大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 054 》
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ
白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、
日本書紀の〔 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権
2010年 4月 2日 発行
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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ https://waikoku.sakura.ne.jp/yamato.html 2:32 PM Apr 2nd webから ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(868) 『富士山て縄文時代に出来たんですか!^ー^ 井戸尻考古学博物館の学芸員さんから』 2012年1月28日(土)
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●hanayuuはなゆー(開星論のUFO党)
ほんとかよー? 単に、雲ってこともあるじゃん。うそだったら、国家騒乱罪で逮捕するぞ。RT @hanayuu 〔写真〕富士山の中腹2か所から勢いよく蒸気が出ている
●hinagiku_mayMAYU♪
横から失礼、そうですか?井戸尻考古学博物館でもそういった説明がなされてたって知りませんでした。
【2011年9月8日(木)
私の書棚に古びた
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●tubupokoとんび@外岡則和
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私の書棚に古びた
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●tubupokoとんび@外岡則和
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●tubupokoとんび@外岡則和
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●tubupokoとんび@外岡則和
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●tubupokoとんび@外岡則和
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●tubupokoとんび@外岡則和
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●tubupokoとんび@外岡則和
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なーるほど。古い同志に、ひょんな所で、再会したって感じです。うれしいです。RT @tubupoko 今年還暦。@hinagiku_may @zakdesk
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●tubupokoとんび@外岡則和
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(869) 『邪馬臺(=台)国、邪馬壹(=壱)論争はどんなに精緻でも“いったいあなた方は何について論じているのか”』 2012年1月29日(日)
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●tubupokoとんび@外岡則和
同志、光栄ですね。古田武彦先生とは何度かお話をうかがいました。勝手に先生と。
資料に対する態度や学問への情熱を教えていただきました。終生、先生です。
古田先生はそういうわけで先生なんですが、“弟子”は、怠け者で自称も恥ずい。
ただただ、羨ましい限りです。九州王朝の滅亡、ですね。北陸にも“王朝”があったみたいですよ。ちょと続けますが、
どうも、富山あたり、大宰府と同じ程度に重要な場所だったみたいなんです。大伴家持が赴任してます。僕は『古事記』まで、で、『日本書紀』は訳文でも通読なし。
『日本書紀』読んでないもんで、なんかね、羨ましいなあ、と。天皇が居なくなって北陸から連れて来たりするんでしょ?能登半島には渤海からの使節受入れ港が。断片。
僕のは断片で、とうやんさんのは本格的です。読まなくても分かる。愛が感じられるんです。羨ましい限り。発展を期待しますね。@tohruchan77 興味深い見解ですな。
読まずに勝手に言いますが、結論、出ませんお。僕は古田先生、って、会話になると、さすがに、ちょと、@tohyan 『邪馬臺(=台)国は無かった(邪馬壹(=壱)国だった)』を読めばわかります。いつ結論が出るやら。
気恥ずかしいんで、普通に話しますが、僕は古田武彦さん乗りですが、だからといって、邪馬臺(=台)国や邪馬壹(=壱)国が存在したのかどうか、となると、誰にも確認できないんです。
つまり、元の資料が何について語っているのか、は分らないんです。僕が古田先生と、どうしてここで先生になるのか?ともかく、古田先生を支持するのは、資料に相対する誠実さと首尾一貫した論理なんです。かつ、
かつ、その論理から導き出された結論、九州王朝の移動、複数王朝論が、きわめて説得力がある、という点なんです。とりわけ、資料を読む態度が素晴らしい。“都合の悪い記述は誤記で片付ける”という安易さを、
“都合の悪い記述は誤記で片付ける”という安易さを厳しく排除する。当たり前のことなんですが日本では稀有のことなんです。とうやんさんも言及なさったように、「物」を扱っていてさえ、都合が悪いと隠す。
測定数値を勝手に変える。計らなかったことにしてしまう。なんてのは、ご覧の通り日常茶飯事で、酷いのになると、計らずに(つまり、資料も読まずにですね)勝手に放射能は微量だとか、どこにでもある、とか、
いいですか、目の前に存在し計れば計ることが出来る「物」についてさえ、平気で嘘をつく。まして、目の前に存在しない邪馬臺(=台)国や邪馬壹(=壱)となると、もう、めちゃくちゃ。古田先生のは違いますね。
「壹(=壱)と書いてあったら、壹(=壱)と読むしかないではないか。なぜ勝手に臺(=台)の誤記で片付けるんだ?」というのが、資料を読むときの古田先生の態度です。書いてある通りに読む。
書いてある通りに読んで、誠実に“何が書いてあるのか”を考え、読み込む。そりゃあ、迫力があります。同時に、“学会”からは嫌われるのも道理というもの。そのあたり、“原発礼賛”学会と似たり寄ったり。
それどころか、たとえば、邪馬壹(=壱)国という「物」がない分、排除が陰湿なものになるんです。ない、ということで言えば邪馬臺(=台)国だってないんですよ。書いてあるものを書いてある通りに読む、
書いてあるものを書いてある通りに読む、という古田武彦先生の方法、誠実さの延長線上に僕の“『古事記』の読み”がある。途中で、というか、最初からかも知れませんが、脱落した身としては、えらそうなことは、ね。
つまり、ほかの方々の論文を読んで批判するなんてことはしませんが、邪馬臺(=台)国、邪馬壹(=壱)論争はたとえどんなに精緻であっても“いったいあなた方は何について論じているのか”という問い一発で終了。
そんなこたあ、古田先生にとってさえ、もしかしたら、どうでもいいことなのかもしれない。「リアル(真実)」を求める方ですから。ですから、僕は『東日流外三郡誌』を弁護しましたし、いまでも、弁護しますね。
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(870) 『つまり、大和朝廷と唐国は共謀して『倭国史』を改ざんし、『日本書紀』を“でっちあげた”というわけです。』 2012年1月29日(日)
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最初は『まぼろしの邪馬台国』『邪馬臺(=台)国は無かった(邪馬壹(=壱)国だった)』とか読んで、九州王朝「倭国」の『誕生』に躍起になってたのですが、今はどのように『滅亡』したかを、
最初は『まぼろしの邪馬台国:宮崎康平著』『邪馬臺(=台)国は無かった(邪馬壹(=壱)国だった):古田武彦著』とか読んで、九州王朝「倭国」の『誕生』に躍起になってたのですが、今はどのように『滅亡』したかを、
ちょうど、SPEEDIの【隠蔽】と、九州王朝「倭国」の【隠蔽】とは、そっくり似ているわけです。つまり、大和朝廷と唐国は、共謀して『倭国史』を改ざんして、『日本書紀』を“でっちあげた”というわけですね。すごーいッ
● ⇒『古賀達也の洛中洛外日記』
プロの方々が、““喧々諤々(=けんけんがくがく)””やってるわけで…、それも内容が精緻ですからね。『邪馬臺(=台)国は無かった(邪馬壹(=壱)国だった)』を読めばわかります。いつ結論が出るやら。RT @tubupoko @hinagiku_may @zakdesk
● ⇒『大和朝廷「日本国」出生秘話Twitterその1~54』
おっしゃる通りです。“悪く言うと、「結論」が出ないことを楽しんでる”って、感じですかね。RT @tubupoko そんなこたあ、古田先生にとってさえ、もしかしたら、どうでもいいことなのかもしれない。「リアル(真実)」を求める方ですから。 @hinagiku_may @zakdesk
まー、とはいえ、「古田史学の会」での「九州年号の解明」「書記34年遡上改ざんの証明」で、“おおよその帰趨は見えて来た”んじゃないでしょうかね。
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●tubupokoとんび@外岡則和
『日本書紀』読んでないんで、具体的には何も言えないんですが、『古事記』は“隠して”はいませんお。あるいは、こう言えるかもしれない、大和朝廷「日本国」出生秘話Twitterその「1~54」
隠している、ということがばれてしまえば、真実は突き止められる。ただ、問題は、なにしろ「物(ブツ)」がないってことなんです。んでは。
たいてい、“いろんな結論”が出ることを楽しんでますね。それはそれで、ね。
重ね重ねありがとうございました。何しろ、時間切迫、パソコンおもおも。なにかと失礼、って、読まずに、ねえ(笑)、非礼の数々、ご寛恕のほど、よろしくお願い申し上げます。RT 「九州年号の解明」「書記34年遡上改ざんの証明」
つうわけで、また、ですにゃん。また、懐かしい話題が(苦笑)。ご教示、よろしゅうに。RT 「九州年号の解明」「書記34年遡上改ざんの証明」
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(871) 『“再掲載” 「九州王朝新発見の現在」阿蘇山問題・隋書大倭國伝【有阿蘇山“其石無故火起”接天】の新解釈』 2012年1月29日(日)
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下記は、
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な・なーるほど、そう読むのか?“え・えらい違いがある”もんだ…。
古田史学会報no105(2011年8月8日)【(二〇一一年度 久留米大学公開講座)古田武彦講演「九州王朝新発見の現在」要約」:文責=大下隆司】を抜粋・転載する。
一、阿蘇山問題・隋書俀國伝
■ 【有阿蘇山“其石無故火起”接天】これを一般的には、
“その石は、故なくて火が起こり”と読まれている。
が、これでは意味不明でおかしいと思っていた。
① 天が起こしたものが“災”であり、人が起こしたものが“火”である。
また「無故壇入」という熟語があるが、これは「無用の者猥に入ることを禁ず」で、「無故」禁止の意味。
“接天”とは、天に高くそびえていることである。
② これらから、
“其石”とは「阿蘇山の石で作った要害=神籠石山城」である。
更に、その中では祭事が行われていて、火を起こすことが禁じられている。
と言う意味であることが分かった。
③ 「神籠石」は敵に対して作られた山城であると同時に大自然という敵に対して作られた霊域でもある。
④ 【如意宝珠】:宝珠とはイサナ(鯨)の目で作られた、俀国の宝珠である。
④ 【天災】:瀬戸内海が出来た時のプロセスは「縄文海進」というきれいな言葉が使われて、だんだんと海面が上昇してきたような印象がもたれるが、実際、その時代は大地震、大津波の連続の時代だったのではないだろうか。
⑤ 【高地性集落】:第一の敵は大自然で、天災に対する恒久的な逃げ城として作られた。
⑥ 「神籠石山城」も「高地性集落」の延長として、倭国が“自国民を守るために作った天に祈る場”であると同時に、“敵の攻撃を防ぐ山城”であった。
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思うに、上記で肝心な箇所で、古田武彦氏は、『“其石”とは「阿蘇山の石で作った要害=神籠石山城」である。』と迄、言われている。
漢籍に不如意な私ですので、もう少し、「石=石山城」の説明が欲しいところです。
また、④で、「縄文海進」について触れて居られる、これについて米田良三氏は、『日本だけが、「縄文海進」するはずも無く全世界規模で、「縄文海進」が起こるはずのものだが、そんな話は聞いたことも無い』と確か言われてた。
『列島合体から倭国を論ず:米田良三著』第2章 暘谷論 4 列島合体 p81には、次のようにある。
①、「縄文海進」…縄文時代の一時期気温が上昇して海水面が上がったと言う説。
と書かれている。
まー、この本は、p59に『そして四〇〇〇年前に東日本と西日本が合体する。(暘谷海の)海流はせき止められ、さらに火山活動が活発になる。二〇〇〇年に近い火山活動の結果、主なものを挙げても北から、妙高、黒姫、蓼科、八ヶ岳、富士山、箱根の火山ができたのである。』とあり、そんなに最近富士山ができたのかって、いぶかる方も居られるかと思いますが…、最近、「東日本大地震」を直接経験すると、「ひょっとすると、ひょっとするかも知れない」と思う次第です。
期せずして、古田武彦氏も同じようなことを、おっしゃってると思い、敢えて『列島合体から倭国を論ず:米田良三著』を紹介します。
確かに、関東では、浅間(あさま・せんげん)神社が多く祀られていて、ここ横浜でも横浜駅と三ツ沢グランドの間の浅間交差点の近くには浅間(せんげん)神社があり、その上の尾根には前方後円墳があったとされています。富士宮神社は源頼朝が伊豆で挙兵して祀ったのが始めでつい最近のことのようです。古くは浅間神社のようです。
あとひとつ、八ヶ岳の山麓には「縄文遺跡」があると聞いている。縄文文化は一万年前起源だと聞くので、平野にあった縄文遺跡が四〇〇〇年前に、八ヶ岳の山麓に隆起したと考えれば、充分納得可能でもある。
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(872) 『今日、NHKの『平清盛』で、父・忠盛が、上皇の御願に応えたという『得長寿院』こそ、今の『三十三間堂』』 2012年1月29日(日)
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今日、NHKの『平清盛』で、父・忠盛が、鳥羽上皇の御願にこたえて寄進したという『得長寿院』こそ、今も健在の『三十三間堂』こと、『蓮華王院』の前身と考えられる。平忠盛はこの功により昇殿が許されたという。が、この『三十三間堂』が、嘗ての大宰府『観世音寺』の『大房』の別名だとしたら…。
この『三十三間堂』と、法隆寺の『金堂』、更に、『五重の塔』のデザインは、“素人目にも同じ作りだと分かる。”元は同じ九州王朝「倭国」の都・大宰府「観世音寺」に建ってたものだから、当然といえば、当然なのだが…。
◇
先ずは、
『左の挿絵は、米田良三著「法隆寺は移築された」に紹介の写しで、現在の観世音寺に残る一幅の古絵図である。
さらに絵図の右奥には、「能舞台」とおぼしき絵が描かれている、当時すでに『筑紫舞』・『延年の舞』などの能が演じられていたのでしょう、また、寺の最前列には鳥居が描かれている、当時の宗教観がおもしろい。―云々 』
上の「絵図」の最奥を見てください。
“観世音寺の横幅一杯に描かれている「横長の建物」”が現在は移築されて京都に建つ、あの『通し矢』で有名な
“こんな横長の建物”が、当時、どこにでもあったわけがないことは、だれもが“ピーンとくる”ってもんだ。
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ここに、
『建築から古代を解く:米田良三著』 があるが、そのうちの「三十三間堂」の項のみを特に書き出して置こう。
目 次
Ⅲ 三十三間堂の謎――p119
〇 三十三間堂とはなにか――p121
〇 三十三間堂建築の時代性――p131
〇 観世音寺大房から三十三間堂へ――p139
〇 三十三間堂移築の痕跡――p154
〇 二種類の符牒――p164
■
さらに、今回のテーマが『今日、NHKの『平清盛』で、父・忠盛が、上皇の御願に応えたという「得長寿院」こそ、今の「三十三間堂」』ということで、下記に詳細を抜粋・転載するものである。
・平家の九州進出と大江匡房(まさふさ)――p144
鳥羽上皇の近臣であった僧正寛助(かんじょ)の所有する荘園に肥前国藤津荘があった。
また、得長寿院を造った翌長承二年(一一三三)のことであるが、宋の船が博多に来港する。
平家の九州進出とはどのようなことを意味するかについて、『古今著聞集』に示唆に富んだ話がある。
白河上皇の時代、院の政権を支える有力なブレーンの一人に大江匡房がいた。匡房は当時珍しく清廉潔白な人物であったと評されている。
この話の主は、一一〇六年に観世音寺の伽藍再建の申請をした大江匡房である。この話を深く読めば、収奪の事実、そして受領としての当然の仕事もしなかったことを沈んだ船にたとえて話と読めよう。
平家が大江と同じことを行ったかどうかは断言できないが、のちに大江匡房と平家一門との親しい関係が『平家物語』に語られることから、大宰府においてすでに大江と平家の関係が生じていたと考えられる。平家の九州進出が収奪による財力の形成であったことは疑えない。
つぎに、平正盛が追討使に任ぜられた翌年(一一二〇)に観世音寺が東大寺の末寺になっている。その要因をかっては大宰府権力の衰退、および観世音寺自身の衰退に求めようとしたが、現在では逆に東大寺が観世音寺の有した豊富な財力を確保することにあったとされる。
一一四七年、東大寺は各荘園に対して荘園文書を提出するように指示している。
そして一一五三年に、「東大寺諸荘園文書目録」がつくられる。そのなかの観世音寺の文書は一一五〇年のものまで記載されており、この年に東大寺に提出していることがわかる。
東大寺の末寺となった原因の一つに年表の点線で囲った期間の大房消滅にからむ記録の抹殺が企てられたと考えるのは深読みだろうか。
平家と大江匡房と東大寺が、観世音寺の大房消滅に深くかかわっていたと考えるのである。
■
(874) 『すこぶる文字多しとは当時既に、ひらがな・カタカナ・サンカ文字・ハングルの元のアビル文字・漢字があった』 2012年1月31日(火)
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●tubupokoとんび@外岡則和
あぁ、そうですか。この頁ざっと見ましたが、うまく偏らずにまとめてありますね。佐治芳彦、相馬龍夫で知ってましたが、
●tubupokoとんび@外岡則和
★ もう、解読されています?
★ 相馬龍夫氏は名前知っているかな?くらい。佐治さんの著作は読んだことがあります。
★ これだけ文字数があれば、解読できないほうがおかしい。
今、私のブログに“かいつまんで”写真を載せてみました。『謎の神代文字:佐治芳彦著』p204p205にある
『謎の神代文字:佐治芳彦著』p58にある「秀真伝(=ほつまつたえ)」の原文の一部
●tubupokoとんび@外岡則和
もとの言語は、日本語と朝鮮語とアイヌ語しかありません。「人間のやることには意味がある」。読めるはずです。 @tubupoko @tohyan …佐治芳彦、相馬龍夫…
はあ? とはいえ、「日本語・朝鮮語・アイヌ語」は、環「日本海」語と言っても良いかと。昔通事の記録がありませんからね。RT @tubupoko もとの言語は、日本語と朝鮮語とアイヌ語しかありません。「人間のやることには意味がある」。読めるはずです。 @tubupoko @tohyan
『謎の神代文字:佐治芳彦著』p141「㊧日文と、㊨諺文(=おんもん:ハングル)の対比表」
『日本列島史抹殺の謎:佐治芳彦・吾郷清彦・鹿島共著』p27にある対馬の阿比留家(寛元年間1243-1246に、宗家に倒された)が持ってた「阿比留文字」。
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(875) 『吟味してないって?「九州年号」「34年遡上説」も理解してない。そりゃー偽書かどうか、わかるはずない。』 2012年1月31日(火)
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●tubupokoとんび@外岡則和
神代文字のあるページ、教えてもらいましたので、お知らせいたします。竹内文書の一枚です。僕、初めて見た。
もう、解読されています?
相馬龍夫氏は名前知っているかな?くらい。佐治さんの著作は読んだことがあります。
これだけ文字数があれば、解読できないほうがおかしい。
もとの言語は、日本語と朝鮮語とアイヌ語しかありません。「人間のやることには意味がある」。読めるはずです。
茨城県北茨木市磯原町に、「皇祖皇太神宮天津教」…。狩野氏の解読において、最初から50音表への割付←
1910年(明治43年)秋、神代(神武天皇以前)の時代から伝わる…「竹内文書」を公表。この文献・神宝類を「経典」として皇祖皇太神宮を復興、天津教の開祖となる。←「ウィキペディア 天津教事件」
① ② ③ ←狩野の結論は、“読めないから偽書”(何が書いてあるか分らないからでたらめ)だと思います。
わおっ!読めているんですね?前言撤回。@tohyan 『謎の神代文字:佐治芳彦著』p204p205にある『偽書だとした狩野亨吉(かのうこうきち)博士の訳文』です。
読めているなら、あとは中身の吟味だけです。
はあ?とはいえ、「日本語・朝鮮語・アイヌ語」は、環「日本海」語と言っても良いかと。昔通事の記録がありませんからね。
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ただ、この訳文の中に「読解不明」個所があります。狩野亨吉(かのうこうきち)の解読は嘘の可能性あり。偽書についてちょと。
その、どれかで書かれている、ということです。何語で書かれているか特定できれば、読めたも同然。
こいつらの“偽書説”の根拠は、「古事記、日本書紀に書かれていることとは違う」
『古事記』、『日本書紀』が“真書”である根拠はありません。『東日流外三郡誌』、『竹内文書』が偽書なら、前の二つも偽書。
僕の態度は、『古事記』、『日本書紀』、『東日流外三郡誌』、『竹内文書』どれも、「同じ価値を持つ資料」(とんび)!です。
狩野亨吉の決定的な間違い、犯罪ともいえる間違いは、「証言の価値に差をつけた」(とんび)という点です。ほんと、頭にきちゃう、このペテン師どもが。
ここで、「証言」と言ったのは、むしろ、証拠といったほうが誤解が少ない。つまり、『本』のことです。
どの本も誰かが何かを伝えようとして書いているんです。中身の吟味については、どれにも同じ敬意を払うべし!
狩野亨吉は、ある「偽書」を根拠に、その偽書と違うことが書いてある、という理由で、他の本を「偽書」と決め付けた。
ようするに、明治王統以外の王統を認めなかった。
しかも明治政府およびたいこ持ち学者たちは、「記紀」とさえ異なる歴史をでっちあげているんです。
しかも、彼らは、その判断の根拠とした「記紀」の歴史をさえ捻じ曲げている。信じていない本を真としている。
ちょと、疲れたんで、書き流しますが、つまり、狩野亨吉と今の原発学者は同じものなんです。いったい“原発は安全だ”と信じてる学者、いるんですか?ったく。「記紀」を信じるなら、明治政府はでたらめです。明治政府を信じるなら、「記紀」はでたらめ。
時数の都合で「記紀」と一緒にしましたが、もちろん、「日本書紀」の歴史と「古事記」の歴史は別物です。この二つを一緒にするような“読み”は、僕は信じませんね。それじゃあ、どんな資料も読めない。狩野亨吉“博士”、ね。ではでは。
だからこそ「記紀」では“王室”を形成できず、「朝鮮王室儀軌(ちょうせんおうしつぎき)は、李氏朝鮮時代の国家主要行事を文章や絵画で記録した文書類の総称」。
歴史がもや~っと。@tohyan うーん、もやーとしてて…、これは
日本書紀は吟味してないんで、あまり、言えないんですよ。日本書紀は合本だと思ってます。
「一書に曰く」は時間、あるいは、系を整除出来なかったんだと。「古事記に曰く」とか書かないから、高市紀も、ね。
古事記は比較的系統が追いやすい。部分削除されたのがたとえば「風土記」。削除部が神代文字で残って伝わった。
ということを原典にあたりながら丁寧に吟味すればいいんでつお。日本書紀は錯綜してて、どれがどの本なのか吟味が難しいんです。比較対照がないし
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困りましたね。理解しているなどと言った覚えはありません。 @tohyan 吟味してないって?それじゃー古田武彦氏、古賀達也氏、正木裕氏のこと、「九州年号」「34年遡上説」もご理解されてないってことでしょう。そりゃー偽書かどうか、わかるはずない。RT
僕が、何をどう偽書といったのか、ご提示願います。
私が言った覚えのないことについて、勝手に決め付けた議論には応じません。ご自分でお考え下さいな。
日本書紀については、最初からそう申し上げている。どうぞ、ご高説を。私は読みます。
これかにゃ?歴史はもや~っとしたもんなんですよ。複雑で微妙で見極め難い。簡単に分かるほうがおかしいんです。 @tubupoko 歴史がもや~っと。@tohyan うーん、もやーとしてて…、
先ほどおっしゃったばかりじゃないですか。『日本書紀は吟味してないんで、あまり、言えないんですよ。“日本書紀は合本だ”と思ってます。』 ⇒これって、「日本書紀は偽書ではない」という意味ですよね、違いますか…。RT @tubupoko 僕が、何をどう偽書といったのか、ご提示願います。
僕はその文脈でいえば、「日本書紀は合本だ」としか言ってませんよ。偽書ってのは、「東日流外三郡誌が偽書なら、古事記も日本書紀も偽書だ」と。つまり、僕は日本書紀、他の本もそうですが、偽書かどうかなんて問題にしてないんです。日本書紀の本としての性格を申し上げた。
ある本が単著なのか、複数著者なのか、あるいは合本なのか、ということは、中身の吟味なしに分かります。
その上で、「持統紀は高市紀だ」という所説もあるだろうなあ、と。
再度繰り返しますが、『書紀は吟味してないんで、“日本書紀は合本だ”と思ってます。』 ⇒これって、「日本書紀は偽書ではない」という意味ですよね、違いますか…。RT @tubupoko ある本が単著なのか、複数著者なのか、あるいは合本なのか、ということは、中身の吟味なしに分かります。
言葉の問題、ですね。「偽書ではない」ってことは「真書がある」ってことでそ?何が真書で何が偽書です?あなたが、日本書紀を真書と認めたければ、そうおっさればいい。最初に申し上げたように、僕はある本が偽書か真書か、なんてことを問題にしていません、って。中身がすべてでつ。@
何が言いたいか?まー、私は『倭国史』という「真書」が別にあった。そして、それをもとに、ある一定のルールにもとづいて、記事の切り貼りをして『書紀』を編纂した。RT @tubupoko 言葉の問題、ですね。「偽書ではない」ってことは「真書がある」ってことでそ?何が真書で何が偽書です?
僕の態度は、その『倭国史』も、他の書と同等の価値をもつ資料だ、というものです。
そんなふうに抹殺された「歴史」がたくさんある、と思っていますよ。一書に曰く、と。
そんな、のんびりした…。やれ・やれ、もう、やめましょう!! RT @tubupoko そんなふうに抹殺された「歴史」がたくさんある、と思っていますよ。一書に曰く、と。
(883) 『春日局という家光の乳母がいるが、実は彼女は家光の生母であったとする説がある』 2012年2月3日(金)
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《ご注意》: 以下は、そっくりの“ぱくり”です。否、最近は「リブログ」だと、言うらしいが…。
あれッ、俺っちと同じこと言ってる…。
◆ ⇒ 『春日局という家光の乳母がいるが、実は彼女は家光の生母であったとする説がある(マヨの本音:日本の古代史から現代まで、歴史を学びながら現代を読み解く。起こった出来事は偶然なのか、それとも仕組まれたものなのか? )』
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和子はまさこと読んだ
2012年01月29日 10時54分53秒 | ひとりごと現在皇室に関し色々な雑音が聞こえてくる。
さて、ここのところ暇があれば秀吉時代の研究をしているが、正親町天皇、後陽成天皇、後水尾天皇と戦国時代に三代の皇位継承がなされている。
最終的に徳川に政権がもたらされるが、この後水尾天皇の中宮に秀忠の娘、徳川和子が嫁ぐ、そして産んだ子が即位する、明正天皇である。
なんと女帝の誕生である。徳川は皇室を乗っ取ったのか?
さて、この女帝が結婚し出来た子供が皇位を継げば、徳川が皇室を乗っ取ったと言えるが、次の皇位は後光明天皇で、明正天皇の腹ちがいの皇子である。
春日局という家光の乳母がいるが、彼女が単なる乳母と考えては歴史が面白くない。
「将軍の乳母を武家伝奏・三条西実条(さんじょうにし・さねえだ)の妹に仕立て上げ、「春日局」と名乗って参内し、天盃まで賜るのは6年10月。
御三十三。東福門院を母とする明正天皇、9世紀ぶりの女帝がこうして即位されます。」と説明されている。
怒った挙句、和子の子供に皇位を譲るか?・・・はともかくとして、参内し天盃を賜るのは単なる乳母では絶対にありえないことで、彼女がそれなりの「お種」を持っていたと考えるのが普通ではないのか。
その絆の証明として明正天皇が即位するのだ。いずれにしても徳川家と皇室の関係はこのころに盤石なものになったのである。
異論は多いと思うが、知られている歴史とは大半はいかさまであり、それを信じたい人は信じればいいのである。
ただ、愛子さん問題で、愛子さんが即位する条件としてこの和子さんは参考になる。
っていうことは、雅子さんは徳川なのか?
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