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《 大和朝廷の 「はしり」 は、 「 難波朝廷 ( なにわのみかど=九州王朝「倭国」の難波複都 )」 に始まる 》  即ち、大和朝廷「日本国」 は、九州王朝「倭国」の 【 同じ血族・分流・分家 】 である。


大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 011 》



大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕

《 大和朝廷の 「はしり」 は、ここで言う 「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」 に始まる。
  即ち、大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」【 同じ血族・分流 】 と分かった。 》



 白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、日本全国 長門以東を実効支配したが、その司令官が「両京制」・「兄弟王朝」である 倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 である。
 日本書紀の〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇はこの倭王家 〔分家の弟王家〕 の出身である。
 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権 の禅譲を受け をクーデター「プロト大化の改新」で乗っ取り、倭国連邦の解体・改組してのち成立したのが、奈良の中央集権国家・文武天皇(大宝元年:701年)の大和朝廷『日本国』である。いわば倭王家 〔分家の弟王家〕 はプロト大和朝廷である。


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2010年 4月 2日 発行




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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』


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(319) 『法隆寺の金堂や五重塔は大宰府の観世音寺から移築されたものだった』 2011年1月21日(金)

 昨夜の月は突き刺さるような寒い空気に、美しく冴えわたる白い満月だった。現在の法隆寺の建物は狭い空間に押し込められ、何故かいびつである。嘗て、大宰府の『法興寺』として、今の観世音寺の地に、後ろに、京都『三十三間堂』を設え従え、おおらかにそびえた堂宇は如何ばかり厳かであっただろうか。



さて、どちらがシンメトリーか?












 『法隆寺は移築された、大宰府から斑鳩へ:米田良三著』

 法隆寺の金堂や五重塔は大宰府の観世音寺から移築されたものだった。これが法隆寺解体修理報告書の詳細な検討をとおして明らかになった結論である。この帰結の背景には俀国(九州王朝)の滅亡があり、俀国の文化はビザンチン文化に匹敵するものだと説く。

「建築家の眼がとらえた再建法隆寺の意外な真実」と著書の腹帯に大書されている。

 初版は1991年7月5日で、発行後早くも20年になる。氏は1943年生まれ、1968年東京工業大学建築学科卒業で、他には『建築から古代を解く』『列島合体から倭国を論ず』『逆賊磐井は国父倭薈だ』がある。

 何に失望されたのか、氏が筆を折って久しい。奈良・京都の史跡・遺跡管理者からの「古代の秘密をおおやけに暴露した」米田良三氏への風当たりはすごいものがあったのだろう。私よりほんの年上ということか、中学の修学旅行の時、雨の日でシートに覆われてた、ちょうど法隆寺が解体調査されていたのだ。



『法隆寺は移築された、大宰府から斑鳩へ:米田良三著』

《はじめに》

 法隆寺の建物は美しい。西洋のあらゆる建物と比べても、その美しさはひけを取らない。人間的尺度を持ってつくられた、完成された造形は時間を越えて存在している。

 現在、一般的に建てられる建物の法的寿命は数十年である。記念建造物として建てられたものでも、今後二百年間保たれ得る建物はない状態であり、技術の粋を集めても造ることができないかもしれない。東京オリンピックの時に造られた代々木の貝殻状の体育館は、すでに雨漏りや地盤沈下が激しく、寿命が尽きそうである。



 法隆寺の建物は木造であるが、すでに千年を越えて生き続けている。建物は計画する意図を別にしても、材料と技術の集積によって造られている。法隆寺で用いられた材料を挙げれば、土、石灰、石、木、藁、瓦、金属、顔料等である。この瓦をつくるためには、瓦博士と言う言葉があったことからわかるように、完成した技術が必要であった。また金属では、釘ひとつ取っても、まるで刃物のような材質のものが用いられており、すぐれた鍛冶技術があったことを物語っている。法隆寺が千年を越えて存在することで証明されるように、すぐれた材料をつくる技術はすでにあった。



 また建物を建てる技術として、木構造には現在技術以上に精通していたと思われるし、各職方の技術を背景に、すぐれた構法が確立していたと思われる。

 法隆寺を造るために当時の文化が総合されていることが理解できるであろう。建物はそれ自体歴史を記録する記録装置とも言い得る存在である。ところで、これまでの歴史研究では、それを読み取る努力が不足していたし、その方法論が欠如していた。

 世界の最高の美を表現する建築のひとつ、法隆寺という記録装置には何が記録されているのであろうか。

                1991年5月      米田良三



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 おやっ!ご・ごめん^^なさい。てっきり、筆を折られたものと、思っていて先ほど報告しましたが、
『続:法隆寺は移築された(「源氏物語」は筑紫が舞台だ)』を最近著わされてるようです。
更に
〔法隆寺移築説の原点である観世音寺・考〕
に反論が。

 まだ、良く読んでいないのだが、それには『二中歴』には「白鳳」下の細注に「対馬採銀観世音寺東院造」について、以下の小論を書かれているようだ。


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古賀達也氏は「法隆寺移築論の史料批判 ─観世音寺移築説の限界─」(古田史学会報)に次のように述べて、論を始められます。

 『二中歴』所収「年代歴」によれば、白鳳元年(六六一)に「観世音寺を東院が造る」とあり(注4)、この記事は観世音寺の創建年代を記す信頼できる唯一の史料といってもよい。

 この内容が正しいのであれば、私が法隆寺西院資財帳から導き出した観世音寺創建年607年は意味を成さなくなり、脱帽する以外にない。「観世音寺東院造」の私の読みは先に示したが、古賀氏が読まれる「観世音寺を東院が造る」が正しいかどうかを検討してみよう。(注4)として次の文を掲げておられます。云々


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(320) 『〔法隆寺移築説の原点である観世音寺・考:米田良三論〕これは、古賀達也氏対する公開討論』 2011年1月22日(土)

 おや・まッ

 〔法隆寺移築説の原点である観世音寺・考:米田良三論〕

 これは、古賀達也氏の「法隆寺移築論の史料批判─観世音寺移築説の限界─」(古田史学会報)に対する「公開討論」ではないか?

いやー、知らなかったな^^

 緊急お知らせです。ファンが、待ちに・待った(続編)
『続 法隆寺は移築された 「源氏物語」は筑紫が舞台だ:米田良三著』

が発行されました。

 否、否、
〔法隆寺移築説の原点である観世音寺・考:米田良三論〕
これは、古賀達也氏の「法隆寺移築論の史料批判─観世音寺移築説の限界─」(古田史学会報)に対する「公開質問状」ですね。

 古田武彦氏は『万葉集』から、米田良三氏は『源氏物語』から、九州王朝「倭国」を論究している。
⇒『源氏物語』乙女の巻には、筑紫の京に源氏の六條院が完成したことが語られる。
源氏三十五歳、635年のことで、紫の上のもとには和泉式部、紫式部、清少納言ら(平安時代ではない)が仕えていました。

 米田良三氏は『源氏物語』から、九州王朝「倭国」の観世音寺を論究する。⇒
〔法隆寺移築説の原点である観世音寺・考:米田良三論〕
『源氏物語』乙女の巻には、筑紫の京に源氏の六條院が完成

 ちょっと、難しいかもな。分かる方、少ないんじゃない?
 ⇒米田良三氏は『源氏物語』から、九州王朝「倭国」の観世音寺を論究する。
〔法隆寺移築説の原点である観世音寺・考:米田良三論〕

 実はこの写真探してたんですね^^
 〔昨夜の月は突き刺さるような寒い空気に、美しく冴えわたる白い満月だった。現在の法隆寺の建物は狭い空間に押し込められ、何故かいびつである。嘗て、大宰府の『法興寺』として、今の観世音寺の地に、後ろに、京都『三十三間堂』を設え従え、おおらかにそびえた堂宇は如何ばかり厳かであっただろうか。〕

書店からメールは来たのですが、支払い方法は渡辺しょうぞうさんからメールしますって、でも、今もって来ないのです。なにせ、100部しか印刷してないって言うんでしょう在庫があるか心配なんですね^^
 RT @2000BMW740i先ほど日新堂書店さんに注文致しました。

 〔法隆寺移築説の原点である観世音寺・考:米田良三論〕
は、寄稿が2010年9月25日で、2011年1月4日誤記訂正となっている、私の
〔大和朝廷「日本国」出生秘話〕
の2010年3 月10日発行より後で。読んで戴けてると幸せなのだが…^^

 『筑前国御笠郡観世音寺は清水山普門院といひける。源氏物語玉葛巻にも、大弐のみたちのうへ乃、清水の御寺の観世音寺にと紫式部もかけり、寺を清水の御寺といふなり、さいふことも此寺のうしろに清水のわきいづるところあればなるべし、この水いまにいたりてかわらずー略』清水寺ってそうだったか。

 訳はこれで良いかな。
RT @puchi_arabおい、おれはただ今、お前を、俺のマフィアファミリーに追加した。おまえは俺の招待を受け入れる必要がある!:)ここをクリックしてください
:http://t.co/dysH7krx⇒『Hey, I just added you to my Mafia family. You should accept my invitation! :) Click here: http://t.co/dysH7kr』



 気づくの遅れました。古代の教養不足で・・なかなか「源氏物語」も葛洪の「抱朴子」を下敷きに道教を敷衍したとかなども・・私の理解力を超えてます(>_<)?焦らずに学ばさせていただきます・・? 

 いえ私もです。『このことは『源氏物語』と『和泉式部日記』から明らかになります。唐からの一団は冊封関係を強いる使いであったため、王子である為尊親王は拒否をし、高表仁と言い争いになり、切られてしまいます。傍にいた太政大臣と式部卿も巻き添えを食う』とか書かれていて、ゆっくり行きましょう。

 先ほど日新堂書店の渡辺さんと話しました。最近トラブルがあったらしく、事前振込による販売にされたそうです。近々請求書を送付、入金確認次第、書籍発送になるとおっしゃっていました。

 すごい、電話されたんですか?私は、昨日遅く封書を受け取り、今時面倒臭い郵便振り込みせよというんで、しぶしぶ、先程振り込みました。でも、郵便局の“かわゆいこ”が機械の説明してくれました^^超アナログ、本人自身も言ってたけど。


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(321) 『『源氏物語』と『和泉式部日記』と『旧唐書』は同じ事件を三様に記録していることが分かります』 2011年1月23日(日)

『源氏物語』は平安時代の作品とされてきましたが、筑紫の京を舞台とし、源氏の年齢に600を加えた年次の記録になっています。もちろんフィクションが加えられていますが、653年の源氏の死までの内容は、現実の時間の流れを踏まえていることが確かめられます。



う・うへぇー、またすごいことが書かれていますね。



 『源氏物語』薄雲の巻は源氏三十二歳の年、632年のお正月の様子の記述の後、突如太政大臣の死が語られ、次に式部卿の死が語られ、世の中の騒がしいことを(冷泉)帝が嘆かれる。

 『旧唐書』倭国日本伝には、次のように記されます。

 貞観五(631)年、使を遣わして方物を献ず。太宗其の道の遠きを矜(あわ)れみ、所司に勅して歳ごとに貢せしむるなし。また新州の刺史(しし)高表仁を遣わし、節を持して往いて之を撫せしむ。表仁、綏遠(すいえん)の才無く、王子と礼を争い、朝命を宣(の)べずして還(かえ)る。

 631年に最初の遣唐使が送られます(『日本書紀』は630年とする)。刺史高表仁が日本に遣わされたのは632年(『日本書紀』)です。『源氏物語』には太政大臣と式部卿が亡くなったことが記されますが、さらに二十六歳の弾正尹(だんじやうのいん)(現在の警察庁長官)為尊(ためたか)親王も亡くなる事件でした。このことは『源氏物語』と『和泉式部日記』から明らかになります。唐からの一団は冊封関係を強いる使いであったため、王子である為尊親王は拒否をし、高表仁と言い争いになり、切られてしまいます。傍にいた太政大臣(現在の総理大臣)と式部卿(現在の外務大臣)も巻き添えを食うことになります。事件は博多駅辺にあった高津の宮に唐の使節を迎えての会談の場で起こったと考えられます。強大な国家唐が意図して起こしたと考えられる外交事件です。十四歳の冷泉帝を補佐する最高権力者である三十二歳の源氏は、三十六歳の唐の太宗の意図を外し、「表仁、綏遠の才無く、王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る」という形でこの事件を処理したものと思われます。この時の緊張感は『和泉式部日記』にも記されており、633年5月5日のことと分かります。 帥(そち)の宮の侍従の乳母(めのと)が、和泉式部のところに出かけようとする帥の宮に小言をいう場面があり、その中で次のように言う。

 世の中は今日明日とも知らず変わりぬべかめるを、殿のおぼしきつることもあるを、世の中御覧じはつるまでは、かゝる御歩きなくてこそおはしまさめ

 (現代語訳)最近の政情は今日明日と関係なく変ってゆくに違いないのですから、殿が御計画を立てておかれたこともあるように、政情の変化の結果が見極められるまではこのような御歩きをなさらないでいなさい

 殿は源氏であり、政情は唐との緊迫した関係である。

 『源氏物語』と『和泉式部日記』と『旧唐書』は同じ事件を三様に記録していることが分かります。尚、フィクションである『源氏物語』の記録性については、641年3月10日過ぎの明石の女御の御産に対応して、写実的著述である『紫式部日記』を著わしたことで解るように、紫式部自身が特に重要と考えていたと思われます。

 『源氏物語』は、時間と空間の正確さの中に、源氏の存在を記録した作品と言えます。


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 『源氏物語』と『和泉式部日記』と『旧唐書』は同じ事件を三様に記録していることが分かります。 ⇒ このツィッターにもアイコンに“日の丸”描いてる方見かけるけど・・・・ このこと知ったら、きっと、『源氏物語』『和泉式部日記』『旧唐書』が愛読書になるな、間違いない。でもわかるかなー^^


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(322) 『礎石の位置関係からそれにのっていた建物の規模が、明らかにワンランク下であったのだ』 2011年1月23日(日)

〔 法隆寺移築説の原点である観世音寺・考 : 米田良三 論 〕
には、古賀達也氏は「法隆寺移築論の史料批判─観世音寺移築説の限界─」(古田史学会報)に次のように述べて、論を始められます。
『二中歴』所収「年代歴」によれば、白鳳元年(六六一)に「観世音寺を東院が造る」とあり(注4)、この記事は観世音寺の創建年代を記す信頼できる唯一の史料といってもよい。



 〔古賀達也氏の「観世音寺を東院が造る」は、やはり「観世音寺の東院を造る」で、私も米田良三氏に軍配をあげる。〕
問題は
〔観世音寺は法隆寺への移築元ではないという説がある〕
事だろう。



 〔観世音寺の一幅の絵図から分かること〕
で示しましたが、要は観世音寺に残されている礎石の位置関係からそれにのっていた建物の規模が、明らかにワンランク下であったと考えられるわけですね。



 上記礎石の位置状況の違いを踏まえ、故飯田満麿氏(2009年1月10日逝去・享年75歳)は法隆寺移築論争の考察の中で要約次のように言ってます。

 『奇しくも川端・大越両氏の論文はその骨子に於いて共通し、且つ観世音寺説否定の重要な論拠として、現観世音寺の礎石の状態を列挙されている。

 嘗て筆者は「平城京・東院復元工事」に施工側の責任者として従事した経験を持つが、その際の見聞と建築技術者としての常識から、古代建築の基礎構造を考えるとき、必ずしも両氏の論証が成立しない可能性を感ずるので、その論旨を開陳し両氏の論拠の適否判断の資料に供したいと思う。」

 とし、最後に「現実に遺跡が存在する分、観世音寺説7その他の説3の割合で米田説有利と判断する。」と書かれている。



 そこで、私は
〔観世音寺の一幅の絵図から分かること〕
で、九州倭国の法興寺を法隆寺へ移築し、その跡地に観世音寺を造ったと推理したが、米田良三氏は肝心な基礎の違いを釈明していない。



 観世音寺に残る礎石位置で、その建物規模が現法隆寺のワンランク下であった。故に、法隆寺は観世音寺からの移築物ではない。という意見に対し、米田良三氏は、発売中の第5作『続:法隆寺は移築された「源氏物語」は筑紫が舞台だ』か。或は、第6作『現代を解く・長谷寺考』で開陳しているのだろうか。


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 ♯ 米田良三さーん ♯ ひょっこり・ひょうたん島 ♭ ひょっこり・ひょうたんじーま ♯ ひょっこり・ひょうたんじーま ♯・・・・だめかー^^ ふるた・たけひこ氏 みたいにね。ひょっこり・ひょうたんじーま ♯あー、それにしても嬉しかったな^^ RT @takehikofuruta

 twiterで「フォローされている」のカウンターが今朝2,060人だったのに、今は2,102人に急増。42人も増えた。この1週間で急減し・急増したことになる。昨年の9月頃はフォローのメールが後を絶たなかったが、最近は日に5人前後、それも長いtweet文を流すとブロックされちゃう。

 twiterで「フォローされている」のカウンターが1月24日16時2,102人だったのに、今は2,068人に急減。34人減った。この1週間で急減し・急増・急減したことになる。どうなってるのか?ようわからん^^1/24朝2,060人、1/24日夕2,102人、1/27日2,068人


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(323) 『「法興寺⇒法隆寺移築⇒跡地に1ランク下の観世音寺建造は可能」の技術的根拠』 2011年1月25日(火)



〔法興寺⇒跡地に観世音寺建造の技術的根拠〕
〔法隆寺移築論争の考察:飯田満麿〕



『礎石基礎の施工』


 礎石基礎の建設には礎石直下の床盤が不可欠である。現在は問題なく鉄筋コンクリ-ト構造が採用されるが、当時の技術水準では勿論願うべきも無い事であり、何処ででも安価に入手出来る材料として粘土を用いた工法が採用された。

 まず建物設置場所の確定後表土を取り除き、建物基壇より周辺1m程度広げた範囲を地山まで掘削する。建物の規模によって其の深さは一定でないが1m ~2m で平坦にならし、粘土を全面に敷き均し手蛸等で人力突き固めを繰り返す。おおよそ30cmの粘土層を10cmに突き固める要領で幾層にも積み重ね、強固な版築盤を形成する。

 この上に設計図に従い位置決めを行い割栗石を礎石の大きさに応じて敷き込み目砂を撒いて礎石を据える。全ての礎石を据え終わったら基壇の寸法に合わせて周りに型枠を組み立て、中に粘土を敷き込み前述の要領で基壇を形成する。

 基壇部分の版築構造は仕上げ材の腰石・敷石で保護されているので、建物が健在な内は変形変質は起こらないが、一端建物が失われると地上に露出しているため粘土は雨による劣化を直ちに招き基壇は原型を留めぬまでに流失する。今日飛鳥に存在する薬師寺跡の礎石の状況はこの証拠である。

 (注-版築基礎盤の厚さについては推定値を用いた、今後ボ-リング等で確実な測定値が得られればそれに従う。)



『礎石基礎形状変更の可能性』


 礎石構造が下部に強固な版築盤を用いている以上、この基礎盤が存在する限り基壇及び礎石の再構は可能である。

 但し版築は垂直方向には増築可能だが水平方向には増築出来ないので、旧建家より大規模なものは再構築出来ない。

 又、礎石の水平移動を行っても原材料が自然に産出される粘土又は土砂である限り、其の痕跡は数年で消失する。

 具体的に実例を挙げるならば、大越論文に示された「観世音寺境内実測図金堂基壇」の状態は第一次の建物が撤去された後、二次三次と建物がやや縮小されて再建された状況を如実に示すものである。

 以上が、「法興寺⇒法隆寺移築⇒跡地に1ランク下の観世音寺建造は可能」の技術的根拠である。



 最近わたしは、
『法隆寺移築論争の考察:故飯田満麿著』
の「礎石基礎形状変更の可能性」 即ち、〔「法興寺⇒法隆寺移築⇒跡地に1ランク下の観世音寺建造」は技術的にも可能だ〕 にそって、 《 ◎ 「観世音寺」の前身は、「法興寺」だった 》 と考えます。



〔古代史探訪:法隆寺創建の謎〕《魚拓》
の画面文中には、『ところが、2001.2.21に「法隆寺五重塔の心柱は年輪年代法で測定して、伐採されたのは594年と確定できた」と各新聞社を通じて発表されました。

 その結果、従来から言われてきた法隆寺焼失(670)後再建説は成立不可となり、その説に代えて「法隆寺は移築された」とならざるを得ません。ここに、7世紀初頭に創建されたであろう現法隆寺の移築元はどこからか?との疑問も又生じるわけです』法隆寺の若草伽藍焼失⇒再建の疑問点が分かりやすい。

 米田良三氏はその発表の10年前に、既に『法隆寺は移築された:米田良三薯』を発表していたわけで、私などは今更何をやいわんやだったわけです。ただ問題は、『観世音寺が移築元じゃないんじゃないか?』という疑問に氏が答えていず、『源氏物語』に『観世音寺』が出てくるでは、皆が納得しないでしょう。

 その疑問に答えるものが、ビジュアルに・視覚的に分かりやすく証明するのが、米田良三氏自身が当初から紹介の観世音寺に伝わる一幅の古絵図でしょう。
参照:
〔観世音寺の一幅の絵図から分かること〕

 大宰府・観世音寺に伝わる古絵図の最奥には、どう見ても三十三間堂(=大房)と思われる横長の建物が描かれており、奈良朝が観世音寺を作ったことが明らかですが、この最奥の三十三間堂(=大房)については、奈良朝が阿弥陀信仰禁止の張本人であり、張本人自身が造るはずもなく、九州倭国が造ったものでしょう。

 また、この観世音寺古絵図には中門が「桁行五間・梁間三間・正面に二本の柱」が描かれており、 現法隆寺の中門の「桁行四間・梁間三間・入口の中央に柱」とは明らかに違う。

 古絵図の描く寺が、九州王朝委国の造ったその前身のA観世音寺(=法興寺)であるか、奈良朝が造ったB観世音寺であるか、といえば、この絵図は明らかにB観世音寺であるといえましょう。

 古絵図に三十三間堂(=大房)が描かれていることで、B観世音寺は奈良朝が新地(さらち)に新築したのでなく、その前身のA観世音寺(=法興寺)が建っていたことが分かります。


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(324) 『「法隆寺移築説の原点である観世音寺・考:米田良三論」は、屋上屋を架す(重ねる)ではないか 』 2011年1月27日(木)

 米田良三氏は、約10年の長きにわたる沈黙を破って、このたび発表の
〔法隆寺移築説の原点である観世音寺・考:米田良三論〕
で、古賀達也氏の「法隆寺移築論の史料批判─観世音寺移築説の限界─」(古田史学会報)に触れて、『二中歴』所収「白鳳」下の細注『白鳳二十三年・辛酉・対馬銀採・観世音寺東院造』は、白鳳元年(661)に「観世音寺東院造る」ではなく、やはり、「観世音寺東院造る」が正しいと反論されている。ようだ。


 これについては、
〔古賀達也氏の「観世音寺を東院が造る」は、やはり「観世音寺の東院を造る」で、私も米田良三氏に軍配をあげる。〕
問題は
〔観世音寺は法隆寺への移築元ではないという説がある〕
事だろう。


 〔観世音寺の一幅の絵図から分かること〕
で分かりやすくにしたが、要は観世音寺に残されている礎石の位置関係からそれにのっていた建物の規模が、明らかにワンランク下であった、ということだ。米田良三氏は、「法隆寺移築説の原点である観世音寺・考:米田良三論」では、自説「法隆寺は移築された」に「屋上・屋を架す(重ねる)」ではないか。と私は考えるのだが如何?


 米田良三氏は『源氏物語』の記事を引き合いに、
●『観世音寺の行幸は、神無月の十日あまりなり。世の常ならず、おもしろかるべき度のことなりければ、』
 ⇒試楽〔紅葉賀(=落成式)〕 ⇒618年―この頃観世音寺完成する。
●634年―観世音寺行幸(十三回忌)、云々』と。


 言い換えれば、氏は、『源氏物語』に、ちゃんと、『観世音寺』と書いてあるではないか。とさも言いたげである。と言うことは、即ち、『前身の「A観世音寺」を九州王朝「倭国」が造る。
その后、「A観世音寺」を「法隆寺」へ移築后、跡地に奈良朝が名前を変えず「B観世音寺」造った』となろう。


 果たしてそうだろうか、問題は氏が言う、『「源氏物語」はもともと九州「倭国」を舞台にした作品で、平安時代に紫式部により今風に手を加えられ世に出たもの』ということだ。
原本にちゃんと、「観世音寺」と書かれていたか?だろう。
私が思うに、原本には「法興寺」と書かれていたのではないのか?と。


 つまるところ、私は「観世音寺」の前身が「法興寺」であると考えるので、『源氏物語』更に、『二中歴』が編集された後代においても、「法興寺」名を表記するのが憚れたか、あるいは、一般受けするかで、「観世音寺」と表記したのだろう。


 さらに、「観世音寺東院造」の文意は「白鳳元年(661年)法興寺に『東院』が別区・増築された」と解釈している。更に、奈良朝になって、三十三間堂を除く法興寺の大半が、法隆寺へそっくり移築されたので、今は法隆寺の『東院』として『西院』とは別区・存在しているものと考える。


 とまれ、米田良三氏が、発売中の第5作
『続:法隆寺は移築された「源氏物語」は筑紫が舞台だ』
か。或は、発売予定の第6作『現代を解く・長谷寺考』で、そのあたりを開陳しているのだろうか。
はやく読んでみたいものだ。


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(325) 『単に〔法隆寺は移築された〕では、済まされない「内容」なのだ』 2011年1月27日(木)

 米田良三氏は、約10年の長きにわたる沈黙を破って、このたび発表の
〔法隆寺移築説の原点である観世音寺・考:米田良三論〕
は、単に〔法隆寺は移築された〕では、済まされない「内容」なのだ。


 〔法隆寺移築説の原点である観世音寺・考:米田良三論〕を、先ずは、クリックして、皆様がともかく、読んで頂きますように、お勧めいたします。


 米田良三氏の今回発表の
〔法隆寺移築説の原点である観世音寺・考:米田良三論〕
は、むしろ、〔九州王朝「倭国」歴史・文化論〕と銘打ったほうが適切だろう、読みやすいように工夫したが^^



●591年―上宮王の治世始まる〈銘:釈迦三尊像後背銘〉
●594年―五重塔心柱の伐採年〈奈:奈良文化財研究所〉
●598年―上宮王講経→五十万代施入〈資:西院資財帳〉
●607年―観世音寺創建(建前状態)+釈迦像・上宮王像・千食王后像〈資:西院資財帳〉
●617年―ハレー彗星出現「六月肺出」の落書 →五重塔仕上げ作業中〈報:法隆寺解体報告書〉
●618年―この頃観世音寺完成す〈報:法隆寺解体報告書〉・〈融:三国遺事〉
●622年―上宮王・千食王后死亡〈銘:釈迦三尊像後背銘〉
●623年―釈迦三尊像敬造請坐〈銘:釈迦三尊像後背銘〉→上宮王像・千食王后像を外す
●650年―三十三間堂の千体仏の完成〈紀:日本書紀です〉
●661年―観世音寺東院造→上宮王像・千食王后像安置〈二:二中歴〉

 《以上のこれらは大宰府都城の観世音寺に関わる歴史事実です。》


過去の源氏研究により、源氏が何歳の時のことが書かれているかは知られています。
●光源氏18歳…………観世音寺・紅葉賀
●光源氏22歳…………桐壺帝の譲位 
●光源氏32歳…………太政大臣、式部卿の死 
●光源氏34歳…………観世音寺行幸 
●光源氏53歳…………源氏死亡


 『源氏物語』は平安時代の作品とされてきましたが、筑紫の京を舞台とし、《源氏の年齢に600を加えた年次の記録になっています。 ⇒えっ、この時代西暦で?》  もちろんフィクションが加えられていますが、653年の源氏の死までの内容は、現実の時間の流れを踏まえていることが確かめられます。


 ●⇒ いやー、す・すばらしい。頭の構造がどうなってるのかな^^以上を、整理、年次順にすると、以下の表になります。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



●591年―上宮王の治世始まる〈銘:釈迦三尊像後背銘〉
●594年―五重塔心柱の伐採年〈奈:奈良文化財研究所〉
●598年―上宮王講経→五十万代施入〈資:西院資財帳〉
●607年―観世音寺創建(建前状態)+釈迦像・上宮王像・千食王后像〈資:西院資財帳〉
●617年―ハレー彗星出現「六月肺出」落書→五重塔仕上げ作業中〈報:法隆寺解体報告書〉                 
●618年―この頃観世音寺完成する〈報:法隆寺解体報告書〉・〈融:三国遺事〉→紅葉賀(=落成式)             
●光源氏18歳…………観世音寺・紅葉賀
●622年―上宮王・千食王后死亡〈銘:釈迦三尊像後背銘〉→桐壺帝の譲位
●光源氏22歳…………桐壺帝の譲位 
●623年―釈迦三尊像敬造請坐〈銘:釈迦三尊像後背銘〉→上宮王・千食王后像を外す
●632年―太政大臣・式部卿の死亡
●光源氏32歳…………太政大臣、式部卿の死
●634年―観世音寺行幸(十三回忌)
●光源氏34歳…………観世音寺行幸
●650年―三十三間堂の千体仏の完成〈紀:日本書紀〉
●653年―源氏死亡
●光源氏53歳…………源氏死亡
●661年―観世音寺東院造→上宮王像・千食王后像安置〈二:二中歴〉

『ハレー彗星出現時の617年の6月の段階で、観世音寺五重塔の天井板の仕上げ工事をやっていた。そして618年10月10日過ぎに観世音寺で行われた儀式、紅葉賀は観世音寺の落成式と言うことになる。』


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 「昨夜の月は突き刺さるような寒い空気に、美しく冴えわたる白い満月だった」
 ●⇒ 確か「法隆寺は移築された:米田良三著」に、若し、法隆寺が昔ありひしのまま大宰府観世音寺にあったならって想像図ですが、実はこの写真探してたんですね。そしたらご本人に会えたわけですね。















〔現在の法隆寺の建物は狭い空間に押し込められ、何故かいびつである。嘗て、大宰府の『法興寺』として、今の観世音寺の地に、後ろに、京都『三十三間堂』を設え従え、おおらかにそびえた堂宇は如何ばかり厳かであっただろうか。〕


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(326) 『表仁、綏遠の才無く王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る⇒まさか・源氏物語で、ここまで分るか?』 2011年1月28日(金)

 『源氏物語』薄雲の巻は源氏三十二歳の年、632年のお正月の様子の記述の後、突如太政大臣の死が語られ、次に式部卿の死が語られ、世の中の騒がしいことを(冷泉)帝が嘆かれる。


 『旧唐書』倭国日本伝には、次のように記されます。

 貞観五(631)年、使を遣わして方物を献ず。  太宗其の道の遠きを矜(あわ)れみ、所司に勅して歳ごとに貢せしむるなし。  また新州の刺史(しし)高表仁を遣わし、節を持して往いて之を撫せしむ。  表仁、綏遠(すいえん)の才無く、王子と礼を争い、朝命を宣(の)べずして還(かえ)る。

 631年に最初の遣唐使が送られます(『日本書紀』は630年とする)。  刺史高表仁が日本に遣わされたのは632年(『日本書紀』)です。  『源氏物語』には太政大臣と式部卿が亡くなったことが記されますが、さらに二十六歳の弾正尹(だんじやうのいん)(=現在の警察庁長官)為尊(ためたか)親王も亡くなる事件でした。


 このことは『源氏物語』と『和泉式部日記』から明らかになります。  唐からの一団は冊封関係を強いる使いであったため、王子である為尊親王は拒否をし、高表仁と言い争いになり、切られてしまいます。  傍にいた太政大臣(現在の総理大臣)と式部卿(現在の外務大臣)も巻き添えを食うことになります。

 事件は博多駅辺にあった高津の宮に唐の使節を迎えての会談の場で起こったと考えられます。
 強大な国家唐が意図して起こしたと考えられる外交事件です。  十四歳の冷泉帝を補佐する最高権力者である三十二歳の源氏は、三十六歳の唐の太宗の意図を外し、「表仁、綏遠の才無く、王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る」という形でこの事件を処理したものと思われます。


 この時の緊張感は『和泉式部日記』にも記されており、633年5月5日のことと分かります。

 帥(そち)の宮の侍従の乳母(めのと)が、和泉式部のところに出かけようとする帥の宮に小言をいう場面があり、その中で次のように言う。

 『世の中は今日明日とも知らず変わりぬべかめるを、殿のおぼしきつることもあるを、世の中御覧じはつるまでは、かゝる御歩きなくてこそおはしまさめ』

 (現代語訳)『最近の政情は今日明日と関係なく変ってゆくに違いないのですから、殿が御計画を立てておかれたこともあるように、政情の変化の結果が見極められるまではこのような御歩きをなさらないでいなさい』

 殿は源氏であり、政情は唐との緊迫した関係である。


 『源氏物語』と『和泉式部日記』と『旧唐書』は同じ事件を三様に記録していることが分かります。

 尚、フィクションである『源氏物語』の記録性については、641年3月10日過ぎの明石の女御の御産に対応して、写実的著述である『紫式部日記』を著わしたことで解るように、紫式部自身が特に重要と考えていたと思われます。

 『源氏物語』は、時間と空間の正確さの中に、源氏の存在を記録した作品と言えます。



 「旧唐書倭国日本伝」の『貞観五(631)年、使を遣わして方物を献ず。太宗其の道の遠きを矜れみ所司に勅して歳ごとに貢せしむるなし。また新州の刺史高表仁を遣わし節を持して往いて之を撫せしむ。表仁、綏遠の才無く王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る』
 ●⇒ まさか・源氏物語で、ここまで分るか?



 まさか・源氏物語で、ここまで分るか?
 ⇒『新州の刺史(しし)高表仁を遣わし、節を持して往いて之を撫せしむ。表仁、綏遠(すいえん)の才無く、王子と礼を争い、朝命を宣(の)べずして還(かえ)る。』
 ●⇒ 高表仁め、倭国の太政大臣・式部卿・26歳弾正尹為尊親王を「切捨て・無礼討ち」したのか。



 このことは『源氏物語』と『和泉式部日記』から明らかになります。唐からの一団は冊封関係を強いる使いであったため、王子である為尊親王は拒否をし、高表仁と言い争いになり、切られてしまいます。傍にいた太政大臣(現在の総理大臣)と式部卿(現在の外務大臣)も巻き添えを食うことになります。再度



 日本書紀632年(舒明4年10月4日)〔高表仁に告げて「天子の命じた使が、天皇の朝廷に到来したと聞き迎えます」といった。高表仁 が答えて「風の寒い日に、船を飾り整えて迎えを賜い、歓びまた恐縮しています」といった。〕
 ●⇒ やはり、接待のトーンが真反対だ、この時の朝廷は『秦国』だと分る。


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(327) 『唐の冊封要求を、倭王子・為尊親王は拒絶、唐使・高表仁と言い争いになり、切られてしまう』 2011年1月28日(金)

 このことは『源氏物語』と『和泉式部日記』から明らかになります。唐から倭国へ派遣の使節一団は、唐が冊封関係(=中国皇帝に対し臣下として服従する)を倭国に強いる使い「冊封使」であったため、倭国王子である二十六歳の弾正尹(だんじやうのいん)(=現在の警察庁長官)為尊(ためたか)親王はこれを拒否・拒絶し、唐の「冊封使」高表仁と言い争いになり、切られてしまいます。傍にいた倭国の太政大臣(現在の総理大臣)と式部卿(現在の外務大臣)も巻き添えを食うことになります。



 『唐の倭国冊封要求を、倭王子・為尊親王は拒絶、唐使・高表仁と言い争いになり、切られてしまった』
 ●⇒ 知らなかった。これが事実なら、否・事実だろう。後の「九州倭国の滅亡」「大和日本国の出生」が天下立評、難波副都、倭国附庸国連邦解体、白村江、近江朝独立、壬申乱、高市暗殺へと理解できる。



 以上は、
〔法隆寺移築説の原点である観世音寺・考:米田良三 論〕
の〔2.『源氏物語』の観世音寺〕の項の末尾に書かれていますが、『源氏物語』が恋愛小説とばかりは言えないんですね^^



「旧唐書倭国日本伝」の『貞観五(631)年、使を遣わして方物を献ず。太宗其の道の遠きを矜れみ所司に勅して歳ごとに貢せしむるなし。また新州の刺史高表仁を遣わし節を持して往いて之を撫せしむ。表仁、綏遠の才無く王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る』
 ●⇒旧唐書倭国伝で同事件を記述する。



 日本書紀632年(舒明4年10月4日)〔高表仁に告げて「天子の命じた使が、天皇の朝廷に到来したと聞き迎えます」といった。高表仁 が答えて「風の寒い日に、船を飾り整えて迎えを賜い、歓びまた恐縮しています」といった。〕
 ●⇒ やはり、接待のトーンが真反対だ、この時の朝廷は『秦国』だと分る。



 『日本書紀632年(舒明4年10月4日)』も、『「旧唐書倭国日本伝」の貞観五(631)年、使を遣わして方物を献ず。表仁、綏遠の才無く王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る』も知っている。が、倭王子の弾正尹為尊親王・太政大臣・式部卿の3人が高表仁と言い争いになり切られたとは、普通の日本人は知らない。





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(328) 『地蔵菩薩さまと神功皇后さまとは、どのような御関係なのでしょう』 2011年1月29日(土)

 こりゃ、なるほど、分りやすい。

【キーワード】倭薈=地蔵菩薩=奈良帝=「磐井」=八幡神=阿弥陀如来=雨宝童子、
【キーワード】神功王后=息長足姫尊=十一面観音=長谷観音=観音菩薩、
【キーワード】倭武=「仲哀天皇」=難陀龍王、
【キーワード】法興帝=上宮王=「聖徳太子」=「救世観音像」=桐壺帝。



 信じられないでしょうが、『源氏物語』は光源氏の年齢に600を加えた年次の記録になっています。

 例えば源氏18歳の618年10月10日過ぎには観世音寺の落成式である紅葉賀(平安時代の『源氏物語』では朱雀院の行幸とあるが、本来は観世音寺への行幸)が、上宮王(『源氏物語』では桐壺帝)の出席のもと取り行われた様子が詳細に記録されています。

 玉蔓(たまかずら)の巻には、この時の印象を述べる三条の言葉「清水の御寺の、観世音寺に詣で給ひしいきほひは、帝の行幸にやは劣れる」が記されます。  大宰府都城が『源氏物語』の京でないとこの言葉は意味を成しません。  帝(法興帝)が行幸する対象の観世音寺なのです。



 奈良東大寺は先に述べた小倉山東大寺が移築されたものであることは言うまでもありません。

 東大寺二月堂のお水取りは、関西では「お松明(おたいまつ)」とも呼ばれる行事で、本尊である十一面観音に罪障の懺悔をする行事で、正式名称を十一面悔過法要(じゅういちめんけかほうよう)と言います。 つまり息長足姫尊である十一面観音が絶対秘仏とされる本尊なのです。

 旧暦の2月1日から14日まで行われる修二会(しゅにえ)で、薬師寺、新薬師寺、法隆寺、長谷寺でも行われ、同様にたいまつや鬼が登場します。

 薬師寺の薬師如来は霊山(小倉山)の倭薈坐像であったこと同様、これらの寺は阿弥陀三尊に関係する寺院であり、奇襲日の2月初旬、焼き打ちのたいまつ、継体軍である鬼・だだおしと、「磐井の乱」を思い出す要素で構成されているのです。



 今まで、紹介の記事はすべて
〔法隆寺移築説の原点である観世音寺・考:米田良三論〕
 の抜粋ですので悪しからず。ファンが、待ちに・待った(続編)『続 法隆寺は移築された「源氏物語」は筑紫が舞台だ:米田良三著』が発行の緊急のお知らせです。



 〔法隆寺移築説の原点である観世音寺・考:米田良三論〕
ファンが、待ちに・待った(続編)『続 法隆寺は移築された「源氏物語」は筑紫が舞台だ:米田良三著』が発行の緊急のお知らせです。


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(329) 『観世音寺の東隣の井戸遺構の中から「東院」と書かれたかわらけが発掘されている』 2011年1月29日(土)

 〔法隆寺移築説の原点である観世音寺・考:米田良三論〕には観世音寺の発掘で、  

 『現在の大宰府都城に戻りますと、観世音寺の東隣の井戸遺構の中から「東院」と書かれたかわらけが発掘されていることはよく知られていますし、近年、観世音寺敷地内から「西院」と書かれたかわらけまで見つかっています。

 観世音寺が在って、東院伽藍が661年に造られ、本体を西院伽藍と呼ぶようになったことが推測できます。またもちろん法隆寺の西院伽藍・東院伽藍の名称は観世音寺から移ったことは間違いないところです』とあります。

 私が思うに、「かわらけ」に「法興寺○○」「観世音寺○○」と書かれて居ればなってね^^



 また、同書には、

 『筑紫の京は531年の“磐井の乱”後、城壁都市として再興されていました。664年唐軍の占領により、城壁が解体され(城壁の跡に造られた土盛りが水城)、京の『源氏物語』的世界は崩壊し、人々は不安と絶望の中に落されます。さらに672年5月以降は、扶桑国軍(大和朝廷)により観世音寺が解体・移築され、筑紫の人々も強制的に移住させられ、平城京や京都を中心に住まわされたと考えられます。』

 とあります。が、この『672年5月以降は、扶桑国軍(大和朝廷)により観世音寺が解体・移築され云々』の文中にある《扶桑国軍(大和朝廷)》なる実態は何か、今一気になる所です。



更に、  『一方、観世音寺五重塔では基壇の上の心礎の皿の上に舎利容器が置かれていたと思われますが、法隆寺の宝物にはそれらしきものは伝わっていません。舎利容器は移築されていないのです。

 <略> それは鳥仏師の工房の連中が観世音寺の五重塔の須弥山に囲われて隠されていた舎利容器や釈迦三尊像光背の飾り金物などを運び出し、扶余の百済王室寺院の廃墟工房の水槽跡に隠したことです。

 韓国では同所で発掘されたものであり、百済王室の工芸品・百済大香炉であり、663年の百済国滅亡の直前、あわただしい状況の中で隠したものだと主張しています。

 が、二つの点で間違っています。

 ●1つは、墓さえ暴かれることは常識であり、百済王室の宝がそのような場所に隠されることはありませんし、隠したら盗掘されていたと思われます。滅亡後に荒らし回って廃墟となり、時間のたった工房跡の水槽の中に隠したから現代まで残ったと考えられます。

 ●2つは、香炉としていますが、香炉なら煙が出る穴が造られているはずですが、それは見当たりません。島国である日本国を須弥山に見立てたデザインと思われ、容器の上に鳳凰が立ちます。上宮王が造られた観世音寺の舎利容器にふさわしい形態と言えます 』

 ●⇒ということは、今韓国にある『舎利容器』は、九州王朝「倭国」のものだ、日本へ返却してもらわないとね^^



 こんばんは、私もです。なんやかやで、1週間待たされました。娘を車で送って今帰りました。で、まだ、読んでいません。ざっと見、depthが深くなった、テーマはあまり、変わり映えしない。《「移築」を強く主張しない・遺跡管理者を刺激しない》形に逃げておられないだろうかと心配していますがね^^



 やっと本が送られてきました。なんやかやで、1週間待たされました。所要で今帰りました。で、まだ、読んでいません。ざっと見、専門性depthが深くなっている、対象物件が少し多くなっている。って感じですかね。



 長友のパスも良かったけど、⑲李忠誠のボレーキック、絵に描いたようにきれいだったよね^^まだ、みんな寝てるか・・・・


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(330) 『倭国副都難波宮で先鞭の天下立評(評制)を、後の藤原京での原・大化改新(郡制)で覆い隠し亡きものにした』 2011年1月30日(日)

 私が、この前の指摘で、〔法隆寺移築説の原点である観世音寺・考:米田良三論〕には、『筑紫の京は531年の“磐井の乱”後、城壁都市として再興されていました。664年唐軍の占領により、城壁が解体され(城壁の跡に造られた土盛りが水城)、京の『源氏物語』的世界は崩壊し、人々は不安と絶望の中に落されます。さらに672年5月以降は、扶桑国軍(大和朝廷)により観世音寺が解体・移築され、筑紫の人々も強制的に移住させられ、平城京や京都を中心に住まわされたと考えられます。』

 とあります。が、この『672年5月以降は、扶桑国軍(大和朝廷)により観世音寺が解体・移築され云々』の文中にある《扶桑国軍(大和朝廷)》なる実態は何か、今一気になる所です。



 この《扶桑国軍(大和朝廷)》なる実態は何か、今一気になる所です。

 ●⇒何故気になるかですが、米田良三氏は私が主張の〔大和朝廷「日本国」出生秘話:大和王朝は (難波副都で 「天下立評」 した) 九州王朝倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 だ〕即ち「常色改革」以降を理解されているかですね。



 私が主張の
〔大和王朝は (難波副都で 「天下立評」 した) 九州王朝倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 だ〕
は、
『古賀達也氏の前期難波宮九州王朝副都説』
が、
原点であることは言うまでもありません。



 〔「倭国」難波副都での「天下立評」を「原・大化改新」で覆い隠した〕即ち、『九州王朝「倭国」が副都難波宮で先鞭の天下立評(=評制)を、のちの藤原京でのプロト大化改新(=郡制)で覆い隠し亡きものにしたもの』
と言えます。



 続日本紀元明天皇708年〔「詔により大宰府観世音寺を「造り」、また法隆寺を「作る」〕と同じ「つくる」の発音に「造り」と「作る」の、漢字で異字がわざわざ当てられている事に触れ「特別な意味を伝えたかったのだろうか」と『続・法隆寺は移築された:米田良三著』に書かれている。私もそう思う。



 漢字辞典では、〔造:①拵こしらえる②もうける・建設する③はじめる④・・〕〔作:①拵こしらえる・組み立てる・生み出す②もうける③育てる④はじめる・おこす⑤・・〕とあり、造・作:いずれもあまり差が無いが、①で、こしらえるは同じだが、作の①には、組み立てるがある。移築を示唆してるかも。


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(331) 『天武天皇は二人いた、の傍証「帝位に即いた」、他の天皇は「天皇位に即いた」』 2011年1月31日(月)
 

 日本書紀は、『2月27日、(天武)天皇は有司に命じて壇場を設け、飛鳥の浄御原の宮で、「帝位に即いた」』と書いている。ちなみに、他の天皇の持統・天智・斉明・孝徳・皇極・舒明・推古の各天皇は、「天皇位に即いた」と書いてるにも関わらずだ。これは、倭王「薩夜麻」の白鳳王即位かも知れない。



 これは、
〔〔参照:天武天皇は二人いた(日出島哲雄著)〕
の傍証と考えたい。即ち、「倭王」薩夜麻と、大海人皇子の二人を一人に合算表記して、九州王朝「倭国」を亡き者にし、歴史から抹消したのだろう。



 それに、日本書紀では、他の天皇の「持統・天智・斉明・孝徳・皇極・舒明・推古・等々」の各天皇が「天皇位に即く」というが、韓半島で、安羅国王「安が」一番最初に「天皇」「日本府」を号したのであって。列島内で、一番最初に、「天皇位に即く」のは天智天皇だということだ。  

 天智が「天皇」に即位し、初めて、「日本を号した」のだ。

 次の天武は2人いて、薩夜麻は倭王であり、白鳳王「帝位」に即いたのだ。

 大海人とは「真人」で、倭王「薩夜麻」の配下に甘んじた。晩年、朱雀の2年間は請われて、禅譲されて、倭王の「帝位」に即いただろうが。

 が、空位の数年の後、次は薩夜麻の皇子の高市皇子だ。だがら、当然「天皇」でなく、倭王の朱鳥・大化「帝位」に即いた。高市は、落ち目の倭国復活を願って無理して、評制から郡制への「原・大化の改新」を実行しょうとしたが、プロト大和側の利益に反したのだろう、嫌われて暗殺されてしまう(=原・乙巳の変)。

 持統は「あてうま」だろうから即位してない。
 だから、2番目は文武天皇である。文武天皇以降が、天智の「天皇」「日本」を踏襲したのだ。  


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(332) 『しばらくして、移築を認める内容の手紙をいただいたのはその償いかも知れない』 2011年1月31日(月)

 『続・法隆寺は移築された:米田良三著』がやっと手に入ったわけだ。

『「6.法隆寺移築説の骨子」の項に

 684年(678年は筑紫地震)の白鳳地震と法隆寺移築とは密接な関係があることを〔2.達磨落とし〕でのべた。ここで法隆寺は筑紫の観世音寺を移築したものという法隆寺移築説の骨子を紹介しておきたい。

 法隆寺移築説(1989年)を唱えて丸22(x12)年が経つ。建築史学会の重鎮には当然読んでいただいたが、極端な内容であるたまか、まともな反応は貰えずにいる。奈良の薬師寺の工事事務所に「西岡常一氏」を訪ね、解体修理工事の時の話を聞けたのは幸いだった。

 めずらしい人に会うからと、その場に今の建築学会長の「仙田満氏」を誘ったことが思い出となった。そのためか、細かな部分の質問には丁寧に答えてもらったが、『移築を示す内容は何もない』の一点張りであった。しばらくして、移築を認める内容の手紙をいただいたのはその償いかも知れない。


 その後、「太田博太郎氏」のご教示で解体修理工事の責任者であった「浅野清氏」に会って話を聞いた。前もって送っておいた本を読んでくれていることは、質問に対する答えから分ったが、 まだ読んでいないと言い続けられた。肝心の話は西岡氏と同じで、『移築を示す内容は何もない』の一点張りであった。

 これは、正直に言って驚きであった。』と書かれている。



 私に言わせれば、西岡常一氏にしても、浅野清氏にしても、お偉いさんかも知れないが、情けない金玉のついてない奴らだ、である。『両氏とも、俺達に「法隆寺が移築だ」とは言わせないでくれ、と哀願したのだろう』ともかく、『移築を認める内容の手紙をいただいた』とある、ぜひ公開して欲しいものだ。



 解体修理報告書の緻密で正確な記録内容が、「移築を証明してる」。まぁ、仙谷由人の尖閣諸島中国漁船衝突事件隠蔽にしても、公開してくれた海保マンを逮捕する国だ。それにしても、そう迄して何を守ろうとしているのだろう。誰かに脅されているのだろうか。隠す必要がどこにあるのだろうか、不思議だ。



 いまもって、NHK 巻向遺跡の発掘。『邪馬台国を掘る』なんて、税金でやってる。このピンボケ振りはどうして起こるのだろう^^不思議だ。そう、信じ込んでるということか。移築を認めると「法隆寺が世界遺産」でなくなるとでも思っているのだろうか、薬師寺の534年創建の古さで負けるからか^^


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(333) 『大唐の大使郭務悰が天智天皇のために造った阿弥陀像を送りたてまつれ』 2011年1月31日(月)

「日本書紀:持統紀」6年(高市即位3年)692年壬辰(九州朱鳥7年)5月15日、筑紫の太宰率河内王らに詔して、「沙門を大隅と阿多とに遣わして、仏教を伝えるがいい。また大唐の大使郭務悰が近江の大津の宮で(天下)御した天皇(天智)のために造った阿弥陀像を、送り上たてまつれ」といった。



 この記事は、私の「壬申大乱は唐の倭国再統合戦だ」という見方で、「郭務悰が天智天皇のために造った阿弥陀像」を解釈すると、「倭国筑紫占領軍総帥郭務悰が、長門以東独立宣言の近江朝天智天皇、即ち、いわば敵軍の将の天智天皇の為に阿弥陀像造った」となり、今一しっくり来なかったのだ。



 ところがである、『続・法隆寺は移築された:米田良三著』「7.大仏」項の中ほどには、次のような全く異なる見解が紹介されている。

 『600年代には小倉山の大仏は阿弥陀如来と認識されていた。
④の692年の持統天皇の命令は「大唐の大使郭務悰が天智天皇の為に造った」がカムフラージュで、小倉山の阿弥陀仏像を京に送るように命じた記録と思われる。
 つまり、小倉山の大仏が奈良までその距離450kmを運ばれたのであり、材料の銅が(山口県美東町)長登から奈良へ運ばれたのではない。もちろん大仏殿を解体しなければ大仏は動かせない。法隆寺と同様に大仏殿も解体され、移築されたと考えられる。』

 私は、郭務悰が造った阿弥陀像は30cm位の小像を想定してたが、なんと、東大寺の大仏だったか。いやー、ぎゃふんである。

 この解釈だと、大宰府から難波副都へ遷都直後、まもなく、遷都先の難波副都が焼失したが為、「借り宮」浄御原宮に即位した倭王「高市」は、代替の「藤原京」を早急に造営の詔した。筑紫にあった建物を手当たりしだい移築するように指示した。となる。



 更に同書『続・法隆寺は移築された:米田良三著』「11.山田寺」項p67には、

 『解体修理工事という過去の痕跡を捜し求める工事手法と、落書きを消し去った木の表面からその落書きを写し取ることの出来る赤外線写真という現代技術が現れたことで、1300年の封印の中にあった倭国が明らかとなったのである。
 移築論から導かれるのは『日本書紀』が大和朝廷の都合の良いようにまとめられた捏造歴史書以外の何者でもないという結論である。
 津田が言うような神代だけでなく、全体に渡って捏造がおこなわれている。』

 とあって、アプローチの方法は違えど、私の
〔大和朝廷「日本国」出生秘話〕
と同じ結論に達っしている。

 このことは、心強いことに、「米田氏の移築論」を更にサポートする、古田武彦氏・古賀達也氏・正木裕氏の古田史学の会員が「持統天皇の吉野行幸が34年前の倭国の倭王の吉野基地での閲兵行幸である」と結論し、この手法は更に他の項目にも拡がりを見せ、多くが実証的に裏づけされて来つつあることだ。



 古田武彦氏・古賀達也氏・正木裕氏、古田史学会員が「持統天皇吉野行幸は34年前の倭王の佐賀県吉野基地での閲兵行幸である」と結論しました。という事は、日本書紀は原本の主に倭国史・秦国史、他に吉備・出雲・加賀・尾張・毛野の年次別各記事を短冊にしずらして切り貼り、為に一見正しく見えます。


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(334) 『何故「東面回廊は、倒壊したままの状態で」放置されたか?』 2011年2月2日(水)

『続・法隆寺は移築された:米田良三著』「11.山田寺」項p71に、

『扶桑国の寺院は天皇家の寺院である飛鳥寺、蘇我氏の山田寺、その他若草伽藍、四天王寺等の寺院である。
 飛鳥寺の伽藍配置は平壤の清岩里廃寺の伽藍配置と全く同じに造られていたし、他の寺院も飛鳥寺の伽藍配置を簡易にしたものが造られていた。
 この時代には多くの高句麗の僧が近畿地方に来て、これらの造寺に関わっていたと考えられる。年代がわかることで代表的な高句麗系寺院が、山田寺である。造寺の誓願は641年、金堂が造られるのは643年、676年には塔が完成する。

 672年に倭国(この時点では日本国)を征服した扶桑国は大和朝廷を名乗り、700年頃には日本国の天皇を表明する。
 倭国滅亡后の684(x678)年、高知沖を震源とする白鳳地震が起きる。第1級の地震(おそらくM9ほど)であり、近畿地方の高句麗系寺院はほとんどが倒壊する。
 山田寺の金堂は倒壊したし、2年前に造られた塔も倒壊した。
 土の中から倒壊したままの状態で発見された東面回廊は、この地震の液状化現象で瞬時に泥海の中に沈没し、そのまま保存されていたものである。』

 と書かれているが、この記事ついて、私は色々米田氏に確認したい次の内容がある。



疑問①、扶桑国の寺院は天皇家の寺院である飛鳥寺、蘇我氏の山田寺、その他若草伽藍、四天王寺等の寺院である。 ⇒扶桑国とは、=天皇家・蘇我氏の国。ならば、どこか扶桑国の名前の片鱗があるはずだが、私の言う隋書「秦国」のこととはちがうのか?

疑問②、672年に倭国(この時点では日本国)を征服した扶桑国は大和朝廷を名乗り、700年頃には日本国の天皇を表明する。 ⇒倭国を征服したのは、〔扶桑国=大和朝廷=日本国=天皇〕ならば、日本国正史『日本書紀』は倭国を征服したと何故書かないか?

疑問③、土の中から倒壊したままの状態で発見された東面回廊 ⇒何故「東面回廊は、倒壊したままの状態で」放置されたか?



 「何故に、山田寺の東面回廊は、倒壊したままの状態で放置されたのか」

 私は単純に考えて、山田寺が大和朝廷の寺院であるならば、「山田寺の東面回廊が地震で倒壊した時、すぐさま修理・再建し、倒壊のままの状態で放置しない。」と考えます。放置されたということは大和朝廷の寺でなかったからです。

 更に敢えて言えば、真の所有者はそれ以前に、たぶん、近江朝の滅亡と同時期に、滅亡していた。と考えられます。



「隋書」俀国伝中に、

『明年(大業4年:608年:推古16年)、上、文林郎裴清を遣わして俀国に使いせしむ。百済を渡り、行きて竹島に至り、南に聃羅を望み、都斯麻国を経、迥かに大海の中に在り。又東して一支国に至り、又竹斯国(=筑紫・九州島)に至り、又東して秦王国に至る。其の人華夏に同じ。以って夷州と為すも、疑うらくは明らかにする能わざるなり。又十余国を経て海岸(=九十九里浜海岸)に達す。竹斯国より以東は、皆な俀に附庸す。』

 やはり、「日本書紀」は、上記「隋書」俀国伝中に記載の『俀国』及び『秦王国』を意図的にそのすべてを抹殺している、とわかる。

 詳しくは、
〔大和王朝は(難波副都で「天下立評」した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ〕
を参照方お願いします。








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