大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 036 》
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ
白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、
日本書紀の〔 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権
2010年 4月 2日 発行
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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ https://waikoku.sakura.ne.jp/yamato.html 2:32 PM Apr 2nd webから ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(670) 『日本人の誰もが刷り込まれた『日本書紀』少なくとも696年以前に大和朝廷なるものは存在していなかった』 2011年7月13日(水)
『日本書紀』の記す「乙巳の変」「大化改新」は史実を、50年前へ移植したものと分かった以上、『日本書紀』はフィクションだとみなすほかない。恣意的に時間・場所・登場人物を変更・切り貼りしたノンフィクションというものが許されるとすれば、僅かに「史実の断片」が残こされているかも知れない。
日本人の誰もが刷り込まれた『日本書紀』少なくとも696年以前に大和朝廷なるものは存在していなかった。あったのは九州王朝「倭国」だったのだ。中国の史書は次王朝が記すものというルールらしい。奈良朝も「倭国史」の『日本書紀』を720年編纂している。ただ、あまりにもひどい偽史だったのだ。
そもそも「天下立評」とは何ぞや?偽書たる『日本書紀』は無防備に読んでも分らない^^ように編集されてる。
あっ、その前に
当時はパソコンはおろか、ワープロも無いわけで、唐の朝廷へ期日内に報告しなくっちゃいけないってんで、上へ下への大騒ぎになったのは目に見えるようだ。
先の
いつまで、文科省は『日本書紀』を正史として扱い、素直な日本人の心を欺き・偽り続けるつもりなのだろうか?日本人の誰もが刷り込まれた『日本書紀』少なくとも696年以前に大和朝廷なるものは存在していなかった。あったのは九州王朝「倭国」だったのだ。『日本書紀』の偽書の偽書たる所以である。
それにしても、パソコンが無い時代の切り貼り(=コピー&ペースト)は大変だっただろう。『大化改新』も事件後編纂まで25年だからみんな知ってたはずだし、切り貼りで重複が随所に見つかってるが、それは『日本書紀』が日本人むけの書物ではなく、あくまで唐王朝むけに漢文で書かれていた為だろう。
『日本書紀』天武紀は上巻と下巻に分かれ、上巻は『壬申乱』の記述で終始している。いかに『壬申乱』を編者が重視していたかが分かる。記事内容を精査すると距離・時間に齟齬が見受けられ、最近の研究で記事は九州内と分かってきた。唐支援の倭国再統合戦を、皇位継承戦だとカムフラージュしたのだろう。
先に紹介していますが、再度掲載します。『日本書紀』の「乙巳の変」には
(671) 『唐が高句麗攻撃の報に接し、周辺国に動揺が走った。富国強兵策の「常色の改革」の一環の「天下立評」を実施』 2011年7月14日(木)
唐が高句麗攻撃645年の報に接し、周辺国に動揺が走った。九州王朝「倭国」の甘木王が常色元年647年即位すると同時に、富国強兵策の「常色の改革」を次々断行する。その一環の天下立評649年を実施した。この天下立評は旧来の附庸王国という間接統治を止め、九州王朝が評制を通して直接統治するものである。
当然、附庸王国によっては軍事力で反抗する勢力も予想されただろう。この為、前進基地の灘波副都を築いたとも考えられる。天下立評の執行官の倭国弟王家の伊勢王が倭国軍事力の半分を割いて灘波副都に常駐した。
出雲・吉備・加賀・尾張・毛野、とりわけ隋書に見える秦国は強国だったはずだ。秦国はいわゆる飛鳥に都があったと思われ、その付け根に前進基地・灘波副都を築いている。
この灘波副都の伊勢王(=皇極・孝徳・斉明)の係累が天智天皇であり、天武天皇である。この灘波弟王家が天下立評の委任統治で次第に勢力をつけ大和朝廷の母体になったと考える。
この灘波弟王家が天下立評の委任統治領で次第に勢力をつけ(結果的に評制の上がりを着服?)大和朝廷の母体になったと考える。というのは、灘波副都完成の白雉改元652年以降、白村江662年敗戦までは長門以東の評制の発展・定着期を伊勢王が執務。
この伊勢王崩御后灘波弟王家は、白村江敗戦后を天智天皇がバトンタッチで、663年以降672年壬申大乱までは長門以東の天智近江朝は「日本国」として独立する。
壬申大乱で負けはしても、天智近江朝の灘波弟王家を、筑紫「薩夜麻」との約束にそって、673年以降大海人がそっくりその屋台骨を引継ぐ。684年の白鳳地震まで、極端に経済的なダメージはなかったのでは、と考えられる。
以降筑紫王家が灘波京へ遷都684年して、灘波弟王家と同居・実質合併して政務を執務するようになる頃までには、灘波弟王家の方が力をつけ逆転していた。結果的に軽皇太子(=後の文武天皇)の〔皇太子使使奏請曰〕に繋がったものである。
『天に双つの日は無く、国に二人の王は無い。是れ故に天下を兼ね併わせて、万民を使う可くは、唯だ天皇ののみ』〔皇太子使使奏請曰〕
⇒これを解釈するに『私と天皇は、今まさに天に双つの日であり、国に二人の王が居るかの如くなっていますが、やはり仰る通り万民を治めるのは天皇の唯一人が望ましい』
以上の理解があって、はじめて何故、私が正木裕氏説に異を唱えるか、
【『書紀』大化元年八月「東国国司招集の詔」は「倭国」が発し、翌大化二年三月「東国国司の賞罰詔」は大和朝廷が発したもの】
ということが分ります。
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《参照》
(672) 『淑人の よしとよく見て 好し言ひし 芳野よく見よ 多良人よく見』 2011年7月14日(木)
【総集編 〔大和朝廷「日本国」出生秘話〕今年その何たるかを語り終えたかな(8)】
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〔壬申大乱〕古田武彦著p174に『郭務悰その人が「吉野と有明海」の一帯を支配していた、と思われるのである。その吉野に大海人皇子は来たのだった。「物思い」にふけりつつ、やってきたのだろう。
亡き兄天智天皇の遺言(大友皇子への補佐)と、大友皇子との決定的な対立、そのための「決断」の日を求めつつ、この「肥前、吉野の国」の山道を、その孤立の道を辿っていたのではなかろうか。
『淑人(よきひと)』は唐の郭務悰だと語るが、
はたしてそうだろうか、私は郭務悰は、全唐軍の総司令官かもしれないが、所詮、「朝散大夫」(従五品下)の唐の官僚・軍人にすぎないと思うのだ。
が、薩夜麻は負けたとは言え「倭王」君子、まさに「詩経」でいう「淑人・君子」である。薩夜麻は帰国後、大宰府に入らずに、
天武は『淑人(=倭王薩夜麻)』が、『よしとよく見て(=きっと了解してくれると読んで)』、『好し言ひし(=分かったそれで良いと言ってくれた)』更に、『芳野よく見よ(=郭務悰へこの作戦でどうだ、良く検討するように)』と、『多良人よく見(=あの時倭王薩夜麻が賛成してくれて良かった)』
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上記を古田武彦氏のお孫さんが読まれたようで、今年の年初にまさか・まさかの私宛下記Tweetがあったわけです。
震災で忘れてましたが…、全く、予期せぬ望外の喜びでした。
『 @takehikofuruta
@tohyan 壬申大乱の件、あなたのご想像の通りです。柿本人麻呂がこの地帯、吉野ヶ里の東にあたる於保に来たときのことを歌った歌が見つかりました。吉備の釆女が死んだとき彼の作った歌(万葉集)です。
@tohyan 嘉瀬川の件。柿本人麻呂が歌った吉野川は、嘉瀬川のことです。私はそう理解しています。できれば現地で嘉瀬川の全体を観察していただければ幸いです。どうぞ。(壬申大乱のテーマです)
バイブルに関する新発見がありました。ヨーロッパ人やアメリカ人には思いもつかぬ新世界です。1月下旬には東京古田会に掲載。なお、中国の文字の成立についても、まったく新しい発見にあいました。』
(673) 『この解体時の克明な観察記録が『昭和修理を通して見た法隆寺建築の研究:浅野清:著』である』 2011年7月16日(土)
中学3年の修学旅行で法隆寺を恩師金弘先生引率のもと訪れた時、確か小雨が降っていた。ブルーシート(当時あったかな?)に覆われていて何にも見えなかった。この時がそう将に昭和大修理の最中だったのだ。この解体時の克明な観察記録が『昭和修理を通して見た法隆寺建築の研究:浅野清:著』である。
『法隆寺は移築された(大宰府から斑鳩へ):米田良三著』は、この解体時の克明な観察記録『昭和修理を通して見た法隆寺建築の研究:浅野清著』が解明の糸口になっている。法隆寺607年より更に73年前534年創建の薬師寺東塔がこの度解体修理される。浅野清氏以上の克明な観察記録を期待したい。
ただ、米田良三氏が法隆寺は観世音寺からの移築だとする説には異論があります。
その疑問に答えるものが、ビジュアルに・視覚的に分かりやすく証明するのが、米田良三氏自身が当初から紹介の観世音寺に伝わる一幅の古絵図でしょう。
(674) 『移された「大化の改新」:正木裕氏投稿】ー補章:「国宰の創設」と「国司」への転換ー』 2011年7月17日(日)
先の
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一、『書紀』から消された九州王朝の「国宰」
『書紀』には書かれていないが、改新詔以降7世紀末まで、諸国の風土記や木簡には「国宰・国之宰」或いは「宰(みこともち)」の職が記されており、国司に先行する制度と認められる。「国宰」の資料状況を見ていこう。
p220①『常陸国風土記』には、次の通り久慈郡の章に「国宰久米大夫」、行方郡に「国宰当麻大夫」とある。年代は孝徳ー天智期であり、この時点で「国宰」の存在が確認される。
■『常陸国風土記』(久慈郡)国宰久米大夫之時に至り、河に鮭を取りしにより、名を改め助川とす。(行方郡)国宰当麻大夫の時に池を築きし所、今路の東に存す。(多可郡)国宰川原宿禰黒馬麻呂の時、大海の辺の石壁に、観世音菩薩像を彫像し、今に存す。因りて佛浜と号づく。
『風土記』等によれば、孝徳期に広域(道)支配のために「総領」が任命され、国には新たに「国宰」職が、その下に「評」が設けられ、「評督」が任命された。これは全国規模での一定の集権体制が敷設された事を意味する。
②「播磨国風土記」讃容郡では、天智期、道守臣を国宰に任じている。
■(讃容郡)船引山。近江天皇(天智)の世、道守臣を此の国の宰となし、此に官船を作る。
③同飾磨郡では、庚寅年(持統4年・690)に上野大夫を宰とする記述があり、持統紀にも「国宰」職の存在が認められる。
■(飾磨郡)志貴島宮御宇天皇(欽明天皇)の世、私部束等の祖、田又利君鼻留、請ひて此の処に居す。故に私里と号づく」。以後、庚寅年(690)上野大夫宰なりし時、小川里と改む。小川、大野より此の処に流れ來る。故に小川と曰ふ。
④『古事記』の「針間国之宰」山部連小楯が、『書紀』では「播磨国司」と書き換えられている。
⑤7世紀末の藤原宮(694年遷居)木簡には、「粟道宰熊鳥(淡路国宰の意味)」との文字が確認されている。
⑥後述の通り『続紀』には律令選定までの記事に「国宰」が見える。
以上のような、【『書紀』には『国司』とあり、『国宰』とは記されない。しかし、『国宰』は木簡や『続紀』『風土記』ほかの文書に現れる】という資料状況は、郡・評論争における「郡」「評」 ( 『続紀』では先述の薩摩比売記事に「評」 ) の関係と極めて類似している。従って「評」同様に7世紀末までの制度は「国宰」であり、『書紀』は「国宰」を「国司」と書き直した事が確実と思われる。
そして『書紀』で消された「評」や「評督」が九州王朝の制度であるなら、同様に『書紀』で消された「国宰」もまた九州王朝の制度であると考えられる。
〔《註19》『書紀』には国宰の表記は一例もないが、この事は大化改新詔をめぐる「郡評論争」で周知のように、評の字が大宝令によって全ての郡の字に換えられたのと同様に、国宰の表記が国司に書き換えられた結果と考えられる。(亀井輝一郎『大宰府覚書』〕
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抜粋の以上で、ひとまず私の感想はというと、『日本書紀』の偽書の偽書たる所以が分かるような気がしますね。皆さんもそう思いませんか?“頭隠して尻隠さず”って言葉そのものです。そうか、出土木簡は仕方ないにしても、『続紀』『風土記』を書き直すの忘れてたってか、お粗末^^古田武彦氏の万葉集と同じだよね。
「隋書」俀国伝中に、『明年(大業4年:608年:推古16年)、上、文林郎裴清を遣わして俀国に使いせしむ。百済を渡り、行きて竹島に至り、南に聃羅を望み、都斯麻国を経、迥かに大海の中に在り。又東して一支国に至り、又竹斯国(=筑紫・九州島)に至り、又東して秦王国に至る。其の人華夏に同じ。以って夷州と為すも、疑うらくは明らかにする能わざるなり。又十余国を経て海岸(=九十九里浜海岸)に達す。竹斯国より以東は、皆な俀に附庸す。』
この「隋書」俀国伝は何度も取り上げ、要は何が言いたいかです。九州王朝「倭国」は隋使の派遣の608年当時は、『竹斯国より以東は皆な俀に附庸す』とあって、「長門以東が附庸王国連邦制だった」という事です。そして正木裕氏の「常色の改革」の天下立評649年で各附庸王国が解体の憂き目を見た訳です。
(675) 『「国宰」は何時施行されたか』 2011年7月18日(月)
先の
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<途中略>
三、「国宰」は何時施行されたか
ところで国宰制度は何時施行されたのだろうか。『常陸国風土記』や『皇太神宮儀式帳』等により、大化5年(649)に「国」の下に「評」が設けられ「評督」が任命された。また「国」より広域(「道」か)を所掌する「総領」がいた事も明らかとなっている。
従って、「国」の政を掌る「国宰」も同時期にはすでに存在していたと考えられる。』
1.皇極二年(643)の「前の勅」とは何か
ここで注目されるのは皇極二年十月の国司任命に関する「前の勅」だ。
■皇極二年(643)十月冬十月丁未の朔己酉(三日)に、群臣・伴造に朝堂の庭に饗たまひ賜ふ。而して位を授けたまふ事を議る。遂に国司に詔したまはく、「前の勅せる所の如く、更改め換ること無し。蕨の任けたまへるところに之(まか)りて、爾の治す所を慎め」とのたまふ。(「前の勅に従い、示された任地に行き、政事に励め。変更はしない」との意)
「前の勅」については『書紀』に記述が無く、その内容は不明だ。岩波注釈は、「標注(=『日本紀標注』)は国司の交替を停めたのだと解し、通釈(=『日本書紀通釈』)は勅はいかなるものか知り難いという。
皇極二年の勅が国司の任命に関する事は明白だが、『書紀』で国司の創設を記す大化以前に「国司」の記事があるのは不審で、これこそ「国宰」を潤色したものであるのは確実だ。
更に、群臣等を一堂に会して議した結果「遂に」詔を発したとあるからは、個別の国司(国宰)の発令といった軽易なものではなく、全国的な任命についての勅である事も疑えない。
従って「前の勅」とは、皇極二年の勅の直前に発せられた、「国宰」の任命に関する最初の詔勅であると考えられる。つまり、皇極二年の直前に勅が発せられ、国宰が全国に任命された事となる。
2.天武五年(676)の国司任命は無かった
ところで、『書紀』天武・持統紀には三十四年遡上記事が頻出し、いずれも九州王朝の史書からの盗用と見られる事は、再三指摘してきたところだ。
こうした天武・持統紀の三十四年遡上現象を踏まえれば、「前の勅」が浮かび上がる。それは『書紀』天武五年の国司任命にあたり、人選や任地の条件を課す旨の詔だ。
■天武五年(676)春正月の庚子の朔に、群臣百寮排朝す。(略)甲子(25日)に、詔して曰く、「凡そ国司を任けむことは、幾内及び陸奥・長門国を除きて、以外は皆大山位より以下の人を任けよ」とのたまふ。
この記事を三十四年遡上すれば皇極元年(642)となり、皇極二年の記事から見て「前の勅」と表現するに相応しいものとなる。
その根拠の一つは天武三年(674)三月に対嶋国司が銀を献上した事に対し「小錦下」が授けられた記事だ。(なお「小錦下」は冠位二六階の第十二階で、大山位は下位の第十三-十五階にあたる。)
「幾内及び陸奥・長門国を除き皆大山位より以下を国司に任じる」との詔が天武五年であれば、天武三年に大山位以上の小錦下を授けたはずの対嶋が陸奥・長門と並び例外として記述されていないのは不自然だ。
かえって、それまで詔勅に基づき「大山位(皇極期の大礼位相当)」以下であった対嶋国司に、天武三年になって、「銀献上の功績により例外的に陸奥・長門並みの位階を与えた」とすれば自然で、この事も天武五年の詔勅が三十四年遡上するものである根拠となる。
つまり、天武五年(676)一月甲子(25日)の詔勅こそ、『書紀』に記されなかった、皇極二年の勅に言う「前の勅」であり、三四年前の皇極元年(642)一月甲子(8日)に発した、「国宰」任命の詔勅と考えられる。そして、三十四年遡上現象は、九州王朝の史書からの盗用を示す事から、国宰任命は九州王朝によって行われた証明となる。
九州王朝による「国宰」任命記事は、皇極元年から盗まれ、「国司」と変えられたうえ、三四年後の天武五年に挿入されていたのだ。
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正木裕氏の『「国宰」は何時施行されたか』で、『「前の勅」とは、三四年前の皇極元年(642)一月甲子(8日)に発した「国宰」任命の詔勅である』を読んで、「常色の改革」は甘木王の即位647年以降の事と早合点してたが、その前642年には「国宰」任命の詔勅が宣下される等、既に始まっていたと知る。
(676) 『「国宰任命」「評制施行」は何故この時期か』 2011年7月18日(月)
先の
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<続き>
四、「国宰任命」「評制施行」は何故この時期か
天武五年記事での陸奥・長門重視について、岩波注釈は「東北・西海の辺防のために特に高位の者を任命したのであろう」とするが、天武五年に蝦夷や半島の情勢が特に緊迫した事実は無い。
しかし、『書紀』によれば、三四年前の皇極元年は、舒明期末から皇極期にかけての、蝦夷の反乱、百済情勢の急変の只中だった。
蝦夷については、舒明八年(636)是歳条に「是歳、蝦夷叛きて朝でず。即ち大仁上上毛野君形名を拝して、将軍として討たしむ。還りて蝦夷の為に敗たれて、走げて塁に入る」とある。
また、半島情勢については、皇極元年(642)正月条に「然も其の国(百済)は、今大きに乱れたり」とある通り、舒明十三年(641)に即位した百済義慈王は、皇極元年二月に弟王子、子ら王族と高名な家臣ら40余名を島n流し王権を強化。七月に新羅に出兵し、八月には大耶城(慶尚南道陜川郡)を攻撃、城主一族を斬首、男女千名を捕虜とした。
同じ皇極元年、高句麗でも蓋蘇文がクーデターで栄留王や重臣を註殺し、宝蔵王を立て実権を握った。皇極二年に高句麗と百済は同盟し新羅進攻を図ったが、唐の介入で攻撃は中止された。
こうした皇極元年の東北と朝鮮半島における内外情勢は、近接する陸奥・長門を特別重視する天武五年の勅の内容とよく一致し、この記事が三四年遡上する事を物語っている。
皇極元年の詔発から一年余の間に、具体的な国宰の人選や任地に対する種々の要望や不満が出た可能性は高い。また、これに組み込まれる在地勢力の反発・抵抗も強かった事は風土記等からも窺え、国宰の派遣には一定の困難が伴った事は確かだろう。現に『常陸風土記』行方郡の記事には、孝徳期に新任の壬生連麿に対する在地勢力の抵抗とその抑圧の模様が記されている。
〔《註22》『常陸風土記』行方郡。<略>灘波の長柄の豊前の大宮に臨軒しめしし天皇のみ世に至り、壬生連麿、初めて其の谷を占めて、池の堤を築かしめき。時に、夜刀の神、池の辺の椎株に昇り集まり、時を経れども去らず。是に、麿<略>、いひけらく、『目に見る雑の物、魚虫の類は、憚り懼るるところなく、随儘に打殺せ』と言ひ了はる応時、神しき蛇避け隠りき。
この記事について富永長三氏は「新たな支配者壬生連麿<略>の勝利の声と、抵抗なし得ぬ民衆の無念の思いを感ずる」と述べている。(「『常陸国風土記』行方郡の二つの説話をめぐって」『市民の小代』第十三集一九九一年)〕
こうした抵抗・障害を排除し、断固たる改革遂行姿勢を示したのが皇極二年(643)冬十月の詔だ。この詔を受け、国宰が各地に赴任し、九州王朝の全国的な評政施行・集権体制確立への取り組みが始まったと考えられる。
そして、この集権体制の確立は、先述の百済義慈王の王権(集権体制)の強化、覇権主義の台頭、百済・高句麗の同盟と新羅との紛争など、半島での政治・軍事情勢と無関係であるはずはない。
半島での紛争は、これ以降640ー650年代を通じ激しく継続する。九州王朝は、こうした情勢に対応するため、従来の国造等在地勢力を通じた支配形態を改め、国力を総動員できる体制の確立を目指していく事になる。この具体的現れが国宰任命や評制施行だったと考えられる。そして、地方に国宰があるからには、中央に「大宰」「大宰府」があって当然で、「大宰府」が存在する筑紫こそ倭国の首府だったのだ。
なお、『常陸国風土記』や『神宮雑例集』、『書紀』その他の記述から、九州年号常色(647ー651)期に九州王朝は全国的改革を実施した事が分かる。常色元年(647)には小郡宮を造営し、「礼法」を定め、同時に「七色十三階冠」からなる位階制度を創設した。また649年頃には評制を施行し、「国宰・評督」をはじめとする官僚組織も整備された。また灘波宮建造に着手して九州王朝としての集権体制を強化した。私はこれを「常色の改革」と呼んでいる。
〔《註23》拙稿「常色の宗教改革:(古田史学会報八五号二〇〇八年四月)」〕
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正木裕氏の『「国宰任命」「評制施行」は何故この時期か』を読むと、唐の極東アジア征服の野望には何故か触れておられない。【642年:「国宰」任命の詔。645年:唐太宗が高句麗攻撃。647年:6月新羅「ひどんの乱」。647年:「常色の改革」。649年:「天下立評」。】はその野望の結果であろうに、と考えますが…はてさて。
以上を整理すると、632年:唐の冊封使高表仁が「倭国」の為尊親王を切殺す。642年:「国宰」任命の詔を発し傘下の各附庸王国へ「国宰」の派遣を通して各附庸王国の監視・統制を強化しょうとしたがうまく行かず。643年:「前の勅」云々のあと。645年:唐太宗が高句麗攻撃。647年:6月新羅「ひどんの乱」。647年:甘木王即位後「常色の改革」。649年:評制施行の「天下立評」。652年:灘波副都完成、白雉改元儀式挙行。となる。
(677) 『「日本書紀」の偽書の偽書たる所以。“頭隠して尻隠さず”です』 2011年7月19日(火)
『日本書紀』の偽書の偽書たる所以。“頭隠して尻隠さず”です。そうか、出土木簡は仕方ないにしても、『続紀』『風土記』を書き直すの忘れてたってか?お粗末!古田武彦氏は『万葉集』が、米田良三氏は『源氏物語』『住吉物語』『枕草子』『和泉式部日記』等々の古典が九州王朝「倭国」を蘇えらすと。
やはり、632年:唐の冊封使高表仁が「倭国」の為尊親王を切殺す。642年:「国宰」任命の詔勅宣下。645年:唐太宗が高句麗攻撃。647年:6月新羅「ひどんの乱」。647年:甘木王即位後「常色の改革」。649年:「常色の改革」の「天下立評」。652年:灘波京完成・白雉改元儀式挙行。
一方、米田良三氏は
『源氏物語』は平安時代の作品とされてきましたが、筑紫の京を舞台とし、源氏の年齢に600を加えた年次の記録になっています。
『源氏物語』薄雲の巻は源氏三十二歳の年、632年のお正月の様子の記述の後、突如太政大臣の死が語られ、次に式部卿の死が語られ、世の中の騒がしいことを(冷泉)帝が嘆かれる。
『旧唐書』倭国日本伝には、次のように記されます。
貞観五(631)年、使を遣わして方物を献ず。
631年に最初の遣唐使が送られます(『日本書紀』は630年とする)。
世の中は今日明日とも知らず変わりぬべかめるを、殿のおぼしきつることもあるを、世の中御覧じはつるまでは、かゝる御歩きなくてこそおはしまさめ
(現代語訳)最近の政情は今日明日と関係なく変ってゆくに違いないのですから、殿が御計画を立てておかれたこともあるように、政情の変化の結果が見極められるまではこのような御歩きをなさらないでいなさい
殿は源氏であり、政情は唐との緊迫した関係である。
『源氏物語』と『和泉式部日記』と『旧唐書』は同じ事件を三様に記録していることが分かります。
『源氏物語』は、時間と空間の正確さの中に、源氏の存在を記録した作品と言えます。
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ふぇーこの事は『源氏物語』と『和泉式部日記』に書いてあるそうだ!
《唐からの一団は冊封関係を強いる使いであったため、王子である為尊親王は拒否をし、高表仁と言い争いになり、切られてしまいます。傍にいた太政大臣(現在の総理大臣)と式部卿(現在の外務大臣)も巻き添えを食うことになります》
なお、『26歳の弾正尹(だんじやうのいん)(現在の警察庁長官)為尊(ためたか)親王も亡くなる事件でした』の弾正尹為尊親王とは『和泉式部日記』の故宮であり、帥の宮のお兄さんですが…、『和泉式部日記』の最初に『近き透垣のもとに人の気配すれば、誰ならんと思ふほどに、「故宮」に候ひし小舎人童なりけり』と一ッ箇所のみあります。
(678) 『漫画で読む古典文学☆源氏物語&枕草子』 2011年7月20日(水)
(679) 『弘文天皇が天智天皇の子という『日本書紀』の記述は信用できない』 2011年7月21日(木)
壬申乱は九州だ説の紹介します。
日出島哲雄氏は、上記【大友皇子と鞠智城(壬申の乱は九州)】の中で
『高市皇子の父親とは何者であろうか。不破道を塞いだ美濃の師に解く鍵がある。美濃は福岡県久留米市の耳納山とその近く。耳納山の近くには高良山神籠石がある。美濃の師とは高良山神籠石の軍勢である。
と、書かれている。⇒さてそうだろうか?私は違うと思う。
●1つには、
●2つには、氏自身のおっしゃる
『日本書紀』の「天武紀」下巻を私は、【?】内に解釈している。
【大海人皇子】は正妃を立てて皇后とす。后、草壁皇子「尊」を生れます。<途中略>天皇【=倭王・薩夜麻】は、初め鏡王の女額田姫王を娶して、十市皇女を生しませり。次に胸形君徳善が女尼子娘を納して、高市皇子「命」を生しませり。
●3つには、同氏の
【古田史学会報2003年12月3日No.59】
『日本書紀』の天智天皇の子の記述の最後に「又伊賀采女宅子娘有り、伊賀皇子を生めり、後の字を大友皇子と曰す」と記されている。
ところで
『日本書紀』は九州年号等によって確かにあった九州王朝を抹殺した書物である。その上九州王朝の記事を近畿王朝記事に転換した書物である。今は太安萬侶が苦悩のすえ残した日本書紀の法則を解いて九州王朝の記事の原形を取り出すのみである。
●法則その一、是歳条、是月条は近畿王朝以外の別王朝の別時代の記事である。
後にこの中の●法則その三、を天智天皇に応用している箇所がある。次のとおりである。
■舒明二年春正月十二日立宝皇女、為皇后。生。一曰く「葛城皇子」(割注近江大津宮御宇天皇)
※ 葛城皇子と東宮開別皇子と中大兄と皇太子は別人の四人である。
伊賀皇子は、この四人の誰の子なのであろうか。いや、「伊賀采女宅子娘有り、伊賀皇子を生めり、後の字を大友皇子と曰す」という文そのものが、「またの名、更の名は別人である」という●法則その三、に該当していると思える。弘文天皇(=大友皇子)が天智天皇の子というのは信用できないのである。
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高市皇子の父親は倭王・薩夜麻である。この父子と近江朝(=灘波副都)大海人皇子は唐恭順派であろう。長門以東近江朝を唐占領の筑紫から独立し「日本国」建国の天智天皇は既に亡い。九州島内にも唐恭順派と唐抵抗派がいて『書紀』の壬申乱とは唐抵抗派の大友皇子を九州島内で討伐した事も確かである。
つまり、日出島哲雄氏の言う『壬申の乱とは、筑後の権力者が反乱を起こし、吉野の益城軍団が巻き込まれた』的な局地戦も確かにあって、その模様を倭王・薩夜麻の「祐筆」が書いた日誌が残されていた。これを使って壬申乱を描写したが、本来の全壬申乱は唐支援の薩夜麻の復位・倭国再統合戦であろう。
(680) 『白村江戦にしろ、壬申乱にしろ、「やけに詳しい!」のである。将に実況中継である』 2011年7月22日(金)
先に
上記ブログでは、記載・転載してないようなので、改めてその【六、結論】項を抜粋・転載しょう。
『大都督府は万単位の兵士に多くの文官・官僚を含めて行軍し、占領地にはさらに行政官が大量に派遣される。百済・高句麗の占領併合地には四万四千人の野戦司令部が増設されているので前後合わせると九都督府に相当する陣容になり、文官の人数は千五百余人となる、占領が危うくなってくると、この大量の行政官も早々撤退する。
日本書紀にも劉仁願の派遣した朝散大夫柱国郭務悰の名がある。大夫は従五品下以上の文官の身分を示し、朝散大夫はその従五品下である。職務名として柱国は勲臣の意味で、皇帝の代理として来日した全権大使である。
つまり、当時の軍には文官が同行して軍の事務と、占領地の行政を行うのである。
(結論):旧唐書の662年を疑う理由は一切無い。<以下略>』
上記はあくまで唐朝の文書事務状況であろう。倭国側にこのように整備された組織の文書官僚がいたか・どうか?更に、白村江戦・壬申乱に従軍していたかである。
私が勝手に思うに、倭王・薩夜麻には少なくとも「祐筆」程度の文官は従軍してたはずだ。それに、この「祐筆」が書いた文書は、日々の情報が箇条書きに「5W1H」で無味乾燥に書かれていたはずだ。
『日本書紀』は、この「祐筆」の無味乾燥な戦況日誌をアレンジし脚色し、講談風に編集したのではないだろうか。
その結果が、
余談だが、この講談風に編集の『日本書紀』が、唐朝へとぼけて663年とした記事を、のちの『新唐書』編者が“こりゃー実に面白い”ってんで、史書としては見向きもされなかった『日本書紀』を、興味半分に取り込んだ。
で、白村江戦を『旧唐書』は正しく662年とし、『新唐書』は『日本書紀』が故意に誤った663年を”逆に”取り込んだ模様なのだ^^やれ・やれ
(681) 『【唐人の計】で、薩夜麻の「封禅の儀への参加」を、薩夜麻の「倭国への解放・帰国」に“すりかえ”ている』 2011年7月22日(金)
例えば『書紀』が巧みに“すりかえ”改竄して読者を誤まって誘導してるのが、先の
【大伴部博麻の帰還】
『日本書紀』によると、持統四年九月丁酉二三日、白村江の戦いで捕虜になって唐に送られていた「大伴部博麻」が、筑紫に帰還した。同年冬一〇月乙丑二二日、持統天皇は、博麻が天智三年に「唐人の計」を聞き、自らを奴隷として売り、天智一〇年一一月の郭務宗*らの遣使時に、薩夜麻らを帰国させ、郭務宗*の来意を予め筑紫大宰府に連絡した。その功績に対し恩賞を与えた。博麻の自己犠牲により筑紫君薩夜麻らを帰国させたことで有名な記事だ。』と紹介されている。
■(持統四年九月)丁酉(二三日)、大唐学問僧智宗・義徳・淨願、軍丁筑紫国上陽[口羊]郡大伴部博麻、従新羅送使大奈末金高訓等に従ひて、筑紫に還至れり。(略)
(冬一〇月)乙丑(二二日)、軍丁筑紫国上陽[口羊]郡の人、大伴部博麻に詔して曰く、天豊財重日足姫天皇(斉明)の七年、百済を救う役に、汝唐の軍の為に虜にせられたり。天命開別天皇(天智)三年に泪*(およ)びて、土師連富杼・氷連老・筑紫君薩夜麻・弓削連元宝児、四人、唐人の計る所を奏聞さむと思欲へども、衣粮無きに縁りて、達ぐこと能ざることを憂ふ。是に、博麻、土師富杼等に謂りて曰く、「我汝と共に、本朝に還り向かむとすれど、衣粮無きに縁りて、倶に去ること能はず。願ふ我身を売りて、衣食に充てよ。」富杼等、博麻が計りことの依に、天朝に通くことを得たり。汝、独り他界に淹く滞まること、今卅年なり。朕、厥の朝を尊び国を愛ひて、己を売りて忠を顕ずるを嘉ぶ。故に務大肆、并て五匹・綿一十屯・布三十端・稲一千束・水田四町を賜ふ。其水田は曾孫に及至せ。三族の課役を免じて、以て其功を顕す。
さて、『書紀』の語る「大伴部博麻」像と正木裕氏が想定の実像は、どこがどう違うのだろうか?検討しょう。
その前に、分かっていることを整理しておこう。
①持統四年とは、持統即位元年690年(朱鳥5年)である。
正木裕氏が想定の「大伴部博麻」像
一、博麻が「唐人の計」を聞き、身を売って彼らを帰国させようとした「天命開別天皇(天智)三年」とは、天智即位三年(670年)ではなく、氷連老ら帰還以前の
二、書紀の持統四年記事の「博麻の恩賞と唐人の計」のエピソードは、博徳の言の帰還者のうち、天智四年(665年)に帰還した氷連老らに関係する事であり、天智一〇年(671年)の筑紫君薩夜麻の「帰還」は、天智三年(664年)の博麻の身売りとは、直接関係しない。
三、(登場人物一覧)
四、「唐人の計」とは、唐の高宗が泰山で『封禅の儀』を、乾封元年666年:白鳳6年(天智5年)に予定・計画したことを指す。
五、封禅の儀に倭国の「酋長=倭王=薩夜麻」が洛陽から泰山へと高宗に扈從している。
六、大伴部博麻の恩賞のもととなった行動とは、
七、つまり、【唐人の計】で、薩夜麻の「封禅の儀への参加」を、薩夜麻の「倭国への拘束解放・帰国」に“すりかえ”ているわけである。
うまく、説明出来てるかなー^^
(682) 『日出島哲雄氏の指摘通り「壬申乱」は倭国の王族の大友皇子と、薩夜麻の九州島内での王位継承戦だったとなる』 2011年7月23日(土)
筑紫君薩夜麻が【唐人の計(=封禅の儀の計画)】へ参加したと『書紀』が書けば、彼が倭王「薩夜麻」だと当然分かるわけだ。だから、薩夜麻の【唐人の計(=倭国への解放・帰国)】に“すりかえ”てカムフラージュしたわけだ。“やらせ”“すりかえ”は『書紀』の常套手段で偽書の偽書たる所以である。
【古代に真実を求めて(古田史学論集 第十四集)◎Ⅰ特別掲載・『古事記』と『魏志倭人伝』の史料批判:古田武彦氏】p51を抜粋・転載する。
『従来学界では、『日本書紀』の三・四世紀の古いところでは信用できない。しかし六・七世紀段階、天武・持統のところでは確実である、事実である。と従来の学界ではそのように考えてきた。
八世紀の天皇家が、自分達の弁明のために『日本書紀』を造ったことは確実です。自分達の弁明のために、事実を並べて弁明するのか、嘘を並べて弁明するのかという問題です。しかし内容を見るとかなり嘘が多い。そのことを新庄智恵子さんに教えていただいた。
「持統天皇の吉野行きはおかしい」というご指摘を受けて調べたが本当におかしかった。持統は『日本書紀』の一番最後です。おかしかったのは持統天皇の吉野行きですが、一つや2つおかしいのではなくて全ておかしい。
九州王朝の天子の佐賀県の吉野への閲兵記事全体を取り込んできて桜見物めかした件にしている。この件だけがおかしくて、ほかは全部正しいとは決して言えない。
このようなことを行っている持統紀は信用できない。天智・天武紀も同じです。そのような史料批判にならざるをえない。<以下略>』
先にあげた、日出島哲雄氏の
『伊賀皇子は、この四人の誰の子なのであろうか。いや、「伊賀采女宅子娘有り、伊賀皇子を生めり、後の字を大友皇子と曰す」という文そのものが、「またの名、更の名は別人である」という●法則その三、に該当していると思える。弘文天皇(=大友皇子)が天智天皇の子というのは信用できないのである。』
【大伴部博麻の帰還・顕彰】では、「倭王」・薩夜麻を、「筑紫君」・薩夜麻と“すりかえ”ている。
と言うことは、同じような手口を使っているのではないだろうか?
大友皇子は、思うに「倭王」薩夜麻が州柔・白村江戦で唐に連行され不在になった九州「倭国」を薩夜麻に代わって、唐の占領に抵抗の王族の一人だったのだろう。
だから、大友皇子は長門以東近江朝の天智天皇の皇子ではない。
更に、「倭王」薩夜麻の復位・倭国再統合戦でなく、天智天皇崩御後の大海人皇子と大友皇子の皇位継承戦だとカムフラージュしたと考える。
若し、この仮説が正しいならば、長門以東近江朝(=倭国灘波副都弟王家)の天智天皇が亡き後、大海人皇子(のちの天武天皇)は無傷で長門以東近江朝を継承したと考えられる。更に日出島哲雄氏の指摘通り「壬申乱」は九州倭国の王族の大友皇子と、薩夜麻の九州島内での王位継承戦だったという事になる。
であれば、先の歌の
そうだとすれば、長門以東近江朝(=倭国灘波副都弟王家)の天智天皇が亡き後、大海人皇子(のちの天武天皇)は長門以東近江朝を、すんなりと、争乱なく継承したとも考えられる。更に日出島哲雄氏の指摘通り「壬申乱」は倭国の王族の大友皇子と、薩夜麻の九州島内での王位継承戦だったという事になる。
やはり、日出島哲雄氏の
683) 『騎乗するには、鞍・銜・面恕リ・毛綱という準備が必要であり、駄馬が乗馬になることはぜったいにない』 2011年7月24日(日)
【「不破道を塞げ」と瀬田観音:日出島哲雄著】
四 、「駄馬が乗馬になることはぜったいにない」を無視する東国入りはトンデモ説
第一節で紹介した南郷往還の説明には「年貢米を馬の背に上大津のお倉まで運んでいました。」という記述がある。年貢米を運んだ馬に人が乗った記述はない。
「駄馬が乗馬になることはぜったいにない」を思い出した。これは古田武彦氏が『壬申大乱』で引用されている三森堯司氏の論文「馬から見た壬申の乱ー騎兵の体験から『壬申紀』への疑問ー」の中の言葉である。古田氏がこれを引用されている箇所は次のとおりである。
……大海人本隊が吉野を出発してまもなく、「伊勢の駄(におひうま)五十匹」に会い、これに「乗馬」して山中を行軍した、という件だ。
これにつき、三森氏は言われる。
三森氏は、この著名な挿話に対し、正面からその真実性(リアリティ)をキッパリと否定されたのである。
「毛綱」は「手綱」だと思われる。この後には、壬申の乱の行軍の真実性(リアリティ)を否定する記述が続く。壬申の乱の東国入りは、「駄馬が乗馬になることはぜったいにない」を無視するトンデモ説なのである。
古田武彦氏の九州王朝説をよく学んだ人は「駄馬が乗馬になることはぜったいにない」を守っている。しかし、古田氏の説の支持者と称しているけど『壬申大乱』をまともに読んでいない人たちの中に、これを破る人たちが出てきた。
彼らは東国入りを九州に持ち込む説を唱えている。これらを私は「東国九州持ち込み論」と読んでいる。壬申の乱九州説では決してない。壬申の乱で大分君稚臣が橋を渡った瀬田は熊本県大津町であることで、壬申の乱は九州の事件だったと分かるのである。東国入りを九州に持ち込むのは有害無益である。トンデモ説の一つである
「東国九州持ち込み説」を私は二つ知っている。一つは瀬田を無視して、近江の戦いを近畿とする。結局、壬申の乱近畿説の一つである。
どちらの説も「駄馬が乗馬になることはぜったいにない」を無視している。これらが出てきたのは九州王朝説の危機である。九州王朝説の支持者たちは、まだこれらを危機だと思っていない。それゆえ、私はとても心配している。九州王朝説を守るために本頁を作成した。
目次を見れば、大体、その著書の内容が想像できますよね。
◎ 付録 『古田史学論集 古代に真実を求めて』(明石書店)に発表している論文の目次
■「不破道を塞げ─壬申の乱は九州─」(第十一集、二00八年三月三十一日)不破道を塞げ(壬申の乱は九州)
一、 関ケ原は不破関でない
■「不破道を塞げ二瀬田観音と内裏攻め」(第十二集、二00九年三月三十一日)不破道を塞げ二(瀬田観音と内裏攻め)
一、 天子宮から瀬田観音へ
■「不破道を塞げ三天子宮が祀るは、瀬田観音にいた多利思北孤」(第十三集、二0一0年四月)
一、 瀬田の北西から西に竹林、筱浪(ささなみ)か
■「不破道を塞げ四高良山神籠石の美濃師三千人、基肄城への不破道を塞ぐ」(第十四集、二0一一年四月)
一、 「駄馬が乗馬になることはぜったいにない」で残るは「發美濃師三千人、得塞不破道」
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