大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 060 》
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ
白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、
日本書紀の〔 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権
2010年 4月 2日 発行
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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ http://www.geocities.jp/waikoku/yamato.html 2:32 PM Apr 2nd webから ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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(924) 『勘違いするな。『古事記・序文』の“どこにも”「壬申の乱」とか、「吉野に入った」とかは、書かれていない』 2012年3月12日(月)
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古賀達也氏は、先週末、自身のブログ『洛中洛外日記』で、次のように書かれています。 以下抜粋・転載します。
◇
《古賀達也の洛中洛外日記》第395話 (2012/03/10)
『古事記』千三百年の孤独(3)
『日本書紀』と『古事記』の差異の中でも特筆されることがいくつかありますが、その第一は「壬申の乱」の取り扱いです。
他方、『古事記』は推古天皇までで終わっており(説話が記されてい るのは継体天皇まで)、「天武記」はありません。
しかし、『古事記・序文』の15%近くを「壬申の乱」の記述が占め、共に「壬申の乱」をいかに重視していた かが読みとれます。
ところが、両書の「壬申の乱」の内容(大義名分)が異なるのです。
拙稿
簡単にいうと『日本書紀』では、吉野に入った天武を大友皇子側が攻めたので、天武 はやむなく東国へ脱出挙兵し大友皇子を殺し、皇位についたとされています。すなわち、天武は仕方なく戦い、皇位についたとされているのです。
ところが 『古事記・序文』では、皇位につくことを目的にして吉野に入り、その後挙兵したとされているのです。
どちらが真実に近いでしょうか。当然、『古事記・序文』の方です。最初から皇位纂奪を目指すという「非道」な『古事記・序文』の方が「正直」と思われるから です。だからこそ『古事記』は正史とされず、しかたなく防衛のため戦ったとする『日本書紀』が採用されたのです。天武の子孫である『日本書紀』成立時の天 皇たちにとって、自らの皇位継承の正当性と大義名分のために『古事記』を「隠蔽」し、『日本書紀』を国内に後世に流布したのです。
それでは序文のみを削除して『古事記』を正史とする手段もあったかもしれませんが、実際は「隠蔽」されていることから、当時の天皇家にとって不都合だっ たのは、序文の「壬申の乱」の記述だけではなかったことがわかります。
それ以外の不都合な記述とは何だったのでしょうか。これも『古事記』と『日本書紀』 を比較することにより判明します。(つづく)
以上。
◇
ところで、『古事記・序文』の全文は、
『曁飛鳥清原大宮御大八州天皇御世、濳龍體元、水存*雷應期。開夢歌而相纂業、投夜水而知承基。然、天時未臻、蝉蛻於南山、人事共給、虎歩於東國。皇輿忽駕、浚渡山川、六師雷震、三軍電逝。杖矛擧威、猛士烟起、絳旗耀兵、凶徒瓦解。未移浹辰、氣珍*自清。乃、放牛息馬、豈*悌歸於華夏、卷旌貮*戈、舞*詠停於都邑。歳次大梁、月踵夾鍾、清原大宮、昇即*天位。』
◇
(訳文)
『(1) 飛鳥の清原の大宮に大八州御しめしし天皇の御世に曁りて、濳龍元を體し、[水存]雷期に應じき。
ですが…、改めて、見直して見てください。
この『古事記・序文』の“どこに”
●「壬申の乱」の記述が占め、の「壬申の乱」とか、
●吉野に入り、その後挙兵したの「吉野に入った」とか、
書かれていますか?
『古田史学の会』の早合点ではないだろうか?
『古事記・序文』とは、きっと、『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』の次のくだり、
■ 于時日本餘噍,據扶桑以逋誅;風谷遺甿,負盤桃而阻固。
のことだと思っています。
■
●『古事記・序文』
●『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』
一方、「古田史学の会」の正木裕氏は、『古事記・序文』の「飛鳥清原大宮」とは、福岡県小郡市井上にあった「小郡宮」のことだと、先に『会報』で語られていた。
このことについては、“私もさも有りなん…”と考えている。
《ご参照》
なお、上記記事の中で、正木裕氏が引用の、
◇
ようするに、
それは、何故か?
考えられるのは、“唐の支援を得た”という「倭国再統合戦」の本来の史実を、
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いや、このことだけだと、非常に、分りづらくなりますが…、
◆ “唐にさからった国は全て「亡国の憂き目」を見るぞ”、
◆ 即ち、「百済」しかり、「高句麗」然りである。
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なのに、九州王朝「倭国」だけは、生きながらえている。
九州王朝「倭国」だけは、
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◇
そこに、大和朝廷が、「プロト大化改新」の「高市天皇暗殺」で、九州王朝「倭国」を、乗っ取った。
その際、『古事記』の著述・創作を、唐側から大和朝廷「日本国」側へ指示され、「プロト大和朝廷」の“歴史を書きあぐねた状態”の『古事記』に、この「序文」を添付して、713年に、遣唐使を派遣した。
◆ この時の派遣の際に、唐側から“妙案”が、日本側へ提案された。
思うに、
◆ 『九州王朝「倭国」は、もともと、この世に無かったということにしたら良いではないか』
◆ 『少なくとも、唐は、刺史高表仁を倭国に632年遣わし、二十六歳の王子、「弾正尹・為尊親王」の
と指示されたのでしょう。
帰って、“そそくさに”、用意した史書が偽書たる『日本書紀』なのでしょう。
出来上がった「たたき台」の『日本書紀』原稿を持って、遣唐使が717年に派遣されたということでしょう。
◇
このことは、早くから、故飯田満麿氏が、
そういった史書・偽書たる『日本書紀』の「壬申の乱」、「吉野」の記述に惑わされては、ならないと考えていますが、如何?。
正木裕氏のおっしゃるように、「倭国史」の切り貼り手法によって『日本書紀』が編纂されたとすれば、切り貼りされた「短冊(たんざく)」内の「記事断片」は、ひょっとして、正しい歴史記録だ、といえるかもしれない。といった程度でしょうか。
“あぶない・危ない”
■
『古事記・序文』は、日本で書かれたにもかかわらず、見る通りの、“完璧な”漢文である。
★ 何故だろう、それは、唐朝の官吏に、その序文が読まれる・読ませる為にである。
★ 更に、そうであるなら、序文にある「南山」が「高良山」であるはずがない。
★ 唐朝の官吏が、序文にある「南山」を「高良山」だと解釈するはずもないからだ。
★ そう、当時の唐朝の官吏が「南山」と聞けば、都・長安の南東にある現
詳しくは、私のブログ
◇
今、改めて、
■
(925) 『淑人(唐・高宗)の、よしとよく見て、好し言ひし、芳野(郭務宗)よく見よ、多良人(倭王・薩夜麻)よく見』 2012年3月14日(水)
■
先に、『古事記・序文』の、
■ 『古事記:上卷并序(抜粋)』
曁飛鳥清原大宮 御大八洲天皇御世 ①濳龍體元 (洊)②游雷應期 ③(開)聞夢歌而相纂業 ④投夜水而知承基 然天時未臻 ⑤蝉蛻於南山 ⑥人事共洽 ⑦虎歩於東國 皇輿忽駕 浚渡山川 六師雷震 三軍電逝 杖矛擧威 猛士烟起 絳旗耀兵 凶徒瓦解 未移浹辰 氣沴自清 乃放牛息馬 ⑧悌歸於華夏 ⑨卷旌貮戈 ⑩儛詠停於都邑 歳次大梁 月踵侠鍾 清原大宮 昇即天位 道軼軒后 跨周王 握乾符而六合 得天統而包八荒 乘二氣之正 齊五行之序 設理以奬俗 敷英風以弘國 重加智海浩瀚 潭探上古 心鏡煌 明覩先代
更には、先日の
● (920) 『自分なりに、『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』を、訳してみることにした。はて・さて…』 2012年3月3日(土)
■ 于時日本餘噍,據扶桑以逋誅;風谷遺甿,負盤桃而阻固。
の「下り」を知って、
《万葉集27天武天皇歌》
〔淑人(よきひと)の よしとよく見て 好(よ)し言ひし 芳野吉(よ)く見よ 多良人(たらひと)よく見〕
が、気になって仕方ないのである。
要するに、『壬申大乱:古田武彦著』の中のp165で、
『右で注意せられること、それはこの「淑人」(善人)の用語が「君子」と共に、決して“民間の庶民”などではなく、“国政をあずかる人々”を指していること、この一点だ。』
の「淑人(よきひと)」とは、だれか? という問いにたいしてである。
あはーッ“くどい”と言って、嫌われそうだが…、ごめんね。
このブログで取り上げた「テーマ」と、その「あらすじ」を、日を追って書き出して見た。
■
《 ① 》
『壬申大乱:古田武彦著』の中で、万葉集27天武天皇歌〔淑人(よきひと)の よしとよく見て 好(よ)し言ひし 芳野吉(よ)く見よ 多良人(たらひと)よく見〕p155、氏はこの歌の『淑人(よきひと)』は唐の郭務悰だと言う。が、私は唐より帰国直後の倭国「白鳳王」薩夜麻ではないか考える。
天武は『淑人(=倭王薩夜麻)』が、『よしとよく見て(=きっと了解してくれると読んで)』、『好し言ひし(=分かったそれで良いと言ってくれた)』更に、『芳野よく見よ(=郭務悰へこの作戦でどうだ、良く検討するように)』と、『多良人よく見(=あの時倭王薩夜麻が賛成してくれて良かった)』
倭王が白村江戦で敗れ唐の捕虜となり、倭王が不在となった直後の難波複都倭弟王家の中大兄皇太子と大海人皇子との会話が『長門以東は朕がとろう。筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え。ひんぴんと報告しなくともよい』だ。天武は薩夜麻の息子高市皇子と協力し、唐の郭務悰の占領政策に対応したはず。
一方、中大兄皇太子は長門以東を唐の侵略から防衛し、667年倭国から独立。近江遷都、天智天皇即位。668年、新羅に「阿麻来服」。670年、天智天皇の「近江朝」が「倭国」更えて「日本」号すだ。これに対し、この分裂した倭国の再統一の為、唐が用意した隠し球が「薩夜麻の帰国・白鳳王復位」だろう。
以上の状況を踏まえ、〔淑人(よきひと)の よしとよく見て 好(よ)し言ひし 芳野吉(よ)く見よ 多良人(たらひと)よく見〕の天武万葉歌27を、理解しょうとすれば、『淑人(=倭王薩夜麻)』『芳野(=郭務悰)』『多良人(=倭王薩夜麻)』であってもおかしくないと思えるのだが如何?』
◇
《 ② 》
『淑人(よきひと)』は唐の郭務悰だと語るが、
はたしてそうだろうか、私は郭務悰は、全唐軍の総司令官かもしれないが、所詮、「朝散大夫」(従五品下)の唐の官僚・軍人にすぎないと思うのだ。
が、薩夜麻は負けたとは言え「倭王」君子、まさに「詩経」でいう「淑人・君子」である。薩夜麻は帰国後、大宰府に入らずに、
天武は『淑人(=倭王薩夜麻)』が、『よしとよく見て(=きっと了解してくれると読んで)』、『好し言ひし(=分かったそれで良いと言ってくれた)』更に、『芳野よく見よ(=郭務悰へこの作戦でどうだ、良く検討するように)』と、『多良人よく見(=あの時倭王薩夜麻が賛成してくれて良かった)』
◇
そうこう、私がのたまってる最中に、古田 武彦氏ご本人からのツイッターでのリツイートですからね。
● 11年1月3日 古田 武彦 @takehikofuruta
● 11年1月3日 古田 武彦 @takehikofuruta
● 11年1月3日 古田 武彦 @takehikofuruta
● 11年1月3日 古田 武彦 @takehikofuruta
◇
《 ③ 》
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〔壬申大乱〕古田武彦著p174に『郭務悰その人が「吉野と有明海」の一帯を支配していた、と思われるのである。その吉野に大海人皇子は来たのだった。「物思い」にふけりつつ、やってきたのだろう。
亡き兄天智天皇の遺言(大友皇子への補佐)と、大友皇子との決定的な対立、そのための「決断」の日を求めつつ、この「肥前、吉野の国」の山道を、その孤立の道を辿っていたのではなかろうか。
『淑人(よきひと)』は唐の郭務悰だと語るが、
はたしてそうだろうか、私は郭務悰は、全唐軍の総司令官かもしれないが、所詮、「朝散大夫」(従五品下)の唐の官僚・軍人にすぎないと思うのだ。
が、薩夜麻は負けたとは言え「倭王」君子、まさに「詩経」でいう「淑人・君子」である。薩夜麻は帰国後、大宰府に入らずに、
天武は『淑人(=倭王薩夜麻)』が、『よしとよく見て(=きっと了解してくれると読んで)』、『好し言ひし(=分かったそれで良いと言ってくれた)』更に、『芳野よく見よ(=郭務悰へこの作戦でどうだ、良く検討するように)』と、『多良人よく見(=あの時倭王薩夜麻が賛成してくれて良かった)』
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◇
《 ④ 》
『「明日香皇子=筑紫君・薩夜麻」は「壬申大乱」の前年671年解放され、帰国する。
そして、翌年672年「壬申大乱」が発生する。
◇
《 ⑤ 》
『そこで、上記観点の【「南山」は中国・西安(=唐の長安)の「終南山」である】説では、どうなるか、検討しょう。
考えられるのは、淑人(=唐・高宗)と解釈可能でもあり、
天武の大海人皇子は『淑人(=唐・高宗)』が、『よしとよく見て(=きっと了解してくれると読んで)』、『好し言ひし(=分かったそれで良いと言ってくれた)』更に、『芳野よく見よ(=郭務悰へこの作戦でどうだ、良く検討するように)』と、『多良人よく見(=あの時、倭王薩夜麻の唐・高宗への提言は正しかった)』流石だ!。
となる。
この歌だけだと、大海人皇子の天武天皇は倭王薩夜麻を絶賛してるだけで、出番は全く感じられない、語られていない。ことになる。
私は一方で、
【『壬申の乱』と、唐から解放・帰国の倭王・薩夜麻の「倭国再統合・倭王復位戦」とは全く別事件である】となってしまうのだが、はて・さて?
要するに、この大海人皇子の天武天皇歌(万葉集27)だけでは、分からないという事なのだろう。』
◇
《 ⑥ 》
『天武天皇の「真人」を、いぶかる方も居られるかとは思うが、天武自身は、きっと、「真人」であることをいつも自慢していたはずである。
それが証拠が、
即ち、⇒ 天武は『淑人(=倭王薩夜麻)』が、『よしとよく見て(=きっと了解してくれると読んで)』、『好し言ひし(=分かったそれで良いと言ってくれた)』更に、『芳野よく見よ(=郭務悰へこの作戦でどうだ、良く検討するように)』と、『多良人よく見(=あの時倭王薩夜麻が賛成してくれて良かった)』
であろう。』
(925) 『淑人(唐・高宗)の、よしとよく見て、好し言ひし、芳野(郭務宗)よく見よ、多良人(倭王・薩夜麻)よく見』 2012年3月14日(水)
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《万葉集27天武天皇歌》
〔淑人(よきひと)の よしとよく見て 好(よ)し言ひし 芳野吉(よ)く見よ 多良人(たらひと)よく見〕
この歌の登場人物の解釈で、
◇
《 ① 》 で、
以上の状況を踏まえ、〔淑人(よきひと)の よしとよく見て 好(よ)し言ひし 芳野吉(よ)く見よ 多良人(たらひと)よく見〕の天武万葉歌27を、理解しょうとすれば、
● 『淑人(=倭王薩夜麻)』
であってもおかしくないと思えるのだが如何?』
◇
《 ② 》 で、
天武は『淑人(=倭王薩夜麻)』が、『よしとよく見て(=きっと了解してくれると読んで)』、『好し言ひし(=分かったそれで良いと言ってくれた)』更に、『芳野よく見よ(=郭務悰へこの作戦でどうだ、良く検討するように)』と、『多良人よく見(=あの時倭王薩夜麻が賛成してくれて良かった)』
◇
《 ③ 》 では、
②を、トレースし、
◇
《 ④ 》 でも、
②を、再度トレースしている。
◇
《 ⑤ 》 で、はじめて、不安になって、
『そこで、上記観点の【「南山」は中国・西安(=唐の長安)の「終南山」である】
考えられるのは、淑人(=唐・高宗)と解釈可能でもあり、
天武の大海人皇子は『淑人(=唐・高宗)』が、『よしとよく見て(=きっと了解してくれると読んで)』、『好し言ひし(=分かったそれで良いと言ってくれた)』更に、『芳野よく見よ(=郭務悰へこの作戦でどうだ、良く検討するように)』と、『多良人よく見(=あの時、倭王薩夜麻の唐・高宗への提言は正しかった)』流石だ!。
となる。
この歌だけだと、大海人皇子の天武天皇は倭王薩夜麻を絶賛してるだけで、出番は全く感じられない、語られていない。ことになる。』
◇
《 ⑥ 》 では、
②を、当然かのごとくトレースしている。
◇
《 ② 》 で、
《 a. 》 ● 『淑人(=倭王・薩夜麻)』
としたのは、間違いだ、と思えてきたのだ。
何故かと聞かれれば、同一歌の中に、同一人物の「倭王・薩夜麻」が、2度登場するからだ。
◇
更に、
Ⅲ) 【然天時未臻 ⑤蝉蛻於南山 ⑥人事共洽 ⑦虎歩於東國】:
然れとども、天の時未だ臻らずして、⑤南山に蝉蛻し(南山に居た時は、俗世間から超然として修行中だった)、⑥人事共給はりて(そこに、唐の高宗が薩夜麻(=天武)に「軍勢を与えてくれた」のだ)、⑦東國に虎歩したまひき(そして、我が倭国、のちの日本国へ、虎に翼を着けて放たれた)。
この「⑥人事共洽」が、 ⇒ ⑥人事共給はりて(そこに、唐の高宗が、薩夜麻(=天武)に、「軍勢を与えてくれた」のだ)
と訳さざるを得ないと言う事に尽きます。
◇
更には、先日の
● (920) 『自分なりに、『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』を、訳してみることにした。はて・さて…』 2012年3月3日(土)
「僭帝一旦稱臣」 のフレーズの「一旦稱臣」が意味するは、「嘗て、(囚われて)一度は、天子に仕える身になったことがある。」であり、「稱臣」の相手は、やはり、「唐の高宗」と、ならざるを得ません。
◇
《 ② 》 で、
《 a. 》 ● 『淑人(=倭王・薩夜麻)』
としたのは、間違いで、正しくは、
《 a. 》 ● 『淑人(= x
と言う事になります。
よって、《 ⑤ 》 に、戻って、
天武の大海人皇子が、おっしゃるには、
『淑人(=唐・高宗)』が、『よしとよく見て(=きっと了解してくれると読んで)』、『好し言ひし(=分かったそれで良いと言ってくれた)』更に、『芳野よく見よ(=郭務悰へこの作戦でどうだ、良く検討するように)』と、『多良人よく見(=あの時、倭王薩夜麻の唐・高宗への提言は正しかった)』
流石だなぁー!。
とこの歌を解釈するのが、正しくて、たぶん、最終結論になりますね。
◇
まー、日本人としては、居た堪れない「最終結論」とはなりましたが、これが現実であり、正しい「史実」でしょう。
この「史実」に、顔をそむけるのではなく、“昂ぜんと立ち向かってこそ”、現在の日本人に必要なことでしょう。
◇
〔法隆寺移築説の原点である観世音寺・考:米田良三 論〕
◆ 特に、
@@@@@@――《 弾正尹・為尊親王の対唐国・冊封拒否事件 》――@@@@@@@@@
631年に最初の遣唐使が送られます(『日本書紀』は630年とする)。
刺史高表仁が日本に遣わされたのは632年(『日本書紀』)です。
『源氏物語』には太政大臣と式部卿が亡くなったことが記されますが、さらに26歳の弾正尹(だんじやうのいん:現在の警察庁長官)為尊(ためたか)親王も亡くなる事件でした。
このことは『源氏物語』と『和泉式部日記』から明らかになります。
唐からの一団は「冊封関係」を強いる使いであったため、王子である「為尊親王」はこれを拒否し、「高表仁」と言い争いになり、切られてしまいます。
傍にいた太政大臣(現在の総理大臣)と式部卿(現在の外務大臣)も巻き添えを食うことになります。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
〔法隆寺移築説の原点である観世音寺・考:米田良三 論〕の “ 最 初 ” へ 戻 る
は、九州王朝「倭国」のその後の、「難波京」副都の建設、天下立評、白村江敗戦、「長門以東」近江朝「日本国」独立、倭国再統合、白鳳倭王「薩夜麻」の復位、云々とつながるわけで、
26歳の倭国・王子「弾正尹・為尊親王」の持つ“己れの死を以って拒否した独立への気概”を改めて、認識しょうでは、ありませんか。
◆ 《参照》
■
(930) 『唐の天子から、倭国の天子は、「僭帝」であり、白村江敗戦の 白鳳倭王・薩夜麻は、「濳龍」である。』 2012年3月17日(土)
■
みんな、“てらい”も無く、すなおになろうよ!?
あなたこそ“きっと”できる。
くもっためがね越しには、“大和朝廷「日本国」出生の秘密”は見えない。
●『古事記・序文』の「濳龍」と、
唐の天子から、倭国の天子は、「僭帝」であり、
★「僭(セン:分限を越える・僭上:身分を〈超えて〈わきまえないで、差し出たことをする・僭称:かってに身分を越えた名称をなのる・自分勝手にとなえた名称)帝」
★「濳龍(センリュウ:ひそみかくれて、地上に出ない竜・即位前の天子・世人に知られない英雄や豪傑や有徳者)」
(924) 『勘違いするな。『古事記・序文』の“どこにも”「壬申の乱」とか、「吉野に入った」とかは、書かれていない』 2012年3月12日(月)
◆ 特に、注目の 『632年、唐が倭国に遣わした冊封・刺史「高表仁」に対し、26歳の倭国・王子「弾正尹・為尊親王」が、「唐への冊封関係を拒否した事件」』へは、ここから、スキップします。
ふぉー・ふむ・ふむ (=^・^=)
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