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《 大和朝廷の 「はしり」 は、 「 難波朝廷 ( なにわのみかど=九州王朝「倭国」の難波複都 )」 に始まる 》  即ち、大和朝廷「日本国」 は、九州王朝「倭国」の 【 同じ血族・分流・分家 】 である。


大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 109 》



大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕

《 大和朝廷の 「はしり」 は、ここで言う 「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」 に始まる。
  即ち、大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」【 同じ血族・分流 】 と分かった。 》



 白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、日本全国 長門以東を実効支配したが、その司令官が「両京制」・「兄弟王朝」である 倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 である。
 日本書紀の〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇はこの倭王家 〔分家の弟王家〕 の出身である。
 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権 の禅譲を受け をクーデター「プロト大化の改新」で乗っ取り、倭国連邦の解体・改組してのち成立したのが、奈良の中央集権国家・文武天皇(大宝元年:701年)の大和朝廷『日本国』である。いわば倭王家 〔分家の弟王家〕 はプロト大和朝廷である。


“とうやん”@t0_yan 「つぶやき:twitter」

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2010年 4月 2日 発行




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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』


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(a0118) 【古代の山陽道が他にはない「大路」だった。それは何故か?大宰府と難波副都を「つなぐ補給路」だったから】 2014/2/22(土)





● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
「地図見れました。」⇒グーグル・アース見れたのですね。良かった。
標高が表示されてるとは知りませんでしたので、標高で再確認中です。
古代の山陽道が他にはない「大路」だった。それは何故か?
私は「大宰府」と「難波副都」を「つなぐ道路」だったからと考えています。



● 古代 モサク @qq5r9hrc9
@t0hyan
グーグル・アースの地図は見れてません^^
古代の山陽道は7道の中で唯一大路だと聞いています。
律令の整備とともに山陽道は整備されたありましたが大宝律令646(+50=696)では遅い?
法隆寺607(移設は海と陸併用?)で難波副都完成652ですから。
無視OKです^^



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
『律令の整備と共に山陽道は整備されたとあるが大宝律令では遅いか』 ⇒
大宝律令制定は701年で既に大和朝廷が開闢している。
奈良から7道を造ったのであれば、何も山陽道のみが大路である必要は無い。
『古代の道』で「大陸との交流の窓口大宰府を結ぶ為に」大路だは違うだろう



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
『法隆寺607(移設は海と陸併用?)で難波副都完成652ですから』 ⇒
『法隆寺は移築された:米田良三著』p78に
「618年この頃観世音寺完成する」
又p99に
「679年食封停止ー観世音寺を解体した全ての資材が大和の地に到着したのは685年頃と思われる」
とあります

▼【現在の「2国」は当時の「山陽大路」ではないと言う事か、残念!難波のほとんどが「△1m~+1m」】





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(a0119) 【難波が大和のハシリとは初めて聴く。九州王朝が緊迫したアジア情勢を受け「難波副都」建設がその「ハシリ」 】 2014/2/22(土)





● 古代 モサク @qq5r9hrc9
@t0hyan
難波が大和のハシリという初めて拝聴する説です。
近畿界隈の地図をしげしげと眺めるのは、昔山陽道をチャリで走るとき以来です。目的地は岡山の古墳でしたのでこの辺は走破するだけでした。
賑やかなのですが山と海が近く狭い土地が続くなと感じた記憶があります。地図見れました。



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
「難波が大和のハシリという初めて拝聴する説です。」 ⇒
先ず、これを読んでくれますか。

▼【白雉年間の難波副都建設と評制の創設について:川西市 正木 裕著】



● 古代 モサク @qq5r9hrc9
@t0hyan
ありがとうございます。難しそうですが読ませていただきます。
九州王朝が緊迫したアジア情勢を受け、難波副都建設(後に遷都・天武に禅譲)評制施行。
天武→高市(九州王朝終焉)→持統(大和王朝)故に「難波が大和のハシリ」である。
郡評問題(日本書紀北朝へ顔向け故に「郡」)→



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
『日本書紀』は随所で倭国史の「切り貼り」による改竄をしていますから「ちょっと見」分りづらいですよね。

【『大和朝廷の生い立ちから倭国滅亡迄の歴史的経緯の想定年表』】

表の中の ★印 を追っていただくと良いかと思います。



● 古代 モサク @qq5r9hrc9
@t0hyan
郡評問題(大和朝廷の日本書紀北朝へ顔向け故に「郡」九州王朝は南朝を宗主国とみていた故に「郡」)→
書記の「白村江以降の三四年遡上り」盗用等が、九州王朝としての難波副都建設(大和のハシリ)を裏付ける一つとなる。 理解しきれているわけではありません。スタートです^^



● 古代 モサク @qq5r9hrc9
@t0hyan
訂正です
郡評問題(大和朝廷の日本書紀北朝へ顔向け故に「郡」九州王朝は南朝を宗主国とみていた故に『評』」)→



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
【郡評問題(大和朝廷の日本書紀北朝へ顔向け故に「郡」九州王朝は南朝を宗主国とみていた故に『評』」)】 ⇒
・何を言わんとされてるのしょう?
・意味がー??全然、通じないんですが、、、



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
貴方の言う「郡評問題」って、

【「大化の改新と九州王朝」の・郡評論争】

の事ですよねー?



● 古代 モサク @qq5r9hrc9
@t0hyan
ご紹介頂いたサイトのリンク先に正木氏が
1、日本書紀、白村江以降に見られる「三十四年遡上り現象」について, 古田さんの「壬申の乱」を参照されながら述べておりました。
2、古田さんは「壬申の乱」で井上光貞の郡評問題提起を参照されながら郡評問題を述べておりました。



● 古代 モサク @qq5r9hrc9
@t0hyan
ゆえに、郡評問題提起が淵源となり三十四年遡上りの説等があり、
それらも難波副都(大和ハシリ)説の論証に繋がっていると理解しはじめたのですが・・・ ^^;



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
うーん、混乱してますね。
倭国は直轄地の九州本島は評制を早くから採用していた。
然し、長門以東の吉備国・出雲国・秦国・毛野国等の付属国には自治を認め間接統治だった。
倭国王は唐の高句麗を侵略を知って、中央集権国家をめざし評制施行・難波副都建設を思い立ち実行した。



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
難波副都が完成したのが652年で、その時白雉改元儀式を難波宮で挙行した。
秦王国を除く他の扶養王国はこの「天下立評」に応じている。
そして10年后秦王国は潔しとせず唐へ659年使節を派遣し、倭国からの使節と「鉢合せ」し喧嘩して、双方が唐に拘留される羽目になった。





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(a0120) 【《大和朝廷の生い立ちから倭国滅亡迄の歴史的経緯の想定年表》に大和朝廷の「はしり」は難波副都だ。①~⑪の順路 】 2014/2/23(日)





● 古代 モサク @qq5r9hrc9
@t0hyan

「壬申の乱の大道」

をリンク先で読ませてもらいました。



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
「壬申の乱の大道」を読まれたそうで『壬申大乱:古田武彦著』も「ぜひ」お読みください。

先の「郡評問題」、私の説明が「おそまつ」な為かと思い( ①~⑪順路 )説明を追加しました。

▼【大和朝廷の生い立ちから倭国滅亡迄の歴史的経緯の想定年表】


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
古田武彦氏の意見の

「壬申の乱の大道」が2000年1月22日講演⇒14年前で、

「大化の改新と九州王朝」が1984年編集⇒30年前ですが、

いずれもが新鮮さを失わっていない



● 古代 モサク @qq5r9hrc9
@t0hyan
ありがとうございます。勇気を奮ってコメントさせていただいている次第です。
私が古田さんの壬申の乱から34年遡り説に至るには読むべきものが多々ありそうです。
読んでもなかなか理解できないという基礎知識の欠如に改めて唖然としておりますが疑義や賛意が生じる程度が目途です^^



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
「34年遡上」の画期的な発見になった『壬申大乱:古田武彦著』p59

【「秘密をにぎる鍵」は「丁亥(=ひのとい)」】 です。

『書紀』がどのように倭国史を改竄したか、正木裕氏は「34年遡上」の他にも詳しくは明らかにしてる。



● 古代 モサク @qq5r9hrc9
@t0hyan
年表はとても助かっております。
とんやんフォルダーにURL登録で利用させていただいております^^
西暦・記紀年号・九州年号・干支の様な年号(60年周期のものなのでしょうか)等々色々あるみたいですので
今のところ必要そうな時期だけ追いかけるようにしています^^;アセ




● 道産子詩人 不正選挙堂々の日本に未来な @pikkipikki
@qq5r9hrc9 @t0hyan
リンクありがとうございました。
吉野ヶ里が邪馬台国ではないのだろうか?



● 道産子詩人 不正選挙堂々の日本に未来な @pikkipikki
納得できる推理!吉野ヶ里が邪馬台国では?
植民地同然の日本へと進駐した唐の軍隊が帰ったという記述は『日本書紀』等にはない

▼【壬申の乱の大道ー古田武彦講演 2000年】



● 古代 モサク @qq5r9hrc9
@pikkipikki @t0hyan
三種の神器の出土状況からして考古学的には北九州でしょうか?^^;
ローマ本来の遺跡はローマ市街地の下にあり発掘しきれない。
吉野ヶ里は火山噴火で埋没した地方都市ポンペイスが
ローマの遺跡を推定するのに重宝がられているのと似ていると感じております。



● “ とうやん ” @t0hyan
@pikkipikki @qq5r9hrc9
「吉野ヶ里が邪馬台国ではないのだろうか?」 ⇒
先日テレビで「まぼろしの邪馬台国」吉永小百合さんのやってました。
私が、もう十数年前に書いた頁です

▼【まぼろし の 邪馬壹(≠臺)国 は、どこか?】



● 古代 モサク @qq5r9hrc9
福岡の古墳を調べていたら、このサイトに遭遇^^懐かしかった^^

「古代史再発見第1回 卑弥呼(ひみか)と黒塚ー方法 1998年9月20日(日)」

縄文時代とか弥生時代とかは考古学の人が決めたことだか?
古墳の年代測定に不都合がある??




● “ とうやん ” @t0hyan
大和朝廷 「 日本国 」 は、

【 九州王朝 「 倭国 」 】
の 【 同じ血族・分流 】 と分かった。

▼【《大和朝廷の生い立ちから倭国滅亡迄の歴史的経緯の想定年表》に大和朝廷の 「はしり」 は、 難波副都 だ。①~⑪順路】





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(a0121) 【700年以前の出土木簡は全て「評」である。《なぜ『書紀』は、評を郡と表記改竄せざるを得なかったか?》 】 2014/2/24(月)





● “ とうやん ” @t0hyan

大和朝廷「日本国」は、

九州王朝「倭国」の【同じ血族・分流】と分かった。

《大和朝廷の「はしり」は、九州王朝「倭国」の「難波副都」建設にある。》




● 古代 モサク @qq5r9hrc9
@t0hyan
・「古代史再発見第1回卑弥呼(ひみか)と黒塚ー方法」
・「壬申の乱の大道」
・「大化の改新と九州王朝」
を読ませて頂きました。
木簡発掘以降の郡評問題で書記の郡を評に読み替えるではなく
【なぜ郡と記述しなければならなかったか?】
強烈な書記への疑義提示に遭遇です。



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
「大化の改新」は倭国の筑紫王家の高市天皇が大化2年696年正月に廃評建郡の詔したことにある。
難波副都王家の軽皇太子は3月20日【皇太子使使奏請】で「天下立評」に伴う特権の返納を強いられている。
然し、やはり不満の軽皇太子は7月10日高市天皇暗殺(乙巳の変)する。



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
クーデターが暗殺であった為に、当事者以外に九州王朝「倭国」内においても、筑紫朝廷から大宝元年701年大和朝廷への代替わりに気付かなかったようだ。

「評から郡への変更は、地方の豪族に軍事力を持たせなくするための変更」



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
要するに豊臣秀吉の「刀狩」と同じですね。
天下立評649年時は扶養王国の自治権を取上げ、中央集権国家になったが、交代の各地の評督には軍事力を認めていた。
軽皇太子は【皇太子使使奏請】で長門以東の評制施行の特権を高市天皇へ返納し、
高市天皇を暗殺する事で奪い返した訳。



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
軽皇太子から見れば結果的に長門以東の評制施行の特権は「そのまま」温存されて何ら不満は無かったでしょう。
が、高市天皇がやろうとした「武装解除」は、一理あって「ついでに」あやかったのでしょう。
「天下立評」時の詳しい法律内容は周知でなく、いくらでも誤魔化せた訳です。



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
696年の「(本来あった)大化の改新」を、50年前の646年にあったことにした。
何故50年前なのか?
色々反芻しましたが、正木裕氏の
・倭国の「常色の改革647年」「評制施行の詔649年」と同時期であり、
・新羅の「ひどんの乱647年」と同時期なのが、その理由でしょう。



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
元々は古田武彦氏の『王朝多元史観』で言うように各地には自然発生的にできた王朝があったのだが、
倭国の「天下立評」を【書紀】に明記すれば「難波副都」の建設にも触れざるをえなくなる。
それは思想
【飛鳥に有史以来大和朝廷があって全国を支配してる】
を否定する事になる訳だ。



● 古代 モサク @qq5r9hrc9
@t0hyan
ある意味とても危険は説ですね。
時代が変われば言葉にもできないことかもかもしれません。



● 古代 モサク @qq5r9hrc9
@t0hyan
ひどんの乱を調べていたらとうやんさんのサイトが幾つもヒットしました^^
ソンドク女王・キムユシン等々 新羅三韓統一の前ですね^_^;
いづれにしても645年ごろ何か事件が起こっていた可能性があるのですね。




● 古代 モサク @qq5r9hrc9
@t0hyan
・廃評建郡 696年正月 高市天皇 天下立評 696年3月 高市天皇
書記では大化の改新 646年(大化2年) 改新の詔・国博士
・高市天皇暗殺 696年7月
書記では乙巳の変 645(大化1年)天智天皇蘇我入鹿暗殺
少しマイペースで整理します^^



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
「天下立評 696年3月 高市天皇」⇒この部分は「おかしい」ですね。
正しくは、「皇太子使使奏請 696年3月 軽皇太子」のはずです。

《参照》
▼【『書紀』「大化改新」は「(本来の)大化改新」を五〇年前へ移動したものだ】


◇◇


● 古代 モサク @qq5r9hrc9
@t0hyan
『壬申大乱』古田武彦著 は 図書館に予約申し込みました^^;



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
「『壬申大乱』古田武彦著は図書館に予約」 ⇒
まー読まないより図書館で借りてでも読んだ方が良いですが、少なくとも「古代史」に興味がおありなら、このような名著は買い取って手元に置くべきです。
Amazon中古品で¥1、100+250
然し机は本だらけになるけれども



● 古代 モサク @qq5r9hrc9
@t0hyan
田舎へ引っ越して3年目。ド田舎本屋さんには欲しい本は置いてない^^;コーヒーショップも無ければ、コンビニモ遠い^^;アマゾンは聞いてはいましたがまだ利用をしたことがありましぇん^v^ナハ もし利用するとすれば初体験です^^



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
「初体験です」か、
私も会社務めの帰りに横浜駅西口地下の「有隣堂」に寄って本を買ってましたが、定年後は「もっぱら」アマゾンですね。
せっかく

「ネット」

してるんですから利用しない手はないでしょう。
但し中古品で充分です。




● “ とうやん ” @t0hyan
なにせ1300年前の事ですからね、この自説もあまり自信は無いですね。
ただ隠蔽・改竄してる事は確かですね

▼【2014年2月24日(月)
700年以前の出土木簡は全て「評」である。《なぜ『書紀』は、評を郡と表記改竄せざるを得なかったか?》】





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(a0122) 【高市皇子が住んでいた「難波」と、難波副都王家の孝徳の軽皇太子が住んでいた「難波」とは別物でしょうか? 】 2014/2/25(火)





● 古代 モサク @qq5r9hrc9
@t0hyan
高市天皇が住まわれていた「難波(九州大宰府からの遷都後の都城)」と
難波副都王家の軽皇太子の住まわれていた「難波」は別物なのでしょうか?




● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
壬申の乱で長門以東天智近江朝に戦勝し、
九州王朝「倭国」を再統合した明日香皇子の薩夜麻が即位した
【プロト飛鳥浄御原宮跡】

一方、
【『書紀』大海人皇子の天武天皇の飛鳥浄御原宮跡】



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9

筑紫倭王家は筑紫大地震678年を契機に、684年頃迄に近畿の (定説の)難波宮 へ遷都する。

遷都后も束の間、今度は白鳳地震684年に遭遇。
更に、686年難波宮が炎上する。
筑紫倭王家は大海人皇子の飛鳥浄御原宮へ身を寄せる



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
つまり、筑紫倭王家は難波副都王家の飛鳥浄御原宮に間借り同居します。
筑紫倭王家の高市天皇690即位は自前の宮を欲し建設します。

それが 藤原宮 です。

694年の暮れに遷都、695年「大化」改元、696年「大化改新」、暗殺



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9

難波副都の652年当時の宮がどこか、定説は 難波宮 ですが、

私は 尼崎市難波付近 と想定しています。

難波副都の天智天皇は白村江敗戦で、
筑紫都督府の唐占領軍を警戒し近江へ遷都します



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
難波副都の天智天皇・近江朝「日本国」は、倭国再統合戦の「壬申の乱」で、同じ難波副都の大海人皇子に乗っ取られます。
乱後、大海人皇子は飛鳥浄御原宮に遷都します。
ここで、注意してほしいのは『書紀』がいう天武天皇・飛鳥浄御原宮は「九州と近畿」に同名のものがある事です



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
「高市天皇が住まわれていた「難波(九州大宰府からの遷都後の都城)」と難波副都王家の軽皇太子の住まわれていた「難波」は別物なのでしょうか?」 ⇒
高市天皇の難波宮は684年当時であり、
(㊟孝徳天皇としての)軽皇太子の住まわれていた「難波」は652年当時のものです。



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
『書紀』に記載の軽皇子は二人いる

「軽皇子(かるのおうじ)」とは孝徳天皇と言う説があるが、

「軽皇子(かるのみこ)」《魚拓》が、文武天皇のことを言ってるのが正しいのは明らかである。




● 古代 モサク @qq5r9hrc9
@t0hyan
混乱しながらではありますが理解に努めます
652倭国常色王(甘木王)の時 難波副都建設(これが倭王弟王家)
662白村江敗戦 倭王薩夜麻唐の捕虜
663白村江敗戦後、天智天皇(倭王弟王家)近江へ遷都(近江朝660年後半?)
倭王弟王家の政権統一
672天智天皇崩御 
壬申の乱 明日香皇子(筑紫君夜麻唐=天武天皇?)即位
九州倭王家の政権奪取
飛鳥浄御原宮(九州?奈良?)へ遷都
678筑紫大地震
684頃までに 難波へ遷都
684白鳳地震(近畿地方)
686難波宮炎上 大海人皇子(天武天皇)飛鳥浄御原宮(奈良?倭王弟王家)に間借り ※ 大海人皇子(天武天皇)の即位はいつ?
690(?)天武天皇崩御?
690高市天皇即位 「飛鳥浄御原宮(奈良?倭王弟王家)に間借り」
694高市天皇 藤原宮へ遷都
695大化改元
696高市天皇暗殺
697文武天皇(軽皇子)即位
701(大宝1)大宝律令

教科書的、天武天皇の在位は672壬申の乱~686
明日香皇子(筑紫君薩夜麻=天武天皇?)は672に即位で
都城は飛鳥浄御原宮(筑紫?奈良?)
退位年は?
大海人皇子(天武天皇)の即位年は?(退位は690?)
これから更に読み込んでゆきます


◇◇


● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
うーん、この

▼【「倭国」・主都大宰府:副都難波対比年表】 .xlsx ファイル

▼【「倭国」・主都大宰府:副都難波対比年表】 .pdf ファイル

を見てくれませんか、
明日香皇子(筑紫君夜麻唐=天武天皇)の白鳳王は白鳳元年661年に即位、
即位してすぐ白村江へ出征、唐に拘束されて671年帰国、673年に復位・大嘗祭



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
白鳳地震は684年末ですが、九州年号は朱雀元年でもあります。
と言う事は684年暮れに白鳳地震が襲い、その直後に白鳳王薩夜麻が崩御し、
直ぐに、大海人皇子が倭王朱雀王に即位した。
686年難波宮焼失で、浄御原宮間借再遷都「朱鳥」改元。
朱雀倭王天武(大海人)天皇崩御



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
なお、朱雀王位はそのまま薩夜麻が在位だったとも受取れますが、
次の軽皇子が「皇太子使使奏請696年3月」で軽皇太子だった、ことから
彼の父親の大海人皇子が倭王朱雀王の帝位に即位していた。
それ故に、『書紀』は(薩夜麻&大海人)の天武天皇が686年崩御してる訳です。



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
つまり『書紀』は九州王朝「倭国」の白鳳王・朱雀王の時代を、
天智天皇・天武天皇の時代だと言う訳で
「倭国」の白鳳王を抹殺してる訳です。
次の686年朱鳥改元、筑紫王家の高市天皇の王位継承はままならず
両王家が承認し即位が690年。
694年遷都、翌年大化改元、翌年暗殺



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
『書紀』は九州王朝「倭国」の白鳳王を抹殺してる訳ですが、白鳳王薩夜麻の皇子の高市天皇の代も、高市の皇子の長屋王宅出土木簡に『長屋親王宮鮑大贄十編』と「親王」あって父親が天皇だったと分ります。
文武の祖母で大海人皇子の皇后「持統天皇」に置換え抹殺している訳です。



● 古代 モサク @qq5r9hrc9
@t0hyan
『「倭国」・主都大宰府:副都難波対比年表』
を拝見しながら追いかけております。ご丁寧にありがとうございます。理解できているとはトテモ言えませんだ、
これから読む書籍等の理解の度合いが大きくUPされる気がいたします。ありがとうございます。



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
この「対比年表」ちょうど、2年前作ったまゝ見直していなかったのですが、よく見ると直した方が良いと思った箇所が有ってPDFファイルでもアップしました。こちらが修正後です

▼【「倭国」・主都大宰府:副都難波対比年表】.pdfファイル



● 古代 モサク @qq5r9hrc9
@t0hyan
ありがとうございます。
私程度のレベルには・西暦・九州年号・大和年号(天皇紀)・書紀にでている年号・干支(60年周期でしょうか?)これらが一覧になっているのは、非常にありがたいです。
明日にでもプリントアウトして利用させていただきます。
感謝です^v^




● ジョウモンマン【晴読雨読の生活が第一】 @jyoumonjn

▼【難波宮跡の柱「7世紀前半」…新手法で年代特定 -】《魚拓》




《関連する頁》

▼【2011年4月17日(日)
壬申乱で長門以東天智近江朝に戦勝し、九州王朝「倭国」を再統合の薩夜麻が即位した〔プロト飛鳥浄御原宮〕】

▼【2011年4月23日(土)
「古田史学会報no103」『「筑紫なる飛鳥宮」を探る:正木裕氏投稿』抜粋引用・転載します】

▼【2013年3月1日(金)
続3)「葛城→蘇我→秦国」のトライアングルの中に埋まって、「蘇我=葛城」ではなく、「倭国=蘇我」??】

▼【2013年2月8日(金)
「リブログ」をすることで、改めて、《 日出島哲雄著 : 天武天皇は二人いた。 》を詳しく読み直しました。】





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(a0123) 【「倭国」は696年《滅亡したのでなく、同じ王朝内で実権が「筑紫朝廷」から「大和朝廷」へ移った》だけです】 2014/2/26(水)





● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
なお、朱雀王位はそのまま薩夜麻が在位だったとも受取れますが、
次の軽皇子が「皇太子使使奏請696年3月」で軽皇太子だった、ことから
彼の祖父 x父親x の大海人皇子が倭王朱雀王の帝位に即位していた。
それ故に、『書紀』は(薩夜麻&大海人)の天武天皇が686年崩御してる訳です。




● 古代 モサク @qq5r9hrc9
@t0hyan
年号が代るということは支配者が変わった可能性が高いということですね。
最近では昭和から平成(昭和64=平成元年)がありましたから納得できます。
郡評から書紀700年以前への疑義、書紀遡り記述、大化年は九州年号を遡らせてそのまま使用。
隠すべき必要があったのですね。



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
「年号が代るということは支配者が変わった可能性が高いということですね」 ⇒
そうです。九州年号の場合はプラスの宮都が変わる遷都の場合も変わっているようです。
例えば「難波副都」が完成した時の「白雉改元儀式652年」
あるいは「藤原京695年」完成で「大化」改元です。



● 古代 モサク @qq5r9hrc9
@t0hyan
唐(北朝)の台頭、朝鮮半島激動を受けて難波副都建設。
倭国(南朝側)の白鳳時代も激動(白村江敗戦倭王拘束・帰国、敗戦処理、地震、遷都)その中で難波副都が実質にな力をもった。
645年当時は新羅の乱が影響?
素朴な期待ですが天皇家から歴史的資料等が開示され日がくる?^^



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
「645年当時は新羅の乱が影響?」 ⇒
と言うより「唐の高宗が高句麗を攻撃」でしょう。
百済・新羅・九州王朝「倭国」も

『倭国王子「弾正尹・為尊親王」の「唐への冊封拒否事件632年」』

以来で「来るものが来た」と感じたはず



● 古代 モサク @qq5r9hrc9
@t0hyan
ムムム@@ 高市天皇が倭王家最後の王ではない可能性が大ということですね。



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
「高市天皇が倭王家最後の王ではない」 ⇒

▼【「倭国」・主都大宰府:副都難波対比年表】

に、696年「倭国滅亡」と記載してるのですが、
九州王朝「倭国」は「滅亡したのでなく、実権が筑紫朝廷から大和朝廷へ移った」という事です



● 古代 モサク @qq5r9hrc9
@t0hyan
海を隔てている割にはお隣さんっぽい情報の伝わり方ですね^^;
源氏物語の光源氏らも舞台は筑紫の可能性が高いとはビックリです。
倭国の王子等が唐の使いの者に倭国で殺害されて、使いの者をそのまま無事に帰国させる!
これが鎌倉時代の北条氏だったらそのままは帰さなかったでしょう



● 古代 モサク @qq5r9hrc9
@t0hyan
ある意味、この時代は鎌倉時代よりも外交感覚が高かったのでしょうか?
これから図書館へ行きます^^
予約していた書籍が受け取れそうですので^^;
アマゾンで買うかどうかは読んでから決めます。ありがとうございます。




● “ とうやん ” @t0hyan

大和朝廷の「はしり」は、ここで言う
「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」に始まる。

▼【「倭国」は696年《滅亡したのでなく、
同じ王朝内で実権が「筑紫朝廷」から「大和朝廷」へ移った》だけです】



● “ とうやん ” @t0hyan
大和朝廷の「はしり」は、「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」に始まる。
⇒ 即ち、大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」の【同じ血族・分流】と分かった。
⇒ 言換えると、九州王朝「倭国」の【同じ血族・分流】の大和朝廷「日本国」
⇒ 九州王朝「倭国」の大和朝廷「日本国」  あんれッ??



● “ とうやん ” @t0hyan
暗殺事件「(本来の)乙巳の変696年7月10日」は、
新都「藤原宮」で「(本来の)大化の改新696年」最中に起こった。

▼【 《九州王朝「倭国」は滅亡したのでなく同じ王朝内での実権が
「筑紫朝廷」武市天皇から「大和朝廷」文武天皇へ移った》だけです】





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(a0124) 【世界わが心の旅 スコットランド 響き合うアイヌの心 】 2014/2/28(金)





● 道産子詩人 不正選挙堂々の日本に未来な @pikkipikki
熊祭りの映像は生まれて初めて観た!
野蛮だと言われてまだ禁止されたままなのか?



● 道産子詩人 不正選挙堂々の日本に未来な @pikkipikki
魔よけ以外にも、縄紋にもこんなに深い意味があったとは・・
まさにアイヌ民族は日本列島の先住民の縄文時代を最も受け継いだのがアイヌ文化と痛感した。

▼【世界わが心の旅 スコットランド 響き合うアイヌの心(1)】

▼【世界わが心の旅 スコットランド 響き合うアイヌの心(2)】

▼【世界わが心の旅 スコットランド 響き合うアイヌの心(3)】

▼【「アイヌとして生きる」(1)】

▼【あるダムの履歴書:二風谷ダム(1)】

▼【アイヌモシリ ~アイヌ民族の誇り~】





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(a0125) 【後の戦国時代「下剋上」で、分家が主家を「暗殺」で乗っ取るといった事は「しょっちゅう」あった事である。】 2014/3/1(土)





● “ とうやん ” @t0hyan

大和朝廷の「はしり」は、ここで言う 「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」に始まる。

【「倭国」は696年《滅亡したのでなく、
同じ王朝内の実権が「筑紫朝廷」から「大和朝廷」へ移った》
だけです。】



● “ とうやん ” @t0hyan
大和朝廷の「はしり」は、ここで言う「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」に始まる。
⇒ 即ち、大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」の【同じ血族・分流】と分かった。
⇒ 言換えると、九州王朝「倭国」の【同じ血族・分流】の大和朝廷「日本国」
⇒ 九州王朝「倭国」の大和朝廷「日本国」??




● “ とうやん ” @t0hyan
大和朝廷の「はしり」は、「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」に始まる。
⇒ 即ち、大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」の【同じ血族・分流】と分かった。
⇒ 言換えると、九州王朝「倭国」の【同じ血族・分流】の大和朝廷「日本国」
⇒ 九州王朝「倭国」の大和朝廷「日本国」 あんれッ??




● “ とうやん ” @t0hyan
暗殺事件「(本来の)乙巳の変696年7月10日」は新都「藤原宮」で「(本来の)大化の改新696年」最中に起こった。

【《九州王朝「倭国」は滅亡したのでなく、
同じ王朝内の実権が「筑紫朝廷」武市天皇から「大和朝廷」文武天皇へ移った》
だけです。】



● “ とうやん ” @t0hyan
暗殺事件「696年7月10日」は新都「藤原宮」で「大化の改新696年」最中に起こった。
九州王朝「倭国」は滅亡したのでなく同じ王朝内の実権が

「筑紫朝廷」武市天皇 から

「大和朝廷」文武天皇 へ移った。



● “ とうやん ” @t0hyan
九州王朝「倭国」は滅亡したのでなく同じ王朝内の実権が

主家「筑紫朝廷」武市天皇 から

分家「大和朝廷」文武天皇 へ移ったが、

同時に、とりわけ唐に対する国名を「倭国」から「日本国」へ改名したのである。



● “ とうやん ” @t0hyan
九州王朝「倭国」は滅亡したのでなく同じ王朝内の実権が

主家「筑紫朝廷」武市天皇 を暗殺する事で

分家「大和朝廷」文武天皇 へ移ったが、

同時に、取分け唐に対する国名を「倭国」から「日本国」へ改名した。




● “ とうやん ” @t0hyan
『日本書紀』が変に隠すから分らなかっただけで、
後の戦国時代「下剋上」で、分家が主家を乗っ取るといった事は「しょっちゅう」あった事で「別に驚くに値しない」。

《九州王朝「倭国」は滅亡したのでなく同じ王朝内の実権が「筑紫朝廷」武市天皇から「大和朝廷」文武天皇へ移った》
だけである。



● “ とうやん ” @t0hyan
《九州王朝「倭国」は滅亡したのでなく同じ王朝内の実権が「筑紫朝廷」武市天皇から「大和朝廷」文武天皇へ移った》 だけである。

▼【 後(のち)の戦国時代「下剋上」で、
分家が主家を「暗殺」で乗っ取るといった事は「しょっちゅう」あった事である。】



● “ とうやん ” @t0hyan
詳細は

【大和朝廷「日本国」出生秘話《つぶやき:「古代」目次編 a》

を読んで戴くとして、
「乗っ取り」に至るまでの経緯はこれで分かるよね ^^

『大和朝廷の生い立ちから倭国滅亡迄の歴史的経緯の想定年表』





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(a0126) 【「大化の改新」詔696年を、50年前646年に「切り貼り」した。それにしても、何故そんなことを敢えてしたのか 】 2014/3/2(日)





● “ とうやん ” @t0hyan
広大の西別府教授の指摘

『大宝律令の実施まで郡が設置されていないのに、
改新の詔で郡の設置が書かれている事は、

「改新の詔があとから書き換えられた」ものであるという事になる。』


 「書換えた」のでなく、「696年の詔が」50年前にそっくり移されたと考える(べきである)。



● “ とうやん ” @t0hyan
696年「大化の改新」詔を、50年前の646年にそっくり「カット&ペースト(切り貼り)」したと分かる。
それにしても、何故そんな事を敢えてしたのだろうか?
思うに、分家「大和朝廷」文武天皇の主家「筑紫朝廷」武市天皇暗殺を隠す為だけなら、
何もそこまで手の込んだ事せずとも良かろう思うのだ。



● “ とうやん ” @t0hyan
分家「大和朝廷」軽皇太子の主家「筑紫朝廷」武市天皇暗殺は「周囲には」病死と報告され、
それ故に暗殺の首謀者の軽皇太子が、何食わぬ顔で次の文武天皇に即位できた。
暴露しそうな「筑紫朝廷」側(の下手人)の丹比真人嶋、安倍朝臣御主人、大伴宿禰御行の3人も既にあの世だから、
「そっと」してれば済む事なのだ。



● “ とうやん ” @t0hyan
初回遣唐使派遣は付属国の倭国王が文武天皇に代わったので宗主国唐へ報告したのだろう。
だからと言って国名まで「日本国」と変える必要はない。
どう見ても、

『632年王子「為尊親王」が「唐への冊封を拒否した事件」』

が関わってるとしか思えないのだ。



● “ とうやん ” @t0hyan
この冊封拒否事件が

『「日本書紀」七二〇年編纂完了後、唐朝では国史編纂資料中から、倭国史五十四年分が抜き取られたのである』

と続く。唐の高宗は白鳳倭王薩夜麻を気に入ってた節があるが、
則天武后ら周囲は冊封拒否した「倭国」を許さなかったのだろう。



● “ とうやん ” @t0hyan
初回の遣唐使派遣時には百済・高句麗は唐に討伐され既に滅亡していた。
然るに「倭国」だけは生き伸びてるではないか。
【冊封拒否した「倭国」を許しては他の冊封国に示しが付かない】と思い、

則天武后らは「倭国」名を「日本国」名に改名させ、
更に「倭国」を全ての史書から抹殺せよと指示した事だろう。





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(a0127) 【旧唐書「長安三年」記事の前にある「日本國は倭國の別種なりー略ー」云々こそ「長安三年」の交渉経緯だろう】 2014/3/5(水)





● “ とうやん ” @t0hyan
初回の遣唐使派遣時には百済・高句麗は唐に討伐され既に滅亡していた。
然るに「倭国」だけは生き伸びてるではないか。
【冊封拒否した「倭国」を許しては他の冊封国に示しが付かない】と思い、

則天武后らは「倭国」名を「日本国」名に改名させ、
更に「倭国」を全ての史書から抹殺せよと指示した事だろう。




● “ とうやん ” @t0hyan

いやー、(上記、前回までの)この考え

『則天武后らは「倭国」名を「日本国」名に改名させ、更に「倭国」を全ての史書から抹殺せよと指示』
 ⇒ は違ってるな。

冊封拒否の「倭国」名では何かと「まずい」と察知してた大和朝廷側から、
国王交代時に先に「倭国」名を「日本国」名に改名しますと則天武后らに告げたの方が正しい。



● “ とうやん ” @t0hyan

要するに、

【632年王子「為尊親王」が「唐への冊封を拒否した事件」】
以来の

・「冊封拒否(=独立・対等外交方針)」の「倭国」から、
・「冊封受入(=保護・恭順外交方針)」の「日本国」へと大転換したのだ。

それにしても、新国名が「日本国」とはな!



● “ とうやん ” @t0hyan

【「日本書紀」七二〇年編纂完了後、唐朝では国史編纂資料中から、
倭国史五十四年分が抜き取られた】
 ⇒

為に、

・大海人皇子の朱雀王即位684年、
・高市皇子の高市天皇即位690年の際に

遣唐使が派遣されたか定かではないが、
きっと、派遣しなかったのだろう。



● “ とうやん ” @t0hyan

国王交代の初回遣唐使派遣時「やりとり」を想像するに、

「倭国」名を「日本国」名への改名を伝えた直後に、
倭国では先に朱雀王・高市天皇が即位したと伝え聞くが、その際何故我が唐朝へ報告しなかったかと詰問されたはずだ。

「大和朝廷」文武天皇が「筑紫朝廷」高市天皇を暗殺したからとは(決して)言えないよ。



● “ とうやん ” @t0hyan

新唐書《魚拓》

咸亨元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。

後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を憎み、日本と改号した。
使者が自ら言うには、国は日の出ずる所に近いので、国名と為した。

あるいは、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すともいう。



● “ とうやん ” @t0hyan

旧唐書《魚拓》

日本國は倭國の別種なり。

其の國、以って日辺に在り。故に日本を以って名と爲す。或は曰う、倭國自ら其の名の雅ならざるをにくみ改めて日本と爲すと。

或は云う、日本はもと小國にして倭國の地を併せたりと。其の人、入朝する者は多く自ら矜大にして



● “ とうやん ” @t0hyan

『三國史記』
〔三国史記新羅本紀文武王10年670天智9年に
「倭国更えて日本と号す。自ら言う日出づる所に近しと以って名と為す。」〕

新唐書には咸亨元年(670年)とあるが、旧唐書には記載が無い。
新旧の唐書を較べてみると、混乱ぶりが分かる。



● “ とうやん ” @t0hyan

上記「三国史記新羅本紀文武王10年670天智9年」のあとに、

新唐書「咸亨元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。ー略ー倭名を憎み、日本と改号した。
使者が自ら言うには、国は日の出ずる所に近いので、国名と為した」

x記事に繋がって、天智近江朝使者は新羅に報告後、その足で唐を訪れたと分かる。x



● “ とうやん ” @t0hyan

然し、この天智近江朝「日本国」は倭国再統合戦の「壬申の乱672年」で残念ながら滅亡してしまいます。

旧唐書 に、新唐書の「咸亨元年(670年)が記載されていないのは、

旧唐書の次の「長安三年、其の大臣朝臣眞人、來りて方物を貢ず」の露払いなのだ。


◇◇


● “ とうやん ” ‏@t0hyan 3月5日
而も「其の國以って日辺(=南)に在り」と言う。

旧唐書
『長安三年、其の大臣朝臣眞人來りて方物を貢ず。ー略ー』
⇒ この「長安三年」記事には具体的な交渉を書いていない。

その前にある「日本國は倭國の別種なりー略ー」こそ「長安三年」の交渉経緯だろう。



● “ とうやん ” ‏@t0hyan 3月5日

意味が反対

新唐書《魚拓》
「日本乃小國、為倭所并、故冒其號(日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すともいう)」

旧唐書《魚拓》
「日本舊小國、併倭國之地(日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという)」



● “ とうやん ” ‏@t0hyan 3月5日

方位が違う

新唐書《魚拓》
「國近日所出、以為名(国は陽の出ずる東の所に近いので、国名と為した)」

旧唐書《魚拓》
「以其國在日邊、故以日本為名(その国は陽あたりの良い南の場所に在るを以て、故に日本と名づけた)」




● “ とうやん ” ‏@t0hyan 3月6日

なんで?「こんな混乱が生じたのか」は

【「日本書紀」七二〇年編纂完了後、唐朝では国史編纂資料中から、
倭国史五十四年分が抜き取られた】

で言う通りだろう。

なお、
【『唐会要』倭国・日本国伝】《魚拓》
を紹介する



● “ とうやん ” ‏@t0hyan 3月6日

この【『唐会要』倭国・日本国伝】《魚拓》

【貞観十五年(641年)十一月。使者が到着。
ー略ー 表仁には慎みと遠慮の才覚がなく、王と礼式で争い、
朝命を宣下もせずに帰還した。ここに再び通交が途絶えた。】

で「貞觀十五年十一月」と記すが、 ⇒ これは「貞觀五年十一月」の間違い(だろう)。



● “ とうやん ” ‏@t0hyan 3月6日

この『唐会要』を読むと

・【咸享元年(670年)三月、(倭国の)遣使が高句麗平定を祝賀。】と、
・【以後は続いて朝貢に来る。】と、

・【則天武后の時、】は時期が明らかに違う。

⇒ 先に『新唐書』だけを読んで

『記事に繋がって、天智近江朝使者は新羅に報告後、その足で唐を訪れたと分かる』 との推理は間違い(だったと分かる)。



● “ とうやん ” ‏@t0hyan 3月6日
この『唐会要』を読むと

①【咸享元年(670年)三月、(倭国の)遣使が高句麗平定を祝賀。】と、
②【以後は続いて朝貢に来る。】と、
③【則天武后の時、】の①②③は、「時期」が明らかに違う。

これと同様『旧唐書』『新唐書』にも、時代の異なる記事が「混じり合って」記載されていると解釈できる。



● “ とうやん ” ‏@t0hyan 3月6日
くどいが、『唐会要』①②③を、

『新唐書』は
【咸亨元年(670年)遣使が高麗平定を祝賀。
後にやや漢語を習得し倭名を憎み日本と改号した。
使者が自ら言うには「国は日の出ずる所に近い」ので国名と為した。
あるいは日本は小国で倭に併合された故に、その号を冒すともいう】

と同時期の1文表記してる



● “ とうやん ” ‏@t0hyan 3月6日

http://blogs.yahoo.co.jp/waikoku/54241599.html

百済本紀は「安羅の王安」と「日本の天皇」が同じという。
韓半島の最南端「日辺に在る」安羅が日本府を号したを『旧唐書』が記載し、

近江朝天智天皇が新羅に『倭国更えて日本と号す。
自ら言う「日出づる所に近し」と以って名と為す』を『新唐書』が記載



● “ とうやん ” ‏@t0hyan 3月6日
韓半島の最南端「日辺に在る」安羅が日本府を号したを『旧唐書』が記載。
百済や新羅に北から侵略され辛うじて倭人の安羅が日本府を守っていたが、
たぶん533年頃に半島から倭人はオン出された訳だ。
この時、筑紫朝廷に保護され、この安羅の係累が近江朝「日本国」、大和朝廷「日本国」の基となった。



● “ とうやん ” ‏@t0hyan 3月6日
「日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すともいう」とは、
韓半島の最南端「日辺に在る」安羅が日本府を号したが、この安羅のことだ

http://blogs.yahoo.co.jp/waikoku/54241641.html

【旧唐書「長安三年」記事の前にある「日本國は倭國の別種なりー略ー」
云々こそ「長安三年」の交渉経緯だろう】





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(a0128) 【『旧唐書』『新唐書』唐会要』一見「もっともらしい」が、その実、中身を詳しく見てみると、てんでバラバラ 】 2014/3/6(木)





● “ とうやん ” ‏@t0hyan 3月6日
「日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すともいう」とは、韓半島の最南端「日辺に在る」
安羅が日本府を号したが、この安羅のことだ

http://blogs.yahoo.co.jp/waikoku/54241641.html
▼【旧唐書「長安三年」記事の前にある「日本國は倭國の別種なりー略ー」
云々こそ「長安三年」の交渉経緯だろう】




● “ とうやん ” @t0hyan

『新唐書』日本伝

咸亨元年、遣使賀平高麗。後稍習夏音、惡倭名、更號日本。使者自言、國近日所出、以為名。或云日本乃小國、為倭所并、故冒其號。使者不以情、故疑焉。又妄夸其國都方數千里、南、西盡海、東、北限大山、其外即毛人云。



● “ とうやん ” @t0hyan

和訳:

咸亨元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。

後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を憎み、日本と改号した。
使者が自ら言うには、国は日の出ずる所に近いので、国名と為した。

あるいは、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すともいう。
使者には情実がない故にこれを疑う。

またその国都は四方数千里だと妄りに誇る、南と西は海に尽き、東と北は大山が限界となり、その外は、すなわち毛人という。



●“ とうやん ” ‏@t0hyan 3月7日

【冒す】おか・す〔をかす〕[動サ五(四)]《「犯す」と同語源》

①危険や困難を覚悟のうえで、あえてする。「風波を―・して出港する」
②聖域・尊厳などを汚し傷つける。「神聖にして―・すべからず」
③他家の姓を名のる。「養家の姓を―・す」



● “ とうやん ” ‏@t0hyan 3月7日
【あるいは日本は小国で倭に併合された故に「その号を冒す」ともいう】⇒「その号を冒す」とは、

⇒③他家の姓を名のる。「養家の姓を―・す」

⇒韓半島の最南端「日辺に在る」安羅が日本府を号したが、百済・新羅に国土を侵略され、倭国の筑紫朝廷に避難した。

⇒即ち、安羅の日本府を襲名したのだ。



● “ とうやん ” @t0hyan

「おさらい」する。

意味が反対

・新唐書「日本乃小國、為倭所并、故冒其號(日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すともいう)」

・旧唐書「日本舊小國、併倭國之地(日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという)」



● “ とうやん ” @t0hyan

「おさらい」する。

方位が違う

・新唐書「國近日所出、以為名(国は陽の出ずる東の所に近いので、国名と為した)」

・旧唐書「以其國在日邊、故以日本為名(その国は陽あたりの良い南の場所に在るを以て、故に日本と名づけた)」



● “ とうやん ” @t0hyan

【『唐会要』倭国・日本国伝】《魚拓》
に至っては悲惨である。 

◆咸享元年(670年)ー略ーその国は日の出る所に近い。故に日本国と号する。

◆日本。倭国の別種である。その国は日辺に在る故に、日本国を以て名と為した。

記載行がずれると全く別の事を記す。



● “ とうやん ” @t0hyan

思うに、今日の読者は「日本」「日本国」に対して、

・新唐書の【國近日所出、以為名(国は陽の出ずる東の所に近いので、国名と為した)】
をすんなり理解し、受取ってるだろう。

然し、
・旧唐書の【その国は「日辺(=陽あたりの良い南の場所)」に在るを以て、故に日本と名づけた。】

が本来の意味なのである。



● “ とうやん ” @t0hyan

青木英利氏は

▼【「日本書紀」七二〇年編纂完了後、唐朝では国史編纂資料中から、倭国史五十四年分が抜き取られた】

の中で、

「「旧唐書」の倭国伝・日本国伝は、「唐会要」の「倭国伝」・「日本国伝」が種本で、さらに、大本は「会要」」 だと言ってる。



● “ とうやん ” @t0hyan

『旧唐書』『新唐書』唐会要』の一見「もっともらしい」記事になってるが、その実、中身を詳しく見てみると、てんでバラバラなのが分かる。
何故こんな「出鱈目」な記事になったのだろうか。

唐朝が倭国史五十四年分抜き取り後、遺された断片の記事を(編纂史官が考えあぐねながらも)つなぎ合せたからだろう。

逆に全てを繋げば良いのだ。





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(a0129) 【安羅「日本府」、天智近江朝独立宣言「倭国更えて日本と号す」、大和朝廷「日本国」恭順宣言が「一緒くた」 】 2014/3/7(金)



《ご注意》文字化けがひどい‼︎



● “ とうやん ” @t0hyan

唐朝が倭国史五十四年分抜き取り後、
遺された断片の記事を(編纂史官が考えあぐねながらも)つなぎ合せたからだ。

▼【2014年3月6日(木)
『旧唐書』『新唐書』唐会要』一見「もっともらしい」が、その実、中身を詳しく見てみると、てんでバラバラ】




● “ とうやん ” @t0hyan

【『唐会要』倭国・日本国伝】《魚拓》

咸享元年三月。遣使賀平高麗。爾後繼來朝貢。則天時。自言其國近日所出。故號日本國。蓋惡其名不雅而改之。

― ― ―

《唐会要◆孀侊�鞠(670年)三月。遣使が高句麗平定を祝賀。

《唐会要》以後は続いて朝貢に来る。則天武后の時(703年)、自ら言うには、その国は「近日所出(=陽の出ずる東の所に近い)」ので、故に日本国と号する。思うに、その名が雅でないことを憎み、これを改名したのであろう。




日本。倭國之別種。以其國在日邊。故以日本國為名。或以倭國自惡其名不雅。改為日本。或云日本舊小國。呑併倭國之地。其人入朝者。多自矜大。不以實對。故中國疑焉。

― ― ―

《唐会要 嫺鐱棔O噌颪諒娘錣任△襦その国は「日辺(=陽あたりの良い南の場所)」に在る故に、日本国を以て名と為した。

《唐会要》あるいは倭国は自らの名が雅ではないことを憎み、日本に改名した、
あるいは日本は昔は小国だったが、倭国の地を併呑したという。そこの人が入朝したが、多くは自惚れが強く、不実な対応だったので、中国はこれを疑う。



● “ とうやん ” @t0hyan

『旧唐書』倭国・日本国伝《魚拓》

日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山為限、山外即毛人之國。

― ― ―

《旧唐書 嫺鐱楾颪蓮∀噌颪諒娘錣覆蝓 その国は「日辺(=陽あたりの良い南の場所)」に在るを以て、故に日本と名づけた。 あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。

《旧唐書》あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う。

《旧唐書》また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。



● “ とうやん ” @t0hyan

『新唐書』日本伝《魚拓》

咸亨元年、遣使賀平高麗。後稍習夏音、惡倭名、更號日本。使者自言、國近日所出、以為名。或云日本乃小國、為倭所并、故冒其號。使者不以情、故疑焉。又妄夸其國都方數千里、南、西盡海、東、北限大山、其外即毛人云。

― ― ―

《新唐書◆孀侊鋐鞠(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。

後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を憎み、日本と改号した。
使者が自ら言うには、国は「近日所出(=陽の出ずる東の所に近い)」ので、国名と為した。

《新唐書 佞△襪い蓮日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すともいう。
使者には情実がない故にこれを疑う。

またその国都は四方数千里だと妄りに誇る、南と西は海に尽き、東と北は大山が限界となり、その外は、すなわち毛人という。



● “ とうやん ” @t0hyan

「三國史記・卷第六・新羅本紀第六・文武王・上・(原文)」《魚拓》 文武王10年670天智9年「十二月・土星入月・倭國更號日本・自言近日所出以爲名」

― ― ―

《新羅本紀◆奸婿姐饂傍新羅本紀文武王10年670天智9年に「倭国更えて日本と号す。自ら言う日出づる所に近しと以って名と為す。」〕



● “ とうやん ” @t0hyan
http://blogs.yahoo.co.jp/waikoku/54241351.html
《日本書紀 531年(継体25年)「太歳辛亥の3月軍進みて安羅に至り、乞乇城を営む。この月高麗、其の王安を殺す。 (同じ内容の事を) 又聞く日本の天皇及び太子・皇子、俱に崩薨りましぬ」。





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(a0130) 【唐会要・旧唐書・新唐書の記事がどのように混乱してるか、①②③時代区分して「切り貼り」し並べ替えてみた】 2014/3/9(日)





● “ とうやん ” @t0hyan

(ようするに、)

530年代)韓半島の最南端「日辺に在る」安羅が「日本府」を号した「日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒す(=襲名する)ともいう」

◆670年)新羅本紀文武王10年、天智近江朝独立宣言「倭国更えて日本と号す。自ら言う日出づる所に近しと以って名と為す」

(703年)「倭国」筑紫朝廷から、x「倭国」x大和朝廷「日本国」

(この ↓◆↓)が、「一緒くた」なのだ。



● “ とうやん ” @t0hyan
著名な古代史家と言えども、「このこと」を指摘した方は少ない。
ひどい方は「倭国」の筑紫朝廷が670年「日本」を宣言したとさえ言う。

▼【安羅「日本府」、天智近江朝独立宣言「倭国更えて日本と号す」、大和朝廷「日本国」恭順宣言が「一緒くた」】



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◆各記事を切り貼りして、並べ替えてみた。


 530年代)【韓半島の最南端「日辺に在る」安羅が「日本府」を号した「日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒す(=襲名する)ともいう」】
の時代を書いたと思われる記述。

《日本書紀 531年(継体25年)「太歳辛亥の3月軍進みて安羅に至り、乞乇城を営む。この月高麗、其の王安を殺す。
(同じ内容の事を) 又聞く日本の天皇及び太子・皇子、俱に崩薨りましぬ」。

― ―

《唐会要 日本。倭国の別種である。その国は「日辺(=陽あたりの良い南の場所)」に在る故に、日本国を以て名と為した。

― ―

《旧唐書 日本国は、倭国の別種なり。
その国は「日辺(=陽あたりの良い南の場所)」に在るを以て、故に日本と名づけた。
あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。

― ―

《新唐書 あるいは、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すともいう。
使者には情実がない故にこれを疑う。




◆670年)【新羅本紀文武王10年、天智近江朝独立宣言「倭国更えて日本と号す。自ら言う日出づる所に近しと以って名と為す」】
の時代を書いたと思われる記述。

《新羅本紀◆「三國史記・卷第六・新羅本紀第六・文武王・上・(原文)」

三国史記新羅本紀文武王10年670天智9年に
「倭国更えて日本と号す。自ら言う日出づる所に近しと以って名と為す。」

― ―

《唐会要◆咸享元年(670年)三月。遣使が高句麗平定を祝賀。

― ―

《新唐書◆咸亨元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。

後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を憎み、日本と改号した。⇒へ
使者が自ら言うには、国は「近日所出(=陽の出ずる東の所に近い)」ので、国名と為した。⇒へ

またその国都は四方数千里だと妄りに誇る、南と西は海に尽き、東と北は大山が限界となり、その外は、すなわち毛人という。⇒へ




(703年)【「倭国」筑紫朝廷から、x「倭国」x大和朝廷「日本国」】
の時代を書いたと思われる記述。

《唐会要》以後は続いて朝貢に来る。則天武后の時(703年)、自ら言うには、その国は「近日所出(=陽の出ずる東の所に近い)」ので、故に日本国と号する。思うに、その名が雅でないことを憎み、これを改名したのであろう。

《唐会要》あるいは倭国は自らの名が雅ではないことを憎み、日本に改名した、
あるいは日本は昔は小国だったが、倭国の地を併呑したという。そこの人が入朝したが、多くは自惚れが強く、不実な対応だったので、中国はこれを疑う。

― ―

《旧唐書》あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う。

《旧唐書》また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。




●“ とうやん ” ‏@t0hyan 3月11日
問題は《新唐書②》の使者が言う「近日所出(=陽の出ずる東の所に近い)」が②に属すか、③に属すかである。

▼【2014年3月9日(日)
唐会要・旧唐書・新唐書の記事がどのように混乱してるか、①②③時代区分して「切り貼り」し並べ替えてみた】





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(a0131) 【『三国史記1:金富軾・井上秀雄 訳注』のp194を参考に、新羅本紀◆文武王十年(670)を和訳する。】 2014/3/13(木)





●“ とうやん ” ‏@t0hyan 3月11日
問題は《新唐書②》の使者が言う「近日所出(=陽の出ずる東の所に近い)」が②に属すか、③に属すかである。

▼【2014年3月9日(日)
唐会要・旧唐書・新唐書の記事がどのように混乱してるか、①②③時代区分して「切り貼り」し並べ替えてみた】



● “ とうやん ” ‏@t0hyan 3月11日
新羅に日本国独立宣言の天智の

日本餘噍(よしょう)

は倭王薩野馬の復位で潰えてしまったが、その野望を継体に
『長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え、ひんぴんと報告しなくともよい』
と語らせる事で、文武の正当性を謳ったのだ。


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● “ とうやん ” ‏@t0hyan 3月13日

▼ 【 《古代史獺祭》三國史記 卷第六 新羅本紀第六 文武王 上 (原文) 】

で、とりわけ、文武王十年(670)と言う時期は
「唐・新羅・百済・高句麗・倭国・近江朝日本国」
の興亡に非常に注目に値する時期と言えるので、下記引用する。但し和訳が無い。。。



文武王十年(670)

春正月 高宗許欽純還國 留囚良圖 終死于圓獄 以王擅取百濟土地遺民 皇帝責怒 再留使者

三月 沙? 薛烏儒與高句麗太大兄高延武 各率精兵一萬 度鴨?江 至屋骨 ■■■靺鞨兵 先至皆敦壤待之

夏四月四日 對戰 我兵大克之 斬獲不可勝計 唐兵繼至 我兵退保白城

六月 高句麗水臨城人牟岑大兄 收合殘民 自窮牟城 至貝江南 殺唐官人及僧法安等 向新羅行 至西海史冶島 見高句麗大臣淵淨土之子安勝 迎致漢城中 奉以爲君 遣小兄多式等 哀告曰 興滅國繼絶世 天下之公義也 惟大國是望 我國先王以失道見滅 今臣等得國貴族安勝 奉以爲君 願作藩屏 永世盡忠 王處之國西金馬渚 漢祗部女人 一産三男一女 賜粟二百石

秋七月 王疑百濟殘衆反覆 遣大阿? 儒敦於熊津都督府 請和 不從 乃遣司馬禰軍窺覘 王知謀我 止禰軍不送 擧兵討百濟 品日・文忠・衆臣・義官・天官等 攻取城六十三 徙其人於内地 天存・竹旨等取城七 斬首二千 軍官・文穎取城十二 撃狄兵 斬首七千級 獲戰馬兵械甚多 王還 以衆臣 義官 達官 興元等■■■寺營退却 罪當死 赦之免職 倉吉于■■■■一 各授位級? 賜租有差 遣沙? 須彌山 封安勝爲高句麗王 其冊曰

維咸亨元年歳次庚午秋八月一日辛丑 新羅王致命高句麗嗣子安勝 公太祖中牟王 積德北山 立功南海 威風振於靑丘 仁敎被於玄菟 子孫相繼 本支不絶 開地千里 年將八百 至於建・産兄弟 禍起蕭墻釁 成骨肉 家國破亡 宗社湮滅 生人波蕩 無所託心 公避危難於山野 投單身於鄰國 遊離辛苦 迹同晉文 更興亡國 事等衛侯 夫百姓不可以無主 皇天必有以眷命 先王正嗣 唯公而已 主於祭祀 非公而誰 謹遣使一吉? 金須彌山等 就披策命公爲高句麗王 公宜撫集遺民 紹興舊緖 永爲鄰國 事同昆弟 敬哉敬哉 兼送粳米二千石 甲具馬一匹 綾五匹 絹・細布各十匹 綿十五稱 王其領之

十二月 土星入月 京都地震 中侍智鏡退 倭國更號日本 自言近日所出以爲名 漢城州摠管藪世 取百濟■■■■■■國 適彼事覺 遣大阿? 眞珠誅之 十二■■■賁書所六■■ 僵事同異可■


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『三国史記1:金富軾・井上秀雄 訳注』のp194を参考に、上記を以下に、和訳する。



文武王十年(670)

春正月、唐の高宗は欽純を許して國へ還したが、良圖は留め囚(とら)えた。彼は結局、圓獄(ろうごく)で死に終えた。
〔彼がとらえられた理由は、文武〕王が、かってに百濟の土地や遺民を奪取したので、〔唐の〕皇帝が怒り責めた〔ためである〕。〔新羅の〕使者が再び留められた。

三月、沙?の薛烏儒(せつうじゅ)は、高句麗の太〔大兄高〕延武とともに、それぞれ精兵一萬を率いて、鴨?江(おうりょくこう)を渡り、屋骨(未詳)に至った。
■■■靺鞨の兵が、先に皆敦壤(かいとんじょう:未詳)に至り、之〔わが軍が来る〕のを待ちかまえていた。


◇◇


夏四月四日、〔靺鞨軍と〕對戰し、我が軍が大勝し、その斬首や捕獲物は数えきれなかった。
やがて、唐〔の軍隊〕がきたので、我が軍は白城(京畿道安城郡安城村か)に退き、守った。

六月、高句麗の水臨城(京畿道長湍郡江上面臨江里か)の人、牟岑(むしん)大兄は、〔高句麗の旧〕殘民を收合し、窮牟(きゅうむ:未詳)城から貝江(ばいこう=大同江)の南にきて、〔その地にいた〕 唐の官人や僧の法安らを殺し、新羅に向かって移動していた。
〔彼らは〕西海(黄海)の史冶(しや)島(京畿道富川郡徳積茂面蘇爺島か)で、高句麗大臣の大臣淵淨土の子安勝(あんしょう)に会い、彼を漢城の中に迎えいれ、推戴して、〔彼らの〕君主とした。
〔そこで彼らは新羅王朝に〕小兄の多式らを派遣して〔次のように〕嘆願してきた。

滅亡國を再興し、断絶した王室を継続〔しょうとすることは、〕天下の公認の正義であります。大國にこの望みを託したいと思います。
我が國の先王は、道を誤って滅ぼされましたが、今、我々臣らは、旧國の貴族の安勝を推戴して、君主としました。
願わくば〔わが国が、大国の〕藩屏(はんぺい)となって、永世にわたり忠誠を尽くしたいと願っています。
王は彼らを國の西部の金馬渚(きんばしょ:全北益山郡金馬面)に住まわせた。
〔この月、〕漢祗部(かんぎぶ)の婦女人が、一度に三男一女を産んだので、粟二百石を賜った。

秋七月、王は百濟の殘余衆が、反乱を起こすのではないかと疑い、大阿?の儒敦を熊津都督府に派遣し、請和を求めたが、〔彼らはこれに〕從わなかった。

そして、「司馬禰軍(しばじぐん)」を派遣して、〔新羅の様子を〕さげらせた。
王は〔彼らが〕新羅を討とうとしているのを知り、禰軍を留めて返さず、軍隊を動員して百濟を討伐させた。

・品日・文忠・衆臣・義官・天官らは、六十三城を攻め取り、その住民を新羅の国内に移した。
・天存・竹旨らは、七城を奪取し、斬首二千〔を得た〕。
・軍官・文穎は、十二城を奪取し、北狄(てき)の軍隊(唐軍に所属していた靺鞨軍など)を襲撃して、斬首七千級〔を得〕、戰馬や兵器を甚なはだ多く獲得した。

〔この月は、〕王は帰国して、〔論功行賞を行った。そこで、〕衆臣・義官・達官・興元らが、■■■寺の軍營で退却した、その罪は死刑にあたるが、これを赦(ゆる)して、それぞれの官職を罷免した。
倉吉于(そうきつう)■■■■一、それぞれ級?の官位を授け、分に応じて租を賜った。

沙?の須彌山を派遣し安勝を高句麗王に封じた。その冊命書は〔次のように〕述べている。

咸亨元年庚午の年(670)秋八月一日辛丑の日に、新羅王は高句麗王の嗣子安勝〔を高句麗王〕に冊命する。
安勝公の太祖中牟(ちゅうむ)王は、德を北山のように積み、功を南海のようにたてた。
威風は靑丘(せいきゅう:朝鮮全土)にゆきわたり、そのいつくしみ深い教えは玄菟(げんと)をおおった。その子孫は相い繼ぎ、本家も分家も絶えることなく、千里四方の土地を開き、〔国家の栄えること〕將に八百年になった。
建と産の兄弟の時代になると、禍が蕭墻(しょうしょう:朝廷)の中に起こり、亀裂が骨肉(王族)の中に生じて、国家が破滅し、宗廟や社湮(しゃしょく)が消滅し、人々は動揺して、心をゆだねるところがなくなった。公は危難を山野に避け、ただ一人隣国に落ちのび、さすらい苦労すること、晉の文王と同じであった。
更に亡國を再興することは、衛侯と同じである。それ、人々には君主がないわけにはいかない。天は必ずいつくしみ思うところがある。先王の正当な継嗣は唯だ公のみであり、〔高句麗の〕祭祀をつかさどるものは、公でなければ、誰がいるであろうか。
謹んで、使者として一吉?の金須彌山らを派遣し、そこで公を冊命して、高句麗王とする。
公はすすんで、〔高句麗の〕遺民を収拾・慰撫して、旧王統をひきつぎ、永く鄰國となり、実の弟のように仕えよ。つつしみ、いましめよ。

〔この冊命書と〕とともに、粳(うるち)米二千石、甲(よろい)をつけた馬一匹、綾(あや)五匹、絹と細布各十匹、綿十五稱を贈るので、〔高句麗〕王はそれらを納めて下さい。

十二月、土星が月とかさなった。王の京都に地震があった。中侍の智鏡が辞職した。

倭國は国號を日本と改めた。〔彼らは〕自ら日の出る所に近いといって、〔それを国〕名とした。

漢城州の摠管の藪世は、百濟■■■■■■、たまたまそのことが発覚したので、大阿?の眞珠を派遣して、彼を誅殺させた。


◇◇


● “ とうやん ” ‏@t0hyan 3月13日

『三国史記1:井上秀雄訳注』◆文武王十年(670)

を読むと、新羅は断絶した高句麗の王室を再興し藩屏国に保護してる。この事より《新唐書②》咸亨元年(670年)遣使が高麗平定を祝賀。⇒とは倭国の「筑紫朝廷」の筑紫都督府からの遣使だと分かる。



● “ とうやん ” ‏@t0hyan 3月13日

『三国史記1:井上秀雄訳』◆文武王十年(670)七月

を読むと、「司馬禰軍」を留めて返さずとある。
この事より《新唐書②》咸亨元年(670年)使者が自ら言うには、国は「近日所出」ので国名と為した

の使者は長門以東近江朝でなく大和朝廷③からだ(と分かる。)



● “ とうやん ” @t0hyan

秋七月、ー略ーそして、「司馬禰軍(しばじぐん)」を派遣して、〔新羅の様子を〕さぐらせた。ー略ー禰軍を留めて返さず、

の「司馬禰軍」とは、

『大唐故右威衛将軍上柱國禰公墓誌』

の百済人禰軍のことだろう。



● “ とうやん ” ‏@t0hyan 3月13日
《新唐書②》咸亨元年(670年)『遣使が高麗平定を祝賀。』は②のままだが、
(続く)以降の記事
『後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を憎み、日本と改号した。
使者が自ら言うには、国は「近日所出(=陽の出ずる東の所に近い)」ので、国名と為した。ー略ーすなわち毛人という。』
は③の時代の記事と考える




● “ とうやん ” ‏@t0hyan 3月13日
『三国史記1:金富軾・井上秀雄 訳注』のp194の◆文武王十年(670)を参考に、上記を以下に、和訳する

▼【2014年3月13日(木)
問題は《新唐書②》の使者が言う「近日所出(=陽の出ずる東の所に近い)」が②に属すか、③に属すかだ。】



● “ とうやん ” @t0hyan
『三国史記1:金富軾・井上秀雄 訳注』のp194の◆文武王十年(670)を参考に、上記を以下に、和訳する

▼【2014年3月13日(木)
『三国史記1:金富軾・井上秀雄 訳注』のp194を参考に、新羅本紀◆文武王十年(670)を和訳する。】




● “ とうやん ” @t0hyan
こんなに、すごい新羅本紀文武王なのに、いつから朝鮮は 「事大主義」 になったのだろうか、

▼【『三国史記1:金富軾・井上秀雄 訳注』のp194を参考に、新羅本紀◆文武王十年(670)を和訳する。】



● “ とうやん ” @t0hyan
そうねー! これはわたしの「おはこ」の古代史ではない。
今まさに、繰り広げられんとする現代史そのものです。
まー、「うすうす」感じてはいるだろうけど・・・
日本も遅かれ早かれ、「韓国同様」になる。
「ひ・と・ご・と」ではないのだ!!



● “ とうやん ” @t0hyan
@azuma_ebisu00 @BQN_yachiyo2 @naomi5124 @ikarostayuu @HanaShounen
この貴方のツイート以外は「録でもない」って奴だよね。

「日本のマスコミが言わない不都合な真実(三橋貴明)




【グリーンスリーブス  オリビア ニュートン-ジョン】

【さよならの夏~コクリコ坂から~倍賞千恵子】

【江梨子 milkye326】

【高原のお嬢さん】



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