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《 大和朝廷の 「はしり」 は、 「 難波朝廷 ( なにわのみかど=九州王朝「倭国」の難波複都 )」 に始まる 》  即ち、大和朝廷「日本国」 は、九州王朝「倭国」の 【 同じ血族・分流・分家 】 である。


大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 034 》



大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕

《 大和朝廷の 「はしり」 は、ここで言う 「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」 に始まる。
  即ち、大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」【 同じ血族・分流 】 と分かった。 》



 白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、日本全国 長門以東を実効支配したが、その司令官が「両京制」・「兄弟王朝」である 倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 である。
 日本書紀の〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇はこの倭王家 〔分家の弟王家〕 の出身である。
 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権 の禅譲を受け をクーデター「プロト大化の改新」で乗っ取り、倭国連邦の解体・改組してのち成立したのが、奈良の中央集権国家・文武天皇(大宝元年:701年)の大和朝廷『日本国』である。いわば倭王家 〔分家の弟王家〕 はプロト大和朝廷である。


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2010年 4月 2日 発行




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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』


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(650) 『「高市天皇」暗殺が「乙巳の変」のモデルになっている⇒「大化改新」は倭国大化696年藤原宮で起こった写し』 2011年6月24日(金)

 この「大化の改新」は私の頁の
【Ⅶ・⑤『「高市天皇」暗殺が、「乙巳の変」のモデルになっている』】
に概略主張してるのでご参照ください。要するに倭国灘波弟王家がプロト大和朝廷ということです。


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(650a) 『橘諸兄考ー九州王朝臣下たちの行方ー向日市 西村秀己氏』 2011年6月25日(土)


「大化改新」は倭国大化696年藤原宮で起こった写し。実は4月初旬に来てた『古代史に真実を求めて(古田史学論集第十四集):古田史学の会編』を震災のあおりで目を通してなかった。が、最近ようやく落ち着き読み始めている。中に『橘諸兄考ー九州王朝臣下たちの行方ー向日市 西村秀己氏』がある。


 さて、みなさんはどのように受け取られましょうかね^^
   『橘諸兄考ー九州王朝臣下たちの行方ー向日市 西村秀己氏』

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『橘諸兄考ー九州王朝臣下たちの行方ー向日市 西村秀己氏』


 701年九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への政権移譲が行われた際、九州王朝の王族・臣下たちはどうなったのか?本稿はそれを探る試みである。  例えば、その一部は新政権に対し反乱を起こした。


 文武四年六月庚辰。薩末比賣。久賣。波豆。衣評督衣君懸。助督衣君弖自美。又肝衝灘波。従肥人持兵。剽劫覚國使刑部眞木等。於是勅竺志総領。准犯决討。

 文武四年六月庚辰(700年6月3日)。薩末比賣(さつまのひめ)。久賣(くめ)。波豆(はつ)。衣評督衣君懸(えのこおりのかみえのきみあがた)。助督衣君弖自美(おなじくすけのえのきみてじみ)。又肝衝灘波(またきもつきのなにわ)。従肥人持兵(これにしたがうくまひとらがぶきをもって)。剽劫覚國使刑部眞木等(さきにちょうていからはけんされたくにまぎのつかいのおさかべのまきらをおどして、ものをうばおうとした)。於是勅竺志総領(そこでちくしのそうりょうにちょくをくだして)。准犯决討(はんざいのばあいとおなじようにしょばつさせた)。


 かの有名な南九州における反乱記事である。その他、701年以降続発する隼人の乱もこれに準じよう。(特筆すべきは、隼人の乱が700年以前には1件の記録も存在しないことだ)大和朝廷に服するを潔しとしない九州王朝の臣下たちは、かつての天子の末裔を頭に抱き細々ながらもその王朝を継続しょうと意図したことであろう。大宝建元以降も九州年号である大長が続くことがその証左といえる。

 だが、これらはあくまでもその一部の臣下たちの行方である。その殆どの臣下たちは唯々として新政権に従ったこと、想像に難くない。ここに左大臣生前正一位橘諸兄を例に取りたい。

 橘諸兄朱雀元年(684)生まれ。(尊卑分脈によれば、天平勝宝九年六薨74才とあるので、これに従う)元の名前は葛城王である。天平元年(729)正四位下左大弁、同3年参議、同4年従3位、同8年願い出て橘姓(宿禰)を許される。臣籍降下。同9年大納言、同10年正三位右大臣、同11年従二位、同12年正二位、同15年従一位左大臣、同18年左大臣兼太宰師、天平感宝元年正一位、天平勝宝二年朝臣、同8年致死、天平勝宝9年薨去。(以上、続紀)


 諸兄の母親の県犬養三千代は美努王に嫁ぎ諸兄たちを生むが、美努王が太宰率として筑紫に赴任すると(これは藤原宮遷居と同年である。偶然であろうか?)美努王と別れ藤原不比等の後妻に収まり後の光明皇后たちを生む。つまり、諸兄は藤原4兄弟及び光明皇后たちとは義理の兄弟となる。
 三千代は後に元明天皇より「橘」を賜姓され、諸兄はこの橘姓を受け継ぐのである。
諸兄は46才まではそれほどの地位ではないが、藤原4兄弟が天然痘で全滅すると、その空隙を埋めるように急出世し聖武の治世を支えることになる。

 さて、諸兄の父美努王の父は栗隈王である。白鳳11年(671)筑紫率に任じられ、翌12年壬申の乱に際しては、近江朝の命令を拒否する。近江朝の態度は命令に従わせるか殺すかだったのだから、栗隈王の姿性勢は中立とは言えまい。時は701年以前の白鳳年間、筑紫の政治的トップであるこの栗隈王を大和朝廷の臣下であると信じていらっしゃる古田史学の会員はまさかおられるまい。栗隈王は九州王朝の王族だったのである。
 とすれば、その孫橘諸兄(葛城王)もまた九州王朝王族であったと考えざるを得ない。王だった諸兄が真人でも朝臣でもなく八色の姓の第三位である宿禰を選んで臣籍に下ったのも、高位になるに従って元九州王朝王族としての身の危うさをおもんばかっての選択だったと思われる。その諸兄も晩年讒言を受け、致仕に至るのだが…。


 この諸兄は敏達天皇の末裔とされている。尊卑分脈には


【敏達天皇ー灘波親王ー大俣王ー栗隈王ー美努王ー諸兄】


 とある(但し分脈は諸兄と葛城王を2人に分けて兄弟として記録する)。ところが、群書類従に記載される各種「橘氏」及び「楠氏」系図は


【敏達帝ー灘波親王ー大俣王ー美好王ー諸兄】
【敏達天皇ー灘波親王ー栗隈王ー美奴王ー諸兄】
【敏達天皇ー灘波親王ー大役王ー美好王ー諸兄】
【敏達天皇ー高仁親王ー諸兄】


 など、一つとして同じものはないのだ。これは系図の造作の証左と言えるのではあるまいか。

 こうして、九州王朝の王族或いは新撰姓氏録風に言えば皇別たちは自らの出身を捨て、現天皇家に系図を繋げていったと思われる。武内宿禰が新撰姓氏録皇別中最多の始祖となり、その子供の数の多さ、そしてあり得ない長命もこれが原因と思われる。(何故、武内宿禰なのかは、また別のテーマである)

 この様に、九州王朝の王族・臣下が大和朝廷の臣下となっていったのは、勿論諸兄だけではないだろう。例えば所謂門号氏族たちである。実は宮城十二門は北朝様式となった平城京以降では成立しない。真北に位置する猪使門(のちの偉鑒門)は宮が京の北端にある北朝様式では、全く必要の無い門である。猪使門の前には道(少なくとも公路)は存在しないからである。一条大路を左右から進むと、それぞれ海犬養門(安嘉門)若しくは丹比門(達智門)から入城すればことたりる。猪使門(偉鑒門)を必要とするのは、宮が京の中央にある藤原京のみなのである。筆者の従来からの主張である「藤原京は九州王朝の都」というテーマに従うならば、その宮城に住まう人物を守る門号氏族たちもまた、その大部分は九州王朝の臣下と考えざるを得ない。


 そして乙巳の変である。乙巳の変の暗殺者として3名の門号氏族が登場する。海犬養連勝麻呂(安嘉門)・佐伯連子麻呂(藻壁門)・葛城稚犬養連網田(皇嘉門)だ。この時の功により五十年後、その氏族が門衛に任じられたとは考えにくく、乙巳の変が大化の改新とともに五十年下がるとすれば、宮城の主を守るべき氏族たちが九州王朝を裏切り(或いは見限り)、政権簒奪に反対する大物Xを暗殺した事件となる。この根拠のひとつとして、乙巳の変には次の文章がある。


 中大兄戒衛門府。一時倶樔十二通門勿使往来。(紀)
(中大兄は、衛門府を戒め、同時に十二通用門を鎖とざし、往来させなかった)


 藤原京以前に十二門を備えるような巨大な宮は存在しない。
 最後に、諸兄が母親の姓である「橘」を選んだ理由を想像を逞しくして考えたい。それは「橘」が神話上の倭国発祥の地であったからではあるまいか。すなわち、


 則往至筑紫日向小戸橘檍原
                       (了)


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内裏研究<大内裏外郭門>
⇒ 大内裏(宮城)を囲む十四門《魚拓》
を参考に東西南北の各面三門を時計回り並べてみました。


《北面》
  【安嘉門:北面西側】 もと海犬養門
  【偉鑒門:北面中央】 もと猪使門・あかずの門。
  【達智門:北面東側】 もと多治比門

《東面》
 X【上東門:陽明門北側】 土御門
  【陽明門:待賢門北側】 もと山門・近衛門
  【待賢門:郁芳門北側】 もと建部門・中御門
  【郁芳門:東面南端】 もと的門・大炊御門

《南面》
  【美福門:南面東側】 もと壬生門
  【朱雀門:南面中央】 正門・もと大伴門
  【皇嘉門:南面西側】 もと若犬養門

《西面》
  【談天門:西面南端】 もと玉手門・馬寮門)
  【藻壁門:談天門北側】 もと佐伯門・西の中御門
  【殷富門:藻壁門北側】 もと伊福部門・西近衛門
 X【上西門:殷富門北側】 西の土御門


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 この「大化の改新」は私の頁の
【Ⅶ・⑤『「高市天皇」暗殺が、「乙巳の変」のモデルになっている』】
に概略主張してるのでご参照ください。
 要するに倭国灘波弟王家がプロト大和朝廷だということです。


 『橘諸兄考ー九州王朝臣下たちの行方ー西村秀己著』を読んで、私は『書紀「後皇子尊(=高市皇子)が薨じた」記事はクーデターによる暗殺結果だ』と更に意を強くした。それにしても、まさか「乙巳の変」暗殺者の海犬養連勝麻呂(安嘉門)・佐伯連子麻呂(藻壁門)・葛城稚犬養連網田(皇嘉門)が門号氏族だったとは!


 私は『高市皇子が薨去した。若し、彼が天皇・倭王だったら、3ヶ月後とはいえ顕彰記事は異常だ。この顕彰記事から「高市天皇」暗殺の下手人は★「丹比真人嶋」★「安倍朝臣御主人」★「大伴宿禰御行」★「石上朝臣麻呂」★「藤原朝臣不比等」の計5人であり、首謀者は「藤原朝臣不比等」だ』と考えた。


 これは『日本書紀』の「乙巳の変」のくだりの写真と、「後皇子尊(=高市皇子)が薨去した」くだりの写真です。


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(651) 『薬師寺東塔の修理で(法要110年ぶりの本格解体で)』
 2011年6月25日(土)



 世界最古の木造建築とされていた法隆寺の創建は607年であり、これより73年前の534年に造られた「薬師寺東塔」が解体される

【薬師寺東塔の修理で法要110年ぶりの本格解体で】《魚拓》


 平泉中尊寺金色堂、世界遺産登録おめでとう。夕暮れ時尾根沿いの参道登ってると「急がないとお堂が締りますよ」って女性が教えてくださった。新幹線みずさわえさし駅を下車するとなんと林檎がたわわにぶら下がってた白い街路樹なんだよね。水沢を訪れた帰りに早めにおじゃましてお参りしたかったのだ。


   毛越寺(もうつうじ)には、米田良三氏が大和朝廷が禁止したという『阿弥陀佛』堂がある。まさに、宇治平等院鳳凰堂そっくりのあの世の世界。また古田武彦氏が九州王朝「倭国」の舞だという『延年の舞』が隠されて伝わってるという。ぜひ、再度じっくりとお参りしたいが…『延年の舞』はだめかなー^^


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(652) 『『日本書紀』の偽書ぶりを紹介します(第2弾)。偽書たる『日本書紀』は無防備に読んでも分らない^^』 2011年6月27日(月)

『日本書紀』の偽書ぶりを紹介します(第2弾)。偽書たる『日本書紀』は無防備に読んでも分らない^^
【白雉改元の史料批判(盗用された改元記事):古賀達也】
をともかく読む!


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白雉改元の史料批判
                盗用された改元記事
                               京都市 古賀達也

   一

 一九九六年に芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した「三壬子年」木簡(『木簡研究』第十九号、一九九七年)が、実は「元壬子年」であったことが私達の調査により判明したのであるが
【注:木簡に九州年号の痕跡(「三壬子年」木簡の史料批判】
この「元壬子年」木簡が指し示す肝要の一点は、「白雉元年」を庚戌(六五〇年)の年とする『日本書紀』ではなく、『二中歴』や『海東諸国紀』に収録された「九州年号」の「白雉元年壬子(六五二年)」が歴史的事実であったということである。すなわち、『日本書紀』よりも「九州年号」の方が真実を伝えていたのだ。

   二

 一度(ひとたび)こうした認識に立てば、次いで問題とすべきは『日本書紀』孝徳紀の白雉元年(六五〇)二月条に長々と記述された「白雉改元」記事の信憑性である。九州年号が真実とすれば、同時期に大和朝廷が二年ずらして同じ白雉年号に「改元」することなど、およそ考えられない。従って、『日本書紀』の白雉年号が九州年号からの盗用であることは自明である。
 そうすると、盗用したのは「白雉」の年号だけではなく、白雉改元記事そのものも九州王朝史料からの盗用と考えざるを得ないであろう。たとえば、白雉元年(六五〇)二月条の改元記事には九州王朝への「人質」となっていた百済王子豊璋等の名前が見える。
 他方、応神天皇の時代に白烏が宮に巣を作ったという吉祥や、仁徳天皇の時代に龍馬が西に現れたという記事などが特筆されているが、いずれも記紀の同天皇条には見えない事件であることから、これらも九州王朝史料からの盗用と見なすべき痕跡といえる。

   三

 このように、白雉元年(六五〇)二月条の改元記事が九州王朝史料からの盗用である可能性は極めて高いのであるが、今回新たに孝徳紀を精査したところ、同記事盗用の痕跡がまた一つ明かとなったので報告する。

 『日本書紀』の白雉と九州年号の白雉に二年のズレがあることは既に述べた通りであるが、それであれば九州王朝による白雉改元記事は、本来ならば孝徳紀白雉三年(六五二)条になければならない。そして、その白雉三年正月条には次のような不可解な記事がある。

 「三年の春正月の己未の朔に、元日の禮おわりて、車駕、大郡宮に幸す。正月より是の月に至るまでに、班田すること既におわりぬ。凡そ田は、長さ三十歩を段とす。十段を町とす。段ごとに租の稲一束半、町ごとに租の稲十五束。」

 正月条に「正月より是の月に至るまでに」とあるのは意味不明である。「是の月」が正月でないことは当然としても、これでは何月のことかわからない。岩波の『日本書紀』頭注でも、「正月よりも云々は難解」としており、「正月の上に某月及び干支が抜けたのか。」と、いくつかの説を記している。
 この点、私は次のように考える。この記事の直後が三月条となっていることから、「正月より是の月に至るまでに」の直前に「二月条」があったのではないか。その二月条はカットされたのである。そして、そのカットされた二月条こそ、本来あるはずのない孝徳紀白雉元年(六五〇)二月条の白雉改元記事だったのである。すなわち、孝徳紀白雉三年(六五二)正月条の一見不可解な記事は、『日本書紀』編者による白雉改元記事「切り張り」の痕跡だったのである。やはり、白雉改元記事は九州王朝史料からの、二年ずらしての盗用だったのだ。

   四

 こうして、『日本書紀』の白雉年号と白雉改元記事が九州王朝史料からの盗用であった痕跡を明らかにしたのであるが、そうすると更に新たな問題が惹起されよう。たとえば、孝徳紀白雉三年二月条に「白雉改元記事」が本来あったとするならば、その直後に位置する班田記事も九州王朝史料からの盗用の可能性はないか。そうだとすれば、大化二年の改新詔に見える班田記事との関係はどうなるのか。
 たとえば、白雉改元記事に見える改元の行事が行われた宮殿はどこなのか。従来のように、孝徳紀白雉元年(六五〇)のことであれば、難波宮(前期)はまだ完成されておらず、九州王朝の都である太宰府での出来事と考えるべきであるが、本稿で明らかにしたように、これが孝徳紀白雉三年(六五二)のこととなった以上、この時難波宮はほぼ完成していたと考えられるので(全体の完成は同年九月)、改元の舞台は前期難波宮であったとするべきではないか。
 以上のような新たな論点が予想できるのであるが、これらについては検討を加え、別に詳述する予定である。


(注)古賀達也
【「木簡に九州年号の痕跡─『三壬子年』木簡の史料批判─」】
『古田史学会報』No.七四所収、二〇〇六年六月六日


【実見、「三壬子年」木簡】




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(653) 『【五.何故三十四年遡上か】答えは明白。白村江敗戦以降の九州王朝の歴史のカットと改変を行う為だった』 2011年6月27日(月)
 そうだ、私がいくら「天下立評」とは、倭国の全てが「評制施行」されたことだ。と言っても何それーッ?て、受け取られているのかもしれないな^^学校では「乙巳の変:645」で中大兄皇子が中臣鎌足と計らって蘇我入鹿を討ち「大化の改新:646年」で建郡(=郡制施行)したと習っているのだから。


 そもそも「天下立評」とは何ぞや?偽書たる『日本書紀』は無防備に読んでも分らない^^ように編集されてる。
【白雉年間の難波副都建設と評制の創設について】
をともかく読む!


 『日本書紀』の偽書ぶりを紹介します(第2弾)。偽書たる『日本書紀』は無防備に読んでも分らない^^
【白雉改元の史料批判(盗用された改元記事):古賀達也】
をともかく読む!


 『日本書紀』の偽書ぶりを紹介します(第3弾)。偽書たる『日本書紀』は無防備に読んでも分らない!

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【日本書紀、白村江以降に見られる「三十四年遡上り現象」について:正木裕】


一.持統天皇吉野行幸記事の謎

 古田先生は、その著『壬申大乱』において、以下のことを明らかにされた。日本書紀に記載する、都合三十一回の吉野行幸は、九州王朝の天皇の、朝鮮半島出兵の基地たる「佐賀なる吉野」視察記事の盗用である。とりわけ、持統十一年(六九七)四 月の持統天皇吉野行幸は、三十四年前の天智二年(六六三)白村江の戦直前の「最後」の行幸である。


    【『壬申大乱:古田武彦著』
   p59第一章まぼろしの吉野第八節】



 その根拠としては、持統紀に吉野行幸の頻度が異常に多く、かつ集中しており、持統天皇以降はもちろん、本人も持統十一年(六九七)四 月以降は、ほぼ全然と言っていいほど行幸が見られないこと。奈良の吉野にふさわしくない冬季に多く行幸していること。持統天皇行幸記事のある「丁未ひのとのひつじ」が持統八年四月(六九四)には存在せず、斉明六年四月(六六〇)には存在すること(暦日の不存在)。ほかを挙げられた。極めて見事な分析といえよう。

《参照》講演記録の
 【壬申の乱の大道:古田武彦氏】


 ところで、持統天皇の吉野行幸は持統三年(六八九年一月十八日)が初出。以降、持統十一年(六九七)まで、都合三十一回の吉野行幸が暦年の経過を追って、順序良く連続している、いわば「セットもの」だ。従って六八九年~六九七年までの一連の行幸記事は「セット」で三十四年遡上る(六五五年斉明元年~六六三年天智二年)はずだ。それなら、行幸以外の記事も、同様に三十四年遡るものがあると見るのが自然だ。


 以下その例を探してみよう。


二.持統二年十一月の「天武の葬儀」は孝徳の葬儀の盗用

 書紀持統二年(六八八)十一月四日に皇太子・公卿・百寮・諸藩の賓客を招いた盛大な葬儀の様子が描かれている。これは同月十一日の天武大内稜への埋葬記事につながり、当然のように「天武天皇の葬儀」と読めるようにされている。以下の通りだ。

■持統二年(六八八年)十一月四日

 A冬十一月乙卯朔(きのとう)戊午(つちのえうま四日)、皇太子率公卿百寮人等與諸蕃賓客、適殯宮(もがりのみやにもうで)而慟哭焉。於是、奉奠、奏楯節[イ舞](たたふしのまい)。諸臣各挙己先祖等所仕状、遞進誄(しのびこと)焉。己未(つちのとひつじ五日)、蝦夷百九十余人、負荷調賦(みつきをおいて)而誄焉。  乙丑(きのとうし十一日)、布勢朝臣御主人・大伴宿祢御行、遞進而誄。直広肆当摩真人智徳、奉誄皇祖等之騰極次第。礼也。古云日嗣也。畢葬于大内陵。

 十二月乙酉(きのととり)朔丙申(ひのえさる)、饗蝦夷男女二百一十三人於飛鳥寺西槻下。仍授冠位、賜物各有差。 [イ舞]は、第4水準ユニコード511B

 しかし、この記事は以下の理由で不審だ。

(1) 天武は朱鳥元年(六八六)九月の崩御で、既に二年以上経過している。持統元年正月にも同様のメンバーで盛大な誄礼儀がおこなわれ、同二年正月には殯宮参りの記述もある。(持統元年(六八七)元年春正月丙寅朔及び持統二年春正月庚申朔)

(2) 正月や命日(九日)埋葬日(十一日)等と無縁の「十一月四日」という儀典日付は不審。

 これが吉野行幸記事同様三十四年遡った(六八八―三四=六五四年)、孝徳十年白雉五年ならどうだろう。


 三.葬儀記事が欠落する孝徳天皇

 孝徳天皇は六五四年十月十日崩御、十二月八日には大坂磯長陵に埋葬された。しかし孝徳紀では十月の崩御記事の次が十二月の埋葬記事で、その間に行われたであろう肝心の「葬儀の記事」が欠落している。

■孝徳(十年)白雉五年六五四年  冬十月癸卯(みずのとう)朔、皇太子聞天皇病疾、乃奉皇祖母尊・間人皇后、并率皇弟公卿等、赴難波宮。
 壬子(みずのえね十日)、天皇崩于正寝。仍起殯於南庭。以小山上百舌鳥土師連土徳、主殯宮之事。
 →A
 十二月壬寅(みずのえとら)朔己酉(つちのととり八日)、葬于大坂磯長陵。是日、皇太子、奉皇祖母尊、遷居倭河辺行宮。老者語之曰、鼠向倭都、遷都之兆也。

 本来→Aに有るはずの葬儀記事がない。ここに、持統二年(六八八)十一月四日、五日の「葬儀」記事Aをはめ込んだらどうだろう。

(十月十日崩御)、十一月四日五日の葬儀、(十二月八日大坂磯長陵に埋葬)、(かっこ持統紀、( )孝徳紀

 と、極めて自然な並びになり、かつ孝徳紀に欠如していた葬儀が復活する。正確には、白雉五年(六五四)十月、十一月中では「戊午つちのえうま」「己未つちのとひつじ」は十月十六、十七日にあたる。持統二年(六八八年)十月には「戊午」「己未」は存在せず、十一月にしか無いため、孝徳紀十月の条の中途で干支付きの記事を切り抜いて持統二年(六八八年)に貼り付けると、暦上十一月にせざるを得ない。(西村氏開発の干支計算ソフトによる)

 結論を言おう。書記に記す、持統二年(六八八)十一月四日に皇太子・公卿・百寮・諸藩の賓客を招いた盛大な葬儀記事は、天武のものならず、三十四年遡った孝徳(十年)白雉五年六五四年十月十六、十七日の「孝徳天皇の葬儀」記事が切り抜かれ、持統紀に貼り付けられたものだったのだ。


 四.蝦夷朝貢記事も切り取られていた

 もうひとつ切り取りの証拠例を挙げよう。キーワードは「蝦夷朝貢」だ。蝦夷の記事は、斉明紀に頻出するとともに、何故か三十数年後の持統二年から三年にもあらわれる。

 持統紀の蝦夷関連記事を見てみよう。(→に三十四年前の暦を示す)

■(再掲)持統二年(六八八)冬十一月  (→白雉五年・六五四)
 己未(つちのとひつじ五日)、蝦夷百九十余人、負荷調賦而誄焉。

■(再掲)持統二年(六八八)十二月十二日(→白雉五年・同)  十二月乙酉(きのととり)朔丙申(ひのえさる)、饗蝦夷男女二百一十三人於飛鳥寺西槻下。仍授冠位、賜物各有差。

■持統三年(六八九)一月三日      (→斉明元年・六五五)
 丙辰(ひのえたつ)、(詔曰)務大肆陸奥国優嗜曇(ウキタマ)郡城養(きかふ)蝦夷脂利古男、麻呂與鉄折、請剔鬢髪為沙門。詔曰、麻呂等、少而閑雅寡欲。遂至於此、蔬食持戒。可随所請、出家修道。庚申、宴公卿賜袍袴。

■持統三年(六八九)一月九日      (→斉明元年・同)
 壬戌(みずのえいぬ)、詔出雲国司、上送遭値風浪蕃人。是日、賜越蝦夷沙門道信、仏像一躯、灌頂幡・鍾鉢各一口、五色綵各五尺、綿五屯、布一十端、鍬一十枚、鞍一具。


 一方、斉明紀の方は、斉明元年に次の蝦夷の記事がある。(四・五年にも記事)。

■斉明元年(六五五)七月
 秋七月己巳(つちのとみ)朔己卯(つちのとう)、於難波朝、饗北北は越ぞ。蝦夷九十九人、東東は陸奥ぞ。蝦夷九十五人。并設百済調使一百五十人。仍授柵養(きかふ)蝦夷九人・津刈(つかる)蝦夷六人、冠各二階。(中略)是歳、高麗・百済・新羅、並遣使進調。百済大使西部達率余宜受、副使東部恩率調信仁、凡一百余人。蝦夷・隼人、率衆内属。詣闕朝献。

■斉明元年(六五五)
 (是年)蝦夷・隼人衆を率いて内属朝献す
 一連の蝦夷の記事を比べれば、注目すべき点がある。それは朝貢する蝦夷の数だ。持統記事を三十四年遡上させて、時系列に並べてみよう。
(1) 持統二年(六八八)冬十一月→白雉五年十一月調賦而誄 一九〇余。
(2) 持統二年(〃)十二月十二日  →〃十二月饗授冠 蝦夷男女 二一三
(3) 持統三年(六八九)一月三日→斉明元年一月
  城養蝦夷脂利古男、麻呂與鉄折が出家、越蝦夷沙門道信に恩賜 四
(4) 斉明元年(六五五)七月、饗・越九九+陸奥九五=一九四
 授冠・柵養九+津刈六=十五 総計 二〇九。


 先ず(1)の蝦夷百九十余と(4)の越九九+陸奥九五の計一九四がピッタリあう。これに(4)の柵養九+津刈六と(3)に登場する四人の蝦夷を足すと、何と(2)の二一三になるではないか。

 もっと厳密に言うと、(1)の白雉五年十一月には越・陸奥の蝦夷百九十五人が誄をおこない、すぐ後に柵養十二+津刈六、計十八人が加わり二一三人となった。これが(2)白雉五年十二月の記事だ。そこから(3)の柵養蝦夷三人と越蝦夷一人計四人が抜け、二〇九人となった。これが(4)の記事なのだ。何と驚くべき正確さではないか。  なお、通説では「城養蝦夷脂利古男」は「脂利古が男」と読ませている。そうすると柵養蝦夷は麻呂、鉄折の二人となるが


(1) 蝦夷に親(族長か)の名を付けて紹介する例もない
(2) 麻呂、鉄折の名前は二字
(3) 脂利古男の「脂利=しり」は、北海道南部に多く登場する蝦夷ゆかりの地名
(4) 脂利古男は「他に見えず」といい「脂利古」が名前である論証は何も無い
 こと等から「城養の蝦夷、脂利の古男、麻呂と鉄折」と解釈すべきではないか。特に、(3)の地名「しり」について、陸奥(優嗜曇は出羽とされる)の事例ではないが、斉明紀五年是月の条に「後方羊蹄(しりへし)」という蝦夷郡地名が出てくる。さらに現在でも倶知安町を中心とする「後志(しりべし)支庁」には尻別川が流れ、尻別岳がそびえる。そしてその尻別川は「羊蹄山」を取り巻いて流れているのだ。これに限らず、松前半島には知内川(しりうちがわ)、周辺には奥尻島、後志利別川など「しり」地名が溢れ、蝦夷ゆかりの地名であることを示している。

 仮に、脂利古が親(族長)であっても、男(子)の出家に伴い離脱した可能性もあるだろう。脂利古の名につき解釈の相違はあれ、蝦夷の人数計算上でも、持統・斉明の蝦夷関連記事が極めてリンクしていることが判る。

 更に不審なのは、持統紀(三年一月三日)に朝貢記事のある蝦夷が「越・陸奥(出羽)」などの南部の居住地域の蝦夷であり、三十年以上前、斉明元年から四年にかけての蝦夷征伐と朝貢記事が「秋田・能代・津軽」など北部居住の蝦夷で「南北が逆転」していることだ。蝦夷征伐の地理的順序を常識的に考えると近(南)から遠(北)だ。持統紀蝦夷朝貢は本来孝徳十年及び斉明元年の出来事で、本来はそれに続いて斉明元年から四年の蝦夷関連記事があったという証拠になるだろう。

 持統紀の「蝦夷朝貢」は、三十四年遡上った孝徳・斉明時代の出来事だった。古賀氏が既に述べられているとおり、九州王朝は、緊迫する唐や朝鮮半島の状況を踏まえ、難波遷都を決行するとともに、背後の憂いをなくすため蝦夷征伐(東北経営)に乗り出した。そして、新たに支配下となった蝦夷の朝貢に関する記事が、持統紀に持ち込まれたのだと考える。


 五.何故三十四年遡上か

 最後の疑問は、書紀編者は、何故「三十四年」遡った孝徳・斉明期の記事を盗用し、持統紀に貼り付けたのだろうか。答えは明白だ。白村江敗戦以降の九州王朝の歴史のカットと改変を行うためだったのだ。

 近畿天皇家は、白村江敗戦の翌年、天智三年(六六四)から、日本書紀の終わる持統十一年(六九七)までの「三十四年間」の歴史を削除し、その間の「歴史を創造」したのだ。

 本来そこには、白村江以降の九州王朝に関する歴史、郭務宗*ら二千名に及ぶ唐の占領軍の筑紫への侵攻と占領政策の実施記事があったはずだ。そして、当然、敗戦につきものの、九州王朝側軍人の処刑、賠償、破壊、略奪・暴行などが無いわけはない。また、これらに対する九州王朝や地元勢力の抵抗・反乱もあったに相違ない。書紀に記された天智・天武年間の唐・新羅への膨大な賜物記事や、磐井の乱の結果とされる九州における石人・石馬・古墳破壊跡、風土記に記された不具・疾病記事などがその証明だ。 宗*は、立心偏に宗。JIS第4水準ユニコード60B0


  【『日本書紀(下):山田宗睦訳』
   持統八年694年夏四月】


 唐は九州王朝の存在そのものを抹消したいことに加え、これらの事件や唐にとって不名誉で秘密にしたい占領政策(筑紫君薩夜馬の利用もそうか)も隠す必要があったことだろう。

 また、近畿天皇家も、「国の初元から我々が支配していた」と主張したいわけで、戦 後の近畿天皇家の唐と九州王朝への対応、特に、九州王朝から政権を奪取した経緯などは明るみに出してほしくない事実だ。

 こうした、唐・近畿天皇家両者が共有する、不都合な歴史をばっさり削除し、両者に都合よく改変された歴史が挿入されたのだ。もちろん、「歴史の創造」といっても、津田左右吉の言うような、「架空のお話」を一から作ったわけではない。その間の(1)近畿天皇家の歴史部分 (2)天変地異や、対外的にカットしづらい事(海外の史書に記述されていること等)は残し、(3)九州王朝の歴史で、主体を近畿天皇家に変えれば都合の良いこと等は、時代や主体を改ざんして記述した。代表例は「壬申の乱」、「大化の改新」だ。「朱鳥」の「徳政令」もそうだろう。

 しかし、そういった方法では(1)「カット」する部分があまりにも大きくなる。隠したい部分はきわめて大きいからだ。(2)また民衆や多くの地方の支配層にとって既知・周知の事実、種々の記録と大きな齟齬が生じる。

 なぜなら、筑紫君薩夜馬の帰還や、九州年号「白鳳」の継続が示すとおり、近畿天皇家の造反があっても、占領軍唐に対応する倭国側の中心勢力は、未だ九州王朝だったと推測されるのだから。特に第二次大戦後、米軍が天皇を占領政策遂行のため温存したように、唐が薩夜馬を活用したとすればなおさらだ。「米軍と日本政府(&皇室等)関連記事」をカットして戦後の日本の歴史書を作るようなもので、中身のまるで無い史書になってしまう。

 そこで、カットした部分には「書記の末尾=持統十一年」から順次「三十四年遡上った」、白村江敗戦前の「九州王朝の歴史」を、近畿天皇家の都合にあわせ抜粋の上、その業績のように改変し、穴埋め記事としてすっぽり貼り付けたのだ。その作業を如実に反映しているのが、一連の「持統天皇の吉野行幸」記事と、その他「三十四年の遡上記事」だと言えよう。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 正木裕氏は以上見たように、『【五.何故三十四年遡上か】 最後の疑問は、書紀編者は、何故「三十四年」遡った孝徳・斉明期の記事を盗用し、持統紀に貼り付けたのだろうか。答えは明白だ。白村江敗戦以降の九州王朝の歴史のカットと改変を行うためだったのだ』と結論付けされているが果たしてどうか?


 正木裕氏の『唐は九州王朝の存在そのものを抹消したいことに加え、これらの事件や唐にとって不名誉で秘密にしたい占領政策(筑紫君薩夜馬の利用もそうか)も隠す必要があったことだろう』

●⇒この具体的な文献・事実・証拠とかが、無いものなのだろうか?私はことがことだけにもう少し慎重に検討したい。

●⇒「壬申の乱」から「大宝改元」迄の間は唐側からの日唐交渉記録が何故か無いと思う、あったかどうかも確信がない。


 『また、近畿天皇家も、「国の初元から我々が支配していた」と主張したいわけで、戦後の近畿天皇家の唐と九州王朝への対応、特に、九州王朝から政権を奪取した経緯などは明るみに出してほしくない事実だ』

●⇒上記同様、文献・事実・証拠とか無いものなのだろうか?私はもう少し検討しても良いと思う。


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(654) 『『日本書紀』の偽書ぶりを紹介します(第◎弾)。偽書たる『日本書紀』は予備知識が無く読んでも分らないぞ』 2011年6月28日(火)

 そうだ、私がいくら「天下立評」とは、倭国の全てが「評制施行」されたことだ。と言っても何それーッ?て、受け取られているのかもしれないな^^学校では「乙巳の変:645」で中大兄皇子が中臣鎌足と計らって蘇我入鹿を討ち「大化の改新:646年」で建郡(=郡制施行)したと習っているのだから。


 そもそも「天下立評」とは何ぞや?偽書たる『日本書紀』は無防備に読んでも分らない^^ように編集されてる。
 【白雉年間の難波副都建設と評制の創設について】
をともかく読む!


 『日本書紀』の偽書ぶりを紹介します(第2弾)。偽書たる『日本書紀』は無防備に読んでも分らない^^
 【白雉改元の史料批判(盗用された改元記事):古賀達也】
をともかく読む!


 『日本書紀』の偽書ぶりを紹介します(第3弾)。偽書たる『日本書紀』は無防備に読んでも分らない!
【日本書紀、白村江以降に見られる「三十四年遡上り現象」について:正木裕】


 『日本書紀』の偽書ぶりを紹介します(第4弾)。偽書たる『日本書紀』は予備知識が無く読んでも分らない^^
【日本書紀の編纂と九州年号(三十四年の遡上分析):正木裕氏】


 『日本書紀』の偽書ぶりを紹介します(第5弾)。偽書たる『日本書紀』は予備知識が無く読んでも分らない^^
【朱鳥元年の僧尼献上記事批判(三十四年遡上問題)正木裕氏】


 『日本書紀』の偽書ぶりを紹介します。偽書たる『日本書紀』は予備知識が無く読んでも分らないシリーズで、一押しは
【日本書紀の編纂と九州年号(三十四年の遡上分析):正木裕氏】


 偽書ぶり紹介シリーズで日本書紀の編纂と九州年号(三十四年の遡上分析)を整理したのが私の労作
【九州年号・書紀天皇表〔九州年号の34年繰り下げ/50年繰り上げ〕】
ですが、お気に召すやらどうやら?


【『日本書紀(下):山田宗睦訳』持統八年694年夏四月】
この頁『13日使者を遣わして広瀬の大忌神と龍田の風神とを祀った』で龍田を雷山か金山として、では、広瀬はどこだろう?伊勢神在か?


 【写真】
をみてくれますか?持統八年694年夏四月一三日の次に『丁亥(ひのとい)〔または丁未。ともに四月中にない〕、天皇が吉野の宮からかえった』丁亥は694年四月には無く次にあるのは660年。


 【丁亥の干支の日】は持統八年694年四月には無い、次にあるのは660年である。『日本書紀』編集の
“からくり”
を古田武彦氏が見つけた瞬間であり【丁亥の干支の日】が鍵だったのです。


 旧唐書は、白村江の戦いは662年と記載する。『日本書紀』は663年だと言う。『日本書紀』は唐の朝廷へ提出されるべく漢文で書かれている。どちらが正しいかって、言わずもがな旧唐書である。『日本書紀』は、白村江の戦いへは日本国は出兵してないので、詳しく知りませんって間違ってみせたのだ。


「白村江戦663年」の以前34年間にあった九州王朝「倭国」の史実を切抜き、あたかも、「白村江戦663年」の以後34年間に大和王朝「日本国」であった史実だと貼り付けて盗作してるのだ。ただ何でもかんでもじゃなくって天変地異・地震・日食とかはそのままにしてるから嘘と真実が混ざってる。


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(655) 『天武天皇は「明日香皇子の薩夜麻」と「大海人皇子」の2人いた』 2011年6月28日(火)


  【『日本書紀(下):山田宗睦訳』
  天武二年673年春二月二七日】


 更に『日本書紀』の偽書ぶりを分る為の予備知識は
【天武天皇は二人いた:日出島哲雄著】
で言う、『日本書紀』天武二年673春二月二七日の条に書かれている天武の皇子に 「 尊 」「 命 」 の区別がある事だ。


 私の本の写真です(落書きでよごれていますが…)。
【『日本書紀(下):山田宗睦訳』天武二年673年春二月二七日】
の条に書かれている天武天皇の皇子にはっきり 「 尊 」「 命 」 の区別がある事が分りますね。


 頁の写真をよく見ると、『飛鳥の浄御原の宮で帝位に即いた』とある天皇位ではないのだ。
古田史学会報no103【「筑紫なる飛鳥宮」を探る:正木裕氏投稿】


 『日本書紀』が吐露する『天武天皇は、明日香皇子の薩夜麻と、大海人皇子の2人いた』という事は、九州王朝「倭国」薩夜麻とプロト大和の大海人皇子とを一人の天武天皇の事績だと表現することで、九州王朝「倭国」を歴史から抹殺したということだ。2人の中のどちらの事績かを、見分けねばならない。


 書紀『飛鳥の浄御原の宮で帝位に即いた』が従来の近畿の『飛鳥の浄御原の宮』に対し、新たな解釈:九州の『「飛鳥」は「筑紫小郡」か』が浮かんできたのである。
《参照》
『古賀達也の洛中洛外日記』第300話 2011/01/16【両京制への展望】の中の項(10)要約

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

(10)「飛鳥」は「筑紫小郡」か  (川西市・正木裕)
ーー書紀の編纂者は「飛鳥浄御原宮」の命名根拠を知らなかったーー

『書紀』では天武が六七二年飛鳥浄御原宮を造り即位したと記す一方、六八六年に朱鳥改元に因んで飛鳥浄御原宮と名づけたとする。この二つの記事の合理的解釈として、
1).飛鳥浄御原宮は九州王朝の宮で「飛鳥の明日香」と呼ばれた筑紫小郡にあった。
2).天武は壬申乱後この宮で即位した。
3).薩夜麻はここで育ち、その地名(山川・野の名)をとり幼名明日香皇子と名づけられた。
4).しかし、近畿天皇家が政権を奪取した九州年号大化期に明日香(飛鳥)は大和の地名とされ、筑紫明日香は阿志岐に変えられた。
5).『書紀』編者は「飛鳥浄御原宮」を近畿天皇家・天武の宮とする必要があったが、筑紫の現地地名に因む宮の名の由来を知らなかった為、「朱鳥改元」を根拠にせざるを得なかった。

以上を「大化改新詔」「古事記序文」「万葉歌」ほかを根拠に示した。


ここで
【天武天皇は二人いた:日出島哲雄著】
をもう一度読み直す。

●『日本書紀』天武二年673春二月二七日の条、天皇は有司に命じて段場を設け、飛鳥の浄御原の宮で、帝位に即いた。

●①【正妃を立てて皇后とす。后、草壁皇子「尊」を生れます。先に皇后の姉大田皇女を納して妃とす。大来皇女と大津皇子とを生れませり。次の妃大江皇女、長皇子と弓削皇子とを生れませり。次の妃新田部皇女、舎人皇子を生れませり。又夫人藤原大臣の女氷上娘、但馬皇女を生めり。次の夫人氷上娘の弟五百重娘、新田部皇子を生めり。次の夫人蘇我赤兄大臣の女太娘、一の男・二の女を生めり。其の一を穂積皇子と曰す。其の二を紀皇女と曰す。其の三を田形皇女と曰す。】 

●②【天皇、初め鏡王の女額田姫王を娶して、十市皇女を生しませり。次に胸形君徳善が女尼子娘を納して、高市皇子「命」を生しませり。次に宍人臣大麻呂が女かぢ媛娘、二の男・二の女を生めり。其の一を忍壁皇子と曰す。其の二を磯城皇子と曰す。其の三を泊瀬部皇女と曰す。其の四を託基皇女と曰す。】

●①の「田形皇女と曰す」まで皇子皇女を記した次に、②の「天皇、初め鏡王の女額田姫王を娶して」は不自然な文である。

●「草壁皇子尊」の「 尊 」と、「高市皇子命」の「 命 」表記の違いは出典が異なることを示している
 草壁皇子尊から田形皇女までの父親と、十市皇女から託基皇女までの父親は別人である

【大友皇子と鞠智城(壬申の乱は九州)】
から前者①が大海人皇子であり、後者②が壬申の乱を起こした人物であることが分かる。

天武天皇が二人いたことは、高市皇子命天皇説と七0一年(大宝元年)の王朝交代の証拠となる。<以下略>


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(656) 『「草壁皇子尊」の「尊」父親が大海人皇子であり「高市皇子命」の「命」父親が明日香皇子の倭王薩夜麻である』 2011年6月29日(水)

 【天武天皇は二人いた:日出島哲雄著】
の結論を整理すると、どうなるか。即ち、 前者①の「草壁皇子尊」から田形皇女までの「尊」の父親が大海人皇子であり、 後者②「高市皇子命」を含む、十市皇女から託基皇女までの「命」父親は壬申の乱を起こした別人物、即ち、明日香皇子の倭王・薩夜麻である。


●日出島哲雄氏は上記結論から、更に続けて、

【天武天皇が二人いたことは、高市皇子命天皇説と七0一年(大宝元年)の王朝交代の証拠となる】とする。


 高市皇子命天皇説の根拠は二つある。

◎斉藤忠氏は『倭国と日本古代史の謎』(学習研究社、二00六年)で高市皇子天皇説の二つの根拠を述べている。また、七0一年(大宝元年)の王朝交代について述べている。


◎斉藤忠氏はまず高市皇子が亡くなった後の皇位継承会議について述べている。

 彼(高市皇子)の死後、皇位継承者がいないので、それを選ぶ会議がもたれた。ところが、会議の模様を伝える『懐風藻』の「葛野王伝」は、「高市皇子薨りて後に、皇太后王公卿士を禁中に引きて、日嗣を立てむことを謀らす。時に群臣各私好を挟みて、衆議粉紜なり」と記す。

 高市皇子が亡くなって日嗣を立てる衆議は、高市皇子が天皇でなかったなら不要であると私は思う。


◎斉藤忠氏は次に長屋親王について述べている。

 高市皇子の嫡子に長屋王がいた。平城京の邸宅跡から大量の木簡が出土したが、中に「長屋親王宮鮑大贄十編」と墨書されたものがあった。彼は長屋親王と呼ばれていたのだ。9世紀の仏教説話集『日本霊異記』にも「長屋親王」とある。

「大宝律令」によれば、親王とは父が天皇か、兄弟が天皇の場合のみ許される尊称だ。長屋王の兄弟(男一、女二)に天皇はいないし、それを匂わす異伝もない。すると、父・高市皇子が天皇だったことになる。


◎斉藤忠氏は次に七0一年(大宝元年)の王朝交代について述べている。

『新唐書』は『日本書紀』と異なる情報を我々に提供してくれる。たとえば、「長安元年(七0一年)、その王(文武)立ち、大宝と改元した」という一節だ。

『日本書紀』によれば、文武天皇は六九七年に即位する。また『続日本紀』によれば、大宝元年は七0一年だ。改元の年次は日中の史書ともに一致するが、文武の即位年がずれている。

 まず注目したいのは、『新唐書』の伝える「大宝と改元した」という情報だ。改元はその前にも元号があり、それをやめて新たな元号に置き換えることが本義だ。ところが『日本書紀』『続日本紀』にも、大宝にバトンタッチされた元号に言及しない。『新唐書』は嘘をついているのだろうか。

 すでに触れたように、一連の年号群「九州年号」が存在している。三二からなる一連の年号は五二二年以降連綿と続き、六九五年を元年とする大化を最後に消滅する。

 『新唐書』が九州年号を知っていたかどうかは不明だが、大宝へバトンタッチされる元号の存在を認識した上で「改元」なる表現をとったことは明らかだ。

 「九州年号」は大化六年(七00年)をもって消滅するが、大宝とそれに続く元号群が七0一年以降連綿と続く。このことは、それらが「九州年号」にとって替わったことを意味する。
 元号とは絶対暦年(年代座標)を確定するため、切れ目なく連綿と続くのが本義だし、天子が定めるものなのだ。元号と王朝は表裏一体のものなのだ。

 であれば、七0一年に朝廷が交替したととる他ない。易姓革命があり、文武は新王朝の君主として立った、ということになろう。

 文武天皇は日並知皇子尊の第二子であると『続日本紀』に記されている。日並知皇子尊は草壁皇子と同一人物だという。草壁皇子尊の父親と高市皇子命の父親は別人である。高市皇子命から文武に皇位が移ったことは易姓革命である。

 日並知皇子尊と草壁皇子が同一人物であるという確証をわたしはまだ見ていない。この二人が同一人物でなければ、七0一年(大宝元年)の王朝交代は、より複雑になる。


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(657) 『「持統紀」はなかった、本来は「高市紀」だった:飯田満麿著』 2011年6月29日(水)

 いま一つ、珠玉の論文
【「持統紀」はなかった、本来は「高市紀」だった:飯田満麿著】
がある。プロト大化改新の後皇子尊(=倭王・高市)の薨去という暗殺事件696年のコピーが、乙巳の変・大化改新だと分る。


 上記【「持統紀」はなかった、本来は「高市紀」だった:飯田満麿著】末尾『9.結びにかえてー外国史書の証言』の項に、

『特筆すべきは、『新唐書』「東夷伝」に神武以降光孝まで58代の日本国天皇名を記載している事である。

 このように他国の王朝歴代の王名表を正史中に記載する場合、その原資料は当然相手国の奉呈した国書中の記載による筈である。

 『新唐書』の場合、これは恐らく長安(701)の粟田真人奉呈の国書、によったと推定される。この時の日本国王名表は、当然和風諡号だった。

 これは「唐」側として、甚だ意思疎通に欠けるもので、不満の意が表明されたと思われる。この事態を受けて、「近畿王家」は大陸の風に倣って急遽漢風諡号を制定した。これは「唐」側に記録されている、開元初年(713)の粟田真人を正使とする遣唐使によって報告されたと推定される。

 但しこの開元初年の遣使記録は日本側には記録されていない。

 713年は和銅6年に当る時の天皇は元明天皇であるが、この漢風諡号の原資料は大宝元年(701)の遣唐使の報告であると推定される(付記参照)。』とある。


 ここで、私が思うに、「唐」側に記録されている『開元初年(713)の粟田真人を正使とする遣唐使によって報告された』はずの遣使記録を日本側は、何故記録しなかったのか?

 同書を今、再度読み直してみると、随所に飯田氏のフライイングではないかと思う箇所が目に付くようになった。この一年で私の眼も肥えてきたようだ^^


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(658) 『ドナルド・キーン氏89才が日本国籍を取られるそうだ。18才で英訳された『源氏物語』を読んで感動』 2011年6月30日(木)


  【『源氏物語(巻二):円地文子訳』薄雲p269】


 ドナルド・キーン(=鬼怒鳴奴^^)氏89才が日本国籍を取られるそうだ。18才で英訳された『源氏物語』を読んで感動し、日本贔屓になられた由。日本人の私にとって『源氏物語』は、さほど感動を与えるものではないのだが…欧米人が英訳された『源氏物語』からどのような感銘を受けるものなのだろうか。


 ドナルド・キーン(=鬼怒鳴奴^^)氏89才が日本国籍を取られるそうだ。18才で英訳された『源氏物語』を読んで感動し、日本贔屓になられた由。この英訳された『源氏物語』薄雲の巻は源氏32歳632年、突如太政大臣、次に式部卿の死が語られ、冷泉帝が嘆かれる。なーんて、知ってないよね^^


【『源氏物語』薄雲の巻は源氏32歳632年、突如太政大臣、次に式部卿の死が語られ、冷泉帝が嘆かれる】
更に二十六歳の弾正尹為尊親王も亡くなる事件でした


  【『源氏物語(巻二):円地文子訳』薄雲p279】


『源氏物語』には太政大臣と式部卿が亡くなったことが記されますが、さらに二十六歳の弾正尹(だんじやうのいん)(現在の警察庁長官)為尊(ためたか)親王も亡くなる事件でした。
 このことは『源氏物語』と『和泉式部日記』から明らかになります。


 唐からの一団は冊封関係を強いる使いであったため、王子である為尊親王は拒否をし、高表仁と言い争いになり、切られてしまいます。
 傍にいた太政大臣(現在の総理大臣)と式部卿(現在の外務大臣)も巻き添えを食うことになります。

 事件は博多駅辺にあった高津の宮に唐の使節を迎えての会談の場で起こったと考えられます。
 強大な国家唐が意図して起こしたと考えられる外交事件です。
 十四歳の冷泉帝を補佐する最高権力者である三十二歳の源氏は、三十六歳の唐の太宗の意図を外し、「表仁、綏遠の才無く、王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る」という形でこの事件を処理したものと思われます。


  【『和泉式部日記:清水文雄校注』帥の宮p29】


 この時の緊張感は『和泉式部日記』にも記されており、633年5月5日のことと分かります。


 帥(そち)の宮の侍従の乳母(めのと)が、和泉式部のところに出かけようとする帥の宮に小言をいう場面があり、その中で次のように言う。


 世の中は今日明日とも知らず変わりぬべかめるを、殿のおぼしきつることもあるを、世の中御覧じはつるまでは、かゝる御歩きなくてこそおはしまさめ


 (現代語訳)最近の政情は今日明日と関係なく変ってゆくに違いないのですから、殿が御計画を立てておかれたこともあるように、政情の変化の結果が見極められるまではこのような御歩きをなさらないでいなさい


 〔 法隆寺移築説の原点である観世音寺・考 : 米田良三 論 〕
の【2.『源氏物語』の観世音寺】項末尾に、『この時の緊張感は『和泉式部日記』にも記されており、633年5月5日のことと分かります』⇒
これって?632 633 年5月5日の間違いではないかと思うのですが如何?


 633年5月5日のことと分かります⇒
これって?632 633 年5月5日の間違いではないかと思うのですが如何?⇒
633年云々の件を米田氏に聞いてみました。「事件は632年に起きましたが、その後、高表仁は633年に亘り倭国に拘束されていたので表記としてはこれでOK」とのことでした。




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