大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 062 》
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ
白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、
日本書紀の〔 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権
2010年 4月 2日 発行
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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ https://waikoku.sakura.ne.jp/yamato.html 2:32 PM Apr 2nd webから ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
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(940) 『三瀬の民宿『具座』のご主人に、初瀬川のほとりが、「長谷寺」の跡地だと、そっと、耳打ちしたい衝動に』 2012年3月24日(土)
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三瀬村民宿『具座』のご主人へ、そっと、耳打ちしたい衝動にかられてしまいますね。付近の初瀬川のほとりが、「長谷寺」の跡地だと。最初の遠景は「金山」ですかね。 (=^・^=)
●ジョウモンマン@jyoumonjn
『桃源郷』って? 調べましたよ。見っけ、
●ジョウモンマン@jyoumonjn
●ジョウモンマン@jyoumonjn
《龍脈の連なる蔵風得水の良地》え・えーッ!? いわゆる、“風水”のですか?「京都」が風水で良い土地だって、聞きますがね…。
★ 風水を意味する「蔵風得水」とは?
★ 風水を意味する「蔵風得水」という言葉があるそうなのですが、この読み方ってわかりますか?
《ベストアンサーに選ばれた回答》:
★ 『楽ちゃんの風水学入門(地理風水研究家 : 太楽勝典)』
第四章-2 日本の風水都市を調べる。(その1)
先に、米田良三氏の言う
『五〇〇〇年前の暘谷を湯の谷と断崖の上に生えた「扶桑の木」と書いており、深い海溝を挟んだ特殊な形状の海峡が表現される。現在中部、関東地方の神社に伝わる「オビシャ」という祭りの原型と思われる言葉「太陽と鳥」が記される。
《ご参考迄に》この「オビシャ」について、記載されたページを探しました。
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(944) 『「又聞く日本の天皇及び太子・皇子、俱に崩薨りましぬ」の『又(ユウ:ふたたび)』を再考する』 2012年3月29日(木)
◇
◆ (094) 『又聞く日本の天皇及び太子・皇子、俱に崩薨りましぬ』 2010年5月22日(土)
● 任那日本府」とは、筑紫から見て倭人連合の北の人・土地という意味と、韓半島南部の倭人連合国の宗主国:安邪という意味だろう。この安邪の日本府で百済本紀531年(継体天皇25年)「日本の天皇及び太子・皇子、俱に崩薨りましぬ」の事件があったか。最初に日本を名乗ったのはこの安邪であろう。
● 531年(継体25年)「太歳辛亥の3月軍進みて安羅に至り、乞乇城を営む。この月高麗、其の王安を殺す。 (同じ内容の事を) 又聞く日本の天皇及び太子・皇子、俱に崩薨りましぬ」この安邪(安羅)の南に弁辰古資彌凍国「越水戸国」小伽耶があり、ここの継体天皇が534(継体28年)歳次甲寅に崩ず。
◇
◆ (095) 『倭薈(磐井)王・安羅の王安(日本の天皇)・小伽耶の継体天皇は別人』 2010年5月22日(土)
● 531年(継体25年)「太歳辛亥の3月軍進みて安羅に至り、乞乇城を営む。この月高麗、其の王安を殺す。 (同じ内容の事を) 又聞く日本の天皇及び太子・皇子、俱に崩薨りましぬ」で、百済本紀はこの「安羅の王安」と「日本の天皇」とが同じだと言うが、更に日本書紀編者は「日本の天皇」と「継体」を同一視したと書いている。
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★ この上記記事の “ここが、キー・ポイントだ”…で、 『又(ユウ:ふたたび)』について、振り返って再考しょう。
531年(継体25年)
▼ 【 太歳辛亥の3月軍進みて安羅に至り、乞乇城を営む。この月高麗、其の王安を殺す。】
≒ (同じ内容の事を) 又(ユウ:ふたたび・その上さらに)聞く
▼ 【 日本の天皇及び太子・皇子、俱に崩薨りましぬ 】で、
百済本紀はこの “「安羅の王安」と「日本の天皇」とが同じだ” と言うが、
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● 倭薈(磐井)王が「にわかに官軍が動発し襲われた」が為の死亡が「發倒」(531辛亥)継体25年であり、同531年(継体25年)太歳辛亥の3月、安羅の王安を殺す。又聞く日本の天皇及び太子・皇子、俱に崩薨と、この安羅の南の小伽耶の継体天皇が534(継体28年)歳次甲寅に崩ずは別事件だ。
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(946) 『せっかくの投稿記事も、ネットに公開されてないので、結果、会員限定になっている“もったいない”話である』 2012年3月30日(金)
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最近、twitterで、tweetが全然無い、あるいは、極端に少ないといった方が、フォローしたから、リフォローしてくれって…言ってくる。
そういう場合、私はリフォローしていない。
例え、それが、とつ・とつとした意見であっても、良いじゃーないか。自分の意見をせっかくだから書こうよ、ねッ!?
たったの17年前、ネットの無い時代に、自分の意見を述べようとすれば、自費出版するかしきゃない…、駄目だったわけで。
今は、ホームページあり、ブログあり、ツイッターあり、フェイスブックありで、思った時、自在に自分の意見を述べることができるのだから。
せっかくの手段を封印しないで書こうよ!!
私は、
年会費が、といっても、一般会員で¥3,000(会報年6回込)、賛助会員で¥5,000(会報年6回込+論文集『古代に真実を求めて』)である。
この会報に投稿して採用されれば会報へ載せてもらえるのだ。
『古田史学の会』
よって、一度も投稿したことはない。そういう意味ではツイートの無いツイッターと同じだ。
『古田史学の会』が、年6回発行する『古田史学会報』には、“これはッ”といった内容の投稿記事が時々あるが、ここでも、紹介取り上げてるので、ご存じの方も多いと思う。
ただ、せっかくの投稿記事も、ネットに公開されていない模様なので、会員限定になってしまっている。“もったいない”話である。
先日、義母の妹(75才?)さんが、我が家に見えた折に、IPADの販売当日(15日?)にも関わらず、彼女はIPADを持ってるじゃないか(郡山で1台だけ残ってたらしいのだ。)、どっち道、宝の持ち腐れになるから、強く譲るように勧めたわけだが、頑として受け付けてくれなかった。と・ほ・ほ…
今は、このIPAD等に、「電子出版」するといった方法もあるわけで、先の『古田史学会報』なども、「著作権」云々があるのなら、こういった、「電子出版」を計画するのも良いかと考えるわけだ。
とりわけ、米田良三氏のように、不当な妨害をこうむっている著作には、ぜひ、「電子出版」を検討されたい。
米田良三氏の私家版の制作・出版を手がけるボランティア出版局
『…ところが、増刷を望んでも出版社は応じる気配はありません。アカデミズムからの制止があるのでしょうか?』
云々とあり、今も不当な妨害があるようだ。
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(947) 『速報 !!『宇治平等院』の九州王朝「倭国」時代の所在地が分かった『漂泊の宇治平等院鳳凰堂:米田良三著』』 2012年3月30日(金)
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おやッ、久しぶりに、米田良三氏の出版局
速報 !! 宇治平等院の九州時代の所在地がわかった。
◇
『漂泊の宇治平等院鳳凰堂』
筑紫野市の山中にある「平等寺」の地を流れる山口川の流域に、平等院最勝院が蔵する境内古図の平等院を合わせパズルのごとく探し置く作業をした。
ただ一か所のみ平等院の存在した可能性のある場所を明治33年陸軍測量の地図の上に見つけることが出来た。
しかし、地図にはそれ以上に正確な地勢を読むことは不可能であり、現在の地図からも過去を読み取る術がなかった。
かつて磐井の墓や東大寺伽藍跡を探し出す際にお世話になった、戦後に米軍が撮影した航空写真を国土地理院に求めることになった。
郵送されてきた写真に平等院の境内の存在を確かめ得た。
◇
(当初の想定地)筑紫野市郊外の山中の平等寺という地名に幻惑されたのが敗因です。
俗名院って何処だーッ!
● 【 九州王朝「倭国」時代の『宇治平等院鳳凰堂』の所在地 】
◇
わたしも、今知ったばかりで、その詳しい内容を知りませんが、先に、ここでも取り上げ想定してた「筑紫野市郊外の山中の平等寺」ではなかったようです。早とちりでした…ごめんなさい!!
それにしても、いつもながら“素晴らしい”発見だと言えます。
◇
この
〔 法隆寺移築説の原点である観世音寺・考 : 米田良三 論 〕
とりわけ、古代「倭国」史上には、避けて通れない“非常に重大な事件”が、“隠蔽”されていますが、その“秘密”を、米田良三氏が、見事に解明してくれています。
その“注目”の内容、
◆ (890) 『古代の日本で、如何に重要な史実だったかが分かるというものだ。『源氏物語』に隠された史実とは?』 2012年2月12日(日)
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この極東アジアの歴史の流れの中にあって、
◎ 632年:『唐冊封使高表仁が、為尊親王を切殺す』
⇒ 〇 642年:『「国宰」任命の詔勅』
といった一連の「史実」が有ることがうなづけるというものだろう。
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即ち、ここで、
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(948) 『《遠景から龍脈の連なる蔵風得水の良地のようです》 と、《三瀬 それは奇跡のパワースポット》との違い?』 2012年3月31日(土)
◇
ところで、
三瀬 それは奇跡のパワースポット
現在の三瀬村の鳥瞰図
この界隈は全く開発されておらず、倭国長谷寺を偲ぶことができる夢のような聖地である。
江戸時代には、善正寺からは鐘楼が、萬福寺からは経蔵が京都知恩院に移築された。丘の上には長谷寺本堂があった。丘の上に礎石が並んでいることが確認されれば、この仮説は限りなく定説に近づく。
しかし、どういうわけか丘に登るルートが定かではない。山門は謎が多いが、倭尺で作られておれば、この地にあったと考えられる。
倭国時代の元祖 紫式部、清少納言はこの鐘の音を聞いていた。同じ音を現代人は知恩院で聞くことができる。平安時代の写本偽装書き換え集団は聞いていないのではないか。それとも、九州まで旅をしたのだろうか。
云々、とあって、
◇
一方、先日朝日テレビの“三瀬の民宿『具座』”では、ジョウモンマン @jyoumonjn が、次のように教えてくれている。
(940) 『三瀬の民宿『具座』のご主人に、初瀬川のほとりが、「長谷寺」の跡地だと、そっと、耳打ちしたい衝動に』 2012年3月24日(土)
●ジョウモンマン @jyoumonjn
《龍脈の連なる蔵風得水の良地》え・えーッ!? いわゆる、“風水”のですか?「京都」が風水で良い土地だって、聞きますがね…。
★ 風水を意味する「蔵風得水」とは?・《魚拓》
◇
▼ 《遠景から龍脈の連なる蔵風得水の良地のようです》 と、
▼ 《三瀬 それは奇跡のパワースポット》との違い? について述べよ。
・・・なーんちゃってね (=^・^=)
■
(965) 『「成破の盟約」に至った水長両藩の歴史的背景を理解すると、“南朝革命”が浮かび上がってくる』 2012年4月7日(土)
■
安倍晋三の母・洋子さんの父は岸信介、即ち安倍晋三の祖父である。岸信介の弟が佐藤栄作である。
同郷の先輩に、伊藤博文がいる。明治天皇の出身地は、田布施麻郷で、その息子が昭和天皇である。
ルース・ベネディクトの『菊と刀』を読めば、岸が巣鴨から何故解放されたか分ろうというものだ。
岸信介の叔父さんが、田布施で佐藤歯科医院をやっていた。親父は、ある事でその佐藤歯科医院に、頼みに行った。私が小学6年の時だ。
●道産子詩人@pikkipikki
あらッお詳しいですね。足利系天皇から断絶しょうとしたが、実際は断絶できなかった、で、現在の平成天皇があるということでしょうかね^^
●道産子詩人@pikkipikki
@tohyan コメントありがとうございました。戦後すぐには熊沢天皇という南朝系の子孫を自称する人がいたらしいですがその後どうなったんでしょうか?明治までは伊勢神宮には参拝した天皇が皆無だったというのも断絶の証拠かなと。天武天皇が壬辰の乱で遠く伊勢神宮に戦勝祈願をして以来です
◇
普通の
その名が示すように,水戸側が「破」,つまり破壊的な行為を行って世情に混乱を起こし,長州が「成」,つまり正しいと信じる姿の世につくり変えていくというものでした。約定に名を連ねたのは,水戸側が西丸帯刀・岩間金平・薗部源吉・越宗太郎,長州側が桂小五郎・松島剛蔵で,仲介者は肥前の草場又三といわれています。』
とあるように、“表面的に”うけとっています。
…が、“「成破の盟約」”に至った水長両藩の歴史的背景を理解すると、“南朝革命”が浮かび上がってきます。
私の親戚は、山田といいますが、吉田松陰からの葉書きが仏壇にあったと言っていました。
吉田松陰の偉大なる特長は、私が要約するに、“日本帝国主義の確立”にあったと考えています。
どこに、書いてあったかと、探しましたが、ありました。
『裏切られた三人の天皇(明治維新の謎):鹿島著』p214には、次のようにあります。
『松陰は実に明治維新の指導者であった。明治の歴史を考えてみるに、維新政府はひたすら松陰の革命の理念を追い求め、半ばにして失敗したというべきであった。
松陰は複雑な人格であったが、その理念はおよそ三つに分けることができよう。
(一)は南朝正系論である。水戸光圀の『大日本国史』は要するに、“熊沢天皇擁立”を求めたものであり、松陰のそれは長州の“大室天皇擁立”であった。これはのちに、“「成破の約」”として、水長両藩の秘密条約に至る。松陰は水戸の光圀の思想を受けて「儒仏は正に神道を輔くる所以なり、神道は君なり、儒仏は相なり、将なり」と述べて、神道による国家支配を主張した。維新政府と神道の癒着はここにはじまったのである。
(二)は徹底した、“民族主義と侵略思想”である。安政一~二年(一八五四~五五)に萩の野山獄において松陰は「来原良三に与うる書」の中で、
「富国強兵し、蝦夷を耕し満州を奪い、朝鮮に来り、南地(台湾)を併せ、然るのち米を挫(くじ)き欧州を折(くだ)かば事克たざるはなからん」
と書いているが、のちに維新政府は岩倉使節団の帰国後、松陰の言葉通りに侵略戦をはじめた。云々。』
詳しくは、同書をご参照くださいね。
私は小中学生時代、親父と布団を並べて寝てた。寝物語に長州藩の維新の英雄の話をよく聞かされ、その中に“玉(ぎょく)を取れ”と言うのがある。
◇
●道産子詩人@pikkipikki
鹿島をお勧めします。尊王攘夷、佐幕開国、公武合体と、幕末は刹那的な意見に振り回された時期だったのでしょう。そんな中にあって、独自の「日本帝国主義」の確立を実践したわけで、その断片が垣間見えるだけです。
◇
●ちほたん(・0・)@chihointokyo
言いたい放題のことは、三宅の他に私だけかと思ってたが、ここにもいましたか。人形峠のある中国地方は空間浮遊放射能が、全国平均に比べて高いと言います。注意した方が良いですよ。
●東海幸太郎【脱原発】小さな想医療を考える@setukotokoutaro
●東海幸太郎【脱原発】小さな想医療を考える@setukotokoutaro
●東海幸太郎【脱原発】小さな想医療を考える@setukotokoutaro
そうでしたか。玉野市田井にお住まいですか?最近知ったのですが…、私の腹違いの姉が嫁いでいるということで、いまさらではあるんですが、一度は寄ってみようと思ってました。
●東海幸太郎【脱原発】小さな想医療を考える@setukotokoutaro
今、
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鳩山は、辺野古の敵。菅は、原発の敵。野田は、マニフェストの敵。
●日野智貴@nihonkakuryokai
あれッ私そんなこと言いましたっけ、何かこんがらかってもうて、
思うんですが、「貴方が独りがわかるとか、わからないとか」というのではなく、
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(966) 『古田武彦氏のYouTube放送です。伊藤恭と輝く瞳ラジオ~「日本の本当の歴史」シリーズ』 2012年4月7日(土)
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古田武彦氏のYouTube放送です。
伊藤恭と輝く瞳ラジオ~「日本の本当の歴史」シリーズで、① ㈰ 「北と南の潮流」、
更に、②、③、④、⑤、⑥、⑦、⑧、⑨、⑩、⑪、⑫
と迄、有るそうです。ぜひ、ご覧ください。
⑪ 「九州年号」
⑫ 「“大化の改新”の虚実」
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●ジョウモンマン@jyoumonjn
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(971) 『NHK-BSP「歴史ミステリー 平清盛の夢~海上神殿・厳島神社の謎を追う」の再放送から平清盛を想う』 2012年4月11日(水)
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ここ横浜の今朝は、小雨です。昨夕7時ごろ、癖になった空を見上げると、最近とみに、厚木米軍基地と往来している米軍用機のそれと思しき飛行機雲が、1本見えていた。否違う、もう別にもある、更に別にも。富士山のある方角から、「旭日旗」ような地震雲ですね。まー、夕空で、はっきりしませんでしたが…
ここ横浜も、女房が言うに、「午後は、嵐になる」ってなので、桜も散ってしまうのだろう…。思うに、車で運転しながら見ると、桜って“あちこちに”あるんですね。小雨を含んだ、みずみずしいピンクの花も、今日限りでしょうか。あっと言う間に行ってしまう。おーい
◇
残念ながら録画してなくって、裏覚えですので、次のブログを参考に話しましょうか。
『観音と信仰あれこれ(2012/4/2(月) 午前 10:50)』
《ご注意》:以下は、このブログの抜粋・転載ですので、悪しからず。
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『深刻な不人気の大河ドラマ「平清盛」。 視聴率の底上げを図って ?
NHK-BSPで「歴史ミステリー 平清盛の夢~海上神殿・厳島神社の謎を追う」を再放送していた。
改めて、複雑な日本の神社仏閣のことをスタディした。
*
安芸国の厳島 (広島県の宮島)は、平清盛が進めた宋国(中国)との交易拠点として、
その航海の無事を願って「厳島神社」が祀(まつ)られた。
信仰対象の神としては、
① 日本大和民族固有の宗教「神道(しんとう)」の「宗像(むなかた)女神」、
② 唐国(中国)から伝わった「弁財天」に加えて、
③ 新たに宋国から伝わった「観音」があったと番組では解釈していた。
*
仏教では、「如来」--「菩薩」--「明王」--「天部」という仏様が悟(さと)る序列があり、
③の「観音」は「観世音菩薩」つまり「菩薩」に属し、
②の「弁財天」は「天部」に属する。
*
そして、この「観世音菩薩」は、宋国の東シナ海に浮かぶ「普陀山」(現・浙江省/舟山群島/仏頂山)から伝わったと言う。
「普陀山」(または普陀落山)というのは、中国の観世音菩薩信仰の一大聖地である。
かくして、「厳島」は「普陀山」がモデルとなったという説。
*
そもそも「観世音菩薩」は、インドから中国に伝わった仏教経典、「般若(はんにゃ)経」・「涅槃(ねはん)経」と並ぶ
信者の状況に応じて三十三種類もの仏の姿に変身する特徴が有る。
===西国三十三所観音霊場、三十三間堂などはここから由来===
*
複雑なのは、この変幻自在の「観世音菩薩」に、
中国・漢民族固有の宗教「道教」における航海の女神「媽祖(まそ)」が加わっている。
尚、「観世音菩薩」は、唐の第二代皇帝・太宗李世民の名の一部であることから、"世"の字を使用禁止としたため、以降、「観音菩薩」または「観音」と略されるように成っている。
*
あれやこれやで、厳島もまた、「神道」の①「宗像女神」、「仏教」の②「弁財天」と③「観音菩薩」の三神仏が融合し、
「厳島神社」と「大願寺」の神仏習合(しゅうごう)となっていた。
ところが、明治維新と廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動によって、神社を優遇し寺院を冷遇したのである。
*
太平洋戦争後の平和憲法下の日本では、神仏習合が復活し様々な "信教の自由" が謳歌(おうか)されている。
だが、"自由"の権利を乱用し、政教一体、税制優遇措置の乱用など問題が顕在化している。
*
神社(または神宮)信仰のランキングでは---
一位「八幡神社信仰」・・・清和源氏の武運神。神仏習合により南無八幡大菩薩とも言う。
二位「伊勢神宮信仰」・・・伊勢平氏の武運神。
三位「天神(天満宮)信仰」・・・菅原道真氏の学問神 (アンチ藤原摂関家の怨霊神でもある)。
四位「稲荷神社信仰」・・・中国・秦(しん)国所縁の渡来人・秦(はた)氏の産業神。
神社以外の市中の会社ビル屋上・工場敷地などの祠(ほこら)を加えると、圧倒的な一位に躍(おど)り出る。』云々
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
◇
今一つ、見っけ!?
【 歴史ミステリー 平清盛の夢(2012-04-05Thu)
◇
私の父方の祖父母は、“とり子とり嫁”らしいので、本家の血筋とは直接つながってはいないらしい。
…が、親父の例の寝物語の中には、先祖は「ひろざねさえもんのじょうゆきもり」だそうで、「平家ヶ岳」の下の「黒滝」という所にあって、我が家は一番高い所あった。下の周囲を家来の一族郎党の家屋が囲ってたと、言う。
◇
いわゆる、「平家落人伝説」っていう奴だろうか?
「先祖は毎年秋になると、錦川を下って、安芸の厳島神社の普請に参加した」と言う事だった。
とはいえ、なんで、平清盛は安芸の“どいなか”に、あの華麗な
…が、このNHK-BSPの「歴史ミステリー 平清盛の夢~海上神殿・厳島神社の謎を追う」は、“なるほど、そうだったのか、さもありなん”と納得できる内容だったのだ。
◇
何故なら、もし、平清盛が、九州王朝「倭国」の王族の末裔だった、としたら。あるいは、その地盤を引き継いだ“ゆかり”の者だったとしたら、どうなんだろう?
「平家落人伝説」なるものも、「平家(の壇の浦の戦い)」の敗戦落人に限らず、「州柔・白村江戦」の敗戦落人だった。あるいは、「壬申の乱」の敗戦落人だったとも考えられるのだ。
◇
上記ブログの途中にある、
『そして、この「観世音菩薩」は、宋国の東シナ海に浮かぶ「普陀山」(現・浙江省/舟山群島/仏頂山)から伝わったと言う。
「普陀山」(または普陀落山)というのは、中国の観世音菩薩信仰の一大聖地である。
かくして、「厳島」は「普陀山」がモデルとなったという説。』
…は、以下との関係を“遠回し”に、証明しているのではないだろうか、いやきっと、そうにちがいないのである。
◇
▼ (821) 『九州王朝「倭国」は、九州を拠点に黄海及び、半島・列島周辺の海上通商国家だった』 2011年11月24日(木)
▼ (816) 『震災後の奥州紅葉狩り』 2011年10月31日(月)
で、見た
▼ 中尊寺の金色堂の阿弥陀三尊像(阿弥陀如来坐像、観音菩薩立像、勢至菩薩立像)をはじめ、
▼ 毛越寺の常行堂の本尊も、「阿弥陀如来」だし、
▼ 立石寺の
米田良三氏の言う、「禁断の果実」ならぬ「阿弥陀如来」を知るにつけ。
私には、「藤原東北王朝も、九州王朝「倭国」の王族の流れ」に見えてくるが、これって私一人かな?
▼ (204) 『女帝の推古・皇極・斉明・持統・元明・元正・孝謙・称徳を並べ立てたのは唐への恭順』 2010年8月24日(火)
▼ (258) 『「胸に卍文、掌に輪宝文、足の裏に瑞祥文」の刺青を描いていたという』 2010年10月26日(火)
▼ (817) 『「長門以東」とは、倭国王の直轄領地「九州」に対する、間接支配領地「長門以東」のことである』 2011年11月6日(日)
▼ (872) 『今日、NHKの『平清盛』で、父・忠盛が、上皇の御願に応えたという『得長寿院』こそ、今の『三十三間堂』』 2012年1月29日(日)
▼ (938) 『「大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序」の中に出てくるの「日本」及び「扶桑」の整理・再考』 2012年3月23日(金)
■
(973) 『平清盛は日宋貿易の拠点を“何故”福原に置いたか?それは現尼崎市難波に「倭国の難波副都」があったからか』 2012年4月12日(木)
■
平清盛は、日宋貿易の拠点を、“何故”福原に置いたのか?
それは、現尼崎市の
「難波副都」には、孝徳天皇・斉明天皇・中大兄皇子が居たと思われるのだ。
数年後、九州王朝「倭国」の「難波副都」は、「長門以東」を「倭国」から独立させ、新羅へ「倭国更め日本国を号す」と、「日本国」の独立を670年、宣言したと分かる。
《ご参照》
▼ (829) 『古代大阪湾の新しい地図に-灘波(津)は上町台地になかった-というが…はて・さて?』 2011年12月14日(水)
▼ (900) 『難波の近くのここにも有った「芳野町・神崎川」…、なんでー? ひょっとして…』 2012年2月20日(月)
▼ (914) 『「日本」呼称、最古の例か 678年の墓誌?中国で発見上の方に「日本」の文字が見える』 2012年2月26日(日)
▼ (938) 『「大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序」の中に出てくるの「日本」及び「扶桑」の整理・再考』 2012年3月23日(金)
■
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