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《 大和朝廷の 「はしり」 は、 「 難波朝廷 ( なにわのみかど=九州王朝「倭国」の難波複都 )」 に始まる 》  即ち、大和朝廷「日本国」 は、九州王朝「倭国」の 【 同じ血族・分流・分家 】 である。


大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 101 》



大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕

《 大和朝廷の 「はしり」 は、ここで言う 「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」 に始まる。
  即ち、大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」【 同じ血族・分流 】 と分かった。 》



 白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、日本全国 長門以東を実効支配したが、その司令官が「両京制」・「兄弟王朝」である 倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 である。
 日本書紀の〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇はこの倭王家 〔分家の弟王家〕 の出身である。
 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権 の禅譲を受け をクーデター「プロト大化の改新」で乗っ取り、倭国連邦の解体・改組してのち成立したのが、奈良の中央集権国家・文武天皇(大宝元年:701年)の大和朝廷『日本国』である。いわば倭王家 〔分家の弟王家〕 はプロト大和朝廷である。


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2010年 4月 2日 発行




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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』


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(a0017) 【紫式部の源氏物語で、明石の君の所で「桂殿」とあるのが「桂離宮」が移築前の名称である】 2013年1月2日(水)




●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 今日、桂離宮のテレビやったらしい。桂離宮が、大宰府から江戸時代初期に移築したものだと説明しても、怪訝なそぶり。

 いやー、源氏物語が九州王朝「倭国」の600年代の物語だってことから説明するのは中々骨が折れる。

 紫式部の源氏物語で、明石の君の所で「桂殿」とあるのが「桂離宮」が移築前の名称である。


●三木竜一 ぽちまる @LongMikI

 @tohyan 全然理解できないw (>_<)


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 @LongMikI 全然理解できない!…ですよね。素直でよろしい^^

 先ずは手っ取り早く、これを読む
〔法隆寺移築説の原点である観世音寺・考:米田良三論〕
と、

 更に詳しくは『列島合体から倭国を論ず:米田良三著』p156の7.桂離宮(1)桂殿を読む.。




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(a0018) 【※※※※ ※※※※NHK特集 襲撃 スズメバチの恐るべき生態※※※※ ※※※※】 2013年1月5日(土)

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(a0019) 【日本書紀の「大化の改新」は、韓国新羅史「毘曇(ひどん)の乱」の翻訳であると、鹿島は言ってたが…】 2013年1月9日(水)




《いわゆる『書紀』のいう「大化の改新」は無かった》

▼ 鹿島氏は、日本書紀での「大化の改新」は、韓国新羅史「毘曇(ひどん)の乱」の翻訳であると、『日本列島史抹殺の謎』(佐治芳彦・吾郷清彦・鹿島昇共著)の中の章、「毘曇の乱と入鹿殺し」の項で、以下のように述べているので紹介する。


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佐治 : 鹿島先生の説は「日本書紀」が朝鮮史の翻訳だということですが、どこまでが朝鮮史でどこからがいわゆる日本史になるかという問題について……


鹿島 : 壬申の乱までは朝鮮史であります。新羅の善徳王(632~647)というのは女帝ですが、和白(新羅の部落会議に源をもつ全員一致の合議政体)の筆頭であった伊飡毘曇が唐にそそのかされて、女王ではダメだといって、廉宗と共謀して王位をねらい、647年正月に反乱を起こした。このとき、王子の金春秋(のち、新羅30代文武王)と重臣の金庚信が毘曇を誅殺した。
 これを「毘曇の乱」というのですが、「日本書紀」では、女帝の皇極(642~645)のとき、大臣の蘇我入鹿が王位を狙った。645年6月に中大兄皇子と中臣鎌足が入鹿を誅したことになっていて、実はこれは「毘曇の乱」の翻訳なのであります。


佐治 : 大化の改新とか入鹿殺しの宮廷クーデターなんかはもともと朝鮮のことで、日本列島で起きた事件ではなかったということですね。


鹿島 : そうです。新羅ではこののち唐制を模倣して法治主義を採用した。大化の改新というのは新羅で起きたことであります。
 新羅史では真徳王(647~654)という女帝が立ったのですが、「日本書紀」では皇極のあと孝徳が立って、そのあと皇極が重祚して斉明(655~661)になっている。孝徳のモデルは百済の末王義慈王の長男孝ですから、これは藤原仲麻呂が「日本紀」を改竄したときに追加したもので、舎人版「日本紀」にはなかったのではないか。そうすると、原本では皇極、斉明と続いていて、女帝の皇極のモデルもやはり新羅の女帝の善徳王、女帝の斉明のモデルが新羅の女帝の真徳王であった。のちにその間に孝徳が入ったということになります。


吾郷 : 鹿島先生の「倭と王朝」の比定表では、舒明が百済の末王義慈、皇極が新羅女王善徳、孝徳が百済の義慈王の王子孝、斉明が新羅女王真徳、天智が孝の弟豊璋になっていますね。


鹿島 : はい。ところで今の入鹿殺しのモデルが比曇の乱だということは、福田芳之助と言う人の「新羅史」にあります。大正二年の出版です。 新羅史では、金庚信が王孫の金春秋と接近する為に、庚信の家の前で蹴鞠の戯をして、わざと春秋のもすそを踏んで襟ひもを裂、自分の家に招じ入れて妹にそれを縫わせた。それが縁で春秋と庚信の妹が結婚するのです。
 福田氏はこれが中大兄皇子が法興寺で蹴鞠をしたとき、鎌足が皇子の履物が飛んだのを拾ってコンタクトしたと言う「書紀」の説話のモデルだと主張した。……


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▼ 【 新羅『毘曇の乱』・日本『大化の改新』の登場人物相関図 】



●  相 関 : 毘 曇(ひどん)の乱 ⇒ 大化の改新

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 □ 新羅史 : 毘 曇(ひどん)   ⇒ 蘇我 入鹿
         金 庚信       ⇒ 中臣 鎌足
         金 春秋       ⇒ 中大兄皇太子


 □ 百済史 : 豊 璋        ⇒ 天智 天皇
         郭務悰(かくむそう) ⇒ 藤原 鎌足



《ご注意》ご参考迄に私案を追記しておきます。

●  相 関 : 史実のプロト大化改新 ⇒ 大化の改新
                  (50年前の過去へ移動)

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 □ 倭国史 : 高市 天皇      ⇒ 蘇我 入鹿
         藤原 不比等     ⇒ 中臣 鎌足
         軽皇太子(のちの文武) ⇒ 中大兄皇太子


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 ※ 要するに言えることは、

 奈良朝廷(=日本国)が九州王朝「倭国」史を改竄して、あたかも日本国が700年以前より“ずっと”そこに存在してたかの如く見せかける為、史実の倭国史を50年前の過去にずらし、更に、韓半島の新羅史・百済史とを合成して、でっち上げたものが、日本書紀の「大化の改新」だということである。

 何故そうと言えるか、それはここで言う「大化」年号そのものが
九州王朝「倭国」の “連綿と続く年号” のひとつだ
と分かった
からである。




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(a0020) 【高市天皇を九州年号大化2年7月暗殺し「日本国」が「倭国」を乗っ取った事件は現代の謂わば“クーデター”】 2013年1月10日(木) 




●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 でっち上げたものと何故言えるか、

 それはここで言う「大化」年号そのものが九州王朝「倭国」の“連綿と続く年号”のひとつだと分かったからである。

▼ 【 日本書紀の「大化の改新」は、韓国新羅史「毘曇(ひどん)の乱」の翻訳であると、鹿島は言ってたが… 】


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 奈良朝廷(=日本国)の文武天皇が九州王朝「倭国」の兄王家の末王・

高市天皇を九州年号大化2年7月暗殺し、「日本国」が「倭国」を乗っ取った。

▼ 【 (666) 『『書紀』大化元年八月「東国国司招集の詔」は「倭国」が発し、「東国国司の賞罰詔」は大和朝廷が発したもの』 2011年7月7日(木) 】


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 この『…高市天皇を九州年号大化2年7月暗殺し「日本国」が「倭国」を乗っ取った』事件は現代の謂わば “クーデター” ですが、それは日本書紀の末尾に記載されていて、

『 持統10年〔696年(持統即位7年):大化2年〕7月10日、後皇子尊のちのみこみこと「高市皇子(⇒高市天皇)」が薨じた。 』

 と、“そっけなく”書かれている。




●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 このことを認めると、

「日本書紀」は九州王朝「倭国」の時代を書いたものであり、
「続日本紀」は奈良朝廷「日本国」を書いたもの

 と分かりますね。

▼ 【 高市天皇を九州年号大化2年7月暗殺し「日本国」が「倭国」を乗っ取った事件は現代の謂わば“クーデター” 】


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(a0021) 【山口県西半分(当時は「穴門」)に「長門城」を探したが…「長門以東」とは山口県の東側「周防」以東の事だ】 2013年1月13日(日)




●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

▼ 【 高市天皇を九州年号大化2年7月暗殺し「日本国」が「倭国」を乗っ取った事件は現代の謂わば“クーデター” 】

 で見て来たように、書紀「大化の改新」は、倭国の「プロト大化の改新」を50年前に単純に移動したのではなく、新羅「毘曇の乱」とを合成している。


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 どうして646年の時期に移動したか、と思うのだが、唐朝への“おべっか”だったのだろうと考えている。唐の高宗が高句麗攻撃645年の報せを受けて。新羅に「毘曇の乱647年」が起こったように、実は我が「日本国(=当時は秦国)」においても同様な事件がそれより前年646年にあって恭順したのだと…


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 今一つには九州王朝「倭国」に「甘木王(=常色王)」が647年に即位し、翌648年以降に唐侵略対抗の「常色の大改革(=正木裕説)」を次々断行する。

 更に「天下立評」「造複都難波京」詔649年を宣し、652年「天下立評」「難波副都」完成で白雉改元儀式挙行。

 同時に(「天下立評」の任執行の為、)奈良朝廷(=大和朝廷)の開祖「伊勢王」が難波副都に常駐することになった。


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 同時に「天下立評」の任執行の為、奈良朝廷(=大和朝廷)開祖「伊勢王」が難波副都に常駐するのだが、この「常駐」こそが、文武天皇の存立基盤だったとも考えるられる。我々文武の王朝は
「天下立評(≒大化の改新)」
にこそあるぞと鼓舞したとも言えようか。




●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 昔、山口県西半分に「長門城」を探したが見つからなかった。当時は「穴門」と呼ばれてた模様。

 「長門以東」とは山口県の東側「周防」以東の事のようだ。

▼ 【 「古柳井水道」の事を「長門」と言ったという、書紀の《長門に城を築く》は即ち「石城山」の事である 】


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 書紀継体紀22年(528)「磐井の乱」にある「長門以東」は先に

▼ 【 長門以東は朕がとろう。筑紫以西は汝がとれ 】
 及び、

▼ 【 長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え、ひんぴんと報告しなくともよい 】


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 この「長門以東」の発想が、

▼ 【 壬申乱で長門以東天智近江朝に戦勝し、九州王朝「倭国」を再統合の薩夜麻が即位した〔プロト飛鳥浄御原宮〕 】

▼ 【 壬申乱とは「唐の傀儡・倭国」と「長門以東・近江朝」の唐による倭国再統合戦だった 】
へと続くわけです。


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 ところで、書紀には「磐井の乱」「大化の改新」「壬申の乱」といった代表的な「3大内乱」が記されているが、九州王朝「倭国」が696年7月10日の後皇子皇子(=高市天皇)の暗殺によって滅亡したとすれば、その虚構性が浮き上がるというものだ。
 「大化の改新」「壬申の乱」は“ほぼ”解明されたといって良いだろう。


◇◇


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 古事記「磐井の乱」は【古代史獺祭】
『此之御世、竺紫君石井不從天皇之命而、多无禮、故遣物部荒甲之大連、大伴之金村連二人而、殺石井也』
と実に簡単である。

 書紀「磐井の乱」は
【(天智の)長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ】
と古事記の合成ではないだろうか?


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 或いは、古事記の『此之御世、竺紫君石井不從天皇之命而、多无禮、故遣物部荒甲之大連、大伴之金村連二人而、殺石井也』の部分であるが、

 辺りの文章の雰囲気と、気のせいか異なってるように思えるのだが…まさか、後になってから付け足されたということはないだろうか?

 言いたいのは、「書紀」が完成后に、その文意に沿って、“ひょっとして”「書紀」併せが為されたのではないか?とも思っている。




●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 「隋書」俀国伝中に、『明年(大業4年:608年:推古16年)、上、文林郎裴清を遣わして俀国に使いせしむ。
 百済を渡り、行きて竹島に至り、南に聃羅を望み、都斯麻国を経、迥かに大海の中に在り。

 又東して一支国に至り、又竹斯国(=筑紫・九州島)に至り、又東して秦王国に至る。
 其の人華夏に同じ。以って夷州と為すも、疑うらくは明らかにする能わざるなり。

 又十余国を経て海岸(=九十九里浜海岸)に達す。竹斯国より以東は、皆な俀に附庸す。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 要するに、「隋書」俀国伝(大業4年:608年:推古16年)が記された当時の倭国(=701年以降の日本国)は、

 倭国の本体がある直轄地の竹斯国(=筑紫・九州島)と、

 長門以東(=本州・四国)にあるその衛星扶養王国で構成されていた。

 その扶養王国の中でも勢威ある秦国は使者を便乗で招待した。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 若し、「隋書」俀国伝(大業4年:608年:推古16年)の報告が正しければ、それ以前の継体天皇21年(527年)の「磐井の反乱」で、

 継体が『長門以東は朕がとろう。筑紫以西は汝がとれ』 は時系列的に辻褄が合わないと言って良い。

 辻褄の合う時期、それは、いつか?


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 それは、地方分権で衛星扶養王国制を廃止し、中央集権制の
「天下立評(652年:孝徳8年:白雉元年)」
后のそれも、白村江敗戦(662年)直後であると分かる。

 天智が言ったことにすると、700年以前が九州王朝「倭国」の時代だったことが “バレル” からだ。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 新羅に日本国独立宣言の天智の
日本餘噍(よしょう)
は倭王薩野馬の復位で潰えてしまったが、その野望を継体に『長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え、ひんぴんと報告しなくともよい』と語らせることで、文武の正当性を謳ったのだ。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 「日本書紀:継体紀」は、釈日本紀引用の「筑後風土記」逸文の記録を利用し、更に天智の記録を取り込んで作文したものだろう。何故この時期が選ばれたかであるが、倭国史が
「九州年号」
で編纂されてたからだろう。その「善記」元年は522年に始まっている。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 古田史学会報のNO101(2010年12月1日)のp9には【「磐井の乱」を考える―『日本書紀』記事と『筑後国風土記』の新解釈―姫路市:野田利郎】がある。

 NO106(2011年10月8日)には【磐井の冤罪Ⅰ―川西市:正木裕(㊟これはシリーズもの)】がある。これから詳しく検討したい。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 【磐井の冤罪Ⅰ―川西市:正木裕著】には、シリーズⅡ・Ⅲ・Ⅳが有って非常に大部な内容である。

 私としては、もう少しコンパクトにまとめて欲しいのだが…うぬッ有った^^

 シリーズⅣ(2012年6月10日)に有った。いやーそれでも長い。少し正木裕氏の投稿記事を理解して次回以降に取り上げたい。


●山本 俊明  “ とうやん ” ‏@tohyan

 「日本書紀」の“からくり”は、継体の「長門以東」からすべてが分かる。

▼ 【 2013年1月13日(日) 山口県西半分(当時は「穴門」)に「長門城」を探したが…「長門以東」とは山口県の東側「周防」以東の事だ 】




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(a0022) 【コクリコ坂の主題歌「さよならの夏」が、倍賞千恵子さんの透き通った吹くそよ風にのって流れて行きます】 2013年1月14日(月)




●世に倦む日日‏@yoniumuhibi

 コクリコ坂の主題歌、いい曲だと思ったら1976年の森山良子の作品だった。

 素敵な歌はすべて70年代。日本人のイマジネーションとクリエイティビティは70年代で止まった。政治が関係している。残念だ。もっと突き抜けて理想的な高みへ向かうべきだった。


▼ 【 倍賞千恵子「さよならの夏」 】

▼ 【 グリーンスリーブス  オリビア ニュートン-ジョン 】





●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 近所に、倍賞千恵子さんのマンションがあって、散歩してるの見たって。。。。誰かが、以前に言ってたけどな^^    

▼ 【 2013年1月14日(月)
  コクリコ坂の主題歌「さよならの夏」が、倍賞千恵子さんの透き通った吹くそよ風にのって流れて行きます 】




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(a0023) 【考えても見よ!唐に逆らって反抗の百済・高句麗は今は既に亡い。だが、倭国のみは生き残ってたのだ。】 2013年1月17日(木)




●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 さて、突然だが…、最近の
「日本餘噍(よしょう)」
って、ピーンとくるかなー??

 素直に解釈すれば、「禰軍墓誌」が地中深く埋められてたから発見されず、現世まで生き残った貴重な資料といえるだろう。

 こんなに、白村江敗戦后の空白域を埋める資料はない! 何故なら唐朝の対倭国外交史さえも消されている。


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

【古事記序文】
と、
【禰軍墓誌】
は、

【壬申乱とは「唐の傀儡・倭国」と「長門以東・近江朝」の唐による倭国再統合戦だった】

 事を裏付けてるが、(このことを)理解できる人はすごい!


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

【九州年号「白鳳」は元年661年から白鳳23年683年迄続いてる。】

 然し
白鳳大地震684天武13年10月14日発生】《魚拓》
とあり白鳳王薩夜麻は生きてたのだ。

 昭和と同じく世界大戦に負けても、倭国は存続してたと分かる。


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 そして、この「倭国」が存続していたこと自体が、白鳳倭王薩夜麻の帰国復位を支持した唐高宗の「後継の唐王朝」則天武后にとっての不快・目障りだった。

 考えても見よ! 唐に逆らって反抗の百済・高句麗は今は既に亡い。が、倭国のみは“のうのう”と生き残っていたのだ。

 唐の威光を害し損なう何者でもないわけだ。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 そこへ、奈良朝日本国が倭国を後継し建国したと言ってきたわけで、

 倭国の存続が不快・目障りだった唐高宗後継の則天武后にとっては、「渡りに船」だった。

 奈良朝廷日本国が倭王の高市天皇を暗殺して乗っ取ったとは言えず“しどろもどろ”の受け答えをしたのが、旧唐書の「…故に中國、焉れを疑う」だ。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 この辺りの経緯は

▼ 【 「持統紀」はなかった、本来は 「高市紀」だった:飯田満麿著 】

 を参照すればわかり易い。713年の遣唐使派遣時に「古事記」を持参した。

 ところが、付された「古事記序文」は「唐高宗が倭王薩夜麻の帰国復位を支持した旨」の内容だった。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 「唐高宗」が「倭王薩夜麻」の帰国・復位を、いかに支持したかは、

▼ 【 勘違いするな。『古事記・序文』の“どこにも”「壬申の乱」とか、「吉野に入った」とかは、書かれていない 】
 の中の

▼ 【「南山は、中国の【終南山】の別名」とする説での『古事記:上卷并序』解釈の■最終総まとめ■】
を参照下さい。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 古事記は廃案にされて、帰国直後714年に「倭国」(同時に「秦国」も)そのものが日本列島に存在していなかったとした歴史書「日本書紀」の編纂「令 撰修 国史(=『日本書紀』)」されることとなったわけだ。

 717年の遣唐使で「書紀」原案が報告され、手直し后720年に完成奏上したと考える。


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 「隋書・俀国伝」に「倭国」「秦国」と有るにも拘らず、「書紀」に一切記載されていないのは、青木英利氏が

【「日本書紀」七二〇年編纂完了後、唐朝では国史編纂資料中から、倭国史五十四年分が抜き取られたのである】

 で(分かるように)、唐から奈良朝廷・日本国への指示だろう。


◇◇


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

【◆「倭国」及び、『書紀』「日本国(=秦王国)」の「対唐外交史」対比年表】

 で分かるように、「書紀」が記す日本国「対唐外交史」が、唐書の記す「対倭国外交史」とその内容に“ずれ”が有るのは何故か、

 それは「書紀」が、「秦王国」を ⇒ 「日本国」とした為だ。 


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

【米田氏は《扶桑国から日本国に国名を変え、大和朝廷がその後の日本を統治》と書くが、「扶桑国」とは何か?】

 で、『書紀』672年の壬申の乱の記述は、裏に倭国滅亡を含んでいるものと考えられる。倭国の滅亡は672年をおいてない》

 ⇒(倭国の滅亡は672年ではなく、)滅亡は696年(7月10日の高市天皇暗殺で)だ。


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 九州王朝「倭国」弟王家(=のちの奈良朝廷・日本国)の文武天皇が、九州王朝「倭国」大宰府兄王家の高市天皇を「暗殺」し、政権を奪った。

 こう考えると、米田良三氏が「法隆寺・薬師寺・東大寺他を日本国が倭国から強奪した」とするのは少し(意味あいが)違うのではないか。

 高市天皇の九州から奈良への遷都に伴う移築だったはずだ。


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 高市皇子の九州「小郡の宮」から近畿「難波の宮」への遷都の時期は筑紫地震678年から白鳳地震684年の間だ。

 と、正木裕氏は述べられている。

 私がブログ・ツイッターを始めた動機だ。

▼ 【 2010年2月18日(木)
  九州王朝から近畿天皇家への権力移行期 】




●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 米田良三氏が「法隆寺・薬師寺・東大寺他を日本国が倭国から強奪した」とするのは少し意味あいが違うのではないか、遷都に伴う移築だったはずだ。

▼ 【 「白鳳大地震684年10月14日発生」とあり白鳳王は存命で、昭和と同じく大戦に負けても、倭国は存続してたのだ 】


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 奈良朝日本国が倭国を後継し建国したは、倭国の存続が不快目障りだった唐高宗後継の則天武后にとって「渡りに船」だった。

▼ 【 2013年1月17日(木)
  考えても見よ! 唐に逆らって反抗の百済・高句麗は今は既に亡い。が、倭国のみは生き残ってたのだ。 】


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 『古事記・序文』とは不思議な文章である。日本列島の古代からの歴史を書くに当たっての「まえがき」ならば、もっと何か別の表現であっても良かったのではないだろうか。

 私の解釈した文意は

 「先代倭王の薩夜麻(=天武)は唐先代の高宗より「人事共給」されて、倭国を「再統一」することができ感謝してます。」

 となるのだが…、はて・さて^^


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 『古事記・序文』とは不思議な文章である。日本列島古代史書「まえがき」ならば、もっと何か別の表現であっても良かったのではないだろうか。

 倭王の薩夜麻(=天武天皇)を賛美することで、唐高宗の「人事共給」を称賛・感謝してるからだ。これでは、まるで唐朝廷に「阿(おもね)る」内容ではないか。


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 『古事記・序文』とは不思議な文章である。日本列島古代史書「まえがき」ならば、もっと何か別の表現であっても良かったのではないだろうか。

 倭王の薩夜麻(=天武天皇)を賛美することで、唐高宗の「人事共給」を称賛・感謝してるからだ。これでは、まるで唐朝廷に「阿(おもね)る」内容ではないか。




●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

『古事記・序文』の 「南山は、中国の【終南山】の別名」 であれば、淑人(よきひと)は唐・高宗である。





《万葉集27天武天皇御製歌》

【 淑人(唐・高宗)の、よしとよく見て、好し言ひし、芳野(郭務宗)よく見よ、多良人(倭王・薩夜麻=天武天皇)よく見 】




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(a0024) 【「古事記」の編纂者達は、「冊封拒否事件632年」以後をどのように扱って良いか“逡巡”したことは明白である】 2013年1月20日(日)




●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

▼ 【 「持統紀」はなかった 】
によれば、

(ロ)その政治的理由の当事者は、『日本書紀』にのみ記載される、「舒明」以下「持統」まで八代の中に存在する事。

 ー《途中略》ー

 舒明天皇から持統天皇まで、八代を西暦で表示すると、629年-697年の69年間である。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 ① 隋・唐による朝鮮半島侵攻 (614年-668年)
 ② 百済、高句麗の滅亡(660年、百済)(668年、高句麗)
 ③ 倭国と百済遺臣による百済再興戦 (661年-663年)
 ④ 唐、占領軍倭国進駐 (664年-)
 ⑤ 筑紫君薩夜麻の帰国(671年)
 ⑥ 「壬申の乱」(672年)
 ⑦ 筑紫君薩夜麻の復位とその後継 (672年)
 ⑧ 「朱鳥」年号の共有(持統紀の疑惑)〔九州年号は686年-694年〕:〔日本書紀は686年- 〕
 ⑨ 高市皇子の薨去 (696年7月)と、中臣不比等の台頭 (696年10月贈位)
 ⑩ 遣唐使・粟田真人派遣 (701年)


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 ①~⑩ 項で、記載漏れが

▼ 【 古代の日本で、如何に重要な史実だったかが分かるというものだ。『源氏物語』に隠された史実とは? 】

 で、米田良三氏が指摘の『源氏物語』・『和泉式部日記』・『旧唐書』が(三者三様で)記録の

 ◎632年:『唐
「冊封」
使高表仁が倭国王子の為尊親王を切殺す』大事件である。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 『源氏物語』に、太政大臣と式部卿が亡くなったことが記されてるが、更に26歳の弾正尹・為尊親王も亡くなった。

▼ 【 632年、唐が倭国に遣わした冊封・刺史「高表仁」に対し、26歳の倭国・王子「弾正尹・為尊親王」が、「唐への冊封関係を拒否した事件」 】


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 えッ・えー!? 「源氏物語」って、平安時代の藤原貴族の恋愛小説じゃーないの。。。って方には、分からない話ですが・・・

『源氏物語』に、太政大臣と式部卿が亡くなったことが記されてるが、…


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 【「持統紀」はなかった】飯田満麿氏の
①隋・唐による朝鮮半島侵攻 (614年-668年)項の
期間(614年-668年)指摘だけでは、“漠然”としてて、

 『古事記』が何故「推古天皇」在位の628年迄しか書かなかったのか、

 何故「舒明天皇」629年から「持統天皇」697年迄を書かなかったのかが分からないからである。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 『古事記』が何故「推古天皇」在位の628年迄しか書かなかったのか、何故「舒明天皇」629年から「持統天皇」697年迄を書かなかったのかが分からないからである。

 書かなかった割には、その『古事記・序文』に飛鳥清原大宮で672年即位の「天武天皇」のことを書いているという不自然さである。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 「日本書紀」に有って「古事記」に記載が無い629年~697年とは、

 ◆ 唐の冊封使「高表仁」が、倭国に「冊封関係」の強要。

 ◆ ⇒ 「為尊親王」がこれを拒否し、「対等外交」を主張。

 ◆ ⇒ 「為尊親王」と「太政大臣」と「式部卿」が切り殺された。

 いわば、倭国の唐に対する
「冊封」
拒否事件632年以降である。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 「古事記」の編纂者達は、この「冊封拒否事件632年」以後をどのように扱って良いか“逡巡”しただろうことは明白である。

 713年の遣唐使派遣が唐側にのみ記録され日本側に記録ないのは、こっそり唐朝へお伺いしたと言う事だ。

 結果、帰国後「倭国」「秦国」抹殺の「日本書紀」が編纂された訳である。




●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 「古事記」の編纂が完成間際にその存在が隠蔽(いんぺい)された歴史事実、「源氏物語」が300年後の平安貴族の物語だと喧伝(けんでん)されるわけがわかりますかね^^

▼ 【 「古事記」の編纂者達は、「冊封拒否事件632年」以後をどのように扱って良いか“逡巡”したことは明白である 】




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(a0025) 【「倭国」と「唐国」との白村江敗戦は、「日本国」と「米国」との太平洋戦争敗戦とで、“瓜二つ”である。】 2013年1月22日(火)




●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 『旧唐書』倭国日本伝に、

貞観五(631)年、使を遣わして方物を献ず。
太宗其の道の遠きをあわれみ、所司に勅して歳ごとに貢せしむるなし。
また新州の刺史高表仁を遣わし、節を持して往いて之を撫せしむ。
表仁、綏遠(すいえん)の才無く、王子と礼を争い朝命を宣(の)べずして還(かえ)る。

 とある。


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 この『表仁、綏遠(すいえん)の才無く、王子と礼を争い朝命をのべずして還(かえ)る。』が、

 米田良三氏が指摘の
『源氏物語』・『和泉式部日記』・『旧唐書』が(三者三様で)記録

 ◎632年:『唐
「冊封」
使高表仁が倭国王子の為尊親王を切殺す』大事件である。


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 この『表仁、綏遠(すいえん)の才無く、王子と礼を争い朝命をのべずして還(かえ)る。』

 を読んだ方は、“きっと”過去に、たくさん居られるでしょうが、たぶん軽く読み流されて、何の事だか“さっぱり”のはずである。

 というのが、「書紀」には何らそれに対応の「できごと」が記録されていないからでもある。


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 私も同じである。米田良三氏が
『源氏物語』『和泉式部日記』のここに書いてあるよ
と教えてくれるまで分からなかったのだ。

 この時代の「倭国」の文書と言う文書がことごとく、焚書・改竄の憂き目を見ていると見て良いようだ。ここまで、徹底していようとは!?


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 この焚書・改竄はすさまじく想像に絶すると思われ、青木英利氏が

▼ 【 「日本書紀」七二〇年編纂完了後、唐朝では国史編纂資料中から、倭国史五十四年分が抜き取られたのである 】

 で指摘のように、それが唐国内においても為されていようとは…“いや・はや”である。


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 この焚書・改竄があったとしてみると、

 米田良三氏がこれまで特定してきた九州王朝「倭国」の法隆寺・薬師寺・東大寺・三十三間堂・桂離宮・吉野宮・伊勢神宮・長谷寺・宇治平等院の移築が事実であると理解できる、のではないだろうか。

 更に、聖地小倉山・磐井(=倭薈)の墓・吉野ヶ里等においてもである。




●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 ウィキペディアを参照すると、

「冊封(さくほう)とは、称号・任命書・印章などの授受を媒介として「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ、名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「朝貢国」の関係)を伴う外交関係の一種。中国の歴代王朝の君主たちが自任。」

 とある。


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 ようするに「源氏物語」「和泉式部日記」にある唐使・高表仁に対し、九州王朝「倭国」王子の
《弾正尹・為尊親王の対唐国・冊封拒否事件》
とは、

 【 唐よ・お前の「朝貢国」にはならないぜ!、唐よ・おまえの「属国」にはならないぞ! 】

 と、己れの死を賭して拒絶した事件だったという事です。


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 倭国王子・為尊(ためたか)親王の「対唐国・冊封拒否事件」とは、結果的に、倭国の白村江敗戦、壬申の乱、高市天皇暗殺滅亡に至り、弟王家の奈良朝廷・日本国の開闢に繋がったわけで…「蛮勇だ」という方がいるかとも思いますが、

 後世、
吉田松陰の「大和魂」《魚拓》
を育む精神的土壌となったことは確かでしょう。

「かくすれば かくなるものと知りつつも やむにやまれぬ 大和魂」(吉田松陰)


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 「倭国」と「唐国」との白村江敗戦は、「日本国」と「米国」との太平洋戦争敗戦とで、“瓜二つ”である。

 TPPがどういうものか、ネットをかじったものなら、その趣旨が如何なものか既にご理解されていよう。

 倭国王子の為尊親王の気概を、吉田松陰同郷の安倍総理に望みたいが、無理というものだろうか。




〈 ※ 繰り返えしになりますが…、少し詳しく見て見ましょうか^^ 〉


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 この【表仁、綏遠(すいえん)の才無く、「王子と礼を争い朝命をのべず」して還(かえ)る。】

 を読んだ方は、“きっと”過去に、たくさん居られるでしょうが、

 たぶん軽く読み流されて、何の事だか “さっぱり” のはずである。

 というのが、「書紀」には何らそれに対応の「できごと(=王子と礼を争い朝命をのべず)」が記録されていないからでもある。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

【◆「倭国」及び、『書紀』「日本国(=秦王国)」の「対唐外交史」対比年表】

 を参考に、「書紀」のこの年次を書き出して見ましょう。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 舒明二年630年秋8月5日、大仁犬上君三田耜、大仁薬師恵日を、大唐に遣使した。

 舒明四年632年秋8月、大唐は、高表仁を遣わして、三田耜を送ってきた。共に対馬に泊まった。この時、学問僧霊雲、僧旻および勝鳥養や、新羅の送使らが、従ってきた。

 舒明四年632年冬10月4日、唐国の使者高表仁らが、難波の港に泊まった。大伴連馬養を遣わして、江口で迎えた。船32隻、および太鼓、笛、旗幟、みなともに整え飾った。そして高表仁に告げて、「天子の命じた使が、天皇の朝廷に到来したと聞き迎えます」といった。高表仁 が答えて、「風の寒い日に、船を飾り整えて迎えを賜い、歓びまた恐縮しています」といった。

 舒明五年633年正月26日、大唐の客高表仁らが帰国した。送使の吉士雄摩呂、…云々


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 以上「書紀」のくだりを読む限り、

 いたって“なごやか”で、とても今しがた、唐の刺史・高表仁が倭国の太政大臣、式部卿、更に弾正尹・為尊親王を切り殺したばかりだと、とても思えないのである。

 「書紀」の「日本国」が「秦国」の“すげ替え”だと、私が考える根拠でもありますが、これじゃ分かりませんよね。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 この【表仁、綏遠(すいえん)の才無く、王子と礼を争い「朝命」をのべずして還(かえ)る。】

 の「朝命」とは、何か。

 即ち、倭国に「冊封(唐の朝貢国・属国になること)を強いる」唐の王命だったのでしょう。

 旧唐書にも「朝命」の内容は具体的に書かれていないわけで、これじゃー、わかりませんよね。




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(a0026) 【高市皇子が高市天皇であったことは、実子の長屋王が出土木簡に「長屋親王」とあることでも頷(うなず)ける】 2013年1月23日(水)




●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 一昨日より、どうしてか急に、大量の“エロメール”が携帯電話に送られて来るようになった。

 拒否リストへ登録してサーバーロックで対応してたが、相手がアドレステーブル送信すると、どうも素通りするようだ。

 メール受信方法を自分のアドレス帳にのみに設定してみたら、止まった。

 早く気づけば良かった。


●むーさん‏@kumagayapiano

 @tohyan

 山本さんフォローありがとうございます。

 歴史ブログ素晴らしいですね。じっくり読ませていただきます。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 @kumagayapiano

 え・へ・へ…、われながら、納得の出来です^^

▼ 【 大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 目次編 c 》 】




●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

▼ 【 2013年1月17日(木) 考えても見よ!唐に逆らって反抗の百済・高句麗は今は既に亡い。だが、倭国のみは生き残ってたのだ。 】


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

▼ 【 2013年1月20日(日) 「古事記」の編纂者達は「冊封拒否事件632年」以後をどのように扱って良いか“逡巡”したことは明白である 】


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

▼ 【 2013年1月22日(火) 「倭国」と「唐国」との白村江敗戦は、「日本国」と「米国」との太平洋戦争敗戦とで、“瓜二つ”である。 】


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 以上の「3ツのツイート」を踏まえ、高市皇子(=大宰府兄王家の倭王・高市天皇で「プロト大化の改新」で文武天皇に暗殺された)の実子である長屋王(684~729)が、弟王家・奈良朝廷日本国の中で、妻に藤原不比等の娘をあてがわれての「監視された環境」がどうであったかにも実に興味があります。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 ネットを引くと一杯あって

▼ 【 平城京で起きた最初の政変・長屋王の変(ながやおうのへん) 】《魚拓》

▼ 【 長屋王の悲劇 】《魚拓》
等がヒットする。

 だが、いずれも「長屋王が出土木簡から、何故、「親王」と呼ばれたか?」はわからない。


● 「倭国」は“根こそぎ”東遷した@t0_yan·8秒
発掘調査で3万数千点の出土木簡中に「長屋親王」と書かれた木簡があった。
「親王」とは天皇の子どものことである。

木簡の「親王」を素直に受け取ろう。
即ち、長屋親王の父である高市皇子は天皇だった。
高市天皇と仮名するが持統天皇代は高市天皇が執政していたことになる。




●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

▼ 【 2013年1月23日(水)
  高市皇子が高市天皇であったことは、実子の長屋王が出土木簡に「長屋親王」とあることでも頷(うなず)ける 】




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(a0027) 【吉野ヶ里遺跡は我々下戸な日本人のいわば唯一無二の「心の故郷」です。何故「甕棺」なのか不思議ですね。】 2013年1月29日(火)




●3月30日おおたきよこ‏@ohtak_no_nuk

 吉野ヶ里の中心的なところが壊されそうです、助けて下さいますようお願いします。


●1月23日Maccotzsche Holstein‏@Maccotzsche

 「佐賀のピークは弥生時代」 (吉野ヶ里遺跡)」


●8月28日おおたきよこ‏@ohtak_no_nuk

 @ohtak_no_nuk

 吉野ヶ里遺跡を景観と共に遺す運動にお力添えをよろしく。佐賀県が吉野ヶ里の中心的場所にメガソーラーを立てる計画を止めるべく県にお願いしてください。


●1月22日平野 大地‏@21010154

 吉野ヶ里遺跡… すげー!! 感動した! !


●おおたきよこ‏@ohtak_no_nuk

 @21010154

 吉野ヶ里の発見者 の教え子です。吉野ヶ里遺跡がメガソーラーで景観台無しになりそうで困っています。助けて下さい!


●間大西遥‏@SHNart

 土曜日はデートに行きたいな、吉野ヶ里にでも行こうか @mahorochan


●おおたきよこ‏@ohtak_no_nuk

 @SHNart

 吉野ヶ里遺跡にいらしてください。楽しいデートになるよう祈ります、吉野ヶ里遺跡の発見者の教え子としてこの遺跡の保存運動をしています、若い世代に残したいと懸命です。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 @ohtak_no_nuk @SHNart

 師・米田良三氏によると

 吉野ヶ里遺跡は九州王朝「倭国」の王墓(=甕棺)が参道両脇に埋葬の遺跡だとおっしゃっています。

 「象山」には例の卑弥呼が埋葬され、ある時「神在」に移され伊勢神宮として祭った。更に今の伊勢神宮に移築されたと聞いています。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 @ohtak_no_nuk @SHNart

 この話は
『列島合体から倭国を論ず(地震論から吉野ヶ里論へ):米田良三著』
の第4章・吉野ヶ里論p170以降に詳しく書かれています。

 それでなくても倭王墓群遺跡を改竄しているのに、詳しく教えてください!


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 @ohtak_no_nuk @SHNart

 吉野ヶ里遺跡は我々下戸な日本人のいわば「心の故郷」です。何故「甕棺」なのか不思議ですね。

 九州王朝「倭国」がどこの出身か教えてくれています。酒に全く弱い、いわば「下戸の人」あなたの友人に居ません?中国上海近辺に多いそうです。そう倭国の故郷です。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 @ohtak_no_nuk @SHNart

 何はともあれ、ここ
【第3部 弥生文化と渡来人の登場 04.長江中・下流域からの直接の渡来】《魚拓》
を見てください。

 私が言いたいのは、吉野ヶ里遺跡は、我々下戸な日本人のいわば「唯一無二の心の故郷」なのでしょうね。




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(a0028) 【◆日本書紀 巻第二十九 天渟中原瀛真人天皇〈下〉 天武天皇紀 「草壁皇子(尊)」と「高市皇子(命)」】 2013年2月6日(水)




▼ 【 《巻首》◆日本書紀 巻第二十九 】


天渟中原瀛真人天皇〈下〉 天武天皇

《天武天皇二年(六七三)正月癸巳【七】》
◆二年春正月丁亥朔癸巳。置酒宴群臣。

《天武天皇二年(六七三)二月癸未【二十七】》
◆二月丁巳朔癸未。天皇命有司。設壇場、即帝位於飛鳥浮御原宮。

―――――――――――――――――――――――――――――――

 ●立正妃為皇后后生草壁皇子。先納皇后姉大田皇女為妃、生大来皇女与大津皇子。次妃大江皇女。生長皇子与弓削皇子。次妃新田部皇女。生舎人皇子。又夫人藤原大臣女氷上娘。生但馬皇女。次夫人氷上娘弟五百重娘。生新田部皇子。次夫人蘇我赤兄大臣女大甦娘。生一男。二女。其一曰穂積皇子。其二曰紀皇女。其三曰田形皇女。

―――――――――――――――――――――――――――――――

 ○天皇初娶鏡王女額田姫王。生十市皇女。次納胸形君徳善女尼子娘。生高市皇子。次完人臣大麻呂女擬媛娘。生二男。二女。其一曰忍壁皇子。其二曰磯城皇子。其三曰泊瀬部皇女。其四曰託基皇女。

―――――――――――――――――――――――――――――――




《 ご注意 》
 天武天皇については、この私の九州王朝「倭国」の全編において、煩雑な表現をしているお詫びと、そのわけをここで説明しておく必要があろう。

〔参照:天武天皇は二人いた(日出島哲雄著)〕


 日本書紀は、673年(天武2年:白鳳13年)2月27日の項(上記参照)に、

●『〔天武〕天皇は、 —略— 帝位に即いた。正妃を立てて皇后とした。后は草壁皇子 「尊」 を生んだ。—略—』

○『天皇ははじめ、鏡王の —略—次に胸形君徳善の娘、尼子娘を納れて、高市皇子 「命」 を生んだ。—略—』

 同じ天武天皇の皇子に 「尊」「命」 の異なった「みこと」表記がされていて出典が違うことがわかる。

 同時に「二人で一役」の合成人間であることもわかります。

―――――――――――――――――――――――――――――――

●大和王朝:「難波副都倭弟王家」出身の 天武天皇(=大海人皇子・持統の夫・草壁皇子 「尊」 の父)

○九州王朝:「大宰府倭兄王家」出身の 天武天皇(=明日香皇子・薩夜麻・白鳳王・高市皇子 「命」 の父)

 日本書紀が天武天皇を、「二人で一役」の合成人間で記述することは、全編を通じて九州王朝「倭国」を抹殺するが為でしょう。

 しかし逆に、九州王朝「倭国」を抹殺してるよ、と教えてくれてもいます。

 さらに、このことは高市皇子 「命」 が九州王朝:「大宰府倭兄王家」の出身であることを、はからずも我々に教えてくれてもいます。


 ※ 何が言いたいか、この高市皇子こそ、「プロト大化の改新(=プロト乙巳の変)」で、暗殺された「後皇子尊(=のちのみこみこと・高市皇子)」こと、九州王朝「倭国」の最後の倭王・高市天皇である。




●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 同じ天武天皇の皇子に「尊」・「命」の異なった「みこと」表記がされていて出典が違うことがわかる。同時に「二人で一役」の合成人間であるとわかる。

▼ 【 ◆日本書紀 巻第二十九 天渟中原瀛真人天皇〈下〉天武天皇紀「草壁皇子(尊)」と「高市皇子(命)」 】


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 「同じ天武天皇の皇子に「尊」・「命」の異なった「みこと」表記がされていて出典が違うことがわかる。」⇒

 このことが分かっていないと、古事記「序文」、壬申の乱、プロト大化の改新、皇太子使使奏請曰、長屋王が出土木簡に「長屋親王」とある。といった一連の史実が系統だって理解できないと考える。


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 貴方も実際に『書紀』天武紀の頁を開いて読んでみてください。

 「●立正妃為皇后。后生草壁皇子…」グループと、
 「○天皇初娶鏡王女額田姫王。生十市皇女。次納胸形君徳善女尼子娘。生高市皇子…」グループとが、

 線で区切ってあるわけではありませんが、ハッキリとトーンが違うのが分かると思います


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 以上は
【 天武天皇は二人いた:日出島哲雄著 】
に啓発され
【 天武天皇は「明日香皇子の薩夜麻」と「大海人皇子」の2人いた 】
古事記「序文」、壬申の乱、プロト大化の改新、皇太子使使奏請曰、長屋親王へと続いてます。




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(a0029) 【ここは、《 日出島哲雄著 : 天武天皇は二人いた。 》 の 「リブログ」 の頁ですので、あしからず。】 2013年2月8日(金)




▼ 【 天武天皇は二人いた。 日出島哲雄 】


《ご注意》下記は上記の抜粋・転載ですので悪しからず。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


《 天武天皇は二人いた。 日出島哲雄 》


【 大友皇子と鞠智城(壬申の乱は九州) 】
で私は、天武天皇が合成人物であることを指摘した。

 では、岩波文庫の『日本書紀』の「天武紀」下の天皇の子達を記している箇所を見てみよう。


 正妃を立てて皇后とす。后、草壁皇子を生れます。先に皇后の姉大田皇女を納して妃とす。大来皇女と大津皇子とを生れませり。次の妃大江皇女、長皇子と弓削皇子とを生れませり。次の妃新田部皇女、舎人皇子を生れませり。又夫人藤原大臣の女氷上娘、但馬皇女を生めり。次の夫人氷上娘の弟五百重娘、新田部皇子を生めり。次の夫人蘇我赤兄大臣の女太娘、一の男・二の女を生めり。其の一を穂積皇子と曰す。其の二を紀皇女と曰す。其の三を田形皇女と曰す。

 天皇、初め鏡王の女額田姫王を娶して、十市皇女を生しませり。次に胸形君徳善が女尼子娘を納して、高市皇子を生しませり。次に宍人臣大麻呂が女かぢ媛娘、二の男・二の女を生めり。其の一を忍壁皇子と曰す。其の二を磯城皇子と曰す。其の三を泊瀬部皇女と曰す。其の四を託基皇女と曰す。


 「田形皇女と曰す」まで皇子皇女を記した次に、「天皇、初め鏡王の女額田姫王を娶して」は不自然な文である。

 「草壁皇子尊」の「尊」と、「高市皇子命」の「命」の表記の違いは出典が異なることを示している。

 草壁皇子尊から田形皇女までの父親と、十市皇女から託基皇女までの父親は別人である。

【 大友皇子と鞠智城(壬申の乱は九州) 】
から

 前者が大海人皇子であり、後者が壬申の乱を起こした人物であることが分かる。

 天武天皇が二人いたことは、「高市皇子命天皇説」と、「七0一年(大宝元年)の王朝交代」の証拠となる。

 高市皇子命天皇説の根拠は、二つある。

 斉藤忠氏は『倭国と日本古代史の謎』(学習研究社、二00六年)で高市皇子天皇説の二つの根拠を述べている。また、七0一年(大宝元年)の王朝交代について述べている。

 斉藤忠氏はまず高市皇子が亡くなった後の皇位継承会議について述べている。


 彼(高市皇子)の死後、皇位継承者がいないので、それを選ぶ会議がもたれた。ところが、会議の模様を伝える『懐風藻』の「葛野王伝」は、

 「高市皇子薨りて後に、皇太后王公卿士を禁中に引きて、日嗣を立てむことを謀らす。時に群臣各私好を挟みて、衆議粉紜なり」と記す。


 高市皇子が亡くなって日嗣を立てる衆議は、高市皇子が天皇でなかったなら不要であると私は思う。

 斉藤忠氏は次に長屋親王について述べている。


 高市皇子の嫡子に長屋王がいた。平城京の邸宅跡から大量の木簡が出土したが、中に「長屋親王宮鮑大贄十編」と墨書されたものがあった。彼は長屋親王と呼ばれていたのだ。

 9世紀の仏教説話集『日本霊異記』にも「長屋親王」とある。

 「大宝律令」によれば、親王とは父が天皇か、兄弟が天皇の場合のみ許される尊称だ。長屋王の兄弟(男一、女二)に天皇はいないし、それを匂わす異伝もない。

 すると、父・高市皇子が天皇だったことになる。


◇◇


 斉藤忠氏は次に「七0一年(大宝元年)の王朝交代」について述べている。


 『新唐書』は『日本書紀』と異なる情報を我々に提供してくれる。たとえば、「長安元年(七0一年)、その王(文武)立ち、大宝と改元した」という一節だ。

 『日本書紀』によれば、文武天皇は六九七年に即位する。また『続日本紀』によれば、大宝元年は七0一年だ。

 改元の年次は日中の史書ともに一致するが、文武の即位年がずれている。


 まず注目したいのは、『新唐書』の伝える「大宝と改元した」という情報だ。

 改元はその前にも元号があり、それをやめて新たな元号に置き換えることが本義だ。

 ところが『日本書紀』『続日本紀』にも、大宝にバトンタッチされた元号に言及しない。『新唐書』は嘘をついているのだろうか。


 すでに触れたように、一連の年号群「九州年号」が存在している。三二からなる一連の年号は五二二年以降連綿と続き、六九五年を元年とする大化を最後に消滅する。

 『新唐書』が九州年号を知っていたかどうかは不明だが、

 大宝へバトンタッチされる元号の存在を認識した上で「改元」なる表現をとったことは明らかだ。

 「九州年号」は大化六年(七00年)をもって消滅する(?)が、大宝とそれに続く元号群が七0一年以降連綿と続く。
 このことは、それらが「九州年号」にとって替わったことを意味する。


 元号とは絶対暦年(年代座標)を確定するため、切れ目なく連綿と続くのが本義だし、天子が定めるものなのだ。  元号と王朝は表裏一体のものなのだ。

 であれば、七0一年に朝廷が交替したととる他ない。

「易姓革命」
があり、文武は新王朝の君主として立った、ということになろう。


 文武天皇は日並知皇子尊の第二子であると『続日本紀』に記されている。日並知皇子尊は草壁皇子と同一人物だという。

 草壁皇子尊の父親と高市皇子命の父親は別人である。
 高市皇子命から文武に皇位が移ったことは
「易姓革命」
である。

 日並知皇子尊と草壁皇子が同一人物であるという確証をわたしはまだ見ていない。この二人が同一人物でなければ、七0一年(大宝元年)の王朝交代は、より複雑になる。




 ※ 上記の他に、

▼ 【 関ケ原は不破関でない 】

▼ 【 雷山神籠石の防人と不破乃世伎 】

▼ 【 大友皇子と鞠智城(壬申の乱は九州) 】

▼ 【 「不破道を塞げ」と瀬田観音 】

 も読まれてください。

▼ 【 このサイトの頁構成図 】


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《以上で転載は終了です。》




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(a0030) 【「リブログ」をすることで、改めて、《 日出島哲雄著 : 天武天皇は二人いた。 》を詳しく読み直しました。】 2013年2月8日(金)




●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 日出島哲雄氏は
「易姓革命」
か?とするが、「乙巳の変」で蘇我入鹿(≒高市天皇)暗殺が、(はたして、)「易姓革命」と言えるだろうか?

▼ 【ここは、《日出島哲雄著:天武天皇は二人いた》の「リブログ」の頁ですので、あしからず。 】


●山本 俊明  “ とうやん ” ‏@tohyan

「易姓革命(えきせいかくめい)」
とは、古代中国において、孟子らの儒教に基づく、五行思想などから王朝の交代を説明した理論。

 前王朝(とその王族)が徳を失い、新たな徳を備えた一族が新王朝を立てる(姓が易わる)というのが基本的な考え方であり、血統の断絶ではなく、徳の断絶が易姓革命の根拠となる。

 …ことらしい^^


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 九州王朝「倭国」の常色王(=甘木王)が難波副都・長門以東の天下立評を詔し、652年以降難波副都弟王家の専権事項だった長門以東の経営を倭王・高市天皇はプロト大化改新の廃評建郡の詔で取り上げようとした。

 軽(=文武)皇太子使使奏請曰で返納を強いられた。だが、返納を是とせず暗殺に及んだ。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 プロト大化改新をtwitterの140字枠内で説明するとこういったことになるだろう。

【高市天皇が軽皇太子(=のちの文武)の持ってる「長門以東」の経営権を返納せよ】

 と言ったら、そんなご無体な…ってことで暗殺しちまった。で、これが「徳の断絶」?


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 文武一派が倭王・高市天皇を暗殺して、文武が天皇位に即けたということは、暗殺事件当時に文武が皇太子だったということだ。

 血筋が違うのに、何故皇太子であったか推量するに、

 その父の大海人皇子が朱雀倭王の帝位に即いていた。ほんの短い朱雀倭王在位とは言え、壬申の乱後の白鳳+朱雀が「書紀」天武天皇の在位期間である事でわかる。 


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 では、大海人は何故朱雀倭王の帝位に即くことができたか?

 天武天皇は「天渟中原瀛真人天皇」と言う位であり、白鳳倭王・薩夜麻の第一級の腹心「真人」の地位にあったと考えられる。

 壬申の乱が倭国再統合戦だったとすると、唐の捕虜解放帰国直後の薩夜麻に協力し戦勝させたのが絶大な評価の要因だろう。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

「軽皇子(かるのおうじ)」
とは、孝徳天皇と言う説があるが、
「軽皇子(かるのみこ)」《魚拓》
が、文武天皇のことを言ってるのが正しいのは明らかである。

 そもそも、「大化の改新646年」は「プロト大化の改新696年」を50年前倒しし、「でっちあげた」説話にすぎないからだ。




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(a0031) 【では大和朝廷「はしり」の「プロト大和朝廷」は、いつが起源かというと、「常色の改革:647年」以降である】 2013年2月12日(火)




●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

▼ 【 ここは、《日出島哲雄著:天武天皇は二人いた。》の「リブログ」の頁ですので、あしからず。 】

 の中で、

 「斉藤忠氏は『倭国と日本古代史の謎』(学習研究社、二00六年)で高市皇子天皇説の二つの根拠を述べている」

 と書いてるので同書を取寄せ読んでいる。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 「何か“もっともだなー”と思える箇所」と「なんだか腑に落ちないなーと言う箇所」とが有って、これって何が原因だろう?と思ってたら、既に指摘されてる頁を発見した。

▼ 【 槍玉その33⇒《倭国と日本古代史の謎:斉藤忠著(学研M文庫 2006年6月)》 】 《魚拓》




●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 「隋書」俀国伝(608年)当時の日本は倭国の本体がある直轄地の竹斯国(=筑紫・九州島)と、長門以東(=本州・四国)の衛星扶養王国で構成されていた。

▼ 【 山口県西半分「穴門」に「長門城」を探したが…「長門以東」とは山口県の東側「周防」以東の事だ 】


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 斉藤忠著の『倭国と日本古代史の謎』に、何故“ちぐはぐ”感を覚えるかですが。

 この「隋書」の視点を私は、608年当時の日本列島内の政治状況だったと考えている。秦王国さえも倭に扶養すると書かれていて、大和国なんてどこにも書かれていない。

 即ち、大和朝廷は当時の日本には存在していなかった。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 元々は『倭国史、及び、日本列島史』の編纂予定だったものが、『倭国・秦国』そのものの抹殺・抹消、更には、それを、『近畿自王朝の出生前史とする』…

▼ 【 古事記や日本書紀は近畿天皇家自らのための「勝者自らの史書」という史料性格 と大局的位置づけが明確 】


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

「隋書」俀国伝(608年)が記述する扶養王国制は今で言う地方分権制でしょう。そこへ、降って沸いたのが

▼ 【 632年、唐が倭国に遣わした冊封・刺史「高表仁」に対し、26歳の倭国・王子「弾正尹・為尊親王」が、「唐への冊封関係を拒否した事件」 】
です。


●山本 俊明  “ とうやん ” ‏@tohyan

 この【26歳の倭国王子「弾正尹・為尊親王」が、「唐への冊封関係を拒否した事件」】を、きっかけに以後、九州王朝「倭国」は地方分権制の扶養王国制を廃止し、挙国一致・中央集権制の「天下立評」制の採用へ踏み切ったものと考えます。評制執行の為、難波副都に常駐したのが甘木王の弟伊勢王であり、大和朝廷のいわば元祖です。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 では、大和朝廷「はしり」の「プロト大和朝廷」とは、いつが起源か?

 というと、正木裕氏の言う「常色の改革:647年」で「天下立評」を指示し難波複都を造って以降だ、ということです。

▼ 【 大和王朝は難波副都で「天下立評」した九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ 】


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 「プロト大和朝廷」の起源を私なりに整理したものが、

▼ 【 「大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序」の中に出てくる「日本」及び「扶桑」の整理・再考 】

 ですのでご参考までに!


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 「プロト大和朝廷」の出現以前の「日本書紀」大和朝廷「日本国」の対唐外交史は、「秦国」の対唐外交史を「接ぎ木」したものだと分かります。

▼ 【 (805)『『日本書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」(その14)』2011年10月21日(金) 】


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

《参照》

▼ 【 2010年6月7日(月)
九州王朝の「常色の改革」こそ大和朝廷「日本国」の起源だろう。 】

▼ 【 2010年6月8日(火)
「常色の大改革」を推し進めた倭国王とはどんな「王」だったか 】


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