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《 大和朝廷の 「はしり」 は、 「 難波朝廷 ( なにわのみかど=九州王朝「倭国」の難波複都 )」 に始まる 》  即ち、大和朝廷「日本国」 は、九州王朝「倭国」の 【 同じ血族・分流・分家 】 である。


大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 009 》



大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕

《 大和朝廷の 「はしり」 は、ここで言う 「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」 に始まる。
  即ち、大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」【 同じ血族・分流 】 と分かった。 》



 白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、日本全国 長門以東を実効支配したが、その司令官が「両京制」・「兄弟王朝」である 倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 である。
 日本書紀の〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇はこの倭王家 〔分家の弟王家〕 の出身である。
 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権 の禅譲を受け をクーデター「プロト大化の改新」で乗っ取り、倭国連邦の解体・改組してのち成立したのが、奈良の中央集権国家・文武天皇(大宝元年:701年)の大和朝廷『日本国』である。いわば倭王家 〔分家の弟王家〕 はプロト大和朝廷である。


“とうやん”@t0_yan 「つぶやき:twitter」

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2010年 4月 2日 発行




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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』


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(287) 『やはり、おかしい。「英国公使館を襲った」《半年后に》、井上馨・伊藤博文らはその「襲った英国へ出航」している。』 2010年12月8日(水)

 そもそも、大和朝廷「日本国」がどのように出生したのか、日本書紀のいう神武の東征からというのは正しいのか。を語るのが、ここでのtweetである。私はホームページ〔九州王朝「倭国」〕、を補うつもりでtweetしていて、更に、ブログ〔倭国の遺跡スポット・ジオログ〕に転載・整理している。

 先日NHKの大河ドラマ「龍馬伝」が終わった。龍馬は「大政奉還」と同時に進んでいた「南朝革命」を知っていたのだろうか。いわゆる「7卿落ち」の成果をおおっぴらに語る者は、私のような馬鹿を除いていないだろう。慶喜は奉書を天皇に差出す際にひょっと御簾の中を覗くとあわてて大阪城へ兵を引く。

 大阪城から江戸城まで、軍艦に乗って急遽取って返したのだ。そのあわてぶりは、「知る人ぞ知る」だ。

-何故・なぜなのか-、

 慶喜は大政奉還后、議会をつくり、自分はその議長になる計画だったという。が、御簾のなかを覗いたがために、すべてを知ることになったのだ。

 この龍馬らが画策した「大政奉還」は従来の地方分権制の「幕藩体制」は維持しつつ、攘夷佐幕派の孝明の「天皇制」に復帰するもの、と少なくとも、慶喜は幕府から朝廷へ将軍職は返上しても支配実権は従来通り自分にある。謂わば、「まやかしの大政奉還」の“はず”だったのだろう。が、御簾越しに見る天皇は、孝明でもなく、睦仁でもなく、全く見ず知らずの「明治天皇」だったのだ。戊辰戦争は朝廷を頭に中央集権制の「廃藩置県」迄の「国民の一大意識改革デモンストレーション」だったと言えよう。だから「錦の御旗」「鼓笛隊の♭宮さん♪宮さん♪お馬の前でひらひらするのは何じゃいな♯」だったのだ。

 御簾の内に座っていたのは大室寅之助・後の明治天皇だったのである。このあたりを詳しく知りたい方は、「明治維新の生贄(長州忍者外伝):鹿島昇・松重正・宮崎鉄雄裏共著」及び、「裏切られた三人の天皇(明治維新の謎):鹿島昇著」を読まれることをお勧めします。仰天霹靂の事実が記述されている。

 鹿島昇氏については今更で、松重楊江氏についてはだれ?という感じかな。で、「日本史のタブーに挑んだ男」が著名か。「2人で1人の明治天皇」等があるが、その巻末には年表があって、1862年12月の項に「高杉ら品川御殿山の英国公使館を襲う」翌年1863年5月「馬韓で外艦船砲撃、相次ぐ報復攻撃を受ける。井上馨・伊藤博文ら英国へ出航」更に、1863年9月23日「西洋の情報入手のため派遣された井上・伊藤ら一行はロンドンに到着」とある。

 と、なっている。が、(私はこの「英国公使館襲撃」事件は、非常に重要な出来事だと思っている。何故か、これこそが南朝革命・薩長同盟・明治維新の突破口となったと)

 私には、む・む・むってところもあるのだが、真実は多分こうだろう。「高杉ら10余人は、襲撃を実行した」が、失敗して、英国公使館員に捕縛されてしまった。 英国公使館は、仏国の幕府操縦に対抗すべく彼らを利用しょうとした。捕まったとは格好悪いから書かれていないだけだと。

 1862年12月の項に「高杉ら品川御殿山の英国公使館を襲う」この時期、半年后にいきなりである。翌年1863年5月「馬韓で外艦船砲撃、相次ぐ報復攻撃を受ける。井上馨・伊藤博文ら英国へ出航」更に、1863年9月23日「西洋の情報入手のため派遣された井上・伊藤ら一行はロンドンに到着」だ。 やはり、おかしい、どうみてもおかしい。「英国公使館を襲った」の 《半年后に》、 井上馨・伊藤博文らはその「襲った英国へ出航」しているのだ。だから、「関門海峡の彦島が英国の植民地にならない」ですんだのだろう。

 ついでに、おまけに付け加えておこう。この時の英国公使館・員のバックには、ユダヤの富豪ロスチャイルドがいた。と。更には、今も。と。・・・・すべてが納得出来ませんか?

 この『高杉ら品川御殿山の英国公使館焼き討ち事件』前後の史実関係は、
〔萩藩明治維新への歩み(年表):萩商工会議所発行〕
が、分かりやすい。


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(288) 『淑人(よきひと)の よしとよく見て 好(よ)し言ひし 芳野吉(よ)く見よ 多良人(たらひと)よく見』 2010年12月12日(日)

 『壬申大乱:古田武彦著』の中で、万葉集27天武天皇歌〔淑人(よきひと)の よしとよく見て 好(よ)し言ひし 芳野吉(よ)く見よ 多良人(たらひと)よく見〕p155、氏はこの歌の『淑人(よきひと)』は唐の郭務悰だと言う。が、私は唐より帰国直後の倭国「白鳳王」薩夜麻ではないか考える。

 天武は『淑人(=倭王薩夜麻)』が、『よしとよく見て(=きっと了解してくれると読んで)』、『好し言ひし(=分かったそれで良いと言ってくれた)』更に、『芳野よく見よ(=郭務悰へこの作戦でどうだ、良く検討するように)』と、『多良人よく見(= あの時倭王薩夜麻が賛成してくれて良かった)』

 倭王が白村江戦で敗れ唐の捕虜となり、倭王が不在となった直後の難波複都倭弟王家の中大兄皇太子と大海人皇子との会話が『長門以東は朕がとろう。筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え。ひんぴんと報告しなくともよい』だ。天武は薩夜麻の息子高市皇子と協力し、唐の郭務悰の占領政策に対応したはず。

 一方、中大兄皇太子は長門以東を唐の侵略から防衛し、667年倭国から独立。近江遷都、天智天皇即位。668年、新羅に「阿麻来服」。670年、天智天皇の「近江朝」が「倭国」更えて「日本」号すだ。これに対し、この分裂した倭国の再統一の為、唐が用意した隠し球が「薩夜麻の帰国・白鳳王復位」だろう。

 以上の状況を踏まえ、〔淑人(よきひと)の よしとよく見て 好(よ)し言ひし 芳野吉(よ)く見よ 多良人(たらひと)よく見〕の天武万葉歌27を、理解しょうとすれば、『淑人(=倭王薩夜麻)』『芳野(=郭務悰)』『多良人(=倭王薩夜麻)』であってもおかしくないと思えるのだが如何?

 初めに、韓半島で500年代初頭に、安羅国王安が、天皇・日本府を名乗る。次いで、日本列島内で、倭国から長門以東を独立の近江朝の中大兄皇太子の天智が667年「天皇」位に即く。670年、近江朝が新羅に日本国を号し。更に、大和朝の軽皇子が697年文武天皇即位、701年大和朝が唐に日本国を号した。と理解できる。

 思うに、倭国の大宰府倭京から難波京へ遷都、難波京焼失、「間借り」浄御原京へ遷都、ようやく完成の藤原京へ遷都。倭王高市天皇にとって、そこでの696年「プロト大化改新」発詔は、「いよいよこれからだ」だったでしょうね。だが、詔の内容がプロト大和朝廷側に、余程不利だったとみえて暗殺されてしまう。

 この暗殺は「696年7月10日後皇子尊(=高市皇子)が薨じた」とさらっと書紀には書かれているが、これが645年6月12日の「乙巳の変」の元になっている。696年「プロト大化改新」は、書紀大化2年(=646)正月1日の「大化改新」の元になっている。もう、皆さんも、お分かりでしょう。

 「日本書紀継体紀527年(継体21正和2)8月1日天皇は親しく斧鉞をとって、物部麁鹿火大連に授けて 『長門以東は朕がとろう。筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え。ひんぴんと報告しなくともよい』 といった」⇒倭王が不在となった白村江戦直後の中大兄皇太子と大海人皇子との会話が元だ。

 もうみなさん、お分かりでしょう。『日本書紀は史実をそっくりそのまま書き表すと、「倭国」「秦国」の表現をせざるを得なくなる。その場合、日本書紀はその虚構性を暴露することにもなる。で、そういった箇所は日時・時代を、前後にずらして別の出来事として、書き込んでいる』みたいだと分かると。

 日本書紀の「壬申乱」は矮小化されていて、本来の「壬申乱」は唐が白村江戦で拘留の倭王薩夜麻を解放帰国させ、復位と倭国再統一戦であって、郭務悰・高市皇子・大海人皇子の唐占領・筑紫倭国連合軍が長門以東近江朝「日本国」の大友皇子軍を瀬戸内海ルートで征服する戦況戦歴が隠されていると分かる。

 ということは、日本書紀の「壬申乱」は矮小化されていて、本来の「壬申乱」は倭国再統一戦であって、郭務悰・高市皇子・大海人皇子の唐占領・筑紫倭国連合軍が長門以東近江朝「日本国」の大友皇子軍を瀬戸内海海上ルートで征服する戦況・戦歴が書紀のどこかに書き込まれているはずだ、と推察できます。


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(289) 『淑人を古田武彦氏は唐の郭務悰だと言うが、唐より帰国直後の倭王薩夜麻ではないか』 2010年12月14日(火)

 『壬申大乱:古田武彦著』の中で、万葉集27天武天皇歌〔淑人(よきひと)の よしとよく見て 好(よ)し言ひし 芳野吉(よ)く見よ 多良人(たらひと)よく見〕p155、氏はこの歌の『淑人(よきひと)』は唐の郭務悰だと言う。が、私は唐より帰国直後の倭国「白鳳王」薩夜麻ではないか考える。

 倭王が白村江戦で敗れ唐の捕虜となり、倭王が不在となった直後の難波複都倭弟王家の中大兄皇太子と大海人皇子との会話が『長門以東は朕がとろう。筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え。ひんぴんと報告しなくともよい』だ。天武は薩夜麻の息子高市皇子と協力し、唐の郭務悰の占領政策に対応したはず。

 『淑人(=倭王薩夜麻)』の発想は、『薩夜麻(=白鳳王)の父は大宰府の甘木王(=常色・白雉王)であり、その甘木王の弟が難波副都常駐・天下立評を甘木王に命じられた伊勢王である。更に、伊勢王の皇子が中大兄皇太子、大海人である。で、薩夜麻と大海人はいわば、本家と分家のいとこ同士とならないか。

 然し、九州王朝「倭国」の大宰府・甘木王と難波副都・伊勢王が実の兄弟だったか?あるいは、古田武彦氏が指摘する「倭国は兄弟王朝制だった」の兄王家・弟王家の出身だったか?は詳しく分からない。また、伊勢王の皇子が中大兄皇太子と大海人皇子である。も、「斉明天皇のモデルが伊勢王だ」とした場合にである。

 〔古田武彦氏は『壬申大乱』で、『淑人(よきひと)』は唐の郭務悰だと言う。が、私は唐より帰国直後の倭国「白鳳王」薩夜麻ではないか〕では、何故そう思うか、薩夜麻は「白鳳王」即位后、大嘗祭もままならず、白村江戦に出征自ら陣頭指揮した。確かに負け戦で捕獲連行されたようだが、王の帰国を倭国民は待ちわびた。

 〔薩夜麻の「冤罪」Ⅰ〕
で正木裕氏は、『大伴部博麻の恩賞のもととなった行動とは、「博麻が、筑紫君薩夜麻の封禅の儀への参加を知り、自ら身を売ることによって、氷連老らが倭王薩夜麻に謁見し、その消息と「天意」を倭国(本朝)に報告すること。そして、封禅の儀で倭王と倭国の体面が保てるよう尽くした事」だ。』と言い。

 『冊府元龜の麟徳二年(六六五)年十月丁卯記事によれば、「突厥・于[門/眞]・波斯・天竺國・ケイ*賓・烏萇・崑崙・倭国、及新羅・百濟・高麗等諸蕃酋長、各率其屬、扈從(こじゅう=主君のお供をする)。」と、封禅の儀に倭国の酋長が洛陽から泰山へと高宗に扈從している。また旧唐書によれば同年、仁軌は泰山で倭の酋長を高宗に引き合わせている。高宗は極めて悦んだと言う事のようだ。そして、自ら唐に赴いたか、捕虜となって連行されたかは別として、唐にいた倭国の人物で、仁軌が領(ひきつれ)たという「倭国の酋長=倭王」にふさわしい名を持つ者、それは書紀を見る限り「筑紫君薩夜麻」以外には無いのだ。』と言う。

 私が思うに、唐の高宗は倭王薩夜麻に会っている。そして、極めて悦んだのだ。薩夜麻に何か高宗を惹きつける何かがあった、と。

 〔壬申大乱〕古田武彦著p174に『郭務悰その人が「吉野と有明海」の一帯を支配していた、と思われるのである。その吉野に大海人皇子は来たのだった。「物思い」にふけりつつ、やってきたのだろう。
 亡き兄天智天皇の遺言(大友皇子への補佐)と、大友皇子との決定的な対立、そのための「決断」の日を求めつつ、この「肥前、吉野の国」の山道を、その孤立の道を辿っていたのではなかろうか。
 その“会うべき人”それはもちろん「(倭国制圧の)全唐軍の総司令官」以外になかった。「朝散大夫」(従五品下)の位官をもつ、大国唐の官僚にして軍人だ。その人に対して、「淑人」-「良人」として“呼びかけ”たのだった。』とあって、『淑人(よきひと)』は唐の郭務悰だと語られている。

 『淑人(よきひと)』は唐の郭務悰だと語るが、

 はたしてそうだろうか、私は郭務悰は、全唐軍の総司令官かもしれないが、所詮、「朝散大夫」(従五品下)の唐の官僚・軍人にすぎないと思うのだ。

 が、薩夜麻は負けたとは言え「倭王」君子、まさに「詩経」でいう「淑人・君子」である。薩夜麻は帰国後、大宰府に入らずに、
 大宰府吉野を避け、多良にひとまず落ち着いたのではないだろうか、唐の進駐占領軍の庇護のもとにあったともいえる。
 この時、軍都・吉野にいたのは、唐総司令官・郭務悰だったと。
 更に多良人だが、多良・太良・太郎であり、今の長男⇒これは暗に、国王を意図しているのではないか、「掛詞」だろう。

 天武は『淑人(=倭王薩夜麻)』が、『よしとよく見て(=きっと了解してくれると読んで)』、『好し言ひし(=分かったそれで良いと言ってくれた)』更に、『芳野よく見よ(=郭務悰へこの作戦でどうだ、良く検討するように)』と、『多良人よく見(=あの時倭王薩夜麻が賛成してくれて良かった)』


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(290) 『この伊勢王こそ、「遷都平城京1300年祭」の奈良朝、大和朝、近江朝、プロト大和朝、のいわば「始祖王」だ』 2010年12月16日(木)

 『淑人(=倭王薩夜麻)』の発想は、薩夜麻(=白鳳王)の父は大宰府の甘木王(=常色・白雉王)であり、その甘木王の弟が難波副都常駐・天下立評を甘木王に命じられた伊勢王である。この伊勢王こそ、プロト大和朝、大和王朝「日本国」の始祖王だ。更に、伊勢王の皇子が中大兄皇太子、大海人だによる。

 逆に、この伊勢王こそ、今やってる『遷都平城京1300年祭』の奈良朝、大和王朝「日本国」、天智近江朝「日本国」、プロト大和朝、のいわば『始祖王』なのだ。更に、伊勢王の皇子が中大兄皇太子、大海人である。で、薩夜麻と大海人はいわば、本家と分家のいとこ同士となるだろう。

 〔白村江戦で唐・新羅に敗れ捕われたのは、九州王朝「倭国」の薩夜麻(=白鳳王)である。薩夜麻の父の甘木王(=常色・白雉王)は「常色の改革」を断行する。その甘木王の弟が難波副都常駐・天下立評を甘木王に命じられた伊勢王である。〕という見解がないと『淑人(=倭王薩夜麻)』は理解できない。

 敢えて言えば、古田武彦氏は以上のことに「壬申大乱」著作時気付かれていなかったということだ。特に、白村江戦以降、壬申乱頃の日本が、唐被占領「倭国」と「大和近江朝」が単に並行存在という見解だと、『淑人(よきひと)は唐の郭務悰』が自然で、とても『淑人(=倭王薩夜麻)』にならないだろう。

《 注意 》 天武天皇についての煩雑な表現をしているお詫びと、そのわけをここで説明しておく必要があろう。
日本書紀は、673年(天武2年:白鳳13年)2月27日の項に、
●『〔天武〕天皇は、 —略— 帝位に即いた。正妃を立てて皇后とした。后は草壁皇子 「尊」 を生んだ。—略—』
○『天皇ははじめ、鏡王の —略—次に胸形君徳善の娘、尼子娘を納れて、高市皇子 「命」 を生んだ。—略—』
 同じ天武天皇の皇子に 「尊」「命」 の異なった「みこと」表記がされていて出典が違うことがわかる。
 同時に「二人で一役」の合成人間であることもわかります。
●大和王朝:「難波副都倭弟王家」出身の 天武天皇(=大海人皇子・持統の夫・草壁皇子 「尊」 の父)
○九州王朝:「大宰府倭兄王家」出身の 天武天皇(=明日香皇子・薩夜麻・白鳳王・高市皇子 「命」 の父)
 日本書紀が天武天皇を、「二人で一役」の合成人間で記述することは、全編を通じて九州王朝「倭国」を抹殺するが為でしょう。しかし逆に、九州王朝「倭国」を抹殺してるよ、と教えてくれてもいます。さらに、このことは高市皇子 「命」 が九州王朝:「大宰府倭兄王家」の出身であることを、はからずも我々に教えてくれてもいます。
〔参照:天武天皇は二人いた(日出島哲雄著)〕


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(291) 『「壬申大乱の駅鈴問題」と「古代の大動脈・大宰府道」について』 2010年12月17日(金)

 「壬申大乱」第5章壬申大乱の真相で、古田氏は天武紀(上)記事には数々の「?」があるとして、第一は駅鈴。第二はその留守司。第三は「虎翼」。第四は「倭京」。の各問題を挙げられている。また、古田史学会報NO100には、「古代の大動脈・大宰府道を歩く:神戸市岩永芳明氏」が投稿されている。

 「倭京」は大宰府で、「留守司」は白村江戦で捕囚の倭王薩夜麻が出征時に大宰府に置いた役職という理解で良いだろう。「虎翼」についてはともかくも、ここでは「駅鈴」であろう。「駅鈴」が壬申乱時672年に既にあったということは、古代の大動脈・大宰府道もあったと見て良いと思うが如何でしょう。

 私は、山陽道は倭国の首都:大宰府と、副都:難波京を結んでいたと考えている。ということは、652年に副都:難波京が完成しているので、同時期に完成したと考えています。先の「古代の大動脈・大宰府道を歩く:神戸市岩永芳明氏」によると、『「古代の道は狭くて曲がりくねって」というのは間違い。

 駅路は両側に側溝を備え、道幅は10~12m、現在の4車線道路とほぼ同じ幅員で、目的地に最短距離で到達するように直線的経路を辿っていることが、発掘調査等で明らかになっている。駅馬は20疋が標準、駅家間は平均9.4Kmで、瓦葺で白壁の駅館が建つ、云々』と書かれ、自身も歩かれた模様だ。

 捕囚の倭王「白鳳王」薩夜麻が671年、唐から解放・帰国している。同年、天智天皇が崩御している。翌672年、薩夜麻の倭王復位と倭国再統一宣言によって、壬申大乱が発生したとみて先ず間違いないだろう。

 さて、壬申大乱の『日本書紀』記事は九州北部の戦況を近畿に地名遷移で移植したものと考えているが、九州から、瀬戸内海沿いの海上・陸上ルートで、近江朝大友皇子を襲撃した戦況、唐進駐占領軍、高市皇子倭国軍、大海人軍の連合軍襲撃状況がそっくり漏れていないだろうか。

 それにしても、「駅鈴」は何に使われたか、私が思うに、ちょうど、戊辰戦争時の「錦の御旗」替りに使われたのではないだろうか。

 先の「古代の大動脈・大宰府道を歩く:神戸市岩永芳明氏」の投稿に、『古代の道は狭くて曲がりくねって、というのは間違い』とある。私も故郷近辺は土地勘があり《なるほど》と実感できる。現2国は拡幅したものとてっきり思っていたが、旧山陽道沿いに、現2国は走っていて、ほぼ変わってないようだ。

 以下はほんの一部抜粋ですので、悪しからず。

 『22日目(2010年)4月17日(土)岩国(8時2分発)~周防・高森(16時24分着)48,998歩。

 JR西岩国駅(旧岩国駅)を通り、錦帯橋を訪ねる。対岸に吉川広家が築城した岩国城が見えるが、先を急ぐ。石国駅家比定地の関戸を通過、千体仏(柱野)を経て、欽明路峠の急坂を越える。下りきったところに「歴史の道 旧山陽道」の案内板がある。「周防なる磐國山を越えむ日は手向よくせよ荒しその道(万葉集巻4・567)」と、この峠が周防国の道筋の中で最も険しい処であることを詠ったものといわれている。

 先に進むと「史跡欽明寺」と刻まれた標石があるお寺があった。峠の名前の由来となったお寺で、縁起では「人皇第29代欽明天皇が御幸の際、休息され欽明の名を頂いて寺号とした」と伝えられている。境内には、石垣で囲った「欽明天皇腰かけの石」があった。周防源氏武田氏屋敷後・墓所、岩隈八幡宮、鞍掛合戦千人塚、筏山古墳移築石室を巡りJR周防高森駅に到着。四泊五日の旅を終え、一旦、帰神する。

 23日目(2010年)4月24日(土)周防高森(10時31分発)~徳山(18時36分着)48,594歩。

 一週間ぶりに、JR周防高森駅に立つ。五月の連休中には完歩したいので、一気に大宰府まで歩くことにした。高森天満宮、松原八幡宮、生屋駅家比定地を経由して、花岡宿を通る。花岡八幡宮の境内にある閼伽井坊塔婆を見学する。この多宝塔は、藤原鎌足の創建した日本16塔の一つと伝えられている。JR徳山駅に到着。今日はこれといった史跡がなく地理や景色を楽しむだけだった。』

 JR岩徳線沿い峠越えは当時かららしい。


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(292) 『高校の国語で意味不明な解釈を押し付けられて、一気に嫌な柿本人麿にされてしまった』 2010年12月22日(水)

 思いかけず、高校生の時習った国語で意味不明なもっともらしい解釈を押し付けられて、一気に嫌な柿本人麿にされてしまったことかな。でも、古田武彦氏の解釈は実に的を得ている。「淑人」が唐の郭務悰であろうと、倭王薩夜麻であろうと実に些細な違いだろう、もう一度万葉集を読み直してみようと思う。

 「甘木」を「天帰」と表記し、「天に帰る」大王の挽歌を暗示。「狛剱」は「高句麗剣」ではなく、「百済剣」を意味する。「淑人(よきひと)」は中国の古典『詩経』に繰り返し出現の「淑人君子」。「葉」は「世」と同じ。「生」は一字で「みどりこ」。「越(をち)」といえば中国の呉越同舟で江南地方。

 くどいが、「淑人(よきひと)」は中国の古典『詩経』に繰り返し出現の「淑人君子」で「天武より以上の上位の人・存在である」とまでは分かる。が、更に何故か「その相手淑人は、日本人ではないとし郭務悰だ」とされた。この時点で考えられる天武の上位者は、天智・郭務悰・倭王薩夜麻・(唐の高宗)の3人であろう。

 まーやはり、私ごときは、とてもじゃないけど、万葉集ひとつも理解できないということか。歌が詠まれた環境が正しく理解されていることだろうが、その環境を説明の“まえがき”が「うそだった」とは、「万葉集の中の、人麿の歌は、本来の『作歌状況』を一変させ、“九州から大和へ”移植されている」と

 “まえがき”が「うそだった」となると、「歌の本体そのもの」を、読み取れということだろう。が、「歌の本体そのもの」も「万葉かな」の特徴もあって」、人麿の「葉」は「世」と同じ、「生」は一字で「みどりこ」、など奥深い表現がされているらしい。

 更には、後世、その「うその“まえがき”」にそって書き換えられてる、となると何をかいわんやである。原書に近い平安末成立の「元暦校本」や「西本願寺本」によるべきで、より「後代写本」の「金沢本・類聚古集・紀州本(旧神田本)」は避けるべきだとなろうか。

 古田武彦氏は『あまりに明快な論証は、人を不安に導く。それが旧来の「通念」と相反していればいるほど、そうだ。人間の保守的習性の一つかもしれぬ。』と警鐘をならす。

 『壬申大乱:古田武彦著』終章六に氏は書かれている。『初期万葉の編集者も、自己の編集書たるこの歌集が矛盾に満ちていることを知っていた。“食違い”の続出していることを熟知していたのである。「元の歌集」を持っていたのだから当然だ。では何故“そのまま”の姿で後世に残そうとしなかったのか。

 この当然の問いに対する回答、それはまさに古事記・日本書紀がしめしている。そこでは、実在した「倭国の王朝(=九州王朝)」が“存在しなかった”ように作られている。先にあげた、筑紫君薩夜麻が薩野馬(天智十年十一月)と書かれていることにも、それは示されていた。

 神聖なる「九州王朝の天子」は侮蔑の対象とされたのである。「唐朝に敵対した人物(=日出ずる処の天子)は、これを史上に存在したものとは認めない。」この立場である。その立場に反する「倭国の歌集」も、「柿本人麿作歌」も、一切これらは“存在”を容認されなかったのだ。

 だからこそ、この編者は、あえて奇妙な形で、だれにでも(確かな目で見れば)わかる姿で、この「大和枠」の中に無理やり押し込めた。それによって後代の(心ある人の)発見のみをのぞんだ。----今、そのように理解しえたのである。

 わたしは永らく誤解していた。この編者の「変修」ぶりを憎んできたのである。“あきれた”所業のように見えていた。しょせん、目が浅かったのだ。今は、知った。この「変修」者は、当然この矛盾と“食違い”に、後代の読者が気がつくことを期待した、深く望んでいたのである。

 しかし、1,300年間の大政翼賛会下において、すべての俊秀も専家も目をふさぎ通してきていたのではあるまいか。最近の130年間においては、とりわけそうだった。わたしは早朝、風呂上がりの床の中で、74才にしてはじめて、万葉の編者の志をしったのである。』とその心眼を語られている。


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(293) 『唐の倭国占領政策は行き詰まっていた。その解決策が「倭王」薩夜麻の解放・帰国だった』 2010年12月22日(水)

 近江朝遷都と、天智即位、「阿麻来服」のちの「倭国更えて日本号す」に象徴される「長門以東」の『独立』だ。
 筑紫都督府の唐の(倭国占領軍の現地司令官)郭務悰は倭国の占領政策に行き詰まっていた。これに対し、唐が用意した変化球が「倭王」薩夜麻の解放・帰国だったのだ。

 捕囚の倭王「白鳳王」薩夜麻が671年、唐から解放・帰国している。同年、天智天皇が崩御している。翌672年、『薩夜麻の倭王復位宣言と倭国再統一宣言』によって、「壬申大乱」が発生したとみて先ず間違いないだろう。やはり、日本書紀の「壬申大乱」は矮小化されていて、本来の「壬申大乱」は唐が白村江戦で拘留の倭王薩夜麻を解放帰国させ、復位と倭国再統合戦であったのだ。

 この仮説が成立つのは、薩夜麻が白村江戦で唐に拘留の倭王であった。さらに、天智・天武が倭国の難波副都の弟王家の出身だった。ということだろう。

 〔壬申大乱〕古田武彦著p174に『郭務悰その人が「吉野と有明海」の一帯を支配していた、と思われるのである。その吉野に大海人皇子は来たのだった。「物思い」にふけりつつ、やってきたのだろう。亡き兄天智天皇の遺言(大友皇子への補佐)と、大友皇子との決定的な対立、そのための「決断」の日を求めつつ、この「肥前、吉野の国」の山道を、その孤立の道を辿っていたのではなかろうか。』とあって、ここ迄は私のと同じだ。が、氏は続けて、『その“会うべき人”それはもちろん唐の郭務悰だ』となっている。

 でも、そう、私の場合違っていて、『“会うべき人”それはもちろん帰国直後の「倭王」薩夜麻である』となる。

 薩夜麻は負けたとは言え「倭王」君子、まさに「淑人」である。薩夜麻は帰国後、大宰府に入らずに多良にひとまず落ち着いたのではないだろうか、唐の進駐占領軍の庇護のもとにあったともいえる。

 天武は、帰国直後の「倭王」薩夜麻に拝謁し、再会を懐かしんだと思われる。更に、約10年に及ぶ唐での薩夜麻の捕囚生活を労わったはずである。ここでは、封禅の儀で会った唐の高宗との“やり取り”も、きっと話題になっただろう。

 話がひと段落してのち、薩夜麻の倭国「白鳳王」復位と、白村江敗戦で、「筑紫都督府」と「長門以東近江朝」に分裂した倭国を再統合する計画を話し合ったと思われる。唐の筑紫占領軍は、薩夜麻の「倭王」復位と倭国再統合を見届けて駐留を解き撤収する条件だったのではないだろうか。

 ここでネックになったのが、「長門以東近江朝」の今後であろう。天武案は、「独立」ではなく、白村江戦前の状態の「倭国難波副都委任統治」に戻す案だったはずだ。

 「倭国難波副都委任統治」は、京都と鎌倉幕府との原型だったのではないだろうか。壬申大乱后、天武は、ちょうど「征討・征東将軍」といった地位に即いた、と思うのだ。

 この天武の献策に、「倭王」薩夜麻が賛成してくれた。その時の歌が、まさに、先だっての歌、

 天武は『淑人(=倭王薩夜麻)』が、『よしとよく見て(=きっと了解してくれると読んで)』、『好し言ひし(=分かったそれで良いと言ってくれた)』更に、『芳野よく見よ(=郭務悰へこの作戦でどうだ、良く検討するように)』と、『多良人よく見(=あの時倭王薩夜麻が賛成してくれて良かった)』
 だったのではないだろうか。


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(294) 『「駅鈴」は何に使われたか、ちょうど戊辰戦争時の「錦の御旗」のように使われた』 2010年12月22日(水)

 天武の倭王薩夜麻への献策が受け入れられて、壬申大乱がおっぱじまった。
 ①高市皇子軍は九州島内のアンチ唐勢力の懐柔、制圧だっただろう。
 ②筑紫占領駐留の唐軍は瀬戸内海ルートの海上から、難波副都までを制圧しただろう。屋島城はその時制圧されただろう。
 ③天武軍は、神戸市岩永芳明氏が投稿の「古代の大動脈・大宰府道を歩く」の山陽道を逆コースの、大宰府から難波副都へ、更に近江京へと徐々に勢力を増しながら制圧して行った、ものと推定する。

 それにしても、「駅鈴」は何に使われたか、私が思うに、ちょうど、戊辰戦争時の「錦の御旗」替りに使われたのではないだろうか。

①の高市皇子軍の九州島内の懐柔・制圧状況をそっくり、近畿の吉野・近江に地名遷移を伴って移植したのが、日本書紀の天武上巻「壬申乱」であろう、だから、馬の乗捨て・乗換えの距離が現行と合わなくなっているのだろう。

②の筑紫占領駐留唐軍の瀬戸内海ルート侵攻は日本書紀の記事から外された。

③天武軍の「古代の大動脈・山陽道」の陸上ルート侵攻は、どうだったか。天武にとって「長門以東」は、これからの自分の領地である。敢えて、逆らえば討たざるを得なかっただろうが、極力温存・懐柔が本旨だっただろう。

 ところで、「駅鈴」であるが、難波副都完成の652年から白村江662年までは、大宰府と難波副都との間を頻繁に往来したと思われる。が、白村江敗戦后の、近江朝独立の頃は往来も寂れてたのではないだろうか。壬申乱迄は少なくともそうだったのではと思われる。が、制度は温存されていた。

 天武軍は、「駅鈴」をつけた馬を先頭に、「駅鈴」をカラン・コロン鳴らしながら、きらびやかに着飾った馬を先頭に、薩夜麻の「倭王・復位」を知らしめながら、山陽道をゆっくり、制圧して行ったと思うのだ。(まさに、戊辰戦争の「錦の御旗」である)

 白村江戦迄は、「駅鈴」が倭王の専権事項だったことを、倭国民は徹底熟知していただろうからだ。「駅鈴」が来たことは、「倭王」薩夜麻が唐から帰国し、「復位」したと倭国民へ知らしめただろうからだ。

 天智近江朝の「阿麻国」のちの「日本国」の『独立』も強いて言えば、唐筑紫占領軍に対する『独立』であり、「倭国」からの『独立』ではなかったのだろう。
 したがって、九州王朝「倭国」の王「薩夜麻」が帰国し「復位」したとなれば、話は別だろう。「筑紫」も「長門以東」も元の鞘に収まったということだ。

 日本書紀天武紀上巻に、「大海人が『駅鈴』を「高坂王」に乞ふ」くだりは、
《天皇、従ひて、男依等を返し召さむと思欲す。即ち大分君恵尺・黄書造大伴・逢臣志摩を留守司「高坂王」のもとに遣して、『駅鈴』を乞はしめたまふ。因りて恵尺等に謂りて曰はく、「若し鈴を得ずは、廼ち志摩は還りて覆奏せ。恵尺は馳せて、近江に往きて、高市皇子・大津皇子を喚して、伊勢に逢へ」とのたまふ。
 既にして恵尺等、留守司のもとに至りて、東宮(大海人皇子)の命を挙げて、『駅鈴』を「高坂王」に乞ふ。然るに聴さず。時に恵尺、近江に往く。志摩は乃ち還りて、復奏して曰さく「鈴を得ず」とまうす。》 とある。

 これより、壬申乱の始まった直後、大宰府・留守司の王族「高坂王」は、大海人へ『駅鈴』を渡していない。と言うことは、「倭王」薩夜麻が「多良」に帰国していることを留守司「高坂王」は知らされていなかった。と言うことだ、若しどうしても、『駅鈴』が欲しければ、「高坂王」を切殺して奪えば良いわけで、その后どうしたかも書かれていない。
 では、その後どうしたか?大海人は、唐よりひそかに帰国し「多良」に仮住まいの「倭王」薩夜麻へ使いを遣ってその許可書を得ただろう。「高坂王」は初めて倭王薩夜麻の帰国を知っただろうし、大宰府が大騒ぎに・歓喜に沸いたことは誰の目にも明らかだろう。

 『大宰府と難波副都を結ぶ旧山陽道は、両側に側溝を備え、道幅は10~12m、現在の「4車線道路」とほぼ同じ幅員で、直線的経路を辿っていた。』とのことで、倭国難波副都完成時の白雉改元儀式は652年であり、それまでには完成してたとわかる。当時としては、とてつもない大工事だったのだろう。

 それにしても、「駅鈴」は何に使われたか。思うに、ちょうど、戊辰戦争時の「錦の御旗」だったと思うのだ。
 何故かというと、唐は645年の高句麗への初回派兵以来、660年百済を征服、668年高句麗を征服・滅亡に追いやり、この長期の派兵に国民が倦み、早期撤兵が必要だったのだろう。

 そのうえ、倭国へは直接派兵したわけでもなく、百済復活戦の白村江での対戦である。むしろ、倭国の安定を図り、駐留兵の早期撤兵が計画されただろう。そこで、唐は拘留中の「倭王」薩夜麻を開放し、復位と倭国の再統一を目論んだ。その結果が壬申大乱だと考えるからである。

 こんな「唐」「薩夜麻・倭国」対「日本(=近江朝)」戦争に、たかだか、駅馬20匹を戦闘に駆り出して、はたして何ほどのものだろうか。「駅鈴」を先頭に戦争の終結と、「倭王」薩夜麻の復位と倭国の再統一、平和の再来を、大宰府から難波副都まで喧伝した。で、大友皇子の抵抗はあったとしても、戦闘らしき戦闘は起こらなかったと思うのだ。

 天智近江朝「阿麻国」のちの「日本国」の『独立』も強いて言えば、唐筑紫占領軍に対する『独立』であり、「倭国」からの『独立』ではなかったのだろう。従って、九州王朝「倭国」の王「薩夜麻」が帰国し「復位」したとなれば、話は別だろう。「筑紫」も「長門以東」も元の鞘・倭国に一旦収まったということだ。

 が、それは束の間の倭国だったということでもあるようだ。唐の傀儡政権「薩夜麻・倭国」は、白村江戦後賠償を続け疲弊してゆく。
●678年、追い討ちに、筑紫大地震をはじめ大小さまざまな地震がたて続けに襲う。
●683年、征討将軍・浄御原天武朝へ窮状を訴え協力を要請し、3種の神器(=三つ足の雀)の九州王朝から大和王朝へ貢上。
●684年、更には、大宰府から難波副都への遷都。684年、白鳳大地震。684年、薩夜麻「白鳳王」崩御から大海人への「朱雀王」位禅譲(=2人1役の天武皇位継承)。
●686年、難波京炎上・浄御原遷都。686年、大海人「朱雀王」(=天武天皇)崩御。686年、朱鳥(空位)高市皇子称制(=x持統称制)。
●690年、高市天皇即位(=x持統即位)。
●691年、高市天皇大嘗祭(=x持統大嘗祭)。
●694年、藤原京完成・遷都。
●695年、大化改元・プロト大化改新発詔。
●696年、「倭王」高市天皇暗殺(=プロト乙巳の変)・倭国本体の滅亡。
●697年、文武天皇即位・大和朝廷へ政権交代。
●698年、文武天皇大嘗祭。
●701年、大宝改元・大宝律令制定・大和「日本国」開闢、と続く。


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(295) 『総集編 〔大和朝廷「日本国」出生秘話〕 今年その何たるかを語り終えたかな(1) 』 2010年12月26日(日)

今日は早くも「有馬記念」ですか、この3月から『そもそも、大和朝廷「日本国」はどのように出生したか?九州王朝「倭国」の難波副都に常駐し、天下立評の伊勢王が始祖王だ。』を語って、丸10ヶ月、一通りその何たるかを語り終えたかな。

《参照》
● 〔九州王朝「倭国」
● 〔大和朝廷「日本国」出生秘話
● 倭国の遺跡スポット・ジオログ ⇒ 【大和朝廷は、九州王朝「倭国」 の 【 同じ血族・分流 】である。】

 「白鳳より以来、朱雀以前、年代玄遠にして、尋問明め難し。」『続日本紀』神亀元年冬十月条(724)聖武天皇自らが「白鳳」「朱雀」という九州年号の存在を前提として発言していたのである。九州年号実在の証言としてこれ以上の証言はないのではあるまいか。九州王朝を滅ぼした王朝代表者の言葉だ。

 和風諡号に天□を持つ5代の天皇とは、
・皇極:天豊財重日足姫(あまとよたからいかしひたらしひめ)
・孝徳:天万豊日(あまよろずとよひ)
・斉明:天豊財重日足姫(あまとよたからいかしひたらしひめ)
・天智:天命開別(あまみことひらかすわけ)
・天武:天淳中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)

 郭務悰⇒塔務悰⇒唐無双⇒藤腹無双⇒藤原不比等じゃないかなー。ただ720年に薨去してるので、白村江戦の663年当時は57年前の話となり、85才で亡くなったとして28才の若造になる。そんな若造に唐国が全権大使で熊津都督府から倭国の筑紫都督府へ派遣するかなー、このからくりぜひ知りたい。

 古田武彦氏が主張の王朝多元史観は列島・半島南部の村落が離合集散し部族国家を形成し、倭の五王に統合される過程から、倭国の九州(筑紫島)を本拠に・出雲・加賀・吉備・葛城『秦国』・尾張・毛野(常陸)・任那等を含む連邦国家形成までの歴史観で納得出来ますが、書紀はいきなり大和中央集権です。

 これが天下立評で各附庸王国が律令制の官僚組織の中に組み込まれ、中央集権制の一官衙になった時、各附庸王国の出雲・加賀・吉備・葛城『秦国』・尾張・毛野(常陸)は実質的に解体しました。解体した以降を万世一系の大和一元史観で説明は出来ても、以前の連邦時を大和一元史観で説明するのは無理だ。

 そもそも九州王朝「倭国」が在ったか・無かったかが問題ではない。九州王朝「倭国」が在ったことはとっくの昔に周辺国が認めていることなのだ。では逆に大和王朝「日本国」は在ったかというと『670年新羅本紀文武王10年天智9年に、「近江朝」が倭国更えて日本と号す』が周辺国で一番最初なのだ。

 つい昔と言うか、いわゆる庶民が石鹸を使い出したのはいつごろか?とか、風呂に入りだしたのはいつからか、ハンカチとかチッシュはいつからか、便所は何時から使かいだしたか、生理ナプキン無いとき女性はどうしてたかだとか、私の先祖4代前の16人はどんな顔してたか、とか以外と知らないんですね。

 そんな昨今のことも知らずに、プロト大和時代の1,300年前-1,350年前のことをどうたら・こうたら、知ろうとしているのだ、分からないのが当たり前といえば、当たり前なのだ。女房じゃないがタイムスリップしたらって、皮肉られてしまう。マジ相手にしてくれてない、のだよね^^やれやれ。

 親父が生前言ってた『原爆を爆発させない薬とか方法を考えろ』だが、これって核軍縮・核不拡散条約・非核3原則とかを探るより、意外と簡単に可能なのではないだろうか爆弾の信管に相当する部品を破壊するとかして、機能不全にすれば良いのだ。不発弾にすることが可能なら核を保持する意味がなくなる。

 核保有は国の単位ではなく、むしろ、個人の単位の問題になりつつある。先日、キッシンジャー氏が言ってた。個人がテロとして使用する時代に入ったのだそうだ。簡単に原爆が作られ、使用される時代です。これはもう普通の手段では防げませんね。RT@junjohnmat 『兵器改革より意識改革だ』

 認めたくないかもしれませんが、日本は白村江敗戦と、太平洋戦争敗戦の「敗戦による進駐・占領」を2度経験しているのです。九州王朝『倭国』は白村江の敗戦を期に一気に衰弱し、さらに『壬申の乱』を経て、最期の本来の『プロト大化改新』での696年、倭王「高市天皇」暗殺をとどめに滅亡に至った。


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(296) 『総集編 〔大和朝廷「日本国」出生秘話〕 今年その何たるかを語り終えたかな(2) 』 2010年12月26日(日)

 日本のどぶろく、韓国のマッコリは酒に弱い人種向けの酒といえよう。酒を飲んですぐ真っ赤になる日本人、マッコリ飲んで良い気分になる韓国人、いずれも世界中広しといえども珍しい遺伝形質らしくルーツは中国長江下流域らしい。先に大連での話通り、中国の遼寧・吉林・北華・蒙古のいずれも酒に強い。

 すなわち、日本で一般的な、b遺伝子をもつイネは、朝鮮半島には存在せず、中国大陸の品種に存在する。したがって、日本のb遺伝子をもつイネの品種は、直接中国から渡来した品種に違いないというのである。

 考古学が“短粒米”という米の単純な形状の一致をもって、南部朝鮮からの渡来の一つの重要な根拠としてきたが、遺伝子レベルで詳しく調べると、実は朝鮮半島にはない品種が日本に在った、という鋭い指摘を受けた形なのである。

 天下立評の立役者「伊勢王」が、大和王朝「日本国」の初代であり始祖王である。ということは、「伊勢王」の以前に日本書紀が書き残すの歴史は、いったいどこの国の歴史かだろう。書紀編纂着手が714年で、720年朝廷上程の短期間に史書をでっち上げられない。で、もとになった史書を転記したのだ。

 696年〔持統即位7年:大化2年〕7月10日、後皇子尊『x高市皇子x 0高市天皇o』が薨じた。この記事は、倭国側の暗殺下手人:丹比真人嶋・安倍朝臣御主人・大伴宿禰御行。大和側の暗殺下手人:石上朝臣麻呂・藤原朝臣不比等。らによって倭国最後の王「高市天皇」が暗殺・薨去したもので、645年乙巳皇極4年6月12日の「乙巳の変」のモデルになっていると考えるものです。

 本来の倭国最後の王の高市天皇の暗殺696年「プロト大化改新」があって、これを新羅で実際にあった『毘曇の乱647年』をモデルに書き換えたのが「乙巳の変」である。善徳が皇極へ真徳が斉明へ置換されている。

 ①日本で一般的なb遺伝子をもつイネは朝鮮半島には存在せず、直接中国から渡来した品種に違いない。
②吉野ヶ里遺跡は九州王朝倭国の歴代の王墓であり、その北部九州に限られた甕棺墓は長江中流域の屈家嶺文化~石家河文化期にルーツがある。
③中国南部から離れるほど、お酒に弱い人は少なくなる。
 これらから、九州王朝「倭国」系の酒に弱い日本人はb遺伝子の稲、及び甕棺墓埋葬文化をもって揚子江中流域から、秦の始皇帝に追われるようにして、黄海を渡海し、直接北部九州に着岸・移住したということになろう。


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(297) 『総集編 〔大和朝廷「日本国」出生秘話〕 今年その何たるかを語り終えたかな(3) 』 2010年12月27日(月)

 九州王朝「倭国」は、いつ滅亡したか?それは日本書紀に書いてある。
 『696年〔持統10年(x持統x {高市天皇}即位7年):九州年号大化 2年〕7月10日、後皇子尊『x高市皇子x {高市天皇}』が薨じた。即ち「本来の大化改新」「プロト大化改新」で、九州王朝「倭国」の末王・高市天皇が藤原不比等、らに暗殺された時である。

 では、大和王朝「日本国」は、いつ発足・開闢したか?それは、「続日本紀」に書かれている。
 『697年〔文武元年:大化3年〕8月1日、(文武天皇が) x持統天皇から位を譲りうけてx {高市天皇を暗殺して}、皇位につかれた。『698年〔文武2年:大化4年〕11月23日、大嘗祭を行った。

 とはいえ、国として正式に発足・開闢したのは大宝律令制定以降と言えよう。
 『701年〔大宝元年:文武5年:九州年号大化7年〕3月21日、対馬嶋が金を貢じた。そこで新しく元号をたてて、《 大宝元年 》 とした。 《 初めて 》 新令(大宝令)に基づいて、官名と位号の制を改正した。

 なんと言うことはない。日本書紀に書かれている時代は、九州王朝「倭国」の時代だったのである。  九州王朝「倭国」の時代を、さも、大和王朝「日本国」がずっと昔から奈良に都を置いて、全国を統治していたことにした。倭国・秦国の列島史、及び韓半島史を使ってでっちあげたものだったのですね。

 九州王朝「倭国」がどういう経緯で滅亡に至ったか?更に、大和王朝「日本国」が、いきなり、バトンタッチできたわけでなく、それには、いつ産声をあげて、どういう経緯で力強く成長したのかを解明したのが、、《大和王朝は難波副都で「天下立評」した九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ》である。

●〔 九州王朝「倭国」は、いつ滅亡したか?それは「日本書紀」に書いてある。〕
●〔 では、大和王朝「日本国」は、いつ発足・開闢したか?それは、「続日本紀」に書かれている。〕
●〔 なんと言うことはない。「日本書紀」に書かれている時代は、九州王朝「倭国」の時代だったのである。〕

 『日本書紀継体紀527年(継体21正和2)8月1日天皇は親しく斧鉞をとって、物部麁鹿火大連に授けて「長門以東は朕がとろう。筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え。ひんぴんと報告しなくともよい」といった。』

 ⇒いままで、この句の背景になった史実が思い浮かばなく思案してたが、

 663年9月以降の早い時期に、難波で敗戦の報を受けたプロト大和朝廷の中大兄皇太子は大海人皇子へ『長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え、ひんぴんと報告しなくともよい』といった。

 大海人皇子は筑紫へ渡り倭国の残存部隊の結集と留守居王権として筑紫島を確保。中大兄皇太子は九州島を除く本州・四国を実効・直接支配。

 朕が天智で物部麁鹿火大連が大海人皇子の天武天皇だとしたらどうだろう。大宰府倭兄王家の白鳳王薩夜麻が白村江戦で敗れ自身は唐の捕虜になった。その直後の難波複都倭弟王家の中大兄皇太子と大海人皇子との会話だとすれば、留守居のプロト大和朝廷が、九州王朝倭国のあとがまにそっくり納まろうとしたと分かる。

 天皇は親しく斧鉞をとって、物部麁鹿火大連に授けて「長門以東は朕がとろう。筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え。ひんぴんと報告しなくともよい」といった。⇒今迄この句の背景になった史実が思い浮かばなく思案してたが、朕が天智で物部麁鹿火大連が大海人皇子の天武天皇だとしたらどうだろう。


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(298) 『総集編 〔大和朝廷「日本国」出生秘話〕 今年その何たるかを語り終えたかな(4) 』 2010年12月27日(月)

〔しらぬひの 筑紫の綿は 身に付けて いまだは着ねど 暖けく見ゆ〕

 白いつくしのように連なっている綿花、その栽培の盛んな筑紫の綿そのものを、身に着けたことはないが、運ばれていく仏像の周りには綿が詰められ、暖かそうである。仏像が強奪される、そしてそれに手を貸すのは自分である。そのことは堪え難いが、仏像が暖かそうに見えることだけが救いだ。

 沙弥満誓(さみのまんせい)は造筑紫観世音寺別当という職にあり、出家するまでは笠朝臣麻呂(かさのあそみまろ)と称した。  法興寺を法隆寺へ移築し跡地に観世音寺のを再建する。当時中心伽藍の他の、例えば三十三間堂は残っていた。

 皆さんは、綿の花を見たことありますか?数年前、妻が振興会からもらったとかで、植えてて咲くのを見ました。大きな花で、咲く前のつぼみは、ちょうど”つくしんぼう”そっくりです。筑紫(=今の福岡県)に綿の栽培が伝来し、筑紫が綿の主産地だったのですね。この”つくし”と筑紫が掛詞なんですね。

 〔観世音寺の一幅の絵図から分かること〕《九州倭国の法興寺を法隆寺へ移築しその跡地に観世音寺を造った》『京都の三十三間堂も、大宰府の観世音寺に建っていた』
ということを知ってますか?

 持統4年は持統即位元年だとするのだが、なんでこんな回りくどい表現するのか不思議だったが、
『これは「持統紀」が713年以降の、政治情勢の中で、「高市紀」の成り代わりだ』
で言う高市天皇元年相当なのだ。

 郷里山口県の神社・仏閣には多くの「九州年号」が残されている。九州内は徹底して消されたのだろうが、まさか周辺の周防・長門に残っていようとは、
『九州年号・書紀天皇表』
の「常色改革」以降を整理した。

 696年7月10日、高市天皇が崩御して、3ヶ月後の顕彰記事は異常だ。これから「高市天皇」暗殺の下手人は、
★「丹比真人嶋」
★「安倍朝臣御主人」
★「大伴宿禰御行」
★「石上朝臣麻呂」
★「藤原朝臣不比等」
の合計5人であり、もちろん、リーダーは「藤原朝臣不比等」だったと言えよう。

 703年4月1日、阿倍朝臣御主人が薨じた。正三位の石上朝臣麻呂らを遣わし物を贈って弔わせた。この時点で、「丹比真人嶋」「安倍朝臣御主人」「大伴宿禰御行」「石上朝臣麻呂」「藤原朝臣不比等」の5人のうち、倭国側の 「丹比真人嶋」 ・ 「安倍朝臣御主人」 ・ 「大伴宿禰御行」 が死に、即ち、大和王朝「日本国」側の「石上朝臣麻呂」「藤原朝臣不比等」が生き残っていることになる。

 ちょうど、今木健之著「本能寺の首謀者は秀吉である」の①宇喜多直家、②中川瀬兵衛、③椙原家次、④蒲生賢秀、⑤池田恒興、⑥丹羽長秀、⑦誠仁親王、⑧蒲生氏郷、の早死・変死に、似ていないだろうか?

 結局、「日本書紀」と「続日本紀」を単独に読むと分からないが、続けて読めば分かるのだ。「持統紀」が、「高市紀」の成り代わりであることから、高市は即位して高市天皇だった。696年7月10日、高市天皇が崩御して、3ヶ月後の顕彰記事は異常なことから、その「高市天皇」は暗殺されたと分かる。

 顕彰記事から暗殺下手人は、「丹比真人嶋」「安倍朝臣御主人」「大伴宿禰御行」「石上朝臣麻呂」「藤原朝臣不比等」の合計5人と分かる。703年4月1日、阿倍朝臣御主人が薨じたのを最後に、この時点で、下手人5人のうち、倭国側の「丹比真人嶋」「安倍朝臣御主人」「大伴宿禰御行」が死んでいる。

 即ち、大和王朝「日本国」側の石上朝臣麻呂」「藤原朝臣不比等」が生き残ったことになる。倭国側の高市天皇暗殺下手人は7年後の703年迄に次々と葬られ口封じされたことになる。あまり難しく読む必要ないのではないだろうか、ただ下手人の家人は知ってか知らずかそのまま大和朝廷で栄達したようだ。


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(299) 『総集編 〔大和朝廷「日本国」出生秘話〕 今年その何たるかを語り終えたかな(5) 』 2010年12月27日(月)

  〔「逆賊磐井は国父倭薈だ」米田良三著〕
倭薈の死は筑後国風土記 逸文「磐井の墓」に次のように記される。

 「独自豊前の上膳の県に遁れ、南の山の峻しき嶺の曲に終りき」この倭薈最後の地がどこであるかは古代史学者の興味を引かなかったようである。次章で述べる「磐井の墓」の存在場所がいろいろと論じられたのとは対照的である。最後の地は倭国の連続する歴史の中で聖地として整備されている。

  大分県宇佐市の一画に位置
しているのだが、現状は聖地を示すものは地上に何もないと言って良い状態である。まず聖地の全体像と特異であった倭薈の風貌について話しをしたい云々。

 九州王朝「倭国」の倭薈王(=筑紫君磐井)が「胸に卍文、掌に輪宝文、足の裏に瑞祥文」の刺青を描いていたという、やくざな王様だった。これが奇しくも薬師寺の薬師佛、東大寺の大仏、法隆寺の焼けた壁画に描かれている。この刺青から3寺は元々九州に地に建っていたのを奈良へ運び移築したと分かる。

 昨日、東大寺の大仏の右脚の内側から、明治以降に行方へ知れずになっていた、聖武天皇が愛用の「陽剣」「陰剣」が対になって、見つかった。とテレビが報道していた。小倉山の麓の池側に建っていた東大寺を解体し、木材は瀬戸内海大仏は山陽道をはるばる奈良まで運び、その挙句、頭部を挿げ替えたのだ。

  『Twitter その5』
にあげた写真小倉山に建ってたときの東大寺の大仏は柔和な顔立ちをしてるよね。なんと、大仏の前で所在なげに寝そべっている奴がいる。今のはいかめしい顔に造りかえられてる。


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(300) 『総集編 〔大和朝廷「日本国」出生秘話〕 今年その何たるかを語り終えたかな(6) 』 2010年12月28日(火)

 九州年号の存在を疑って居られる方々に九州王朝倭国のお膝元の九州島は除いてその周辺の場所例えば山口県にどのように残っているか。『古代は輝いていたⅢ古田武彦著』の巻末資料Ⅳ「山口県内の文献に見える逸年号」を参考に見てみよう。中でも「寺社由来」熊毛宰判呼坂村熊毛神社を参考迄に書き出す。

◎「人王27代継体天皇御宇『善記』元壬寅歳(522)」

◎「神鏡之光其咸、詔而『知僧』六年改『金光』元年也(570)」

◎「其後『賢称』六年辛丑(581)之八月十一日、遠見八幡之神鏡、亀井山大戸道太神之神木飛来」

◎「其後『鏡常』五年乙巳(585)六月晦日、従同帝奉幣之勅使参詣之時、玉扉自開」

◎「『勝照』元年乙巳(585)六月仕神託令閉戸」

 まだ沢山ありますが切りがないのでこの辺でやめます。参考までにわたしの労作『九州年号・書紀天皇対比表』をご覧ください。

 なお、《神鏡之光其咸、詔而『知僧』六年改『金光』元年也(570)》 の『金光元年』は東大寺が奈良へ移築される前に、倭薈王の菩提を弔う為、倭国の都・大宰府の東方の宇佐・小倉山麓の小倉池側に初めて建立の「東大寺 」の正式名称 「金光明四天王護国の寺」 の 「金光」に由来しています。

 先に九州年号を疑う方へ、山口県内文献の「寺社由来」熊毛宰判呼坂村熊毛神社に記載の、◎「人王27代継体天皇御宇『善記』元壬寅歳(522)」を示し、書かれた時点に、《九州年号『善記』元壬寅歳(522)は、書紀天皇紀年『継体天皇』何年》の読替え表が僧侶・神官に出回っていたと考えられるのだ。

 これらは、今も隠し持たれていようと思われるのだが・・・・果たしてどうか?

 .junjohnmat @tohyan 「核 個人の単位の問題へ」同感。でも何かこれに関してつぶやいたかなと探しちゃいました。書き込むと忘れがちになるこのごろです。

総集編見てくれてたんですか、尖閣諸島問題 の前の
〔倭国の遺跡スポット・ジオログ〕
【大和朝廷は、九州王朝「倭国」 の 【 同じ血族・分流 】である。】
8月9日『原爆を爆発させない薬とか方法を考えろ』

RT @junjohnmat

 8月9日前後に、『原爆を爆発させない薬』==>実用的にはそうかもしれませんね。しかし『盾と矛』の話からは解放されず、第二第三の兵器へと連鎖しちゃうので、根本策は兵器改革より意識改革だと思います。あと太陽と北風の故事も。RT @junjohnmat何かこれに関してつぶやいたかな^^


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(301) 『総集編 〔大和朝廷「日本国」出生秘話〕 今年その何たるかを語り終えたかな(7) 』 2010年12月29日(水)

 日本書紀を読むとき、全ての記事が史実で正しいと解釈し読み解こうとして来ました。そうすると、いたるところで矛盾や齟齬にでくわし面食らってきました。それは有名な先人も同じ過ちを犯して来たといえます。然し、正木裕氏の説に従えばある倭国史等の記事断片が切り貼りして残されているとなります。

 日本書紀は、700年以前の九州王朝「倭国」及び「秦国」の存在を亡き者にし、代わりに、さも奈良に中央集権国家の大和王朝「日本国」が有史以来ずっとそこにあったものとして、ありもしない国を作り出したものです。唐への期日もあって、倭国史・秦国史・百済史、他の史書を切り貼りしたのでしょう。

 〔九州王朝「倭国」及び「秦国」の存在を亡き者にし〕のひとつが、九州年号「善記」を建元した『倭薈王』即ち、倭国(ゐこく)の薈王(わいおう)をどう表現したか、『筑紫君磐井(つくしのきみいわい)』とし、白村江戦時でとらわれの身となった白鳳王の天武天皇を『筑紫君薩夜麻』と矮小化したのだ。

 古田史学会報100号記念には、わたしの主張する
〔大和朝廷「日本国」出生秘話〕
にとって非常に有益な投稿記事がある。中でも『新羅本紀「阿麻来服」と倭皇天智帝:西井健一郎』は示唆に富みありがたい。

『 一、「阿麻」とは誰? 三国史記・新羅本紀・卷第六・文武王・上
〔古代史獺祭〕
『八年春、阿麻來服、遣元器與淨土入唐、淨土留不歸、元器還、有勅、此後禁獻女人』との記述が冒頭に載る。  

 つまり、「阿麻」という国や地域か、、「阿麻」王かその姓を名乗る豪族かが新羅に降伏を申し入れにきた、との記事である。続けて解すれば「降伏を申しいれに来たので、新羅の役人を二人、唐朝へ報告に行かせた」ととれる。

 しかし、文武王妃とその前後に「阿麻」と戦った記事はない。この文武王八年は西暦668年、書紀では天智七年に当る。なお同王十一年七月条の大王報書に、この八年に唐が倭国を攻めるためといって船を修理させたが、実は新羅を攻めるためとの情報が入り、『百姓聞之、驚懼不安』との記事がある。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 さてここで、
〔九州年号・書紀天皇表〕
を見て欲しい。前年の667年、『唐が筑紫占領、近江朝独立・遷都、③唐・法聡遣倭』、該当年668年は『天智即位(前年の遷都と同時か?)・高句麗滅亡』とある。

 で、「阿麻」をどう捕らえるかであるが。九州倭国は倭王が捕虜拘束の身で、直轄地の筑紫(九州島)は筑紫都督府(=大宰府)に唐軍が駐留占領されていた。長門以東の本州・四国を、難波副都の天智が白村江敗戦以降、兵を結集独立を確保した。前年の667年には近江朝は遷都・即位・倭国から独立した。

 私は『書紀の皇極・孝徳・斉明・天智・天武・の和風諡号に「天□□」を持つ5代の天皇は倭王家〔分家の弟王家〕の出身である』と考えている。「阿麻」は「天」であろう。難波副都倭弟王家の近江朝は、筑紫倭国から独立を期に翌668年新羅へ「阿麻」国を号し、その後670年改めて「日本」国を号したのだ。


①663年、白村江敗戦、唐が倭王「白鳳王」薩夜麻を捕獲・捕虜連行。
②664年頃、天智が天下立評地「長門以東」を倭王不在で直接支配。
③665-6年頃、唐が倭王直轄地の筑紫占領。
④667年、「長門以東」の近江朝が独立・遷都・天智即位。
⑤668年、高句麗滅亡・新羅本紀「阿麻(天=近江朝仮名)来服」記。
⑥670年、天智天皇の近江朝が「倭国」更えて「日本」号す。

 以上を整理すると、倭国弟王家の近江朝は667年、倭国から分離独立し、翌年668年、とりあえず、隣国の新羅へ近江朝の仮名「阿麻(=天)」国として、その独立を報告したことになる。

 新羅本紀「阿麻来服」記とは、倭国難波副都常駐弟王家の近江朝天智は白村江后、倭国から長門以東を、667年分離独立させ、翌年668年、とりあえず、隣国の新羅へ近江朝の仮名「阿麻(=天)」国(弟王家も当然「アマ氏」である)として、その独立宣言報告使・国交開設使を新羅へ派遣したのだ。

『新羅本紀「阿麻来服」』で言えることは、日本書紀が全巻を通じ隋書記載の「倭国」及び「秦国」を徹底的に抹消していることだ。更に正木裕氏が言うように書紀が倭国史を切貼りし、その上別名置換等の添削し編纂している為、元々の記事は平凡な記事だったものが、あらぬ解釈の混乱に陥ってしまうのだ。


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(302) 『総集編 〔大和朝廷「日本国」出生秘話〕 今年その何たるかを語り終えたかな(8) 』 2010年12月29日(水)

 吉野、吉野ケ里とは葦野、葦野ヶ里という名にふさわしい⇒そもそも「葦は主として河川の下流域から汽水域上部、あるいは干潟の陸側に広大なヨシ原を作り、干潟では干潮時には干上がる水流の少ない所に育つ」らしい、ならば嘉瀬川でなく筑後川の名前にふさわしいと思います。RT @jyoumonjn

 ウッソー、と言われるかもしれませんが、私は米田良三氏と同じ意見で、
「木綿・木棉(もめん)ワタの種子から取れる繊維コットン(英語cotton)」
派で、その綿毛玉か。RT @jyoumonjn

 そうでないと解釈できない ⇒万葉集912〔泊瀬女の 造る木綿花 み吉野の 瀧の水沫に 咲きにけらずや〕この歌は秋津川 (=嘉瀬川) (=城原川)の下流に吉野宮が位置しそこで歌われた歌だそうです。秋津川は初瀬と呼ばれた背振山地から、吉野ヶ里の脇を流れ吉野川(=筑後川)に合流する。RT @jyoumonjn
〔しらぬひの 筑紫の綿は 身に付けて いまだは着ねど 暖けく見ゆ〕 ●白いつくしのように連なっている綿花、その栽培の盛んな筑紫の綿そのものを、身に着けたことはないが、運ばれていく仏像の周りには綿が詰められ、暖かそうである。仏像が強奪される、そしてそれに手を貸すのは自分である。そのことは堪え難いが、仏像が暖かそうに見えることだけが救いだ。沙弥満誓(さみのまんせい)は造筑紫観世音寺別当という職にあり、出家するまでは笠朝臣麻呂(かさのあそみまろ)と称した。
「参照方250」

jyoumonjn 「もめん」ではありません。木綿栽培は江戸期~、故に楮なのです。名尾地区、楮原RT @tohyan 万葉時代、楮の繊維で作った神祭りの幣帛のことを木綿「ゆう」といいました。「もめん」ではありません。「もめん」が日本に伝来するのは、鎌倉時代以降のこと

 倭国の時代、筑紫に綿が栽培されていたとしないと理解できない歌。〔しらぬひの“筑紫の綿”は、身に付けていまだは着ねど、暖けく見ゆ〕〔泊瀬女の造る木綿花、み吉野の 瀧の水沫に“浮”咲きにけらずや〕RT jyoumonjn「もめん」ではありません。木綿栽培は江戸期以降、故に楮なのです。

 もし「楮:こうぞ」とした時、〔泊瀬女の造る木綿花、み吉野の瀧の水沫に“浮”咲きにけらずや〕
「楮の雄・雌花」
が浮き咲いても歌にならない。RT @jyoumonjn

〔泊瀬女の 造る木綿花 み吉野の 瀧の水沫に 咲きにけらずや〕 ●この歌の解釈は、『秋津川(=城原川)の上流の泊瀬(=三瀬)で、娘達が作ったであろう木綿(=コットン)の綿毛玉が風に飛ばされ、水面に浮かび流され、吉野宮近くを流れる吉野川(=筑後川)との瀧の水沫に、かれんな白い花と咲いているよ』

 〔壬申大乱〕古田武彦著p174に『郭務悰その人が「吉野と有明海」の一帯を支配していた、と思われるのである。その吉野に大海人皇子は来たのだった。「物思い」にふけりつつ、やってきたのだろう。
 亡き兄天智天皇の遺言(大友皇子への補佐)と、大友皇子との決定的な対立、そのための「決断」の日を求めつつ、この「肥前、吉野の国」の山道を、その孤立の道を辿っていたのではなかろうか。
 その“会うべき人”それはもちろん「(倭国制圧の)全唐軍の総司令官」以外になかった。「朝散大夫」(従五品下)の位官をもつ、大国唐の官僚にして軍人だ。その人に対して、「淑人」-「良人」として“呼びかけ”たのだった。』とあって、『淑人(よきひと)』は唐の郭務悰だと語られている。

 『淑人(よきひと)』は唐の郭務悰だと語るが、

 はたしてそうだろうか、私は郭務悰は、全唐軍の総司令官かもしれないが、所詮、「朝散大夫」(従五品下)の唐の官僚・軍人にすぎないと思うのだ。

 が、薩夜麻は負けたとは言え「倭王」君子、まさに「詩経」でいう「淑人・君子」である。薩夜麻は帰国後、大宰府に入らずに、
 大宰府吉野を避け、多良にひとまず落ち着いたのではないだろうか、唐の進駐占領軍の庇護のもとにあったともいえる。
 この時、軍都・吉野にいたのは、唐総司令官・郭務悰だったと。
 更に多良人だが、多良・太良・太郎であり、今の長男⇒これは暗に、国王を意図しているのではないか、「掛詞」だろう。

 天武は『淑人(=倭王薩夜麻)』が、『よしとよく見て(=きっと了解してくれると読んで)』、『好し言ひし(=分かったそれで良いと言ってくれた)』更に、『芳野よく見よ(=郭務悰へこの作戦でどうだ、良く検討するように)』と、『多良人よく見(=あの時倭王薩夜麻が賛成してくれて良かった)』








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