大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 035 》
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ
白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、
日本書紀の〔 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権
2010年 4月 2日 発行
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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ https://waikoku.sakura.ne.jp/yamato.html 2:32 PM Apr 2nd webから ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(659) 『大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立 :小式部内侍 百60』 2011年6月30日(木)
『大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立 :小式部内侍 百60』
⇒母の居るところは大江山を経て幾野を過ぎて行くので、何分にも遠い道であるから母からの文はまだ見ません、また名所である大江山、幾野はもちろん、天の橋立にも足を踏み入れた事のない未熟な私でもあります。
京都と丹後国は近く、馬を使えば1日で往復は十分可能で、定説が解釈する京都におけるこの歌の成立自体はない。また小式部は大江山、いくの、天の橋立の三つの地名の位置関係を机上で理解していたことは疑えなく、筑紫から船で到着する天の橋立、丹後国の一番高い山である大江山、国の奥に位置の幾野が歌われる。
この歌は和泉式部が保昌と共に丹後国に滞在中、都において行われる歌合せに娘の小式部が召されたことに始まる。中納言の定頼は局のほうへ来て「歌はどのようにするのか、丹後へは人を使わしたのか、その使いは戻ってきたのか、どんなに心配してるのか」とからかって立ち去ろうとした時歌った歌であり、この歌で和泉式部の娘の小式部は歌人として認められたといわれる。
以上は、
要はここでの京とは、大宰府が都だった頃の歌だと指摘している。
『大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立』
丹後国の名所の大江山・幾野・天の橋立へ足を踏み入れた事がない(大宰府から母の居る丹後は遠くて文も返って来ない)。京都と丹後即ち今の福井県は近くて馬を使えば1日で往復は十分可能、定説が京都での歌だとすれば成立自体が無い。
『大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立 :小式部内侍 百60』
〔福井県の原子力発電所は15基の原子力発電所があります。〕・《魚拓》
『大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立』
ふぇー
原発推進派は、この“たかり”の構造をうまく利用してるんだね^^佐賀県の玄海町長も傍のことは如何でも良い、自分は“たかり”で生きてゆくってさ、落ちぶれたもんだね。
(660) 『つまり『和泉式部日記』に記される故宮、帥宮は、上宮王の息子たちであり、大殿は、上宮王の息子の光源氏だ』 2011年7月1日(金)
『和泉式部日記:清水文雄校注』解説p116に『弾正尹為尊親王は、冷泉天皇の第三皇子で、三条天皇の同母弟、御母は摂政太政大臣藤原兼家の女、贈皇后宮超子である。長保四年(1002)薨去云々
一方で、『大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立』丹後国の名所の大江山・幾野・天の橋立へ足を踏み入れた事がない(大宰府から母の居る丹後は遠くて文も返って来ない)。京都と丹後即ち今の福井県は近くて馬を使えば1日で往復は十分可能、定説が京都での歌だとすれば成立自体が無い。
弾正尹為尊親王は長保四年1002年薨去、と主張の定説に対し、米田良三氏は先の和泉式部の娘の小式部内侍(百60)の歌はどう見ても、大宰府が都の時の歌だ、と言っている。思うに倭国は684年大宰府から灘波京へ遷都しているが、その前の白村江敗戦後の唐大宰府進駐の664年以前は確かだろう。
以下は
『すでに見てきたように『和泉式部日記』は倭国の滅亡する672年以前に書かれている。
和泉式部のその後の生活が同じ環境が続いていることから判断すると『和泉式部日記』は630年代に書かれたと考えられる。となると和泉式部の相手である帥の宮は誰かと言うことが問題である。
帥の宮はもちろん定説に言われる九州大宰府の長官ではなく、古い官名である六卿の首であり、倭国の国政の長官である。
『和泉式部日記』に登場する王族は故宮、(帥)宮、うち、(大)殿、春宮である。
『源氏物語』の考察【17.桐壺帝・更衣 = 上宮王・千食王后】で述べたところだが、桐壺帝は法興帝、すなわち上宮王がモデルであり、622年の上宮王の死を桐壺帝の退位として描く。
『和泉式部日記』が書かれた630年頃の帝は『源氏物語』の呼称を用いると朱雀帝である。そうすると(大)殿は同様、六条院と呼ばれた光源氏のことであり、春宮は後の冷泉帝となる。
桐壺帝の子供に関して、源氏物語系図(伝藤原家隆筆)に次のように記される。
朱雀院、六条院(⇒大殿・光源氏)、冷泉院(⇒春宮)、蛍兵部卿親王、承香殿四宮(⇒故宮・弾正尹為尊親王だんじょうのかみためたか)、帥宮(⇒敦道親王あつみち)、宇治第八親王、蜻蛉式部卿宮、一品宮(女一宮)、前齋院(女三宮)。
『源氏物語』の紅葉賀の巻に源氏の「青海波」の紹介の後p319「承香殿の御腹の四の御子、まだ童にて、「松風楽」舞ひ給へるなん、さしつぎの見物なりける。これらに、おもしろさ尽きにければ、他事に目もうつらず」と取上げられたのが承香殿四宮だが、その後物語に現れることはなく、亡くなった可能性が大きく、『和泉式部日記』の故宮に一致する。つまり紅葉賀の時、5歳とすると23歳ころ亡くなったことになる。
帥宮は「蛍」の巻に、六条院の馬場の御殿で行われた競射に参加した蛍兵部卿とともに、「花散里」に比較評価されて登場する人物である。帥宮から兵部卿に替わった蛍の宮と比べられており、帥宮26歳の時である。
つまり『和泉式部日記』に記される故宮、帥宮は、上宮王の息子たちであり、大殿は平安時代の藤原道長ではなく、上宮王の息子の光源氏である。
(661) 『大宰府を京とみなさないと、付近の地理との相関が理解できない』 2011年7月3日(日)
先に紹介の和泉式部の歌
『関山の せきとめられぬ 涙こそ あふみのうみと ながれ出づらめ :和泉式部』
〔石山寺推定地:南区南大橋〕
米田良三氏は「⑬和泉式部」の項p247で、
先に
維新戊辰戦争で、周防・田布施の高松宮で作った「錦の御旗」を押し立て「宮さん・宮さん、お馬の前をひらひらするのは何んじゃいな」と歌って行進したという。私はこの「錦の御旗」は壬申乱の「駅鈴」を真似たものではと以前指摘していますが、源氏物語から「桂殿」を発見「桂離宮」へ移築と同様です。
【「清明上河図」に描かれた石とレンガで築かれた『逢坂の関』】
更に現在の水城の場所には、花崗岩石を積んだ垂直な城壁が築かれ、その城壁の関所が「逢坂の関」だと言う。米田氏は白村江敗戦後、唐進駐軍がこの城壁を壊した。更に後、野面石と土で大堤を作った。これが今の「水城」だと言う。私は当時も今と同じ土塁と思ってたが花崗岩の中国風城壁だったのだろう。
この城壁の内側に「淀」があり、その「淀」に面して「打出の浜」「関山」があったというのだ。先に、泊瀬寺の傍を初瀬川が流れ、その下流に「高瀬の淀」・「関谷」があって、今の北山湖の下に沈んでいる。余談だが私は、この『「高瀬の淀」「関谷」』と、『「淀」「関山」』とパット見早合点していた。
米田氏は「⑬和泉式部」の項p239で、『関山の せきとめられぬ 涙こそ あふみのうみと ながれ出づらめ』⇒関山が堰き止められないほどの(都で流す)宮の涙は、淀にあふれ、賀茂川を流れて近江の海に流れ出るのだから、宮自身が近江の海に流れ出なさい⇒この地理を踏まえると分り易いと言う。
(662) 『「清明上河図」に描かれた石とレンガ逢坂の関、近江の海に面して建つ石山寺、更に美しい石造アーチの長柄橋』 2011年7月3日(日)
【「清明上河図」に描かれた石とレンガで築かれた『逢坂の関』】
『夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ :清少納言・百62』
【「清明上河図」に描かれた石とレンガで築かれた『逢坂の関』】
かの光源氏、和泉式部、紫式部が籠ったことで知られる
清明節の日の灘波津(現在の博多)と近江の海(現在の福岡市外)へ注ぐ賀茂川を跨ぐ
「清明上河図」はピンからキリ迄あるようで、米田氏が言う通りなら
【「清院本清明上河図」台湾の國立故宮博物院】
【北京 故宮博物院所蔵の「清明上河図」】
【台湾の國立故宮博物院〔本院〈情境區-清明上河圖〉各版本比較〕】
米田良三氏は著書のp244で次のように書く、『唐が(672年占領の倭国から)持ち出した一番重要な絵画は「清明上河図」と呼ばれる絵巻物である。清朝画院本をはじめ、現在世界に四十一本の摸写本がある。本物は公表されていないし、本物のあることも伏せられているのが現状である。摸写本全体から推定できる本物の絵柄は次のようなものだろう。
清明節の日の灘波津(現在の博多)と近江の海(現在の福岡市街)から描き始め、賀茂川(現在の御笠川)を遡り、京(現在の大宰府都城)まで。途中、現代人も驚嘆する美しさの石造アーチ橋の長柄橋の俯瞰、石とレンガを積んだ城壁(跡地に土盛りをしたのが現在の水城)をくぐる逢坂の関の様子などが克明に描かれている。云々』
要するに、米田良三氏は「清明上河図」本図は清明節の日の灘波津(現在の博多)と近江の海(現在の福岡市外)へ注ぐ賀茂川(現在の御笠川)沿いに、長柄橋・石山寺・ 逢坂関・大宰府都城迄を絵巻物にしたもの。唐が九州王朝「倭国」の都・大宰府を占領開城した時、戦利品で持出した物だと言っている。
(663) 『夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ :清少納言』 2011年7月4日(月)
【「清明上河図」に描かれた石とレンガで築かれた『逢坂の関』】
『夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ :清少納言』
『続・法隆寺は移築された(『源氏物語』は筑紫が舞台だ):米田良三著』
『信じられないことと思うが、水城の位置には花崗岩を積んだ将に絵の様な垂直な城壁が造られていた。
その城壁に設けられた関所が逢坂の関である。672年に征服され、城壁が完璧に壊される。そして野面石と土を用いて大堤を造り、『日本書紀』に「大堤を築いて水を貯えた。これを水城を名づけた」と記した。城壁は完璧に消されたが、逢坂の関の跡は僅かに残る。高遠が入府の際、府官が集まった水城の関は逢坂の関跡のことであり、城壁が壊されたあと新たに刈萱に関が造られたのである。
倭国の観世音寺の建築が法隆寺へ移築され、後に名前は同じ観世音寺だが、稚拙な建物が造られたように、土木構築物は壊すことで本来の姿を消滅させ、後に稚拙な大堤を造ったのである。
高遠は嘗ての逢坂の関の姿を重ねて嘆き、菅家は刈萱関の関守の厳しい態度に対して嘆く。大宰府大伴卿は水城を訪れて嘗ての城壁を思い出しての感傷のなかにある。』
【続・法隆寺は移築された『源氏物語』は筑紫が舞台だ】
先に私は『日本書紀』を読まんとされる方へは「34年移動説」をぜひ理解して読まれる事をお勧めしました。同様に古典『源氏物語』『枕草子』『住吉物語』『伊勢物語』『和泉式部日記』『紫式部日記』『土佐日記』等々を読もうとされる方へは【続・法隆寺は移築された『源氏物語』は筑紫が舞台だ】をぜひお勧めします。
とまー、『源氏物語』『枕草子』『住吉物語』『伊勢物語』『和泉式部日記』『紫式部日記』『土佐日記』を読も前に
『日本書紀』の読者の方へは「34年移動説」の理解を、また古典『源氏物語』『枕草子』『住吉物語』『伊勢物語』『和泉式部日記』『紫式部日記』『土佐日記』等々の読者の方へは【続・法隆寺は移築された『源氏物語』は筑紫が舞台だ】をぜひお勧めって“ツイッター”で強調しても、全く「真逆の世界」だ。届かぬ思いか^^ふーッ
(664) 『幕末長州藩へ『七卿落ち』の際、壬申乱の「駅鈴」を真似て、7卿中の三条実美卿?が「錦の御旗」を考案した』 2011年7月6日(水)
維新戊辰戦争で、周防・田布施の高松宮で作った「錦の御旗」を押し立て「宮さん・宮さん、お馬の前をひらひらするのは何んじゃいな」と歌って行進したという。私はこの「錦の御旗」は壬申乱の「駅鈴」を真似たものではと以前指摘していますが、源氏物語から「桂殿」を発見「桂離宮」へ移築と同様です。
この「錦の御旗」は、幕末長州藩へ公家の「三条実美、三条西季知、東久世通禧、沢宣嘉、壬生基修、四条隆謌、錦小路頼徳」の『七卿落ち』はつとに有名ですが、壬申乱の「駅鈴」を真似て、7卿のうちの誰か、たぶん三条実美卿が倭国史書を読み知ってて、「駅鈴」を真似て「錦の御旗」を考案したと思う。
「高市天皇」暗殺の下手人は「丹比真人嶋」「安倍朝臣御主人」「大伴宿禰御行」「石上朝臣麻呂」「藤原朝臣不比等」の5名。『703年文武7年4月1日阿倍朝臣御主人が薨じた時点で倭国系の「丹比真人嶋」「安倍朝臣御主人」「大伴宿禰御行」が死に、「石上朝臣麻」「藤原朝臣不比等」が残る。
○『696年〔持統10年(持統即位7年):大化2年〕7月10日、後皇子尊『
696年〔持統10年(持統即位7年):大化2年〕7月10日、後皇子尊『高市皇子{高市天皇}』が薨じた。この『日本書紀』の記事には後皇子尊『高市皇子』が、倭国王の高市天皇とも書かれていないし、「突如崩御した・薨じた」原因が病気なのか、怪我なのか、暗殺なのかも書かれていないのだが…
●『696年〔持統10年(持統即位7年):大化2年〕10月22日、かりに、正広参〔正三位〕の位の右大臣丹比真人嶋に、資人120人を賜った。正広肆〔従三位〕の大納言安倍朝臣御主人・大伴宿禰御行に、ともに80人。直広壱〔正四位下〕石上朝臣麻呂・直広弐〔従四位下〕藤原朝臣不比等に、ともに50人。
天皇が崩御
以上から「高市天皇」暗殺の下手人は、
696年〔持統10年〕7月10日、後皇子尊『 高市皇子{高市天皇}』が薨じた⇒暗殺した下手人5名中で、倭国系の「丹比真人嶋」「安倍朝臣御主人」「大伴宿禰御行」の3名は、『703年文武7年4月1日阿倍朝臣御主人が薨じたを最後に、結局一人ずつ闇にまぐれて抹殺・暗殺されたということだ。
幕末ガチガチの佐幕攘夷派の孝明天皇を暗殺し天然痘で死んだことにし、大室寅之助を明治天皇にすり替えた明治維新。これと、「プロト大化の改新」で倭国王の高市天皇を暗殺し、倭弟王家の文武天皇が即位し、大和朝廷が開闢した。いずれも公家の離反によると考えられると実に良く附合してないだろうか?
幕末ガチガチの佐幕攘夷派の孝明天皇を暗殺し天然痘で死んだことにし、大室寅之助を明治天皇にすり替えた明治維新。これと、「プロト大化の改新」で倭国王の高市天皇を暗殺し、倭弟王家の文武天皇が即位し大和朝廷が開闢した。いずれも公家が天皇を見限ったと考えると実に良く附合しているではないか。
故郷は徳山の山間部です。田舎を後にした50年の歳月は過疎化が激しくて当時を偲ぶよすがもありません。此処に小道があって向うの畑に通じてたはず、と思っても今は竹薮に覆われています。まして、倭国の主だった遺跡と言えども、放置されて1,300年に及ぶとすれば、きっと見る影もないでしょう。
〔倭国の遺跡スポットを訪ねてみよう〕ジオログへようこそ。米田良三氏がこれまで特定してきた九州王朝「倭国」の跡地は、聖地小倉山・薬師寺・東大寺・磐井(=倭薈)の墓・法隆寺・三十三間堂・桂離宮・吉野宮・吉野ヶ里・伊勢神宮・長谷寺、とても多くなってきました。これらの跡地を訪ね散策して見てはいかがでしょう。
…とお誘いしても、観光・物見遊山を目的とするわけでもなく、面白くもない歴史散策に集って戴けるかと甚だ心もとありません。その上、九州王朝「倭国」の遺跡と分かるや否や公表前に、吉野ヶ里遺跡のように環濠集落跡だと改竄されます。でも、日本人のもと来た道を訪ねて彷徨う人々が跡を断ちません。
読みたい本は最近は専らAmazonで買います。そうすると中古書にでくわします。手に取って頁をパラパラとめくると几帳面な書き込みがびっしりされていて、最初のオーナー亡くなったのかなーとか、『日本書紀』は特にこの書き込みが多いんですね、嘗てのオーナーと自分がダブって笑ってしまいます。
(665) 『これを、はたして「万世一系」と言えるのか?そうです、あくまで建て前にすぎませんね』 2011年7月7日(木)
【帝国電網省⇒歴史再考14:「倭国」は滅亡していた!! 白村江の戦の結末】
【帝国電網省⇒歴史再考17:「北朝」は滅亡していた!! 南北朝秘史-其の壹】
【帝国電網省⇒歴史再考20:「明治天皇」は暗殺されていた!! 南北朝秘史-其の肆】
【明治維新の真実(南朝・明治天皇): INFACT】
禁断の書
逆に、この鹿島昇の3著作を読まないで明治維新を語っても、わさび抜きの寿司食らってるみたいなもんでしょうね。
これら明治維新の鹿島昇禁断の書籍をお疑いで、東京近在にお住まいの方は明治神宮をご参拝してください。明治天皇のお后が、なぜか、「昭憲皇太后」になっていますね。お后なんだから、「昭憲皇后」のはずでしょう。いくらなんでも、「皇(太)后」はないでしょう。何らかの書き間違いでしょうか^^みんな知ってるのでしょう、知らないのはあなただけです。
もう一度言います、明治神宮をご参拝してください。明治天皇のお后が、なぜか、「昭憲皇太后」になっていますね。お后なんだから、「昭憲皇后」のはずでしょう。いくらなんでも、「皇(太)后」はないでしょう。何らかの書き間違いでしょうか^^みんな知ってるのですね、知らないのはあなただけです。
参照
【帝国電網省⇒歴史再考20:「明治天皇」は暗殺されていた!! 南北朝秘史-其の肆】
◎⇒ここの一部を抜粋・転載します。
『これを裏付ける「証拠」が「皇統譜」(皇室系図)に載っています。
昭憲皇太后
上の系図を見ての通り、明治天皇の正妻は「昭憲皇太后」です。この名前にキーワードが隠されているのです。天皇の后妃ならば、本来、「皇后」と付けるべきです。つまり、この場合、「昭憲皇后」と言う訳です。しかし、実際には「天皇の母」や「先帝の后妃」に付けられる「皇太后」の尊称が付けられています。更に、明治天皇の子・大正天皇の生母は典侍だった柳原愛子(なるこ)です。なぜ、明治天皇と昭憲皇太后の間に子供が出来なかったのでしょうか? 昭憲皇太后が子供を産めない体だったのでしょうか? 私は決してそうではなかったと思います。
孝明天皇─睦仁親王(本来の明治天皇)
もし、上記の様に、昭憲皇太后が睦仁親王の正妻だったとしたらどうでしょう? 明治天皇(大室寅之祐)と昭憲皇太后との間に「関係」がなかったとしても、別段、不思議ではありません。むしろ、その方が自然ではないでしょうか? 自分の夫を暗殺され、更に夫の名前を語って即位した者に、体を預けるでしょうか? 現在よりも「女の操(みさお)」を大切にしていた時代の事、尚更です。昭憲皇太后は終生、御所内に「幽閉」されたも同然であったのではないでしょうか? 又、こう考える事で、初めて「皇太后」尊称の意味が通るのです。「明治天皇」にとって、短命だったとは言え、「睦仁親王」は孝明天皇より皇位を継承した「先帝」です。その先帝の妻だったからこそ、「皇太后」なのです。そして、柳原愛子こそが、明治天皇にとっての本来の「皇后」だった訳です。』
以上ですが、鹿島昇の著書と
(666) 『『書紀』大化元年八月「東国国司招集の詔」は「倭国」が発し、「東国国司の賞罰詔」は大和朝廷が発したもの』 2011年7月7日(木)
以下は
『藤原宮で公布された「建郡」の詔書には大化年号が書かれていた。
しかし、この仮説にも更なる難問があります。それなら何故、藤原宮で出された「改新詔」に他王朝の年号である大化が使用されたのかという疑問です。
わた しにはまだわかりませんが、西村秀己さん(古田史学の会全国世話人、向日市)は次のような恐るべき仮説を提起されています。
「藤原宮には九州王朝の天子が いた」という仮説です。すなわち、「大化改新詔」は形式的には九州王朝の天子の命令として出されたのではないかという仮説です。』
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
引き続き、次に
8). 東国国司詔の実年代(川西市・正木裕)
(1)『書紀』大化元年(六四五)八月の「東国国司招集の詔」の発せられた実年は、九州年号大化元年(六九五)であり、近畿天皇家が、九州王朝により任命されていた国宰の権限を剥奪・縮小し、律令施行に向け新職務を課す主旨。
(2)大化二年(六四六)三月の「東国国司の賞罰詔」は、文武二年・九州年号大化四年(六九八)に、近畿天皇家が、新政権への忠誠度や新職務の執行状況により、国宰を考査し処断・賞罰を行う旨の表明。
(3) 賞罰詔中に記す「去年八月」の詔とは、文武元年八月(六九七)の文武即位の宣命を指し、文武への忠誠と、国法遵守を命じたもので、これを基に賞罰が行われたと考えられる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
私は上記「西村仮説」を仮説でなく、次のような「史実だった」だろうと解釈しています。
①九州王朝「倭国」の天子・高市天皇は灘波京焼失后、弟王家の近畿天皇家から借りて兄弟王家同居の飛鳥浄御原宮から、倭国の自らの新都・藤原京完成后直ちに遷都し、晴れて九州年号を「朱鳥」から「大化」へ改元(695年)した。
②九州年号大化元年(六九五)八月、九州王朝「倭国」の筑紫兄王家が、弟王家の近畿天皇家へ全面委任していた長門以東の「評制の施行・維持・管理」を見直しし、近畿天皇家により任命されていた国宰の権限を剥奪・縮小し、新律令施行に向け新職務を課す主旨の「東国国司招集の詔」を九州王朝「倭国」の天子・高市天皇の自らが発した。《これは、正木裕氏が指摘の8). (1)項ー『書紀』大化元年(六四五)八月の記事》
③更に、九州年号の大化2年(696)正月一日、九州王朝「倭国」の天子・高市天皇は、藤原宮で「廃評建郡(=評制を廃し、郡制を施行)」の『大化改新の詔』を宣言した。なお、藤原宮で全国へ公布された「建郡」の詔書には大化年号が書かれていた。
④長門以東の「評制の施行・維持」を全面委任されていた弟王家の近畿天皇家にとって、上記見直しは「やりすぎ」であり、甚だ不利な内容であり、筑紫兄王家側の重臣にも同情者があった。
⑤結果、『696年〔持統10年(持統即位7年):大化2年〕7月10日、後皇子尊『高市皇子⇒高市天皇』が薨じた⇒高市天皇を暗殺した(=プロト乙巳の変)。
⑥筑紫兄王家の高市天皇暗殺后、弟王家の近畿天皇家は、九州王朝「倭国」の筑紫兄王家の立場へと、そっくり入れ替わって、次の「東国国司の賞罰詔」を宣した。
《これは、正木裕氏が指摘の8).(3)項ー「東国国司の賞罰詔」賞罰詔中に記す「去年八月」の詔とは、文武元年八月(六九七)の文武即位の宣命を指し、文武への忠誠と、国法遵守を命じたもので、これを基に賞罰が行われたと考えられる。》へ続き、次いで、
《これは、正木裕氏が指摘の8).(2)項ー大化二年(六四六)三月の「東国国司の賞罰詔」は、文武二年・九州年号大化四年(六九八)に、近畿天皇家が、新政権への忠誠度や新職務の執行状況により、国宰を考査し処断・賞罰を行う旨の表明。》となると言えよう。
即ち、正木裕氏が指摘の8).(1)項ー『書紀』大化元年(六四五⇒六九五)八月の「東国国司招集の詔」は九州王朝「倭国」の発したものであり、
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
それでは、
④長門以東の「評制の施行・維持」を全面委任されていた弟王家の近畿天皇家にとって、上記見直しは「やりすぎ」であり、甚だ不利な内容であり、筑紫兄王家側の重臣にも同情者があった。
⑤結果、『696年〔持統10年(持統即位7年):大化2年〕7月10日、後皇子尊『高市皇子⇒高市天皇』が薨じた⇒高市天皇を暗殺した(=プロト乙巳の変)。
【プロト乙巳の変】のもとと成った『皇太子使使奏請曰』を詳しく見てみよう。
『《巻首》◆日本書紀巻第二十五《大化二年(六四六)三月壬午【二十】》』
(原文)
《大化二年(六四六)三月壬午【二十】》
現為明神御八嶋国天皇、問於臣曰。其群臣・連及伴造。国造所有昔在天皇曰所置子代入部。皇子等私有御名入部。皇祖大兄御名部入部。〈謂彦人大兄也。〉及其屯倉。猶如古代而置以不。
臣即恭承所詔。奉答而曰。天無双日。国無二王。是故兼并天下。可使万民。唯天皇耳。別以入部及所封民、簡死仕丁。従前処分。自余以外。恐私駆役。故献入部五百二十四口。屯倉一百八十一所。
(現代訳)
《大化二年(696)三月壬午【20日】》
現に明神(あきつかみ)として八嶋国を御(おさ)める天皇(孝徳天皇⇒高市天皇)が、臣(中大兄⇒軽皇子=のちの文武天皇)に問いて曰く。其れ群臣・連及び伴造。国造の所有する〔部民〕、昔の天皇の在(とき)に曰所置れた子代入部(こしろのいりべ=子代部)。皇子等が私有する御名入部(みないりべ=名代部)。皇祖の大兄の御名部入部。〈〔押坂〕彦人大兄を謂ふ也。〉及び其の屯倉。猶古代の如くに而て置かむ以不(いなや)。
臣(中大兄⇒軽皇子=のちの文武天皇)は恭しんで詔する所を承け。答え奉って。『天に双つの日は無く。国に二〔人〕の王は無い。是れ故に兼并天下を兼ね併わせて。万民を使う可くは。唯だ天皇のの耳。別以(とりわけ)〔皇族の〕入部(いりべ=子代部・名代部)及び〔豪族の〕所する封〔戸〕と民をもって、仕丁に簡(えら)び充〔当〕することは。前の〔大化の改新の詔の〕処分に従いましょう。自余以外(それいがいは)。私〔的〕に駆役するのを恐れます。それ故に、入部五百二十四口。屯倉一百八十一所を献〔上〕します。』と曰った。
《 〔皇太子使使奏請曰(696年3月20日)〕 の本旨の現代訳 》
【臣(軽皇子=のちの文武天皇)は恭しんで高市天皇が詔する所を承け、答え奉って、『天に双つの日は無く、国に二人の王は無い。是れ故に天下を兼ね併わせて、万民を使う可くは、唯だ天皇ののみ。とりわけ、皇族の入部(=子代部・名代部)及び、豪族の所する封戸と民をもって、仕丁にえらび充当することは、前の〔大化の改新の詔の〕処分に従いましょう。それ以外は、私的に駆役するのを恐れます。それ故に、入部五百二十四口、屯倉一百八十一所を献上します。』と言った。】
〔皇太子使使奏請曰(696年3月20日)〕 で、
『天に双つの日は無く、国に二人の王は無い。是れ故に天下を兼ね併わせて、万民を使う可くは、唯だ天皇ののみ』と、仰々しく、軽皇太子(=文武天皇)は言ったのか?
そう将に、徳川幕府の「大政奉還」のそれと同様に「長門以東の天下立評地」を返納したのだ。
〔皇太子使使奏請曰〕で、「プロト大化改新:696年」でなく、定説の「大化改新:646年」だとすると、中大兄皇太子は孝徳天皇へ『天に双つの日は無く、国に二人の王は無い。是れ故に天下を兼ね併わせて、万民を使う可くは唯だ天皇ののみ』は、実の父子が双日だとなり、何がなんだか意味不明だね。
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要するに、プロト近畿大和朝廷の軽皇子(後の文武天皇)は、
①九州王朝「倭国」の「甘木王」に、長門以東の天下立評を命じられ、灘波副都に常駐し評制の施行を推進した「伊勢王」。
②白村江戦で白鳳倭王「薩夜麻」が唐に拉致・拘束されたと知るや、天智近江朝は長門以東を唐の侵略から防衛し「日本国」として「倭国」から独立。
③大海人皇子は、倭王「薩夜麻」の帰国を知るや、長門以東の従来通りの支配を条件に、倭王「薩夜麻」の「白鳳王」復位・倭国再統合の「壬申の乱」に同調した。
④倭王「薩夜麻」は財政の逼迫で、大海人皇子のプロト近畿大和朝廷へ救済を要請し、大海人皇子の天武天皇へ「朱雀王」として倭王位を禅譲。同時に大宰府から灘波副都へ遷都。
⑤大海人皇子の天武天皇の「朱雀王」が崩御の同時期、灘波副都が焼失。
⑥倭王「薩夜麻」の皇子の高市皇子は、近畿王家の飛鳥浄御原へ遷都し、筑紫と近畿の王家官僚は一緒に執務する事となった。
⑦大海人皇子の天武天皇の「朱雀王」が崩御后、近畿王家に王位継承者がないこともあって、禅譲を大海人皇子の天武天皇の一代限りとし、反古にする。高市天皇は690年即位する。
⑧新都・藤原京完成694年と同時に遷都し、翌695年「大化」改元し、八月の「東国国司招集の詔」を宣し。翌696年正月『大化改新の詔』宣したのだ。
⑨696年正月『大化改新の詔』の直後の3月に『皇太子使使奏請曰』がある。要するに、プロト近畿大和朝廷の軽皇子(後の文武天皇)は、天下立評で「伊勢王」「天智天皇」「天武天皇」の父祖が営々と築いてきた「長門以東」の支配領地を九州「倭国」の高市天皇へ返納したと言うことになる。
それが、
⑩長門以東の「評制の施行・維持」を全面委任されていた弟王家の近畿天皇家にとって、上記見直しは「やりすぎ」であり、甚だ不利な内容であり、筑紫兄王家側の重臣にも同情者があった。
⑪結果、『696年〔持統10年(持統即位7年):大化2年〕7月10日、後皇子尊『高市皇子⇒高市天皇』が薨じた⇒高市天皇を暗殺した(=プロト乙巳の変)。
以上が【プロト乙巳の変】のもとと成ったと考える。
ところで、上記に関連する記事が最近発刊の
非常に大部の力作で私の非力では、とてもネットへ転載できない。古田史学論集は営利目的で発刊されていないはずだと思っている。本の印刷発刊という従来の方法だと会員と一部マニアのみ情報で埋没してしまう。ぜひDVDとかネットメディア化し、広くインターネットで日本国民へ流布して欲しいものだ。
『移された「大化の改新」:正木裕著』は、『藤原京遷都』⇒『大化改元』⇒『東国国司招集の詔』⇒『廃評建郡のプロト大化改新の詔』⇒『皇太子使使奏請』⇒『プロト乙巳の変』⇒『東国国司の賞罰詔』⇒『大宝建元』の歴史経緯の中での『皇太子使使奏請』は、近畿天皇家が、九州王朝「倭国」の資産「簒奪」を企んだもの、と言われるのだ。結果的には、そうかもしれないが…、はて・さて^^
俺のとは、違うなー だ
『696年〔持統10年(持統即位7年):大化2年〕7月10日、後皇子尊『高市皇子⇒高市天皇』が薨じた⇒高市天皇を暗殺した(=プロト乙巳の変)。
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《参照》
(667) 『この見落としかねない何気ない記事を軸に“どんでん返し”の九州「倭国」から大和朝廷へ王朝交代が起こった』 2011年7月8日(金)
『書紀』大化元年八月「東国国司招集の詔」は「倭国」が発し、
「東国国司の賞罰詔」は大和朝廷が発したもの。
《 〔皇太子使使奏請曰(696年3月20日)〕 の本旨の現代訳 》
【臣(軽皇子=のちの文武天皇)は恭しんで高市天皇が詔する所を承け、答え奉って、『天に双つの日は無く、国に二人の王は無い。是れ故に天下を兼ね併わせて、万民を使う可くは、唯だ天皇ののみ。とりわけ、皇族の入部(=子代部・名代部)及び、豪族の所する封戸と民をもって、仕丁にえらび充当することは、前の〔大化の改新の詔の〕処分に従いましょう。それ以外は、私的に駆役するのを恐れます。それ故に、入部五百二十四口、屯倉一百八十一所を献上します。』と言った。】
大和朝廷の軽皇子は、天下立評で伊勢王・天智天皇・天武天皇の長門以東の支配を倭国王・高市天皇へ返納した・返納させられた。『皇太子使使奏請曰』近畿天皇家にとって、上記見直しは「やりすぎ」であり、甚だ不利な内容であった。
結果、『696年〔持統10年(持統即位7年):大化2年〕7月10日、後皇子尊『高市皇子⇒高市天皇』が薨じた⇒高市天皇を暗殺した(=プロト乙巳の変)。
全ては『日本書紀』696年〔持統10年(持統即位7年):大化2年〕秋7月10日、後皇子尊(のちのみこみこと)〔高市皇子〕が薨じた。⇒高市天皇を暗殺した(=プロト乙巳の変)。こ の見落としかねない、何気ない記事を軸に“どんでん返し”の九州王朝「倭国」から大和朝廷へ王朝交代が起こった。
こ の見落としかねない、何気ない記事を軸に“どんでん返し”の九州王朝「倭国」から大和朝廷へ王朝交代が起こった。全ては『日本書紀』696年〔持統10年(持統即位7年):大化2年〕秋7月10日、後皇子尊(のちのみこみこと)〔高市皇子〕が薨じた。あなたもめくって見る『日本書紀』の最末尾!
そう、彼は一度も断定したことはない。すべては状況証拠を挙げたに過ぎないのだ。
日本書紀で、だいたい、物語風に書かれている箇所はいただけないし、うさん臭い。我々世代は「大化改新」と習ったけど、今は「乙巳の変」というのだそうだ、これなんか新羅であったひどん(毘曇)の乱のコピー丸出しだし、壬申乱だってまともに信じるとやけどするね。「乙巳の変」とか「壬申乱」とかは、具体的に書くと色々御幣があったということだろう。だから最寄の記事を利用してさもそうであったかのごとく脚色したということだろう。
696年〔持統即位7年:大化2年〕7月10日、後皇子尊『
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「プロト大化改新:696年」時は、先に「廃評建郡」の『大化改新の詔:696年正月』があり、それがもとで、後皇子尊が薨じた⇒高市天皇を暗殺した(=プロト乙巳の変:7月)。
この「プロト大化改新」説は、私が“はじめて”のようだ。
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《参照》
(668) 『天に双つの日は無く、国に二人の王は無い。是れ故に天下を兼ね併わせて、万民を使う可くは、唯だ天皇ののみ』 2011年7月9日(土)
この系図は
別図の
このウィキペディアの系図には、何故か、孝徳天皇が入っていません。倭国灘波王家の当初の系図には「皇極天皇(斉明天皇)」のところには、伊勢王と記入されていたと考えます。ところが、「プロト大化改新」が50年前に移植される事になり、最寄の新羅「毘曇の乱」をモデルにでっち上げることになり、
更に、唐に恭順を示す為新羅の善徳女王・真徳女王を真似て、女性の皇極・斉明に置き換えた。たぶん奈良朝時代はちょうどこの系図の形だった。ところが、京都の桓武天皇は父祖を百済の義慈王の係累と飾る必要上、義慈王を舒明天皇に、その皇子の孝を孝徳天皇として、途中につなげたものと考えられます。
伊勢王・天智・天武が本来形でしょう。今ひとつは、蘇我倉麻呂はその女=娘を天智・天武の嫁がせています。古代では通常、服従を強いられ屈服した証しに娘を供したでしょうから…、「秦国」の王家が蘇我氏ならば、「秦国」は倭国灘波王家に途中に屈服していたことになります。吸収合併のようにですが。
『日本書紀』を素直に読めば、「蘇我倉山田石川麻呂」と言う人物像とは
『持統天皇のおじいちゃま。本家滅亡後の蘇我氏が天皇家系図上に命脈をつないだのはひとえにこの人の功績と言っていいでしょう。なんたって娘二人を天智に嫁がせ、その娘が今度はまた二人、天武天皇のもとへ嫁いだわけですから。結局、大化の改新~奈良時代の終焉まで、天皇家は彼の血筋を離れることは無かったのですね~。
がしかし、『日本書紀』の記す「乙巳の変」「大化改新」は史実を、50年前へ移植したものと分かった以上、『日本書紀』はフィクションだとみなすほかありません。「好意的に時間・場所・登場人物を変更・切り貼りしたノンフィクション」というものがあるとすれば、僅かに「史実の断片」が残こされている可能性がある、ということかも知れませんね^^
(669) 『「明治維新」と「プロト大化の改新」は実に良く似ているのだ、貴方もそう思いませんか?』 2011年7月11日(月)
判官様は王様だった^^ チェ・ドンイは面白い! 実に面白い^^大河ドラマが少女まんがチックだけあって、チェ・ドンイは面白い! 実に面白い。
チェ・ドンイはトンイが題名なんだよねー、でも何でかな?チェがつくと、ドンイになるんでしょうね。小さいとき韓国の村の隣人は“やまもとさん”と呼べず、“やーもとさん”って確か親父をよんでた。
幕府の「大政奉還」と、長門以東の天下立評地返納の「皇太子使使奏請曰」と言い、「孝明天皇暗殺」と、「乙巳の変・大化改新での高市天皇暗殺」と言い、倭国側「丹比真人嶋・安倍朝臣御主人・大伴宿禰御行」等近習と、維新での岩倉具視・三条実朝卿らの公家の裏切り・離反と言い実に良く似ているのだ。
《 〔皇太子使使奏請曰(696年3月20日)〕 の本旨の現代訳 》
『天に双つの日は無く、国に二人の王は無い。是れ故に天下を兼ね併わせて、万民を使う可くは、唯だ天皇ののみ』〔皇太子使使奏請曰〕
『日本書紀』の〔皇太子使使奏請曰(646年3月20日)〕は、〔大化改新の詔(646年正月)〕の条の後に書かれている。中大兄皇太子は、孝徳天皇にそんな「だいそれたこと」を言える権力が、果たしてあったのだろうか?これを従来の定説はどう説明してきたのだろうか?どう見てもちぐはぐである。
696年正月『大化改新の詔』の直後の3月に、この『皇太子使使奏請曰』がある。要するに、プロト近畿大和朝廷の軽皇子(後の文武天皇)は、天下立評で「伊勢王」「天智天皇」「天武天皇」の父祖が営々と築いてきた「長門以東」の委任統治領を九州王朝「倭国」の高市天皇へいったんは返納したとなる。
『皇太子使使奏請曰』は「やりすぎ」で、甚だ不利な内容であったが為、『日本書紀』696年7月10日、後皇子尊〔高市皇子〕が薨じた。⇒高市天皇を暗殺した(=プロト乙巳の変)。こ の見落としかねない、何気ない記事を軸に“どんでん返し”の九州王朝「倭国」から大和朝廷へ王朝交代が起こった。
このクーデター后、近畿天皇家は文武即位「697年8月」宣命した。698年3月「東国国司の賞罰詔」を宣した。なお詔中「去年八月」の詔は文武即位宣命を指し、文武への忠誠と、国法遵守を命じたもので、新政権への忠誠度や新職務の執行状況により、国宰を考査し処断・賞罰を行う旨を表明したのだ。
『日本書紀』の〔皇太子使使奏請曰(646年3月20日)〕は、〔大化改新の詔(646年正月)〕の条の後に書かれている。中大兄皇太子は、孝徳天皇にそんな「だいそれたこと」を言える勢力・権力が、果たしてあったのだろうか?これを従来の定説はどう説明してきたのか?どう見てもちぐはぐである。
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《参照》
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