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《 大和朝廷の 「はしり」 は、 「 難波朝廷 ( なにわのみかど=九州王朝「倭国」の難波複都 )」 に始まる 》  即ち、大和朝廷「日本国」 は、九州王朝「倭国」の 【 同じ血族・分流・分家 】 である。


大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 107 》



大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕

《 大和朝廷の 「はしり」 は、ここで言う 「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」 に始まる。
  即ち、大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」【 同じ血族・分流 】 と分かった。 》



 白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、日本全国 長門以東を実効支配したが、その司令官が「両京制」・「兄弟王朝」である 倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 である。
 日本書紀の〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇はこの倭王家 〔分家の弟王家〕 の出身である。
 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権 の禅譲を受け をクーデター「プロト大化の改新」で乗っ取り、倭国連邦の解体・改組してのち成立したのが、奈良の中央集権国家・文武天皇(大宝元年:701年)の大和朝廷『日本国』である。いわば倭王家 〔分家の弟王家〕 はプロト大和朝廷である。


“とうやん”@t0_yan 「つぶやき:twitter」

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2010年 4月 2日 発行




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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』


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(a0088) 【佐藤洋一郎氏の 『 DNAが語る稲作文明 』 こそ、倭国の源流でしょ! 【 稲のたどってきた道 】 】 2014/1/5(日)





● “ とうやん ” @t0hyan 1月1日

みなさん、あけましておめでとうございます!!

恒例のお雑煮を頂いて、家族みんなと川崎大師へお参りしてきます。 今年も「平安な良い年」でありますように祈願してまいります。 皆々様にも「平安な良い年」でありますように、祈願します。




● “ とうやん ” @t0hyan 1月4日
縄文人がエクアドルへ渡ったとする古田武彦氏も登場の

▼【謎の土器に隠された古代日本人ミステリー】
その延長線上に

▼【九州王朝「倭国」】

▼【大和朝廷はしりの難波副都】



● “ とうやん ” @t0hyan 1月4日
@japaneseoyanjg
佐藤洋一郎氏の 『 DNAが語る稲作文明 』 こそ、倭国の源流でしょ!

▼【稲のたどってきた道】

▼【長江中・下流域からの直接の渡来:日本のイネに半島にない遺伝子があった】





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(a0089) 【大和朝廷の「はしり」は、「難波朝廷」である。即ち大和朝廷は九州王朝「倭国」の「同じ血族・分流」である】 2014/1/9(木)





● “ とうやん ” @t0hyan 1月5日

《大和朝廷の「はしり」は「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」に始まる》

即ち、大和朝廷「日本国」は九州王朝「倭国」の「同じ血族・分流」と分かった。

(よって、)九州王朝「倭国」に対し、大和王朝「日本国」でなく、大和朝廷「日本国」と、
今後は「王朝」⇒「朝廷」表記する事にした。




● “ とうやん ” @t0hyan

《大和朝廷の「はしり」は「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」に始まる》

即ち、大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」 の 【 同じ血族・分流 】 と分かった。



● “ とうやん ” @t0hyan

大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」の 【 同じ血族・分流 】 と分かった。

即ち、《 大和朝廷の 「はしり」は、「 難波朝廷(なにわのみかど=九州王朝「倭国」の難波複都 )」に始まる 》



● “ とうやん ” @t0hyan

大和朝廷「日本国」九州王朝「倭国」の【同じ血族・分流】と分かった。

即ち
《大和朝廷の「はしり」は「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」に始まる》




● “ とうやん ” @t0hyan

「壬申乱」の要点

①:『唐の倭国占領政策は行き詰まっていた。その解決策が「倭王」薩夜麻の解放・帰国だった』

②:『「南山は、中国の【終南山】の別名」とする説での『古事記:上卷并序』解釈の“ まとめ ”』

③:『自分なりに、『大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序』を、訳してみることにした。』

④:『勘違いするな。『古事記・序文』の“どこにも”「壬申の乱」とか、「吉野に入った」とかは、書かれていない』



● “ とうやん ” @t0hyan

▼【2013年10月27日(日) 九州王朝「倭国」は「壬申の乱:672年」で滅亡したという説があるが、九州年号「白鳳」は西暦661年から684年に及ぶ】

九州年号は王様か、京都がかわった場合にのみ、元号がかわっているようだ。
と言う事は、王も都も23年間同じだったのだ。




● “ とうやん ” ‏@t0hyan

大和朝廷の「はしり」「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」に始まる
のだけれど、

さてその
「難波複都」
は本当はどこにあったのか分かっていない^^





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(a0090) 【英国ロスチャイルドの日本をロックフェラーが暴力で奪い取ったのが「5・15事件」「2・26事件」である】 2014/1/9(木)





● “ とうやん ” @t0hyan
@beecard04 @saatennkixyu
この詳細な内容が知りたいのだが

▼【★明治維新とは英国ロスチャイルドが日本を奪ったことだが、そのロスチャイルドの日本をロックフェラーが暴力で奪い取った事件が5・15事件と2・26事件である 】



● サーティンキュー @saatennkixyu
@t0hyan @beecard04
明治維新を起したのは英国ロスチャイルド。そして昭和維新は米国ロックフェラーだと云えますね。
1929年10月24日の暗黒の木曜日で、ロスは転落して、ロックが20世紀の主役となりますから。
全ては金で動くというわけではないですが、符丁があいますね。



● サーティンキュー ‏@saatennkixyu
明治維新の背後にロスチャイルドが居たのは間違いない。
長州の5人はロンドンのロスの本部に留学するから。
戦前の二大政党の民政党はロス系で中国側。
政友会はロック系で米国側です。
戦後になると民政党は角栄の経世会となり今は小沢。
政友会は清和会となり今の安倍総理。が、アジアに大日本ネットが



● サーティンキュー ‏@saatennkixyu
ロスとロックの戦いをエネルギーでみると、
ロスは原発、ロックは石油。
田中角栄が総理になった時は石油ショック。そして角栄は日中友好をし、原発推進して出身地の柏崎市に当時世界一の原発を建設。中国の背後にいるのはロス。
しかしロス&ロックに操られているばかりでなく、大日本帝国の意志がある!



● サーティンキュー ‏@saatennkixyu
戦前の軍人が凄いのは、戦前のアジアは中国を含めて英国を中心にした欧米列強の奴隷だった。
それを大日本の軍人たちが、欧米を追っ払って独立する技術と精神を与え、殆どのアジア諸国を独立させた。
で、支配したわけではない。
独立の技術と精神を与えて後は自分達でと、去る。
真の国宝は日本兵である!




● かし じゅん @beecard04
@t0hyan @saatennkixyu
再度熟読中ですが、ロスチャイルドとロックフェラーの関係が、
敵対なのか友好なのか、どちらかが支配し支配されているのかが、よく分からないんです。
色々な噂がありますから。



● かし じゅん @beecard04
@t0hyan @saatennkixyu
さらに次期ロスチャイルド当主と言われるナットロスチャイルドが
「我々が頂点ではない。さらに上のパワーが存在する」と発言しています。



● かし じゅん @beecard04
@t0hyan @saatennkixyu
ちなみに、詳細を知りたいとのことですが、もう少し詳しく知りたいことを教えて頂ければと思います。
例のブログを熟読中です。



● “ とうやん ” @t0hyan
@beecard04 @saatennkixyu
実は私は山口県周南市の出身で、鹿島曻著書の愛読者でもあります。
で、このブログのほとんどは鹿島曻の要約で氏の誤解を含め理解しているつもりです。
然し、このロスチャイルド・ロックフェラーについては記憶に無く、とりわけ後者を知りたいと思う(のです。)



● サーティンキュー @saatennkixyu
@t0hyan @beecard04
鹿島昇氏は天才的な作家ですが、ロスVSロックという概念はありません。
ロスVSロックは副島隆彦が日本では最初に言っていたのです。
劇画の「仕組まれた昭和史」(副島隆彦著)を薦めます。
広瀬隆にセリッグハリソンというCIAがいたように、副島も得たの鴨



● サーティンキュー ‏@saatennkixyu
私が昔ブログで書いたことは、今の考えとは違います。
天皇にしても、昔書いたこととは考えは変わっている。
一番変わったのは、侵略戦争から、アジアの解放と独立のための戦争、という概念に変わったこと。
このように変わると、180度変わるということ。これが6から9への転換です!




● かし じゅん @beecard04
@t0hyan @saatennkixyu
誤解を含めてというのが見識の高さが伺えます。
確かに初耳も多く面白いです。
ロックフェラーとはですが、基本的には当主デイビッドは「世界皇帝」元は石油商「スタンダードオイル」です。
今はエクソンモービル、シェブロン、BPに分割されています。



● サーティンキュー @saatennkixyu
@beecard04 @t0hyan
ロックは米国で石油、ロスは英国で原発と言えますが、テンプル騎士団の現在の形とも云えます。

《ツタンカーメンの頭上には二匹の蛇》

がありますが、この二匹の蛇が、ロスVSロック、だと思ってます。
金の次は秘教!


◇◇


● サーティンキュー ‏@saatennkixyu
おはようございます。
正月のテレビを見ているとデヴィ夫人が良く出ていた。
この人はインドネシアのスカルノ元大統領の第三夫人だが、スカルノにデヴィ夫人を紹介したのは瀬島龍三。
インドネシアは日本軍が独立させたから親日である。

このデヴィ夫人が北朝鮮に良く行くことに注目。
北は大日本帝国残置国



● サーティンキュー ‏@saatennkixyu
OSSとはCIAの前身だが、1942年6月のOSS文書の「日本計画」にすでに戦後の日本を象徴天皇制にする計画が書かれ、
このOSS文書は米国で公開されている。




● かし じゅん @beecard04
@t0hyan
自分も詳しくは知らないのですが、恐らく通貨発行権を巡る争いを言っているものと思われます。
現在でもロスチャイルドは日銀株を保有していますが、ロックフェラーの名は無い。
恐らく天皇家か政府保有株の何割かが実はロックフェラー保有と思われます。



● かし じゅん @beecard04
@t0hyan
明治維新でロスチャイルドが日銀を設立させたのは日本の通貨発行権が目的だと思われ、
それをロックフェラーが欲しがったって話かと思われます。



● かし じゅん @beecard04
@t0hyan
さらにアヘン利権を巡りロスとロックが中国で対立。
モンロー主義のアメリカがその争いに加わるために軍需産業を巻き込み、得意の自作自演で真珠湾攻撃を起こし参戦。
当時、帝国陸軍と海軍が対立していたことを考えると、陸軍=ロスチャイルド、海軍=ロックフェラーだったのかも。



● “ とうやん ” @t0hyan
@beecard04
・消費増税が何故なされるのか?
・TPPに何故自民党議員は押切られたか?
・この時期何故「秘密保護法」なのか?
・安倍総理がトルコに原発を押売りするのは何故か?
・猪瀬は東京オリンピック招致しながら、徳洲会マネーで何故失脚したのか?
・仲井間知事は普天間移設を何故認めたのか? です



● かし じゅん @beecard04
@t0hyan
原発輸出は、6年先まで予約しているウランの転売先の確保かなあって思います。



● “ とうやん ” @t0hyan
@beecard04
「ウランの転売先」って?



● かし じゅん @beecard04
@t0hyan
原発の輸出先です。原子炉と燃料のセット販売かなと思っています。



● “ とうやん ” @t0hyan
@beecard04
うん、いや、そういうことでは無く、チェルノブイリの事例から「少なくとも、5年後には福島に原発被害が顕在化する」のが分かっていながら、何故国民を逆なでする「原発の押売り」を敢えてするのか?ってことです。
少なくとも、常識あれば、みんな知ってる事でしょう?違う?



● かし じゅん @beecard04
@t0hyan
国民を逆撫ですることじたいが目的ではないかと思っています。その真意ははかりしれますが。
恐らく内部に不満を溜め込むことで、不満を爆発させようとさているか、あえて政府への信用を落としているのかなと思います。



● “ とうやん ” @t0hyan
@beecard04
「国民を逆撫ですることじたいが目的ではないかと思っています。」⇒な・なぬ?逆撫でする事が目的だと?・・・
そ・それは、少し奇抜すぎないか?





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(a0091) 【ヒマラヤの「ネパール人」や「ブータン人」は日本人と「そっくり」同じだと感じる。人種的に一番近いのでは】 2014/1/11(土)





● “ とうやん ” ‏@t0hyan 1月10日

大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」の【同じ血族・分流】と分かった。

即ち、
《大和朝廷の「はしり」は「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」に始まる》



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
@Rivet191
絶賛

▼【もうすぐ北風が強くなる
「藤原、本澤対談:強権政治の病理とメディアの堕落」 2013-11-17】
《魚拓》

・藤原肇(ガイアドクター、構造地質学専攻、慧智研究所所長)
・本澤 二郎 (政治評論家、[東京タイムス]元政治部長)



● 三宅雪子(前衆議院議員) ‏@miyake_yukiko35
おはようございます。
腰痛で(笑)6時起床。腰痛で苦しむ日本人は多く、腰痛議員連盟をつくろうかと現職時代話していたほど。
しかし、元気に明るく今日も頑張ります。



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
@miyake_yukiko35
腰痛は個人差があるようですから一概に言えませんが、私は酒を連日飲んでアセトアルデヒトの分解でビタミンB消耗した時の寒ーい朝なんかに良くやりました。
腰の筋肉が血行不良で固まる見たい。
で、そんな時はアリナミンEX PLUS飲んでビタミンB補充してます



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
@miyake_yukiko35
続)と言う事は、「血行不良」を改善すれば良いと言う事かもしれません。
腰を冷やさないように「貼るカイロ」を貼ってみるのも良いかもしれませんね。



● 森愛先生 ‏@moriaich 1月7日
YouTubeクープ、今店頭には無いスクープ画像!
マルハニチロ冷凍食品農薬検出アクリフーズ

▼【衝撃 私はマラチオンを食べていた】



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
@moriaich
「マラチオン」 と言う名の農薬は知らなかったので、ピンと来なかったが、先日女房が 別名 「マラソン」 とも言うらしいと言うので、なんだ 「マラソン」 かーって事です。
中学生の頃、学校から帰ると農薬を散布してたものだが…マスクを外して鼻をかむと、鼻からピンク色に染まった農薬の塊が出た(もんだ)。【マラソンの粉末は確かピンク色してた】




● 森愛先生 ‏@moriaich
大炎上中!!

▼【「郡山高校陸上部長」が「急性骨髄性球白血病」】

▼【生徒が除染を】

▼【県の弁明】



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
@moriaich
このエステーの体温計型エアーカウンターは、ガンマー線だけ計測のガイガーカウンターだが、
0.5μsv/hを表示している。
先々月親戚のが亡くなった時、郡山駅で「たまごっち」型で計測は0.37μsv/hだった。
驚いたのは行き交うみなさんマスクもしてないことだった!!



● The heart of wolf ‏@macbeth2011
@t0hyan @moriaich
福島では0.3μSv/hが普通で、
高めの0.5~0.7μSv/hで暮らしている人達がいるようだ。
何時から日本の自然放射線は0.03~0.05μの10倍になってしまったのか?・・・




● “ とうやん ” ‏@t0hyan
今TBSの 「不思議発見」 をやってるが、今日は 「ブータン」 である。

いつも思うのだが、ヒマラヤの 「ネパール人」 や 「ブータン人」 は、
日本人 と 「そっくり」 同じだと感じる。
「人種的に一番近い」 のではないだろうか。

日本の稲が揚子江中流域に発現したとすれば、ある時期上流と下流に分かれて逃れたのだろう。





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(a0092) 【大和朝廷「はしり」の「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」の場所が、どちらの「難波」か?定かでない 】 2014/1/15(水)





● “ とうやん ” ‏@t0hyan

大和朝廷の 「はしり」 は、「難波朝廷(=九州王朝倭国の 難波複都 )」 に始まる
のだけれど、
さてその

 「難波複都」 の場所が、どちらの 「難波」 か?

 が、定かでない^^



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
今、古代史研究で、「プロ中のプロが関心の話題」 はここ ⇒
《大和朝廷の 「はしり」 は 「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」 に始まる》 のだけれど、
さてその

「難波複都」 の場所が、どちらの 「難波」 か?

が、定かでない^^



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
私が 「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」 と想定の場所は 尼崎市難波 です。
山陽大路(=2国)に沿ったこの「交差点」 以北で、
付近には 「東(難波宮)福祉会館」 とか、 「難波 八幡神社」《魚拓》 とかが有ります。



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
私が 「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」 と想定の場所は 尼崎市難波 ですが、
尼崎市の 「尼」 は、

・ 『新羅本紀 「阿麻来服」 と倭皇天智帝:西井健一郎氏』

の 「阿麻」 ではないでしょうか、
・ 又、『書紀』 の和風諡号に 「天□□」 とある 「天」 ではないでしょうか



● “ とうやん ” ‏@t0hyan

更に、「難波八幡神社の宮司さんのお話」 にある

・ 「当時は今の 扶桑町 に祀られ」 の 「扶桑」 は

『「大唐故右威衛將軍上柱國祢公墓誌銘并序」の中に出てくる「日本」及び 「扶桑」 の整理・再考』

の 「扶桑」 ではないか

⇒ たはツ! 
▼ 現・住友金属工業の旧社名・扶桑金属工業が、その町名「扶桑」の起こり、だそうで。。。
これは、明らかに早とちり^^ ごめんなさい m(__)m




● “ とうやん ” ‏@t0hyan

【2014年1月15日(水) 大和朝廷「はしり」の「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」の場所が、どちらの「難波」か?定かでない】 

⇒ そうそう、定説の 「難波宮跡」 は大阪城の南のここですけどね





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(a0093) 【この尼崎という土地が、大宰府から山陽大路・瀬戸内海の端に位置し、早くから海陸交通の「要衝」だった】 2014/1/18(土)





● “ とうやん ” @t0hyan
難波宮は尼崎に有ったか?

①:▼【武庫庄遺跡(むこのしょういせき)】《魚拓》

②:▼【Web版・図説尼崎の歴史「コラム:大型掘立柱建物」】《魚拓》

③:▼【4・海陸交通の掌握と部民の設置】《魚拓》



● “ とうやん ” @t0hyan

難波宮は尼崎に有ったか?

▼【尼崎市内の歴史散歩(尼崎城~富松城~水堂陣屋跡)】《魚拓》



● “ とうやん ” @t0hyan

非常に有望 !!

【難波宮跡探索】【難波宮跡探索】

国道2号線「難波交差点」から、橘通り「橘公園前交差点」にかけての「南北の通り」の軸心が「ほんのわずか」ずれているのがお分かりだろうか?

【法隆寺参道】 のずれと同じだ。



● “ とうやん ” @t0hyan

法隆寺の若草伽藍と西院の軸心が「ずれている」事は有名です。
これについて米田良三氏がその著「列島合体から倭国を論ず」で確か説明されていたと思うが、どの頁か見つからない。
要は、建築時は南北になっていても、西日本の南北は時代と共に、フォッサマグナを軸に古いほど反時計廻りに回転している。



● “ とうやん ” @t0hyan

国道2号線「難波交差点」から、橘通り「橘公園前交差点」にかけての 「南北の通り」を軸に、

東難波町と西難波町が 「難波宮往時の姿」 を浮かび上がらせ、 この区画一帯が周囲とずれているように見えるのは、私一人か?

それは横浜の中華街そのままである。



● “ とうやん ” @t0hyan

この尼崎という土地が、大宰府から山陽大路・瀬戸内海の端に位置し、
早くから「海陸交通の要衝」だった、と言う事に注目している。

▼【4・海陸交通の掌握と部民の設置】《魚拓》

▼【図1河辺郡・豊島郡内の渡来氏族と職能部民の分布】《魚拓》



● “ とうやん ” ‏@t0hyan 1月19日

隋書俀国伝(608年)にある国名は俀国と秦王国である。
若しこの秦王国が奈良盆地にあったとして、

倭国は「難波副都」をはたして大阪城南の「難波」に造るだろうか?
その地は上町台地が半島状に北に突き出た先端にある。
住吉大社の所で、敵国秦王国に陸路を遮断されると「ひとたまりもない」だろう。




● “ とうやん ” @t0hyan

【014年1月15日(水)
大和朝廷「はしり」の「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」の場所が、どちらの「難波」か?定かでない】
 

⇒ そうそう、定説の 「難波宮跡」 は大阪城の南のここですけどね





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(a0094) 【「摂津」という語が津を管轄するという意味である事から、「摂津職」は難波津の管轄の職務を重視しての事か】 2014/1/24(金)





● “ とうやん ” @t0hyan
「尼崎市域は摂津国河辺郡に含まれ、ー略ー
摂津国の場合には摂津職〔しき〕という特別な官司が置かれました。

「摂津」という語が津を管轄するという意味であることから見て、摂津職は難波津の管轄の職務を重視して、特別に設けられたものと思われます。」


◇◇◇◇◇


Web版図説 尼崎の歴史
古代編第2節「律令国家の形成と展開」
2 古代村落と条里制
摂津国

《魚拓》

《ご注意》
下記は、上記の抜粋・転載ですので悪しからず。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


摂津国

律令体制の成立にともない、律令国家の領土は国ー郡ー里〔り〕という組織に編成されました。
尼崎市域は摂津国河辺郡に含まれ、市域の北部は為奈里〔いなのさと〕にあたります。

一般的に国には中央の貴族が国司として赴任〔ふにん〕し、支配に当たったのですが、
摂津国の場合には摂津職〔しき〕という特別な官司が置かれました。

「摂津」という語が津を管轄するという意味であることから見て、摂津職は難波津の管轄の職務を重視して、特別に設けられたものと思われます。
難波津は中国・朝鮮などの外国との関わりのなかで大きな役割を果たし、また、瀬戸内海の海運の東端の港としても重要でした。つまり、奈良の都(平城京)と西日本、さらには諸外国とをつなぐ結節点となっていたのが難波津でした。

摂津職は大夫〔かみ〕・亮〔すけ〕・進〔じょう〕・属〔さかん〕という四等官の構成になっており、守〔かみ〕、介〔すけ〕、掾〔じょう〕、目〔さかん〕の国司とは異なりました。
進・属にはそれぞれ大・少があり(大進・少進、大属・少属)、国司の場合も、国の等級によって、介以下には大・少がありました。相当位も大夫で正五位上と、諸国の守より高く設定されていました。また、市場の監督、度量、道・橋・津の管理など一般の国司にはない職務も有していました。

摂津国は難波津周辺の現在の大阪府域だけでなく、兵庫県域にも広がっており、武庫水門〔むこのみなと〕(現西宮市)や大輪田泊〔おおわだのとまり〕(現神戸市兵庫区)などの、やはり重要な港がありました。

摂津国は平安時代の『和名抄〔わみょうしょう〕』では住吉・百済〔くだら〕・東生〔ひがしなり〕・西生〔にしなり〕・嶋上〔しまがみ〕・嶋下〔しましも〕・豊島〔てしま〕
・河辺・武庫・菟原〔うはら〕・八部〔やたべ〕・有馬・能勢〔のせ〕の13郡からなっていました。
兵庫県域に入るのは河辺郡から有馬郡までの5郡です。

摂津職(国府を兼ねる)がどこに存在したのかは、よくわかりません。
延暦24年(805)には摂津国府が「江頭〔こうとう〕」に、天長2年(825)には豊島郡に移されました。

さらに承和2年(835)には勅によって、河辺郡の「為奈野〔いなの〕」に移転されることになりましたが、これは結局、実現しませんでした。

摂津国が民衆の疲弊〔ひへい〕を理由として、かわって鴻臚館〔こうろかん〕を国府とすることを言上し、それが採用されたからです。
為奈野は文字通り野で、そこへの移転は、現実的な案ではなかったのでしょう。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
《転載は以上です。》




● “ とうやん ” @t0hyan
「摂津国」は淀川を挟んだ大阪湾の沿岸に位置し、何故か?大阪府と兵庫県にまたがっていた事に注目しょう。

▼【2014年1月24日(金)
「摂津」という語が津を管轄するという意味である事から、「摂津職」は難波津の管轄の職務を重視しての事か】




● ほおづきp @kagachi_ecm
@t0hyan
摂津職は難波津もだけど、副都・難波京の所管もかねていたのでは?
多治比真人が世襲的に摂津職に就任するんですよね。



● “ とうやん ” @t0hyan
@kagachi_ecm
・「摂津職は難波津もだけど、副都・難波京の所管もかねていたのでは?」⇒
私の考えは、大和朝廷のはしりが副都・難波京を所管していた。

・「多治比真人が世襲的に摂津職に就任するんですよね。」⇒
701年大和朝廷が開闢以降に、多治比真人が摂津職に就任したかも知れない。





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(a0095) 【九州王朝「倭国」は「天下立評」の為に難波副都を造り、その補給路として駅路で唯一の大路・山陽道を造った】 2014/1/25(土)





● “ とうやん ” @t0hyan
『完全踏査 続古代の道―山陰道・山陽道・南海道・西海道:武部健一著』
p64に、次のように記載されている。

一・山陽道のあらまし
唯一の大道とその威容
山陽道は、七道駅路の中で唯一の大路である。

各駅の配備馬数も20疋と、中路の10疋、小路の5疋とくらべ段違いに多い。



● “ とうやん ” @t0hyan
それもこの道が都から大陸との交流の窓口である九州地域の大宰府までを結んでいるためである。

更にp78には、
現国道まで踏襲する芦屋・神戸付近の山陽道

草野駅(大阪府箕面市萱野)

から先の山陽道は、その後も国道171号におおむね沿って進み、兵庫県に入っても依然として摂津国である。



● “ とうやん ” @t0hyan

芦屋市(現・西宮市札場筋交差点)で国道2号に合するあたり

からは、国道の南を並行して西進する。

次の

葦屋駅(兵庫県芦屋市津知町)

について、 芦屋市の旧芦屋村であることには異論はなく、具体的な場所として、高橋は芦屋川の西の芦屋市津知町にある津知遺跡を比定している。
前の草野駅から19.5舛鯊る。
と記載してる。



● “ とうやん ” @t0hyan
但し、『完全踏査 続古代の道―山陰道・山陽道・南海道・西海道:武部健一著』は、
905年編纂開始、927年完成、967年施行の

【延喜式(えんぎしき)】

を参考に各古道を踏破しているので、それ以前時代については、本著を基に類推するほかない。




● “ とうやん ” @t0hyan
本著で「山陽道は、七道駅路の中で唯一の大路である。」とし、
その理由を「この道が都から大陸との交流の窓口である九州地域の大宰府までを結んでいるためである。」としている。
もっともな説明である。
然し、九州王朝「倭国」が「常色の改革」一環の「天下立評」の為に難波副都を造ったとすればどうか



● “ とうやん ” @t0hyan
九州王朝「倭国」の甘木王が「常色の改革」一環の「天下立評」の為の難波副都を造れと詔したのが649年で、
難波副都が完成し白雉改元儀式が652年であるが、
難波副都は長門以東の各扶養王国を解体し、「天下立評」で中央集権化する征討将軍府でもあったと考えられる。
当然、軍隊が常駐しただろう。



● “ とうやん ” @t0hyan
この「難波副都」は後世の「鎌倉幕府」と同じ、「前例」だったと考えれば理解しやすいのではないだろうか。
「山陽道・大路」は九州王朝「倭国」の首都・大宰府と「難波副都」を結ぶ「補給路」だったのだ。
後の奈良朝廷や京都朝廷が日本全国を連絡する「七道駅路」を拡張整備する以前のものと言えよう。



● “ とうやん ” @t0hyan
そうした観点で、「難波副都」がどこにあったかと推察すれば、
当然、尼崎市難波にあったとしか考えられないのである。
若し、大阪城南の難波にあったとすれば、補給路の山陽道・大路は当時の淀川を跨がなければならない。
しかも、背後を飛鳥の秦王国に脅かされるという「とんでもない」立地条件なのだ。



● “ とうやん ” @t0hyan
九州王朝「倭国」首都大宰府からの軍隊派遣補給路の山陽道・大路の「難波副都」側の終点は国道2号線沿いだったと改めて考える。

『完全踏査 続古代の道―山陰道・山陽道・南海道・西海道:武部健一著』で言う山陽道は京都時代になってのもので、
国道171号線は京都時代に追加された路線だろう。



● “ とうやん ” @t0hyan
『完全踏査 続古代の道―山陰道・山陽道・南海道・西海道:武部健一著』の「山陽道は、七道駅路の中で唯一の大路である。」は

【延喜式(えんぎしき)】

即ち平安京時代の10世紀中頃の現京都を起点に纏められている。
平城京時代の奈良を起点に、
九州王朝「倭国」時代の大宰府を起点にしたものでない。



● “ とうやん ” @t0hyan 「難波副都」が完成した652年以降の時代は、九州王朝「倭国」の都の大宰府を起点に、「難波副都」を終点にしたはずで、
(『完全踏査 続古代の道―山陰道・山陽道・南海道・西海道:武部健一著』の「西海道」の項を参照)
それ故に「山陽道は、七道駅路の中で【唯一の大路】であった。」はずなのだ。





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(a0096) 【尼崎市の「尼」は「天の王朝」の「天ヶ崎」、「阿麻来復」の「阿麻」、和風諡号の「天(あめ)〇〇」である】 2014/1/26(日)





● “ とうやん ” ‏@t0hyan


国道2号線の北側にあったかと(考えられる。)



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
目にとまったブログ

▼【川西きのこクラブの三草山探訪会5月27日のこと】《魚拓》
 に、

「猪名川は武庫川(河口部は武庫水門・むこのみなと)と並び、
古代には丹波、有馬方面の内陸交通と猪名湊と呼ばれた河口部の港湾施設を結ぶ重要な河川であったことが分かる。」



● “ とうやん ” ‏@t0hyan

▼【西宮津門 ・大昔の海岸線を確認できる地点】《魚拓》

 には、
「参考地図を見てー略ー阪急電車の線路あたりが当時の海岸線だったのです。」とあるが、

国道43号線沿いが当時の海岸線

と見て良いのではないだろうか?



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
難波湊〈攝州:霜がれの難波のあしのほのぼのと明る湊にちどり鳴也、此外よめる事、潟に同〉⇒
「難波の葦野」「ちどり鳴」って尼崎市の難波だよねー^^

▼【〔藻鹽草 五水邊〕で、「攝州」と記載されてる「猪名野湊」・「難波湊」・「武庫水門(=務古水門)」】




● “ とうやん ” @t0hyan
尼崎市の「尼」は、「天の王朝」の「天ヶ崎」であり、「阿麻来復」の「阿麻」であり、和風諡号の「天(あめ)〇〇」である。

▼【2014年1月25日(土)
九州王朝「倭国」は「天下立評」の為に難波副都を造り、その補給路として駅路で唯一の大路・山陽道を造った】





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(a0097) 【〔藻鹽草 五水邊〕で、「攝州」と記載されてる「猪名野湊」・「難波湊」・「武庫水門(=務古水門)」 】 2014/1/27(月)





▼【藻鹽草  五水邊】《魚拓》


《ご注意》 下記は、上記の抜粋・転載ですので悪しからず」。

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〔 藻鹽草  五水邊 〕

【 湊 】
・揖保湊 〈播州 更る夜にね覺てきけばはりまがたいほのみなとに千鳥鳴なり〉

・射水湊 〈越中〉

・猪名野湊 〈攝州 しなが鳥、ふね、月、夕鹽、千鳥、鶴、 うきねする 井なの湊に きこゆ也 鹿の音おろす 峯の松風〉

・小野湊 〈伊勢 みそぎ、松、いなふね、 ながれあしのすゑ葉も見へずなりにけりをのヽみなとの五月雨の比〉

・苧生湊 〈同レ右 いせの海やをふのみなとに引あみのうけくに人をうらみてぞふる〉

・織面湊 〈筑前 あさくらやをめのみなとにあびきせば〉

・唐湊 〈薩摩海人〉

・顏湊 〈出羽 戀しき波〉

・掛湊 〈丹後 あちかまのかけのみなとに入しほのこてさすくもるわかてねなくも〉

・かこの湊 〈さしのぼるかこのみなとの夕鹽に松原こしてちどり鳴也〉

・よ佐湊 〈同レ右 松たてる、夕凉み、奧つ鹽風、船出す、友よぶちどり、〉

・淀湊 〈泉州 船ならぬよどのみなとやうらむらん人の心もさだめなき世に〉

・高砂湊 〈播州 ちどり〉

・袖湊 〈ちくぜん もろこし舟、あまを舟、里のしるべ、あだ波、うき枕、涙の袖のうきね、月、涙河、よる〳〵さはぐちどり、我袖の見なとや、こひのとまり、〉

・難波湊 〈攝州 霜がれの 難波のあしの ほの〴〵と 明る湊に ちどり鳴也、此外よめる事、潟に同、〉

・那古湊 〈波さはぐなごのみなとの浦風に入江のちどりむれてたつ也、〉

・八十湊 〈近江 海みなとはやそちいづくにか君が舟とめ草むすびけん、千鳥、〉

・的形湊 〈はりま 人しれぬ音をこそなかめまとかたのみなとのち鳥浪にぬれつゝ〉

・戀湊 〈伊賀〉

・袖のみなと

・明石湊 〈はりま あはぢ島を漕わたらむと思へどもあかしのみなと猶さはぎけり〉

・阿度湊 〈あふみ あさりする船〉

・阿野湊 〈伊勢 見わたりの月は秋なるなみの上にまたほに出ぬあのゝみなと田〉

・由良湊 〈紀州 ひろふてふ玉さかにだに、舟、夕鹽、霞、月、かぢをたえ、〉

・水莖岡湊 〈あふみ あまぎりあひひかた吹らし水ぐきの岡のみなとになみ立わたる〉

・御津湊 〈播州 攝州 “㊟ たつの市御津にある” 大舟、花、〉

・白菅湊 〈とをたうみ 松かげのいり海、かけて舟人、風のたよりもしら菅の、〉

・比良湊 〈近江 山おろし、さゝなみ、ち鳥、釣する蜓、玉も、舟出するひらのみなとの朝こほり、さほくたくる音、〉

・諏方湊 〈信州 かちわたり、こほり、〉



和泉國/堺新水門

〔和泉名所圖會  二〕

堺新水門 堺の新水門は、寛政の初より官家の命ありて、遠淺なるを堀、土砂を運びて、むかしにかはらず海舶入津の水門となりて、繁昌の地となれり、眞なる哉神功皇后の御紀に、住吉太神の往來船を見ると宣ひしも、今こそおもひ當りたれ、



攝津國 / 武庫水門

〔日本書紀  九神功〕

時皇后、聞二忍熊王起レ師以待一之、〈◯中略〉皇后之船直指二 難波 一、于レ時皇后之船、廻二於海中一、以不レ能レ進、更還二 務古水門 、◯◯◯◯一而卜之、



〔日本書紀通證  十四神功〕

務古水門 〈倭名鈔武庫郡、風土記曰、埋二其兵器一處號曰二 武庫 一、今所レ謂兵庫是也、〉


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《転載は以上です。》





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(a0098) 【「倭国⇒筑紫」、「秦王国⇒日本国」と読み替えて、『書紀』を読み直すと分かりやすいのではないでしょうか】 2014/1/28(火)





● “ とうやん ” @t0hyan
隋書俀国伝(608年)にある国名は俀国と秦王国である。
若しこの秦王国が奈良盆地にあったとして、
倭国は「難波副都」をはたして大阪城南の「難波」に造るだろうか?
その地は上町台地が半島状に北に突き出た先端にある。
住吉大社の所で、敵国秦王国に陸路を遮断されると「ひとたまりもない」だろう。



● 日野智貴 @nihonkakuryokai
@t0hyan
秦王国の位置は、明記はされていませんから、私は吉備の可能性もあると思います。
吉備王朝については、資料はありますか?



● “ とうやん ” @t0hyan
@nihonkakuryokai
この隋書俀国伝(608年)には「倭国」と「秦王国」の記載がなされている。

然し
『書紀』には「推古16年(608年)夏4月小野妹子が【大唐】から帰った。」となっていて『書紀』全編を通じて両国名の記載が無い。



● “ とうやん ” @t0hyan
@nihonkakuryokai
『書紀』には「倭国」「秦王国」以外の他の吉備・出雲・毛野・尾張等は自然に記載されてる。
私が言いたいのは
「難波副都」以前の『書紀』の言う日本国の対唐外交史は、全くの「でっち上げ」ではなく、
「秦王国」の対隋・対唐外交史を、「借史したもの」だと言う事です。



● “ とうやん ” @t0hyan
@nihonkakuryokai 「倭国⇒筑紫」、「秦王国⇒日本国」と読み替えて、『書紀』を読み直すと分かりやすいのではないでしょうか。
なお、608年当時の中国は、隋国であって唐国は有りません。

【倭国は「自主対等外交」を、秦国は「冊封を是」とした。】



● “ とうやん ” @t0hyan
@nihonkakuryokai
貴方の問いに答えていない事になりますかねー。

・「難波副都」は吉備国ではない理由とは、⇒
・【「秦王国」の対隋・対唐外交史】とは、⇒
・【「日本国」の対隋・対唐外交史】であり、⇒
・のちの「日本国」は大和朝廷の対外国称名である。⇒
・「大和朝廷」は奈良盆地を基盤にしている。⇒
よって、「秦王国」は奈良・飛鳥を基盤にした。



● “ とうやん ” @t0hyan
@nihonkakuryokai
詳しくは『失われた九州王朝:古田武彦著』が分り易いと思います。
氏は「難波副都」「秦王国」には触れていないが、
九州王朝「倭国」を前提にしないと、
『書紀』の大和朝廷「日本国」と、隋書俀国伝・旧唐書の記事内容とは、
あまりにも食い違いが多いと書かれている。



● “ とうやん ” @t0hyan
【『古代史獺祭(だっさい)』隋書・卷八十一・列傳第四十六・東夷傳・倭國】

を参照します。
『明年(大業4年:608年:推古16年)、上、文林郎裴清を遣わして俀国に使いせしむ。百済を渡り、行きて竹島に至り、南に聃羅を望み、都斯麻国を経、



● “ とうやん ” @t0hyan
迥かに大海の中に在り。
又東して一支国に至り、又竹斯国(=筑紫・九州島)に至り、又東して秦王国に至る。其の人華夏に同じ。以って夷州と為すも、疑うらくは明らかにする能わざるなり。
又十余国を経て海岸(=九十九里浜海岸)に達す。竹斯国より以東は、皆な俀に附庸す。』 と記載する。



● “ とうやん ” @t0hyan
この文中『又十余国を経て海岸に達す。』の「海岸」を私は千葉県の「九十九里浜海岸」と解釈している。
更に「又十余国を経て」と「又」と言っている。この「又」は「竹斯国(=筑紫・九州島)に至り、又東して(十余国を経て)秦王国に至る。」を表わし、
「秦王国」は福岡と千葉のほぼ中間と解釈する。




● “ とうやん ” @t0hyan
『書紀』は大和朝廷開闢701年后、日本列島史を集大成する必要が生じ各地域の王朝史を組み込む意欲的擬史だ。

▼【2014年1月28日(火)
「倭国⇒筑紫」、「秦王国⇒日本国」と読み替えて、『書紀』を読み直すと分かりやすいのではないでしょうか】





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(a0099) 【分家の軽皇太子一派が、倭国王高市天皇を暗殺して玉座を乗っ取った。その直後、大和朝廷を開闢している。】 2014/1/30(木)





● 服部順治 @JunjiHattori 1月25日

週刊ツイートテレビ2014/1/25の話題は

1 軍師純一郎の秘策!細川の大逆襲:マスコミの細川バッシング
2 東京の被ばくは福島原発事故ではなく東海村原発のベント?
3 シリア和平会議に内戦を停めるイランを出席させない欧米国・・



● 服部順治 @JunjiHattori 1月25日
続)
4 隠された日本史天皇:抹殺された九州王朝「倭国」の歴史
5 金融マフィアの間接統治:思想的にも分割統治し内乱を起せ
6 もったいないビジネス 期限切れ食品販売の専門チェーン店

話題
2014/1/25(土) ニュース
<今日のツイートテレビニュースの話題>



● とうやん ” @t0hyan
@JunjiHattori
【4・隠された日本史天皇:抹殺された九州王朝「倭国」の歴史】
拝見しました。でも、何か頼りないですね^^
これ見てくれませんか。

分家の軽皇太子一派が倭国王高市天皇を暗殺して乗っ取った。
直後、大和朝廷を開闢した。




● とうやん ” ‏@t0hyan
おや!この頁は「読みごたえがある」と思うのだが…、各位はどうでしょうか?
私の「思い」と距離が離れていないのだろう。
「じっくり」読ましていただきましょう!!

▼【「倭の五王」から「日本国」へ~九州王朝を中核にして~】《魚拓》



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
これ!読んでみない?
何が言いたいのか「ちんぷん・かんぷん」ですが…、
逆に、古田武彦氏の紹介をしてるのかな。。。

▼【古田武彦の「聖徳太子」論の検討 Posted By やすい ゆたか on 2013年8月15日 at 5:46 pm】




● “ とうやん ” @t0hyan
『書紀』は大和朝廷開闢701年后、日本列島史を集大成する必要が生じ各地域の王朝史を組み込む意欲的擬史だ。

▼【2014年1月28日(火)
「倭国⇒筑紫」、「秦王国⇒日本国」と読み替えて、『書紀』を読み直すと分かりやすいのではないでしょうか】



● “ とうやん ” @t0hyan

大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」の【同じ血族分流】と分かった。

即ち、
《大和朝廷の「はしり」は「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」に始まる》





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(a0100) 【讒言でなく、唐の朝見の席に宗主国〔倭種〕の許可なく服属国〔日本国の〕客が何故参列したかを詰問したのだ】 2014/1/31(金)





● “ とうやん ” @t0hyan

【『古代史獺祭(だっさい)』隋書・卷八十一・列傳第四十六・東夷傳・倭國】
を参照します。

『明年(大業4年:608年:推古16年)、上、文林郎裴清を遣わして俀国に使いせしむ。百済を渡り、行きて竹島に至り、南に聃羅を望み、都斯麻国を経、



● “ とうやん ” @t0hyan
迥かに大海の中に在り。
又東して一支国に至り、又竹斯国(=筑紫・九州島)に至り、又東して秦王国に至る。其の人華夏に同じ。以って夷州と為すも、疑うらくは明らかにする能わざるなり。
又十余国を経て海岸(=九十九里浜海岸)に達す。竹斯国より以東は、皆な俀に附庸す。』 と記載する。




● “ とうやん ” @t0hyan
隋書俀国伝で(とりわけ)注目すべきは608年当時の日本は
【竹斯国より以東は、皆な俀に「附庸す」

つまり、竹斯国以東の秦王国も倭国を宗主国とした服属国だと言ってる事だ。

参照 ▼【倭国の「本国」と「附庸国」】・《魚拓》



● “ とうやん ” @t0hyan
更に又注目すべきは、この608年当時の日本の記録「隋書俀国伝」のどこにも、大和朝廷「日本国」の国名が記載されていないことだ。
と言う事は、よほど弱小国だったか、大和朝廷「日本国」は全く存在しなかったということだ。
にも拘らず、『書紀』には隋書の記載と違って堂々の交渉が記録されてる。



● “ とうやん ” @t0hyan
大和朝廷「日本国」の国名が隋書俀国伝に無いと言う事は、よほど弱小国だったか、当時全く存在しなかったかだ。
にも拘らず『書紀』には隋書の記載と違って華々しく堂々の交渉が記録されてる。
さて、どうしたものか?
「秦王国」が 大和朝廷「日本国」に「すり替えられている」としか考えられないのだ。



● “ とうやん ” @t0hyan
「秦王国」が 大和朝廷「日本国」に「すり替えられている」
と解釈できる一例を挙げる。

『斉明5年(659年)11月3日朝見の諸蕃の中で、「倭客」がもっとも勝っていた。
12月3日〔倭種〕韓智興の従者、西漢大麻呂が、我が〔日本国の〕客を讒言した。』



● “ とうやん ” @t0hyan
・何故「朝見の諸蕃の中で、倭客がもっとも勝っていた」と羨望・自慢とも受け取られる表現か、
それは倭客が宗主国の使いだからだろう。

・何故「〔倭種〕韓智興の従者、西漢大麻呂が、我が〔日本国の〕客を讒言した」か、
それは宗主国〔倭種〕の服属国〔日本国の〕客が、唐の朝見の席に許可なく参列したかを糺(ただ)したからだろう。



● “ とうやん ” @t0hyan
では何故、宗主国〔倭種〕の服属国〔日本国の〕客が、唐の朝見の席に宗主国〔倭種〕の許可なく参列したか?

それは、唐への冊封を拒否する九州王朝「倭国」に対し冊封を喜んぶ「秦王国」の方にも、
唐・新羅が「倭人の代表として」朝見の席に参列を唆(そそのか)したからだと思う、「遠交近攻の策」という奴だ。



● “ とうやん ” @t0hyan
伊吉連博徳の書の末尾は、
『事件が落着した後に、勅旨があり、
「中国国家は来年に必ず海東〔朝鮮〕を征伐する。汝たち倭客は、東に帰ることはできぬ」と。
ついに西京〔長安〕に、〔日・倭〕別の処に幽置した。

戸を閉ざして監禁し東西〔自由に行動〕するのを許さなかった。
困苦して年を経た。』
と記す。



● “ とうやん ” @t0hyan
この「困苦して年を経た」には、万感の思いが溢れていると思うのだが如何だろう。
幽閉されてる中に、百済が滅亡し、
「倭国」の白鳳王・薩夜麻が白村江で捕獲されそれをネタに大宰府は開城を迫られ、
「秦王国」は難波副都の中大兄皇子に征服された。
きっと、帰国後は唯一(独立を保った)天智近江朝へ(知己を頼って)身を寄せたはずだ。



● “ とうやん ” @t0hyan
この使節団は「秦王国」が難波副都に接収されて帰る所とて無かったはずだ。
然し、きっと帰国後は唯一独立を保った天智近江朝へ(知己を頼って)身を寄せたはずだ。
彼らが、新羅へ「阿麻来復」「倭国かえて日本を号す」の天智近江朝の外交団を支えたはずだし、
この係累は天武朝を経て大和朝廷「日本国」に繋がっている。





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(a0101) 【『日本書紀(下):山田宗睦 原本現代訳』《斉明天皇五年(六五九)秋七月三日》「伊吉連博徳の書」抜粋転載】 2014/2/1(土)





《ご注意》

『日本書紀』を身近に親しむには、やはり「現代訳」が欲しいものです。

そこで、下記は、原本現代訳『日本書紀(下):山田宗睦 訳』の《斉明天皇五年(六五九)秋七月三日》の項「伊吉連博徳の書」の抜粋・転載ですので悪しからず。


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《斉明天皇五年(六五九)秋七月三日》

◆秋七月三日、小錦下〔天智三年の冠位、従五位下〕の坂合部連石布、大仙下〔同上、従六位下〕の津守連吉祥を、唐国に遣使した。

そして道奥の蝦夷、男女二人を、唐の天子〔高宗〕に示した。


〈 伊吉連博徳の書は曰う。

―― 同じ天皇の世に、小錦下の坂合部石布連、大山下の津守吉祥連らの二船が、呉〔揚子江下流〕の路を〔経由して〕唐に使わされた。

・己未の年〔斉明五年〕七月三日、難波の三津の浦から〔出〕発した。

・八月十一日、筑紫の大津(那津=博多湾)の浦から〔出〕発した。

・九月十三日、百済の南辺の島に到着した。島名は明らかではない。

・十四日寅の時〔午前四時〕、二船はつれだって大海〔東シナ海〕に乗り出した。

・十五日、日没の時、石布連の船は、逆風を横にうけて、南海の嶋に漂着した。
島名は爾加委、〔一行は〕島人によって殺された。
そのさい東漢長直阿利麻・坂合部連稲積ら五人は、島人の船を盗んで乗り、逃げて括州〔中国浙江省麗州〕に到着した。
州県の官人が、洛陽の京に送ってきた。

・十六日、夜半の時、吉祥連の船が、越州〔杭州湾南岸〕の会稽県〔浙江省紹興〕の須岸山に到着した。
東北の風で、風ははなはだ急であった。

・二十二日、余姚県〔浙江省余姚〕に到着した。
乗ってきた大船およびいろいろの調度物を、彼の処〔浙江省余姚〕に留め置いた。

・潤十月一日、越州の底〔州衙か〕に到着した。

・十月十五日、駅〔馬〕に乗って入京〔長安〕した。

・二十九日、馳けて東京〔洛陽〕に到着した。天子は東京に居た。

・三十日、 天子は相見て問うて、「日本国*の天皇は、平安かどうか」といった。

使人は謹しんで答えて、「天と地とが徳を合わせて、自のずと平安を得ています」といった。

天子は問うて、「執事〔執政〕の卿らは、健在かどうか」といった。

使人は謹しんで答えて、「天皇があつく憐しむので〔卿らも〕また健在でいられます」といった。

天子は問うて、「国内は平〔和〕かどうか」といった。

使人は謹しんで答えて、「〔天皇の政〕治が天地にかない、万民は無事でおります」といった。

天子は問うて、「これらの蝦夷の国は、どの方〔角〕にあるのか」といった。

使人は謹しんで答えて、「国は東北にあります」といった。

天子は問うて、「蝦夷は幾種〔類〕か」といった。

使人は謹しんで答えて、「〔種〕類は三種あります。
遠い者は都加留と名づけ、次の者は麁蝦夷と名づけ、近い者は熟蝦夷と名づけます。
今〔高宗に示す〕この〔蝦夷〕は熟蝦夷です。
毎年、本国の朝〔廷〕に入貢しております」といった。

天子は問うて、「その国に五穀はあるのか」といった。

使人は謹しんで答えて、「ありません。肉を食べて生存しています」といった。

天子は問うて、「国に家屋はあるのか」といった。

使人は謹しんで答えて、「ありません。深山の中、樹の下に住みついています」といった。

天子は重ねて、「朕は、蝦夷の身や顔が異っているのを見て、きわめて興をもちふしぎに思った。
使人は遠く来て辛苦したことだ。退〔出〕して、〔賓〕館に居るが良い。後でまた会うとしょう」といった。

・十一月一日、〔唐〕朝で冬至の会があった。会の日にまた〔天子〕に覲えた。
朝〔見〕の諸蕃の中で、倭客が最っとも勝っていた。
後に出火騒ぎがあったので、そのままになって放っておかれた。

・十二月三日。〔倭種〕韓智興の従者、西漢大麻呂が、我が〔日本国の〕客を讒言した。
客らは唐朝から罪されて、もはや流罪と決定した。その前に智興を三千里の外に流した。

客の中に伊吉連博徳がいて奏〔言〕した。それに因って罪を免ぜられた。
事〔件〕が落着した後に、勅旨があり、「〔中国〕国家は、来年に、必らず海東〔朝鮮〕を征伐する。
汝ら倭客は、東に帰ることはできぬ」と。ついに西京〔長安〕に、〔日、倭〕別の処に幽置した。
戸を閉して監禁し、東西〔自由に行動〕するのを許さなかった。困苦して年を経た。〉


難波吉士男人の書はいう、

―― 大唐に向った大使〔の船〕は、島に触れて〔転〕覆した。
副使は、親しく天子に覲えて、蝦夷を示し奉った。
そして蝦夷は、白鹿の皮一、弓三。矢八十を、天子に献った。 〉


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《転載は以上です。》





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(a0102) 【難波の「三津の浦」の場所が、「はっきり」しない。当時の「三津の浦」は現在の「三津屋」付近ではないか?】 2014/2/2(日)





● “ とうやん ” @t0hyan
◆ 『日本書紀』を身近に親しむには、やはり「原本現代訳」が欲しいものです。
そこで、下記は、

▼【原本現代訳『日本書紀(下):山田宗睦 訳』の《斉明天皇五年(六五九)秋七月三日》の項「伊吉連博徳の書」】

の抜粋・転載ですので悪しからず。




● “ とうやん ” @t0hyan

【己未の年〔斉明五年〕七月三日、難波の「三津の浦」から〔出〕発した。】

⇒ この難波の 「三津の浦」 の場所がどこだったか、「はっきり」しない。
当時の「三津の浦」は現在の 「 三津屋 」付近ではないか?



● “ とうやん ” @t0hyan
当時の難波の「三津の浦」は現在の「 三津屋 」付近ではないか?⇒

猪名川の河口に有っただろう猪名湊(いなのみなと)
が、

「神埼町」
付近だったとしてだが



● “ とうやん ” @t0hyan

【湊:人や物の集まる所。 港:船着き場。】


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「そう言えば、湊と港の違いは何だっけ?」

まず漢字の意味を書きます。

湊:(水上の)人やものの集まるところ。

港:船着き場。
(「港」は比較的新しい字でもともとは「分かれ流れる川」という意味で、そこが船着き場となり、その意味を借りて「湊」を示すようになった)

上のことから、海上交通では「湊」の方が本来的であると思います。ただ、近代に至れば船の大型化にともなって「湊」には船着き場がかならずあるようになり「港」の字をあてることが多くなったのでしょう。

ご質問の論文は中世日本史のものとのことですが、その当時は集まる舟の大きさもあって(「船」と「舟」との差は大きさです)「湊」を用いる方が普通ですしそこに船着き場はまずありません。小さな舟ならば直接岸に乗り上げたりしますし、大きな船の場合は沖に停泊してはしけで人や荷を岸に運びます。つまり歴史的に言うならば「湊」から「港」に発展していったようです。


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⇒ この意味からすると、当時の「猪名湊」「武庫水門」に、ちゃんとした船着き場があったかどうか、 強い波・風を避け舟を係留でき、荷の積み下ろしに便利な所と言う事か





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(a0103) 【倭国の服属国の秦王国(=日本国)が使節団を自発的に派遣したでなく唐朝に「そそのかされて」派遣したのだ】 2014/2/2(日)





● “ とうやん ” @t0hyan
【三十日、天子は相見て問うて、「日本国*の天皇は、平安かどうか」といった。】 ⇒
脚注に
「*中国史書は旧唐書で倭国・日本国を併記し、以後日本国に替るが、最初の記事は長安3(703)年である。ここの【日本国天皇】はきわめて不可解」
と注意を喚起する。



● “ とうやん ” @t0hyan
大和朝廷「日本国」の国名が隋書俀国伝に無いと言う事は、当時全く存在しなかったか、よほど弱小国だったかだ。
にも拘らず『書紀』には隋書の記載と違って華々しく堂々の交渉が記録されてる。 さて、どうしたものか? あと1つある。
(それは、)「秦王国」が、大和朝廷「日本国」に「すり替えられている」と言う事だ。



● “ とうやん ” @t0hyan
大和朝廷「日本国」の国名が隋書俀国伝に無いと言う事は、「当時全く存在しなかった」か、「よほど弱小国だった」かだ。
にも拘らず『書紀』には隋書の記載と違って華々しくも堂々の外交が記録されてる。
そこで考えられる残り1つは「秦王国」が、大和朝廷「日本国」に「すり替えられてる」と言う事だ。




● “ とうやん ” @t0hyan

『失われた九州王朝』p488「蝦夷国」

で『冊府元亀』を引合に

「近畿天皇家の使者が、自国内の東辺に住む野蛮人をひきいて行き、これを珍物として唐朝の天子の観覧に供した」

と『書紀』の偽書ぶりを批判




● “ とうやん ” @t0hyan
【讒言】
事実を曲げたり、ありもしない事柄を作り上げたりして、その人のことを目上の人に悪く言うこと。

【2014年1月31日(金)
讒言でなく、唐の朝見の席に宗主国〔倭種〕の許可なく服属国〔日本国の〕客が何故参列したかを詰問したのだ】



● “ とうやん ” @t0hyan
『失われた九州王朝:古田武彦著』「二つの使節団」の途中p393で、

「わたしたちは、天皇家が「倭種」の韓智興たちを使者とした使節団を派遣した、というような記事を、一切『日本書紀』等の中に発見することができない。

とすれば、わたしたちは、ここではじめて九州王朝の使節団のメンバーにふれえたこととなろう。

しかしながら、このような、日本列島からやってきた二つの使節団の闘争は、唐朝にとっても困惑すべきことだったと思われる。

派遣された相手国の都で幽閉される、などということは、日本国と倭国側双方にとって“ぶざま”だっただけではない。

唐朝(高宗)にとっても、みずからの所へ送られてきた他国の使節団を幽閉した、という形では、なんらスッキリした解決にはなりえないからである。

このような斉明五年(659)の経験こそ、六年後の天智四年(665)、唐朝(同じ高宗)が劉徳高らの使節団を日本列島に派遣した、その真の背景ではあるまいか。」

と書かれている。



● “ とうやん ” @t0hyan
然しながら、敢えて言わせてもらえば、この解釈は「甘い」のではないだろうか。
この直後、百済は滅亡させられているのだ。659年とはそんな直前なのだ。
倭国の服属国の日本国(=秦王国)が使節団を自発的に送ったのではなく、唐朝自身に「そそのかされて」送り込んだと見るべきではないか。



●“ とうやん ” @t0hyan
「〔倭種〕韓智興の従者、西漢大麻呂が、我が〔日本国の〕客を讒言した。」
のではなく、西漢大麻呂が唐朝自身に「そそのかされて」いることを詰問・糾弾したと見るべきだ。
だからこそ、(日・倭)の両使節団は幽閉されたのだ。
若しも、倭国側の讒言ならば、日本国の使節団は幽閉される筋合いではない。



● “ とうやん ” @t0hyan
「倭国」の西漢大麻呂が、唐朝が日本国を「そそのかした」旨を詰問・糾弾したとしたらどうなる。
当然「唐朝と日本国使節団」は有りもしない言いがかりで「事実無根」だと突っぱねるだろう。

(さすれば、)将に

【讒言=事実を曲げたり、ありもしない事柄を作り上げたりして、その人の事を目上の人に悪く言う事】

である。




● “ とうやん ” @t0hyan
倭国使が、唐が秦国を「そそのかしてる」と詰問し、「事実無根」だと突っぱねたら、将に 【讒言した】となる

▼【2014年2月2日(日)
倭国の服属国の秦王国(=日本国)が使節団を自発的に派遣したでなく唐朝に「そそのかされて」派遣したのだ】



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