは〔日本国は倭国から別(わか)れた国〕と言ってるのでしょうか。 ▼ 【 2011年2月2日(水) 672年の壬申の乱の記述は、裏に倭国滅亡を含くんでいる? 】 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan 私は〔日本国は倭国から別(わか)れた国〕と言ってると考えます。『倭国』の分家の「難波副都倭弟王家」が、飛鳥・葛城の『秦国』王家の蘇我氏を取込み、『倭国』大宰府から王権を696年、クーデターで乗っ取り、誕生した大和王朝『日本国』の初見です。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan 「兄弟王朝」だからして、倭国から日本国へ変わった「際立って特殊な何か」はひとつも見受けられないわけだ。しかも、「分かれた」といっても、神武天皇という遠い昔のことではなく、伊勢王(=斉明天皇)から「分かれた」わけです。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan 普通の人は、九州王朝「倭国」から、大和朝廷「日本国」への王朝交代といえば、すぐに、戦争・争乱・内乱があった・あったはずだ、と考えます。確かにあったのは、あったのです。高市天皇の暗殺という「原・大化の改新696年」というクーデターです。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan でも、日本書紀は50年前の事件「大化の改新」「乙巳の変」として前倒し、そんなことがあったとは一言も書きません。これじゃー、分りませんよね。 たぶん、当時の人も、ごく一部の関係者だけが知ってたと思います。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan 九州王朝「倭国」は本家で、大和朝廷「日本国」は分家の弟王家です。長門以東を唐筑紫占領軍の征服から防衛し、天智弟王家は近江へ遷都し、「日本国」として独立したわけです。独立したから、隣国新羅へ「倭国更えて日本国を号す」なのです。壬申乱で挫けますが、近江朝残党は京都桓武朝を再興します。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan ついでに書きますが、天皇家は天武系の天皇の菩提を弔わないと言います。「近江朝は、難波副都の旧近衛兵、取り込んだ秦国の官僚、白村江で滅亡した百済の遺臣団で構成されていた」と考えられます。桓武朝は字義通り百済遺臣団が核になって復活で、純粋に近江朝残党ではないが壬申乱の恨みでしょうか。 □ □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
(a0034) 【何故に、山田寺の東面回廊は、倒壊したままの状態で放置されたのか?】 2013年2月14日(木)
□ ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan ▼ 【 何故「東面回廊は、倒壊したままの状態で」放置されたか? 】 ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan 古田武彦氏・古賀達也氏・正木裕氏、古田史学会員が「持統天皇吉野行幸は34年前の倭王の佐賀県吉野基地での閲兵行幸である」と結論しました。という事は、日本書紀は原本の主に倭国史・秦国史、他に吉備・出雲・加賀・尾張・毛野の年次別各記事を短冊にしずらして切り貼り、為に一見正しく見えます。 ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan 『続・法隆寺は移築された:米田良三著』「11.山田寺」項p71に、 『扶桑国の寺院は天皇家の寺院である飛鳥寺、蘇我氏の山田寺、その他若草伽藍、四天王寺等の寺院である。 ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan 飛鳥寺の伽藍配置は平壤の清岩里廃寺の伽藍配置と全く同じに造られていたし、他の寺院も飛鳥寺の伽藍配置を簡易にしたものが造られていた。 ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan この時代には多くの高句麗の僧が近畿地方に来て、これらの造寺に関わっていたと考えられる。年代がわかることで代表的な高句麗系寺院が、山田寺である。造寺の誓願は641年、金堂が造られるのは643年、676年には塔が完成する。 ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan 672年に倭国(この時点では日本国)を征服した扶桑国は大和朝廷を名乗り、700年頃には日本国の天皇を表明する。 倭国滅亡后の684(x678)年、高知沖を震源とする白鳳地震が起きる。第1級の地震(おそらくM9ほど)であり、近畿地方の高句麗系寺院はほとんどが倒壊する。 ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan 山田寺の金堂は倒壊したし、2年前に造られた塔も倒壊した。 土の中から倒壊したままの状態で発見された東面回廊は、この地震の液状化現象で瞬時に泥海の中に沈没し、そのまま保存されていたものである。』 と書かれているが、この記事ついて、私は色々米田氏に確認したい次の内容①②③がある。 ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan 疑問①、扶桑国の寺院は天皇家の寺院である飛鳥寺、蘇我氏の山田寺、その他若草伽藍、四天王寺等の寺院である。 ⇒扶桑国とは、=天皇家・蘇我氏の国。ならば、どこか扶桑国の名前の片鱗があるはずだが、私の言う隋書「秦国」のこととはちがうのか? ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan 疑問②、672年に倭国(この時点では日本国)を征服した扶桑国は大和朝廷を名乗り、700年頃には日本国の天皇を表明する。 ⇒倭国を征服したのは、〔扶桑国=大和朝廷=日本国=天皇〕ならば、日本国正史『日本書紀』は倭国を征服したと何故書かないか? ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan 疑問③、土の中から倒壊したままの状態で発見された東面回廊 ⇒何故「東面回廊は、倒壊したままの状態で」放置されたか? ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan 「何故に、山田寺の東面回廊は、倒壊したままの状態で放置されたのか」 私は単純に考えて、山田寺が大和朝廷の寺院であるならば、「山田寺の東面回廊が地震で倒壊した時、すぐさま修理・再建し、倒壊のままの状態で放置しない。」と考えます。放置されたということは大和朝廷の寺でなかったからです。 ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan 更に敢えて言えば、真の所有者はそれ以前に、たぶん、近江朝の滅亡と同時期に、滅亡していた。と考えられます。 ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan 「隋書」俀国伝中に、 『明年(大業4年:608年:推古16年)、上、文林郎裴清を遣わして俀国に使いせしむ。百済を渡り、行きて竹島に至り、南に聃羅を望み、都斯麻国を経、迥かに大海の中に在り。又東して一支国に至り、又竹斯国(=筑紫・九州島)に至り、又東して秦王国に至る。 ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan 其の人華夏に同じ。以って夷州と為すも、疑うらくは明らかにする能わざるなり。又十余国を経て海岸(=九十九里浜海岸)に達す。竹斯国より以東は、皆な俀に附庸す。』 ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan やはり、「日本書紀」は、上記「隋書」俀国伝中に記載の『俀国』及び『秦王国』を意図的にそのすべてを抹殺している、とわかる。 詳しくは、 〔大和王朝は(難波副都で「天下立評」した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ〕 を参照方お願いします。 □ □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
(a0035) 【古田史学会の正木 裕氏は「日本書紀」が「倭国史」を如何に改竄したか、その法則性を指摘・摘発している】 2013年2月14日(木)
□ ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan 「 古田史学会 正木 裕 」 著 の論文を以下アップしておきます。 古田史学会の正木 裕氏は「日本書紀」が「倭国史」を如何に改竄したか、その法則性を指摘・摘発している。 《ご注意》以下「会報77号」よりの抜粋です。 ▼ 一.持統天皇吉野行幸記事の謎 古田先生は、その著『壬申大乱』において、以下のことを明らかにされた。 日本書紀に記載する、都合三十一回の吉野行幸は、九州王朝の天皇の、朝鮮半島出兵の基地たる「佐賀なる吉野」視察記事の盗用である。とりわけ、持統十一年(六九七)六月の持統天皇吉野行幸は、三十四年前の天智二年(六六三)白村江の戦直前の「最後」の行幸である。 その根拠としては、持統紀に吉野行幸の頻度が異常に多く、かつ集中しており、持統天皇以降はもちろん、本人も持統十一年(六九七)六月以降は、ほぼ全然と言っていいほど行幸が見られないこと。 奈良の吉野にふさわしくない冬季に多く行幸していること。 持統天皇行幸記事のある 「丁未ひのとのひつじ」 が持統八年四月(六九四)には存在せず、斉明六年四月(六六〇)には存在すること(暦日の不存在)。ほかを挙げられた。極めて見事な分析といえよう。 ところで、持統天皇の吉野行幸は持統三年(六八九年一月十八日)が初出。以降、持統十一年(六九七)まで、都合三十一回の吉野行幸が暦年の経過を追って、順序良く連続している、いわば「セットもの」だ。 従って六八九年~六九七年までの一連の行幸記事は「セット」で三十四年遡上る(六五五年斉明元年~六六三年天智二年)はずだ。それなら、行幸以外の記事も、同様に三十四年遡るものがあると見るのが自然だ。 以下その例を探してみよう。 ◇ ▼ 【 白村江以降に見られる 「三十四年遡上り現象」について 会報77号 へ 】 ▼ 【 朱鳥元年の僧尼献上記事批判 (三十四年遡上問題) 会報78号 へ 】 ▼ 【 日本書紀の編纂と九州年号 (三十四年の遡上分析)会報79号 へ 】 ▼ 【 古田史学会報81号 2007年8月15日 薩夜麻の「冤罪」I 正木 裕 】 ▼ 【 古田史学会報82号 2007年10月10日 薩夜麻の「冤罪」II 正木 裕 】 ▼ 【 古田史学会報83号 2007年12月6日 薩夜麻の「冤罪」 III 正木裕 】 ▼ 【 古田史学会報84号 2008年2月11日 明日香皇子の出征と書紀・万葉の分岐点 正木裕 】 ▼ 【 古田史学会報85号 2008年4月8日 常色の宗教改革 正木裕 】 ▼ 【 古田史学会報86号 2008年6月6日 伊勢王と筑紫君薩夜麻の接点 正木 裕 】 ▼ 【 古田史学会報87号 2008年8月12日 「藤原宮」と大化の改新について I 移された藤原宮記事 正木裕 】 ▼ 【 古田史学会報88号 2008年10月15日 「藤原宮」と大化の改新についてII 皇極紀における「造宮」記事 正木裕 】 ▼ 【 古田史学会報89号 2008年12月16日 「藤原宮」と大化の改新についてIII なぜ「大化」は五〇年ずらされたのか 正木裕 】 ▼ 【 古田史学会報92号 2009年 6月15日 「大長」末の騒乱と九州王朝の消滅 「官軍雷撃、凶賊霧消」記事の真相 正木裕 】 ◇◇ ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan ▼ 【 2013年2月14日(木) 古田史学会の正木 裕氏は「日本書紀」が「倭国史」を如何に改竄したか、その法則性を指摘・摘発している 】 ●増田眞一(脱原発に一票)@chounin @tohyan たくさんの資料を少しずつ読ませていただいてます。 歴史に疎い自分も時代の背景がわかる内容びっくりしております。感謝!多謝! ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @chounin いつもリツイート戴きこちらこそ感謝しています。 『壬申大乱:古田武彦著』p59に、 『ところが、この「持統八年(694)」という年には、「夏四月」に「丁亥」という干支(えと)の日が存在しないのである。』 …と書かれています。 正木裕氏はこの一行を手掛かりに解明を進められた。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @chounin この〔 694年(朱鳥9)-660年(白雉9)=34年 〕を年表で見ました。 すると、正木氏の指摘通り(朱鳥9)⇒(白雉9)で 九州年号が置換されていると分かります。 ▼ 【 九州年号・書紀天皇表〔九州年号の34年繰り下げ/50年繰り上げ〕 】 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @chounin どういう風に改竄したかというと、倭国史に書かれてたであろう例えば、 九州年号(白雉9)年の「白雉」を朱線で消して「朱鳥」に置き換える ⇒結果、九州年号(朱鳥9)年に化けるわけです。 現代で明治9年を昭和9年に置き換えると同じ手法です。 但し、地震とか自然現象はそのままに ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @chounin その後、九州年号を消して、天皇紀に書き換える。 まー、実際には一度に書き換えたのでしょうが… 『日本書紀』にある九州年号の「大化」とか「朱鳥」とかは、特別に残さざるを得なかった特殊事例です。 ― ▼ こんな「日本書紀」を 「偽書」 と呼ばずしてなんと呼びえましょうか? ― 改竄手法を知って、逆に原・倭国史の「復元」を計るのみです。今は、どこまで復元できるかが問われています。 ●増田眞一(脱原発に一票)@chounin @tohyan 返信遅れましてすみません。当時に起きた国家的な出来事等を追うことにより、その整合性がよりわかってくるということですね。 これは正直びっくりしたところです、まだ自分では検証していませんが・・(苦笑。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @chounin 唐が倭国に632年冊封を強要し、これを26歳の倭国王子「弾正尹・為尊親王」が、「唐への冊封強要を拒否して以来、大和朝廷「日本国」は唐の朝貢国に成り下がった。 太平洋戦争で敗戦しポツダム宣言を受け入れ無条件降伏を強いられた。TPPで米国の更なる属国化が見えてきました。 ●増田眞一(脱原発に一票) @chounin @tohyan 前回、とうやんさんがツィートされていた部分ですね。実は、ここから自分も引き込まれていきました。 まさに歴史は繰り返される。今まさに日本の危機です。 ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan @chounin TPPへ参加し米国の奴隷になって、鞭に打たれながら、嬉々として嬌声を上げる輩に、日本の国は牛耳られようとしています。やれ・やれです。 ●増田眞一(脱原発に一票) @chounin @tohyan まったくその通りです。売国行為というのでしょうか自分には理解不能です。 @chounin TPPへ参加し米国の奴隷になって、鞭に打たれながら、嬉々として嬌声を上げる輩に、日本の国は牛耳られようとしています。やれ・やれです。 ●増田眞一(脱原発に一票) @chounin @tohyan 結局、日本に住んでいる国民が煽りを食ってしまう構図をどうにかしたいですね。それが自分らの祖先の願いでもあっただろうと思います。 表向きであっても国民主権であるうちになんとかしたいです。 今は逆方向にまっしぐらな状況ですが。歴史のほうは、自分の中で整理できるよう頑張ります。 ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan @chounin おっしゃる通りです。何とかしなければ、頑張りましょう!! □ □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
(a0036) 【今1番行きたいのが田布施です。情報感謝です。幕末から現在まで田布施で繋がってますからね。】 2013年2月16日(土)
□ ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @kochi53 松重楊江著『二人で一人の明治天皇』 のPRが少し前の 【街カフェTV生中継/脱国民洗脳!】 に流れてた。 「原・大化改新」での高市天皇暗殺を真似て、孝明天皇を暗殺したと考えている。 明治天皇⇒昭和天皇⇒岸⇒安倍へと続く。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @tohyan @kochi53 幕末長州藩の志士が品川の英国公使館焼討を仕掛けたのは有名な話ですが、その半年後に5人の長州藩士が、その英国へ密航している。 それって、非常に、おかしい! おかしくない? 小沢さんは最近西南の役の西郷隆盛に例えられてるが、維新の岩倉具視欧米視察団は、シオニストへの御礼参りと理解できる。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @tohyan @kochi53 えッ?まさかー・そんな馬鹿な・変な奴…と思われるでしょうが、米国の南北戦争の中古の銃・ミネーゲル銃を戊辰戦争に使っているとか、結構そのへんの繋がりはすごいものが有る。 斎藤恭紀@saitoyasunoriさんはTPPはもう阻止できないとも言ってる。 ◇ ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan 曾祖父は花岡八幡宮にある国内最長「破邪の御太刀」(全長4・6メートル)国綱門下7人衆の一人で刀鍛冶だったそうだ。 その花岡八幡宮の石段下の向かいに父の友人の児玉金吾という方がいて毛利徳山藩児玉源太郎元帥の甥っ子だといってました。 周防での偉人は奇兵隊天皇こと明治天皇と伊藤博文の3人。 ●ユッキン@mayowan @tohyan 花岡八幡宮は私の故郷です。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @mayowan え・えーッ!? 花岡八幡さまの階段を下りて、道を挟んで向かいが、もう亡くなったと思いますが、児玉金吾さんの家です。確か、近所に鬼武さん家もあるかと… ●ユッキン@mayowan @tohyan 児玉金吾さんも鬼武さんも存じあげませんが、児玉源太郎記念碑にはわずかな寄附をしました。花岡は故郷ながら良い街ですね。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @mayowan 児玉源太郎記念碑の除幕式、一昨年の7月でしたっけ?弟が言ってました。 岩徳線は2-3度乗ったきり、『(完全踏査)続・古代の道:木下良監修・武部健一著』によると、山陽道・生野屋駅には、呼坂か小周防(=古周防)かとありますが、切戸川・平田川・末武川の奥深く入り江かも? ●ユッキン@mayowan @tohyan お詳しいですね。私も歴史、特に幕末(奇兵隊天皇)あたり興味あります。楽しみに読ませて頂いてますよ。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @mayowan あははッ、田布施の麻郷に高松宮ってご存じですか? もう10年になるかな? 屋根の銅板葺き替えで募金に応募しておきましたが、三条実美卿の石碑がありました。 『明治維新の生贄(長州忍者外伝)鹿島昇・松重正・宮崎鉄雄 共著』が縁でした。長州藩の維新を知るには打って付けです。 ●ユッキン@mayowan @tohyan 今1番行きたいのが田布施です。情報感謝です。幕末から現在まで田布施で繋がってますからね。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @mayowan … そうですね。今いろんな憶測が出ていますが、過去に責任のある「長州人」としては、「正しい史観」を持つのは大切だと思いますよ^^ ◇ ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan 「奇兵隊天皇」んッ? ▼ 【 2013年2月16日(土) 今1番行きたいのが田布施です。情報感謝です。幕末から現在まで田布施で繋がってますからね。 】 □ □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
(a0037) 【勿体ないなって思うなーッ大分県や宇佐市は、こんな 埋もれた遺跡を、手付かずに…放ってるってことにね^^】 2013年2月25日(月)
□ ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan 倭国王の倭薈は宇佐市の駅館川西岸の「 小倉山(小高い丘陵)」 に死亡する の現地地図を覗いてみよう まー、勿体ないなって思うな・・・・ 大分県や宇佐市は、こんな 埋もれた遺跡を、手付かずに・・・放ってるってことに・ね^^ ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan @innaiajimu @tohyan そうだ、この話知りませんか? 小倉の池の傍の元重に東大寺が建っていたこと。虚空蔵寺跡に薬師寺が建ってたこと。 『逆賊磐井は国父倭薈(いわい)だ:米田良三著』に記載されていますが、九州王朝「倭国」の古代史で非常に重要な史実・史跡なのですが… ●院内安心院 @innaiajimu @tohyan すみません、知りません。(^^;)。 しかしと~っても興味深いですネ。 私はコチラに来たばかりで今いろいろと勉強中です。詳しい方もおりますので調べてみます。フォローありがとうございます! ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan @innaiajimu そうですか、是非お願いします。 ●院内安心院 @innaiajimu @tohyan いくつか本を読んでいて何故宇佐、宇佐神宮が東大寺建立に影響力があったか? とはよく書かれているのですが謎として明快な答えはあまりないようでもやもやしてました(^^)小倉、元重いってみます。 ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan @innaiajimu 東大寺の仏像の銅は山口の厚東川をさかのぼった秋吉台近くの 「長登」鉱山の銅 が使われているというのは有名な話ですが、宇佐の対岸になります。 今の大仏は頭を婁遮那佛に挿げ替えたものです。 宇佐神宮は 「 拝田(=拝殿)」 にあったのを移築したもので塗金が備蓄されてて当然です。 ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan 同書p199には「山口県佐波郡徳地町所在の 「法光寺・阿弥陀堂」 は、1186年に東大寺再興大勧進職俊乗坊 「 重源 」 が創建したと伝えている。云々」とか、法隆寺の芯柱がやはりこの辺りだった、と言う事から山口県の西半分は九州王朝「倭国」直轄地だったようだ。 ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan 法隆寺金堂壁画阿弥陀浄土図、東大寺大仏、薬師寺金堂薬師如来像に「胸に卍文、手に輪宝文、足の裏に瑞祥文」のいずれかがあることにより、この3寺が九州「倭国」にあったことは明白である。 だがそれは又、途方もない九州から近畿へ移築工事抜きにしてはあり得ないわけだ。まー、新築より移築の方が易しい…のは明らかだが、 名古屋に居た若い時、女房とよく「明治村」に遊びに行ったものだが、あれと同じだろう。 米田良三氏は大和朝廷が九州王朝「倭国」から強奪したものだと言うが、大和朝廷が九州王朝「倭国」の弟分家と分かった以上、高市天皇が筑紫地震後、九州から近畿へ遷都時に併せて移築したものだろう。 ●院内安心院@innaiajimu すごいことになっていた妙見山の 「あと~m」案内板(@@;) 登山道もだいぶルートが変わったようで、このたび測量し直し看板も作り変えます。 ♪宇佐市♪院内町 ◇ ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @innaiajimu ▼ 【 勿体ないなって思うな…大分県や宇佐市は、こんな 埋もれた遺跡を、手付かずに…放ってるってことにね^^ 】 ◇◇ ●院内安心院 @innaiajimu 高台から小倉池を望む。。小倉山…そんな山はないという
●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan
およよッ、もう行かれたのですか!! またすごい行動力ですね。「小倉山」と言った地名は残っていない模様ですが、「小倉池」と言うのは残っている。 又、山の反対側の地名が「山本」とあることもあり、この丘が「小倉山」と言う地名だったと米田良三氏は推定されたはずです。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @innaiajimu この立ち位置こそ小倉山であり、西側斜面と思われます。それにしても穏やかな良い眺めだと感じられます。 遺跡だと言っても、それらしきものはなんにも無いじゃーないか?とお叱りを受けそうですが、それは、ジョウモンマン @jyoumonjnさんの長谷寺の時と同じかと^^ ●院内安心院 @innaiajimu この池の下に、水が引くとお堂の跡が見える。。とりあえず、現地きたなう。 これから元重へ♩宇佐市♩小倉池
●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan
この池の底ではなく、東側の田んぼが東大寺伽藍の有った場所です。『逆賊磐井は国父倭薈』の挿し絵の写しです。 ▼ 【 米軍撮影の航空写真(国土地理院) 】 ▼ 【 小倉山東大寺伽藍図 】 ●院内安心院 @innaiajimu 向かいが元重集落 このあたり、山の形がいい
●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan
米田良三氏の著書は「新泉社」から1990年代に発行され、『法隆寺は移築された』『建築から古代を解く』『列島合体から倭国を論ず』『逆賊磐井は国父倭薈だ』が有ります。最近では 【AB&JC PRESS】 をご参照ください。 ●院内安心院 @innaiajimu 元重にあった木の根!? んー地元の方は寺の跡はしらないという。。もうちと調べてまた来ましょう{(-_-)} ●院内安心院 @innaiajimu パノラマ
●院内安心院 @innaiajimu
宇佐市小倉池周辺、なんともいいとこです。道側から池越しの風景
●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan
534年に現薬師寺が小倉山の東の麓の虚空蔵寺に建てられ、西の麓の小倉の池そばに、大宰府から見て東の東大寺が九州年号金光元年570年に完成する。 九州王朝「倭国」の遷都に伴い700年代に近畿へ移築されたことになる。移築後、既に1300年の歳月が過ぎ去っている。 ◇ ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @innaiajimu この東大寺伽藍史跡は、元重から奈良へ持ち去られて、既に1300年の歳月が流れています。米田氏が戦後すぐに米軍が空撮した写真をもとに伽藍領域を推定しています。twitterでの説明ではこれ以上無理かと思います。anazon他で著書を読んで戴くほかありません。 【 米軍撮影の航空写真(国土地理院) 】
◇
●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @jyoumonjn 仲間がふえた、喜んでください^^ RT @innaiajimu @tohyan 地図まで!ありがとうございます。近々地図片手にゆっくりまわってみます。宇佐市小倉池周辺、なんともいいとこです。 道側から池越しの風景 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan 534年に薬師寺、570年に東大寺が建てられ、筑紫地震678年以降700年代初頭に、奈良へ移築される約150年間この 「小倉山」 に建っていた事になる。 以降1300年の惰眠中だ。この寄せられた美しい写真を見ると、それにしても「のどか」である ●ジョウモンマン【国民の生活が第一】@jyoumonjn いいとこだにゃぁ・・別荘地に最適かも^^ RT @tohyan @innaiajimu仲間がふえた、喜んでください^^ RT @innaiajimu @tohyan 地図まで!ありがとうございます。近々地図片手にゆっくりまわってみます。宇佐市小倉池周辺、なんともいいとこです ●院内安心院@innaiajimu @jyoumonjn よろしくおねがいします!ぜひいちど宇佐市においでください! ●ジョウモンマン【国民の生活が第一】@jyoumonjn コンニチハ~湯布院、別府、大分までは何度もオジャマしたんですが・・いつか勉強にいってみます^^RT @innaiajimu よろしくおねがいします!ぜひいちど宇佐市においでください! ◇ ●安心院地区まちづくり協議会@ajimutiku ▼ 【 2/20~3/7まであしぶの里ひいな祭を開催しています。 】 ●院内安心院@innaiajimu @ajimutiku 祝!ついったー開設!安心院地区協議会様。心安らぐあしぶの里。。 ひいな祭ではしょうがを後から入れる濃厚甘酒とぜんざいをご用意いたしまして三人官女がおまちしております。おつけものが美しい~♪九州♪大分♪松本清張♪ ●院内安心院@innaiajimu フォトセット: ▼ 【 虚空蔵寺跡 】 Warehouse of INNOCENT SKY Temple usa-city,Oita ◇ ●院内安心院 @innaiajimu フォトセット: ▼ 【 虚空蔵寺跡 】 Warehouse of INNOCENT SKY Temple usa-city,Oita ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan @innaiajimu 今頃遅いかな、そうか、安心院(あじむ)町にお住まいだったのですね。安心院町ってどこだ?ってんで調べました。駅館川の中流域なんですね。 あれッここは以前調べたことなー。お住まいの近くに 「龍王」 と言う場所ありませんか? ●院内安心院 @innaiajimu @tohyan 竜王、龍王ありますね。近いです。小倉池にも竜王にも2、30分でいけます。 地元の方は遺跡、遺構などあまりに多くてちょっと麻痺してるところもありますね(^^;)ちょっと道端の石を積んだものを持ち上げたら鎌倉時代の五輪塔!?だったり。。 ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan @innaiajimu この「龍王」ですが、『逆賊磐井は国父倭薈だ:米田良三著』p65には 『5図の左端の堂には「龍王」の書き込みがある。薬師寺の収蔵物の中に龍王社神像があり、龍王社と薬師寺は関係が有ることが分かる。-小倉山の脇を流れる駅館川の上流域は「龍王」と呼ぶ云々』 を参照乞う ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan @innaiajimu 更に同書p74には『樋田は薬師寺絵図で説明した「龍王」の龍王谷の谷口にあたる豊川村である。その山本の背後の丘陵は、どの地図を見ても名前は書かれていないが、私は倭国時代に小倉山という地名であったと考えている。その痕跡は北鹿の溜池の名前「小倉の池」である。(続 続き)この名前は「大日本地名辞書」には無く、明治の時代、地元では知られていたが公表されていなかったと考えられる。また丘陵の尾根から西は元重村で、「大日本地名辞書」の元重村の項には中津川軍記に「元重村の小倉山久全寺の衆徒」の記述があると述べている。(続く 続)「小倉の池」「小倉山久全寺」の存在は丘陵が過去に「小倉山」と呼ばれていたことを証明する。ー「今其の神殿は峰の西北菱形山(一名小倉)に在りて、南に向えり〔豊国紀行〕」これは宇佐八幡宮が移動する前の場所が、小倉山であったことを伝えるための記録ではないかと考えるのである。』 ●院内安心院 @innaiajimu @tohyan 小倉山、池川の斜面は一面果樹園なのですが、池の反対側斜面は険しく鬱蒼としているところもあり、カラスの住まい?なのかかなりの大群がいました。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @innaiajimu 差し出がましいですが、アマゾンで 『逆賊磐井は国父倭薈だ :米田 良三著 (1999/1)』 が、中古品だと千円前後ですので、ぜひお買い求めお願いします。 □ □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
(a0038) 【「葛城→蘇我→秦国」のトライアングルの中に埋まって、「蘇我=葛城」ではなく「倭国=蘇我」?? ですね】 2013年3月1日(金)
□ ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan 若し、倭国連邦一員の出雲・加賀・吉備・葛城『秦国』・尾張・毛野(常陸)のいずれかが、母体・核となって大和朝廷「日本国」へ発展したと「仮定」した場合、 その王朝史となる「日本書紀」が九州「倭国」を抹殺しただろうか、思うに『抹殺せずその「討伐経緯」をむしろ誇らしげに書き込んだ』だろう。 ●増田眞一(脱原発に一票)@chounin @tohyan お久しぶりです。葛城→蘇我→秦国のトライアングルの中に埋まっておりました。。 蘇我=葛城ではなく、倭国=蘇我ですね;;飛鳥は蘇我氏の都で秦国は別となると、難波副都の位置もトライアングルでまた埋まってしまいそうです;; いつも勉強させてもらっています。進歩ないですが^^; ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @chounin なるほど、私も同じです。 【伊予国温泉風土記の法興王と葛城王がゆあみした】 ⇒①「葛城=秦国」ではないか。 倭王高市天皇暗殺を蘇我入鹿暗殺⇒②「倭国=蘇我」ではないか。 飛鳥山田寺は蘇我氏で、持統天皇は蘇我氏の出身⇒③「飛鳥=蘇我」ではないか。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @chounin 然し問題は、②「倭国=蘇我」でしょう。 【「倭国」重臣安倍朝臣御主人を粛清⇒「蘇我」倉山田石川麻呂の謀反】 で分るように、五〇年前移動の「でっち上げ」の結果でしょうから、 「逆に」、②は④「倭国≠蘇我」であると考えています。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @chounin 【本来は巷苛(蘇我)の伊奈米(稲目)ー有明子(馬子)ー善徳(蝦夷か)】 の元興寺や山田寺は米田良三氏の言う通り、九州からの移築でないとすると、飛鳥本来の建物で蘇我氏のものでしょう。 問題は秦国王家中に葛城氏、蘇我氏が居たかでしょう。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @chounin 【《唐人の計》で、薩夜麻の「封禅の儀への参加」を、薩夜麻の「倭国への解放・帰国」に“すりかえ”ている】 で分かるように、『書紀』は「倭国王」薩夜麻⇒「筑紫君」薩夜麻として「倭国」を消している。「秦国」も同じ手法が採られた。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @chounin ご参考 【蘇我氏の出身地】 「『日本霊異記』(上巻第五話)の記事に蘇我馬子が祀っていた仏像を豊国に捨てろとあり、崇仏派の蘇我氏は豊国出身と思われる。」…その検索結果は、 なんと最も「蘇我」さんが多い県は大分県だったのでした。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @chounin 又、 【4). 謡曲と九州王朝3「多利思北孤」と『風姿花伝』(川西市・正木裕)世阿弥著『風姿花伝』に記す、聖徳太子が秦河勝に命じた「六十六番の遊宴、六十六面製作」譚、及び法華経を六十六国の菩薩に納める…云々】 での《秦河勝》 ●増田眞一(脱原発に一票)@chounin @tohyan ご説明有難うございます。これだけの資料があったとは・・・読みきれていませんでした。。 白村江敗戦から筑紫大地震に難波副都と 飛鳥宮にと大移動が実感できてきました。白村江敗戦は、天下の一大事件だったのですね。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @chounin おっしゃる通り現米国が同じ轍(わだち)です。 今急いで「葛城→蘇我→秦国のトライアングル」結論を得る必要はないでしょう。 ただ、言えることは「隋書・俀国伝」にある「倭国」「秦国」のいずれもを、『日本書紀』は記載していない、何故か「抹殺している」ということは事実でしょうね。 ◇◇ ●増田眞一(脱原発に一票)@chounin @tohyan 有難うございます。こうして見ますとほとんど抹殺されてしまっています。その意味も考えて歴史を見ていきます。 今現在の日本のよく似た雰囲気がなんともですが;; ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @chounin 唐国と米国の対比で、 【632年、唐が倭国に遣わした冊封・刺史「高表仁」に対し、26歳の倭国・王子「弾正尹・為尊親王」が、「唐への冊封関係を拒否した事件」】 が、ペリーの来航。白村江戦が、太平洋戦争に相当しませんかね^^ ●増田眞一(脱原発に一票)@chounin @tohyan まったく同じではないかと思います。 ただ、違うのは宗主国と属国の関係をあくまで拒否した為尊親王のような御仁が見当たらないというところでしょうか・・・ ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @chounin 『戦後史の正体:孫崎享著』の重光葵、芦田均はどうでしょうか? 現在では、小沢一郎、鳩山由紀夫はどうでしょうか、少し「小粒」かな^^ それに引き替え、我が長州藩の安倍晋三・高村正彦・河村健夫・岸信夫の御仁は「不正選挙」と言い、TPPと言い、戴けない、あきませんなー^^ ●増田眞一(脱原発に一票)@chounin @tohyan 孫崎享さんと重光葵がなんだか似ていると思っているのは私だけでしょうか笑 当時、マッカーサーと直接交渉に望んだ背景は、まさに為尊親王でした。 鳩山さんや小沢さんはもっと難しい局面での対応を迫られている感があります。対米従属はある意味主流でそれを変えるには国民意識改革も ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @chounin 国民の「意識改革」といっても、テレビ・新聞があの調子ですから「洗脳されまくり」ですね…「やれ・やれ」です。 twitterとか、IWJとか、CMNとか、ネットのごく一部が知ってるだけでしょう。 本当に311以降は「度胆を抜かれる」ことばかりです。どうしたら良いのやら ●増田眞一(脱原発に一票)@chounin @tohyan 本当です。311以降まさかここまでなるかと・・・。 既得権益だ売国だとかでは到底自分に説明できない経験でした。 震災復興を旗印にできなかった時点で政治家の限界も見てしまいました。これは自分だけでなくすべての人の心中に根付いてしまった。政治家の敗北は、大衆の不安の要素。 ◇ ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @chounin これが現実! RT ゆうやけ【不正選挙はダメ!!!】@kotodamapapa ▼ 【 2013/02/27ブログ記事:「アーミテージさん、ありがとうございます」属国日本の姿を堂々とさらけ出した安倍総理 米講演で 】 … @iwakamiyasumiさんから ●増田眞一(脱原発に一票)@chounin @tohyan @kotodamapapa @iwakamiyasumi 官僚も政治家も変えられない。新自由主義で変わるかもしれないが、それは真っ平ごめんとなると・・・ 下からの突き上げになるのかなと思います。しかし、この文章は読むに辛いなさけない・・・涙。。。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @chounin この講演では「フクシマ」の「フ」の字も出てきません。核ミサイル用プルトニューム生産下請けを喜んでさせて戴きます。 私には「日本を“袖にしない”でください!米国だけが頼りです。」といってるように聞こえますが、如何でしょう!? オバマはとっくに、見限っていると言うのに… ●増田眞一(脱原発に一票)@chounin @tohyan 前政権も未曾有の震災といいながら、自国の事をさし置いて対米従属に走りました。 阿部さんが同じことを繰り返すなら、阻止する手立ても考えなければなりません。 さて、自分たちで何ができるのか?・・・考えてゆかなければいけない時代になってきたのかもしれません。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @chounin おっしゃるとおりです。ツイッター読んでると、みんなそう言ってるように思えます。みんなで声をあげれば怖くない^^ ●増田眞一(脱原発に一票)@chounin @tohyan 有難うございます。今後は、自分も少しでも声にしていこうと思います。 ●増田眞一(脱原発に一票)@chounin @tohyan 田中宇さんのHPでも取り上げられていました。強制歳出削減で大騒ぎのアメリカですが、今後の戦略転換の事とか、韓国の朴新大統領が対米従属路線からの離脱であるとか面白いかなと思います。 ▼ 【 米歳出一律削減の危険 (2013年2月28日) 田中 宇 】 ◇ ●増田眞一(脱原発に一票)@chounin @tohyan 今から用事で出かけます。またよろしくお願いします。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @chounin 『まとめ』です。 ▼ 【 2013年3月1日(金) 「葛城→蘇我→秦国」のトライアングルの中に埋まって、「蘇我=葛城」ではなく「倭国=蘇我」?? ですね 】 ●増田眞一(脱原発に一票)@chounin @tohyan 倭国=蘇我でした^^徹底して倭国の存在を消していった訳ですね。 自分なんかは、どうしても蘇我氏をひいき目に見てしまうんでしょうか・・笑。あまりにひどい扱いじゃないかと^^今日は有難うございました。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @chounin ありゃ・りゃッ? 「倭国=蘇我でした^^」って?? 待ちんしゃい! 「倭国 ≠ 蘇我」ということじゃー^^ なかたっと?じゃー。。。。 文武王朝が征服した王族を、「蘇我」ということにした。んだと思うんだけど。。。なー? ●増田眞一(脱原発に一票)@chounin @tohyan ええ~~;;;そうなんですか・・・ 「文武王朝が征服した王族を、「蘇我」ということにした。」駄目だわ・・・もう一度見てみます。。。^^; ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @chounin たはッ!?。。。。。^^ ◇ ●増田眞一(脱原発に一票) @chounin @tohyan 難波副都→ 飛鳥宮と移ってきたのは倭国の王では? ●増田眞一(脱原発に一票) @chounin @tohyan 竹斯国(=俀国直轄地:筑紫・九州島)以東で目ぼしい国といえば秦王国だった、この秦王国さえも俀に附庸すると言っているが、隋使は俀国の大宰府から更に東の秦王国まで訪れたのだ。 この隋書でいう秦王国こそが飛鳥・葛城地方の『秦国』王家であり、蘇我氏であろう。これに ●増田眞一(脱原発に一票) @chounin @tohyan 「九州王朝難波副都」は「天下立評(=全国評制施行)」の班田収受が徐々に軌道に乗り、かたやその財政余力をかって、飛鳥・葛城の『秦国』王家の蘇我氏の取り込みも謀った。 そうこうするうちに、「難波副都倭弟王家」 は大和朝廷へ発展したという・・以上の事で、利用された? ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan @chounin 「倭国王」薩夜麻の天武天皇が唐より解放・帰国し、倭国再統合戦の壬申乱672年で勝利した。小郡の宮(=九州飛鳥浄御原宮)で即位。 小郡の宮が筑後川を挟んですぐの水縄断層帯の筑紫地震678年で被災。 684年の白鳳地震の直前迄に、九州から近畿の取敢えず、難波宮へ遷都。 ●増田眞一(脱原発に一票) @chounin @tohyan はい。ここまでは了解です^^ ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan @chounin 難波宮へ遷都直後、白鳳地震684年に被災。直後、白鳳王崩御。 弟王家の大海人皇子の天武天皇が朱雀倭王に即位。 686年朱雀倭王崩御。難波宮に火災で、やむを得ず、弟王家の宮の飛鳥宮に同居遷都。 朱鳥元年690年倭王高市天皇即位、弟王家の軽皇子(=後の文武)が皇太子に即位。 ●増田眞一(脱原発に一票) @chounin @tohyan 同時に即位したという事ですね。 ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan @chounin 倭国の新都「藤原宮」が694年末に完成で、695年九州年号「大化」改元。 大化2年696年正月「原・大化の改新」。 3月皇太子使使奏請。 7月倭王高市天皇暗殺により崩御(原・乙巳の変)。 ●増田眞一(脱原発に一票) @chounin @tohyan 歴史上の文武天皇即位ですね・・・ ●増田眞一(脱原発に一票) @chounin @tohyan 武市皇子が蘇我入鹿で最後の倭王と思っていましたが・・・ 文武天皇はそののちの人ですよね・・・ ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan @chounin 武市皇子は即位して天皇だった。その時、軽皇子(=後の文武天皇)は皇太子だった。 高市天皇は軽皇太子一派に「原・乙巳の変」で、696年7月10日に暗殺され崩御した。 これを51年前倒しして「乙巳の変」として「でっち上げた」。 故に蘇我入鹿は実在しない架空の人物となります。 ●増田眞一(脱原発に一票) @chounin @tohyan あちゃ~~><理解できてませんでした。。。やり直しです><。。。倭国 ≠ 蘇我 お手数かけさせて申し訳ありません。どうも有難うございました>< ◇◇ ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan @chounin 大海人の天武天皇崩御686年から持統天皇即位元年690年は、倭王高市天皇は朱鳥元年に倭王に即位してただろうが、弟王家との折り合いがつかず、軽皇子の皇太子即位というバーターが成立。 で、持統天皇即位は高市天皇即位が本来形である。 持統は皇太后で天皇に即位していなかったはず。 ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan @chounin 696年7月10日、倭王高市天皇が暗殺により崩御した。 これで、九州王朝「倭国」は滅亡し、翌年の697年、軽皇太子は文武天皇に即位した。 即ち、大和朝廷・日本国が晴れて開闢した。というわけですね^^ と言う事は、大和朝廷は九州王朝「倭国」の一分派弟王家ということです。 ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan @chounin 以上です。もう、眠いので寝ます、お休みなさいzzz ●増田眞一(脱原発に一票) @chounin @tohyan 今日は、すみませんでした。これに懲りずによろしくお願いします^^;;おやすみなさい ◇ ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @chounin 九州年号「大化」2年696年正月元旦の「プロト(=原)・大化改新」とは「廃評建郡」の詔勅だったと言われていますが今一良くわからない。 だが、軽皇太子(=後の文武)が、その80日後の3月20日【皇太子使使奏請】しているのを見ると、その改新内容が良く分かるというものだ。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @chounin ぶっちゃまけた話、「原・大化改新」とは、652年白雉改元儀式後、難波副都に常駐し「評制施行」を委任・一任されたであろう弟王家の伊勢王・天智・大海人天武・文武の係累の専権事項を、倭王高市天皇が取上げ、九州兄王家に返納させようとしたものだ。 兄王家は苦しんでるのに…、 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @chounin なんだ、弟王家は豊かな生活してるじゃーないか。飛鳥宮で一緒に生活して良くわかった。 そもそも天下立評は常色甘木王が詔勅したものだ。だから兄王家が九州から近畿へ遷都して、兄弟王家が一緒に戻った以上、兄王家の高市天皇へ戻すのが筋ってもんだ。評制を廃止し郡制に改めるぞ! ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @chounin 軽皇太子は696年3月20日【皇太子使使奏請】で評制の施行権を返納させられたが、やっぱり面白くない、ってんで倭王高市天皇の暗殺に及んだ。 その後、軽皇太子は文武天皇に即位し、結果、評制・郡制の執行権を取り戻した。 実際は649年以降が評制で、701年から郡制だった。 ●増田眞一(脱原発に一票)@chounin @tohyan 昨日は有難うございました。大宰府から難波副都(難波京)に移ってから両者のズレが段々とお互いに見えてきて、兄王家の威信で評制権を取り返し藤原京でやり直そうとしたけど弟王家に暗殺されてしまったという事でしょうか。 秦国は難波副都ができた頃には萎縮若しくはなかったのかも・ ●増田眞一(脱原発に一票)@chounin @chounin @tohyan 白鳳地震の後、秦国由来の神社・仏閣が放置されている様子からこの頃には秦国はなかった可能性が高いこと。 白村江の戦後賠償はほとんど兄王家が負担したようなイメージで、弟王家は「うちは日本だから向こうにお願いしますよ。」で係りを避けてきた感じがあります。 ●増田眞一(脱原発に一票)@chounin @chounin @tohyan 倭国の連合国家は 天下立評で白村江戦にかなり出兵があった。難波副都は兵力温存されていた。 秦国は兵力を削がれていた。秦国制圧は可能だった。いつかはわからないけれど、白村江の戦の後から白鳳地震までの間ですね。 ◇◇ ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @chounin 秦王国は百済討伐戦迄は確実に生きていました。 ▼ 【「倭国」及び、『書紀』「日本国(=秦王国)」の「対唐外交史」対比年表】 ▼ 【大和朝廷の生い立ちから倭国滅亡迄の歴史的経緯の想定年表】 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @chounin 表の右側は『書紀』日本国の外交史ですが、この時点での日本国は存在していなかったはずです。 日本列島で日本国が出現するのは天智が新羅に長門以東の独立を宣言した時の『「倭国」更えて「日本」号す』が初見です。 と言う事は、近江朝以前の外交史は秦国の外交史を「接ぎ穂・接ぎ木」してます。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @chounin 唐の百済討伐戦660年の直前に、遣唐使を派遣した国が倭国と秦国の2ツあった。 唐は列島内の宗主国倭国と扶養国秦国の「離間策」を採り、秦国の使節を特別に招待してたのでしょう。 倭国の使節が秦国の使節に「何でお前たちがここにいる」とかで、なじって喧嘩・双方幽閉されます。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @chounin 難波副都の執政官の任務は、当然長門以東の扶養王国の分権支配を取り上げ、直接中央集権支配することであったはずで、この時点迄唐へ使節を派遣する等は敵対行為です。 天智が白村江戦へ出兵せず守備部隊で待機せざるを得なかった理由でしょうか。天智は秦国を懐柔しながら制圧したのでしょう。 ●増田眞一(脱原発に一票)@chounin @tohyan 唐への使節派遣は、白村江の前年で、やはり秦国独自の方針(強い方に味方等)みたいなものが合ったのかもですね。とはいえ内戦など出来ずで大変だった様子がわかります。 このタイミングでの裏切り行為が石舞台の現状なのかな~と思えてきました。また少し勉強できたようです^^ ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @chounin 秦国の王家を蘇我氏と仮定した場合、持統皇后とかの蘇我氏系出身の女性たちは、蘇我氏から天智・天武への性奴隷・貢物だった可能性が高いと思います。 いずれにしろ、壬申乱672年迄は続いてたかもしれませんが、白鳳地震時684年には、既に蘇我宗家は滅亡してたと考えます。 ●増田眞一(脱原発に一票)@chounin @tohyan 天武朝、浄御原宮の時には完全に飲み込まれてしまってたのですね>< ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @chounin 九州王朝「倭国」の重臣安倍朝臣御主人を適当に蘇我倉山田石川麻呂に繋ぐといった虚構が私の解釈の手掛かりでしょうか。 ▼ 【 書紀大化五年:蘇我倉山田石川麻呂の謀反は、逆で大宝三年(703)の九州王朝系の重臣を粛清した出来事だ 】 ●増田眞一(脱原発に一票)@chounin @chounin @tohyan 昨日からずっとお付き合いしていただいて恐縮です><本当に有難うございました。 今後もまたピント外れな質問等するかもしれませんが・・・よろしくお願いしますm(__)m ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @chounin 『書紀』の記述を疑いなく追跡すると、こういった 【蘇我倉山田石川麻呂(旧山田寺の仏頭の主)の話】・《魚拓》 の内容になるかと思いますが、正木裕氏の分析を読むと、とても違ったものになります。 私もあなたに納得してもらえたか心配ですが^^ ●増田眞一(脱原発に一票)@chounin @tohyan はあい^^; 正木裕氏の「藤原宮」と大化の改新Ⅰ 移された藤原宮記事読ませていただきました。書記に書かれている蘇我倉山田石川麻呂の話は、時代講釈からして703年にあった九州王朝重臣の粛清した出来事、大宝三年閏四月「辛酉」朔に逝去を九州年号常色三年に移したと。 ●増田眞一(脱原発に一票)@chounin @chounin @tohyan 九州年号常色三年、649年で山田寺の話に繋がりました。セーフ!?^^; ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @chounin でしょう!?このように『書紀』の倭国史書の改竄手法が分かると、七夕の短冊のように切りぬかれて、恣意的に貼り替えられてると分かります。 記事の重複が何故多いのかも、これで説明できると言うものです。 この時代の史書という史書が焚き書されてるので、根気よく復元する他無いですね。 ●増田眞一(脱原発に一票)@chounin @tohyan ですね!発想がすごいですね。自分なんか初めてのものばかりで、ただただ読んで感心するだけでした。根気なんですね。もう根性でも良いかもです。 ◇ ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan @chounin ▼ 【 V「天皇朱雀門行幸」の登場人物も移されていた 】 然し藤原宮時点で天皇が弔意を表するにふさわしい「阿倍大臣」が存在する。それは「右大臣従二位阿倍朝臣御主人」云々 の「安倍朝臣御主人」は「高市天皇」暗殺下手人の一人と考えられ ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan @chounin 【 …天皇が薨去したのだ、3ヶ月後とはいえ顕彰記事は異常だ。 】 以上から「高市天皇」暗殺の下手人は、★「丹比真人嶋」★「安倍朝臣御主人」★「大伴宿禰御行」☆「石上朝臣麻呂」☆「藤原朝臣不比等」の合計5人で、★印は九州系☆印は近畿系を表示する。 ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan @chounin ▼ 【 Ⅸ・c《追紀》 『「続日本紀」が記す「高市天皇暗殺」後の下手人達の栄達』 】 この九州系の3人は破格の栄達後、6年後の阿倍朝臣御主人を最後に3人共消されている。 ●山本 俊明 “ とうやん ” @tohyan @chounin ケネディ暗殺のオズワルド、更にオズワルドの暗殺・・・。「本能寺の首謀者は秀吉である:今木健之著」と同じである。暗殺・暗殺・暗殺・・・、暗殺が暗殺を呼んでいる。いわば「闇から闇へ」なのだ。 今度の「不正選挙」も発覚しそうになると、暗殺が暗殺を呼んでいる。「闇から闇へ」 ●増田眞一(脱原発に一票)@chounin @tohyan 武市天皇暗殺に係って栄達したのも束の間、今度は自分自身がターゲットになってしまうというなんとも恐ろしい展開ですね。手を打つ事もできない状況なんだろうと推察します。 明智光秀の最後もそんな感じですよね。先手をうたれて相手が秀吉では兵も集まらないしです。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @chounin そうです。 【 ○『696年〔持統10年(持統即位7年):大化2年〕7月10日、後皇子尊『x高市皇子xo高市天皇o』が薨じた。 】 は、本当に暗殺?病死では? で、調べてみました。その結果が、この記事です。やはり暗殺でしょう!! ●増田眞一(脱原発に一票)@chounin @tohyan 納言布勢朝臣御主人、丹比真人麻呂、布勢朝臣御主人・大伴宿禰御行の名前が出て「・・・が誅した。礼というものだ。」となっています。時期は687年から688年にかけて三度。 自分はこれが暗殺の密約みたいなものと解釈してました。最初に褒美をもらったら、断れないような雰囲気が ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @chounin なるほど、考えられますね。これって実は、 『明治維新の生贄(いけにえ)長州忍者外伝ー誰が孝明天皇を殺したかー鹿島昇・宮崎鉄雄・松重正:共著』 に、実に良く似てるんですよ。 心を許した直近の公家・家臣が主君を裏切り、暗殺してるわけですからね。『書紀』の表面を読んでも分らない。 ●増田眞一(脱原発に一票)@chounin @tohyan こうやって考えてゆくと今も昔も変わってないですよね。。。 「権力を持つとかそれを保持する為には、これぐらいの犠牲は仕方ないのだよ」なんて暗闇から聞こえてきそうですね・・・ ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @chounin ほえーッ、「福島原発の被ばく被害」なんて、仕方無いんだよーってですか。。。 TPPに入って米国の奴隷になっても、仕方無いんだよーってですか。。。 暗闇からの「ささやき」ですか。。。「やれ・やれ」ですね!? ●増田眞一(脱原発に一票)@chounin @tohyan 自分が考えるのは、そこに自分の祖先なりがどういう係りがあったかと考えたりするんです。 歴史は勝者が作るのならば、歴史というのは自分達の歴史じゃない。民草の歴史こそ自分達の歴史じゃないかと。今がその時なのかは自分達しだいなのでしょう。 ●増田眞一(脱原発に一票)@chounin @chounin @tohyan 申し訳ありません。ひな祭りの日に孫がひきつけおこしたみたいで;;;ちょっと行ってきます。 ●山本 俊明 “ とうやん ”@tohyan @chounin あッ、それは心配ですね。 □ □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 《 前 へ 戻 る 《 ( つぶやき「古代」 その102 ) 》 次 へ 進 む 》
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