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《 大和朝廷の 「はしり」 は、 「 難波朝廷 ( なにわのみかど=九州王朝「倭国」の難波複都 )」 に始まる 》  即ち、大和朝廷「日本国」 は、九州王朝「倭国」の 【 同じ血族・分流・分家 】 である。


大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 108 》



大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕

《 大和朝廷の 「はしり」 は、ここで言う 「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」 に始まる。
  即ち、大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」【 同じ血族・分流 】 と分かった。 》



 白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、日本全国 長門以東を実効支配したが、その司令官が「両京制」・「兄弟王朝」である 倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 である。
 日本書紀の〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇はこの倭王家 〔分家の弟王家〕 の出身である。
 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権 の禅譲を受け をクーデター「プロト大化の改新」で乗っ取り、倭国連邦の解体・改組してのち成立したのが、奈良の中央集権国家・文武天皇(大宝元年:701年)の大和朝廷『日本国』である。いわば倭王家 〔分家の弟王家〕 はプロト大和朝廷である。


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2010年 4月 2日 発行




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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』


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(a0104) 【「秦王国」の当時華々しく堂々の外交記録を借用し、『書紀』は大和朝廷「日本国」に「すり替えて」記載した】 2014/2/3(月)





● “ とうやん ” @t0hyan

『古代史獺祭(だっさい)』 隋書・卷八十一・列傳第四十六・東夷傳・倭國
を参照します。

『明年(大業4年:608年:推古16年)、上、文林郎裴清を遣わして俀国に使いせしむ。百済を渡り、行きて竹島に至り、南に聃羅を望み、都斯麻国を経、

迥かに大海の中に在り。
又東して一支国に至り、又竹斯国(=筑紫・九州島)に至り、又東して秦王国に至る。其の人華夏に同じ。以って夷州と為すも、疑うらくは明らかにする能わざるなり。
又十余国を経て海岸(=九十九里浜海岸)に達す。竹斯国より以東は、皆な俀に附庸す。』 と記載する。




● “ とうやん ” @t0hyan
大和朝廷「日本国」の国名が隋書俀国伝に無いと言う事は、「当時全く存在しなかった」か、「よほど弱小国だった」かだ。
にも拘らず『書紀』には隋書の記載と違って華々しくも堂々の外交が記録されてる。
そこで考えられる残り1つは「秦王国」が、大和朝廷「日本国」に「すり替えられてる」と言う事だ。



● “ とうやん ” @t0hyan
いや、この推理をもう少し発展させておこう。
「隋書俀国伝」に大和朝廷「日本国」の国名が無いと言う事は「当時全く存在しなかった」からだ。
そこで今は滅亡の「秦王国」の当時華々しくも堂々の外交記録を借用し、『書紀』は大和朝廷「日本国」に「すり替えて」記載した。
いわば「でっちあげた」訳だ。




● “ とうやん ” @t0hyan
『失われた九州王朝:古田武彦著』(四・『隋書』俀国伝の示すもの)p293に古田武彦氏は
「開皇二十年、俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、號は阿輩雞(ケイ)彌、使を遣して闕に詣る。ー途中略ー王の妻、號は雞彌。後宮に女六、七百人有り。太子は名を利歌彌多弗利と爲す。」
と〈『隋書』俀国伝〉を引用している。



● “ とうやん ” @t0hyan
更に続けて、
「第一の疑点は、男帝と女帝のちがいだ。
開皇二十年というのは、ちょうど西暦六〇〇年、わが推古天皇の八年に当たる。
つまり、この時点の天皇は女帝なのである。
それなのに、右の記事では、俀王は明らかに男帝だ。
妻をもち後宮の女を六、七百人もかかえているのだから。」
と指摘している。



● “ とうやん ” @t0hyan
これを、【「秦王国」の外交記録を借用し、『書紀』は大和朝廷「日本国」に「すり替えて」記載】説に当てはめると、
「ちょうど西暦六〇〇年、わが(=「秦王国」)推古天皇の八年に当たる。つまり、この時点の天皇(=「秦王国」の国王)は女帝なのである。」 ⇒
つまり推古天皇は「秦王国」の女帝となる。





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(a0105) 【日本列島から、二つの国が隋と国交した。この一見「奇怪」な事実は、実は『隋書』と推古紀で、裏づけられる】 2014/2/3(月)





● “ とうやん ” @t0hyan
『失われた九州王朝:古田武彦著』
(四・『隋書』俀国伝の示すもの)p319「二つの道」


以下は抜粋・転載ですのであしからず。

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「二つの道」

日本列島から、隋と国交を結ぼうとした二つの国があった。―この一見「奇怪」な事実は、実は『隋書』と推古紀に記され裴世清に関する記事を精細に観察すると、明瞭に裏づけられる。

(A)既にして清を引いて館に就かしむ。其の後、清、人を遣わし其の王に謂って曰く「朝命既に達せり、請う即ち(塗を戒めよ)」と。是に於いて、宴享を設け以て清を遣わす。

(B)(推古一六年、四月)即ち大唐の使人裴世清、下客十二人、妹子臣に従ひて、「筑紫に至る」難波吉士雄成を遣わして、大唐の客裴世清を召す。唐の客の為に、また新しき館を難波の高麗館の上に造る。

右の(A)において「戒塗」“塗を戒む”とは、“旅行の準備をする”ことだ。
・未だ戒塗に及ばず。
・零雪戒塗、滅跡の郊に非ず。
・馬に秣し、途を戒め、志、旦を俟たず。

つまり、俀王に「朝命」(天子の命)を達し終えてより、さらに“旅行に出よう”といい、その準備(武装による警戒)を俀王に要求しているのである。
これを従来は、本国(隋)への「帰途」のことと解してきた。しかし「帰途」は、どの遣使においても、必ず必要だ。とくにこの俀国伝の場合だけ特記する必要はない(他の伝にはこのような描写はない)。
したがって、この裴世清の要求は、「俀王の都から、さらにはるかなる旅に出発しょう」とする意思をしめしているのだ。
そしてその旅の安全を保つための警備を俀王に要求しているのである。

この事実を、当の、さらにはるか東なる地の「うけ入れ側の視点から」描写してるのが(B)の推古紀の記事だ。
裴世清が「筑紫に到着した」その時に、推古天皇は難波吉士雄成を派遣して、裴世清が近畿大和に来るようにうながしているのである。

すなわち、裴世清にとっては、筑紫が第一の到着点である。
そしてそこからさらに奥なる、みずからの都へ導くため、天皇家は使者を派遣して裴世清の近畿大和訪問をうながしたのである。
この描写は、「隋書」俀国伝の記事とピッタリ対応している。
つまり、裴世清の第一の目的は筑紫なる俀王の都であり、そこで「朝命を達した」のち、さらにその東方の奥地より遣使してきた「倭国使」の本国の地に向かって出発しているのである。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

《「二つの道」の転載は以上です。》




● “ とうやん ” @t0hyan
日本列島から、二つの国が隋と国交した。
この一見「奇怪」な事実は、実は『隋書』と推古紀で、明瞭に裏づけられる。

▼【2014年2月3日(月)
「秦王国」の当時華々しく堂々の外交記録を借用し、『書紀』は大和朝廷「日本国」に「すり替えて」記載した】





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(a0106) 【秦王国使をも幽置・監禁すると言う事は、倭の服属国の秦王国にそんな軍事力は無いと見限ったと言う事だ。】 2014/2/4(火)





● “ とうやん ” ‏@t0hyan
更に吟味を要す。 ⇒

「〔中国〕国家は、来年に、必らず海東〔朝鮮〕を征伐する。汝ら倭客は、東に帰ることはできぬ」と。
ついに西京〔長安〕に、〔日、倭〕別の処に幽置した。戸を閉して監禁し、東西〔自由に行動〕するのを許さなかった。
困苦して年を経た。



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
勅旨で「唐は、来年に、必らず海東〔百済〕を征伐する。」と言ってる。
と言う事は、百済(=海東)の西方からは唐が、東方からは、新羅と共に、秦王国(=日本国)が挟撃してくれる事を望んでいたはずだ。
然し、幽置・監禁すると言う事は倭の服属国の秦王国にそんな軍事力は無いと見限ったと言う事だ。




● “ とうやん ” @t0hyan
このあと白村江662前後に、秦王国は九州王朝「倭国」の「難波副都」の「中大兄皇子こと天智天皇」に征圧される。

▼【2014年2月4日(火)
秦王国使をも幽置・監禁すると言う事は、倭の服属国の秦王国にそんな軍事力は無いと見限ったと言う事だ。】





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(a0107) 【「秦王国」が奈良盆地にあったとして、海へは「大和川」の利用だろうが、当時の奈良湖、河内湖とは? 】 2014/2/5(水)





● “ とうやん ” @t0hyan 「秦王国」が奈良盆地にあったとして、海への出口は「大和川」の利用だろうが、

【古地理図6 河内湖時代(2100年前)】

以降の河内湖内の大和川デルタ形成はどうなってたか?
波・風を避けた荷の積み下ろしに便利な良い湊があったとは、とても思えない。



● “ とうやん ” @t0hyan

▼【古代の住吉地区の地形図】《魚拓》

古代の住吉は住吉大社が海に面していて、現在の住之江区はすべて海であったようです。
このあたりの地名も海にちなんだものが多いようです。粉浜はもとは木浜と呼ばれ、住吉大社を建立するときの木材を置いていた浜だそうです。
大和川は江戸時代につけ替えられたもので元は寝屋川市の方に流れていました。
住吉津は万葉集に詠われているように美しい浜辺であったと想像できます。



● “ とうやん ” @t0hyan

▼【大和川付替から310年が過ぎて】《魚拓》

大阪市と堺市の境に大和川が流れています。
今当たり前の地理が、歴史を見えなくさせる。
去年暮れに訪れた開口(あぐち)神社は和泉の国で、5(日曜)参拝した菅原神社は摂津の国、
大小路が境界となり北庄と南庄に分かれそれぞれの鎮守の神様だった。
堺の旧市街のど真ん中で境界あったのが不思議な気がした。
江戸時代の元禄から宝永に変わった時代、1704年大和川は西へと流れを変えた。
確かに中高の日本史で河村瑞軒、大和川付替工事とか習った気がする。
かつて住吉大社がある住吉津と堺の浜は、大和川で分断されてなかったのですね。



● “ とうやん ” @t0hyan
「秦王国」が奈良盆地にあったとして、海への出口は「大和川」の利用だろうが、
河内湖内の大和川デルタ形成はどうなってたか?
ご参考迄に!

▼【古代の住吉地区の地形図】《魚拓》

▼【大和川付替から310年が過ぎて】《魚拓》




● “ とうやん ” @t0hyan

「時空トラベラー」
2013/10/31
奈良盆地の原風景~古代奈良湖の残影~
《魚拓》

面白いのは古墳時代から飛鳥時代の古墳や宮殿・宮都跡は稲作生産の拠点である水辺・湿地ではなく三輪山の山辺に分布している。










● “ とうやん ” @t0hyan
古代「奈良湖」の大和川流域の「亀の瀬」って、
ダムの水門みたいな「地すべり対策」しなきゃならないほどの危険な場所なんだね、初めて知った。
決壊すると大変

▼【国土交通省近畿地方整備局「大和川河川事務所」
《亀の瀬》 を学ぶ・もし地すべりが起きたら】
《魚拓》



● “ とうやん ” @t0hyan
『法隆寺は移築された(大宰府から斑鳩へ):米田良三著』「興留」p100の途中を抜粋する。
『ところで、25図は法隆寺周辺の地図である。法隆寺の門前を南に下り、鉤の手に曲がって、ほうりゅうじ駅の前を通る道がある。この道は、ほうりゅうじ駅の先で「大和川」の支流である富雄川に至っている。
「大和川」は大和盆地の殆どの雨水を集めて、生駒山系を横断し、大阪湾に注ぐ主要河川である。舟の交通が盛んであったと思われ、観世音寺を解体した資材が大阪湾からこの川を遡って来たことは疑えない。』とある。

大和川の

「亀の瀬」

をどう運んだのか。


◇◇


● “ とうやん ” @t0hyan
『(薬師寺、長谷寺、東大寺)逆賊磐井は国父倭薈だ:米田良三著』
p138「東大寺の移築」を抜粋・転載する。
『東大寺の移築は二度に渡って行われた。最初は六七二年倭国滅亡後の早い時期に行われた。間口十一間、奥行き七間の大仏殿や回廊や東西の塔が解体され、瀬戸内海を船で運ばれた。奈良に積み置かれていた部材は聖武天皇の時に奥行きをそのままに、間口を七間に縮めて造られた。7間x7間の大仏殿で、回廊が取り付けられる。
また大仏はそのままの姿で山陽路を運ばれたようだが、半分近くを作り替えて盧舎那大仏として公開されたことは後で述べる。ついで塔が造れれている。



● “ とうやん ” @t0hyan
東大寺の移築では、
「大仏殿や回廊や東西の塔が解体され、瀬戸内海を船で運ばれた。」
「また大仏はそのままの姿で山陽路を運ばれたようだが、」
と、書かれているだけで、
それが法隆寺のように「大和川」を遡ったとは書かれていない。
「亀の瀬」を知った今、東大寺は「木津川」を遡ったのだろうと思う。



● “ とうやん ” @t0hyan
東大寺は「木津川」を遡ったのだろうと思うのは、木津川の名前の起こりの

「木津」

が「津」即ち、「舟着き場」だったと思えば、大阪湾から引き船しての遡上しても、この辺りまでの流れが比較的なだらかだからだろう。
ここから東大寺まではすぐそこである。




● “ とうやん ” @t0hyan

⑷斑鳩の法隆寺の南大門の前に鯛石という1×2メートルの踏み石が表面を露出させて埋まっている。
地元ではこの鯛石まで水が来ても大丈夫と言い伝えられている。今見るとどこに水があるのか、という法隆寺界隈だが、創建当時は消滅寸前の奈良湖はこの斑鳩辺りに存在していて、創建時の斑鳩宮、法隆寺は近いところに建っていたのかもしれない。
そうなると聖徳太子は飛鳥京へ毎日太子道を馬で通っていたとされるが、実は斑鳩からは船で飛鳥へ渡っていたのではないか。
ちなみにこの鯛石のある地点の標高は50mで大和川の水位40mよりは高い位置にある。



● “ とうやん ” @t0hyan
いや、何故(4)項を引用したか、
つまり、法隆寺が移築当時も寺の眼前には「消滅寸前の奈良湖」が広がっていたという事だろう。

図からは、奈良盆地の殆どを「奈良湖」が居座っているではないか。

はたして「秦王国」さえもこの奈良に存在したか疑問である。



● “ とうやん ” @t0hyan
ずっと昔から、奈良・飛鳥に大和朝廷「日本国」があったと思ってる方は
奈良盆地の「ど真ん中」に都があったと思ってる。
ちょうど

「石上神宮と法隆寺の中間のこのあたり」
だ。

でも現地を訪ねて、飛鳥と東大寺があまりに離れてて、びっくりするんだよね



● “ とうやん ” @t0hyan
なぜ、飛鳥と東大寺があまりに離れているのか?

この図をみればわかる、奈良盆地の殆どを「奈良湖」が居座っている。

法隆寺が移築当時も寺の眼前には「消滅寸前の奈良湖」が広がっていた。
と言う事は奈良盆地の稲作が大和朝廷を支えたのではないと分かる。




● “ とうやん ” @t0hyan
ずっと昔から、奈良・飛鳥に大和朝廷「日本国」があったと思ってる方は当時の「奈良湖、河内湖」を知らないのかもね。

▼【2014年2月5日(水)
「秦王国」が奈良盆地にあったとして、海へは「大和川」の利用だろうが、当時の奈良湖、河内湖とは?】



● “ とうやん ” @t0hyan
《斉明天皇五年(六五九)秋七月三日》の項「伊吉連博徳の書」で〔倭種〕とは倭国、我が〔日本国の〕とは秦王国の事だ。

▼【2014年2月2日
倭国の服属国の秦王国(=日本国)が使節団を自発的に派遣したでなく唐朝に「そそのかされて」派遣したのだ】





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(a0108) 【『日本書紀(下)山田宗睦 原本現代訳』《斉明天皇五年(六五九)秋七月三日》「伊吉連博徳の書」で分かる事】 2014/2/8(土)





● “ とうやん ” @t0hyan
《斉明天皇五年(六五九)秋七月三日》の項「伊吉連博徳の書」で〔倭種〕とは倭国、我が〔日本国の〕とは秦王国の事だ。

▼【2014年2月2日
倭国の服属国の秦王国(=日本国)が使節団を自発的に派遣したでなく唐朝に「そそのかされて」派遣したのだ】



● “ とうやん ” @t0hyan
日本列島から、二つの国が隋と国交した。
この一見「奇怪」な事実は、実は『隋書』と推古紀で、明瞭に裏づけられる。

▼【2014年2月3日(月)
「秦王国」の当時華々しく堂々の外交記録を借用し、『書紀』は大和朝廷「日本国」に「すり替えて」記載した】



● “ とうやん ” @t0hyan
【讒言】
事実を曲げたり、ありもしない事柄を作り上げたりして、その人のことを目上の人に悪く言うこと。

▼【2014年1月31日(金)
讒言でなく、唐の朝見の席に宗主国〔倭種〕の許可なく服属国〔日本国の〕客が何故参列したかを詰問したのだ】



● “ とうやん ” @t0hyan
倭国使が、唐が秦国を「そそのかしてる」と詰問し、「事実無根」だと突っぱねたら、将に 【讒言した】となる

▼【2014年2月2日(日)
倭国の服属国の秦王国(=日本国)が使節団を自発的に派遣したでなく唐朝に「そそのかされて」派遣したのだ】



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
『書紀』は大和朝廷開闢701年后、日本列島史を集大成する必要が生じ各地域の王朝史を組み込む意欲的擬史だ。

▼【2014年1月28日(火)
「倭国⇒筑紫」、「秦王国⇒日本国」と読み替えて、『書紀』を読み直すと分かりやすいのではないでしょうか】



● “ とうやん ” @t0hyan
ずっと昔から、奈良・飛鳥に大和朝廷「日本国」があったと思ってる方は当時の「奈良湖、河内湖」を知らないのかもね。

▼【2014年2月5日(水)
「秦王国」が奈良盆地にあったとして、海へは「大和川」の利用だろうが、当時の奈良湖、河内湖とは?】



● “ とうやん ” @t0hyan
◆ 『日本書紀』を身近に親しむには、やはり「原本現代訳」が欲しいものです。
そこで、下記は、

▼【2014/2/1(土)
原本現代訳『日本書紀(下):山田宗睦 訳』の《斉明天皇五年(六五九)秋七月三日》の項「伊吉連博徳の書」】

の抜粋・転載ですので悪しからず。



● “ とうやん ” @t0hyan
このあと白村江662前後に、秦王国は九州王朝「倭国」の「難波副都」の「中大兄皇子こと天智天皇」に征圧される。

▼【2014年2月4日(火)
秦王国使をも幽置・監禁すると言う事は、倭の服属国の秦王国にそんな軍事力は無いと見限ったと言う事だ。】




● “ とうやん ” @t0hyan
大和朝廷の「はしり」は「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」に始まるが、それ以前の大和朝廷「日本国」とは何か

▼【2014年2月8日
『日本書紀(下)山田宗睦 原本現代訳』《斉明天皇五年(六五九)秋七月三日》「伊吉連博徳の書」で分かる事】





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(a0109) 【「日出づる所に近し」とは【東】を、「日辺に在る」とは【南】を表わす。日本には字義の異なる東と南がある】 2014/2/8(土)





● “ とうやん ” @t0hyan
新羅の地名は日の出を意味する「シラヒース」で韓半島東部を表す。
安邪:安羅:阿羅:咸安の安 ⇒
アンには韓国語で下部・陰部の意味で韓半島南部だと思うが、安羅が南部の代わりに、お日様に一番近い、故に日本府を名のったとしてもおかしくない。
旧唐書「日辺に在るを以って名と為す」同じではないか。



● “ とうやん ” @t0hyan
三国史記新羅本紀文武王10年670天智9年に倭国更えて日本と号す。
自ら言う「日出づる所に近し」と以って名と為す。即ち東部を言う。
一方旧唐書には「その国日辺に在るを以て故に日本を以て名と為す」この「日辺にある」とは太陽に近い即ち南部を言うだろう。
日本には東と南との意味の2つある。



● “ とうやん ” @t0hyan
ところで、同じ唐書でも、のちの新唐書は

【新唐書・卷二百二十・列傳第一百四十五・東夷・日本】
では、

『後に稍(やや)夏音を習い、倭の名を惡(にく)み、更に日本と號す。
使者自ら言う、國、日出ずる所に近きを以って名と爲すと。』
と「東」とする。



● “ とうやん ” @t0hyan
531年(継体25年)「太歳辛亥の3月軍進みて安羅に至り、乞乇城を営む。この月高麗、其の王安を殺す。又聞く日本の天皇及び太子・皇子、俱に崩薨りましぬ」
で、百済本紀はこの「安羅の王安」と「日本の天皇」とが同じだという。
という事は最初に日本・天皇を称号したのは任那日本府の安羅王である



● “ とうやん ” @t0hyan
「日出づる所に近し」とは【 東 】をあらわす。
「日辺に在る」とは【 南 】を表わす。
安羅が日本府を号した時の「日辺に在る」は、韓半島の最南端にあったからだろう。
近江朝天智天皇が言っただろう『倭国更えて日本と号す。自ら言う「日出づる所に近し」と以って名と為す』東の国という事だ。



● “ とうやん ” @t0hyan
日本(ひのもと)の「もと」を辞書を引くと、
『同じ「もと」でも、
(本=主となるもの・中心・よりどころ)
(元=物事のおこり・はじめ・起源)⇒「日出づる所に近し」⇒「東」
(下=あたり・そば・かたわら)⇒「日辺に在る」⇒「南」』
なお、『辺(へ)=ほとり・近く・そば)』だ。




● “ とうやん ” @t0hyan
日本は極東にある。
だから誰しも日本とは「日出づる所に近し」と思っている。
然し、旧唐書は「日辺に在る」と記す

▼【2014年2月8日(土)
「日出づる所に近し」とは【東】を、「日辺に在る」とは【南】を表わす。日本には字義の異なる東と南がある】





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(a0110) 【近隣史書が認める九州王朝「倭国」が問題ではなく、大和朝廷「日本国」の東アジア史デビュー以前がどうかだ 】 2014/2/8(土)





● “ とうやん ” @t0hyan
若し、蘇我有明子をはじめとする蘇我氏が葛城『秦国』王家であり、その葛城『秦国』が母体・核となって大和朝廷「日本国」へ発展したと「仮定」した場合、
その王朝史となる「日本書紀」が九州「倭国」を抹殺しただろうか。
私は思うに『抹殺せずその「討伐経緯」をむしろ誇らしげに書き込んだ』
だろう。



● “ とうやん ” @t0hyan
若し、倭国連邦一員の出雲・加賀・吉備・葛城『秦国』・尾張・毛野(常陸)のいずれかが、母体・核となって大和朝廷「日本国」へ発展したと「仮定」した場合、
その王朝史となる「日本書紀」が九州「倭国」を抹殺しただろうか。
思うに『抹殺せずその「討伐経緯」をむしろ誇らしげに書き込んだ』
だろう。



● “ とうやん ” @t0hyan
倭王家〔分家の弟王家〕が母体・核となって大和朝廷「日本国」へ発展したが為、
その王朝前史「日本書紀」が九州「倭国」を抹殺したわけは、
『抹殺しないとその「討伐・倭転覆・乗取り経緯」「倭国敗戦」等の負の遺産を書き込むことになり、
新大和朝廷「日本国」にとってまずいことになったから』
だろう。




● “ とうやん ” @t0hyan
そもそも、近隣の史書が認める九州王朝「倭国」が在ったかが問題ではなく、
大和王朝「日本国」が遣唐使・粟田真人派遣 (701年)で、華々しく東アジア史にデビューする以前、
九州王朝倭国が高市天皇暗殺で滅亡696年する以前はどうだったかが問題だろう。
みんな問題を履き違えていないだろうか?



● “ とうやん ” @t0hyan
私の仮説は、九州王朝「倭国」の元号「大化」を、大和朝廷「日本国」が「大宝」と改元する以前の、
大和朝廷「日本国」の前身は、九州王朝「倭国」の「難波副都」の倭王家分家の弟王家だったということだ。

▼【九州年号表・書紀天皇表】
 を参照



● “ とうやん ” @t0hyan
では、九州王朝「倭国」が「常色の改革647年」で評制施行の天下立評し、
大宰府の東方へ副都難波宮を建設する以前はどうだったか?
何もなかったではなく「隋書」俀国伝中に
『明年上文林郎裴清を遣わして俀国に使いせしむ。ー略ー又竹斯国に至り、又東して秦王国に至る』
そう、そこには秦王国があった



● “ とうやん ” @t0hyan
・『608年、明年(大業4年)、上、文林郎裴清を遣わし、―略―秦王国に至る』
・『620年( 推古28:倭京3)唐の掌客裴世清等至』
・『632年(舒明4:仁王10)唐使の高表仁が到来』
これらの記事は隋・唐が倭国の附庸国・秦国と知りながら秦国と交渉続け、唐・新羅陣営へ取込むべく画策の証しだろう。



● “ とうやん ” @t0hyan

《 参照 》
▼【古代の日本で、如何に重要な史実だったかが分かるというものだ。『源氏物語』に隠された史実とは?】

◇◇◇◇ 《 さてここからが、非常に重要です。 》



● “ とうやん ” @t0hyan
倭国は附庸国・秦国を唐が唐・新羅同盟に組込むべくチョッカイを出しているのを苦々しく見てただけではないだろう。
知ってどうしたか、天下立評で財務基盤を強化し、更には、秦国の傍に「難波副都」を築き、秦国を牽制し、秦国が唐・新羅同盟へ参加するのを阻止・最終的には抹殺・撲滅しようとしただろう。



● “ とうやん ” @t0hyan
『秦国の唐・新羅同盟参加阻止・最終的には抹殺・撲滅しようとした』
その過程は、日本書紀が記す蘇我氏を秦国の王家だとして考えると分かりやすいだろう。
蘇我氏は壬申乱以降、その姿を日本書紀に見せなくなる。





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(a0111) 【稲のDNAは弥生人が韓半島経由でなく、直接、東シナ海・黄海を突っ切ってたどり着いたことを示している】 2014/2/10(月)





● “ とうやん ” @t0hyan

▼【DNAでみる古代日本人と朝鮮人 《日本語字幕》】

▼【謎の土器に隠された古代日本人ミステリー】

▼【へブル語と日本語の類似 秦氏】



● “ とうやん ” @t0hyan

▼【『長江中・下流域からの直接の渡来:日本のイネに半島にない遺伝子があった』】

▼【『若しD因子が縄文人ならば半島の縄文人男性は全て抹殺されたとなる』】



● “ とうやん ” @t0hyan

▼【朝鮮人が認めたがらない自国の歴史】

▼【よくわかる日本と朝鮮半島の古代史【学校やNHKでは教えてくれない】



● “ とうやん ” @t0hyan
いえね、原本はこれですけに^^

▼【04.長江中・下流域からの直接の渡来】

この前後を読んで、その是非をあなた自身で確認してくださいね。



● “ とうやん ” @t0hyan

▼【04.長江中・下流域からの直接の渡来】

での 『甕棺墓の源流は長江中流域か』 が史実ならば、

白鳳倭王・薩夜麻が白村江で唐軍に捕縛・連行された洛陽・長安は、倭国の祖先の出自地のすぐ北方である。
唐で当時盛況の「道教」を受け入れる素地があった事になる。




● 古代 モサク @qq5r9hrc9
@t0hyan
5000年前の土器については、エクアドルで西日本の縄文土器と似ているものが一時期に現れそして突然消えたと云うことを聞いていました。
アメリカでも現地でも否定する人もいらっしゃるとか、DNAも古代日本人と同じらしいということを話題にしたら以前は笑われてしまいした。



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
インカ人と東北人のDNAが、たったの4ッとか違うだけで、ほぼ同じだってことですよね。
その前に、東北人と沖縄人は肝炎ウイリスが同じとかいいますしね。
まー、環太平洋の沿岸は相互の交渉が無かったとする常識は、カヌー(=軽野)を使って航海できたようですしね^^



● 古代 モサク @qq5r9hrc9
@t0hyan
皆さんの豊富な知識量には唖然とはしていますが、
密かにマイペースで楽しませていただきます。
ありがとうございました。




● “ とうやん ” @t0hyan
今回の東京都知事選挙は…、 「不可解きわまりない!」 と思い、考えこむ方々が激増している。
今回に限ったことではないが…、前回、前々回同様、今回も、誠にもって後味の悪い選挙だった。 ⇒

▼【◆2014/02/10(月)  柔軟な諦めの精神】



● “ とうやん ” @t0hyan
日本の政治構造とは、アメリカの指示を受けて、キャリア官僚が官庁をピラミッド支配している。

アメリカは日米地位協定を、吉田茂に強引にサインさせ、米占領軍が「偽・独立国日本」を支配している。

▼【◆植草一秀 《日本の現状》 日本を支配しているのは?】




● ayu1659 @ayu1659
そう思います。“@CHILDplays_andy: 地球規模のことなんだよ、日本なんて豆粒みたいに小さんだよ。
“@ayu1659: 西日本の汚染までわかるよ・・・はあ~><
pic.twitter.com/kONAqymJkd””

【福島原発事故は終わらない】
by   【地球の子ども新聞】



● “ とうやん ” @t0hyan
@ayu1659 @CHILDplays_andy
先日、田舎に帰った。新幹線の中で広島駅、ホテルの1室で、広島の放射能を見たら、ここ横浜と同じかそれ以上だった。
徳山駅前のホテルの1室でも同様高かった。
何故か、人形峠の中国山脈の所為だとばかりに安易に片づけたがどうも違うようだ。





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(a0112) 【3月11日東日本大震災の大津波 今更ながら、すさまじい。。。。《YOUUTUBE実況映像》】 2014/2/11(火)

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(a0113) 【初の中央集権「日本国」の仮想前史が『古事記』で、更に『書紀』は倭国外交史の対等独立を恭順冊封に改竄か】 2014/2/13(木)





● “ とうやん ” @t0hyan

▼【『長江中・下流域からの直接の渡来:日本のイネに半島にない遺伝子があった』】



● “ とうやん ” @t0hyan

▼【04.長江中・下流域からの直接の渡来】

での 『甕棺墓の源流は長江中流域か』 が史実ならば、
白鳳倭王・薩夜麻が白村江で唐軍に捕縛・連行された洛陽・長安は、倭国の祖先の出自地のすぐ北方である。
唐で当時盛況の「道教」を受け入れる素地があった事になる。




● 古代 モサク @qq5r9hrc9
@t0hyan
甕棺墓の源流は長江中流域 から、稲作も揚子江流域から ということは北九州近辺の古代人は、中国からの渡来人が定住し、
さらに中国からの渡来人が征服した。
そんな雰囲気ですね。トンチンカンなコメントですいません。



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
そうです。私は九州王朝「倭国」の始まりは邪馬壹(いち⇒ゐ⇒倭)国と思っています。
吉野ヶ里遺跡の甕棺墓は米田良三氏の言う倭国王の歴代の王墓列だに同意します。
九州から684年前後に近畿に遷都しその直後の696年文武天皇に暗殺されて、乗っ取られた。



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
従来の九州王朝の始まりから入るのではなく、終わりから検討していると、
『日本書紀』の696年7月10日の条に「のちの皇子尊〔武市皇子〕が薨じた」という「不審」な記事を見つけました。
そうです。これこそが「乙巳の変 大化改新 」の本来の姿なのです。
50年前にずらし隠していると



● 古代 モサク @qq5r9hrc9
@t0hyan 九州から近畿へ遷都!!
とうやんさんのサイト発見^v^

▼【倭国の遺跡スポットを訪ねてみよう】

私の薄学では理解できるとは思いませんが読ませていただきます。
以前から聖徳太子が作ったとされる像がいきなり立派なものなので素人感覚で不思議に感じておりました。



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
わーッ、感激です ^_^
この遷都の事は「古田史学の会」の正木裕氏の記事で知りました。
678年筑後川沿いに「筑紫大地震」が起きて、当時の宮が倒壊するとかしたのでしょう。
その後、684年の近畿で「白鳳大地震」
が起きてその時は、近畿に遷都していたとの事です。



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
九州王朝「倭国」が「筑紫」から近畿へ遷都したとする記事は、このブログの一番最初の記事です。

▼【2010年2月18日(木)
九州王朝から近畿天皇家への権力移行期】




● 古代 モサク @qq5r9hrc9
@t0hyan サイト「古賀さん」から

▼【「 新古代学の扉」】

に至りました。ありがとうございます。
私には難しすぎるかもしれませんが、チャレンジをしてみます。
ちなみに「邪馬台国はなかった」は一読しております^^;万2000里の計算が新鮮でした



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
【似てるが臺(=たい)でなく壹(=いち)と記載】の「邪馬臺国はなかった」 ⇒
要するに「邪馬壹国だった」という事ですが、
1993年発刊の『失われた九州王朝:古田武彦著』も20年を経過し、
先日読み直すと内容に細かな「違和感」感じ既に古典の部類かもと思うが良い本です。




● 古代 モサク @qq5r9hrc9
@t0hyan
天智帝と天武帝はともに今までとは直系ではない別系統(又は遠い傍系)の系統だと漠然と認識していた程度です。
日本書紀が出来た当時古事記は焚書に近い扱いだったとも聞いており激変があったのでしょう、
私は記紀や中国歴代の倭国記載の文献を読んでないことが悔やまれます ^^;



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
九州王朝「倭国」が「長門以東」を「天下立評」の為に、
「難波副都」を652年に造りますが、
そこへ派遣・常駐の執政官・征討将軍の
・初代が伊勢王(皇極・孝徳・斉明の「1人3役」)で、
・2代目が中大兄皇子(天智)、
・3代目が大海人皇子(天武)で、
果して兄弟だったかどうか?



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
「天下立評・廃評建郡」で初の中央集権国家「日本国」仮想前史が『古事記』で、更に『書紀』は(倭国史)を恭順・冊封に改竄か

▼【「古事記」の編纂者達は、「冊封拒否事件632年」以後をどのように扱って良いか“逡巡”したことは明白である】


◇◇


● 古代 モサク @qq5r9hrc9
@t0hyan
1000以上のつぶやき、数々のサイトに圧倒されました。私程度の者が立ち入るのは少々憚れる気も致しますがお許し願います。
仏閣・仏像等の芸術(?)品が北九州から近畿へ移設という難事も、遷都であれば平和裏に行なえると私なりに納得した次第です。
天武は二人居られるのですね。



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
そうです。米田良三氏は672年「壬申の乱」の時、倭国は滅亡したというお考えのようですが、九州年号「白鳳」が660-684年で、滅亡していないと分かります。
「天武は二人いた」で分かるように倭王薩夜麻が再統合し中央集権国家を達成、彼の皇子高市天皇が近畿へ遷都した。




● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
従来の九州王朝の始まりから入るのではなく、終わりから検討していると、
『日本書紀』の696年7月10日の条に「のちの皇子尊〔武市皇子〕が薨じた」という「不審」な記事を見つけました。
そうです。これこそが「乙巳の変 大化改新 」の本来の姿なのです。50年前にずらし隠していると



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
『日本書紀』の696年7月10日の条に「のちの皇子尊〔武市皇子〕が薨じた」という「不審」な記事、これこそが「乙巳の変」の原型でしょう。
高市天皇暗殺だからこそ

▼【橘諸兄考ー九州王朝臣下たちの行方ー向日市 西村秀己氏】



● 古代 モサク @qq5r9hrc9
@t0hyan
私にとってかなり理解しずらい件になってきました。
ただ「隼人の乱が700年以前には1件の記録も存在しない」とういう事実は納得せざる得ません。
葛城王が九州王朝の王族の係累ということは驚くとともに、神武も九州王朝の一支族であるとの古田さんの説を思い出しました。



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
天皇が薨去したのだ3ヶ月後とはいえ顕彰記事は異常だ。
以上から「高市天皇」暗殺の下手人は、

★「丹比真人嶋」★「安倍朝臣御主人」★「大伴宿禰御行」☆「石上朝臣麻呂」☆「藤原朝臣不比等」の計5人(★印は九州系、☆印は近畿系)



● 古代 モサク @qq5r9hrc9
@t0hyan
684年 倭国大宰府から難波京遷都 696年 九州王朝最後の天皇、高市天皇暗殺。
これが645年とされていた乙巳の変・大化の改新の原型となる。
これらを縷々ある検証の一つとしての顕彰記事。
取りあえず今現在の理解です。
それにしてもまったく新しく凄い”説”です。



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
『書紀』696年7月10日の「のちの皇子尊〔武市皇子〕が薨じた」が、645年6月「乙巳の変」(の元の姿)ですが、
(新羅での「毘曇(ひどん)の乱」を参考に、)これのみ51年前に移動

《ご参照》
『果たしてそうでしょうか?「近畿天皇家の事績」と飽く迄「見せかけた」だけではないでしょうか』




● “ とうやん ” @t0hyan
『古事記』の編纂者達は「冊封拒否事件632年」以後をどのように扱って良いか【逡巡】したことは明白である

▼【2014年2月13日(木)
初の中央集権「日本国」の仮想前史が『古事記』で、 更に『書紀』は倭国外交史の独立対等を冊封恭順に改竄か】



● “ とうやん ” @t0hyan

⇒「天下立評・廃評建郡」で初の中央集権国家「日本国」の《仮想の前史》が『古事記』で、

更に『書紀』は倭国外交史の「冊封拒否事件632年」が示す通りに、本来は「独立・対等」なのに、秦王国外交史に倣って「冊封・恭順」に挿げ替えて改竄している。


◇◇


● 古代 モサク @qq5r9hrc9
@t0hyan
今の私程度の知識では遠く及ばない次元であります。いつの日か賛否の思いが湧く程度にはなりたいと思う次第です^_^;
今はとうやんさんの膨大なサイト眺めさせていただいております。
肯定否定ではなくたぶん想いの幅を広げるのが目的になりそうです。
それにしても膨大です!



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
ここ横浜は、今年2度目の「すごい」大雪で、家の前と「ごみ集積場」の「雪かき」をしてきました。
私のは、米田良三氏、鹿島曻氏、「古田史学の会」の古田武彦氏・古賀達也氏・正木裕氏・西村秀己氏 、日出島哲雄氏、他各位のご意見を整合性のあるものに集約しただけですね^^



● 古代 モサク @qq5r9hrc9
@t0hyan
とうやんさんのサイトを覗く前に、存じ上げていたお名前は恥ずかしながら古田さんだけであります。
古田さんの何処かの会のサイト覗いてみたことがあるのですが、
私の基礎知識の乏しさのため難しいイメージがありました^_^;
多数の著作者を追うのではなく少数に絞って漁ります^_^



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
『多数の著作者を追うのではなく少数に絞って漁ります』⇒ですか?
まー、この古代史に関してですけど、一人の著作では行き着くところまで来ているんじゃーないでしょうか?
もう一人の考えだけでではなく、ネットを広く広げて色んな意見を聞いた方がベターと思いますけどねー^^



● 古代 モサク @qq5r9hrc9
@t0hyan
ご意見のほどありがとうございます^-^
お言葉を心に留めて古代史を漁ります^^





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(a0114) 【「天下立評・廃評建郡」で初の統一中央集権国家「日本国」の《仮想の前史》が『古事記』である。⇒について】 2014/2/15(土)





● “ とうやん ” @t0hyan

「天下立評・廃評建郡」で初の統一中央集権国家「日本国」の《仮想の前史》が『古事記』である。
更に『書紀』は「冊封拒否事件632年」が示すように倭国本来の「独立・対等」外交主張を、
秦王国に倣って「冊封・恭順」外交史に挿げ替えて改竄している。



● “ とうやん ” @t0hyan
この上記標題
【「天下立評・廃評建郡」で初の統一中央集権国家「日本国」の《仮想の前史》が『古事記』である。】
については、
白鳳倭王・薩夜麻が唐から開放帰国後、
倭国再統合戦の「壬申の乱」で大海人皇子の協力で戦勝した以降に、
天下立評以前の長門以東の各扶養王国に、その歴史書を提出させたまとめだろう。




● “ とうやん ” @t0hyan
@jyoumonjn
仏教も神道もどちらも中国を経由ですから相互に影響を受け、特に道教の神学のほうが大きいかと?
権現も現人神も仏教用語ですが、明神アキツカミも道教系と考えれば修行によって神となったものとも…ちょっと無理がありますか?(福永光司「道教と古代日本」)2011年2月11日



● “ とうやん ” @t0hyan
@jyoumonjn さんが、この時紹介の『道教と古代日本:福永光司著』を読み直しているのですが…、

参照
▼【2011年2月11日(金)
「八幡大菩薩大明神」の掛け軸、これって神道ですよね。
でも「南無」「菩薩」「多宝塔八幡」とかは仏教用語】



● ジョウモンマン【負けにも学ぶ生活が第一】 @jyoumonjn
@t0hyan
コンニチハ、
・神道系は神人、明神で人が修行によって神の位置となり(神仙)人
 ⇒神 のプロセス。
・仏教系は権現、現人神で仏が神、人の形で現れる色身(人)であり仏又は神
 ⇒ 神又は人のプロセス(道教と古代日本44P)と確認できます。



● ジョウモンマン【負けにも学ぶ生活が第一】 @jyoumonjn
@t0hyan
八幡大菩薩は、神仏習合が進んだ平安期~に八幡大菩薩神としているため本地垂迹なら仏教系でしょうが、本来は 宇佐御託宣集によれば
「古へ吾ハ震旦国ノ霊神、今ハ日域鎮守ノ大神ナルゾ」
とあるので道教系なのでしょう。(続く)

(続)「大神」とは 道教の霊神となった老子の神格化した神「太上老君」のことのようです(馬の文化と船の文化186Pでご確認を) ^^
道教が先行して仏教が今来の神として習合したような気がするのですが(私見)



● “ とうやん ” @t0hyan
@jyoumonjn
お久しぶりですね^^
今日は、ここ横浜の雪が大変で、畑の被害が心配で昼飯喰って見廻りに行きましたら、
あれまー!!
雪が畑の「ぐるり」に貼ってある防虫網の天井を破って、「ドカッと」落ちてて、
みかん・リンゴ・桃・李の枝を折ってて「必死越えて雪さらい」してきました。


◇◇


● “ とうやん ” @t0hyan
『道教と古代日本:福永光司著』p9を引用・転載する。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



「天皇」考 六題

一 天皇と道教

日本の古代文化が中国の土着宗教である道教の思想信仰と明確な関連性を持ち始めるのは、

それまで「きみ」とか「おほきみ」とか呼ばれていたこの国の元首を新しく道教の神学用語である「天皇」の概念を用いて、

おごそかに、またすがすがしく呼び改めた時期からである。



その時期は日本国として初めて中国と正式の国家的な交渉を持った遣隋使派遣の頃、
すなわち聖徳太子が摂政として活躍された六世紀の終わりから七世紀の初めにかけてではないかとする説も有力であるが、

道教との文献実証的に確実な関係ということになるとやはり、
それよりも半世紀あまり後れる天武・持統の頃ということになる。


持統皇后を生母として天武の皇太子であった草壁皇子(日並皇子尊=ひなみしのみこのみこと)の西暦六八九年四月の若き死を悼んで、

当時の宮廷歌人・柿本人麻呂の作った挽歌(『万葉集』巻二)に、

「浄御原の宮に神ながら太敷きまして天皇(すめろぎ)の敷きます国」
とあるのがそれであり、

この挽歌に用いられている「天皇」の語は、その5年前、天武十三年(六八四)に制定された「八色の姓」が中国の道教の神学で神仙世界の高級官僚を意味し、

最高神の「天皇」とセットにされている「真人」の称号を、日本の天皇家の一族のみに賜わる「姓」として採用していることと緊密に対応する。



ちなみに、この「真人」の語は、西暦六八六年九月に崩御された天武天皇の諡(おくりな)「澚真人(おきのまひと)」としても用いられており、
「澚真人」というのも道教の神学で「澚(えい)州」と呼ばれる海中の神山に住む神仙世界の高級者という意味である。



日本の古代国家の元首を呼ぶ言葉として新しく採用された「天皇」の概念は、
右に述べたように本来は中国の土着宗教である道教の神学用語であったが、

この「天皇」の概念は、右に述べたように本来は中国の土着宗教である道教の神学用語であったが、
この「天皇」という神学的な概念が一たび日本の古代で国家元首を新しく呼ぶ言葉として採用されるようになると、

その日本国の国家元首もまた必然的に「天皇」の概念が本来的に持っていたさまざまな道教的性格をほとんどそのまま継承することになる。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
《転載は以上です。



《問題点の抽出》

● “ とうやん ” ‏@t0hyan 2月16日
①項:それまで「きみ」とか「おほきみ」とか呼ばれていたこの国の元首を新しく道教の神学用語である「天皇」の概念を用いて、ー呼び改めた時期からである。
②項:天武・持統の頃ということになる。
⇒天智天皇は別に、斉明以前は「天皇」とは呼ばなかった。



●“ とうやん ” ‏@t0hyan 2月16日
②項:道教との文献実証的に確実な関係ということになるとやはり、それよりも半世紀あまり後れる天武・持統の頃ということになる。 ⇒

この「天武・持統」とは、大宰府王家の「白鳳倭王薩夜麻・高市天皇」の事であるとなる



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
「天皇」の語は―天武十三年(六八四)に制定された「八色の姓」が中国の道教の神学で神仙世界の高級官僚を意味

「八色の姓」の制定は、
《天武13年》【684年:白鳳24年⇒朱雀元年】のことではなく、
《白鳳13年》【天武2年(673年)】のことだ



● “ とうやん ” ‏@t0hyan 2月16日
④項:この「真人」の語は、西暦六八六年九月に崩御された天武天皇の諡(おくりな)「澚真人(おきのまひと)」としても用いられており ⇒

九州王朝に任命された官職・「朝臣」の任命。「真人」に任命された天武


◇◇


● “ とうやん ” ‏@t0hyan 2月16日
③項:「浄御原の宮に神ながら太敷きまして天皇の敷きます国」 ⇒

・古田武彦氏の「飛鳥浄御原宮は筑紫小郡に存在した、九州王朝の宮である」
・古田史学会報no103「筑紫なる飛鳥宮」を探る:正木裕氏投稿



● “ とうやん ” @t0hyan
『道教と古代日本:福永光司著』p9
「天皇」考 六題
一 天皇と道教
を引用・転載したが、故福永光司氏の文章は、修飾節が長く「こ難しい」表現になっている。
とはいえ本意は、ご理解いただけただろうか。
「こ難しい」中にも、以上指摘したこれだけの問題点が有るのをご理解いただけただろうか



● “ とうやん ” @t0hyan
私が何を言いたいか
《それまで「きみ」とか「おほきみ」とか呼ばれていたこの国の元首を新しく道教の神学用語である「天皇」の概念を用いて、おごそかに、またすがすがしく呼び改めた時期・人物》は
白村江敗戦で唐に拉致・連行され、壬申の乱直前に解放され、唐より帰国した白鳳倭王薩夜麻だ。
という事



● “ とうやん ” @t0hyan
天武天皇「二人1役」の片方の白鳳倭王薩夜麻であればこそ、その彼の皇子の高市天皇が即位した同年690年に伊勢神宮の式年遷宮始まったのだ。

▼【NHKの歴史秘話ヒストリア「伊勢神宮 日本の始まりへの旅」で、「式年遷宮」は高市天皇即位年に始まった】



● “ とうやん ” @t0hyan
まとめると、

▼【2013年10月4日(金)
天武天皇(倭王薩夜麻)の人質解放帰国後、日本の国家的神道が始まり、息子の高市天皇へ引継がれた。】



● “ とうやん ” @t0hyan
天武天皇「二人1役」の片方の白鳳倭王薩夜麻だと解釈すればこそ、天武天皇を絶賛してる『古事記・序文』が理解できるのではないだろうか?

『勘違いするな。『古事記・序文』の“どこにも”
「壬申の乱」とか、「吉野に入った」とかは、書かれていない』



● “ とうやん ” @t0hyan

『続・2) 九州王朝に任命された官職「朝臣」の任命。「真人」に任命された天武』

(私が思うに、)「白鳳倭王・薩夜麻が崩御する以前に、壬申の乱の功により、倭灘波副都弟王家の大海人皇子・天武天皇へ、倭王帝位を禅譲する約束がなされていた」のではないかという事です。
大海人皇子の倭王帝位在位期間が、即ち、倭国年号「朱雀」であろう。




● “ とうやん ” @t0hyan
なお余談だが、【日本書紀】が、どのように「切り貼り」して編纂されたかは、
左横の◎▲●印の注釈に現われている

『続・1) 九州王朝に任命された官職「朝臣」の任命。「真人」に任命された天武』

この「34年遡上」説、及び、その応用例「白鳳○○年⇒天武○○年」を、 『日本書紀』(国史大系版)に当て嵌めてみよう。



● “ とうやん ” ‏@t0hyan 2月17日
天武十三年(六八四)に制定の

『白鳳13年(673年)を天武13年(684年)にしている』
⇒「八色の姓」制定は673年(が史実と思われる。)



● “ とうやん ” ‏@t0hyan 2月17日
(くどいかな)これを具体的に説明すれば、
・九州王朝「倭国」の史書に、『 白鳳13年「八色の姓」制定 』記事があったとする。
・これを『日本書紀』編者は『 o天武o x 白鳳 x 13年「八色の姓」制定 』と、
(白鳳を消して天武を追記)朱字で「添削」している。
のちの読者は白鳳13年(673年)を天武13年(684年)と受け取る(しくみだ)。



● “ とうやん ” ‏@t0hyan 2月17日
『日本書紀』編者は、九州王朝「倭国」の史書の「九州年号」を元に、(このような切り貼りによる改竄を)随所で行ったようで、驚くに値しない。

【これが『書紀』のからくり、九州年号で倭国史書を切り貼り】

今ならパソコンで正確に「カット&ペースト」できただろうが、人手だとそうも行かず、重複記事が散見される結果になった。





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(a0115) 【とりわけ「県風土記」は、『古事記』と共に、白鳳倭王・薩夜麻が「道教」の移入と同時に編纂を命じたのでは】 2014/2/17(月)





● “ とうやん ” @t0hyan
【風土記には「県風土記」と「郡風土記」の2種類ある】わけですが、
『古事記』と共に、白鳳倭王・薩夜麻(=天武天皇)が「道教」の移入と同時に編纂を命じた。

▼【「天下立評・廃評建郡」で初の統一中央集権国家「日本国」の《仮想の前史》が『古事記』である。⇒について】





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(a0116) 【グーグルアースで大和川流域「亀の瀬」を見ると標高が43m、すぐ川下の鉄橋下は25m。実に18mの落差】 2014/2/19(水)





● reju @junorei3
上町台地の変遷。
内陸の奈良が古代政権の都だったのは、船でそこまで行けたから。
上町台地以外は、大阪は湿地や海。。。

▼【古代上町台地の地形変遷と大阪高低差学会(2013年12月26日)】《魚拓》



● “ とうやん ” @t0hyan
@junorei3
古代「奈良湖」の大和川流域の

「亀の瀬」

をご存じないみたいですね。

▼ 【 「秦王国」が奈良盆地にあったとして、海へは「大和川」の利用だろうが、当時の奈良湖、河内湖とは? 】



● reju @junorei3
@t0hyan
船では行けないという意味でしょうか?



● “ とうやん ” @t0hyan
@junorei3
「船では行けないという意味でしょうか?」 ⇒
そうです。
「船でそこまで行けたから」それ故に「内陸の奈良が古代政権の都だった」
と結論づけされています。
然し、グーグルアースで「亀の瀬」を見ると標高が43m、
すぐ川下の「大和路線」鉄橋下は25mです。
実に18mの落差です



● reju @junorei3
@t0hyan
行けないと結論付けして大丈夫でしょうか?
わざわざ徒歩で行かないといけないのに、そこに都作るメリットがわかりません。



● “ とうやん ” @t0hyan
@junorei3
貴方の文意が分かりません。
私のは、大和川を遡って飛鳥迄「舟だけ」では行けない、と言う意味です。
昔の「亀の瀬」は18mの落差どころか、もっとあったはずです。
考えられるのは「運河」を造っていたか、
或いは「木津川経由」で、奈良湖に入り飛鳥へ入ったと見るべきでしょう。



● reju @junorei3
@t0hyan
それはそうかもしれないです。



● “ とうやん ” @t0hyan
@junorei3
言いたいのは、大和朝廷が紀元以前から奈良盆地の飛鳥に「ずっと」あって、日本列島を支配していたとする『古事記』『日本書紀』は「おとぎ話」か「作り話」かだということです。
「古代・河内湖」、「古代・奈良湖」が、更には、大和川の「亀の瀬」が傍証になっていると考えます。



● reju @junorei3
@t0hyan
そうですね、ずっとあったというのはおかしいですね。
弥生から古墳時代に半島などから渡ってきた様々な氏族が列島を支配していったと私は思います(詳しくないので想像です)
でも、古事記は歴史を伝えているとも思います。聖書と同じく真実とおとぎ話が混在してるかと。




● “ とうやん ” @t0hyan
ひょっとして、ここ大和川中流域の「亀の瀬」は
古代は日光「華厳の滝」のような滝だったのではないだろうか?

▼【2014年2月19日(水)
グーグルアースで大和川流域「亀の瀬」を見ると標高が43m、すぐ川下の鉄橋下は25m。実に18mの落差】



● “ とうやん ” @t0hyan
グーグルアースでは、マウスポイント地点の北緯・東経・標高が右下に表示される。
「古河内湖」の湖底だった東大阪の布施駅辺りは、何と標高2mだ!
いつ冠水してもおかしくない。

▼【Google Earth(グーグルアース)無料ダウンロードサイト】




● 古代 モサク ‏@qq5r9hrc9
@t0hyan
お二人の会話を興味深く拝聴。グーグルアースダウンロード失敗^^;



● “ とうやん ” @t0hyan
@qq5r9hrc9
「グーグルアースダウンロード失敗」ですか、少しメモリーに空きエリアが必要なんですかね。。。





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(a0117) 【現在の「2国」は当時の「山陽大路」ではないと言う事か、残念!難波のほとんどが「△1m~+1m」】 2014/2/21(金)


● “ とうやん ” @t0hyan
グーグルアースで

【山陽道との「交差点」】

の標高を見ると、なんと「△1m」だ。
ということは、現在の「2国」は当時の「山陽大路」ではないと言う事か、
残念!難波地区のほとんどが「△1m~+1m」で、「難波副都」の標高は少なくとも3m以上欲しい



● “ とうやん ” @t0hyan
グーグルアースで【山陽道との「交差点」】の標高を見ると、なんと「△1m」だ。
と言う事は、現在の「2国」は当時の「山陽大路」ではないと言う事だし、
現代でさえ「難波地区」のほとんどが「△1m~+1m」と言う事は、当時はもっと標高が低く
「難波地区」のほとんどが難波の海中だった事になる



● “ とうやん ” @t0hyan
当時の「難波地区」のほとんどが「難波の海」中に没してたと分かったわけだが、

大和朝廷「はしり」の「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」が尼崎市内ではない

と言う事ではない。
ただ、その想定場所が少し山側の標高の高い場所に、移っただけだ。




● “ とうやん ” @t0hyan
先の

【大和朝廷「はしり」の「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」の場所が、どちらの「難波」か?定かでない】

で、尼崎市難波に「難波副都」を探しているのだけれど「山陽大路」は

【山幹通り】

沿い以北か



● “ とうやん ” @t0hyan
『続・古代の道:武部健一著』p78

葦屋駅(芦屋市津知町津知遺跡)

に異論はないとある。
京都時代の「山陽大路」は、ここを起点に171号線沿いに京都へ付け替えられていたと考える。
然し「難波副都」造開都652年当時は【山幹通り】沿いではないか



● “ とうやん ” @t0hyan
もちろん

【山手幹線】《魚拓》

は最近完成したものである。
だが一方、『続・古代の道』には古代の道路は不思議と現在の高速道路と同じルートに沿っているとある。ここでの「名神高速」である。
「山手幹線」も「名神高速」も尼崎市内は、ほぼ平行に走っている。



● “ とうやん ” @t0hyan
171号線が、

「越水町」

で急に南下してるのは変である。
京都時代の山陽道は、南下せず直進してたとすると、

「夙川駅」

辺りで「山手幹線」にぶっつかるではないか。(これは私の屁理屈かもしれない^^)



● “ とうやん ” @t0hyan
一方

「西宮津門」《魚拓》

には、
『かつて、武庫平野には伊丹─西宮の西国街道しかありませんでした。
「大坂(阪)の人は神崎から伊丹へわざわざ回って西に旅をしていました。」それがいわゆる上街道です。』とある。
広い河口部の渡河は避けていたのだろう。



● “ とうやん ” @t0hyan

「西宮津門」《魚拓》

には
『参考地図を見ていただければ分かるように「阪急電車の線路あたりが当時の海岸線だった」のです。
武庫川や夙川が毎年のように氾濫して住むのに危険だったのかもしれません。
そうすると西宮神社のあたりは海です』
「阪急電車」沿いかも


◇◇


● “ とうやん ” @t0hyan

【伊居太神社】《魚拓》

「尼崎市市内最大の前方後円墳(伊居太古墳)で、氏族祖神の墳墓の上に社殿を建立された。
弥生時代集落が発達した地で、近くには太古の史跡が多い。

【伊居太古墳】

という事は当時陸地だった。



● “ とうやん ” @t0hyan

【大井戸公園】

には

【大井戸古墳】

直径約13mの円墳で、古墳時代後期(7世紀頃)のものと言われている、があります。
要するに、「阪急線」まで山手へ行かなくても、「山幹通り」以北は人が居住していたという事だ。



● “ とうやん ” @t0hyan
尼崎市の6世紀中頃の海岸線は「ざっくり」言うと「JR東海道線」沿いと考えられ、
山陽大路は「山幹通り」そのものだっただろう。
山陽大路は九州王朝「倭国」が造ったもので、
起点「都の大宰府」と、終点「難波副都」を結ぶ補給路だったのだ。
それより東のルートは奈良や京都時代に発展したと考える。



● “ とうやん ” @t0hyan

【・難波湊 〈攝州 霜がれの 難波の「あしの (=葦野)」ほのぼのと 明る湊に ちどり鳴也、此外よめる事、潟に同、〉】

で分かるように、尼崎市難波地区は海水と武庫川・庄下川・猪名川の淡水が混ざる喫水場所を好んで生育する葦野だったのだろう。




● “ とうやん ” @t0hyan
「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」は東西を猪名川・武庫川で、
南北を「JR東海道線」「阪急神戸線」で囲んだ境界の内側にあったと思う。

▼【現在の「2国」は当時の「山陽大路」ではないと言う事か、残念!難波のほとんどが「△1m~+1m」 】



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