647年、九州王朝「倭国」に「甘木王(=常色王)」が即位する。
「倭国」甘木王は即位后、唐の侵略に対抗する為「常色の大改革」を次々断行する。
649年、「倭国」甘木王が、造複都「難波京」の詔を発す。
652年、天下立評・難波副都の完成、白雉改元儀式を挙行する。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
長門以東の天下立評で「プロト大和」開祖・伊勢王が難波副都に常駐する。
倭国内の大宰府と難波副都とで、権力の2重構造が発生か。
その後、白村江戦前後までに、長門以東の天下立評の進展に伴い、
倭国連邦附庸王国の「出雲・加賀・吉備・秦国・尾張・毛野(常陸)」等が解体を余儀なくされる。
同時に「難波副都倭弟王家」が台頭する。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
660年、百済滅亡。
661年、「倭国」の常色・白雉「甘木王」崩御、伊勢王崩御、白鳳王「薩夜麻」即位。
662 3年、百済復活の白村江戦で敗戦、唐が倭国白鳳王「薩夜麻」を捕獲・捕虜連行。
664年、難波副都の天智が長門以東(本州・四国)守備・防衛・直接支配。唐劉仁願・郭務悰遣倭
665年、唐、司馬上柱国劉徳高・郭務悰254人遣倭。この頃、唐が筑紫都督府(九州島)占領。
666年、唐の高宗が麟徳三年正月、泰山で封禅の儀。
667年、長門以東(本州・四国)難波副都「近江朝」独立・遷都・天智即位。唐・法聡遣倭。
668年、新羅本紀に「阿麻(=近江朝の仮名)来服」、高句麗滅亡。
669年、唐、郭務悰2千余人遣倭・筑紫。
670年、天智天皇の「近江朝」が「倭国」更えて「日本」号す。
671年、李守真遣倭。天智天皇崩御。倭国白鳳王「薩夜麻」帰国。唐、郭務悰2千人・船47隻来倭
672年、壬申大乱で天智「近江朝」滅亡、倭国再統一・白鳳王「薩夜麻」の天武天皇復位。
673年、倭国で復位の白鳳王「薩夜麻」の天武天皇が大嘗祭。
676年、新羅が朝鮮半島を統一。
678年、倭国で筑紫大地震、白村江戦後賠償で疲弊極まる。
682年、倭国太宰丹比真人嶋が大鐘をプロト大和へ貢上。
683年、倭国の丹比真人嶋「三つ足の雀」をプロト大和へ貢上。
684年、白鳳地震、白鳳王「薩夜麻」の天武天皇崩御、倭国大宰府⇒難波京遷都改元。
686年、難波宮焼失で浄御原宮再遷都改元、朱雀王の「大海人」天武天皇崩御。
690年、最後の倭国朱鳥王・高市天皇が即位。
691年、最後の倭国朱鳥王・高市天皇が大嘗祭。
694年、「間借り」大和の浄御原京⇒倭国の藤原京へ遷都。
695年、倭国が藤原京遷都記念で「大化」改元。
696年、倭王大化王・高市天皇が廃評建郡の「プロト大化改新」を発詔、倭王高市天皇を暗殺、倭国滅亡。
697年、「プロト大和朝廷」の軽皇太子が、大和朝廷「日本国」で初の文武天皇に即位。
698年、文武天皇が大和朝廷「日本国」で、初の大嘗祭。
701年、大和朝廷「日本国」が正式に開闢、「大宝」建元、新「大宝律令」発布。
702年、持統太上天皇崩御。
703年、倭王高市天皇暗殺の倭国側下手人3名が、連続死(暗殺死?)。
704年、異変に気付いた倭王天子の一分派?が「大宰府回帰」遷都、「大化」を「大長」改元。
710年、大和朝廷「日本国」が新都・平城京遷都。
712年、「倭国」残兵が「隼人の乱」の反乱を起すも、大和朝廷の追討・掃討で全壊滅。
●〔何が言いたいか、それは斉明天皇・天智天皇・天武天皇が「難波副都倭弟王家」の出身だということだ。〕
647年、九州王朝「倭国」に甘木王「常色王」即位し、即位后、唐の侵略に対抗する為「常色の大改革」を次々断行する。直轄地の筑紫(=九州島)は早くから評制施行済みだったが、長門以東は連邦附庸国「出雲・加賀・吉備・秦国・尾張・毛野」の地方分権支配だったのだ。
これを中央集権制の天下立評すべく、649年、造複都・難波京の詔を発し。652年、天下立評、難波副都完成、白雉改元儀式。天下立評で「プロト大和」開祖・伊勢王が難波副都常駐。
倭国内では、大宰府と難波副都で権力の2重構造が発生。その後白村江戦前後までに、天下立評に伴い、倭国連邦附庸王国の「出雲・加賀・吉備・秦国・尾張・毛野(常陸)」等が解体を余儀なくされる。同時に難波副都倭弟王家が台頭する。
663年、百済復活戦・白村江戦へ出兵。白村江敗戦で倭国白鳳王薩夜麻が唐に捕獲連行。
664年、その白村江敗戦后早い時期に、留守居の難波副都の天智天皇が、倭王不在の倭国長門以東(=本州・四国)を唐から守備・防衛・直接支配する。
665年、倭国直轄地の筑紫(=九州島)大宰府は、唐進駐軍に占領され、筑紫都督府と呼ばれる。
667年、天智近江朝(=倭国難波副都倭弟王家)は、長門以東(=本州・四国)を分離・独立させ、近江遷都・天智が即位する。
668年には高句麗が滅亡している。同668年、新羅本紀に「阿麻(=近江朝の仮名)来服」と言わしめ、「長門以東の天智近江朝が倭国から独立」のニュースは新羅から唐へ急報されただろう。
670年、更に、天智天皇の近江朝が「倭国」更えて「日本」号す。
「近江朝(=難波副都倭弟王家)」が「倭国」から分離独立したことを、唐国は認めるたくなかったのだ。
唐は九州筑紫都督府占領軍を帰任させる前に、捕虜の倭国王「薩夜麻」を解放・復位させ倭国の再統合の為の「壬申の乱」を計画・実行したのだろう。
というのは、672年「壬申の乱」が起きるその前年
671年に、倭国白鳳王薩夜麻が帰国している。ということは、「壬申の乱」が、
671年、天智天皇崩御后の近江朝大友皇子と吉野朝天武天皇の跡目争いといった小さなものでなく、唐の倭国再統合戦だったということだ。熊本県大津町内牧瀬田橋戦も含め、記述外の戦がどうだったかだ。
672年、壬申大乱で天智近江朝は滅亡し、潰えてしまう。
壬申乱に戦勝、唐筑紫占領軍が引揚げ后は、独立した「筑紫(=九州島)」統治大宰府「倭国」と、「長門以東(=本州・四国)」統治の「真人(=征東将軍)」浄御原宮「天武朝(=難波副都倭弟王家)」とに、取って代わる。
然し、672年、「壬申乱」で戦勝したはずの倭国のその後は、唐国の傀儡化と過酷な戦後賠償でさらに疲弊してゆくことになる。(残念なことに、白村江敗戦後のこの時期、属国・九州王朝倭国の唐への戦後賠償船派遣記事は、正木裕氏の指摘する34年遡上説でそっくり抹殺・抹消され窺い知ることができないのだが)
その後大宰府倭国は、悪いことに、678年、筑紫地震をはじめ度重なる地震におそわれる。その窮状を難波副都倭分家弟王家「天武朝」へ訴え救いを求めたふしがあるが、最終的には684年、大宰府から難波京へ遷都することになった。遷都もつかの間、白鳳地震。更に2年后には、難波京が焼失する。止むを得ず、686年、「天武朝(=難波副都倭弟王家)」の浄御原宮へ間借り再遷都する。将に当たり目に祟り目だったのである。
最後の倭国王「高市天皇」が690年、即位。691年、大嘗祭。倭国の藤原京の建設を急ぎ、694年、「間借り」大和の浄御原京から倭国の藤原京へ遷都。695年、九州年号「大化」改元。696年、建郡「本来の大化改新(=プロト大化改新)」発詔。その后、あろうことか、「本来の乙巳の変(=プロト乙巳の変)」で倭王「高市天皇」が藤原不比等をはじめとする下手人に暗殺され、倭国は滅亡してしまう。
翌、697年、「天武朝(=難波副都倭弟王家)」大和の文武天皇が 即位する。698年、大嘗祭。701年、「大宝」建元、新・大宝律令発布。はれて、大和朝廷「日本国」の開闢・誕生である。
これが「あらすじ」である。別紙 『 「倭国」の「大宰府主都」 : 「難波副都」対比年表 .html版 』 ・ 『 同 .pdf版 』 を、参照方お願いします。