大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 012 》
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ
白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、
日本書紀の〔 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権
2010年 4月 2日 発行
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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ https://waikoku.sakura.ne.jp/yamato.html 2:32 PM Apr 2nd webから ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(335) 『672年の壬申の乱の記述は、裏に倭国滅亡を含くんでいる?』 2011年2月2日(水)
『続・法隆寺は移築された:米田良三著』「6.法隆寺移築説の骨子」項p42に、
『しかし完璧に隠された倭国も先に示したような内容が分ると、少なくとも上宮王の時(622年迄)は筑紫に都があり、日本列島を統治していたことが明確になる。中国宮廷の記録である『冊府元亀』の倭国の記事は670年まであるが、この時まで倭国は続いていたと思われる。
710年の法隆寺が移築されており、解体と運搬と、20年近く興留(おきどめ:法隆寺駅辺の地名でこの名のバス停がある)で積み置かれたことを考えると、『日本書紀』の672年の壬申の乱の記述は、裏に倭国滅亡を含くんでいるものと考えられる。倭国滅亡は672年をおいてない。』
と書かれている。
が、果たしてそうだろうか。
古田武彦氏は〔古代史再発見第2回 王朝多元 ー歴史像〕1998年9月26日(土)大阪 豊中解放会館
『九:郡と評』
それは最終的に奈良県の藤原宮の木簡(荷札)で決着が付いた。それを見ると七〇一年を境にしまして、それから前は「評」しか出てこない。郡はその後しか出てこない。<略>
つまり七〇一年以前には、七〇二年以後の近畿天皇家とは別の権力が存在した。<略>
その中国側の史料によれば、倭国は七〇一年で滅亡した。志賀島の金印以来の倭国を滅亡して、その分家であった日本国が併呑したと書いている。併呑した側が郡制であって、併呑された側が評制であったと考えざるを得ない。<略>
と言ってる。
ところで、
私は〔日本国は倭国から別(わか)れた国〕と言ってると考えます。『倭国』の分家の「難波副都倭弟王家」が、飛鳥・葛城の『秦国』王家の蘇我氏取込み、『倭国』大宰府から王権を696年、クーデターで乗っ取り、誕生した大和王朝『日本国』の初見です。
「兄弟王朝」だからして、倭国から日本国へ変わった「際立って特殊な何か」はひとつも見受けられないわけだ。しかも、「分かれた」といっても、神武天皇という遠い昔のことではなく、伊勢王(=斉明天皇)から「分かれた」わけです。
普通の人は、九州王朝「倭国」から、大和朝廷「日本国」への王朝交代といえば、すぐに、戦争・争乱・内乱があった・あったはずだ、と考えます。確かにあったのは、あったのです。高市天皇の暗殺という「原・大化の改新696年」というクーデターです。でも、日本書紀は50年前の事件「大化の改新」「乙巳の変」として前倒し、そんなことがあったとは一言も書きません。これじゃー、分りませんよね。
たぶん、当時の人もごく一部の関係者だけが知ってたと思います。
九州王朝「倭国」は本家で、大和朝廷「日本国」は分家の弟王家です。長門以東を唐筑紫占領軍の征服から防衛し、天智弟王家は近江へ遷都し、「日本国」として独立したわけです。独立したから、隣国新羅へ「倭国更えて日本国を号す」なのです。壬申乱で挫けますが、近江朝残党は京都桓武朝を再興します。
ついでに書きますが、天皇家は天武系の天皇の菩提を弔わないと言います。「近江朝は、難波副都の旧近衛兵、取り込んだ秦国の官僚、白村江で滅亡した百済の遺臣団で構成されていた」と考えられます。桓武朝は字義通り百済遺臣団が核になって復活で、純粋に近江朝残党ではないが壬申乱の恨みでしょうか。
(336) 『「近畿王家」は漢風諡号を制定し、開元初年(713)の粟田真人を正使とする遣唐使によって「新:皇統譜」が報告された』 2011年2月4日(金)
〔 Ⅶ・④『高市天皇の薨去はクーデターによる暗殺だ』
696年〔持統即位7年:大化2年〕7月10日、後皇子尊『高市皇子{高市天皇}』が薨じた。この記事は、倭国側の暗殺下手人:丹比真人嶋・安倍朝臣御主人・大伴宿禰御行。大和側の暗殺下手人:石上朝臣麻呂・藤原朝臣不比等。らによって倭国最後の王「高市天皇」が暗殺・薨去したもので、645年乙巳皇極4年6月12日の「乙巳の変」のモデルになっていると考える。
日本國は倭國の別種なり。其の國、以って日辺に在り。故に日本を以って名と爲す。
長安三年、其の大臣朝臣眞人、來りて方物を貢ず。云々。<略>
日本:倭国の倭(wi:ゐ)は、矮小・卑猥とかの(wai)と同じく、中国音が変化してきたので、日が出る東の「日の本」日本に変えました。
日本側から見ると「倭王」高市を暗殺し、王権の簒奪による「王朝交代」だったのだ。
〔「持統紀」はなかった、本来は「高市紀」だった:飯田満麿著〕
『9.結びにかえてー外国史書の証言』
これまで一般に「唐」の正史としては『旧唐書』が重んじられてきた。『旧唐書』列伝は東夷の項に「倭国」「日本国」と峻別して記録している。『新唐書』は「日本伝」のみを記録している。特筆すべきは、『新唐書』「東夷伝」に神武以降光孝まで58代の日本国天皇名を記載している事である。
このように他国の王朝歴代の王名表を正史中に記載する場合、その原資料は当然相手国の奉呈した国書中の記載による筈である。
『新唐書』の場合、これは恐らく長安(701)の粟田真人奉呈の国書、によったと推定される。この時の日本国王名表は、当然和風諡号だった。
これは「唐」側として、甚だ意思疎通に欠けるもので、不満の意が表明されたと思われる。この事態を受けて、「近畿王家」は大陸の風に倣って急遽漢風諡号を制定した。これは「唐」側に記録されている、開元初年(713)の粟田真人を正使とする遣唐使によって報告されたと推定される。
但しこの開元初年の遣使記録は日本側には記録されていない。
713年は和銅6年に当る時の天皇は元明天皇であるが、この漢風諡号の原資料は大宝元年(701)の遣唐使の報告であると推定される(付記参照)。
但し『日本書紀』の天皇名と対比すると58代全体では、誤写5ヶ所、本名5ヶ所、本名誤写1ヶ所、異字名1ヶ所、欠落1ヶ所、の違いが存在する。
『新唐書』の成立が1060年であるから、350年以前の資料によったものなので許容範囲の異同といえる。しかしながら、この記録の「永徽」初年条最後尾に「持統」とあるべきところが「総持」となっている事実は不可解で納得出来ない。これは「持統紀」が713年以降の、政治情勢の中で、「高市紀」の成り代わりだという私見の裏づけと確信する。
(337) 『追い討ちの「筑紫大地震678年」、その后の「倭国の難波への王権の禅譲・難波遷都」』 2011年2月4日(金)
この「倭王」高市の暗殺、倭国⇒日本国の「王朝交代」を分りづらくしているのが、「壬申乱」を薩夜麻の復位、倭国再統合で息を吹き返し、再復活した倭国だが、
《参照》
《参照》
で詳細に説明しているが、その後、不幸にも、追い討ちに、「筑紫大地震(678年)」が発生・被災するのだ。
このことは、「白村江戦後賠償」と「筑紫大地震」とで、倭国は極端の疲弊・困窮に見舞われたと思われる。大宰府は浄御原の大海人へ、なりふり構わずその窮乏を訴え、救済を求めたようだ。
そして、倭国大宰府の白鳳王は大海人へ倭王の帝位の禅譲、大宰府から難波副都への遷都、を決意・実行したと思われる。
ついで、遷都先の難波副都で、すぐに、「白鳳大地震(684年)」を被災する。更に、地震后の2年後に、遷都先の難波副都が焼失(686年)するのだ。結局、「大海人の浄御原宮で同居する」事になる。
同居は、686年から、自前の倭国王都「藤原京」完成の694年まで、浄御原宮で同居するのだ。
以上のことは、
『天武紀には天武七年(六七八)の筑紫大地震はじめ、十七回もの地震記事が記録され、『書紀』中でも群を抜く。筑紫大地震以降の十六回中十二回はその余震と見られる事、火山活動に伴う降灰・雷電が記されている事等から、『書紀』のこの部分は筑紫の記事、即ち九州王朝の記録と考えられる。この時期風水害や降雹記事もあり、白村江敗戦に追い討ちをかける、度重なる天災により筑紫の疲弊は甚だしかったと推測される。
一方、『書紀』天武十三年(六八四)の白鳳大地震は、東海・東南海・南海地震の同時発生と考えられ、被災地は筑紫ではなく東海・近畿・四国であるから、これは近畿の記事である。
そして、この年九州年号が「朱雀」と改元されており、近畿での地震被害が改元の契機であれば、九州王朝はこの時点で拠点を近畿、その中でも副都たる難波宮に移していた事となる。これは難波宮焼失の天武十五年に九州年号が「朱鳥」に改元されていることからも裏付けられる。
この間に九州王朝の筑紫から難波への移転がおき、近畿天皇家への権力移行期である天武末期から持統期に、両者は地理的にも近接して存在していたと考えられるのではないか』
以上、この正木裕氏の『(4). 天武紀の地震記事と九州王朝』は、実に分りやすいので、敢えて全文を記載するものです。
『近畿天皇家への権力移行期である天武末期から持統期に、両者は地理的にも近接して存在』の〔天武末期から持統期〕は、九州王朝「倭国」の壬申乱后の白鳳王「薩夜麻」及び、その皇子の倭王「高市」の時代に、そっくり、対応しており、この親子は“全くのツキに見放されてた”と言って過言でないのだ。
(338) 『長谷寺跡:佐賀県の泊瀬(現在、初瀬川が流れる)には杉神社以外に、本堂跡の近くに鏡神社が現存し、祭神は息長足姫尊』 2011年2月4日(金)
末尾の項「地蔵菩薩さまと神功皇后さまとは、どのような御関係なのでしょう」には、
《佐賀県の泊瀬(現在、初瀬川が流れる)には、
―――“ぜひ、長谷寺跡の確認・探索方お願いします。”―――
<略> 奈良の京を拠点にして、隠国(こもりく)泊瀬(はつせ・佐賀県佐賀市)の地に、三輪神社(現在の杉神社)に関連する宗教施設として、母である神功王后を祀ります。
<略> またさらに佐賀県の泊瀬(現在、初瀬川が流れる)には杉神社以外に、本堂跡の近くに鏡神社が現存し、祭神は息長足姫尊であります。
<略> 神功王后の十一面観音像と倭薈の地蔵菩薩像は、九州の隠国の「二本の杉」を御神体とする三輪神社(神功王后が出征時に祈願した)から、大和朝廷が移動させた奈良の三輪神社の神宮寺である大御輪寺に鎮座していたのです。
―“ぜひ、長谷寺跡の確認方お願いします”―
佐賀県の泊瀬(現在、初瀬川が流れる)には
いえね。
は、もともとは九州王朝「倭国」の跡地を訪ね、米田さんのお話を聞きながら確認できたら良いなってね始めました。
米田良三氏がこれまで特定してきた跡地は、聖地小倉山・薬師寺・東大寺・磐井(=倭薈)の墓・法隆寺・三十三間堂・桂離宮・吉野宮・吉野ヶ里・伊勢神宮、今度発表の長谷寺、とても多くなってきました。
でも我々素人は何故そこが跡地と特定できるのか。著書を単に読むばかりでは、そうかなーと思う訳で米田氏とともに現地を訪ね説明が聞けたらと思います。
なお、参考までに、米田良三氏の著書は、下記4冊が「新泉社」から発行されています。
①『法隆寺は移築された』
②『建築から古代を解く』
③『列島合体から倭国を論ず』
④『逆賊磐井は国父倭薈だ』
最近更に、
実は、私の住まいが横浜で九州からは遠くて、思っただけで何ひとつ進んでいません。この話に賛同し、乗って頂ける方は居られないか、募集してるわけです。この企画は如何でしょう。リツイート頂くか、或は、ダイレクトメッセージ頂ければ幸いです。ただ、営利目的ではありませんので、ご注意ください。
米田良三氏が主張の〔藥師寺・東大寺は、宇佐八幡宮にほど近い倭国の聖地
まー、つべこべ言わずに、実際に足を運んでみれば実感すると思うのだよね。ここに、確かに「東大寺」が建っていたんだ。ここに、確かに「薬師寺」が建っていた。そして、ここに九州王朝「倭国」が実在したと実感できるのではないでしょうか。〔倭国の遺跡スポットを訪ねてみよう〕ではありませんか。
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jyoumonjn 了解ですよ!標高の高い地域ですので寒さが緩んだ来週あたり見てきます。車で40分くらいだと思います。 ⇒わー、早速ご返事いただきありがとうございます。車で40分ですか、遠いんですね。まさか、雪が残ってるとか、も少し暖かくなってからですかね。もう、理屈でなく体感するって時でしょうかね
2000BMW740i 私の住んでいる所からは直線距離で十数キロ程度ですね。いま化学療法受診中なので、休薬期間中の体調が良い時に訪れてみたいと思います。⇒えっ、ご病気だったのですか?化学療法ってどんな病いでしょうね。でも、ご返事戴きありがとうございます。あくまで趣味ですので、ご無理はなされませんように。
2000BMW740i jyoumonjn 了解ですよ!標高の高い地域ですので寒さが緩んだ来週あたり見てきます。車で40分くらいだと思います。⇒縄文人さんからもダイレクトメッセージを受取っています。彼は佐賀にお住まいの方です、お二人で連絡を取合っていただくと嬉しいのですが、勝手なお願いで申訳ありません。
(339) 『面倒くさいから、何でも良いんだ。だってさ、やれやれだな。倭国があろうが無かろうが、知ったこっちゃない』 2011年2月8日(火)
面倒くさいから、何でも良いんだ。だってさ^^やれやれだな。
だが、日本の特に、白村江戦に志願の上毛野君稚子の出身地、群馬・栃木、更には新潟・茨城・千葉いわば関東を東限に、その西側に差別がある。不思議と福島・山形・以北の東北には、何故だか差別がないことだ。もちろん、沖縄にも差別は無い。差別のある所は、嘗て、九州王朝「倭国」の版図と一致する。
差別が九州王朝「倭国」の版図と一致することの実態を如何捕らえるべきであろうか。大和朝廷「日本国」以降に皇化の東北地方には、いわゆる、差別は無い。今、私はそのように捉えている。事実は違うだろうか?若しあればダイレクトメッセージを戴きたい。私の出身地も言われ無き差別は陰に陽にあった。
あくまで仮説であるが、九州王朝「倭国」の支配階級の王族・貴族・官僚・兵士だった者は倭国から俸禄の支給を得て生活していた。ところが、696年「倭王」高市天皇が「プロト大化改新」で暗殺され倭国が滅亡すると、替わって政権の座を得た大和朝廷は彼ら旧倭国支配者に俸禄・班田を支給しなかった。
このように考えると、倭国の版図でなかった東北に、差別が無いことも理解できるし、更に被差別の多くが土地を持たない、農業が生業でないことも理解できます。大和朝廷に女帝が続くのは唐の朝貢国家だったからで、聖武はノイローゼだったとも言う。とても、平城京遷都1300年を手放しでは喜べない。
米田良三氏は『逆賊磐井は国父倭薈だ』(はじめに)で部落民に触れている。また古田武彦氏は古田史学会報NO.100「忘れ去られた真実」(100号記念に寄せて)で寄稿されている。だれもが「臭いものに蓋をする」で触れたがらないテーマである。私は何故差別が生まれたか、その原点は何か知りたい。
そう、中国漁船体当たりビデオ公開となんら変わらないね^^
八百長相撲のメールのやり取りで、各端末のメールを消去した時、その復元に時間がかかるとか、或いは端末を塩水に浸すと復元できないとか、壊したら如何だとか言ってるけど、メールを中継してるNTT・AU・SBとかのサーバーには、全てのメールが時系列に保存されてる。こちらはどうなってるかな?
(340) 『杉神社確認しました:祭神、仲哀天皇、神功皇后、竹之内宿禰1264年野田周防守が香椎宮より分霊とあり』 2011年2月9日(水)
2000BMW740i ―“ぜひ、長谷寺跡の確認方お願いします”―
jyoumonjn ―“ぜひ、長谷寺跡の確認方お願いします”―
jyoumonjn 了解ですよ!標高の高い地域ですので寒さが緩んだ来週あたり見てきます。車で40分くらいだと思います。 ⇒わー、早速ご返事いただきありがとうございます。車で40分ですか、遠いんですね。まさか、雪が残ってるとか、も少し暖かくなってからですかね。もう、理屈でなく体感するって時でしょうかね
11:06 PM Feb 5th
2000BMW740i 返信が遅れ失礼致しました。私の住んでいる所からは直線距離で十数キロ程度ですね。良い時に訪れてみたいと思います。
12:19 AM Feb 6th
2000BMW740i 私の住んでいる所からは直線距離で十数キロ程度ですね。良い時に訪れてみたいと思います。⇒ご返事戴きありがとうございます。あくまで趣味ですので、ご無理はなされませんように。
12:49 AM Feb 6th
2000BMW740i jyoumonjn 了解ですよ!標高の高い地域ですので寒さが緩んだ来週あたり見てきます。車で40分くらいだと思います。⇒縄文人さんからもダイレクトメッセージを受取っています。彼は佐賀にお住まいの方です、お二人で連絡を取合っていただくと嬉しいのですが、勝手なお願いで申訳ありません。
12:22 AM Feb 7th
杉神社確認すごーい。
長谷寺の遺跡は保存されているんですね。ごくろうさまです。
ぎょ・ぎょえー、『三瀬川は三途の川でもある』ですか。甘木市の裏山に白坂峠がありますが、黄泉の白坂だって宮崎康平は書いてます。
2000BMW740i 縄文人さんが確認との事です。jyoumonjn杉神社確認しました:祭神、仲哀天皇、神功皇后、竹之内宿禰1264年野田周防守が香椎宮より分霊とありました。他、初瀬川支流に中山城があり、現在脚気寺という処がありますが(長谷山観音寺?)残雪のためアプローチ不能でした。後日再確認します。
誠に勝手なお願い快くお引受け戴きありがとうございました。以前といっても、10数年前ホームページ立上げた時、米田氏に了解を頂く為と同時に長谷寺の所在地を、甘木の奥の長谷山では?と聞くと、杉神社辺りを言われてましたね。
そのとき、米田良三氏は、「甘木市の奥の小石原川沿いの長谷山ではない」と懇切に電話の向こうで、経典かなんかに書かれてるとかご説明頂いたのですが、仕事中だったこともあって、私の脳みそがついて行かず分らずじまいでした。
出雲大社が今の3倍の高さでやはり、空中回廊だったといいます。奈良の長谷寺にやはり同じ頃、会社の勤続30年記念で、女房・娘とでお参りしました。著書と突合せてね、くねった上りの参道の当てはまる遺跡を捜してましたが。
《渡辺様よりのメールでございます。2011年2月9日 9:36》
『用件のみで失礼いたします。
―日新堂書店より、メールきましたが時期早々だと言われちゃった^^―
そうだ、『壬申大乱:古田武彦著』第1章p20に出る「吉野山キャンプ場」のことですね。でもこれは、後世になっていかようにも名づけられますからね、なんとも言えませんね今一腑に落ちない^^
(341) 『それにしても、なんで、そんな山間部に長谷寺なんでしょうね?又、お寺の跡地に杉神社です?』 2011年2月10日(木)
それにしても、なんで、そんな山間部に長谷寺なんでしょうね?又、お寺の跡地に杉神社です?
縄文人は言う
《〔杉神社〕は、現在門前を国道が貫いていますので駐車場がなく人気もないですが、杉の木に囲まれ2の鳥居まであり、敷地の周囲は田圃ですから当時は神域は広かったと思われます。近くに吉野山キャンプ場あり。》⇒そうか、「駐車場が無い」ってか、暖かくなって桜の咲く頃は、探検者で大パニックだ。
そうか、「駐車場が無い」ってか、暖かくなって桜の咲く頃は、探検者で大パニックだ。◎⇒「倭国王墓」の吉野ヶ里遺跡が「環濠集落遺跡」ってね、「うそ」で曲げて、紹介された時も、そうだったらしいけどね。我ら倭国の子孫は、無意識に、真実のご先祖さまの歴史を求めているのでしょうね、きっと^^
確か、百人一首で歌われてるよね。
そこで、最近刊行の米田良三著『続・法隆寺は移築された「源氏物語」は筑紫が舞台だ』の24.
竜田山・龍田川の歌を集めてみると。
米田良三著『続・法隆寺は移築された「源氏物語」は筑紫が舞台だ』25.小倉百人一首再論「隠国(こもりく)」の項には、次のように書かれている。
『「住吉物語」から明らかなように本来の龍田山は、九州の背振山地である。山並みを龍が伏せていると捉えて名称と思われる。
米田良三著『続・法隆寺は移築された「源氏物語」は筑紫が舞台だ』24.「住吉物語」の項には、次のように書かれている。
『672年以降に近畿地方に移された地名の上に読むことになる現在の「源氏物語」の違いについては「列島合体から倭国を論ず」にその一部を述べたところだが、古典の「住吉物語」も「源氏物語」と同じ構図を持っていると思われる』
古田武彦氏は、「日本書紀」が抹殺した九州王朝「倭国」を、万葉集を、その著書『古代の十字路』・『壬申大乱』で、読み解くことで、眼前にした。
米田良三氏は、「源氏物語」、更には「住吉物語」、「小倉百人一首」から、地名の移動を解明し、やはり、九州王朝「倭国」を、生々しく生き返らせている。
⇒「駐車場が無い」のですか、暖かくなって桜の咲く頃は、長谷寺跡を一目見ようの方で大パニックだ。RT @jyoumonjn杉神社は現在門前を国道が貫いていますので駐車場がなく人気もないですが、杉の木に囲まれ2の鳥居まであり、敷地の周囲は田圃ですから当時は神域は広かったと思われます。
そうか、「三途の川」ってね?〔海の底 沖つ白波 竜田山 いつか越なむ妹があたり見む〕⇒この歌は「竜田山(=金山)」から、対馬海峡が遠望できるのかなー?還らぬ兵士の妻かの絶唱?RT @jyoumonjn三瀬川は三途の川でもあるからあの世との境界の意味とも考えられませんか?場所的に?
●〔海の底 沖つ白波 竜田山 いつか越なむ妹があたり見む〕(万葉集1-83)
福岡早良区に住む親友の井上浩二君が10年位前車で連れて行ってくれた
(342) 『「八幡大菩薩大明神」の掛け軸、これって神道ですよね。でも「南無」「菩薩」「多宝塔八幡」とかは仏教用語』 2011年2月11日(金)
jyoumonjn @tohyan おはようございます。神仏判然令(明治元年)以前は神仏習合、混交は一般ではと?杉神社は杉大明神と称されていたので。もちろん雷山、金山よりは対馬海峡は遠望可能でしょう。
お早うございます。高祖山からは木々の間を通して、あれは唐津湾だったのでしょうが遠望できました。金山から遠望できないと〔海の底 沖つ白波 竜田山 いつか越なむ妹があたり見む〕歌の意味が確かに通じませんね。RT @jyoumonjnもちろん雷山、金山よりは対馬海峡は遠望可能でしょう。
いえね、南無八幡大菩薩とか、天照大神八幡大菩薩とか、北辰一刀流千葉道場の「八幡大菩薩大明神」の掛け軸ね。これって神道ですよね、でも「南無」「菩薩」「多宝塔八幡」とかは仏教用語ですよね。RT @jyoumonjn神仏判然令(明治元年)以前は神仏習合、混交は一般ではと?杉神社は杉大明神と称されていたので。
米田良三氏の著書『逆賊磐井は国父倭薈だ』第3章長谷寺、「磐井(=倭薈)の墓」の墓墳の項に、筑後国風土記逸文「筑紫君磐井の
jyoumonjn @tohyan 仏教も神道もどちらも中国を経由ですから相互に影響を受け・・特に道教の神学のほうが大きいかと?権現も現人神も仏教用語ですが、明神(アキツカミ)も道教系と考えれば修行によって神となったものとも・・ちょっと無理がありますか?(福永光司「道教と古代日本」)
佛教徒は浄土で上等、神道は火党で下等と分けられたとか。火党はゾロアスターで阿蘇神社の守り神の鷹の羽紋、キリスト教と同じ土葬。神仏分離に意味があったのやら。横浜は雪がひどくなった、スノータイヤ履いてないので、おっかなかった^^RT @jyoumonjn仏教も神道もどちらも中国を経由
そうか道教ねぇー平安朝以降? @jyoumonjn仏教も神道もどちらも中国を経由ですから相互に影響を受け「特に道教の神学のほうが大きいかと?権現も現人神も仏教用語ですが、明神も道教系と考えれば修行によって神となったものとも」ちょっと無理がありますか?(福永光司「道教と古代日本」)
@jyoumonjn 恐縮です。仏教より先に浸透したものと思っています。RT @tohyan 福永光司「道教と古代日本」この本発注しました。読んでみます^^
実は、X氏から来た昨年の
確かに、手描きで近いですが別の場所になってますね?位置で近似するものは、浄土真宗本願寺派「長楽山伝照寺」というものがあります。雪がとけたら脚気寺もふくめ確認しましょう。⇒勝手なお願い恐れ入ります。暖かくなったら、ぜひ、お願いします。長谷寺・吉野・伊勢神宮・辰田山へのルートとかも。
〔海の底 沖つ白波 竜田山 いつか越なむ妹があたり見む〕
この歌の竜田山=金山に登って対馬海峡を遠望すると、足元が三瀬川(=初瀬川)の三途の川。海はあの世となり意味深 ですね。
羽金山906m?西南西にありました。万葉集3516ですか意味がストレートに伝わります。 @jyoumonjn背振山(1055)、金山(967)、雷山(955)、羽金山(906)が最高峰背振山より西側ですから「対馬の嶺は下雲あらなふ神の嶺にたなびく雲を見つつ偲はも」もなりたつかと?
〔万葉集3516〕・《魚拓》
(つしまのねは したぐもあらなふ かむのねに たなびくくもを みつつしのはも)
この歌の従来観での解説は《対馬の高嶺といっても下に雲はない》だから、
そうでしょうね。話変わりますが、源氏物語に玉蔓だっけ、長谷寺のふもとの“椿市”なる所で落合うのってありますよね。現在地名何処だと思います?
(343) 『「東国国司(招集・賞罰)詔の実年代』をもとに、「高市暗殺の前か・後か」で区別して検討すると、「筑紫朝廷」が、どのように滅亡し、「大和朝廷」にバトンタッチしたかが分かる。 』 2011年2月13日(日)
〔大和朝廷は難波副都で天下立評した九州王朝倭国の倭王分家の弟王家だ〕
Ⅶ・⑤『「高市天皇」暗殺が、「乙巳の変」のモデルになっている』
696年〔持統即位7年:大化2年〕7月10日、後皇子尊『 高市皇子 { 高市天皇 } 』が薨じた。
この薨去は、病死だ等の死亡原因にはふれていないが、実際には「倭王」高市天皇の暗殺での崩御だったと考えられる。書紀は約50年前の事件として、以下のように
このことは、古賀達也氏が、
〔「古賀達也の洛中洛外日記」第196話 2007/11/16「大化改新詔」50年移動の理由〕
『しかし、この仮説にも更なる難問があります。それなら何故、藤原宮で出された「改新詔」に他王朝の年号である大化が使用されたのかという疑問です。わたしにはまだわかりませんが、西村秀己さん(古田史学の会全国世話人、向日市)は次のような恐るべき仮説を提起されています。「藤原宮には九州王朝の天子がいた」という仮説です。すなわち、「大化改新詔」は形式的には九州王朝の天子の命令として出されたのではないかという仮説です。』
更に、この記事前段には、『何故「日本書紀」において前王朝の年号である大化が使用されたのか』として、次のように解説している。
『何故『日本書紀』において前王朝の年号である大化が使用されたのか、この疑問です。九州王朝の存在を隠し、その業績を自らのものと改竄するのに、なぜ九州年号「大化」を消さなかったのでしょうか。
以上は、「日本書紀」に記す、「大化○年○月○日」は、孝徳天皇紀年に依るのでなく、
〔696年〔持統即位7年:大化2年〕7月10日、後皇子尊『 高市皇子 { 高市天皇 } 』が薨じた。〕
この記事は、即ち、
この仮説の立場で、次の正木裕氏が投稿の『東国国司詔の 実年代 』をもとに、「高市暗殺の前か・後か」で区別して検討すると、どうなるか?
〔第282話 2010/09/19
孝徳紀「東国国司詔」の新展開〕
『 8). 東国国司詔の実年代(川西市・正木裕)
(1)『書紀』大化元年(六四五)八月の「東国国司招集の詔」の発せられた実年は、九州年号大化元年(六九五)であり、近畿天皇家が、九州王朝により任命されていた国宰の権限を剥奪・縮小し、律令施行に向け新職務を課す主旨。
(2)大化二年(六四六)三月の「東国国司の賞罰詔」は、文武二年・九州年号大化四年(六九八)に、近畿天皇家が、新政権への忠誠度や新職務の執行状況により、国宰を考査し処断・賞罰を行う旨の表明。
(3) 賞罰詔中に記す「去年八月」の詔とは、文武元年八月(六九七)の文武即位の宣命を指し、文武への忠誠と、国法遵守を命じたもので、これを基に賞罰が行われたと考えられる。』
と、正木裕氏は、書かれている。
上記の仮説の暗殺〔696年(持統即位7年:大化2年)7月10日〕以前は、「倭王」高市天皇が九州王朝「倭国」の新都「藤原京」で詔を発したものと、解釈して良い。〕ので、上記の正木裕氏が投稿の『東国国司詔の 実年代 』をもとに、「高市暗殺の前か・後か」で 区別して検討すると、どうなるか?
◇
(1)『書紀』大化元年(645)8月の 「東国国司 招集 の詔」 の発せられた実年は、九州年号大化元年(695)であり、
となって、
上記(1)は、仮説の暗殺〔696年(持統即位7年:大化2年)7月10日〕以前で、「倭王」高市天皇が九州王朝「倭国」の新都「藤原京」で詔を発したものと、解釈して良いことになる。
また、上記(2)は、「倭王」高市天皇を暗殺して以後に、近畿天皇家が、詔を発したものと、解釈して良いことになる。
◇
このことは、
の記事は、全く立場が逆になって、
倭王「高市」は、功を焦って、一挙に劣勢を挽回しょうと、この「逆転ホーマー」を狙ったものと言えよう。
一方のプロト近畿天皇家側は、伊勢王の天下立評、更には、長門以東の天智近江朝の跡を引継いで、評制を施行していたわけで。
倭王「高市」の暗殺后、プロト近畿天皇家が倭国の実権を掌握すると、自らが、以前の倭王「高市」と同じ目線・同じ立場で、この“廃評建郡”を見直しただろう。
「中央集権を徹底の新国家樹立」で、この“廃評建郡”を見た時、非常に良い政策だと判断されたのではないだろうか、更に「国司の抵抗も当初の想定より少ない」と判断されたのではないだろうか。
この“廃評建郡”は倭王「高市」が詔したのでなく、プロト近畿天皇家自身の始祖王・天下立評の「伊勢王(=斉明天皇⇒後に孝徳は桓武が追加?)」の時以降から実施されいた。おまけに、その時にはすでに、筑紫も長門以東も、プロト近畿王家が支配していた。と口裏を合わしたのだ。
だから、〔史実は「天下立評(評制)」経て「プロト大化改新(郡制)」への“廃評建郡”〕だったのだ。
(344) 『源氏物語に玉蔓だっけ、長谷寺のふもとの“椿市”なる所で落合うのってありますよね。現在地名何処だと?』 2011年2月14日(月)
○ 話変わりますが、源氏物語に玉蔓だっけ、長谷寺のふもとの“椿市”なる所で落合うのってありますよね。現在地名何処だと思います?
『円地文子訳(新潮文庫)源氏物語 巻二「玉蔓」』を開いています。この玉蔓で「初瀬」が出る個所を拾ってみましょう。
『p401 ⇒「それにつづいて、御仏の中では大和の初瀬寺の観世音が、日本国中にあらたかな霊験をお示しになると、唐土(もろこし)までも評判されているそうです。まして、遠い辺鄙な所とはいえ、わが国の内で長年過ごしておいでになったことですから、これからはわが姫君にきっとお恵みをかけて下さるでしょう……」
と言って、初瀬に出立おさせ申すことにした。仏に願をかけての参詣なので、殊更に歩いて行くことにきめた。馴れないことで、姫君の御身に切なく辛いけれども、人々のすすめp402るままに、夢中で歩いて行かれる。<略>このようにさし当たって馴れない旅路の難儀も加わって、今更に辛く耐えがたいけれども、ようやく椿市という所に、四日目の巳の時頃に生きた心地もせぬほど疲れて辿り着いた。
宿の主人の僧が、p403<略>実は、そこに泊り合せた客というのは、<略>あの右近なのであった。<略>この初瀬の御寺へ度々詣でるのであった。
○⇒以上を要約すると、
○⇒ありゃま、ということで、
jyoumonjn えっ?行橋の西ではない?今原、中園、宿は徒歩10分程度ですが、うぅん?
ありゃ、私の結論にご不満があるようですが^^「今原、中園、宿」という地名は何処からきています?というか資料の出所ですが?初瀬川と山中川の出合うところに「宿」という地名があるようです。
私の見ている「国土地理院の5万分の1の地図」には、「初瀬川」の東側道路沿いに南から北へ「今原、中園、宿」という集落地名が、二本杉神社の対面に、記入されていますが。行橋の西にも在るとすれば、不思議だし紛らわしいですね。
〔椿市〕
地図は、おっしゃる通りになっています^^ 「宿」のあたりが「椿市」だと思うのですが、さて、どうでしょう?
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