ホームへ戻る



《 大和朝廷の 「はしり」 は、 「 難波朝廷 ( なにわのみかど=九州王朝「倭国」の難波複都 )」 に始まる 》  即ち、大和朝廷「日本国」 は、九州王朝「倭国」の 【 同じ血族・分流・分家 】 である。


大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 008 》



大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕

《 大和朝廷の 「はしり」 は、ここで言う 「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」 に始まる。
  即ち、大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」【 同じ血族・分流 】 と分かった。 》



 白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、日本全国 長門以東を実効支配したが、その司令官が「両京制」・「兄弟王朝」である 倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 である。
 日本書紀の〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇はこの倭王家 〔分家の弟王家〕 の出身である。
 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権 の禅譲を受け をクーデター「プロト大化の改新」で乗っ取り、倭国連邦の解体・改組してのち成立したのが、奈良の中央集権国家・文武天皇(大宝元年:701年)の大和朝廷『日本国』である。いわば倭王家 〔分家の弟王家〕 はプロト大和朝廷である。


“とうやん”@t0_yan 「つぶやき:twitter」

Counter

2010年 4月 2日 発行




《 前 へ 戻 る 《  ( つぶやき「古代」 その008 )  》 次 へ 進 む 》


つぶやき「古代」目次 a2 へ 戻る



(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

つぶやき「古代」目次 a2 へ 戻る




(271) 『大伴博麻は自身を奴隷に売って筑紫君薩夜麻の帰国を援けたか』 2010年11月15日(月)

以下の
〔薩夜麻の「冤罪」Ⅰ:正木裕〕
には、持統四年に唐より帰国の大伴博麻は、自身を奴隷に売って筑紫君薩夜麻の帰国を援け、この功で恩賞が与えられたは書紀の改竄だと言う。

〔はじめに〕
 持統四年に唐より帰国し、持統より恩賞を得た大伴博麻の倭国への貢献は、氷連老らを筑紫君薩夜麻に謁見させ、彼の封禅の儀への参列を倭国に知らせたことであり、薩夜麻自身の帰国とは直接関係しないこと、従って薩夜麻が家臣を奴隷に売って帰国したとの解釈は、全くの冤罪である事を示す。  

 博麻が「唐人の計」を聞き、身を売って彼らを帰国させようとした「天命開別天皇(天智)三年」は、氷連老ら帰還以前の天智称制三年(六六四年)の事となり、更に「唐人の計」とは、唐の高宗が麟徳元年(六六四年天智三年)七月に、三年正月を期して泰山に封禅の儀を挙げる旨を天下に告げたことである。


 大伴部博麻の恩賞のもととなった行動は、

 「博麻が、筑紫君薩夜麻の封禅の儀への参加を知り、自ら身を売ることによって、氷連老らが倭王薩夜麻に謁見し、その消息と「天意」を倭国(本朝)に報告すること。そして、封禅の儀で倭王と倭国の体面が保てるよう尽くした事」。
 これこそ博麻の「厥の朝を尊び国を愛ひて、己を売りて忠を顕ずる」行動、「朝=天子」への献身・忠節だったのだ。と、正木裕氏は要約する。

 当然、「薩夜麻は部下を奴隷に売って、自分だけが帰還した」などとんでもない濡れ衣、冤罪だった』のだという。

 私はその前に、筑紫君薩夜麻が倭国王だったとは、知らなかったし想像すらしてなかったのだが・・・。

 さて、この「博麻が筑紫君薩夜麻の封禅の儀への参加を知り、自ら身を売ることによって氷連老らが倭王薩夜麻に謁見し、その消息と「天意」を倭国(本朝)に報告し、封禅の儀で倭王と倭国の体面が保てるよう尽くした事」を日本書紀編者は当然知っていた。知りながら何故「薩夜麻の帰国を援ける為」と書いたかが問題だろうと私は思うのだ。

 『博麻が筑紫君薩夜麻の封禅の儀への参加を知り、云々』を正直に書くとどうなるかだ、倭国王薩夜麻が白村江戦で敗れ囚われの身となり、更には白村江前後は倭国だったと明記することになる。『日本書紀編者は大和王朝「日本国」が有史以来ずっと大和にいて日本全国を統治したとでっちあげたかった』にも関わらずだ。

 ということは、ここでも、『日本書紀編者は徹底して、九州王朝「倭国」・「倭国王」を消している』と考えざるを得ませんね。


つぶやき「古代」目次 a2 へ 戻る




(272) 『甘木王即位后、唐の侵略に対抗する為「常色の大改革」を次々断行』 2010年11月16日(火)

647年、九州王朝「倭国」に甘木王「常色王」即位する。甘木王は即位后、唐の侵略に対抗する為「常色の大改革」を次々断行する。

649年、複都・難波京を造都の発詔。
652年、天下立評、難波副都完成、白雉改元儀式。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

天下立評で「プロト大和」開祖・伊勢王が難波副都常駐。倭国内の大宰府と難波副都とで、権力の2重構造が発生する。

その後白村江戦前後までに、天下立評に伴い、倭国附庸王国の「出雲・加賀・吉備・秦国・尾張・毛野(常陸)」等が解体を余儀なくされる。

同時に難波副都倭弟王家が台頭する。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

660年、百済滅亡。
661年、常色白雉甘木王崩御、伊勢王崩御、白鳳王薩夜麻即位。
662年、白村江敗戦、唐薩夜麻を捕獲連行。
664年、倭国難波副都の天智天皇長門以東(本州・四国)直接支配。
665年、この頃、唐が筑紫都督府(九州島)占領。
666年、唐の高宗が麟徳三年正月、泰山で封禅の儀。
667年、長門以東(本州・四国)難波副都近江朝独立・遷都・天智即位。
668年、新羅本紀に「阿麻(=近江朝の仮名)来服」、高句麗滅亡。
669年、唐・郭務悰2千人遣倭・筑紫。
670年、天智天皇の近江朝が「倭国」更えて「日本」号す。
671年、天智天皇崩御、倭国白鳳王薩夜麻帰国。
672年、壬申大乱・天智近江朝滅亡・倭国再統一・白鳳王復位。
673年、倭国で復位の白鳳王が大嘗祭。
676年、新羅が朝鮮半島を統一。
678年、倭国で筑紫大地震、白村江戦後賠償で疲弊極まる。
682年、倭国太宰丹比真人嶋が大鐘をプロト大和へ貢上。
683年、倭国の丹比真人嶋「三つ足の雀」をプロト大和へ貢上。
684年、白鳳地震、白鳳王崩御、倭国大宰府⇒難波京遷都改元。
686年、難波宮焼失で浄御原宮再遷都改元、天武大海人崩御。
690年、最後の倭国王・高市天皇が即位。
691年、最後の倭国王・高市天皇が大嘗祭。
694年、「間借り」大和の浄御原京⇒倭国の藤原京へ遷都。
695年、倭国が藤原京遷都記念で「大化」改元。
696年、建郡「本来の大化改新」発詔、倭王高市暗殺、倭国滅亡。
697年、大和の文武天皇が日本国で初の即位。
698年、大和の文武天皇が日本国で初の大嘗祭。
701年、日本国開闢、「大宝」建元、新・大宝律令発布。
702年、持統太上天皇崩御。
703年、高市天皇暗殺の倭国側下手人3名連続死(暗殺死?)。
704年、倭王天子「大宰府回帰」遷都「大長」改元。
710年、大和王朝「日本国」の新都・平城京遷都。
712年、隼人の乱、倭国残存兵全滅。


 何が言いたいか、647年、九州王朝「倭国」に甘木王「常色王」即位し、即位后、唐の侵略に対抗する為「常色の大改革」を次々断行する。直轄地の筑紫(=九州島)は早くから評制施行済みだったが、長門以東は連邦附庸国「出雲・加賀・吉備・秦国・尾張・毛野」の地方分権支配だったのだ。

 これを中央集権制の天下立評すべき、649年、造複都・難波京の詔を発し。652年、天下立評、難波副都完成、白雉改元儀式。天下立評で「プロト大和」開祖・伊勢王が難波副都常駐。

 倭国内では、大宰府と難波副都で権力の2重構造が発生。その後白村江戦前後までに、天下立評に伴い、倭国附庸王国の「出雲・加賀・吉備・秦国・尾張・毛野(常陸)」等が解体を余儀なくされる。同時に難波副都倭弟王家が台頭する。

 その後663年、白村江敗戦を経て、難波副都の天智天皇が長門以東を直接支配する。667年、近江朝の長門以東が独立・近江遷都・天智即位。翌668年、新羅本紀に「阿麻(=近江朝の仮名)来服」。670年、天智天皇の近江朝が「倭国」更えて「日本(=近江朝正式名)」号す。

 671年、天智天皇崩御、倭国白鳳王薩夜麻帰国。672年、壬申大乱・天智近江朝滅亡・倭国再統一・白鳳王復位。近江朝旧領長門以東を大海人委託支配。と続く。

 倭国難波副都の倭弟王家の天智近江朝は、白村江敗戦で倭国白鳳王薩夜麻が捕獲連行。倭王不在時の倭国から長門以東(本州・四国)を分離・独立し、新羅に対し668年、「阿麻(=近江朝の仮名)来服」と言わしめ、更に670年、天智天皇の近江朝が「倭国」更えて「日本」号すのだが、唐から開放帰国の倭国白鳳王薩夜麻が復位・倭国再統一を宣し、672年、壬申大乱で天智近江朝滅亡してしまう。

 一方、倭国白鳳王薩夜麻の 「唐の傀儡政権・大宰府倭国」 は、「難波副都倭弟王家(=近江朝)」の中で当時孤立していたと思われる大海人皇子(=天武天皇)の戦勝後の地位と、「難波副都倭弟王家(=近江朝)」の将来を旧来通りに保障・約束し、副官になるよう協力要請した。

 その結果、大友皇子(=天智天皇の皇子)の 「近江朝(=難波副都倭弟王家)」 に戦勝。「唐の傀儡政権・大宰府倭国」 の白鳳王薩夜麻は 『壬申の乱』(西暦672年:天武元年:白鳳12年)に戦勝した。「近江朝(=難波副都倭弟王家)」 が「倭国」から分離独立することを、「唐国」は認めるわけに行かなかったのだろう。壬申乱戦勝后「唐国」から一応独立を認められた筑紫大宰府「倭国」と、「天武朝(=難波副都倭弟王家)」 へと取って代わる。

 然し、「壬申乱」で戦勝したはずの倭国のその後は、唐国の傀儡化と過酷な戦後賠償でさらに疲弊してゆくことになる。(残念なことに、白村江敗戦後のこの時期、属国・九州王朝倭国の唐への戦後賠償船派遣記事は、正木裕氏の指摘する34年遡上説でそっくり抹殺・抹消され窺い知ることができないのだが)

 その後大宰府倭国は、悪いことに、筑紫地震をはじめ度重なる地震におそわれる。その窮状を難波副都倭分家弟王家「天武朝」へ訴え救いを求めたふしがあるが、最終的には大宰府から難波京へ遷都することになった。遷都もつかの間、2年で難波京が焼失する。止むを得ず、「天武朝(=難波副都倭弟王家)」の浄御原宮へ間借り再遷都する。

 最後の倭国王・高市天皇が即位・大嘗祭。倭国の藤原京の建設を急ぎ、「間借り」大和の浄御原京から倭国の藤原京へ遷都・九州年号「大化」改元。696年、建郡「本来の大化改新」発詔。その后、あろうことか、倭王高市が藤原不比等をはじめとする下手人に暗殺、倭国は滅亡してしまう。

 翌、697年、「天武朝(=難波副都倭弟王家)」大和の文武天皇が 即位する。はれて、大和王朝「日本国」の開闢・誕生である。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 bunnakamura 興味深い。RT @tohyan 「近江朝(=難波副都倭弟王家)」 が「倭国」から分離独立することを、「唐国」は認めるわけに行かなかったのだろう。壬申乱戦勝后「唐国」から一応独立を認められた筑紫大宰府「倭国」と、「天武朝(=難波副都倭弟王家)」 へと取って代わる。

 そうでしょう。RT @bunnakamura 興味深い。RT @tohyan 「近江朝(=難波副都倭弟王家)」が「倭国」から分離独立したことを唐国は認めるたくなかったのだ。壬申乱戦勝后、占領軍が引揚げ独立した筑紫大宰府「倭国」と、「天武朝(=難波副都倭弟王家)」へと取って代わる。

 668年には高句麗が滅亡している。同年、新羅本紀に「阿麻来服」とあり、「長門以東の天智近江朝が倭国から独立」のニュースは新羅から唐へ急報されただろう。唐は九州筑紫都督府占領軍を帰任させる前に、捕虜の倭国王薩夜麻を解放復位させ倭国の再統合の壬申乱を計画した。RT @bunnakamura

 672年、壬申乱の前年671年、倭国白鳳王薩夜麻が帰国している。ということは、壬申乱が、近江朝大友皇子と吉野の天武天皇の跡目争いといった小さいものではなく、唐の倭国再統合戦だったということだ。瀬田橋戦もでしょうが、書かれていない戦がどうかでしょう。RT @bunnakamura

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 「近江朝(=難波副都倭弟王家)」が「倭国」から分離独立したことを唐国は認めるたくなかったのだ。壬申乱に戦勝、唐筑紫占領軍が引揚げ后は、独立した筑紫(=九州島)統治大宰府「倭国」と、長門以東(=本州・四国)統治真人(=征討将軍)の「天武朝(=難波副都倭弟王家)」とに取って代わる。

 668年には高句麗が滅亡している。同年、新羅本紀に「阿麻来服」とあり、「長門以東の天智近江朝が倭国から独立」のニュースは新羅から唐へ急報されただろう。唐は九州筑紫都督府占領軍を帰任させる前に、捕虜の倭国王薩夜麻を解放復位させ倭国の再統合の為の「壬申の乱」を計画・実行したのだろう。

 というのは、672年「壬申の乱」が起きるその前年671年に、倭国白鳳王薩夜麻が帰国している。ということは、「壬申の乱」が、近江朝大友皇子と吉野朝天武天皇の跡目争いといった小さなものなく、唐の倭国再統合戦だったということだ。熊本大津内牧瀬田橋戦も含め、記述外の戦がどうだったのかだ。


つぶやき「古代」目次 a2 へ 戻る




(273) 『日本国を、文武天皇は「日辺にある」、天智天皇は「日出づる所に近し」』 2010年11月17日(水)

 『旧唐書』「日本国伝日本國者倭國之別種也以其國在日邊故以日本爲名或曰倭國自惡其名不雅改爲日本」〔日本国は倭国の別種なり。その国日辺に有るをもって日本国を名とす。或いは曰う。倭国自ら、その名雅ならざるを悪み、改めて日本と為す。〕

 一方で、『三國史記』「卷第六・新羅本紀第六・文武王・上・(原文)」文武王10年670天智9年「十二月・土星入月・倭國更號日本・自言近日所出以爲名」 〔三国史記新羅本紀文武王10年670天智9年に「倭国更えて日本と号す。自ら言う日出づる所に近しと以って名と為す。」〕

 『旧唐書』日本国伝は、〔701年、文武天皇が唐へ日本国を「日辺にある」即ち南にあるから日本と号した〕と言い。一方、『三国史記』新羅本紀は、〔670年、天智天皇が、日本国を「日出づる所に近し」即ち東にあるから日本と号した〕と言った。同じ倭国難波副都弟王家出身でも微妙に違ったのだ。

 即ち、「日本国」を、天智天皇は「日出づる所に近し」、文武天皇は「日辺にある」、と言ったことになる。


つぶやき「古代」目次 a2 へ 戻る




(274) 『〔古賀達也の洛中洛外日記〕『第196話 2007/11/16「大化改新詔」50年移動の理由』』 2010年11月17日(水)

以下は
〔古賀達也の洛中洛外日記〕『第196話 2007/11/16「大化改新詔」50年移動の理由』
のそっくり引用転載ですので悪しからず。

『第140話 「天下立評」で紹介しましたように、評制が難波朝廷(孝徳天皇)の頃、すなわち650年頃に施行されたことは、大和朝廷一元史観でも有力説となっています。これを多元史観の立場から理解するならば、九州王朝がこの頃に評制を施行したと考えられるのです。その史料根拠の一つである、延暦23年(804)に成立した伊勢神宮の文書『皇太神宮儀式帳』の「難波朝廷天下立評給時」という記事から、それは「難波朝廷」の頃というだけではなく、前期難波宮九州王朝副都説の成立により、文字通り九州王朝難波副都で施行された制度と理解できます。

 太宰府政庁よりもはるかに大規模な朝堂院様式を持つ前期難波宮であれば、中央集権的律令制としての「天下立評」を実施するのにまったく相応しい場所と言えるのではないでしょうか。そして、この点にこそ『日本書紀』において、大化改新詔が50年遡らされた理由が隠されています。

 九州年号の大化2年(696)、大和朝廷が藤原宮で郡制施行(改新の詔)を宣言した事実を、『日本書紀』編纂者達は50年遡らせることにより、九州王朝の評制施行による中央集権的律令体制の確立を自らの事業にすり替えようとしたのです。その操作により、九州王朝の評制を当初から無かったことにしたかったのです。『日本書紀』編纂当時、新王朝である大和朝廷にとって、自らの権力の権威付けのためにも、こうした歴史改竄は何としても必要な作業だったに違い有りません。

 このように考えたとき、「大化改新詔」が50年遡らされた理由が説明できるのですが、しかしまだ重要な疑問が残っています。それは、何故『日本書紀』において前王朝の年号である大化が使用されたのか、この疑問です。九州王朝の存在を隠し、その業績を自らのものと改竄するのに、なぜ九州年号「大化」を消さなかったのでしょうか。

 これは大変な難問ですが、わたしは次のような仮説を考えています。藤原宮で公布された「建郡」の詔書には大化年号が書かれていた。この仮説です。恐らくは各地の国司に出された建郡の命令書にも大化2年と記されていたため、この命令書が実際よりも50年遡って発行されたとする必要があり、『日本書紀』にも「大化2年の詔」として、孝徳紀に記されたのではないでしょうか。

 しかし、この仮説にも更なる難問があります。それなら何故、藤原宮で出された「改新詔」に他王朝の年号である大化が使用されたのかという疑問です。わたしにはまだわかりませんが、西村秀己さん(古田史学の会全国世話人、向日市)は次のような恐るべき仮説を提起されています。「藤原宮には九州王朝の天子がいた」という仮説です。すなわち、「大化改新詔」は形式的には九州王朝の天子の命令として出されたのではないかという仮説です。皆さんはどう思われますか。わたしには、ここまで言い切る勇気は今のところありません。これからの研究課題にしたいと思います。』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 さて、以上の中で、『西村秀己さん(古田史学の会全国世話人)は次のような恐るべき仮説を提起されています。 《藤原宮には九州王朝の天子がいた》 という仮説です。すなわち、《「大化改新詔」は形式的には九州王朝の天子の命令として出されたのではないかという仮説です。》』皆さんはどうですか?

 このtwitterを見てくれてる方は、藤原宮は高市天皇が造った宮殿だとわかると思いますが高市皇子は誰の子か、というと九州王朝「倭国」の白鳳王の薩夜麻の息子です。天武天皇が2人1役とわかっていますので、即ち、大海人皇子と薩夜麻の2人です。高市皇子が宮地の下見に行った記事もあります。


つぶやき「古代」目次 a2 へ 戻る




(275) 『大和王朝は難波副都で「天下立評」した九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』 2010年11月18日(木)


647年、九州王朝「倭国」に「甘木王(=常色王)」が即位する。
「倭国」甘木王は即位后、唐の侵略に対抗する為「常色の大改革」を次々断行する。

649年、「倭国」甘木王が、造複都「難波京」の詔を発す。
652年、天下立評・難波副都の完成、白雉改元儀式を挙行する。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

天下立評で「プロト大和」開祖・伊勢王が難波副都に常駐する。
倭国内の大宰府と難波副都とで、権力の2重構造が発生か。

その後、白村江戦前後までに、天下立評の進展に伴い、
倭国連邦附庸王国の「出雲・加賀・吉備・秦国・尾張・毛野(常陸)」等が解体を余儀なくされる。

同時に「難波副都倭弟王家」が台頭する。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

660年、百済滅亡。
661年、「倭国」の常色・白雉「甘木王」崩御、伊勢王崩御、白鳳王「薩夜麻」即位。
662年、白村江敗戦、唐が倭国白鳳王「薩夜麻」を捕獲・捕虜連行。
664年、難波副都の天智が長門以東(本州・四国)守備・防衛・直接支配。唐劉仁願・郭務悰遣倭
665年、唐、司馬上柱国劉徳高・郭務悰254人遣倭。この頃、唐が筑紫都督府(九州島)占領。
666年、唐の高宗が麟徳三年正月、泰山で封禅の儀。
667年、長門以東(本州・四国)難波副都「近江朝」独立・遷都・天智即位。唐・法聡遣倭。
668年、新羅本紀に「阿麻(=近江朝の仮名)来服」、高句麗滅亡。
669年、唐、郭務悰2千余人遣倭・筑紫。
670年、天智天皇の「近江朝」が「倭国」更えて「日本」号す。
671年、李守真遣倭。天智天皇崩御。倭国白鳳王「薩夜麻」帰国。唐、郭務悰2千人・船47隻来倭
672年、壬申大乱・天智「近江朝」滅亡・倭国再統一・白鳳王復位。
673年、倭国で復位の白鳳王が大嘗祭。
676年、新羅が朝鮮半島を統一。
678年、倭国で筑紫大地震、白村江戦後賠償で疲弊極まる。
682年、倭国太宰丹比真人嶋が大鐘をプロト大和へ貢上。
683年、倭国の丹比真人嶋「三つ足の雀」をプロト大和へ貢上。
684年、白鳳地震、白鳳王崩御、倭国大宰府⇒難波京遷都改元。
686年、難波宮焼失で浄御原宮再遷都改元、天武大海人崩御。
690年、最後の倭国王・高市天皇が即位。
691年、最後の倭国王・高市天皇が大嘗祭。
694年、「間借り」大和の浄御原京⇒倭国の藤原京へ遷都。
695年、倭国が藤原京遷都記念で「大化」改元。
696年、建郡「本来の大化改新」発詔、倭王高市暗殺、倭国滅亡。
697年、大和の文武天皇が日本国で初の即位。
698年、大和の文武天皇が日本国で初の大嘗祭。
701年、日本国開闢、「大宝」建元、新・大宝律令発布。
702年、持統太上天皇崩御。
703年、高市天皇暗殺の倭国側下手人3名連続死(暗殺死?)。
704年、倭王天子「大宰府回帰」遷都「大長」改元。
710年、大和王朝「日本国」の新都・平城京遷都。
712年、隼人の乱、倭国残存兵全滅。


●〔何が言いたいか、それは斉明天皇・天智天皇・天武天皇が「難波副都倭弟王家」の出身だということだ。〕


 647年、九州王朝「倭国」に甘木王「常色王」即位し、即位后、唐の侵略に対抗する為「常色の大改革」を次々断行する。直轄地の筑紫(=九州島)は早くから評制施行済みだったが、長門以東は連邦附庸国「出雲・加賀・吉備・秦国・尾張・毛野」の地方分権支配だったのだ。

 これを中央集権制の天下立評すべく、649年、造複都・難波京の詔を発し。652年、天下立評、難波副都完成、白雉改元儀式。天下立評で「プロト大和」開祖・伊勢王が難波副都常駐。

 倭国内では、大宰府と難波副都で権力の2重構造が発生。その後白村江戦前後までに、天下立評に伴い、倭国連邦附庸王国の「出雲・加賀・吉備・秦国・尾張・毛野(常陸)」等が解体を余儀なくされる。同時に難波副都倭弟王家が台頭する。

 663年、百済復活戦・白村江戦へ出兵。白村江敗戦で倭国白鳳王薩夜麻が唐に捕獲連行。

 664年、その白村江敗戦后早い時期に、留守居の難波副都の天智天皇が、倭王不在の倭国長門以東(=本州・四国)を唐から守備・防衛・直接支配する。
 665年、倭国直轄地の筑紫(=九州島)大宰府は、唐進駐軍に占領され、筑紫都督府と呼ばれる。

 667年、天智近江朝(=倭国難波副都倭弟王家)は、長門以東(=本州・四国)を分離・独立させ、近江遷都・天智が即位する。
 668年には高句麗が滅亡している。同668年、新羅本紀に「阿麻(=近江朝の仮名)来服」と言わしめ、「長門以東の天智近江朝が倭国から独立」のニュースは新羅から唐へ急報されただろう。
 670年、更に、天智天皇の近江朝が「倭国」更えて「日本」号す。

 「近江朝(=難波副都倭弟王家)」が「倭国」から分離独立したことを、唐国は認めるたくなかったのだ。
 唐は九州筑紫都督府占領軍を帰任させる前に、捕虜の倭国王「薩夜麻」を解放・復位させ倭国の再統合の為の「壬申の乱」を計画・実行したのだろう。

 というのは、672年「壬申の乱」が起きるその前年
 671年に、倭国白鳳王薩夜麻が帰国している。ということは、「壬申の乱」が、
 671年、天智天皇崩御后の近江朝大友皇子と吉野朝天武天皇の跡目争いといった小さなものでなく、唐の倭国再統合戦だったということだ。熊本県大津町内牧瀬田橋戦も含め、記述外の戦がどうだったかだ。
 672年、壬申大乱で天智近江朝は滅亡し、潰えてしまう。

 壬申乱に戦勝、唐筑紫占領軍が引揚げ后は、独立した「筑紫(=九州島)」統治大宰府「倭国」と、「長門以東(=本州・四国)」統治の「真人(=征東将軍)」浄御原宮「天武朝(=難波副都倭弟王家)」とに、取って代わる。  

 然し、672年、「壬申乱」で戦勝したはずの倭国のその後は、唐国の傀儡化と過酷な戦後賠償でさらに疲弊してゆくことになる。(残念なことに、白村江敗戦後のこの時期、属国・九州王朝倭国の唐への戦後賠償船派遣記事は、正木裕氏の指摘する34年遡上説でそっくり抹殺・抹消され窺い知ることができないのだが)

 その後大宰府倭国は、悪いことに、678年、筑紫地震をはじめ度重なる地震におそわれる。その窮状を難波副都倭分家弟王家「天武朝」へ訴え救いを求めたふしがあるが、最終的には684年、大宰府から難波京へ遷都することになった。遷都もつかの間、白鳳地震。更に2年后には、難波京が焼失する。止むを得ず、686年、「天武朝(=難波副都倭弟王家)」の浄御原宮へ間借り再遷都する。将に当たり目に祟り目だったのである。

 最後の倭国王「高市天皇」が690年、即位。691年、大嘗祭。倭国の藤原京の建設を急ぎ、694年、「間借り」大和の浄御原京から倭国の藤原京へ遷都。695年、九州年号「大化」改元。696年、建郡「本来の大化改新(=プロト大化改新)」発詔。その后、あろうことか、「本来の乙巳の変(=プロト乙巳の変)」で倭王「高市天皇」が藤原不比等をはじめとする下手人に暗殺され、倭国は滅亡してしまう。

 翌、697年、「天武朝(=難波副都倭弟王家)」大和の文武天皇が 即位する。698年、大嘗祭。701年、「大宝」建元、新・大宝律令発布。はれて、大和王朝「日本国」の開闢・誕生である。

 これが「あらすじ」である。



つぶやき「古代」目次 a2 へ 戻る




(276) 『「倭国から日本国への政権交代は?」禅譲・放伐論争シンポジウム』 2010年11月19日(金)

 先に紹介の「古田史学会報no100」に掲載の〔禅譲・放伐論争シンポジウム・要旨〕で西村秀己氏、正木裕氏、水野孝夫氏、古賀達也氏の4氏の基調講演要旨が記載されている。まー私の場合は《大和朝廷が、「プロト大化改新」で高市天皇暗殺して、倭国から政権を奪取した》という意見なので放伐かな?

その中で、西村秀己氏が次のように述べられている。

②政権交代が「禅譲」であった根拠。

イ)701年時点でのヤマト朝廷の首都は「飛鳥浄御原」、「藤原京」ではない。
 ●慶雲元年十一月に始めて“藤原宮の地を定む”(続日本紀)とある。

ロ)701年まで「藤原宮」は九州王朝の宮であった。
 a)乙巳の変の起きたのは「藤原宮」。
  ●大化元年(695年)書紀の記述の舞台に12の門がある。
    当時12の門をもった宮は藤原宮のみ。
 b)改新の詔勅。(大化2年:696年正月に九州王朝が発布したもの)
  ●畿内を、「名懇の横川・紀伊の背山・明石の櫛淵・近江の逢坂山」としている。
    その中心は藤原宮。
 c)古事記序文の飛鳥清原の大宮の天皇は天武でなく文武。(西村持論)
  ●文武の即位(697年)は「藤原宮」ではなく「飛鳥浄御原」で行われている。

ハ)九州王朝の臣下がヤマト政権下でも継続して重要なポストにいる。
  ●会報96号の西村論文「橘諸兄考」など。 ー云々ー


Ⅶ・⑤『「高市天皇」暗殺が、「乙巳の変」のモデルになっている』

 x中大兄x{oのちの文武天皇o}は、衛門府を戒め、同時に(x板葺宮x{o藤原京o}の) 《十二の通用門》を鎖し、往来させなかった。


 どうです、皆さん! この「日本書紀」の「乙巳の変」の《十二の通用門》の記述を見逃していませんでしたか? 書紀の編者もこんな処で“足がつく”とは思いもしなかったでしょうね。でもプロは違います、見逃しませんね。 そうです、「乙巳の変」はx板葺宮xであったのでなく、o藤原京oであったのです。

 若し、「乙巳の変:645年6月12日」が「板葺宮」であったのでなく、51年後の696年7月10日『後皇子尊〔高市皇子〕が薨じた。』で、「藤原京」であった事件のコピーだったとしたら、皆さんはどうですか? どう、受け止められますか? 日本書紀の記述に次々と疑問が湧き上がってきませんか?


つぶやき「古代」目次 a2 へ 戻る




(277) 『九州王朝「倭国」は、いつ滅亡したか?それは「日本書紀」のおわりに書いてある』 2010年11月21日(日)

●〔 九州王朝「倭国」は、いつ滅亡したか?それは「日本書紀」のおわりに書いてある。〕『696年〔持統10年(x持統x{o高市天皇o}即位7年):九州年号大化 2年〕7月10日、後皇子尊『x高市皇子x{o高市天皇o}』が薨じた。即ち《本来の大化改新(=プロト大化改新)》で、九州王朝「倭国」の末王・高市天皇が藤原不比等、らに暗殺された時である。

●〔では、大和王朝「日本国」は、いつ発足・開闢したか?それは、「続日本紀」はじめに書かれている。〕『697年〔文武元年:大化3年〕8月1日、(文武天皇が)x持統天皇から位を譲りうけてx{o高市天皇を暗殺してo}、皇位につかれた。『698年〔文武2年:大化4年〕11月23日、大嘗祭を行った。

 とはいえ、国として正式に発足・開闢したのは大宝律令制定以降と言えよう。『701年〔大宝元年:文武5年:大化7年〕3月21日、対馬嶋が金を貢じた。そこで新しく元号をたてて、大宝元年とした。初めて新令(大宝令)に基づいて、官名と位号の制を改正した。

●〔なんと言うことはない。「日本書紀」に書かれている時代は、九州王朝「倭国」の時代だったのである。〕九州王朝「倭国」の時代を、さも、大和王朝「日本国」がずっと昔から奈良に都を置いて、全国を統治していたかの如くした。倭国・秦国の列島史、及び韓半島史を使ってでっちあげたものだったのだ。

 九州王朝「倭国」がどういう経緯で滅亡に至ったか?更に、大和王朝「日本国」が、いきなり、バトンタッチできたわけでなく、それには、いつ産声をあげて、どういう経緯で力強く成長したのかを解明したのが、
“ 大和朝廷「日本国」出生秘話 ”《大和王朝は難波副都で「天下立評」した九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ》
である。

〔日本書紀のからくりだ!九州元号で倭国史書をコピペした〕“九州年号”で編纂の倭国史書を、書紀がどう改編したか、

 正木裕氏は古代に真実を求めて第十一集(古田史学論集)の●日本書紀『持統紀』の真実—書紀記事の「三十四年遡上」現象と九州年号—また同氏は古代に真実を求めて第十二集(古田史学論集)の●藤原宮と「大化の改新」—実は50年後の九州年号大化期の出来事だった—の項で日本書紀が、九州年号で書かれた倭国史書を盗用して如何に改編したか、その手法を詳細に明らかにしている。

 要は当時の日本は西暦は一般的でなく、60年周期の干支と「倭国の元号」が史書編纂・編年の拠り所だったということです。更に、『これは「九州年号で記述された史書」の存在を前提にしないと成立し得ない編纂手法だ。同時にそれは紛れもなく「九州王朝の存在」の証明でもあるのだ。』とも記述している。

 600年代の日本は西暦は一般的でなく、60年周期の干支と「倭国の年号」が史書編纂の拠り所だったのですが、書紀がどう編纂されたかというと、
●先ず「九州年号で編纂の倭国史書」を用意する。
●次に、唐・新羅等の外国史書に明記の外交記事はそのままとするが、「倭国」・「秦国」となっている個所は適宜「筑紫」・「日本」へ訂正する。
●それ以外の記事は「九州年号の白雉・白鳳○年」を「朱鳥・大化○年」に書換える。これは、大正○年を昭和○年に書き換えるのに似ている。
●こうして切貼りした記事に新たに作成の天皇紀年を追記する。
●最後に九州年号を抹消する。ざっとまあーこんな方法で編纂か。

 ときどき、このtwitterでも見かけるが、“日本書紀を読み解くってのライフワークにしてる”とか、“今も書紀の書くとおりに、中学校・高等学校で教えられている”と思うと、なんだか“せんないねー”だ。思うのだが、書紀編者は史実をわざっと間違えて唐朝に指摘させたのでは?と思う節がある。

おっと、山口弁の
〔詮無い(せんない)とは、《しかたがない。かいがない。無益だ。》〕《魚拓》
ですけに。

 “日本書紀を読み解くのライフワークにしてるって、「せんないなー」”ではなくって、うーん、少し舌足らずだったかな^^
“日本書紀が、倭国年号で編纂の倭国史書を元に切り貼りし、でっちあげてるとわかった今、“日本書紀を元に倭国史を復元する事をライフワークにしてる”と私は言わせたいのだ。


つぶやき「古代」目次 a2 へ 戻る




(280) 『ではこの『近江に遷都した』以前天智天皇はどこにいたか〔難波に居た〕となる』 2010年11月25日(木)

 667年天智6年3月19日、「プロト大和の近江朝(=難波副都倭弟王家)」が倭国から実質的に分離独立、筑紫都督府(=大宰府)の唐進駐占領軍が瀬戸内海を通って難波京を急襲すればひとたまりも無い、この侵略予防の為、暫時、難波京から近江京へ遷都。同時に、中大兄皇太子は天智天皇として即位。

 天下立評の為の難波京は好位置だった思うが、難波副都倭弟王家が近江朝として、九州王朝倭国から実質的に分離独立したとなると話は別だ。筑紫都督府(=大宰府)の唐進駐占領軍が敵として、瀬戸内海を通って難波京を急襲すればひとたまりも無い。667年天智6年11月、讃岐国山田郡の屋島城を築く。

 参照
『私の写真日記:屋島城跡』《魚拓》
:この屋島城は近年その存在が脚光を浴びていますが、先の『石城山遺跡は「長門城」であった』と同様、長門城及び屋島城は近江朝が九州王朝倭国から実質的に分離・独立したが為に必要になったと考えられます。

 日本書紀はこの件を以下記す。667年天智6年3月19日、近江に遷都した。このとき、天下の百姓は、遷都を願わず、風刺讒言するものが多かった。童謡もまた多かった。連日連夜、出火するところが多かった。668年天智7年春正月三日、皇太子が天皇に即いた。(或本はいう、6年3月に、即位。)

 ではこの『近江に遷都した』以前は、どこにいたか?661年斉明7年、(斉明紀に)7月24日斉明天皇が朝倉宮で崩じた。(天智紀に)この月、皇太子は長津宮に遷居した。だんだんと海外の軍政務をとった。(斉明紀に)8月1日皇太子は天皇の柩を移し奉って、磐瀬の宮に戻りついた。(天智紀に)9月皇太子は長津宮にはべっていた。(斉明紀に)冬10月7日天皇の棺は海を帰り行った。(斉明紀に)10月23日天皇の柩は、戻って難波に泊まった。「長津宮にはべっていた」のは9月初めから10月7日迄。10月23日戻って以降、近江に遷都する667年:天智6年3月19日迄は難波に居た。となる。

 書紀は何故、〔近江に遷都した〕を、『この時天下の百姓は遷都を願わず、風刺讒言する者が多かった。童謡もまた多かった。連日連夜出火する所が多かった』と悪く表現したかですが。それは、難波副都倭弟王家の天智が近江朝として、九州王朝倭国から“無断で・強引に・実質的に”分離独立したからでしょう。

 この辺の「九州王朝倭国から“実質的に”分離独立した」経緯が、〔近江に遷都した〕更に、〔皇太子が「天皇位」に即いた〕という表現になり、その后の壬申大乱で、「近江朝」の天智天皇⇒大友皇子⇒〔倭王白鳳王から“真人”に任命の〕天武天皇に、長門以東(=本州・四国)の実効支配権が移ったのだ。


つぶやき「古代」目次 a2 へ 戻る




(281) 『私の「日本書紀の正体がわかった」の方がずっと面白いと思うよ』 2010年11月26日(金)

田村正和主演の松本清張原作「球形の荒野」
(フジテレビ系)が26、27日に2夜連続放送され,その前半を見たけど、明日も楽しみだ。が、清張の「点と線」も良いけど、私の「日本書紀の正体がわかった」の方がずっと面白いと思うよ。

九州王朝「倭国」の時代を、さも、大和王朝「日本国」がずっと昔から奈良に都を置いて、全国を統治していたかの如くした。倭国・秦国の列島史、及び韓半島史を使ってでっちあげたものだったのですね。ということは、これが取りも直さず 「日本書紀の正体」 だったというわけです。


つぶやき「古代」目次 a2 へ 戻る




(282) 『北辰とは北極星、太一のことで天皇大帝のシンボルとして中国皇帝の時代から習合されていた』 2010年11月27日(土)

 jyoumonjn 北辰とは北極星、太一のことで天皇大帝のシンボルとして中国皇帝の時代から習合されていた。伊勢神宮の祭神は天照と太一である。

 もっと詳しく知りたいな^^ もっと激しく ゲロtweetして欲しい。    
RT @jyoumonjn 北辰とは北極星、太一のことで天皇大帝のシンボルとして中国皇帝の時代から習合されていた。伊勢神宮の祭神は天照と太一である

 jyoumonjn ありがとうございます、いつもご高説を拝見してます。ツイッターの範囲で(^^
RT @tohyan もっと激しく ゲロtweetして欲しい RT @jyoumonjn 北辰とは北極星、太一のことで天皇大帝のシンボルとして中国皇帝の時代から習合されていた。伊勢神宮の祭神は天照と太一で

 いえね。先に「日本府」「天皇」を初めて使用したのは、任那の安羅国・安羅国王〔安〕だと書き、次いで近江朝天智が「日本国」を号し「天皇・位」に即くも、壬申乱で潰えいったん途絶え、後に大和朝文武がそれを踏襲する。
RT @jyoumonjn 北辰とは北極星、太一のことで天皇大帝のシンボル

 この同じ「日本」も詳しく見ると微妙に違う、安羅は韓半島の最南端で「日辺に在る」の“南”のはずで、近江朝天智は「日出づる所に近し」で“東”を、大和王朝「日本国」も旧唐書は「日辺に在るを以って名と為す」の“南”で、新唐書は何時の間にやら“東”に戻ってる。 RT @jyoumonjn

 「難波副都倭弟王家」の近江朝天智、大和朝文武とも「日本」「天皇」に何故かこだわりを感じます。で、「難波副都倭弟王家」は百済・新羅によって韓半島から最後に追出された任那安羅国王家の一派ではないか。で、九州筑紫倭国は同じ倭人の安羅王家を弟王家として優遇した。RT @jyoumonjn

 故郷の親戚近くに周慶寺隣に
「妙見宮鷲頭寺」
があり、本尊の妙見大菩薩は大内氏の氏神さまで、「みょうけんさま」と親しまれています。RT @jyoumonjn

 この大内氏は開祖が百済の琳聖太子だと言われ、李朝に調べてくれと頼んだらしいがそのときは分からなかったと。で私が思うに安羅王家の一族の末裔では?それは貴方がおっしゃるこの妙見信仰の北辰・北極星・天皇からです。RT @jyoumonjn 北辰とは北極星、太一のことで天皇大帝のシンボル

 いやー、一方的にしゃべりまくってごめんなさいね。「難波副都倭弟王家」の近江朝天智、大和朝文武が、共に「安羅」「日本」「天皇」に関係すると考えるようになって、『北辰とは北極星、太一のことで天皇大帝のシンボル』の妙見信仰を詳しく知りたくなったというわけです。RT @jyoumonjn

 jyoumonjn @tohyan いろいろありがとうございます。思うには北辰を北極星と北斗七星を含んでしまうと別物に?内宮は北辰で外宮は北辰に奉仕する北斗の役目かと・・

 そうです・そうです。で、更に『北辰を安羅国に、その他の任那諸国を北斗七星に充てる。その上で、安羅国王を天皇に・任那府を日本府と呼んだ』と考えます。RT @jyoumonjn 思うには北辰を北極星と北斗七星を含んでしまうと別物に?内宮は北辰で外宮は北辰に奉仕する北斗の役目かと・・

 北辰と伊勢神宮《魚拓》
 tohyanです。北辰が伊勢神宮と関係するとは知りませんでした。若干異なった受取り方をしてますが、米田氏は吉野ヶ里が卑弥呼の王墓で、ある時期に脊振の反対側糸島の加布里に移し、その後、天下立評前後に今の伊勢志摩に更に移築したと


つぶやき「古代」目次 a2 へ 戻る




(283) 『泊瀬女の 造る木綿花 み吉野の 瀧の水沫に 咲きにけらずや』 2010年11月29日(月)

 万葉集912〔泊瀬女の 造る木綿花 み吉野の 瀧の水沫に 咲きにけらずや〕この歌は秋津川(=嘉瀬川)の下流に吉野宮が位置しそこで歌われた歌だそうです。秋津川は初瀬と呼ばれた背振山地から、吉野ヶ里の脇を流れ吉野川(=筑後川)に合流する。RT @jyoumonjn 筑後、嘉瀬川流域は

 該当の古名の川は城原川かと思います。調べてみます RT @tohyan この歌は秋津川(=嘉瀬川)の下流に吉野宮が位置しそこで歌われた歌だそうです。秋津川は初瀬と呼ばれた背振山地から、吉野ヶ里の脇を流れ吉野川(=筑後川)に合流する

 なるほど、私の曲解かも知れません。『初瀬川(=嘉瀬川)、秋津川(=城原川)、更に、吉野川(=筑後川)だ』とおっしゃるのですね。ぜひ、調べてください。〔逆賊磐井は国父倭薈だ:米田良三著〕第3章長谷寺p99に記載@jyoumonjn該当の古名の川は城原川かと思います。調べてみます

 古田武彦氏の「壬申大乱」読み直してみると。以前の確か10月末tweetは、『吉野川(=嘉瀬川)、秋津川(=城原川)、だ』となるんですね。これで良いでしょうか?現地を訪ねるべきなんでしょうね^^         @jyoumonjn該当の古名の川は城原川かと思います。調べてみます

 jyoumonjn @tohyan おはようございます。確かに古田氏は吉野川を嘉瀬川に比定されてますね?ただ米田氏の秋津川の件では吉野川を筑後川に流れるとしていますので両氏の吉野川にズレがあるように・・何れにしろ古代史に疎いですが整合性をみてみます。

 ですよね、あれ何で間違ったっけて心配になって慌てています。
RT @jyoumonjn 確かに古田氏は吉野川を嘉瀬川に比定されてますね?ただ米田氏の秋津川の件では吉野川を筑後川に流れるとしていますので両氏の吉野川にズレがあるように・・何れにしろ古代史に疎いですが整合性をみてみます。

 jyoumonjn @tohyan 古田氏の指摘のように嘉瀬川が江戸期の改修まえに筑後川に流路をとっていたか調べてみます。秋津川に相当するのは城原川と思いますが・・平行して田手川も流れます。どちらも背振山系ですが吉野ヶ里近郊を通ります(たぶん城原川だと)確認しましょう。河川が多いので時間を・・

 確かに白村江当時の
〔吉野ヶ里遺跡〕吉野川(嘉瀬川・筑後川)と秋津川(城原川・田手川)
の流路及び瀧の場所が特定できると良いのですがRT @jyoumonjn

 若し、流路が利根川のように変えられたとすれば石井樋公園から田布施川ルートですかね、でもこれではとても吉野ヶ里に程遠いので、区界に沿って、佐賀市清掃工場北、黒川、巨瀬川、伊賀屋では?RT @jyoumonjn 古田氏の指摘のように嘉瀬川が江戸期の改修まえに筑後川に流路をとっていた。

 〔まぼろしの邪馬台国:宮崎康平氏〕は巴利国の所で5.6世紀頃まで筑後川の本流は筑前と筑後の国堺を大きく北に迂回してた。またウカ(大川:宇迦の山本)とも呼び、弥奴国の所ではJR長崎本線以北は遺跡が数えきれないと表現する。筑後川はJR南側に沿って流れてた?RT @jyoumonjn

 《初瀬川(=嘉瀬川)、秋津川(=城原川)、吉野川(=筑後川)か?》 米田良三氏は「列島合体から倭国を論ず」で吉野川(=筑後川)とし、別に「秋津川は初瀬と呼ばれた背振山地から、吉野ヶ里の脇を流れ吉野川(=筑後川)に合流する」としてるが初瀬川=秋津川かは不明RT @jyoumonjn

@tohyan 嘉瀬川は何度も河道を変えていて奈良時代は川上から巨勢川と佐賀江湖をとおり確かに筑後川に下流で合流した時代もありその後、治水のため流路を何度か西よりに、初瀬川は合瀬を抜け今は北山ダムに注いでいるがそれは嘉瀬川の上流か支流になるかと・・(現時点)

 jyoumonjn @tohyan 筑紫次郎は大きく蛇行し証拠に川を挟んで県境が飛び地となる場所あり、加えて有明海は干満の差が大きく古代の海岸線は魚介類の化石等により、大きく内陸に入りこんでいたことを考えるられます。

 私は《吉野川が、嘉瀬川でも、筑後川でも構わない》のですが、米田氏は筑後川の上流の九重山の麓の久住町や玖珠郡の玖珠町・九重町が、応神天皇に吉野の国巣人が酒を奉る説話をしています。嘉瀬川の場合は、秋津の瀧・吉野の瀧が同じか、また、場所はどこかによりますね。RT @jyoumonjn

 あとひとつ、古田武彦氏は白村江戦・壬申乱当時の吉野ケ里・吉野大宮は一大軍事基地説で、大宰府から吉野宮まで軍用道路が築かれていたとしています。私には島原半島迂回渡航説は今一納得ができません。当時は島原は半島でなく島で、同様長崎を含む西彼杵半島も島説です。RT @jyoumonjn

 宮崎康平氏は著書「まぼろしの邪馬台国」の「3・糸島水道」で糸島半島は当時島だったと言っています。島原が島とした時、当時の海峡はというと、愛野・有明川・小原公民館・唐比公民館・唐比湿地公園・唐比漁港で、長崎島説は半造川・本名川・鈴田川の大村線沿いでしょうRT @jyoumonjn

 嘉瀬川が何度も河道を変えたとしても、48号線沿いに真東に流れるのが限界と思えます。とすると神埼市にぶつかりますね。神埼は確かに魅惑的な名前です、そこに吉野離宮があっても不思議でありませんね。であれば秋津川が城原川で頷けます。吉野ヶ里遺跡だと田手川ですね。RT @jyoumonjn

 @tohyan 神崎、佐嘉、千代田はとても近い感覚があります。川、水路は無数にあり背振りはもとはソウルと呼ばれたとも・・あと長崎、島原が歴史年代に島だったかどうか?フォローが要るかと・・あと伊勢塚という前方後円墳が気になる。

 「神崎、佐嘉、千代田はとても近い感覚があります」⇒宝の山って所ですね。「長崎、島原が歴史年代に島だった」⇒お疲れの所すいませんフォローお願いします。「伊勢塚という前方後円墳が気になる」⇒吉野ヶ里が倭国の王墓だとすると、逆に何故そこにあるか不思議ですが。RT @jyoumonjn

 jyoumonjn いやいや嘉瀬川は本格的には江戸初期の治水によりますが、奈良時代あたりまでは肥前国府のある市から東進が本流だったようですよ。そしてそのあたりまでは水運によったものRT @tohyan 嘉瀬川が何度も河道を変えたとしても、48号線沿いに真東に流れるのが限界と思えます。とすると神崎に

 河上神社は平安後期以来肥前国の一ノ宮とされ、河上社と川上川を隔てた東方至近の所に肥前国府があり、国府の政庁である国衙から河上社は特別の尊崇と保護を受けていた。いえね、肥前国府のあった場所が分からなくて^^RT @jyoumonjn 肥前国府のある市から東進が本流だったようですよ。

 「肥前川上社」
の嘉瀬川対岸ということで、やっと肥前国府所在地付近にたどり着きました。が、これから真東と言われても山中に入る感じで、溜池でなく三ヶ月湖?

 とすると、長崎高速道はどう見ても流路の北限でしょうから、31号線沿いが正解でしょうか。城原川上流が泊瀬女の木綿花か、嘉瀬川上流川上ダムの三瀬が泊瀬女の木綿花なのかはえらい違いですから。RT @jyoumonjn 奈良時代あたりまでは肥前国府のある市から東進が本流だったようですよ。

 「佐賀・神埼・吉野ヶ里だより」《魚拓》
肥前国府へ続く「古代官道」は、吉野ヶ里の北墳丘墓の北を通り、河岸段丘を削って「神埼郡衙跡」に出、神埼郡衙から一直線に西へ現在の佐賀市久保泉町から金立町を進み、そして大和町にあった「肥前国府」に続く。


つぶやき「古代」目次 a2 へ 戻る




(284) 『[大和王朝「日本国」出生秘話]・「九州:大和のできごと対比年表」』 2010年12月2日(木)

別紙
[大和王朝「日本国」出生秘話]・『九州:大和のできごと対比年表』
を、エクセル:Excelで整理しましたので、ご参照方お願いします。

 原点の整理をしょう。古代に真実を求めて12集《「評」の責任者は、「評督」です。「評督」の上部単位が「都督」である。「都督」のいるところが都督府である。都督府は日本の中で九州にしかない。難波都督府や飛鳥都督府はない。筑紫都督府のみがあり、都府楼跡がある。都府楼は都督府の略である。》


つぶやき「古代」目次 a2 へ 戻る




(285) 『あんれ、同じ意見?⇒楮の繊維で作った神祭りの幣帛のことを木綿「ゆう」といいました。「もめん」ではありません』 2010年12月4日(土)



 jyoumonjn @tohyan 当時は潮の干満を利用した水運中心の佐賀の低地には葦が群生している風景だとすると・・吉野、吉野ケ里とは葦野、葦野ヶ里という名にふさわしいような・・



 あー、それは古田武彦氏も「壬申大乱」に書かれてたようですが、でも、それだと筑後川沿いはすべてに当てはまりませんか?
 RT @jyoumonjn 当時は潮の干満を利用した水運中心の佐賀の低地には葦が群生している風景だとすると・・吉野、吉野ケ里とは葦野、葦野ヶ里という名にふさわしいような・・



 吉野、吉野ケ里とは葦野、葦野ヶ里という名にふさわしい⇒そもそも「葦は主として河川の下流域から汽水域上部、あるいは干潟の陸側に広大なヨシ原を作り、干潟では干潮時には干上がる水流の少ない所に育つ」らしい、ならば嘉瀬川でなく筑後川の名前にふさわしいと思います。RT @jyoumonjn



 お疲れさま。いえね、流域面積が全然違うっていう程度の受け取り方です。嘉瀬川が吉野川だとする古田氏の見解は少々無理があると思います。RT @jyoumonjn 現在でも嘉瀬川、筑後川他の下流域に残っていますよ
RT @tohyanならば嘉瀬川でなく筑後川の名前にふさわしいと思います。



 jyoumonjn 嘉瀬川も城原川も水源は三瀬近郊です、等距離辺りに名尾和紙の産地があり楮原という地名もあるので木綿花に関係を見れるかとRT @tohyan 城原川上流が泊瀬女の木綿花か、嘉瀬川上流川上ダムの三瀬が泊瀬女の木綿花なのかはえらい違いですから



 あんれ、同じ意見?
⇒「万葉時代、楮の繊維で作った神祭りの幣帛のことを木綿「ゆう」といいました。
「もめん」ではありません。「もめん」が日本に伝来するのは、鎌倉時代以降のこと。」
RT @jyoumonjn



 木綿花とは、木綿(ゆう)の白さを花にたとえた語。一説に木綿で作った白い造花ともいう。又
?⇒
「木綿花(Bombax ceiba・キワタノキ)ゆう‐はな」《魚拓》
RT @jyoumonjn



 ウッソー、と言われるかもしれませんが、私は米田良三氏と同じ意見で、
「木綿・木棉(もめん)ワタの種子から取れる繊維コットン(英語cotton)」
派です。その花ですね。
RT @jyoumonjn



 そうでないと解釈できない⇒万葉集912〔泊瀬女の 造る木綿花 み吉野の 瀧の水沫に 咲きにけらずや〕

 この歌は秋津川 (=嘉瀬川) (=城原川)の下流に吉野宮が位置しそこで歌われた歌だそうです。秋津川は初瀬と呼ばれた背振山地から、吉野ヶ里の脇を流れ吉野川(=筑後川)に合流する。RT @jyoumonjn



 〔しらぬひの 筑紫の綿は 身に付けて いまだは着ねど 暖けく見ゆ〕

●白いつくしのように連なっている綿花、その栽培の盛んな筑紫の綿そのものを、身に着けたことはないが、運ばれていく仏像の周りには綿が詰められ、暖かそうである。仏像が強奪される、そしてそれに手を貸すのは自分である。そのことは堪え難いが、仏像が暖かそうに見えることだけが救いだ。沙弥満誓(さみのまんせい)は造筑紫観世音寺別当という職にあり、出家するまでは笠朝臣麻呂(かさのあそみまろ)と称した。
「参照方250」



〔泊瀬女の 造る木綿花 み吉野の 瀧の水沫に 咲きにけらずや〕

 この歌は『秋津川(=城原川)の上流の泊瀬で娘達が作ったであろうコットンが風に飛ばされ、水面に浮かび流され、吉野宮近くを流れる吉野川(=筑後川)との瀧の水沫にかれんな白い花と咲いているよ』と解釈RT @jyoumonjn



 このコットン「わた」としたら、上流が同じ三瀬の初瀬・長谷・泊瀬でも嘉瀬川は逆コの字に迂回し、城原川はそのすぐ上流で流れ着くと分かります。RT @jyoumonjn 嘉瀬川も城原川も水源は三瀬近郊です、等距離辺りに名尾和紙の産地があり楮原という地名もあるので木綿花に関係を見れるかと



 jyoumonjn 「もめん」ではありません。木綿栽培は江戸期~、故に楮なのです。名尾地区、楮原
RT @tohyan 万葉時代、楮の繊維で作った神祭りの幣帛のことを木綿「ゆう」といいました。「もめん」ではありません。「もめん」が日本に伝来するのは、鎌倉時代以降のこと。



 倭国の時代、筑紫に綿が栽培されていたとしないと理解できない歌。〔しらぬひの“筑紫の綿”は、身に付けていまだは着ねど、暖けく見ゆ〕〔泊瀬女の造る木綿花、み吉野の 瀧の水沫に“浮”咲きにけらずや〕
RT jyoumonjn「もめん」ではありません。木綿栽培は江戸期以降、故に楮なのです。



 もし「楮:こうぞ」とした時、〔泊瀬女の造る木綿花、み吉野の瀧の水沫に“浮”咲きにけらずや〕
「楮の雄・雌花」
が浮き咲いても歌にならない。
RT @jyoumonjn



 jyoumonjn 迷うところです。もう少し追わないと、炭化米のような種子でも出て欲しい考古学的な
RT @tohyan 倭国の時代、筑紫に綿が栽培されていたとしないと理解できない歌。〔しらぬひの“筑紫の綿”は、身に付けていまだは着ねど、暖けく見ゆ〕〔泊瀬女の造る木綿花、み吉野の 瀧の水沫に“浮”咲き



 あはっ、そうですか。この歌は「列島合体から倭国を論ず(地震論から吉野ケ里論へ):米田良三著」p153に紹介されていて、花も思ったよりきれい‼
 〔綿栽培日記TOP〕
RT @jyoumonjn 炭化米のような種子でも出て欲しい考古学的な



jyoumonjn @tohyan 799年7月、三河に木綿種を持、翌年、紀伊、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐及び大宰府、諸国に賜う是草綿のこと」木綿と草綿あり。佐賀の植物史には干拓地は塩分が強いため先ず「綿を植えた、綿ガラから染料をとった」とあるから・この地域で草綿(ワタ)を栽培した可能性はある・・



 それ知っていますよ、いわゆる通説って言う奴ですよ。後世に、しかも何故、三河なんでしょうか? 
〔笠朝臣麻呂(出家後:沙弥満誓)〕《魚拓》
RT @jyoumonjn



〔泊瀬女の 造る木綿花 み吉野の 瀧の水沫に 咲きにけらずや〕
●この歌の解釈は、『秋津川(=城原川)の上流の泊瀬(=三瀬)で、娘達が作ったであろう木綿(=コットン)の綿毛玉が風に飛ばされ、水面に浮かび流され、吉野宮近くを流れる吉野川(=筑後川)との瀧の水沫に、かれんな白い花と咲いているよ』




つぶやき「古代」目次 a2 へ 戻る




(286) 『イスタンブールで、オスマン・トルコ歴代皇帝の墓を見たときに、普通の日本人の墓と同じ質素だった』 2010年12月4日(土)

 jingujiko トルコ系民族(ウイグル人、トルコ人)と日本人が近しいのは、墓。日本人の墓は質素。イスタンブールで、オスマン・トルコ歴代皇帝の墓を見たときに、普通の日本人の墓と同じ質素だと知った。シナ人は違う。三民主義を唱えた孫文でさえ、山のような超巨大な墓をつくった。シナ人とはわかりあえない。

 へえー、そうなんだ。でも墓って、普通本人が造るんじゃなくって、本人のご威光とか、財産だとか利用しょうとする後の輩が造るよね。ということは・・・・・・・。RT @jingujiko シナ人は違う。三民主義を唱えた孫文でさえ、山のような超巨大な墓をつくった。シナ人とはわかりあえない。

 jingujiko 日本の普通は他国では通用しないので、要注意.。シナ人は生きているときに墓を作る。孫文は生きているときに作っているし、蒋介石もそうでしょう。だからシナ人とは決してわかりあえない。 @tohyan へえー、そうなんだ。でも墓って、普通本人が造るんじゃなくって、

 まー中国人にも色々あって、共産党員か・でないか、は頭に入れとかないとね。政治に全く無関心層は、日本人と変わらない。
RT @jingujiko 日本の普通は他国では通用しないので、要注意.。シナ人は生きているときに墓を作る。孫文は生きているときに作っているし、蒋介石もそうでしょう。

 それにしても、北朝鮮の惨状はひどい。民衆よ立ち上がれ!何故、立ち上がらない。この惨状は日韓合邦前の李朝鮮そのものだ。1300年民衆が属国根性を植え付けられ、覇気を無くした各個人の惨状だ。中国が北朝鮮民衆を救えるかと思ったが、民族的にやはり韓国のようだ。韓民族自主独立だ。立上がれ!

 いちばん良い方法は、暗殺だ。病殺・毒殺・射殺の順かな。闇から闇へが望ましい。戦争は最悪だ。 日本でちんぴら、やってないで、帰って義士たれ、だ。

 自分が「いただけないなあ」と思う人をフォローしたりもできるものなんだ⇒だから、突っ込みは手加減がむずい。
RT @nobuko_kosugeあ、それで、その「いただけないなあ」と思う人に向かって、批判的なリツイートをくりかえしたりすると、ブロックされちゃったりすることもあるわけだ。

 nobuko_kosuge @tohyan なるほど…どうもありがとうございます。私は、まだまだツイッター初心者なのですが、突っ込まれて気持ちいいようなリツイートができるようになりたいです。

 まー、突っ込まれて気持ちの穏やかな人はいないと思いますが・・正・反・合ですかね。私などすぐ、剥きになるタイプで先祖が半島系ですかね。極力ブロックだけはしないように心掛けてます。
RT @nobuko_kosuge 突っ込まれて気持ちいいようなリツイートができるようになりたいです。

 いちばん良い方法は、暗殺だ。病殺・毒殺・射殺の順かな。闇から闇へが望ましい。戦争は最悪だ。日本でちんぴら、やってないで、帰って義士たれだ。日本は困るとそうしてきた、倭王「高市天皇」を暗殺した本来姿の「大化改新」も、最近では孝明天皇暗殺の「明治維新」も側近よる連携プレーだったのだ。

 いちばん良い方法は、暗殺だ。闇から闇へが望ましい。戦争は最悪だ。日本は困るとそうしてきた、倭王「高市天皇」を暗殺した本来姿の「大化改新」も、最近では孝明天皇暗殺の「明治維新」も側近よる連携プレーだったのだ。

 가장 좋은 방법은 암살이다. 어둠에서 어둠으로 바람직하다. 전쟁은 최악이다. 일본은 곤란하다고 이렇게 해왔다 왜왕 "타카 이치 천황"을 암살한 본래 모습 "다이카 개신"도 최근에는 고메이 천황 암살 "메이지 유신"도 측근 따르면 연계 플레이였던 것이다

戦争は最悪だ。最良の方法は、暗殺である。闇から闇が望ましい。日本は困難なときにそうした。倭国王「高市天皇」を暗殺した本来の姿「大化改新」も、孝明天皇暗殺「明治維新」も側近よる連携プレーだったのだ。

전쟁은 최악이다. 가장 좋은 방법은, 암살이다. 어둠에서 어둠 바람직하다. 일본은 어려운 때 이렇게했다. 왜국 왕 "타카 이치 천황"을 암살한 본래의 모습 "다이카 개신"도. 고메이 천황 암살 "메이지 유신"도 측근 따르면, 연계 플레이였던 것이다.

 それにしても、北朝鮮の惨状はひどい。民衆よ立ち上がれ! それにしても、北朝鮮の惨状はひどい。民衆よ立ち上がれ!何故、立ち上がらない。この惨状は日韓合邦前の李朝鮮そのものだ。1300年民衆が属国根性を植え付けられ、覇気を無くした各個人の惨状だ。中国が北朝鮮民衆を救えるかと思ったが、民族的にやはり韓国のようだ。韓民族自主独立だ。立上がれ!

 그렇다 치더라도, 북한의 참상은 참담하다. 민중 이여 일어나라! 왜 일어서지 않는다. 이 참상은 한일 합방 이전 리 조선 자체다. 1300 년 민중이 속국 근성을 이식되고 패기를 없애고 각 개인의 참상이다. 중국이 북한 민중을 구할 수 있을까라고 생각했지만, 인종으로 역시 한국과 같다. 한민족 자주독립이다.우리 생기는

 いやー・こりゃー、面白い、みんなも見ようぜ。
RT @jingujiko
〔シナの歴史をフラッシュで知る。〕《魚拓》
4:01 PM Dec 14th webから

 うん、ともかくこのURLをクリックして、フラッシュを見てください。お・お・おって知らない国の浮き沈みが現れ・消えてゆくのがわかります。はかない・走馬灯のように・・・です。
RT @jingujiko
〔シナの歴史をフラッシュで知る。〕《魚拓》
 図で理解。








~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ~~




《 前 へ 戻 る 《  ( つぶやき「古代」 その008 )  》 次 へ 進 む 》


つぶやき「古代」目次 a2 へ 戻る







ここは、 ”と う や ん” twitter @t0_yan
山本 俊明 のホームページ です 。