大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 048 》
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ
白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、
日本書紀の〔 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権
2010年 4月 2日 発行
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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ https://waikoku.sakura.ne.jp/yamato.html 2:32 PM Apr 2nd webから ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(821) 『九州王朝「倭国」は、九州を拠点に黄海及び、半島・列島周辺の海上通商国家だった』 2011年11月24日(木)
■■■■
これまでに、
●『一時の「大英帝国」のイメージではないだろうか?「海運通商国家」、いやーひょっとして、黄海を“わが庭・我がもの顔”に行き来した「海賊国家」だったのではないだろうか。』
とし、さらにまた、
【2011年11月22日(火)
●『九州王朝「倭国」が、九州を拠点に黄海及び列島の海上通商国家だった』
と書きました。
あんな『ちっぽけな九州島』が…、そんなはずが無い。馬鹿も休み休みに言え、とおっしゃる方々も読者の中には多いだろう。
そこで、手元の最新刊
『俾弥呼(ひみか):古田武彦著』 に、
次のように書かれているので、ご参考までに抜粋・転載しましょう。
■
第三章 女王国への道…6
2 倭人伝解読の三命題
「都市命題」 …p56
次に到来した、思いがけないテーマ。それは「都市命題」である。
上城さんの塾(創明ゼミ)に来られたコピー機会社から派遣された若い女性のものである。上城さんはこれを見て、直ちに倭人伝の一節を思い浮かべられた。「都市牛利」である。
景初二年(二三八)、俾弥呼が洛陽へ倭国の使者団を送った。正使は難升米、副使が都市牛利である。
まず、帯方郡治に至り、中国側に導かれて洛陽へ向っている。そのさいの魏の明帝の詔書に、この名前は三回出現している。
●「帯方の太守劉夏、使いを遣わし、汝の大夫難升米、次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈を奉じ、以て到る。」
中国側の最高の史料である「天子の詔勅」に三度出現しているのである。
これと「同じ姓」の「都市さん」が、コピー機の仕事で来られた。「もしや」と、ひらめいた上城さんは、早速わたしのところへファクスで転送して下さったのだった。わたしも、共感した。「これは、捨てておけない。」そう思った。だから、その時自分のやっていた、すべての仕事を捨てて、博多に向ったのである。
もちろん、「反論」は容易である。
《途中略》
■
第三章 女王国への道…6
5 戦中遣使の真実性(リアリティ)
景初二年か三年か …p74
俾弥呼に返ろう。
「景初二年(二三八)六月」
これに対し、すでに江戸時代、新井白石や松下見林がそろって、
「景初三年(二三九)六月」
「景初二年か、景初三年か。」-わずか一年の“ちがい”にすぎないけれど、「時の中の緊迫性」に関しては、全く様相を異にしているのである。
《途中略》
■
第三章 女王国への道…6
5 戦中遣使の真実性(リアリティ)
五つの疑問は戦中だからこそ …p76
すでに第一書で詳述したところだから、その要点を簡約してみよう。
●第一に、「なぜ、中国側は俾弥呼の使者、難升米たちを“ともなって”洛陽へとどけたのか。」
右の「五つの疑問」は、「景初三年(二三九)六月~十二月」という時間帯では、「解説、不可能」だ。だが、原文通りの「景初二年」だと、理解可能なのである。
●第一は、「戦中」だからこそ、中国側の“つきそい”が不可欠だった。
そして、その「中断」の“欠礼”を補うために、逆に、「中国側から倭国へ使者と下賜品を送り届けける」こととしたのである。
三国志の「帝紀」と「列伝(倭人伝)」を併せ読めば、右の状況が明白となる。そういう形で、三国志全体は構成されているのである。
《途中略》
■
第三章 女王国への道…6
5 戦中遣使の真実性(リアリティ)
なぜ詔書が掲載されたのか …p78
今回、第一書の「復刊本」を読み直していて、気づいたことがある。
それだけではない。周知のように、魏の明帝は、倭国に対して“おびただしい”下賜品を“渡そう”とした。しかし、「明帝の急死」によって「中断」したけれど、律気に、歳を改めて“送りとどけ”ている。なぜだろう。
もちろん、東方の「未知あふれる、女王からの遠路貢献」が、魏朝の「自尊心」をくすぐった。そういうこともあろう。また、その「遠路貢献」をもって、魏朝の天子の「正統性」を、天が認めた証拠、そのように誇っていた、と考えても、大過はあるまい。
がしかし、それにしても、この下賜品の「量」は、莫大だ“度を越している”といっても、いいくらいである。なぜか。このような疑問が自然に“解けて”きたとき、はじめてわたしたちは倭人伝が「本当にわかった」ということができるのではないだろうか。
■
第三章 女王国への道…6
6 「松浦水軍」の秘密
俾弥呼の使者たち …p79
三十数年前、第一書を書いたとき、夢にも知らなかったのは、「松浦水軍」のテーマである。二〇〇九年に舞いこんだ一枚の名刺のコピーが転換点となった。「都市命題」である。
俾弥呼の使者団、難升米たちを先導したのは、都市牛利の率いる松浦水軍の一団だった。彼らは釜山から対馬、壱岐を経て博多湾岸に至る、対馬海流領域一帯の支配者だったのだ。
考えてみれば、当然のことである。だが、問題はそこで“終わって”いたのではない。否、そこからこそ「真の問題」が“はじまって”いたのだった。今回、やっとそれに気づいたのである。
■
第三章 女王国への道…6
6 「松浦水軍」の秘密
公孫淵の存在 …p79
当時の魏朝は「鼎立」の中にいた。魏・呉・蜀の三国である。しかし、もう一つ、重要な存在があった。遼東半島の公孫淵である。
「(景初元年、二三七、秋七月)初め権(=孫権)使を遣わして海に浮かび、高句麗と通じ、遼東を襲わんと欲す。」(明帝紀)
この事実は、ストレートに「予告」している。東北方の公孫淵と南方の呉と、この両者の“挟み撃ち”に遭う。魏朝にとって最大の危険である。
のちに、『三国志演義』が通俗本として著名となった。そこでは「蜀の諸葛孔明と魏の司馬懿の対立」に“歴史”と“物語”の焦点がおかれた。この著名な本では「倭人伝」などは“斬り捨て”られた。ためにこの「公孫淵と孫権の連係」という、魏朝の「死命を制した」テーマが、平然と無視あるいは軽視されたのではあるまいか。
■
第三章 女王国への道…6
6 「松浦水軍」の秘密
魏の公孫淵討伐 …p80
魏の明帝は「公孫淵討伐」を目途としながら、その企画段階で“悩んだ”ことが三国志には明記されている。
●「帝曰く、四千里征伐、奇を用ふと云ふと雖も、亦当に力に任ずべし。当に稍(やや)役費を計るべからず。」(魏志三)
公孫淵の支配領域を「四千里」と称している。「短里」だ(この点、のちに詳述する)。
しかし、相手(公孫淵)と自分側(魏軍)の「奇」(=思いがけぬ策略)や「力」(=力量)に依存することであるから、そのための「役費(=費用)」を測定することができない、と言っているのである。
確かに、ナポレオンやヒトラーのモスクワ攻撃失敗の例が有態(ありてい)にしめしているように、背後にシベリア大陸をもつ公孫淵側に対して、魏の明帝側が「成算」なきに苦しんでいたのは、まちがいない。陳寿はそれを正確に記録しているのである。
確かに、魏朝が不用意に「公孫淵討伐」の遠征軍を発したとしたら、ナポレオンやヒトラーのような「愚」を犯すことになった、と考えても、決しておかしくないのである。
「(景初二年秋八月)丙寅、司馬宣王・公孫淵を襄平(じょうへい)に囲み、大いに之を破る。淵の首を京都に伝え、海東の諸郡平かなり。」(魏志三、明帝紀)
この勝利の「原因」は何だろうか。
■
第三章 女王国への道…6
6 「松浦水軍」の秘密
都市牛利らの軍事協力 …p81
明帝が「公孫淵討伐」に先んじて実行したところ、それは「東方渡海作戦」である。
●「景初中、大いに師・旅を興し、淵を誅す。又、軍を潜めて海に浮び、楽浪・帯方の郡を収め、而して後、海表謐然(ひつぜん)、東夷屈服す。」(魏志三十、東夷伝序文)
●「景初中、明帝密かに帯方の太守劉(りゅうきん)、楽浪の太守鮮于嗣を遣わし、海を越えて二郡を定めしむ。」(魏志三十、韓伝)
いずれも、「公孫淵討伐」に先立ち、楽浪郡・帯方郡に対する「征圧の成功」が行われ、それこそが「公孫淵討伐」の“成功”の前提だったことを特記しているのだ。
特に、東夷伝序文の一文は重大である。
なぜなら、こ東夷伝が「倭人伝」をもて結ばれていること、そして「倭人伝」において、他の東夷の国々とは異なり、「倭の女王、俾弥呼」に対してのみ、長文の詔書を贈っているからである。さらに、後述するように、この「東夷伝序文」の実態は、本来「三国志全体の序文」だったのである。
しかも、特に「親魏倭王」の称号を贈り、漢代まで「東夷、出国禁制品」だった絹や錦類を大量に「下賜」しているのである。-なぜか。
わたしは今回、改めて三国志を、東夷伝を、当の魏志倭人伝を、熟視するとき、これほどの「魏朝の歓喜」を、「倭国側の、魏朝への協力」と“結びつけず”に解してきた、従来の論者の「立論のゆるみ」に驚かざるをえない。
少なくとも陳寿は、「これでもか」「そしてこれでもか」と、倭国側の魏朝に対する協力が、いかに魏朝自身にとって「有益」だったか、その一事をいうなれば「特筆大書」していたことに驚かされるのである。
もちろん、「景初二年の六月」に、倭国側の魏朝への“協力”そのものが「開始」されたわけではないであろう。文字通り「景初中」の「楽浪・帯方二郡の制圧」に際し、倭国はすでに“魏朝側に立って”協力しはじめていたと思われる。何の協力か。もちろん「軍事協力」だ。どのような「軍事協力」か。当然、「東シナ海の海路の案内」である。それをリードしていたのが、松浦水軍の都市一族だったのである。
難升米は、俾弥呼の「正使」である。洛陽近辺に“祖先”をもつという“渡来人”だ。だが、その難升米のみにとどめず、わざわざ副使としての「都市牛利」の名を三回にわたって特記したのは、なぜか。
すでに読者にも明らかであろう。東シナ海の複雑な海流のルート、その全貌と詳細を知悉した倭人集団、その海上熟知の水軍をリードしていた倭人こそ、この都市牛利その人である。だからこそ、この明帝の詔書は、三度にわたって副使である「都市牛利」の名を、難升米と共に特記したのである。
以上、しめすところは、もちろん「戦中遣使」である。後代のインテリが“手直し”した「戦後遣使」では、陳寿のさししめした明晰な歴史の真実が、全面的に崩壊した上、空しい“抜け殻”となってしまうであろう。それ以外にないのである。
わたしたちはこのようにして、倭国女王俾弥呼の果たした役割の実像をようやく真正面から見ることができはじめたようである。
■■■■
古田武彦氏は、熱く語る。
『東シナ海の複雑な海流のルート、その全貌と詳細を知悉し、魏水軍の「東シナ海の海路の案内」を買ってでた都市一族の倭人集団、松浦水軍の活躍があってこそ、魏の明帝の「公孫淵討伐」の“成功”があった。』 と、即ち、
●「景初中、大いに師・旅を興し、淵を誅す。又、軍を潜めて海に浮び、楽浪・帯方の郡を収め、而して後、海表謐然(ひつぜん)、東夷屈服す。」(魏志三十、東夷伝序文)
●「景初中、明帝密かに帯方の太守劉(りゅうきん)、楽浪の太守鮮于嗣を遣わし、海を越えて二郡を定めしむ。」(魏志三十、韓伝)
だからこそ、特に「親魏倭王」の称号を贈り、漢代まで「東夷、出国禁制品」だった絹や錦類を大量に「下賜」しているのである。
■
◆ やはり、九州王朝「倭国」は、『魏志倭人伝』の女王俾弥呼の時代から、その「渺(びょう:ちっぽけな)たる」九州島を拠点に、黄海及び、列島周辺を“わが庭、我がもの顔”に行き来した「海賊国家」、否、「海上通商国家」だった。のである。
■
そんなこと言っても、「のちの、大和朝廷の大型遣唐使船は、派遣の都度、その航海中に「難破」した、「漂流・漂着」したと、伝えているではないか。」
そんな航海技術なんて、元々有ったはずが無い。とおっしゃる方々も多かろう。
● 九州王朝「倭国」は、白村江海戦(六六二年)で敗戦し、大半の軍船を失い。同時にこの時、松浦水軍の末裔の航海技術も、全て失ったと見るべきであろう。
● 更に、『古田史学会報』no.104(2011年6月5日)に、寄稿の『卑弥呼の時代と税について:山東省曲阜市 青木英利著』を、
【2011年10月24日(月)
で、紹介したが、きっと、その通りだったのだろう。
のちの、13世紀から16世紀にかけて、朝鮮半島や中国大陸の沿岸部を荒らしまくった「倭寇(わこう)」が育つには、数百年を経たということではないだろうか。
■
(822) 『遺跡から出土する木簡(荷札)からは、「七〇〇年までは、評制が施行されていた。」と分ってきた』 2011年11月29日(火)
■
ここで、一旦、原点にたち戻ってみますか。
【2011年11月22日(火)
の末尾を再度繰り返し記載しますが…、
■■■■
九州王朝「倭国」の白鳳王・薩夜麻は、直轄領「九州島」倭王直属軍(近衛兵)と、当時将に、毛人の地・北部関東を征討中の上毛野君稚子将軍を呼戻し、「州柔の陸戦」「白村江の海戦」へ派兵、自らも参戦したのだ。
ところが、間接支配領「長門以東」を評制施行「天下立評」中の倭国灘波副都の倭王家分家の(近江朝)天智天皇は、「州柔の陸戦」「白村江の海戦」へ派兵・出兵した様子に、『書紀』の前後の記載模様から、そうとは受け取れない。
そして、結果的に、倭国灘波副都の「長門以東」軍は温存され、この後、「長門以東」灘波副都の倭王家分家の近江朝天智天皇は、近江朝「日本国」として、一旦独立するのだ。
この倭国灘波副都については、
■
今迄に分らなかった、『日本書紀』の 「持統天皇吉野行幸記事は、三四年遡上している」 との古田武彦氏の発見が、倭国難波副都・天下立評を “はっきり・くっきりと、浮上” させて来ました。
わたしに限らず、あなたにおかれましても、何故に『日本書紀』は
①持統天皇吉野行幸記事を、実際の史実を三四年后の新しい年代に置き換えて(=遡上して)記載したのか。
②いっぽう、実際にあった「本来の大化改新:六九六年」の史実を、五十年前の古い年代に「大化改新:六四六年」があったとして、置き換えて記載したのか。
また、
③遺跡から出土する木簡(荷札)からは、
“何故に”、『日本書紀』は “偽って書き直した” のでしょうか?
誰しもが知りたいのです。 あなたは、“何故に”、だと考えますか?
■
なお、正木裕氏は、
『書紀編集者は、九州年号「白雉・白鳳期」の記事の一部を編者の都合にあわせて切り取り、「白雉を朱鳥」に、「白鳳を大化」に、各々元号を入れ替えて、九州年号の朱鳥・大化期に貼り付けたのだ。 〈以下略〉 』 と言われてる。
◆ 《ご参照》
ところで、これって、“「九州年号」があった”、としないと分らなかったんだ・にゃー (^_^;)
ところで、“「九州年号」があった”だって、ほんまか? って方へ、
古賀達也氏が、ちょうど、自身のブログ
必見・必読です、どうぞ。
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● 「九州年号」一覧表
01.善記、02.正和、03.發倒(教倒)、04.僧聴、05.明要、06.貴楽、07.法清、08.兄弟、09.蔵和、10.師安、11.知僧(和僧)、12.金光、13.賢称、14.鏡常(鏡當)、15.勝照、16.端政、17.告貴(吉貴)、18.願転、19.光充(光元)、20.定居、21.倭京、22.仁王、23.僧要、24.命長、25.常色、26.白雉、27.白鳳、28.朱雀、29.朱鳥、30.大化、31.大長、
《注》 : 表中( )内の5ヶは、残された史料でいずれが正しいか、私自身で決めあぐねている元号です。
◆《参照 :①》
◆《参照 :②》
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(824) 『『古田史学会報』no.106掲載の『唐書における7世紀の日本の記述の問題:青木英利著』で誤記では?の疑問点』 2011年12月1日(木)
■
【「日本書紀」七二〇年編纂完了後、唐朝では国史編纂資料中から、倭国史五十四年分が抜き取られたのである】
『古田史学会報』no.106(2011年10月08日)に、投稿記事の
◆◆◆◆
古田史学の会 ○○ 殿 ⇒ 編集局 ○○ 殿
平素はお世話になっています、突然ですが、
すばらしい投稿記事だと思いますが、この投稿記事には、内容が誤記では?といった疑問点があり、些細なことですが、読者の受け取り様によっては、肝要なことで、読者を混乱させかねないと思う、以下の点について、ご確認をお願いします。
■
①、
で、56年間とありますが、54年間の間違いではないでしょうか?
②、
で、永徴五年を西暦650年とありますが、654年でしょう、明らかに記載ミスだと思いますが?
③、
④、
⑤、
■
で、④、および、⑤に、六五九年、 で且つ、 日本史五十六年分 とありますが、
もし、
● 六五九年が、蝦夷国が独立国の扱いで(蝦夷国伝であるが為に抜き取られずに、書き残された)、のことを言っているなら、日本史(正しくは倭国史)五十六年分でなくて、四十六年分(正しくは43年分)にならないか。
● 五十六年分(正しくは54年分)が正しいなら、貞觀二二年(六四八年)(正しくは翌年の649年)から、703年(正しくは前年702年)ではないか。
■
以上、「いずれが正しいのか、」誠に申し訳ありませんが、編集部の誤植等の編集ミスでないならば、投稿者の青木英利氏にご確認いただけないでしょうか?
◆◆◆◆
※ 一方的な質問なので、返事ないかもしれませんが…。
■
(826) 『『邪馬臺(=台)国はなかった』で、俾弥呼のやまゐ国=山倭(=委)国を、邪馬壹(=壱・一)国と称揚した』 2011年12月4日(日)
■
古田武彦氏は、その著『邪馬臺(=台)国はなかった』で、
「魏晋朝は、俾弥呼(ひみか)の『やまゐ国=山倭(=委)国を、邪馬壹(=壱・一)国』と表記し、称揚した。」
とされている。
● 『邪馬臺(=台)国はなかった(解読された倭人伝の謎):古田武彦著』を、以下抜粋・転載する。
第五章 「邪馬壹国」の意味するもの … p253
憎悪された「貮」 … p255
つぎに、魏の同時代における状況を見よう。『三国志』において、憎悪された文字は『貮(=2:二)』である。この文字は、すでに『佐伝』等において「盟からの離脱と他への加入」を示す用語として使用されている。
《途中略》
これらの文面には、三国時代の支配者がいかに臣下や被統治階級の「貮」をおそれ、不安としていたかがありありとあらわされている。これらはもちろん、いつの時代もかわらぬ「支配者の心理」ではあろう。しかし、三世紀の三国対立した軍事・政治状況が、その警戒心を一段と深刻化していたのである。
このように警戒され、排斥された“悪徳”である「貮」の反対語が「壹」である。すなわち、「貮無し」にとどまらず、積極的に臣下最上の徳目をしめす言葉こそ「壹」にほかならぬ。
右のように、「貮」がいつも警戒されねばならぬ同時代の政治状況下においてこそ、倭国の「遠夷朝貢」が魏朝の特別の歓迎をうけたのである。そして倭王の、中国の天子に対する、二心なき忠誠心を、『周礼』の「六服-壹見」以来の、由緒深い「壹」の字をもって、賞揚されることとなったのである。
これが「壹拝」の用字、「壹与」「邪馬壹国」という、「壹」字を使った語句が倭人伝に頻出している、その思想的背景をなすものであった。
西なる「壹」の王 … p257
《途中略》
もって、魏晋朝が「遠夷朝貢」の夷蛮の王に対し、好んでこの「壹」の字を表記として用いた状況が知られよう。
このようにしてみると、東夷伝中「天子にむかって二心なき朝貢」という事実が特筆大書された倭国に対し、「邪馬壹国」という表記が用いられたのは、けっして偶然ではないことが知られるのである。
■■■■
《ご参照》
をご参照ください。
■■■■
● 『邪馬臺(=台)国はなかった(解読された倭人伝の謎):古田武彦著』を、以下抜粋・転載する。
第五章 「邪馬壹国」の意味するもの … p253
三つの問題 … p262
音韻問題は微妙な論点をいろいろふくんでいる。ことに上古音の問題は、上古の音韻史料が限られているから、一語一語についてみれば、なお未確定の要素をふくんでいることが多い。
したがって、その中の顧慮すべきいくつかの問題にふれてみよう。
● 第一、「邪馬」の読みについて。
《途中略》
すなわち、倭音にあてるための訓読は、漢字による原音表記の多様性のために、「絶対的な確かさ」は到底保障されえない、ということである。
このことはわたしたちにつぎの点を直ちに反省せしめる。すなわち、「倭音訓読にもとづく地名比定」を出発点とするような研究方法がいかに危険であるか、ということを。
● 第二、金印偽作説と上古音の問題。
志賀島から発掘された「漢委奴国王」の金印には、一部に偽作説が存在する。しかし、後代の偽作であるかぎり、「委」でなく「倭」を用いるはずだ。なぜなら、『漢書』『後漢書』『三国志』をはじめ、『晋書』『宋書』より唐宋代史書に至るまで、圧倒的に「倭」である。
■
《ご注意》ここで途中割り込みますが、この金印については、下記を参照ください。
◆◆◆◆
『俾弥呼(ひみか):古田武彦著』
「卑奴母離」 … p130
《途中略》
漢にとって終生のライバル「匈奴(=フンヌ)」は“たけだけしい部族”の意だった。これに対して“従順な部族”の意味を蔵する。それがこの「委奴(=ヰヌ)」なのである。
◆◆◆◆
《途中略》
“後門”の中国音韻法則 … p267
「橋本法則」という前門の虎”の直前を通過してきたわたしたちは、ただちにさらに困難な“後門の狼”に直前することとなる。
なぜなら、以上のように、「邪馬壹」を「やまゐ」と読むについて、なお一個の疑問が存在するからである。
けれども、これに対し、二個の反証が成立する。
● (一)、先の如淳注が「委面」と記したのをうけて、『三国志』の陳寿は「異面」と記している(東夷伝序文、前出)。
ところが、「委」が「ゐ(=wi)」であるのに対し、「異」は「い(=i)」である。陳寿は、両者の音の相異を知悉しながら、あえて換骨奪胎させて使用しているのである。文章の実際家である古代中国人は、現代音韻学者ほど、「音韻至上主義」ではなかったのである。
「壹」は「益悉切」と『集韻』で表現されているように、単純な「い(=i)」ではなく、むしろ「いッ(=it)」ともいうべき発音の字である。
すなわち、音韻の問題をもつとも厳密に考えれば、「い(=i)」も「壹」とまったく同一ではない。
もちろん、現代の音韻学者は“もっとも適正な対応関係”を指定するであろう。それはそれとして正しい。しかし、根本の原理が「類似」である以上、歴史上の使用事実は、現代の「指定」に拘束されているとはかぎらないのである。
● (二)、このことは、『三国志』に陳寿が記載した、つぎのような印象的な史実によって、さらに証明される。
莽(もう)、大いに悦び、天下に布告す。更に高句麗を名づけて、下句麗(かくり)と為す。
《途中略》
以上によって、「倭」を「壹」という「魏晋朝側からの思想性」をもつ字面にかえ、「邪馬壹国」と表記した-それについてはの音韻上の疑点は氷解する。
■■■■
上記、『邪馬臺(=台)国はなかった(解読された倭人伝の謎):古田武彦著』の抜粋・転載は、以上ですが、
私なりに、古田武彦氏の本著をまとめると、
『“臺(=台)”は、後世の改竄(かいざん)である。本来は、似かよった“壹(=壱)”である。更に、“壹(=壱)”は、ゐ=倭(=委)の「魏朝に、二心なき遠夷朝貢」に対する「特別歓迎の称揚表現」である。』
と、言われているようだ。
■
一方、志賀島から発掘された「漢委奴国王」の金印について、
漢にとって終生のライバル「匈奴(=フンヌ)≒現フィンランド人」は“たけだけしい部族”の意だった。これに対して“従順な部族”の意味を蔵する。それがこの「委奴(=ヰヌ)≒現日本人」なのである。
とされていて、「漢委奴国王」の金印は、漢に冊封の「委奴(=ヰヌ)」国王を、表わしている。
更に、「匈奴(=フンヌ)」と、「委奴(=ヰヌ)」の「○奴」は、“東西が、対になった、蔑視の付字”で、語幹は「委(=ヰ・ゐ)」である。
よって、漢に朝貢の「委
と、言われているようだ。
■
更に付記すれば、のちの中国国内で、この「倭」国の発音が、不幸にも、「倭(=ワイ・わい)」国と変化し、卑猥の「猥」を連想させるものとなった、ということのようだ。
■
《まとめ》【古田武彦氏は、『邪馬臺(=台)国はなかった』で、俾弥呼のやまゐ国=山倭(=委)国を、邪馬壹(=壱)国と称揚した。】となろうか。
■
(827) 『では、魏晋朝が邪馬壹(=壱・一)国と称揚した「俾弥呼のやまゐ国=山倭(=委)国」とは…、どこか?』 2011年12月6日(火)
■
つまるところ、
『では、魏晋朝が邪馬壹(=壱・一)国と称揚した「俾弥呼のやまゐ国=山倭(=委)国」とは…、どこか』
っていうことになる。
私めには、『まぼろしの邪馬台国:宮崎康平著』をもとにして、10年前の会社が休みの日に、書いたホームページ、
【まぼろし の 邪馬壹(≠臺)国 は、どこか?】
があるが…、
正直のところ、わたしめには、今もって分らないのである。 たはーッ (^_^;)
■
この直前の
◇◇◇◇
● 『邪馬臺(=台)国はなかった(解読された倭人伝の謎):古田武彦著』
音韻問題は微妙な論点をいろいろふくんでいる。ことに上古音の問題は、上古の音韻史料が限られているから、一語一語についてみれば、なお未確定の要素をふくんでいることが多い。
したがって、その中の顧慮すべきいくつかの問題にふれてみよう。
● 第一、「邪馬」の読みについて。
すなわち、倭音にあてるための訓読は、漢字による原音表記の多様性のために、「絶対的な確かさ」は到底保障されえない、ということである。
このことはわたしたちにつぎの点を直ちに反省せしめる。すなわち、「倭音訓読にもとづく地名比定」を出発点とするような研究方法がいかに危険であるか、ということを。
◇◇◇◇
とはいえ、最新刊の『俾弥呼(鬼道につかえ、見るある者少なし):古田武彦著』を読む限りでは、「地名比定」に、敢えて、「挑戦されているかのようだ。
■
『俾弥呼(ひみか):古田武彦著』
「山島」と「邪馬」 … p104
肝心の「邪馬壹国」について、丹念に考えてみよう。
《途中略》
「ヤマイチ」とは何か … p107
では、その「邪馬壹国」の「ヤマイチ」とは何か。ここで「山(=ヤマ)」といってるのは、どこの山か。そしてその「山における神聖なる神」とは、誰か。「問い」は必然的に、その一点へとすすまざるをえないであろう。
古事記は「天孫降臨」地として、次の一句をあげている。
「竺紫(=チクシ)の日向(=ヒナタ)の高千穂の久士布流多気(=クジフルタケ)。」
竺紫は「チクシ」(ツクシ)、福岡県である。日向は「ヒナタ」。高祖山(=たかすやま)には「日向(=ヒナタ)峠」があり、「日向(=ヒナタ)川」が高祖山の東側へと流入し、室見川と合流する。そこは「日向(=ヒナタ)」の地であり、最古の「三種の神器」を出土した、吉武高木遺跡は、その合流地に当たっているのである。その高祖山こそ、筑紫の「原点」なのである。
陳寿は倭人伝において、魏使が帯方郡を出発点として、不弥国に到着するまでを「里程」で表記した。その不弥国こそ、糸島市(福岡県)から博多湾岸(福岡市)に入ったところ、その地帯をさしていた。その地帯をもって魏使の行路を終結し、その南が「女王国」であると指定した。「邪馬壹国」の“ありか”としたのである。
この倭人伝の眼晴(=目玉)をなす一語を無造作に“投げ棄てる”ことから、従来の「邪馬台国」研究は出発していたのである。
「邪馬壹(=ヤマイチ)」とは、この高祖山をもって「山」と呼び、この高祖山に祭られた「古き神」をもって「壹(=イチ)」と呼んでいた。倭人側による、倭人の呼んだ倭語が、この一語だったのである。
陳寿がしめした倭人伝の表記は、古事記(そして後述するように、日本書紀も同様である)のしめす、「倭人の伝承」そして「倭人の神話」に語るところと、ピタリと一致していたのである。驚くべきことである。
■
あらためて、『では、魏晋朝が邪馬壹(=壱・一)国と称揚した「俾弥呼のやまゐ国=山倭(=委)国」とは…、どこか?』 と、古田武彦氏に聞けば、
『「邪馬壹(=ヤマイチ)」とは、この高祖山をもって「山」と呼び、この高祖山に祭られた「古き神」をもって「壹(=イチ)」と呼んでいた。すなわち、この高祖山連峯の地こそが「邪馬壹国」の領域に他ならない。』 と、古田武彦氏は、答えていることになる。
…が、はて・さて。。。
■
そもそも、古田武彦氏は、先に語っている。
『東シナ海の複雑な海流のルート、その全貌と詳細を知悉し、魏水軍の「東シナ海の海路の案内」を買ってでた都市一族の倭人集団、松浦水軍の活躍があってこそ、魏の明帝の「公孫淵討伐」の“成功”があった。
だからこそ、特に「親魏倭王」の称号を贈り、漢代まで「東夷、出国禁制品」だった絹や錦類を大量に「下賜」しているのである。
更に、魏晋朝は、この俾弥呼の「魏の天子にむかって二心なき、(一心の)活躍・貢献」を称揚して、俾弥呼の「やまゐ国」の「ゐ」を、「音韻の類似」した「壹(=壱・一)」に代えて、邪馬壹(=壱・一)国と称揚した。』 と。。。
“あれーッ” いつのまに何故か、「やまゐ国」が、「ヤマイチ国」に、“すり・変ってるーッ”
せっかくだけど、なんか変だ…、腑に落ちない。“ん・なーッ” 。。。
■
「ん、もういちど、」読み直してみようか。
◇◇◇◇
● 『邪馬臺(=台)国はなかった(解読された倭人伝の謎):古田武彦著』
「不耐濊(=ふたいわい)王」の国 … p287
「邪馬壹(=壱)国」という国名は、どのような構成をもっているのであろうか。この問題は「やまゐ国」と読みうることの確定した直後、直ちに発生すべき問いである。
この問題を分析するための、絶好の史料が『三国志』の中にあらわれている。それは濊(=わい)伝中の次の記事である。
《途中略》
すなわち、魏の正始八年、不耐候が洛陽の闕(=けつ:天下の宮殿)に至って朝貢したため、詔書が下されて「不耐濊(=ふたいわい)王」の名が与えられた。これ以後、晋代にいたるまで、「不耐濊」すなわち不耐城の候王を濊国を代表するものとみなす名称がつづいていたのであった。
これは魏晋朝の夷蛮統治政策にもとづくものである。すなわち、漢が都上尉を任命して直接統治策をとったのに対し、魏晋朝はその国の中心をなす候王にたいして、その国全体を代表する資格を認可し、かれに対する冊封(=さくほう:諸侯の封禄・爵位などを天子が任命すること)を通じて、間接に支配しょうとしたのである。
このような魏朝の対外政策は、例の景初二年の俾弥呼に対する詔書内にも十分に表現されている。そして俾弥呼に対し、「親魏倭王」の称号を与えているのである。
こうしてみると、「邪馬壹国=邪馬倭(=やまゐ)国」の名称が意味したその構成が明らかとなってくる。
すなわち、俾弥呼の国は「邪馬国」であり、その居城は「邪馬城」とよぶべき地であった。その「邪馬」の女王に対し、倭国を代表する資格を認可したのが「邪馬倭(=やまゐ)国」の名称なのである。
この点、先にのべたように、東夷伝中、濊伝の正始八年の朝貢記事は、倭人伝以外唯一の、具体的年次の記された貢献記事である、ということからしても、両者が比肩し、比較さるべき必然性をもつのである。
しかし、むろん、この濊伝の貢献記事に比し、倭人伝の朝貢記事は質量ともに抜群の豊富さ、華麗さをそなえている。また不耐候のように、高句麗に臣属していたのが魏側の討伐をうけて、「四時朝謁」するにいたったのと異なり、まったく倭国の方から自然に自発的に「遠夷朝貢」したものである。それはおのずから魏の天子の徳が天帝の賞美をうけたことの証明をなすものと信ぜられた。それゆえ、この「邪馬倭国」がとくに「邪馬壹(=壱)国」の表記をうけたのは当然であたと思われる。
なお、俾弥呼の居した地が「邪馬国」であったとみなすとき、直ちに人々は倭人伝中の「旁国」二十一国の中の第十六番目にも、同じ名の「邪馬国」の存在するのを思いうかべるであろう。
《以下略》
◇◇◇◇
うん、やはり、、「邪馬壹(=やまいち)国=邪馬倭(=やまゐ)国」で、間違いないですね。繰り返しになるが…、
『すなわち、俾弥呼の国は「邪馬国」であり、その居城は「邪馬城」とよぶべき地であった。その「邪馬」の女王に対し、倭国を代表する資格を認可したのが「邪馬倭(=やまゐ)国」の名称なのである。』
すなわち、古田武彦氏は、『俾弥呼の国の名前は「邪馬国」である。』と、言っているのだ。
■■■■
再び改めて、『では、魏晋朝が邪馬壹(=壱・一)国と称揚した「俾弥呼のやまゐ国=山倭(=委)国」とは…、どこか?』 と、古田武彦氏に聞けば、
『「邪馬壹(=ヤマイチ)」とは、この高祖山をもって「山」と呼び、この高祖山に祭られた「古き神」をもって「壹(=イチ)」と呼んでいた。すなわち、この高祖山連峯の地こそが「邪馬壹国」の領域に他ならない。』 と、古田武彦氏は、答えていることになる。
…が、はて・さて。。。
■
古田武彦氏は、『では、何故、倭人の使者が発音する「やまゐ国」を、魏晋朝の思想的立場にたって、「ヤマイチ国」に、“立場を、すり・変えて”説明したか、であるが…、
『俾弥呼の国名は、「邪馬国」である。の「邪馬」を「山(=mountain)」と、解釈した。』が為の「ヤマイチ国」だと分ります。
だが、はたして、この場合、『「邪馬」を、「山(=mountain)」』と、解釈して良いのだろうか?
私は、この場合の、『「邪馬」は、「山(=mountain)」ではない。』と、解釈している。
さて、皆さんは、どう考えていますか?
■■■■
古田武彦氏が、
…いきなり、私事で恐縮ですが、私の姓は“山本”です。ここ横浜では、それほど多い姓でもありませんが、田舎の山口県では一番多いのでは?と思います。
ところで、ここで、小学校で習った50音字の“おさらい”です。
“や”行 ⇒ (ya:や)・(yi:い)・(yu:ゆ)・(ye:いぇ)・(yo:よ)
「俾弥呼のやまゐ国=山倭(=委)国」の「ゐ」は、この“わ”行の(wi:ゐ)なのですね。
現在の日常会話には、この“ゐ”は、使用しません。いわば、“失われた発音・発声”だと言えましょうか、注意しなければなりません。
私の姓の“山本”ですが、ネットで拾ってみました。
●【『姓氏と家紋』_山本(山元)氏】・《魚拓》
●【『椿大神社(つばきおおかみやしろ)】・《魚拓》
『〈途中略〉今度は神職の山本氏が引き取り、上坐から下り、一礼して問を発しました。
この上記いずれも、『“山本”は“山麓”の意味である。』としています。
言い換えれば、「神主」“山本”とは、“や”に仕える者、「聖職者」ということになります。
■
一方、目を転じて、地図から、地名の“山本”を探すと、この“山本”の近く、付近には、不思議と、神社・大社があります。
●【『椿大神社(つばきおおかみやしろ)』にもある山本】・《魚拓》
「神社・大社」の麓(=ふもと)にある“山本”とは、聖地“やま”の麓(=ふもと)の場所となります。
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『姓(なまえ)入門:八切止夫著』
『…このヤ姓の部族というのは、「ヤソタケル」とか「ヤマタのなんとか」の子孫らしく、仏教を奉じた船舶系が渡海してくれば、彼らは神を護って徹底抗戦し、よってその拠点を「ヤの城」つまり「ヤシロ」、今では、社の字をあて、<途中略>
私の解釈は、『俾弥呼の国名は、「邪馬国」である。の「邪馬」は「聖地(=holy place:mecca)」と、なります。』
■■■■
「濊」とは、なにか?確か今の北朝鮮の東海岸、日本海の海岸沿いに細長く国があったが…。
『考古資料室>魏書東夷伝にみる諸民族の記録>濊伝』
・《魚拓》
要するに、〔叛いた〕濊を伐った。そしたら、一部の不耐候らが、従った。一部の従った不耐候らを、おだてて、濊国全体の王に任命した、ということだ。
そして、その後に、下記へと続くわけだ…、
『洛陽の闕に至って朝貢したため、詔書が下し「不耐濊(=ふたいわい)王」の名を与えた。以後、晋代まで、「不耐濊」、すなわち不耐城の候王が、濊国を代表するものだとした。
魏晋朝は、濊国の中心をなす候王に対し、その国全体を代表する資格を認可し、かれに対する冊封を通じて、間接的に、濊国を支配しょうとしたのである。
そして俾弥呼に対し、「親魏倭王」の称号を与えているのである。
すなわち、俾弥呼の国は「邪馬国」であり、その居城は「邪馬城」とよぶべき地であった。その「邪馬」の女王に対し、倭国を代表する資格を認可したのが「邪馬倭(=やまゐ)国」の名称なのである。』
と、続くのだが…、はて・さて?
■
ここで、注意しなければならないのは、
不耐候は、朝貢して、はじめて、「濊(=わい)王」に、ならしてもらったのだが、
一方の、女王の俾弥呼は、「邪馬倭(=やまゐ)国」が、魏へ朝貢する以前から、既に、倭人三十ヶ国の諸王国連邦に「推戴」された「ゐ国連邦の女王」だった、と考えられることだ。魏晋朝に「親魏倭王」と呼ばれる以前からだ。
ようするに、「親魏倭王」とは、魏に“追認”された称号にすぎない、といえよう。
それは、倭人伝の
■
ということは、「邪馬国」という、倭人国の中の、“一小国”の女王が、魏へ“朝貢”したから、といって、「邪馬」の“一小国”を倭人全体を代表する「親魏倭国王」の「親魏邪馬倭国王(=親魏邪馬壹国王)」に取り立ててもらったわけではない、ということだ。
当初から、“朝貢”以前より、「邪馬倭国王(=邪馬壹国王)」だったということだ。
更に、ということは、「邪馬国」とは別に、「邪馬倭国」があった、ということになろうか。
あるいは、「邪馬倭国」は、「邪馬国」の中にあった、かもしれないのだ。それは、国連がニューヨーク市にあるかのようにである。
「邪馬倭国」とは、 ⇒ 『邪馬(=聖なる「鬼道」によって共立の)倭国』か、あるいは、『「邪馬地区」と「委地区」の小国家連合が、共に推戴した国』か、ではないだろうか。後者が、もっとも、ふさわしい、と思うのだが…、はて・さて?
■■■■
ここで、一旦、これまでを整理しょう。
①、「俾弥呼」は、魏へ“朝貢”する以前から、「邪馬倭国王(=邪馬壹国王)」だった。「親魏倭王」とは、魏に“追認”された称号にすぎない。
②、「邪馬国」とは別に、「邪馬倭国」があった。か、あるいは、「邪馬倭国」は、「邪馬国」の中にあった。かもしれない。
③、「邪馬倭国」とは、
となる。
◇◇◇◇
私を「邪馬台国」の擒にしてしまった昭和57年1月15日発行の『まぼろしの邪馬台国:宮崎康平著』は、もう手垢でよれよれですが…、最初の1冊目は、有楽町の飲み屋に酔っ払って、置き忘れ、これは2冊目です。かれこれ、30年になりますか。(=^・^=)
『まぼろしの邪馬台国:宮崎康平著』を、抜粋・転載します。
邪馬台の真の意味…p152
いずれくわしくは後述するが、邪馬台の邪はヤとエの中間音yaeと発音すべきで、記紀では屋の字をもってあてられ、どうやら入り江の意味らしい。現在、入り江といってるエの部分の原音だと思われる。<以下略>
第二部 伊都から邪馬台への道
イ国グループ…p188
倭人伝に記載された国名に記載された国名に共通の意味を持つ、または同字同音の文字を使用した国家群のグループが存在することは前にも述べた。ここでも玄界灘をめぐる国々に、歴史的な地名と思い合わせて、ひとつのグループがあるように思われる。
すなわち、伊の字で代表される国名である。倭人伝中に、伊の字を用いた国は、伊都と伊邪の二国であるが、已百支(イホキ)支惟(キイ)も同系であると思われる。このほか、記紀その他に散見されるイサ、地名に残る伊万里(イマリ)、今福、今宿(イマジュク)、今山、今津など、数多くの関連した地名がこの地帯には多い。
イは、イシ(石)、イワ(岩)イソ(磯)などのイで、岩石の意味をもっているので、この地方に特有な切り立った断崖の下に荒波が打ち寄せる磯の国を象徴しているようである。つまり、玄界灘沿岸の生活様式、風土性に根ざした人たちのイニシャルではなかったろうか。これらのイ国グループを大表する国王こそ、「世有王」の伊都国王だったように考えられる。そして「王有り」の意味も「都」の意味も、ここではじめて価値を生じてくるのである。このことから、さらに「都」を用いた邪馬台国傘下の好古都国も、伊都国と同じようにコの国グループを支配した王のいた国ではなかったろうか。
こうしたことから邪馬台国連合は、同一部族からなるいくつかの小国家群が、地方的に一つのグループを作り、さらにそれらのグループが連合して俾弥呼を推戴していたのだと私は考えるのである。
第二部 伊都から邪馬台への道
邪馬台の邪は入り江の江…p372
次に国名の音に対する解釈だが、ヤ、バ、タの意味については前にも説明したとおりである。さらに詳しく付言すれば、ヤは入り江や湾の意味で、のちにエに転音して江の字をもってあてられてきた。現代仮名づかいでは、ア行のエもヤ行のエも同じエを用いるが、平安朝初期までは万葉仮名によてつぎのように書き分けられている。
ア行では、衣、依、愛、哀、埃、得、榎、荏。
つまり、「e」と「je」の違いである。おおむね五十音字には音読の文字が使用されているが、エは訓読の江を採用した珍しい例である(音読ではカゥとしか読めない)。入り江という言葉は、よほど古い言葉で、ヤとエとの中間音なので早くから混用されていたのであろう。
大山津見神と邪馬台国…p373
もう少しこのヤ、マ、タの古代語の組合せについて述べておこう。
◇◇◇◇
以上、『まぼろしの邪馬台国:宮崎康平著』を整理すると、
● 「ヤ」は「入り江」や「湾」の意味で、のちに「エ」に転音して「江」の字をもってあてられてきた。「e」と「je⇒ye」の違いである。「入り江」という言葉は、よほど古い言葉で、「ヤとエとの中間音」なので早くから混用されていたのであろう。
● 「ヤマ」はその後、「山」と記されたため、いまだに誤解を生んでいる。前にもふれたが重要なことなので重ねて説明すると、「ヤマ」は、「アマ(天、甘木)」、「カマ(蒲、鎌田、釜ヶ崎)」、「クマ(熊本、熊田、雑餉隈)」、「ツマ(妻、薩摩、吾妻)」、「タマ(多摩、玉名)」、「ハマ(浜、浜田)」などと同系統の語で、水辺に関係が深く、いまもって各地の地形をあらわす地名として残っている。
まとめると、
『山(=ヤマ)は、「入り江」や「湾」の意味である。発音が、「ヤとエとの中間音」の「je⇒ye(=いぇ)」なので、早くから混用され誤解を生んでいる。』
と言っている。
◇◇◇◇
※ 確かに、特に、瀬戸内海沿いの徳山・松山・福山・岡山・和歌山・館山・富山と、それと「おぼしき」名前が見受けられる。
なお、古代において、いわゆる、「山(=mountain)」は、「岳・嶽(=だけ)」と呼ばれていたはずで、「山」と呼ばれるようになったのは近年のはずだ。
◇◇◇◇
■
『俾弥呼(ひみか):古田武彦著』
「山島」と「邪馬」 … p104
肝心の「邪馬壹国」について、丹念に考えてみよう。
次の「壹」も、同じだ。「イチ」という、現代日本語に至る、“旧(ふる)い訓(よ)み”で訓まなければならない。外来民族の「侵入」によって、次々と変動させられてきた「鮮卑(北魏)系」や「モンゴル(元)系」や「満州(清)系」等の、代々の変動させられた中国語ではなく、日本列島伝来の「日本人の訓み」で訓まなければならないのである。
「壹」 … p105
次は「壹(イチ)」である。この一語こそ、倭人伝解読のキイ・ワードなのである。
すでにわたしは「言素論(『多元』に連載)」で、くりかえしこのことを論じてきていた。わたしにこのテーマを「開眼」っせたんは、「家島(エジマ):兵庫県」だった。わたしの親戚のある島である。姫路に近い、瀬戸内海上の島だけれど、いつも「家島(エジマ)の伯父さん」といった呼び名がわたしの家庭で日常的に用いられていた。
ところが、この島の教育委員会の方にお聞きすると、「イエシマ」とも言うとのこと。もちろん、生まれて以来、この島に住んでいる方でる。
わたしはそれまでは「エジマ」は「江島」であり、“入り江のある島”という意味だと思ってきた。「江戸(エド)」が、“入り江のある神殿の戸口”を意味するのと、同型にすぎない、とおもっていた。これを「家島」と書くのは、“類音”にすぎない。そう思ってきたのである。
現代のアイヌ語でも、同種の用法があるという(片山龍峯『日本語とアイヌ語』すずさわ書店。「アイヌ語-日本語音韻対応表」、五ページ参照)。原初日本語の用法(右の各地名)が、現代のアイヌ語にも遺存しているのではあるまいか。
ともあれ、今問題の「壹(イチ)」も、まさにこの「イ」が接頭音として用いられているのである。
◇◇◇◇
※ ここで、危惧するのは、古田武彦説に従えば“い”が付くと、なんでもかんでも、“神聖な”とならないだろうか?
◇◇◇◇
■
『俾弥呼(ひみか):古田武彦著』
「チ」について … p106
「チ」については、言うまでもない。わたしの言素論の基本語の一つだった。大切なテーマであるから、重複をおそれず、再説しておこう。
わたしの尊敬すべき先輩、梅沢伊勢三さん(東北大学)は、古事記研究に一生をついやされた方である。そのなかで、「神(カミ)」とは別個の、“古い、神をしめす言葉がある”ことを「発見」し、詳述された。
「アシナヅチ」「テナヅチ」「ヤマタノオロチ」「オウナムチ」などの「チ」である。古事記の中に、このような「カミ」とは別体系の「神を意味する、言語」の存在することを力説されたのである。
東北大学の学生時代、村岡典嗣先生亡き後、いつも日本思想史料の助手の梅沢さんの董陶をうけつつ、学生生活をおくっていたわたしにとって、研究の原点となったのである。後年、北海道や樺太の対岸、ハバロフスク州に住む「オロチ族」の古老をたずね、「オウナムチ」の「ナム」が“海”、「ナ」は大地、「ム」は水を意味する。「古きオロチ語」であることを確認できたのも、この問題意識から発していた。わたしの言素論の原点の一つとなったのである。
そのため、この「壹(イチ)」の意味も、わたしにはすでに鮮明だった。“神聖な、古き神”を指すべき、重要なる一語に他ならなかったのである。
◇◇◇◇
うーん、今知りたいのは、
『邪馬壹(=壱)国の「壹(イチ)」ではなく、「俾弥呼のやまゐ国=山倭(=委)国」の「ゐ(=倭・委)」について、なのだが…。』
思うに、『「やまゐ国=山倭(=委)国」を、古代の発音で、復元すれば「いぇ・ま・うぃ(=ゐ)国」となる。』ということか。
◇◇◇◇
先の、
Ⅰ)、「邪馬倭国」は、『邪馬(=聖なる「鬼道」によって共立の)倭国』である、の意味だとすれば、小国家連合体の総本部が「邪馬国」の中にあった。のかもしれない。
⇒ そうだとすれば、
Ⅱ)、「邪馬国」とは別に、「邪馬倭国」があった。とすれば、「邪馬倭国」とは、『「邪馬地区グループ」と(=&・and)、「委地区グループ」の小国家連合体が、共に推戴した国』であったとなる。
⇒ そうだとすれば、
となる…、はて・さて。
◇◇◇◇
まー、今もって、“ようとして”分からない、
■■■■
『俾弥呼(ひみか):古田武彦著』
<略>郡より倭に至るには、<略>そ(=倭)の北岸、狗邪韓国(=巨済島)到る(そこで、一旦留まり、潮待ちする)。
<略>伊都国(=周船寺付近)に到る。<略>千余戸有り。世に王あるも、皆女王国に統属す。郡使の往来、常に駐まる所なり、(やっと、倭国へ到着した。我々郡使は、女王の拝謁が許されるまで、いつも、ここで、駐留することになっているらしい。)
<略>(倭人の案内人から、聞くところによれば、女王国に至るには、そこから)東行(して)不弥国(=ふぅび:ふたつの干潟で、福岡市街山手)に至る。
<略>(ここで、運河を利用して、御笠川を遡上、宝満川を下る、更に、有明海沿いに、)南、投馬国に至ること、水行二十日。
<略>(同様に)南、邪馬壹国に至る、女王の都するところ、水行十日・陸行一月。
<略>女王国(=北部九州)の東、海(=周防灘)を渡る、千余里、復た国(=本州・四国)有り、皆倭種<略>
■
古田武彦氏の熱意は、ひしひしと伝わるも…、特に、『言素論』なるものには、「今一、納得しない自分がいる、」と思うのだ。
ともあれ、私の解釈は、上記、括弧()内にそって、理解しているので、
「俾弥呼のやまゐ国=山倭(=委)国」は、九州島の北部・中央部にあったことは、確かだろう。
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