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《 大和朝廷の 「はしり」 は、 「 難波朝廷 ( なにわのみかど=九州王朝「倭国」の難波複都 )」 に始まる 》  即ち、大和朝廷「日本国」 は、九州王朝「倭国」の 【 同じ血族・分流・分家 】 である。


大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 061 》



大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕

《 大和朝廷の 「はしり」 は、ここで言う 「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」 に始まる。
  即ち、大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」【 同じ血族・分流 】 と分かった。 》



 白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、日本全国 長門以東を実効支配したが、その司令官が「両京制」・「兄弟王朝」である 倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 である。
 日本書紀の〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇はこの倭王家 〔分家の弟王家〕 の出身である。
 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権 の禅譲を受け をクーデター「プロト大化の改新」で乗っ取り、倭国連邦の解体・改組してのち成立したのが、奈良の中央集権国家・文武天皇(大宝元年:701年)の大和朝廷『日本国』である。いわば倭王家 〔分家の弟王家〕 はプロト大和朝廷である。


“とうやん”@t0_yan 「つぶやき:twitter」

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2010年 4月 2日 発行




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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』


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(931) 『『源氏物語』・『和泉式部日記』は、平安時代「京都の物語」だと思っている貴方には“所詮”わからない』 2012年3月18日(日)




●ジョウモンマン‏@jyoumonjn
 @tohyan 「人生の楽園」っていう田舎暮らしの番組こちらでは土曜18時~ですが・・来週は佐賀の例の三瀬村らしいですよ^^予定が違うかもしれませんが・・


 喜び勇んでテレビ番組の検索してるんですが…、酔っぱらってるからかなー、ヒットしませんねー。明日じっくり探します。RT @jyoumonjn 「人生の楽園」っていう田舎暮らしの番組こちらでは土曜18時~ですが・・来週は佐賀の例の三瀬村らしいですよ^^予定が違うかもしれませんが・・


 倭国時長谷寺の移築前の跡地が
三瀬村 初瀬 《魚拓》
である事は、ほぼ間違いないでしょう、予約しました。ダンケシェーン。
RT @jyoumonjn 「人生の楽園」っていう田舎暮らしの番組こちらでは土曜18時~ですが…来週は佐賀の例の三瀬村らしいですよ^^


●ジョウモンマン‏@jyoumonjn
 @tohyan おはようございます。朝日系ですから同日放送ですかね?ちなみに先週も合併後の唐津市の山奥での話しで例のエリアで道産子を2頭飼い、田舎民宿を始めた話でした(^-^)ここんとこ続きます♪


●ジョウモンマン‏@jyoumonjn
 @tohyan 唐津の話は、11月の再放送でした^^


 うへッ!見逃しましたね。三瀬はGigaテレビで番組予約しましたから、もう大丈夫でーす。RT @jyoumonjn 朝日系ですから同日放送ですかね?ちなみに先週も合併後の唐津市の山奥での話しで例のエリアで道産子を2頭飼い、田舎民宿を始めた話でした(^-^)ここんとこ続きます♪




◆ (924)『勘違いするな。『古事記・序文』の“どこにも”「壬申の乱」とか、「吉野に入った」とかは、書かれていない』 2012年3月12日(月)


◆ (890) 『古代の日本で、如何に重要な史実だったかが分かるというものだ。『源氏物語』に隠された史実とは?』 2012年2月12日(日)


◆ 特に、注目の  『632年、唐が倭国に遣わした冊封・刺史「高表仁」に対し、26歳の倭国・王子「弾正尹・為尊親王」が、「唐への冊封関係を拒否した事件」』へは、ここから、スキップします。

 特には、
―――『源氏物語』には太政大臣と式部卿が亡くなったことが記されますが、さらに26歳の弾正尹(だんじやうのいん:現在の警察庁長官)為尊(ためたか)親王も亡くなる事件でした。
 このことは『源氏物語』と『和泉式部日記』から明らかになります。  傍にいた太政大臣(現在の総理大臣)と式部卿(現在の外務大臣)も巻き添えを食うことになります。―――云々。




 そう・そう、上記の中に、《 このことは、『源氏物語』と、『和泉式部日記』から、明らかになります。》と、書かれていますね。


“えッ”どこに? ほんまッ? 私も調べました。
それが、下記「写真」ですね。


《 このことは、『源氏物語』と、『和泉式部日記』から、明らかになります。》

…ですが、今も、、『源氏物語』・『和泉式部日記』は、平安時代の「京都の物語」だ。って“思っている・洗脳されてる”そこの「貴方」には、まー“所詮”わからないことでしょうね。。。。  (=^・^=)
















◆ 【 2012年3月18日(日) 『源氏物語』・『和泉式部日記』は、平安時代「京都の物語」だと思っている貴方には “所詮” わかわからない 】




 とはいえ、以上を、詳しく知りたい方は、
 AB&JC PRESS 
を、クリックしてみてください。
 同時に、近著の下記を、同ホームページより、購入の上、読まれるようお勧めいたします。

● 続)法隆寺は移築された(『源氏物語』は筑紫が舞台だ):米田良三著

● 現代を解く・長谷寺考:米田良三著




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(933) 『「清明上河図」に描かれた美しい石造アーチの『長柄橋』と、同名の『長柄橋』が現大阪の淀川に架かる』 2012年3月20日(火)




 以下は、
長柄の人柱・雉畷(きじなわて)《魚拓》
 からの、抜粋・転載ですので、あしからず。




 この碑は地下鉄御堂筋線の東三国駅の近くの住宅地の一角にひっそりと立っている。





 昔の長柄橋(ながらばし・今の淀川にかけられている長柄橋ではない。平安時代の歌枕。その頃はすでに橋はなく、橋げたなどはきりとられて、香木として尊重されたとか・・)は、今の大阪府淀川区東三国にあったようだ。


 推古天皇の時代、このあたりは三角州のなかにあり、難波の入り江は大小多くの島が点在していた。

 この頃、道をつなぐ橋は大水の出るたびに押し流されていた。

 長柄橋の架橋工事を完成させるため、人を生きながらに橋の下に埋めること、つまり、人柱を入れるしかないということになった。


 吹田の垂水の長者巌氏(いわじ)は、日頃の報恩の精神、慈悲の心を達するために、袴に横つぎのあたっている者、すなわち自分を人柱にすればよいと進言しました。
 推古天皇治世21年(613年)のことである。

 人柱の霊験が現れ、長柄橋の架橋工事は完成した。

 しかし、河内禁野の徳永氏に嫁いでいた巌氏の娘、照日(てるひ)は、父が人柱となってからは悲哀に沈み、物言わぬ人となった。夫の介抱の功もなく、心を閉ざしてしまう妻を里方に帰すことになる。
 照日を乗せた一行が長柄橋を通過して垂水の里近くまで進んできたとき、一羽の雉の鳴く声が聞こえた。すかさず夫は弓矢を取り、雉を射止めた。それを輿の中から眺めていた照日は、

『 ものいわじ 父は長柄の人柱 鳴かずば雉も 射られざらまし 』

 と歌を詠んだ。夫は妻の心を知り、驚きかつ喜んで、雉をそのほとりに手厚く葬り、妻・照日を伴って河内へそのまま引き返し、仲良くくらしたそうだ。





 この近くで私たち夫婦は22年前、新婚生活をスタートさせた。阪急豊津駅と、北大阪急行江坂駅のちょうど真ん中に位置する。歩いて7分のところだ。

 雉を葬った場所は雉畷と呼ばれ、上の写真にあるように石碑が建てられている。
 石碑の横には、老松が茂り、時の流れを感じさせてくれる。





【 現大阪の淀川に架かる「清明上河図」に同名の『長柄橋』】




 上記で、何故『長柄橋』を、取り上げたかですが…、

「清明上河図」が、若し、米田良三氏のおっしゃるように九州王朝「倭国」で描かれたものなら、『長柄橋』なる“独特・特異な名前”の橋ってのも、現在も有るのかもしれない。

…なんてね、ネットで検索してみた結果なんですね。

 そしたら…、有ったってわけです。



 先に、『「清明上河図」に描かれた石とレンガ逢坂の関、近江の海に面して建つ石山寺、更に美しい石造アーチの長柄橋』ついて、次のように触れています。


2011年7月3日(日)
「清明上河図」に描かれた石とレンガ逢坂の関、近江の海に面して建つ石山寺、更に美しい石造アーチの長柄橋


2011年7月4日(月)
夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ :清少納言


  【「清明上河図」に描かれた美しい石造アーチの『長柄橋』】





 清明節の日の灘波津(現在の博多)と近江の海(現在の福岡市外)へ注ぐ賀茂川を跨ぐ

【「清明上河図」に描かれた美しい石造アーチの『長柄橋』】
です。

 そうです、まさに、えぇー、ほ・ほんとにー!なのです。


「清明上河図」はピンからキリ迄あるようで、米田氏が言う通りなら
 【「清院本清明上河図」台湾の國立故宮博物院】《魚拓》
 (スクロール版)が一番近い事になる。




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(938) 『「大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序」の中に出てくる「日本」及び「扶桑」の整理・再考』 2012年3月23日(金)




◆ (921) 『要するに、『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』は、『古事記』序文を、相互に補完していると分かる』 2012年3月4日(日)
 において、


④『于時日本餘噍,據扶桑以逋誅』

 即ち、 《「日本」の「餘噍(ヨショウ:生き残った人民)」が、「扶桑」に據(ヨ:よ)って、以って、誅(チュウ:誅罰)を逋(ホ:のがれ)んと、于(カン:さからう)時。》
 と、和訳し、




◆ (922) 『『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』に出てくる「百済の旧地名」と思しきは、現・韓国のどこか』 2012年3月9日(金)
 においては、


⑨ 「扶桑」について、

「扶桑」については、すでに
◆ (817) 『「長門以東」とは、倭国王の直轄領地「九州」に対する、間接支配領地「長門以東」のことである』2011年11月6日(日)

 で、既に、考証済みなので、今回は、その出典が、中国最古典の『山海経』によっている、とだけ書いておきましょう。

と、書きました。




 この「日本」「扶桑」については、この墓誌が紹介される以前から、このブログで言及し、読者に置かれては“耳にタコができる”どころか“耳に石ができる”類(たぐい)でしょうが、敢えて、改めて、これまでを見直し、整理しておきましょう。




◆ (093) 『日本には「日の出を意味する東」と「日辺に在る意味の南」の2つある』 2010年5月22日(土)
 では、


● 新羅の地名は日の出を意味する「シラヒース」で韓半島東部を表す。安邪:安羅:阿羅:咸安の安:アンには韓国語で下部・陰部の意味で韓半島南部だと思うが、安羅が南部の代わりに、お日様に一番近い、故に日本府を名のったとしてもおかしくない。旧唐書「日辺に在るを以って名と為す」同じではないか。


● 三国史記新羅本紀文武王10年670天智9年に倭国更えて日本と号す。自ら言う「日出づる所に近し」と以って名と為す。即ち東部を言う。一方旧唐書には「その国日辺に在るを以て故に日本を以て名と為す」この「日辺にある」とは太陽に近い即ち南部を言うだろう。日本には東と南との意味の2つある。




◆ (094) 『又聞く日本の天皇及び太子・皇子、俱に崩薨りましぬ』 2010年5月22日(土)
 では、


● 任那日本府」とは、筑紫から見て倭人連合の北の人・土地という意味と、韓半島南部の倭人連合国の宗主国:安邪という意味だろう。この安邪の日本府で百済本紀531年(継体天皇25年)「日本の天皇及び太子・皇子、俱に崩薨りましぬ」の事件があったか。最初に日本を名乗ったのはこの安邪であろう。


● 531年(継体25年)「太歳辛亥の3月軍進みて安羅に至り、乞乇城を営む。この月高麗、其の王安を殺す。 (同じ内容の事を) 又聞く日本の天皇及び太子・皇子、俱に崩薨りましぬ」この安邪(安羅)の南に弁辰古資彌凍国「越水戸国」小伽耶があり、ここの継体天皇が534(継体28年)歳次甲寅に崩ず。




◆ (095) 『倭薈(磐井)王・安羅の王安(日本の天皇)・小伽耶の継体天皇は別人』 2010年5月22日(土)


● 531年(継体25年)「太歳辛亥の3月軍進みて安羅に至り、乞乇城を営む。この月高麗、其の王安を殺す。 (同じ内容の事を) 又聞く日本の天皇及び太子・皇子、俱に崩薨りましぬ」で、百済本紀はこの「安羅の王安」と「日本の天皇」とが同じだと言うが、更に日本書紀編者は「日本の天皇」と「継体」を同一視したと書いている。


● 倭薈(磐井)王が「にわかに官軍が動発し襲われた」が為の死亡が「發倒」(531辛亥)継体25年であり、同531年(継体25年)太歳辛亥の3月、安羅の王安を殺す。(同じ内容の事を)又聞く日本の天皇及び太子・皇子、俱に崩薨と、この安羅の南の小伽耶の継体天皇が534(継体28年)歳次甲寅に崩ずは別事件だ。


■◇


◆ (100) 『安羅国王家が日本府と称し、その王が天皇を号した』 2010年5月24日(月)


● 任那連合国群の代表が安羅国であり、その王家が日本府と称し、その王が天皇を号したといえます。注意しなければならないのは、日本国ではなく日本府といってることでしょう。天皇は北極星・北辰を意味し北斗七星をグループに従えていることでしょう。まさに、任那七ヶ国の代表にぴったりの称号ですね。


● 任那は日本・韓国でその見方が違い、任那が亡んで彼の地に取残された倭人はその後、韓人と同化したものと言えます。韓国語が分からないので斟酌はしませんが、 「任那」について : 韓舜根 を参考迄に紹介します。




◆ (101) 『任那は九州倭国の直轄地でも大和朝廷の出先機関でもない』 2010年5月24日(月)


● 北斗七星の任那七ヶ国倭人連合の代表が安羅国であり、その王家が日本府と称し、その王が北極星・北辰を意味する天皇を号したといえます。けっして、九州王朝倭国の直轄地でも、ましてや後代の大和王朝日本国の出先機関でもありません。半島南部に占拠の倭人が韓人に追い詰められ最後の砦と踏ん張ってた分けです。


● 韓国南部の洛東江流域は高低差さが無く、その流域面積は広く早くから稲作が盛んでしたが、個々の村落はその河川に分断され経済・政治の発達が阻害され、比較的平野に恵まれた百済・新羅に侵略されます。しかし、洛東江支流が西から東へ流れる以南は川筋に守られ任那小国家群が独立を保ったのでしょう。




◆ (104) 『「日出づる所に近し」と「日辺に在る」とは字義が違う』 2010年5月25日(火)


● 日本 ( ひのもと ) の
『( もと ) で辞書を引くと、同じ ( もと ) でも、 ( 本 : 主となるもの・中心・よりどころ ) ( 元 : 物事のおこり・はじめ・起源 ) ( 下 : あたり・そば・かたわら )』、
 いっぽう、『辺 ( へ ) : ほとり・近く・そば )』 だ。


● 三国史記新羅本紀文武王10年670に『倭国更えて日本と号す。自ら言う「日出づる所に近し」と以って名と為す。』と記述し、一方旧唐書には『その国「日辺に在る」を以て故に日本を以て名と為す』と記述している。明らかに字義が違うと思うが、日本の遣使者達は当地でどう説明したのか、はてさて。


● 新羅は「白日」で「日の出の国」であり、日本は「日出づる所に近し」で同義異字である。遣唐使は同様に唐朝の官人へ言ったと思うが、彼らは以前に安羅が日本府を号した時「日辺に在る」からと言ったというが、あなた方はその日本を踏襲したいんでしょう。ならば、「日辺に在る」が正しいのじゃないの。




◆ (122) 『大和王朝「日本国」・「天皇」の系譜』 2010年6月12日(土)


 韓半島南部「日辺に在る」で「日本府」を名乗った「安羅国」、「天皇」を号した王安が高麗に531年殺され、「越港国」小伽耶の継体天皇が日本府安羅王遺族を連れて筑紫倭国へ渡海避難し倭国を再興。日本府遺族が倭弟王家となり、その後 652難波副都に常駐後701大和王朝「日本国」・「天皇」を号した。


● ここら辺りが、大和王朝「日本国」・「天皇」を号した系譜だろう。新羅には670『倭国更えて日本と号す。自ら言う「日出づる所に近し」と以って名と為す。』と強弁し、一方唐国には『その国「日辺に在る」を以て故に日本を以て名と為す』と曲げられて抗弁しないのは敗戦国倭王家の分家大和王朝故か。


● みんな先入観で「日本」を日出る国ってね、でも新羅本紀に「日出づる所に近し」=東とあっても、旧唐書には「日辺に在る」=南とあり。明らかに東と南で違います。韓半島南部の安羅王が最初「日本」を称し、その子孫が筑紫経由で奈良の大和王朝「日本」を開いた。唐に対し東ってね。


■◇


◆ (161) 『三国史記新羅本紀文武王10年天智9年670年倭国更えて日本と号す』 2010年7月14日(水)

①662年、 663年「大宰府倭兄王家」の薩夜麻が白村江敗戦で捕虜。

②663年、「難波副都倭弟王家」の天智は倭国の残存部隊の結集と留守居王権として九州島を除く本州・四国を実効・直接支配。

③664年、九州倭国の筑紫都督府(=大宰府)に唐軍が進駐・駐留。

④667年、大和が倭国から実質的に分離独立、唐進駐軍の侵略予防の為難波京から近江京へ遷都・即位。

⑤670年、三国史記新羅本紀文武王10年天智9年に「難波倭弟王家近江朝」が倭国更えて日本と号す。

⑥672年、壬申乱後、薩夜麻の倭国王復位。

⑦672年、大海人の天武天皇が「難波副都倭弟王家」の飛鳥浄御原宮で即位。


● 『三国史記新羅本紀「文武王十年十二月:670年倭國更號日本自言近日所出以爲名」で、「倭国は、更えて日本と号す。自ら言うに、日出ずる所に近し、以て名とする」倭国が日本と国号を替えたとある。』⇒この記事が史実ならば「倭国王難波分家の弟王家の近江朝」が独立し、新羅へ遣使したことになる。




◆ (170) 『長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え、ひんぴんと報告しなくともよい』 2010年7月21日(水)


● 662 663年9月以降の早い時期に、難波で白村江敗戦の報を受けた、難波副都倭弟王家(=プロト大和朝廷)の中大兄皇太子(=のちの天智天皇)は弟の大海人皇子へ「長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え、ひんぴんと報告しなくともよい」と指示した。


● 大海人は難波から筑紫へ急行し、倭国大宰府倭兄王家の残存部隊を結集し、留守居王権として筑紫島を防衛・確保、百済倭敗残兵・百済避難逃亡民の受入れ、さらには困難な戦後賠償交渉と損な役回りだっただろう。中大兄は九州島を除く本州・四国を実効・直接支配下に治め、これが後のプロト大和「近江朝」の基盤となった、だろう。


● 「長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え、ひんぴんと報告しなくともよい」⇒これが、白村江敗戦直後のプロト大和朝廷の中大兄と大海人との会話だとすれば、天下立評后の中央集権化で出雲・加賀・吉備・葛城『秦国』・尾張・毛野(常陸)が解体した直後の即ち『長門以東』である。


● 正木裕氏の言う「常色の改革」の天下立評を指示し、難波複都を造った、倭国の天帰王(=甘木王)もまさかこんなに簡単に出雲・加賀・吉備・葛城『秦国』・尾張・毛野(常陸)が解体し中央集権化しょうとは思ってもいなかっただろう。『長門以東』とは嘗かつての倭国連邦附庸王国の領土であったわけだ。


● いまひとつ分からないなー。『ひんぴんと報告しなくともよい』は分かるとして、『もっぱら賞罰を行え、』⇒これってどういうこと?信賞必罰だよね・・・・これと『筑紫以西は汝がとれ』と、どういう関係があるのだろう。残念、一部消化不良です。


■◇


◆ (201) 『そして改めて、「倭国は、更えて日本と号す。」について』 2010年8月23日(月)


● 「日本書紀継体紀527年(継体21正和2)8月1日天皇は親しく斧鉞をとって、物部麁鹿火大連に授けて『長門以東は朕がとろう。筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え。ひんぴんと報告しなくともよい』 といった。」


 ★ ⇒ いままで、この句の背景になった史実が思い浮かばなく思案してたが、


 ★  〔「朕」の継体天皇が、中大兄皇太子の天智天皇〕 で、
     〔物部麁鹿火大連が、大海人皇子の天武天皇〕 だとしたらどうだろう。


● 大宰府倭兄王家の白鳳王薩夜麻が白村江戦で敗れ自身は唐の捕虜になった。その直後の難波複都倭弟王家の中大兄皇太子と大海人皇子との会話だとすれば、留守居の難波複都の倭弟王家が、九州王朝倭国のあとがまにそっくり納まろうとしたと分かる。


● 663年9月以降の早い時期に、難波で白村江敗戦の報を受けた、難波副都の倭弟王家(=プロト大和朝廷、この時は近江朝)の中大兄皇太子(=のちの天智天皇)は弟の大海人皇子へ 「長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え、ひんぴんと報告しなくともよい」 と指示した。


● 大海人は難波から筑紫へ急行し、倭国大宰府倭兄王家の残存部隊を結集し、留守居王権として筑紫島を防衛・確保、百済倭敗残兵・避難逃亡民の受入れ、さらには戦後賠償交渉しただろう。中大兄は九州島を除く本州・四国を実効・直接支配下に治め、これが後のプロト大和「近江朝」の基盤となった、だろう。


● 「長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え、ひんぴんと報告しなくともよい」⇒これが、白村江敗戦直後のプロト大和朝廷の中大兄と大海人との会話だとすれば、天下立評后の中央集権化で出雲・加賀・吉備・『秦国』・尾張・毛野(常陸)が解体した直後の即ち『長門以東』である。


● 『三国史記新羅本紀「文武王十年十二月:670年倭國更號日本自言近日所出以爲名」で、「倭国は、更えて日本と号す。自ら言うに、日出ずる所に近し、以て名とする」倭国が日本と国号を替えたとある。』⇒この記事が史実ならば「倭国王難波分家の弟王家の近江朝」が独立し、新羅へ遣使したことになる。


● この時点670年で、倭王の白鳳王・薩夜麻は唐の都に捕虜として拘留され、倭国の都大宰府は倭王不在であった。九州王朝倭国の旧来からの本領地の九州島は唐が進駐し、占領していたわけで、「倭国は、更えて日本と号す。」などできなかっただろう。近江朝が倭国の弟王家で、その先祖が安羅王とわかる。


■◇


◆ (265) 『新羅本紀「阿麻来服」と倭皇天智帝:西井健一郎氏』 2010年11月8日(月)


 同古田史学会報100号記念には、わたしの主張する〔大和朝廷「日本国」出生秘話〕にとって非常に有益な投稿記事がある。中でも『新羅本紀「阿麻来服」と倭皇天智帝:西井健一郎』は示唆に富みありがたい。


『 一、「阿麻」とは誰か


 三国史記・新羅本紀・卷第六・文武王・上〔古代史獺祭〕『八年春、阿麻來服、遣元器與淨土入唐、淨土留不歸、元器還、有勅、此後禁獻女人』との記述が冒頭に載る。


 つまり、「阿麻」という国や地域か、「阿麻」王かその姓を名乗る豪族かが新羅に降伏を申し入れにきた、との記事である。続けて解すれば「降伏を申しいれに来たので、新羅の役人を二人、唐朝へ報告に行かせた」ととれる。


 しかし、文武王妃とその前後に「阿麻」と戦った記事はない。この文武王八年は西暦668年、書紀では天智七年に当る。なお同王十一年七月条の大王報書に、この八年に唐が倭国を攻めるためといって船を修理させたが、実は新羅を攻めるためとの情報が入り、『百姓聞之、驚懼不安』との記事がある。


 この「阿麻」とは何者か。この七世紀当時「アマ」として極東に知られているのは、あるいは記録に残るのは、九州王朝の王の姓「阿毎」である。隋書倭国伝(岩波文庫「中国正史日本伝1」)に『自魏至于齊梁代與中國相通開皇二十年倭王姓阿毎字多利思比孤號阿輩雞彌』とある。それは魏史倭人伝にみる卑弥呼以来の九州王朝の当主、タリシホコの姓だ。旧唐書も『倭国者古倭奴國也…。其王姓阿毎氏』と記す。


 ならば、降伏を求めた「アマ氏」は663年に白村江で敗北を喫した倭国王、九州王朝の当代の主だったとも考えられる。百済の残党軍を支援した九州王朝は白村江で唐・新羅連合軍と戦い将兵を失ったが、同王朝はその後も九州に残存していた。…』云々とある。




 さてここで、〔九州年号・書紀天皇表〕を見て欲しい。前年の667年、『唐が筑紫占領、近江朝独立・遷都、③唐・法聡遣倭』、該当年668年は『天智即位(前年の遷都と同時か?)・高句麗滅亡』とある。


 で、「阿麻」をどう捕らえるかであるが。九州倭国は倭王が捕虜拘束の身で、直轄地の筑紫(九州島)は筑紫都督府(=大宰府)に唐軍が駐留占領されていた。長門以東の本州・四国を、難波副都の天智が白村江敗戦以降、兵を結集独立を確保した。前年の667年には近江朝は遷都・即位・倭国から独立した。


 私は『書紀の皇極・孝徳・斉明・天智・天武・の和風諡号に「天□□」を持つ5代の天皇は倭王家〔分家の弟王家〕の出身である』と考えている。「阿麻」は「天」であろう。難波副都倭弟王家の近江朝は、筑紫倭国から独立を期に翌668年新羅へ「阿麻」国を号し、その後670年改めて「日本」国を号したのだ。


①663年、白村江敗戦、唐が倭王「白鳳王」薩夜麻を捕獲・捕虜連行。
②664年頃、天智が天下立評地「長門以東」を倭王不在で直接支配。
③665-6年頃、唐が倭王直轄地の筑紫占領。
④667年、「長門以東」の近江朝が独立・遷都・天智即位。
⑤668年、高句麗滅亡・新羅本紀「阿麻(天=近江朝仮名)来服」記。
⑥670年、天智天皇の近江朝が「倭国」更えて「日本」号す。


以上を整理すると、倭国弟王家の近江朝は667年、倭国から分離独立し、翌年668年、とりあえず、隣国の新羅へ近江朝の仮名「阿麻(=天)」国として、その独立を報告したことになる。


 『新羅本紀「阿麻来服」』で言えることは、日本書紀が全巻を通じ隋書記載の「倭国」及び「秦国」を徹底的に抹消していることだ。更に正木裕氏が言うように書紀が倭国史を切貼りし、その上別名置換等の添削し編纂している為、元々の記事は平凡な記事だったものが、あらぬ解釈の混乱に陥ってしまうのだ。


 〔新羅本紀「阿麻来服」と倭皇天智帝:西井健一郎〕の中で、氏は『ならば降伏を求めた「アマ氏」は663年に白村江で敗北を喫した倭国王・九州王朝の当代の主だったとも考えられる』と言うが、倭国難波副都常駐の弟王家も当然「アマ氏」である。天智は白村江后長門以東を独立させ、国交開設使を新羅へ派遣したのだ。


 新羅本紀「阿麻来服」記とは、倭国難波副都常駐弟王家の近江朝天智は白村江后、倭国から長門以東を、667年分離独立させ、翌年668年、とりあえず、隣国の新羅へ近江朝の仮名「阿麻(=天)」国(弟王家も当然「アマ氏」である)として、その独立宣言報告使・国交開設使を新羅へ派遣したのだ。


 逆に私はこの新羅本紀「阿麻来服」記を知って、倭国難波副都常駐弟王家の近江朝天智は、白村江后倭国から長門以東(本州・四国)を667年分離独立させ、翌年668年とりあえず、隣国の新羅へ近江朝の仮名「阿麻(=天)」国として、その独立宣言報告使・国交開設使を新羅へ派遣したと確信するのだ。


■◇


◆ (273) 『日本国を、文武天皇は「日辺にある」、天智天皇は「日出づる所に近し」』 2010年11月17日(水)


 『旧唐書』「日本国伝日本國者倭國之別種也以其國在日邊故以日本爲名或曰倭國自惡其名不雅改爲日本」〔日本国は倭国の別種なり。その国日辺に有るをもって日本国を名とす。或いは曰う。倭国自ら、その名雅ならざるを悪み、改めて日本と為す。〕


 一方で、『三國史記』「卷第六・新羅本紀第六・文武王・上・(原文)」文武王10年670天智9年「十二月・土星入月・倭國更號日本・自言近日所出以爲名」 〔三国史記新羅本紀文武王10年670天智9年に「倭国更えて日本と号す。自ら言う日出づる所に近しと以って名と為す。」〕


 『旧唐書』日本国伝は、〔701年、文武天皇が唐へ日本国を「日辺にある」即ち南にあるから日本と号した〕と言い。一方、『三国史記』新羅本紀は、〔670年、天智天皇が、日本国を「日出づる所に近し」即ち東にあるから日本と号した〕と言った。同じ倭国難波副都弟王家出身でも微妙に違ったのだ。


 即ち、「日本国」を、天智天皇は「日出づる所に近し」、文武天皇は「日辺にある」、と言ったことになる。


■◇


◆ (645) 『米田氏は【扶桑国から日本国に国名を変え、大和朝廷がその後の日本を統治】と書くが、「扶桑国」とは何か?』 2011年6月20日(月)

 米田良三氏は
〔 法隆寺移築説の原点である観世音寺・考 : 米田良三 論 〕
の最末尾に【『旧唐書』に記されるように703年大和朝廷の遣唐使が「日本国」を自称します。扶桑国から日本国に国名を変え、大和朝廷がその後の日本を統治し、現代に至っています】と書かかれているが、この氏の言う「扶桑国」とはいったい何なのか?


 『続・法隆寺は移築された(源氏物語は筑紫が舞台だ):米田良三著』p15に、筑紫が都である倭国は、672年に近畿地方の扶桑国に滅ぼされるのだが、その時点で扶桑国には掘立柱系の寺院建築が多数建っていた。一方扶桑国以外の日本国はすでに伝統的日本建築が造られていた。

 そして、678年(⇒684年のはず)に土佐沖を震源とする白鳳地震が起こる。恐らくマグニチュード9の巨大地震と思われる。扶桑国の掘立柱建物がことごとく壊れ、復興のために伝統的日本建築が九州から解体移築される。結果技術がかわり、掘立柱建物は姿を消す。』

 更に同書p16には、『飛鳥時代の奈良周辺は扶桑国とよばれる国であった。』

 更に同書p42には、『日本書紀』672年の壬申の乱の記述は、裏に倭国滅亡を含んでいるものと考えられる。倭国の滅亡は672年をおいてない。以上が移築説の骨子である。』


 米田良三氏の「扶桑国」とはいったい何なのか? 私が米田氏の著書をざっと見しても、その国名「扶桑国」表記の史書出典根拠は「宋書」・「梁書」・「山海経」らしいが、具体的にその由来を断定されてはいない模様だ。


 なお、ネットで検索すると以下の頁がヒットする。
〔扶桑国とは何か〕《魚拓》
〔太陽の母国、扶桑国日本〕《魚拓》
〔日本史の誕生―通説を疑う―〕《魚拓》


 米田氏の引用の「山海経」は分ったような・分らないような文章表現で、煙に巻かれるが…。

 『扶桑国から日本国に国名を変え…』は『列島合体から倭国を論ず:米田良三著』
p52『下に湯のわく谷あり、湯の谷の上に扶桑あり、ここは十個の太陽が湯浴みするところ』とあり、

 更に、要約『「扶桑の木」が生えた断崖の下に湯源の谷があり、ここは十個の太陽が湯浴みするところ。1個の太陽がやってくると、1個の太陽が出てゆく。太陽はみんな鳥を載せている』
p53『現在中部・関東地方の神社に伝わるオビシャという祭りの原型と思われる「太陽と鳥」が記される。』⇒『これは隋書の「日出ずるところ」の淵源となった。』からのようだ。


 米田氏の【扶桑国】は、どうも私の想定する【秦国】と同じようだ。では、まったく同じかと言うとそうでもない。私の【秦国】は九州王朝【倭国】が天下立評後、複都:灘波京に常駐の倭国弟王家の伊勢王、中大兄皇子、大海人皇子に白村江前後に解体され、【秦国】が【日本国】になったのではないと想定している。


 新羅の旧名は辰韓・秦韓であり【秦国】と同じである。【秦国】は秦韓からの渡来人が作った国だったのではないだろうか?先に『新羅金春秋(のちの武烈王)は、「倭国」の背後を脅かす「唐国・新羅・秦国の東西枢軸」への参入勧誘の為に唐の内意を受けて『秦国』へ自ら赴いた』がご理解戴けましょうか?


 百済が唐に破れ滅亡したのは、660年(斉明6白雉9)である。その翌年661年(斉明7白鳳元年)倭国甘木王が崩御、前後して灘波副都伊勢王崩御、白鳳王薩夜麻が即位する。古田武彦氏が「狩猟の途次に没した」とする「常色改革」を断行の甘木王は、半島への出兵をセーブしてたのではないだろうか?


 古田武彦氏が「狩猟の途次に没した」とする「常色改革」を断行の甘木王は、半島への出兵をセーブしてたのではないだろうか?詳しく「狩猟の途次に没した」状況を知りたいものだが…分らない。ただ狩猟で怪我をする事はあっても亡くなるとなると、狩猟に託けて暗殺されたとしか考えられないのだ。


 滅亡前から百済救援の督促は矢継ぎ早だっただろう。その後も千食王后系の百済シンパは百済復活戦を画策したはずだ。百済最後の義慈王の王子の扶余豊璋は倭国の人質だった為に難を逃れたともいえるが甘木王を「狩猟の途次」暗殺し、若い決起にはやる薩夜麻をまんまと百済復活戦に連れ出したものだろう。


 豊璋の百済復活戦に連れ出された若く血気に逸る薩夜麻は、即位、「白鳳」改元、遠征軍を募っただろう。が、倭国の灘波副都にいたはずの軍隊は『日本書紀』の陣ブレを見る限り、百済復活戦へ参加していない。亡き甘木王に止められていたと思うほか無い。出兵に応じたのは遠く関東の上毛野君稚子である。


■◇


◆ (647) 『「筑紫が都である倭国は、672年に近畿地方の扶桑国に滅ぼされる、云々」について、私説で検討しょう』 2011年6月21日(火)


『続・法隆寺は移築された(源氏物語は筑紫が舞台だ):米田良三著』p15に、

『筑紫が都である倭国は、672年に近畿地方の扶桑国に滅ぼされる、云々』について、私説で検討しょう。


 倭国の灘波副都に常駐して、「天下立評」を弟王家の伊勢王・中大兄皇子・大海人皇子の父子は洲柔・白村江に参加せず『秦国』の「唐・新羅・秦国の東西同盟」の動きを監視・牽制・懐柔・解体を進めただろう。伊勢王が百済滅亡後、倭国甘木王と同時期に亡くなり、跡を継いだ灘波弟王家は白村江戦へは亡き甘木王の遺言通り出征しなかったものと考える。


 洲柔戦で倭王薩夜麻が行方知れずになり、更に白村江敗戦が伝わると、長門以東を中大兄皇子が唐の占領進駐を防衛。

 大海人皇子は九州へとって返し、薩夜麻の皇子の高市皇子と協力し九州筑紫を守備・防衛に当たったものと考える。為に、唐の百済占領軍はすぐには手出し出来なかった。


 漸く、薩夜麻が唐の捕虜になってると分り、更に薩夜麻からの無駄な抵抗はしないようにという書簡が届くと、大宰府の降伏・開城が決まったものと考える。唐は大宰府を筑紫都督府と改名し筑紫を占領する。


666年:唐の高宗が麟徳三年正月、泰山で封禅の儀。倭王薩夜麻も参列。

667年:一方、長門以東の中大兄皇子は守備・防衛を堅くし、都を灘波副都から近江京へ遷都する。筑紫都督府の唐軍が瀬戸内海を進撃すると灘波副都では防衛できないとの判断だろう。
長門以東の独立を決意し、中大兄皇子が天智天皇に即位する。

668年:高句麗が滅亡する。同年天智近江朝は隣国新羅へ休戦協定の使節を派遣する(新羅本紀に「阿麻(=近江朝の仮名)来服」)。

669年:唐が郭務悰他2千人を筑紫都督府へ派遣。

670年:天智天皇の近江朝が「倭国」更えて「日本」号す。

671年:天智天皇崩御。

671年:倭国白鳳王薩夜麻が唐から解放されて帰国。

672年:壬申大乱・天智近江朝滅亡・倭国再統一・筑紫小郡浄御原宮で白鳳王復位。

 壬申大乱は九州王朝「倭国」の再統合戦である。

 白鳳倭王薩夜麻が洲柔敗戦で行方不明。その後捕虜になってたと分り、大宰府は無血開城し、唐の占領下におかれ筑紫都督府と呼ばれた。

 一方、倭国の「天下立評」で灘波副都に常駐の中大兄皇子は、唐占領軍に抵抗、近江京へ遷都、天智天皇に即位、長門以東を「日本国」として独立させた。

 唐は百済・高句麗を滅亡させて、派遣軍の厭戦気分からも撤兵を計画した。倭国征服戦が天智近江朝の抵抗で長期・硬直化したのを受けて奇策を計画。薩夜麻を解放・帰国させ、薩夜麻に倭王白鳳王を復位させ、九州と長門以東天智近江朝「日本国」の再統合をさせたのだ。

 元々天智近江朝の独立は唐占領軍に対してであり、倭王薩夜麻に対してではなかったので、再統合戦に抵抗という抵抗は無かっただろう。

 唐は薩夜麻を「あやつる」ことで九州王朝「倭国」を傀儡化した。壬申乱後「遣唐使」の派遣が無いと言う、これは唐にとって倭国は既に属領地だから記録しなかっただけだろう。


673年:倭国で復位の白鳳王が大嘗祭。

676年:新羅が朝鮮半島を統一。

678年:倭国で筑紫大地震。

683年:倭国の丹比真人嶋「三つ足の雀」をプロト大和へ貢上。

684年:白鳳地震、白鳳王崩御、大宰府⇒難波京遷都「朱雀」改元。白鳳地震は684年10月14日午後8時とある。白鳳改元は661年であるから薩夜麻が即位して洲柔戦以降唐拘留中(空位)も続き、実に23年の長きに亘る。白鳳地震と誰が呼んだか知れないがこの時薩夜麻は生きていた事になる。


686年:難波宮焼失で浄御原宮再遷都改元、天武大海人崩御。

686年:1月14日難波宮焼失で、7月20日浄御原宮へ再遷都「朱鳥」改元。この浄御原宮は九州小郡井上にもあったと言うから、大海人の宮だったのを一時借り受けたのだろう。この時「倭国筑紫系官僚」と、倭国「灘波(プロト大和)系官僚」が同居を通じて協力・共存し次の大和朝廷の素地になった。

686年:9月9日大海人皇子の天渟中原瀛「真人」の天武天皇が崩御。

684年薩夜麻が亡くなって、大海人は薩夜麻の遺言通り禅譲され、倭王「朱雀」王に即位。〔天武天皇は二人いた(日出島哲雄著)〕


690年:高市天皇即位。

691年:高市天皇大嘗祭。

694年:12月6日浄御原京⇒藤原京遷都。

695年:藤原京遷都で「大化」改元。
695年:8月5日東国の国司を任命、国司に詔す。

696年:春正月1日「廃評建郡の大化改新の詔」を宣した。
696年:7月10日後皇子尊(高市皇子)が薨じた。
 (⇒倭王高市暗殺、倭国滅亡。⇒645年:6月12日乙巳の変へ。)
 なのだが、倭王高市は大和朝廷側に不利益な東国・国司を任命、国司に詔し、更に大化改新の詔したから殺されたのだ。


■◇


◆ (686) 『天智が近江で即位し、内外に「日本」と言う名を宣言したとなっていますが、それが認められたかどうか怪しい』 2011年7月25日(月)


 この
【塩川慶子さんとの「壬申の乱ダイアローグ」】
の末尾に、
 『一応、天智が近江で即位して、内外に「日本」と言う名を宣言した事になっていますが、それが認められたかどうか怪しいものです。本当に認められていれば、壬申の乱は起こらなかったと思います。』


 と、塩川慶子さんが、既におっしゃっていますが、私も本当に、
『「唐国」が新羅本紀のいう「日本国」を認めていれば、「壬申の乱」は起こらなかったと思います。』
この辺のことは、先に以下の通り触れています。


【新羅本紀「阿麻来服」と倭皇天智帝:西井健一郎著】

【総集編 〔大和朝廷「日本国」出生秘話〕今年その何たるかを語り終えたかな(7)】

【日本国を、文武天皇は「日辺にある」、天智天皇は「日出づる所に近し」】


なお、正木裕氏は
【薩夜麻の「冤罪」 Ⅲ:疑わしい天智一〇年筑紫君薩夜麻帰還:正木裕著】
で、薩夜麻帰還は天智一〇年(671年)ではなく⇒天智六年(667年)一一月の事だとされてるが…、はて・さて?


 この説だと、薩夜麻は唐の高宗の麟徳三年(666年)正月泰山での「封禅の儀」へ出席後、すぐに、天智六年(667年)倭国王薩夜麻を帰国させ、対高句麗戦に協力させられた。結果、天智7年(668年)高句麗滅亡。新羅本紀の天智7年(668年)「阿麻来服」へつながったとなる。更に、この考えでは、長門以東天智近江朝「日本国」の独立、倭国再統合戦とする「壬申の乱」が全く別の意味となってくるが…、はて・さて?


 上記の続きの
【薩夜麻帰国の背景】
項には、

 『天智四年の守君大石等の派遣と薩夜麻の封禅の儀参加は、倭国の降伏と唐への服従の証しであり、もはや薩夜麻を唐に留め置く必要は消滅した。一方、天智六年(六六七年)高句麗に内訌がおこり、国政を摂ていた大兄男生入唐し、「其の国(高句麗)を滅ぼさむことを謀(書紀・同年一〇月条)」った。これにより唐は攻勢を一層強め、天智七年一〇月唐将軍英公によって高句麗は滅ぼされた。このような時代背景を見れば、天智六年薩夜麻を倭国王として帰国させ、対高句麗戦に協力させることに、唐として大きなメリットがあることとなった。』

とあるが、一度は外地の「州柔戦・白村江戦」で大敗を喫した倭国軍をそんな短時期に建てなおし、高句麗戦へ派遣するのは容易でない。先ず、不可能だろう。


 長門以東天智近江朝が唐占領で混乱の筑紫倭国から、「阿麻国」⇒「日本国」の独立を宣言、新羅へ報告。これを新羅は唐へ報告。唐は「日本国」の分離独立を認めるわけに行かず、薩夜麻を解放帰国させ、倭国再統合・復位を企む。


 ところで、『書紀〔天武紀〕上』天智10年10月19日、〔東宮〕は吉野の宮に入ることになった。このとき<略>らが送った。菟道(うじ)からひき返した。あるひとは、「虎に翼を着けて放した」といった。云々、とある。

 この中の『あるひとは、「虎に翼を着けて放した」といった。』のある人とは唐朝の軍参謀だれかが、薩夜麻の倭国への解放・帰国を評し、『それさえも、危惧したエピソードが語られている』と思うのだが如何か?この時の大海人皇子を評したとすると何故か突然で、ちぐはぐに感じるのは私だけか?


 「壬申の乱」が 日出島哲雄氏の指摘通り 、倭国の王族の大友皇子と、薩夜麻の九州島内での王位継承戦であれば、『書紀』の壬申乱は、九州の局地戦を、近畿の局地戦へ何故移植したのか。


【天武は『淑人(=倭王薩夜麻)』が、『よしとよく見て(=きっと了解してくれると読んで)』、『好し言ひし(=分かったそれで良いと言ってくれた)』更に、『芳野よく見よ(=郭務悰へこの作戦でどうだ、良く検討するように)』と、『多良人よく見(=あの時倭王薩夜麻が賛成してくれて良かった)』】
 この歌の、『よしとよく見て、好し言ひし』は、果たして、どういう意味だったのだろうか?
思うに、次のように解釈できないか?


 『唐占領で混乱の筑紫倭国から、長門以東天智近江朝の「日本国」独立宣言は、あくまで唐占領に対してであり、筑紫倭国に対してではありません。倭王薩夜麻(=淑人)あなたが、ご帰国された今、長門以東近江朝の「日本国」独立宣言は撤回しましょう。
 その代わり、唐占領軍は撤収させてください。更に、近江朝(=灘波副都弟王家)の長門以東を州柔・白村江敗戦以前の天下立評時の委託統治支配をお認め下さい。』


■◇


◆ 2011年11月8日(火)
続2) 「長門以東」とは、倭国王の直轄領地「九州」に対する、間接支配領地「長門以東」のことである


《ご注意》 この項は、
(817) 『「長門以東」とは、倭国王の直轄領地「九州」に対する、間接支配領地「長門以東」のことである』 2011年11月6日(日)
の一部を「途中略」したものです。




 なお、この王維の【送祕書晁監還日本國(王維)-祕書晁監(=阿倍仲麻呂)の日本國に還るを送る】の詩の一節には、


『樹扶桑外、 - 樹 扶桑の外、』とある。


●九州の論理-朝夕の竹林に王維の詩を玩味しつつ 33…………古田武彦
p42には、

「扶桑の地」それ自身を「遠地」とみなしたもの、それがこの問題の「扶桑外」という表現なのである。


《途中略》


 そうではない。王維の詩想は次のようだ。

「貴方の帰られる(彼方の:遠地の)故郷には(古典上)著名な扶桑が『樹』として生えている。そういったすばらしい世界へと帰られるのですね」 と。




 古田武彦氏は「扶桑外」の『「外」は内・外の外ではなく、「遠地(⇒米田良三氏は:かなた)」の意味だ』と指摘されている。

 が何故か、「扶桑外」の「扶桑」には触れられていないようだ。
 それは、中国の最古典『山海経』にある「扶桑」のようだ。
王維の博識というか、人柄が偲ばれよう。




 我が、米田良三氏の翻訳は非常に分りやすいので、
『列島合体から倭国を論ず:米田良三著』
p52を再び、抜粋引用する。


1・『山海経』

 今から五〇〇〇年程前の東アジアが描かれている。荒唐無稽に思われた記述が、暘谷という海峡の存在が明らかになって意味を持ち出す。というのは日本に当たると思われる記述が「海外東経」にある。

 「海外、東南隅より東北隅に至るもの」とあり、「黒歯国」に次の記述がある。

 『下に湯のわく谷あり、湯の谷の上に扶桑あり、ここは十個の太陽が湯浴みするところ』

 ところがさらに「大荒東経」という篇がある。東洋文庫本の解説に『山海経』に序を書き注をつけた「郭璞(かくはく:二七六~三二四年)は大荒経四と後尾の海内経一を合わせた五篇を、後人の述べるところといい、いつの作品ということに言及していない。晋以前のものであろうが、すでに郭自身が明らかにすることができなかった」とある。
 その「大荒東経」は、次のように記述する。

 『東海の外(=かなた)に大きな壑(=たに)があり、そこは少昊(=こう)の国』

 と始まり、三分の二ほどのところに、

 『山の上に扶木(=扶桑の木)がある。高さ三百里、その葉は芥菜(からしな)のよう。谷あり、湯源の谷(=湯谷)といい、その湯の谷の上に扶木があり、一個の太陽がやってくると、一個の太陽が出ていく。(太陽は)みんな鳥を載せている』

 「海外東経」が西日本の記録であり、「大荒東経」が東日本の記録であったのが、日本列島が合体して二〇〇〇年以上経った晋の時代の郭には、暘谷という海峡の存在はもはや知る事が出来なかったのである。もちろん暘谷が日本を指す事は知識として知っていたはずである。

 五〇〇〇年前の暘谷を湯の谷と断崖の上に生えた「扶桑の木」と書いており、深い海溝を挟んだ特殊な形状の海峡が表現される。

 現在中部、関東地方の神社に伝わるオビシャという祭りの原型と思われる言葉「太陽と鳥」が記される。

 また両経の記述に、暘谷を(一〇個の)太陽が湯浴みするところとしており、後に用いられる「日出ずるところ(=隋書の)」、「日辺(=旧唐書の)」の淵源となる話が成立していたと思われる。






◆◆◆◆


 即ち、「扶桑の木」の生えてる
「暘谷海」
とは、現在の
フォッサマグナ (Fossa Magna)
だと理解できよう。

 ただ墓誌が言うところの

■ 于時日本餘噍,據扶桑以逋誅
《「日本」の「餘噍(ヨショウ:生き残った人民)」が、「扶桑」に據(ヨ:よ)って、以って、誅(チュウ:誅罰)を逋(ホ:のがれ)んと、于(カン:さからう)時。》

 で言うところの「扶桑」とは、「九州」に対する、「本州」即ち、「長門以東」を言っている、と私は解釈していますが、各位は如何お考えでしょうか?


◆◆◆◆




《 まとめ 》


◆ (920) 『自分なりに、『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』を、訳してみることにした。はて・さて…』 2012年3月3日(土)
 において、


● 于時日夲餘噍,拠扶桑以逋誅;風谷遺甿,負盤桃而阻固。

■ 于時日本餘噍,據扶桑以逋誅;風谷遺甿,負盤桃而阻固。 

《「日本」の「餘噍(ヨショウ:生き残った人民)」が、「扶桑」に據(ヨ:よ)って、以って、誅(チュウ:誅罰)を逋(ホ:のがれ)んと、于(カン:さからう)時。
 谷(コク:困窮する)遺(イ:置き去りにされ)た、甿(ボウ:無知な農民)の風(フウ:うわさ)があるが、盤拠(バンキョ:しっかりと動かずに、よりどころにしている)、而(ジ:そして)、阻(ソ:阻む・険しい)固(コ:要害)を、負(フ:頼みとして従わないでいる)。》


◆ 【扶桑】




 この祢公墓誌の 『于時日本餘噍、據扶桑以逋誅』 の句が、百済・倭国連合軍の、対、唐・新羅連合軍との「洲柔・白村江敗戦」を受けての記述ならば、とりわけ、ここで、注意しなければならないのは、

● この 『于時 日本 餘噍』が、何故、『于時 餘噍』となって、いないのか? 

● また、『據 扶桑 以逋誅』が、何故、『據 大和 以逋誅』となって、いないのか?

ということでしょう。

 私に言わせれば、この墓誌の表現は、その場に居合わさないと書けない非常に“臨場感”のある、“的確”な表現になっている、と考えます。


―――――――――――――――――――――――――――――――――


 以上、振り返って整理してみましたが、

 要するに、 『于時日本餘噍、據扶桑以逋誅』 …といった、墓誌のたったの“1行”が、
延々、2年に亘って、ここのブログに書き連ねたことを、 “一挙に、氷解・解決させた” と言えます。

  すごーいことですね。 (=^・^=)




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