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《 大和朝廷の 「はしり」 は、 「 難波朝廷 ( なにわのみかど=九州王朝「倭国」の難波複都 )」 に始まる 》  即ち、大和朝廷「日本国」 は、九州王朝「倭国」の 【 同じ血族・分流・分家 】 である。


大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 060 》



大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕

《 大和朝廷の 「はしり」 は、ここで言う 「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」 に始まる。
  即ち、大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」【 同じ血族・分流 】 と分かった。 》



 白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、日本全国 長門以東を実効支配したが、その司令官が「両京制」・「兄弟王朝」である 倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 である。
 日本書紀の〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇はこの倭王家 〔分家の弟王家〕 の出身である。
 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権 の禅譲を受け をクーデター「プロト大化の改新」で乗っ取り、倭国連邦の解体・改組してのち成立したのが、奈良の中央集権国家・文武天皇(大宝元年:701年)の大和朝廷『日本国』である。いわば倭王家 〔分家の弟王家〕 はプロト大和朝廷である。


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2010年 4月 2日 発行




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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』


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(924) 『勘違いするな。『古事記・序文』の“どこにも”「壬申の乱」とか、「吉野に入った」とかは、書かれていない』 2012年3月12日(月)




 古賀達也氏は、先週末、自身のブログ『洛中洛外日記』で、次のように書かれています。 以下抜粋・転載します。




《古賀達也の洛中洛外日記》第395話 (2012/03/10)


『古事記』千三百年の孤独(3)

『日本書紀』と『古事記』の差異の中でも特筆されることがいくつかありますが、その第一は「壬申の乱」の取り扱いです。
『日本書紀』の第二八巻すべてが「壬申の乱」の記述に当てられていることは著名です。

 他方、『古事記』は推古天皇までで終わっており(説話が記されてい るのは継体天皇まで)、「天武記」はありません。

 しかし、『古事記・序文』の15%近くを「壬申の乱」の記述が占め、共に「壬申の乱」をいかに重視していた かが読みとれます。

 ところが、両書の「壬申の乱」の内容(大義名分)が異なるのです。


拙稿
「『古事記・序文』の壬申大乱」
(『古 代に真実を求めて』第九集所収。明石書店、2006)で詳論しましたが、

 簡単にいうと『日本書紀』では、吉野に入った天武を大友皇子側が攻めたので、天武 はやむなく東国へ脱出挙兵し大友皇子を殺し、皇位についたとされています。すなわち、天武は仕方なく戦い、皇位についたとされているのです。

 ところが 『古事記・序文』では、皇位につくことを目的にして吉野に入り、その後挙兵したとされているのです。


どちらが真実に近いでしょうか。当然、『古事記・序文』の方です。最初から皇位纂奪を目指すという「非道」な『古事記・序文』の方が「正直」と思われるから です。だからこそ『古事記』は正史とされず、しかたなく防衛のため戦ったとする『日本書紀』が採用されたのです。天武の子孫である『日本書紀』成立時の天 皇たちにとって、自らの皇位継承の正当性と大義名分のために『古事記』を「隠蔽」し、『日本書紀』を国内に後世に流布したのです。


それでは序文のみを削除して『古事記』を正史とする手段もあったかもしれませんが、実際は「隠蔽」されていることから、当時の天皇家にとって不都合だっ たのは、序文の「壬申の乱」の記述だけではなかったことがわかります。

 それ以外の不都合な記述とは何だったのでしょうか。これも『古事記』と『日本書紀』 を比較することにより判明します。(つづく)


以上。




ところで、『古事記・序文』の全文は、


『曁飛鳥清原大宮御大八州天皇御世、濳龍體元、水存*雷應期。開夢歌而相纂業、投夜水而知承基。然、天時未臻、蝉蛻於南山、人事共給、虎歩於東國。皇輿忽駕、浚渡山川、六師雷震、三軍電逝。杖矛擧威、猛士烟起、絳旗耀兵、凶徒瓦解。未移浹辰、氣珍*自清。乃、放牛息馬、豈*悌歸於華夏、卷旌貮*戈、舞*詠停於都邑。歳次大梁、月踵夾鍾、清原大宮、昇即*天位。』
(岩波日本古典文学大系『古事記 祝詞』による)




(訳文)

『(1) 飛鳥の清原の大宮に大八州御しめしし天皇の御世に曁りて、濳龍元を體し、[水存]雷期に應じき。
(2) 夢の歌を開きて業を纂がむことを相せ、夜の水に投りて基を承けむことを知りたまひき。
(3) 然れとども、天の時未だ臻らずして、南山に蝉蛻し、人事共給はりて、東國に虎歩したまひき。
(4) 皇輿忽ち駕して、山川を浚え渡り、六師雷のごとく震ひ、三軍電のごとく逝きき。杖矛威を擧げて、猛士烟のごとく起こり、絳旗兵を耀かして、凶徒瓦のごとく解けき。
(5) 未だ浹辰を移さずして、氣珍*自ら清まりき。乃ち、牛を放ち馬を息へ、豈*悌して華夏に歸り、旌を卷きて戈を貮*め、舞詠して都邑に停まりたまひき。
(6) 歳大梁(酉年)に次り、月夾鍾(二月)に踵り、清原の大宮にして、昇りて天位に即きたまひき。』


ですが…、改めて、見直して見てください。


 この『古事記・序文』の“どこに”

「壬申の乱」の記述が占め、の「壬申の乱」とか、

吉野に入り、その後挙兵したの「吉野に入った」とか、

書かれていますか?


『古田史学の会』の早合点ではないだろうか?
私も、『書紀』の「壬申の乱」に相当するかもなー、とは思うが、全く、別の事件だったとも考えています。


『古事記・序文』とは、きっと、『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』の次のくだり、

■ 于時日本餘噍,據扶桑以逋誅;風谷遺甿,負盤桃而阻固。
■ 萬騎亘野,与蓋馬以驚塵;千艘横波,援原虵而縱沵。
■ 以公格謨海左,龜鏡瀛東,特在簡帝,往尸招慰。公序臣節而投命,歌皇華以載馳。
■ 飛汎海之蒼鷹,翥凌山之赤雀。決河眥而天吳靜,鑒風隧而雲路通。
■ 驚鳧失侶,濟不終夕,遂能說暢天威,喻以禍福千秋。僭帝一旦稱臣,仍領大首望數十人將入朝謁,特蒙恩詔授左戎衛郎將。

のことだと思っています。
如何でしょうか?




 ●『古事記・序文』
 の『曁飛鳥清原大宮御大八州天皇御世、「濳龍體元」、…云々』の「濳龍」と、

 ●『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』
の 『…、喻以禍福千秋。「僭帝一旦稱臣」、…云々』の「僭帝」とは、同一人物を表わしており、二人いる「天武天皇」の片方、即ち、白鳳倭王・薩夜麻を表わしていると考えられる。


 一方、「古田史学の会」の正木裕氏は、『古事記・序文』の「飛鳥清原大宮」とは、福岡県小郡市井上にあった「小郡宮」のことだと、先に『会報』で語られていた。

 このことについては、“私もさも有りなん…”と考えている。

《ご参照》
「(526) 『古田史学会報no103【「筑紫なる飛鳥宮」を探る:正木裕氏投稿】』
 2011年4月26日(火)」

 なお、上記記事の中で、正木裕氏が引用の、
『①~③は古賀氏の分析どおり、「夜水」は筑後川の別名、「南山」は高良山と考えられ、天武の「筑後」雌伏を示し、④は壬申乱での天武の活躍を述べたものだが、問題は天武の帰還地を示す⑤だ。』
における、“古賀氏のこの「分析」自体が間違っている”と、具体的には、今、指摘して置きます。




 ようするに、
●『古事記・序文』と、●『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』とは、史実を伝えており、
●『日本書紀』の「壬申の乱」とか、「吉野」とかは、本来の史実の「倭国再統合戦」を、「近江朝内の皇位継承戦」に、“矮小化”して、編集しなおしたもの、アレンジしたものである。 と考えられます。


 それは、何故か?

 考えられるのは、“唐の支援を得た”という「倭国再統合戦」の本来の史実を、
“唐の支援は無かった”という虚構の擬史の創作にあった。
ということでしょう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 いや、このことだけだと、非常に、分りづらくなりますが…、

◆ “唐にさからった国は全て「亡国の憂き目」を見るぞ”、

◆ 即ち、「百済」しかり、「高句麗」然りである。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 なのに、九州王朝「倭国」だけは、生きながらえている。
というか、「プロト大化改新」の「高市天皇暗殺:696年7月」で、大和朝廷に乗っ取られるまで、
九州王朝「倭国」は生きながらえていた…。

 九州王朝「倭国」だけは、
◆ “唐にさからった国は全て「亡国の憂き目」を見るぞ” と、ならなかった。
というか、なってなかったわけですね。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




 そこに、大和朝廷が、「プロト大化改新」の「高市天皇暗殺」で、九州王朝「倭国」を、乗っ取った。
と言って遣唐使を703年に派遣してきたということでしょう。

 その際、『古事記』の著述・創作を、唐側から大和朝廷「日本国」側へ指示され、「プロト大和朝廷」の“歴史を書きあぐねた状態”の『古事記』に、この「序文」を添付して、713年に、遣唐使を派遣した。
 たぶん、どうしたら良いでしょう?って相談に派遣したのでしょう。
(だからこそ、この時の派遣は唐側には記録されているが、日本側には記録されていないのでしょう。)


◆ この時の派遣の際に、唐側から“妙案”が、日本側へ提案された。
それは、どういった内容だったか。

 思うに、

◆ 『九州王朝「倭国」は、もともと、この世に無かったということにしたら良いではないか』

◆ 『少なくとも、唐は、刺史高表仁を倭国に632年遣わし、二十六歳の王子、「弾正尹・為尊親王」の
 「冊封関係拒否事件」
 以降の
 「対倭国歴史記録の抹消・抜き取り」
 をする。
 日本国側も、そういった主旨にそった偽書を、速やかに用意するように』

 と指示されたのでしょう。

 帰って、“そそくさに”、用意した史書が偽書たる『日本書紀』なのでしょう。

 出来上がった「たたき台」の『日本書紀』原稿を持って、遣唐使が717年に派遣されたということでしょう。
 この時も、色々修正を指示されたと思いますが…、




 このことは、早くから、故飯田満麿氏が、
『古事記』撰上の(712年)前後から『日本書紀』撰上の(720年)の期間に限定される事。
と、指摘しています。


 そういった史書・偽書たる『日本書紀』の「壬申の乱」、「吉野」の記述に惑わされては、ならないと考えていますが、如何?。

 正木裕氏のおっしゃるように、「倭国史」の切り貼り手法によって『日本書紀』が編纂されたとすれば、切り貼りされた「短冊(たんざく)」内の「記事断片」は、ひょっとして、正しい歴史記録だ、といえるかもしれない。といった程度でしょうか。


“あぶない・危ない”




 『古事記・序文』は、日本で書かれたにもかかわらず、見る通りの、“完璧な”漢文である。

★ 何故だろう、それは、唐朝の官吏に、その序文が読まれる・読ませる為にである。

★ 更に、そうであるなら、序文にある「南山」が「高良山」であるはずがない。

★ 唐朝の官吏が、序文にある「南山」を「高良山」だと解釈するはずもないからだ。

★ そう、当時の唐朝の官吏が「南山」と聞けば、都・長安の南東にある現
「終南山」
を想うだろうからだ。


 詳しくは、私のブログ
【(718) 『いわゆる『南山』とは、どこか』 2011年8月10日(水)】
更に、これに続く、一連の『古事記・序文』の解釈をご参照ください。




 今、改めて、
【「持統紀」はなかった、本来は「高市紀」だった:飯田満麿著】
を、好きな「Black Nikka」を飲みながら、読み直している。
 で、この2年間の主張は、故飯田満麿氏の遺稿を、単に、トレースしただけかのように、思えてくる。
  故人に、面識はないが…、会いたかった。。。




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(925) 『淑人(唐・高宗)の、よしとよく見て、好し言ひし、芳野(郭務宗)よく見よ、多良人(倭王・薩夜麻)よく見』 2012年3月14日(水)




 先に、『古事記・序文』の、
● (735) 『「南山は、中国の【終南山】の別名」とする説での『古事記:上卷并序』解釈の■ 最終総まとめ ■』 2011年8月17日(水)
 で、

■ 『古事記:上卷并序(抜粋)』

曁飛鳥清原大宮 御大八洲天皇御世 ①濳龍體元 (洊)②游雷應期 ③(開)聞夢歌而相纂業 ④投夜水而知承基 然天時未臻 ⑤蝉蛻於南山 ⑥人事共洽 ⑦虎歩於東國 皇輿忽駕 浚渡山川 六師雷震 三軍電逝 杖矛擧威 猛士烟起 絳旗耀兵 凶徒瓦解 未移浹辰 氣沴自清 乃放牛息馬 ⑧悌歸於華夏 ⑨卷旌貮戈 ⑩儛詠停於都邑 歳次大梁 月踵侠鍾 清原大宮 昇即天位 道軼軒后 跨周王 握乾符而六合 得天統而包八荒 乘二氣之正 齊五行之序 設理以奬俗 敷英風以弘國 重加智海浩瀚 潭探上古 心鏡煌 明覩先代


更には、先日の

● (920) 『自分なりに、『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』を、訳してみることにした。はて・さて…』 2012年3月3日(土)
 で、

■ 于時日本餘噍,據扶桑以逋誅;風谷遺甿,負盤桃而阻固。
■ 萬騎亘野,与蓋馬以驚塵;千艘横波,援原虵而縱沵。
■ 以公格謨海左,龜鏡瀛東,特在簡帝,往尸招慰。公序臣節而投命,歌皇華以載馳。
■ 飛汎海之蒼鷹,翥凌山之赤雀。決河眥而天吳靜,鑒風隧而雲路通。
■ 驚鳧失侶,濟不終夕,遂能說暢天威,喻以禍福千秋。僭帝一旦稱臣,仍領大首望數十人將入朝謁,特蒙恩詔授左戎衛郎將。

の「下り」を知って、





《万葉集27天武天皇歌》

〔淑人(よきひと)の よしとよく見て 好(よ)し言ひし 芳野吉(よ)く見よ 多良人(たらひと)よく見〕

 が、気になって仕方ないのである。


要するに、『壬申大乱:古田武彦著』の中のp165で、

 『右で注意せられること、それはこの「淑人」(善人)の用語が「君子」と共に、決して“民間の庶民”などではなく、“国政をあずかる人々”を指していること、この一点だ。』

の「淑人(よきひと)」とは、だれか? という問いにたいしてである。


 あはーッ“くどい”と言って、嫌われそうだが…、ごめんね。

 このブログで取り上げた「テーマ」と、その「あらすじ」を、日を追って書き出して見た。




《 ① 》
● (288) 『淑人(よきひと)の よしとよく見て 好(よ)し言ひし 芳野吉(よ)く見よ 多良人(たらひと)よく見』 2010年12月12日(日)

『壬申大乱:古田武彦著』の中で、万葉集27天武天皇歌〔淑人(よきひと)の よしとよく見て 好(よ)し言ひし 芳野吉(よ)く見よ 多良人(たらひと)よく見〕p155、氏はこの歌の『淑人(よきひと)』は唐の郭務悰だと言う。が、私は唐より帰国直後の倭国「白鳳王」薩夜麻ではないか考える。


 天武は『淑人(=倭王薩夜麻)』が、『よしとよく見て(=きっと了解してくれると読んで)』、『好し言ひし(=分かったそれで良いと言ってくれた)』更に、『芳野よく見よ(=郭務悰へこの作戦でどうだ、良く検討するように)』と、『多良人よく見(=あの時倭王薩夜麻が賛成してくれて良かった)』


 倭王が白村江戦で敗れ唐の捕虜となり、倭王が不在となった直後の難波複都倭弟王家の中大兄皇太子と大海人皇子との会話が『長門以東は朕がとろう。筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え。ひんぴんと報告しなくともよい』だ。天武は薩夜麻の息子高市皇子と協力し、唐の郭務悰の占領政策に対応したはず。


 一方、中大兄皇太子は長門以東を唐の侵略から防衛し、667年倭国から独立。近江遷都、天智天皇即位。668年、新羅に「阿麻来服」。670年、天智天皇の「近江朝」が「倭国」更えて「日本」号すだ。これに対し、この分裂した倭国の再統一の為、唐が用意した隠し球が「薩夜麻の帰国・白鳳王復位」だろう。


 以上の状況を踏まえ、〔淑人(よきひと)の よしとよく見て 好(よ)し言ひし 芳野吉(よ)く見よ 多良人(たらひと)よく見〕の天武万葉歌27を、理解しょうとすれば、『淑人(=倭王薩夜麻)』『芳野(=郭務悰)』『多良人(=倭王薩夜麻)』であってもおかしくないと思えるのだが如何?』




《 ② 》
● (289) 『淑人を古田武彦氏は唐の郭務悰だと言うが、唐より帰国直後の倭王薩夜麻ではないか』 2010年12月14日(火)

『淑人(よきひと)』は唐の郭務悰だと語るが、


 はたしてそうだろうか、私は郭務悰は、全唐軍の総司令官かもしれないが、所詮、「朝散大夫」(従五品下)の唐の官僚・軍人にすぎないと思うのだ。


 が、薩夜麻は負けたとは言え「倭王」君子、まさに「詩経」でいう「淑人・君子」である。薩夜麻は帰国後、大宰府に入らずに、
 大宰府吉野を避け、多良にひとまず落ち着いたのではないだろうか、唐の進駐占領軍の庇護のもとにあったともいえる。
 この時、軍都・吉野にいたのは、唐総司令官・郭務悰だったと。
 更に多良人だが、多良・太良・太郎であり、今の長男⇒これは暗に、国王を意図しているのではないか、「掛詞」だろう。


 天武は『淑人(=倭王薩夜麻)』が、『よしとよく見て(=きっと了解してくれると読んで)』、『好し言ひし(=分かったそれで良いと言ってくれた)』更に、『芳野よく見よ(=郭務悰へこの作戦でどうだ、良く検討するように)』と、『多良人よく見(=あの時倭王薩夜麻が賛成してくれて良かった)』




 そうこう、私がのたまってる最中に、古田 武彦氏ご本人からのツイッターでのリツイートですからね。
 驚くの・あわてるの・嬉しいの…です。

● 11年1月3日 古田 武彦 @takehikofuruta
 @tohyan 新年おめでとうございます。孫のおかげでつぶやき拝見。うれしく思っています。去年から今年にかけて、新発見の連続です。やがてお目にかけます。ありがとう!

● 11年1月3日 古田 武彦 @takehikofuruta
 @tohyan 壬申大乱の件、あなたのご想像の通りです。柿本人麻呂がこの地帯、吉野ヶ里の東にあたる於保に来たときのことを歌った歌が見つかりました。吉備の釆女が死んだとき彼の作った歌(万葉集)です。

● 11年1月3日 古田 武彦 @takehikofuruta
 @tohyan 嘉瀬川の件。柿本人麻呂が歌った吉野川は、嘉瀬川のことです。私はそう理解しています。できれば現地で嘉瀬川の全体を観察していただければ幸いです。どうぞ。(壬申大乱のテーマです)

● 11年1月3日 古田 武彦 @takehikofuruta
 バイブルに関する新発見がありました。ヨーロッパ人やアメリカ人には思いもつかぬ新世界です。1月下旬には東京古田会に掲載。なお、中国の文字の成立についても、まったく新しい発見にあいました。




《 ③ 》
● (672) 『淑人の よしとよく見て 好し言ひし 芳野よく見よ 多良人よく見』 2011年7月14日(木)


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

〔壬申大乱〕古田武彦著p174に『郭務悰その人が「吉野と有明海」の一帯を支配していた、と思われるのである。その吉野に大海人皇子は来たのだった。「物思い」にふけりつつ、やってきたのだろう。


 亡き兄天智天皇の遺言(大友皇子への補佐)と、大友皇子との決定的な対立、そのための「決断」の日を求めつつ、この「肥前、吉野の国」の山道を、その孤立の道を辿っていたのではなかろうか。
 その“会うべき人”それはもちろん「(倭国制圧の)全唐軍の総司令官」以外になかった。「朝散大夫」(従五品下)の位官をもつ、大国唐の官僚にして軍人だ。その人に対して、「淑人」-「良人」として“呼びかけ”たのだった。』とあって、『淑人(よきひと)』は唐の郭務悰だと語られている。


 『淑人(よきひと)』は唐の郭務悰だと語るが、


 はたしてそうだろうか、私は郭務悰は、全唐軍の総司令官かもしれないが、所詮、「朝散大夫」(従五品下)の唐の官僚・軍人にすぎないと思うのだ。


 が、薩夜麻は負けたとは言え「倭王」君子、まさに「詩経」でいう「淑人・君子」である。薩夜麻は帰国後、大宰府に入らずに、
 大宰府吉野を避け、多良にひとまず落ち着いたのではないだろうか、唐の進駐占領軍の庇護のもとにあったともいえる。
 この時、軍都・吉野にいたのは、唐総司令官・郭務悰だったと。
 更に多良人だが、多良・太良・太郎であり、今の長男⇒これは暗に、国王を意図しているのではないか、「掛詞」だろう。


 天武は『淑人(=倭王薩夜麻)』が、『よしとよく見て(=きっと了解してくれると読んで)』、『好し言ひし(=分かったそれで良いと言ってくれた)』更に、『芳野よく見よ(=郭務悰へこの作戦でどうだ、良く検討するように)』と、『多良人よく見(=あの時倭王薩夜麻が賛成してくれて良かった)』


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




《 ④ 》
● (691) 『九州年号「朱雀」の倭国王「帝位」はだれか?』 2011年7月29日(金)

『「明日香皇子=筑紫君・薩夜麻」は「壬申大乱」の前年671年解放され、帰国する。


そして、翌年672年「壬申大乱」が発生する。
【天武は『淑人(=倭王薩夜麻)』が、『よしとよく見て(=きっと了解してくれると読んで)』、『好し言ひし(=分かったそれで良いと言ってくれた)』更に、『芳野よく見よ(=郭務悰へこの作戦でどうだ、良く検討するように)』と、『多良人よく見(=あの時倭王薩夜麻が賛成してくれて良かった)』】である。』




《 ⑤ 》
● (743) 『「南山」は中国・西安(=唐の長安)の「終南山」説で、これまでの(万葉集27)他を見直してみよう』 2011年8月23日(火)

 『そこで、上記観点の【「南山」は中国・西安(=唐の長安)の「終南山」である】説では、どうなるか、検討しょう。

考えられるのは、淑人(=唐・高宗)と解釈可能でもあり、

 天武の大海人皇子は『淑人(=唐・高宗)』が、『よしとよく見て(=きっと了解してくれると読んで)』、『好し言ひし(=分かったそれで良いと言ってくれた)』更に、『芳野よく見よ(=郭務悰へこの作戦でどうだ、良く検討するように)』と、『多良人よく見(=あの時、倭王薩夜麻の唐・高宗への提言は正しかった)』流石だ!。

となる。


 この歌だけだと、大海人皇子の天武天皇は倭王薩夜麻を絶賛してるだけで、出番は全く感じられない、語られていない。ことになる。


 私は一方で、
 【『壬申の乱』とは、唐から解放・帰国の倭王・薩夜麻の「倭国再統合・倭王復位戦」である】ともしているが、極端には、

 【『壬申の乱』と、唐から解放・帰国の倭王・薩夜麻の「倭国再統合・倭王復位戦」とは全く別事件である】となってしまうのだが、はて・さて?


 要するに、この大海人皇子の天武天皇歌(万葉集27)だけでは、分からないという事なのだろう。』




《 ⑥ 》
● (770) 『続・4) 九州王朝に任命された官職「朝臣」の任命。「真人」に任命された天武』 2011年9月11日(日)

 『天武天皇の「真人」を、いぶかる方も居られるかとは思うが、天武自身は、きっと、「真人」であることをいつも自慢していたはずである。


それが証拠が、
『淑人(よきひと)の よしとよく見て 好(よ)し言ひし 芳野吉(よ)く見よ 多良人(たらひと)よく見』


即ち、⇒ 天武は『淑人(=倭王薩夜麻)』が、『よしとよく見て(=きっと了解してくれると読んで)』、『好し言ひし(=分かったそれで良いと言ってくれた)』更に、『芳野よく見よ(=郭務悰へこの作戦でどうだ、良く検討するように)』と、『多良人よく見(=あの時倭王薩夜麻が賛成してくれて良かった)』

であろう。』


(925) 『淑人(唐・高宗)の、よしとよく見て、好し言ひし、芳野(郭務宗)よく見よ、多良人(倭王・薩夜麻)よく見』 2012年3月14日(水)




《万葉集27天武天皇歌》

〔淑人(よきひと)の よしとよく見て 好(よ)し言ひし 芳野吉(よ)く見よ 多良人(たらひと)よく見〕

この歌の登場人物の解釈で、




《 ① 》 で、

 以上の状況を踏まえ、〔淑人(よきひと)の よしとよく見て 好(よ)し言ひし 芳野吉(よ)く見よ 多良人(たらひと)よく見〕の天武万葉歌27を、理解しょうとすれば、

● 『淑人(=倭王薩夜麻)』
● 『芳野(=郭務悰)』
● 『多良人(=倭王薩夜麻)』

であってもおかしくないと思えるのだが如何?』




《 ② 》 で、

 天武は『淑人(=倭王薩夜麻)』が、『よしとよく見て(=きっと了解してくれると読んで)』、『好し言ひし(=分かったそれで良いと言ってくれた)』更に、『芳野よく見よ(=郭務悰へこの作戦でどうだ、良く検討するように)』と、『多良人よく見(=あの時倭王薩夜麻が賛成してくれて良かった)』




《 ③ 》 では、

②を、トレースし、




《 ④ 》 でも、

②を、再度トレースしている。




《 ⑤ 》 で、はじめて、不安になって、

 『そこで、上記観点の【「南山」は中国・西安(=唐の長安)の「終南山」である】
説では、どうなるか、検討しょう。

考えられるのは、淑人(=唐・高宗)と解釈可能でもあり、

 天武の大海人皇子は『淑人(=唐・高宗)』が、『よしとよく見て(=きっと了解してくれると読んで)』、『好し言ひし(=分かったそれで良いと言ってくれた)』更に、『芳野よく見よ(=郭務悰へこの作戦でどうだ、良く検討するように)』と、『多良人よく見(=あの時、倭王薩夜麻の唐・高宗への提言は正しかった)』流石だ!。

となる。


 この歌だけだと、大海人皇子の天武天皇は倭王薩夜麻を絶賛してるだけで、出番は全く感じられない、語られていない。ことになる。』




《 ⑥ 》 では、

②を、当然かのごとくトレースしている。




《 ② 》 で、

《 a. 》 ● 『淑人(=倭王・薩夜麻)』
《 b. 》 ● 『芳野(=郭務悰)』
《 c. 》 ● 『多良人(=倭王・薩夜麻)』

 としたのは、間違いだ、と思えてきたのだ。

 何故かと聞かれれば、同一歌の中に、同一人物の「倭王・薩夜麻」が、2度登場するからだ。




 更に、
(735) 『「南山は、中国の【終南山】の別名」とする説での『古事記:上卷并序』解釈の■ 最終総まとめ ■』 2011年8月17日(水)
 の中での解釈では、特に、

Ⅲ) 【然天時未臻 ⑤蝉蛻於南山 ⑥人事共洽 ⑦虎歩於東國】:

然れとども、天の時未だ臻らずして、⑤南山に蝉蛻し(南山に居た時は、俗世間から超然として修行中だった)、⑥人事共給はりて(そこに、唐の高宗が薩夜麻(=天武)に「軍勢を与えてくれた」のだ)、⑦東國に虎歩したまひき(そして、我が倭国、のちの日本国へ、虎に翼を着けて放たれた)。


 この「⑥人事共洽」が、 ⇒ ⑥人事共給はりて(そこに、唐の高宗が、薩夜麻(=天武)に、「軍勢を与えてくれた」のだ) と訳さざるを得ないと言う事に尽きます。




更には、先日の

● (920) 『自分なりに、『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』を、訳してみることにした。はて・さて…』 2012年3月3日(土)
 で、

「僭帝一旦稱臣」 のフレーズの「一旦稱臣」が意味するは、「嘗て、(囚われて)一度は、天子に仕える身になったことがある。」であり、「稱臣」の相手は、やはり、「唐の高宗」と、ならざるを得ません。




《 ② 》 で、

《 a. 》 ● 『淑人(=倭王・薩夜麻)』
《 b. 》 ● 『芳野(=郭務悰)』
《 c. 》 ● 『多良人(=倭王・薩夜麻)』

としたのは、間違いで、正しくは、

《 a. 》 ● 『淑人(= x倭王・薩夜麻x ⇒ o唐の高宗o )』

と言う事になります。


 よって、《 ⑤ 》 に、戻って、


 天武の大海人皇子が、おっしゃるには、

『淑人(=唐・高宗)』が、『よしとよく見て(=きっと了解してくれると読んで)』、『好し言ひし(=分かったそれで良いと言ってくれた)』更に、『芳野よく見よ(=郭務悰へこの作戦でどうだ、良く検討するように)』と、『多良人よく見(=あの時、倭王薩夜麻の唐・高宗への提言は正しかった)』

流石だなぁー!。


とこの歌を解釈するのが、正しくて、たぶん、最終結論になりますね。




 まー、日本人としては、居た堪れない「最終結論」とはなりましたが、これが現実であり、正しい「史実」でしょう。

 この「史実」に、顔をそむけるのではなく、“昂ぜんと立ち向かってこそ”、現在の日本人に必要なことでしょう。




  〔法隆寺移築説の原点である観世音寺・考:米田良三 論〕
 の中で、縷々、説明の、



 ◆ 特に、
『632年、唐が倭国に遣わした冊封・刺史「高表仁」に対し、26歳の倭国・王子「弾正尹・為尊親王」が、「唐への冊封関係を拒否した事件」』
 の、



@@@@@@――《 弾正尹・為尊親王の対唐国・冊封拒否事件 》――@@@@@@@@@


 631年に最初の遣唐使が送られます(『日本書紀』は630年とする)。

 刺史高表仁が日本に遣わされたのは632年(『日本書紀』)です。

 『源氏物語』には太政大臣と式部卿が亡くなったことが記されますが、さらに26歳の弾正尹(だんじやうのいん:現在の警察庁長官)為尊(ためたか)親王も亡くなる事件でした。

 このことは『源氏物語』と『和泉式部日記』から明らかになります。

 唐からの一団は「冊封関係」を強いる使いであったため、王子である「為尊親王」はこれを拒否し、「高表仁」と言い争いになり、切られてしまいます。

 傍にいた太政大臣(現在の総理大臣)と式部卿(現在の外務大臣)も巻き添えを食うことになります。













@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

〔法隆寺移築説の原点である観世音寺・考:米田良三 論〕の “ 最 初 ” へ 戻 る



 は、九州王朝「倭国」のその後の、「難波京」副都の建設、天下立評、白村江敗戦、「長門以東」近江朝「日本国」独立、倭国再統合、白鳳倭王「薩夜麻」の復位、云々とつながるわけで、


 26歳の倭国・王子「弾正尹・為尊親王」の持つ“己れの死を以って拒否した独立への気概”を改めて、認識しょうでは、ありませんか。


 ◆ 《参照》
(890) 『古代の日本で、如何に重要な史実だったかが分かるというものだ。『源氏物語』に隠された史実とは?』 2012年2月12日(日)




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(930) 『唐の天子から、倭国の天子は、「僭帝」であり、白村江敗戦の 白鳳倭王・薩夜麻は、「濳龍」である。』 2012年3月17日(土)



 みんな、“てらい”も無く、すなおになろうよ!?
町のおっちゃんが語る“趣味の古代史”九州王朝「倭国」。

 あなたこそ“きっと”できる。
『古事記・序文』、『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』の、和訳をはじめよう。

 くもっためがね越しには、“大和朝廷「日本国」出生の秘密”は見えない。


 ●『古事記・序文』の「濳龍」と、
 ●『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』の「僭帝」とは、
同一人物を表わしており、二人いる「天武天皇」の片方、即ち、白鳳倭王・薩夜麻を表わしていると考えられる。

 唐の天子から、倭国の天子は、「僭帝」であり、
 白村江敗戦の 白鳳倭王・薩夜麻は、「濳龍」である。

★「僭(セン:分限を越える・僭上:身分を〈超えて〈わきまえないで、差し出たことをする・僭称:かってに身分を越えた名称をなのる・自分勝手にとなえた名称)帝」

★「濳龍(センリュウ:ひそみかくれて、地上に出ない竜・即位前の天子・世人に知られない英雄や豪傑や有徳者)」


(924) 『勘違いするな。『古事記・序文』の“どこにも”「壬申の乱」とか、「吉野に入った」とかは、書かれていない』 2012年3月12日(月)


◆ 特に、注目の  『632年、唐が倭国に遣わした冊封・刺史「高表仁」に対し、26歳の倭国・王子「弾正尹・為尊親王」が、「唐への冊封関係を拒否した事件」』へは、ここから、スキップします。


 ふぉー・ふむ・ふむ  (=^・^=) 
RT @nihonkakuryokai 「漢皇子=天武天皇」で、斉明天皇は{用明天皇の孫×|上宮法皇の孫○}高向王と{最初に結婚×|再婚○}したのです。そして、天武天皇が生まれた。天武天皇は九州王朝の四代孫なのです。




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