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《 大和朝廷の 「はしり」 は、 「 難波朝廷 ( なにわのみかど=九州王朝「倭国」の難波複都 )」 に始まる 》  即ち、大和朝廷「日本国」 は、九州王朝「倭国」の 【 同じ血族・分流・分家 】 である。


大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 105 》



大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕

《 大和朝廷の 「はしり」 は、ここで言う 「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」 に始まる。
  即ち、大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」【 同じ血族・分流 】 と分かった。 》



 白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、日本全国 長門以東を実効支配したが、その司令官が「両京制」・「兄弟王朝」である 倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 である。
 日本書紀の〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇はこの倭王家 〔分家の弟王家〕 の出身である。
 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権 の禅譲を受け をクーデター「プロト大化の改新」で乗っ取り、倭国連邦の解体・改組してのち成立したのが、奈良の中央集権国家・文武天皇(大宝元年:701年)の大和朝廷『日本国』である。いわば倭王家 〔分家の弟王家〕 はプロト大和朝廷である。


“とうやん”@t0_yan 「つぶやき:twitter」

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2010年 4月 2日 発行




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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』


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(a0066) 【《 652年「難波副都」(たぶん今の尼崎市難波) 》 と書く根拠について】 2013/9/30(月)





● “ とうやん ” @t0hyan
【652年「難波副都」(たぶん今の尼崎市難波)】
 と書く根拠については、
▼【古代大阪湾の新しい地図に-灘波(津)は上町台地になかった-というが…はて・さて? 】
に書いている。



● “ とうやん ” @t0hyan
何故かと言うと、投稿記事の途中に、
『「灘波浦」は神崎川の河口、現在の豊中市から尼崎市域にかけての当時の海岸部にあるとされています。中世の尼崎の史料に「灘波」地名が記載されており、現在も
尼崎市に「灘波」
地名があります。
また、この地域は中世の淀川から瀬戸内海につながる海運の拠点で、たくさんの港湾遺構が見つかっています。』とあるからです。
若し、ここに、九州王朝「倭国」の「灘波副都」があったとすれば…、
・ 「大宰府」から「葦屋駅」の次の「灘波副都」が終点だったと考えられ、『(続)古代の道:木下良監修・武部健一著』p64で言う、山陽道が “唯一の大路” であったことも、頷けるわけです。
・ 更に、「秦国」が今の奈良県「飛鳥」にあったとすれば、“淀川をはさんで、対峙できた” わけです。
ただ、当面は「灘波副都」を偲ばせる遺構は、残念ながら、見つかっていない模様ですが…。 
実は、私は尼崎市に「灘波」が「難波副都」のあった場所だと確信してるのです。
早く、遺跡が出土してほしい!



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
「およそ都城・宮室は1ヶ処ではない、必ず2・3ヶ処を造る。それゆえ、先ず難波に都を造ろうと思う。
そこで、百寮(官)は、それぞれ〔難波に〕行き、家地を請え」
と《「複都」としての「難波京」を造れ》と命じている。
「複都」である以上、大宰府のすぐ近くの、博多駅近くの「灘波」ではない。



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
大下隆司氏の上記「尼崎市・灘波説」を、これから先「充分に」注目・検討すべき課題であると私は考えます。
更に、大下隆司氏の上記「尼崎市・灘波説」は、「九州王朝副都」としての「前期灘波宮遺構」が、「尼崎市・灘波」付近に存在しないか?
を、「早急に、調査・検証する必要がある」と考えます。



● “ とうやん ” @t0hyan
「九州王朝副都」としての「前期灘波宮遺構」が、「尼崎市・灘波」付近に存在していたとしたら、 のちに
「平清盛が京都から当時いなかの福原に遷都し、大輪田泊(おおわだのとまり)を修築」《魚拓》
しようとしたのも「うなずける」というものではないでしょうか




● “ とうやん ” @t0hyan
この最初に書いたように、
『若し、ここに、九州王朝「倭国」の「灘波副都」があったとすれば…、
・ 「大宰府」から「葦屋駅」の次の「灘波副都」が終点だったと考えられ、
『(続)古代の道:木下良監修・武部健一著』p64で言う、山陽道が “唯一の大路” であったことも、頷けるわけですし、



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
・「秦国」が今の奈良県「飛鳥」にあったとすれば、“淀川をはさんで、対峙できた” わけです。ただ、当面は「灘波副都」を偲ばせる遺構は、残念ながら、見つかっていないという事です。』
≪だれか、検証に取り組む方いませんか?難波神社のあたりが非常に重要と思うのですが、いかがでしょう!!≫




● “ とうやん ” @t0hyan
・(この)「尼崎市・灘波」の「尼崎」って、元々は「尼崎」⇒「天崎」ではないか?
・『書紀』5代の各天皇〔皇極・孝徳・斉明・天智・天武〕の和風諡号に 「天□□」や、
・新羅本記668年「阿麻(天)国」来服とかは、
「常色の改革」で「難波副都」を造った「天帰王(あまぎ・甘木)」に因むのではないか?と思う。





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(a0067) 【『書紀』には、隋書『俀国伝』にある 「倭国」・「秦王国」 の記載が「そっくり」洩れてて、消されてる。】 2013/9/30(月)





● “ とうやん ” @t0hyan
▼【大和朝廷 「日本国」 出生秘話 《 つぶやき : 「古代」 045 》
⇒ 『日本書紀』 における 「我が日本国」 の 「対唐外交史」  】

『書紀』には、隋書にある「倭国」「秦王国」の記載が「そっくり」洩れているが、
・ 「白村江敗戦」以前の「秦王国」 ⇒ 「日本国」とし、
・ 「倭国」 ⇒ 「筑紫」・「倭種」
の外交史として扱っている。
 ↑ 以上が、「白村江の戦」直前迄の「倭国史抹殺」の「やりかた」であり、
―――――――――――――――――――――――――――――――■
↓ 以下は「白村江の戦」以後の「倭国史抹殺」の「やりかた」である。



● “ とうやん ” @t0hyan
『七八〇年以前に、既に揃えられていた年表の中から、六五九年から七〇三年までの期間の、対、日本関係の外交年表に限って抜き取りが行われたのである。』
そうか、唐王朝側にも九州王朝「倭国」を抹殺する「外交史料の抜き取り」という意思が働いていた。




私なりに、以上を、荒っぽく想定するに、
開元初年(713)の粟田真人は、完成したばかりの『古事記』の素案を持って唐朝を訪れた。
この時、唐朝側は、以前に、倭国が「冊封関係」を拒否したことで、他の「蛮夷」に示しが付かなくなっていた。
また、羅唐同盟に「秦国」を誘惑したが、「秦国」が滅亡とかで、失敗していた。
以上を踏まえ、日本・唐の両国が話しあった結果が、
『いっそのこと「倭国」・「秦国」との外交交渉史を、いや、「倭国」・「秦国」両国の存在そのものを、歴史上無かったことにしょう。』
という結論だったのではないだろうか。



・唐朝:『どうだ、そういった史書はできるか?』
・日本:『うーん、難しそうですが、やってみましょう。』
そこで、帰国後、急遽“でっち上げ”られたのが、『日本書紀』だったということだ。
当然、『日本書紀』は漢文であり、完成後、唐朝へ復命したはずだ。

その復命の遣唐使が、養老元年(717年)派遣であろう。
少しの「手直し」は指示されたはずだが、
その内容で、唐朝側も了解し、
「六五九年から七〇三年までの期間の、対、日本関係の外交年表に限って抜き取りが行なわれた」 のである。




● “ とうやん ” @t0hyan
また、羅唐同盟に「秦国」を誘惑したが、「秦国」が滅亡とかで、失敗していた。
以上を踏まえ、日本・唐の両国が話しあった結果が、
『いっそのこと「倭国」・「秦国」との外交交渉史を、いや、「倭国」・「秦国」両国の存在そのものを、歴史上無かったことにしょう。』
という結論だったのではないだろうか。



● (*^_^*) ‏@isuzugigadriver
@t0hyan
その頃に 倭国がなかったことになってるのは、明治政府のおかげだと思ってます。



● “ とうやん ” @t0hyan
@isuzugigadriver
明治維新は吉田松陰の「南朝革命」更には、天皇を中心に中央集権化し帝国主義化を確立。
欧米列強に伍して行くと言った内容だった。
然し伊藤博文の孝明天皇暗殺で、
その累が逆に明治天皇に及ぶ可能性があって、
そのことを伏せた「万世一系」皇国史観となったと思う。




● “ とうやん ” @t0hyan
唐王朝側にも 「外交史料の抜き取り」 という九州王朝「倭国」を抹殺する意思が働いていた。
いやー!これじゃ分らないはずだ。
▼【 2013年9月30日(月)
『書紀』には、隋書『俀国伝』にある「倭国」・「秦王国」の記載が 「そっくり」洩れている。 】


◇◇


下記は、上記の「続編」です。




● “ とうやん ” @t0hyan 10月10日
・唐朝:『どうだ、そういった史書はできるか?』
・日本:『うーん、難しそうですが、やってみましょう。』
そこで、帰国後、急遽“でっち上げ”られたのが、『日本書紀』だったということだ。
当然、『日本書紀』は漢文であり、完成後、唐朝へ復命したはずだ。



● 范蠡 @gunshi_hanrei 10月10日
@t0hyan
とても面白い視点、しかも充分有り得る仮説ですね。
その場合、唐の狙い、メリットは何だったのか?
当然、唐にとって望ましいシナリオが伝えられていたと思うのですが。
倭国と日本国の扱いや万世一系のシナリオはどうだったのか興味が尽きませんね。
古事記支持派との政争も疑える謎?



● “ とうやん ” @t0hyan 10月10日
@gunshi_hanrei
笑われるかも、私は「仮説」というより史実だったと考えています。
▼【(814)『「日本書紀」七二〇年編纂完了後、唐朝では国史編纂資料中から、倭国史五十四年分が抜き取られたのである』2011年10月22日(土)】



● “ とうやん ” @t0hyan 10月10日
@gunshi_hanrei
一方「倭国」から「日本国」への変遷の視点を隋書?蔚国伝が正しいとして次の盛衰想定年表を用意していますご参考迄に
▼【(781)『大和朝廷の生い立ちから倭国滅亡迄の歴史的経緯の想定年表』2011年9月18日(日)】



● 范蠡 @gunshi_hanrei
@t0hyan
有難うございます。DLしてシッカリ勉強します。
しかし相変わらず疑問と言うより興味ある謎と言うべきなのですが、何故、隋や唐が日本書記のシナリオを歓迎したのか?
倭国の存在が好ましくなかった事情があるのか?
唐が新羅と同盟し白村江で倭国と戦った裏事情が有るのか?調べたい。



● “ とうやん ” @t0hyan
@gunshi_hanrei
源氏物語《弾正尹・為尊親王の対唐国・冊封拒否事件》

▼【「古事記」の編纂者達は、「冊封拒否事件632年」以後をどのように扱って良いか“逡巡”したことは明白である】



● “ とうやん ” @t0hyan
@gunshi_hanrei
この
【表仁、綏遠の才無く、王子と礼を争い朝命をのべずして還る。】
を読んだ方は、たくさん居られるでしょうが、たぶん軽く読み流されて、何の事だか「さっぱり」 のはずである。
というのが「書紀」には何らそれに対応の「できごと」が記録されていないからでもある。



● “ とうやん ” @t0hyan
@gunshi_hanrei
「『書紀』には何らそれに対応の「できごと」が記録されていない」 ⇒
白村江戦前の対唐外交史は、
「秦王国」の対唐外交史を日本国の対唐外交史に置き換えている。
▼【『日本書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」】



● 范蠡 @gunshi_hanrei
@t0hyan
目下、興奮と共に勉強中ですが、
支那の史書改竄までして万世一系に拘る執念、千数百年を経た今日も尚、古墳、陵墓の学術発掘を阻止する執念とその力を勘案すると、本件解明は生命の危険もあるのでは?
杞憂なら良いですが・・



● “ とうやん ” @t0hyan
@gunshi_hanrei
話がとびますね。世界中でどこに「万世一系」の国が有りますか?
明治天皇は伊藤博文が死んだ后「俺は南朝革命したんだ」と言ったとか
▼【17.「北朝」は滅亡していた!!南北朝秘史-其の壹-(1997.11.15)】



● “ とうやん ” @t0hyan
@gunshi_hanrei
現皇室においても、平成天皇は昭和天皇の子供ではない。
平成天皇と美智子妃の実子は秋篠宮だけだ、と言いますからねー、
「万世一系」というのは、「とても・とても、とんでも」な話でしょう。
いわば日本人自身の民族としての統一の「象徴」と見るべきじゃないでしょうか


◇◇


● 范蠡 ‏@gunshi_hanrei
@t0hyan
何故か?トーンが突然、詰問調になりましたね。
生徒としてはオッカナクなって質問も出来なくなりますね・・・。
天照大神から神武天皇の東征・・と万世一系と言う事になっているのは、小生の主張ではありませんし、
どこにそんな国があるのか!と攻寄られましても当惑ですね。



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
@gunshi_hanrei
…ですね。
まー、私の話のほとんどが「古田史学の会の集大成」の「受け売り」ですしね。
ただ、「逸脱」あった箇所を「ものさしで叩いて」修正はしていますが。
ところで、鹿島曻の著書を一度も読まれていませんね。
で、あなたは「万世一系」をどう考えておられますか?



● 范蠡 ‏@gunshi_hanrei
@t0hyan
鹿島曻の著書のみならず日本史の勉強を殆どしていません。
また天皇に関する事は微妙な問題を孕んでいるので敢えて触らぬ神に・・と言う姿勢ですし
「我が祖先は藤原の朝臣XX」と祖父達の口癖と同じく「万世一系」も尊重しておくだけです。
仁徳、武烈、継体などは変だと観ますが・・。



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
@gunshi_hanrei
「天皇に関する事は微妙な問題を孕んでいる」 ⇒
うーん、微妙な問題というと、どういうふうに「微妙」なんでしょうか?



● 范蠡 ‏@gunshi_hanrei
@t0hyan
日本民族に限った事ではありませんが、しかし「情理分離」の出来ない人が指導層にかなり多いと感じますし大東亜戦争敗戦の主因の一つとみています。
天皇の事になると最早宗教と言ってよい狂信的、偏執狂的で論理が吹き飛び感情論一辺倒な人が多く、議論で終わらず「江戸長」なのです。



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
@gunshi_hanrei
なるほど、で、「江戸長」って?



● 范蠡 ‏@gunshi_hanrei
@t0hyan
「江戸の敵を長崎で討つ」を江戸っ子は「江戸長」(えどなが)と言ったそうですが・・何しろ、神武の存在は?とか、継体への移行が怪しい・・などと言おうものなら歴史談義にはならず、お前は赤、とか左翼とか訳の分からない非難になり、ビジネスにも影響するのが実態です。



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
@gunshi_hanrei
「ビジネスにも影響するのが実態です。」 ⇒
えッ?范蠡さんの会社でですか?



● 范蠡 ‏@gunshi_hanrei
@t0hyan
そうですか・・解説を要するほど言論の自由に恵まれた社会に居られるのですね。
天皇に関る歴史論議は、理不尽な江戸長に発展する典型の一つです。
会社と言う狭い社会ではなく日本人の社会と言って良いでしょう。
「君は僕にモノを教えてくれるのかね」などと長老の台詞には剣が有る。



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
@gunshi_hanrei
えッ?国内じゃない。。。? 上海ですか?
わかりました、もう結構です。




《続編》『書紀』には、隋書『俀国伝』にある 「倭国」・「秦王国」 の記載が「そっくり」洩れてて、消されてる。
へ続く。





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(a0068) 【白村江敗戦を知った九州王朝「倭国」の「難波副都」留守居の中大兄皇太子が、「本土防衛」に立ち上がった。】 2013/10/2(水)





● “ とうやん ” @t0hyan
『日本書紀継体紀527年(継体21正和2)8月1日天皇は親しく斧鉞をとって、物部麁鹿火大連に授けて
「長門以東は朕がとろう。筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え。ひんぴんと報告しなくともよい」といった。』 ⇒ 
いままで、この句の背景になった史実が思い浮かばなく思案してたが、



● “ とうやん ” @t0hyan
継体天皇が中大兄皇太子で、物部麁鹿火大連が大海人皇子だとしたらどうだろう。
倭国大宰府兄王家の白鳳王(薩夜麻)が白村江戦で敗れ唐の捕虜になった。
その直後の倭国「難波副都」弟王家の中大兄皇太子と大海人皇子との会話だとすれば、
留守居の中大兄皇太子が「本土防衛」に立ち上がったと分かる。



● “ とうやん ” @t0hyan
古田武彦氏・正木裕氏の分析によると、
・『日本書紀』は実際にあった史実を「さも」34年後の事件のように書いたり、
・「プロト大化の改新」を50年前の「大化の改新」事件として書いている。
と言う事は、継体天皇の時代には考えられない
「越国から見た長門以東」は、天下立評後の「長門以東」を表してる。
と想像できるわけである。



● “ とうやん ” @t0hyan
「長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え、ひんぴんと報告しなくともよい」
 ⇒
これが、白村江敗戦直後の「難波副都」の中大兄と大海人との会話だとすれば、
天下立評后の中央集権化で出雲・加賀・吉備・葛城『秦国』・尾張・毛野(常陸)が解体した直後の即ち『長門以東』である。



● “ とうやん ” @t0hyan
正木裕氏の言う「常色の改革」の天下立評を指示し、難波複都を造った、倭国の天帰王(=甘木王)もまさかこんなに簡単に
出雲・加賀・吉備・葛城『秦国』・尾張・毛野(常陸)が解体し中央集権化できるとは思ってもいなかっただろう。
『長門以東』とは嘗かつての倭国連邦附庸王国の領土であったわけだ。




● “ とうやん ” @t0hyan
662年9月以降の早い時期に、難波で白村江敗戦の報を受けた、難波副都倭弟王家(=プロト大和朝廷)の中大兄皇太子(=のちの天智天皇)は弟の大海人皇子へ
「長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え、ひんぴんと報告しなくともよい」と指示。
将に「揺籃期の難波副都」である。



● “ とうやん ” @t0hyan
大海人は難波から筑紫へ急行し、留守居の高市皇子を助け、倭国大宰府王家の守備部隊を結集し、百済倭敗残兵・百済避難逃亡民の受入れ、筑紫島を防衛・確保。
然し、白村江戦で白鳳倭王薩夜麻を捕獲人質中の唐国はそれをネタに大宰府開城を迫られ、さらには困難な戦後賠償交渉と損な役回りだっただろう。



● “ とうやん ” @t0hyan
「倭国」直轄領の九州島が唐国の占領支配を受ける中で、
「難波副都」守備部隊長の中大兄は、「長門以東」の本州・四国の防衛に成功。これをを実効・直接支配下に治めただろう。
更に、難波から近江に遷都し天皇に即位、新羅に「日本国」独立を宣言した。
これが後の奈良朝廷「大和朝廷」の基盤となった。



● “ とうやん ” @t0hyan
662年に中大兄皇太子が弟の大海人皇子へ「長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え、ひんぴんと報告しなくともよい」と言った事を、
何故135年前の527年に継体天皇が発した言葉とする必要があったのか。
それは『書紀』が倭国・難波複都・日本国を書く事になる(なった)からだろう。



● “ とうやん ” @t0hyan
662年に中大兄皇太子が弟の大海人皇子へ「長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え、ひんぴんと報告しなくともよい」と言った事を、何故135年前の527年に継体天皇が発した言葉とする必要があったか。
それは『書紀』(の編纂者たち)が九州年号「善記」522年以前の倭国史(の資料を待ち合わせていなく、詳細)を知らなかった(為だろう。)




● “ とうやん ” @t0hyan
唐国側で「六五九年から七〇三年までの期間の、対「倭国」関係の外交年表に限って抜き取りが行なわれた」とすれば、欠史時代を修復・回復するほかないが、
▼【(265)『新羅本紀「阿麻来服」と倭皇天智帝:西井健一郎氏』2010年11月8日(月)】



● “ とうやん ” @t0hyan
白村江敗戦を受けて、九州王朝「倭国」の大宰府王家、及び「難波副都」王家がどういう歴史をたどったかを、大まかに年表に書き出してみた。
▼【(167)『継体紀の「長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ」とは』2010年7月18日(日)】





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(a0069) 【夏に帰省して田布施町をチラリ通りましたが、古墳と寺と田んぼしかありませんね。 熊毛豪族の中心だった? 】 2013/10/3(木)





● ユッキン @mayowan
踏切で老人を助けて亡くなった日本女性、以前は女性助けた交番のお巡りさん、ホームで酔っ払い助けた韓国人男性、先日の水害で裸で飛び込み助けた中国人男性、凄い勇気、素晴らしい。



● “ とうやん ” @t0hyan
@mayowan
我が家から5KM位の中山駅だが、下り電車が通過する手前の
【女性が老人を助けて亡くなった踏切】
は、「すごいカーブ」だと言うが。。。
そうかなー? 若いのが死んで、自殺しょうとした年寄が生き残ったって、何とも「せんないよ」なー



● ユッキン @mayowan
@t0hyan
自殺願望者だったんですかー。板橋のお巡りさんと同じですね。
ぶち、せんないっすね~。



● “ とうやん ” @t0hyan
@mayowan
あんな人通りのあるところで、線路に首を置くなッちゅうんだ!! まったくもう。。ぶち、せんないッ。。。。




● ユッキン @mayowan
@t0hyan
夏に帰省して田布施町をチラリと通りましたが、古墳と寺と田んぼしかありませんね。
熊毛豪族の中心だったんですかね?



● “ とうやん ” @t0hyan
@mayowan
リオデジャネイロで東京オリンピック誘致のスピーチをされた高松宮妃だけど、この
【高松八幡宮】
のゆかりじゃないですかのー?
この途中の地家にある西円寺が明治天皇母方の出身地ともいう。
まー、なんでか知らんが偉人が一杯いるでのー



● “ とうやん ” @t0hyan
@mayowan
前々回お参りした時は「三条実美」の石碑があったのに、前回お参りした時は見つからなかった、探しよう悪かったか
…田布施町麻郷井神の高松八幡宮にて 「王政復古の大号令」を発し新調の錦旗を掲げる官軍(薩長諸隊)の出陣式を行った。《魚拓》



● “ とうやん ” @t0hyan · 11 分 11 分前
吉田松蔭の母の杉瀧子に「しつけ教育」受けさす為に伊藤俊輔が麻郷から玉を連れ出し萩の杉家へ連れて行く。

大室寅之祐=東京明治天皇と現皇室(その1)

大室寅之祐=東京明治天皇と現皇室(その2)



● ユッキン @mayowan
@t0hyan
イエズス会は大内の頃には西日本に居て、日本の民族や文化を調べあげてますね。
毛利が占領して大内を田布施に集約。
大内の恨みをイエズス会が利用、幕末に爆発・・て説はどうですか?



● “ とうやん ” @t0hyan
イエズス会ですか?さーどうでしょうね。
彼らは鉄砲の火薬の硝石を独占しており「信長の本能寺の変」もイエズス会が本能寺を爆破させた犯人といわれ、高山右近とか大友宗麟とかはこの硝石欲しさに、領内の女性を奴隷に南方に売り飛ばしてたという。
秀吉が激怒して鎖国が始まったとか



● ユッキン @mayowan
日本の女性は海外では人気抜群だったみたいですね。
ナイチンゲールは日本人、
『ワタシは、おんな!無い、チン、ガール!』(八切止夫説)



● “ とうやん ” @t0hyan
とはいえ、大内義隆が足利義満に敗れ、堺港から南朝の皇子を連れ帰り、一人を麻郷へ一人を山口へ、毛利が陶晴方を討ち、周防を占領後も、すぐには大室家の事に気付かなかったというから、 イエズス会とでは時代が異なりすぎると思うけど。
吉田松陰の南朝革命、(水長両藩が交わした)「成破の約」が起こりかと思う。



● ユッキン @mayowan
皇居の前の広場にある楠木像はいつ頃出来たか知りませんが、なんか、不思議ですのんた。
取って付けたみたいな・・・
松陰はそんなに影響力あったんですか?



● うじにぃ @ujiny
明治33年7月



● “ とうやん ” @t0hyan
明治新政府が採用した政策の「ほとんど」が吉田松陰が言った通りにやっています、如何に影響力が有ったかが分りますね。
『裏切られた三人の天皇:鹿島曻著』「来原良三に与うる書」中に
「富国強兵し、蝦夷をたがやし満州を奪い、朝鮮に来り、南地(台湾)を併せ、然るのち米を挫き欧をくだかば事克たざるはなからん」



● ユッキン @mayowan
松陰はスパイ(忍者)学校の先生くらいかと思ってましたが・・・
田布施史料館には古墳と岸、佐藤の事ばかりで幕末や博文の事が無いですね。



● “ とうやん ” @t0hyan
そうですか、私はどちらも興味ないので行っていませんが、伊藤博文の資料館は故郷の束荷(つかり?)村にあるんじゃないですか?
ここには、孝明天皇を暗殺した時使用の改造「刀」があるはずですよ。ケツの穴から刺した
▼【 伊藤公資料館 】



● ユッキン ‏@mayowan
ケツがムズムズしてきました。
明治天皇は厠には決して行かなかったとか・・伊藤公資料館今度行ってみますw
高村副総理の実家の近くですのんた





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(a0070) 【お市の娘・茶々(淀殿)が浅井長政の子でなく織田信長の子だと知ってればこそ、 豊臣秀吉は淀君に執着した】 2013/10/3(木)





● “ とうやん ” @t0hyan
@starbuck2102v @tomotan2012 @yukikoaug
「うつけ者~♫」の「うつけ」って、「たわけ」っても言いますよね。
ところで、これ知っています?
【「たわけ」と「うつけ」
織田信長は妹のお市と近親相姦をしていた。】
《魚拓》



● ジブリル:参院選選挙無効提訴中 @starbuck2102v
@t0hyan @tomotan2012 @yukikoaug
これは知りませんでした。両刀使いだとは聞いてましたが、
そこまでやっていたとは…



● “ とうやん ” @t0hyan
@starbuck2102v @tomotan2012 @yukikoaug
「お市の娘・茶々(淀殿)が浅井長政の子でなく、織田信長の子である事を知ってればこそ、
豊臣秀吉は、淀君に執着したのだ。と理解できます。なーんちゃって。。
まじめな貴殿には「毒な話よ」のー!?いや・いや・いや



● ジブリル:参院選選挙無効提訴中 @starbuck2102v
@t0hyan @tomotan2012 @yukikoaug
何かドロドロしていそうですね。
織田信長もお市も細面で美形のようなので、淀君もおそらく美形なのではないかと思いますが、
フィギュアの織田信成はどうしてあの顔なのか?
いやいや、突っ込んじゃ信成君に可哀想ですね。



● “ とうやん ” @t0hyan
@starbuck2102v @tomotan2012 @yukikoaug
斉藤道三の娘「濃姫(帰蝶)」は、石女(うまずめ)だったと言います。
この為、信長に「跡取り」が必要なわけですが、嫉妬焼きでもあったわけです。
で、信長が「跡取り」ようのセックスをする時は「馬鹿で、ブス女」を宛がったとさ。と言う事は、その子孫は「馬鹿で、ブス女」の血を引いてることになるな。



● ジブリル:参院選選挙無効提訴中 @starbuck2102v
@t0hyan @tomotan2012 @yukikoaug
とすると、信成君は道三の血筋もしくは似たようなものですか!
そうした心理は理解できますね。



● “ とうやん ” @t0hyan
@starbuck2102v @tomotan2012 @yukikoaug
いや、逆です。道三の血を引いていないわけです。
【…明治天皇のお妃の昭憲皇太后も子供の産めない身体だったと言います。】
この方もひどい「嫉妬焼き」だった。だから、明治神宮では、後妻の息子「大正天皇」が、先妻(?)の「昭憲皇后」を「昭憲皇(太)后」と祀ったとか^^



● ジブリル:参院選選挙無効提訴中 @starbuck2102v
@t0hyan @tomotan2012 @yukikoaug
そうですね。安直に判断してました。申し訳ないです。
道三の娘も常に心中は穏やかではなかったのですね。



● “ とうやん ” @t0hyan
@starbuck2102v @tomotan2012 @yukikoaug
「本能寺の変」のあと、信長の正妻「濃姫(帰蝶)」にうらみを持ってた織田信雄(のぶかつ)?だかが、「濃姫(帰蝶)」を、安土城に閉じ込め、城そのものを「棺おけ」火屋にみなして、城ごと焼き殺したと言われています。
悪女として有名だとか




● nothigcat @nothigcat
@starbuck2102v @t0hyan @tomotan2012 @yukikoaug
テレビで聞いたところでは、
織田家の末裔とされる彼の父親が持ち出す家系図が怪しく信憑性を欠くというものでした。
信長は幼少時に女子と間違われる美形で、お市は東国一の美女と評されたとか?



● “ とうやん ” @t0hyan
@nothigcat @starbuck2102v @tomotan2012 @yukikoaug
「テレビで聞いたところでは、織田家の末裔とされる彼の父親が持ち出す家系図が怪しく信憑性を欠く」 ⇒
この場合、テレビがいい加減と見るべきでしょうね。
正妻「濃姫(帰蝶)」に子が無かったのだから、



● “ とうやん ” @t0hyan
@nothigcat @starbuck2102v @tomotan2012 @yukikoaug
然し、織田信長の血筋は途絶えていて不思議でも何でもない。
▼【織田信長の末裔とされる男子フィギアスケートの織田信成に家系図ねつ造疑惑が浮上】



● “ とうやん ” @t0hyan
だいたい、正しい「家系図」を知ってるのは、女の方で男の方ではない。
女房が「間男」すれば、家系図は違ってくる。
まして「取り子・取り嫁」だとか、盆踊りの夜はフリーセックスだったと言うから
「家系図」上はご先祖様であっても、実際は赤の他人かもしれない。
その実4~5代前は全く信頼できない。





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(a0071) 【天武天皇(倭王薩夜麻)の人質解放帰国後、日本の国家的神道が始まり、息子の高市天皇へ引継がれた。 】 2013/10/4(金)





● 世に倦む日日 @yoniumuhibi
伊勢神宮の式年遷宮のマスコミ報道、大々的すぎて気になる。
異常だ。
特に #NHK。20年前はこんなに大騒ぎしなかった。何と言っても国家神道。マスコミ(公共放送)や政府がこんなに肩入れするのは不自然。
昭和4年の儀式をそのまま再現したという点も気になる。
子安宣邦、ここは何か言うべきだ。



● “ とうやん ” @t0hyan
@yoniumuhibi
「万世一系」って言うけど、これを見よ!
▼【17.「北朝」は滅亡していた!!南北朝秘史-其の壹(1997.11.15)】 
⇒ ひとっつも、「万世一系」ではない。
孝明天皇と明治天皇だって、親子ではない!!全くの赤の他人だ。




● ジョウモンマン【地域の生活が第一】 @jyoumonjn

▼ 【 ご神体、新社殿へ=20年に1度「式年遷宮」-伊勢神宮で遷御の儀 】
2013/10/02 22:58
時事ドットコム
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ご神体、新社殿へ=20年に1度「式年遷宮」−伊勢神宮で遷御の儀 ご神体、新社殿へ=20年に1度「式年遷宮」−伊勢神宮で遷御の儀 「遷御の儀」で、白い絹布で囲った「絹垣(きんがい)」に覆われて新正殿に移るご神体=2日夜、三重県伊勢市の伊勢神宮内宮(代表撮影) 三重県伊勢市の伊勢神宮内宮で2日、これまでの正殿から新しく造営した正殿にご神体八咫鏡(やたのかがみ)を移す「遷御の儀」が行われた。1300年以上の歴史を持つ伝統的な祭りで、20年ごとに社殿を造り替える「式年遷宮」は、クライマックスを迎えた。 〔写真特集...


祭主(斎王)の衣装演出が劇画っぽくすごかったね?
ある意味^^



● “ とうやん ” @t0hyan
@jyoumonjn
天武天皇(倭王薩夜麻の方)の人質解放帰国後、日本の神道が始まり、息子の高市天皇へ引継がれたと思うのですが如何
▼【NHKの歴史秘話ヒストリア「伊勢神宮・日本の始まりへの旅」で、「式年遷宮」は高市天皇即位年に始まった】



● “ とうやん ” @t0hyan
@jyoumonjn
神道の祝詞が『古事記』そっくり同じなのは不思議だ。
古事記は書かれてすぐ秘匿されたはずで、なのに神道の祝詞は古事記を既に知ってたかの如く祝詞をあげている。
これは倭王薩夜麻が唐にいる時、道教に帰依したとしないと理解できないではないか?
大海人皇子ではあり得ないよね。



● ジョウモンマン【地域の生活が第一】 @jyoumonjn
@t0hyan
おはようございます。リツイありがとうございます。
政府は隠したがっても、云われているよりかなり早い段階で伝播してると思うのですが・・「福永光司(道教と古代日本)」^^



● “ とうやん ”
@t0hyan
「福永光司(道教と古代日本)」と「吉野裕子(陰陽五行思想からみた日本の祭り)」は「こ・むずかしい」
倭王薩夜麻の天武天皇が唐の長安に拉致された時、自分の倭国の祖先の地(=吉野ヶ里甕棺墓の発生地)が長江中流域だと改めて気づいたのじゃーないか。
帰国後、国家神道として祭りなおしたと思う。



● “ とうやん ” @t0hyan
「福永光司(道教と古代日本)」は江南と古代日本の道教の関係を述べている。
一方、「吉野裕子(陰陽五行思想からみた日本の祭り)」は、倭王薩夜麻の天武天皇が唐から拉致・解放・帰国後、国家神道として祭りなおした際の「伊勢神宮」を詳しく取り上げている。
…んじゃないかと思うのですよね^^



● “ とうやん ” @t0hyan
両書とも、一度は読んでいるはずなんですが、今はもう白紙状態です。今一度読み直し中です。
ただ、
【古事記序文の南山が長安の「終南山」で、祢公墓誌の「濳龍」と古事記序文の「僭帝」とは、同一人物だ。】
と分かった現在は、また別の感慨があります。



● “ とうやん ” @t0hyan
「帰国後、国家神道として祭りなおしたと思う」
⇒ なぜ国家神道として祭りなおす必要があったか、
長門以東の扶養王国を「難波副都」が中央集権化し、更に「白村江敗戦」を期に近江朝の「日本国」独立。
更に倭王薩夜麻の天武天皇が「壬申の乱」を期に「倭国」を再統一、事実「統一を完成させた」象徴では



● “ とうやん ” @t0hyan
この「帰国後(壬申の乱で倭国再統一の象徴・あかしの)国家神道として祭りなおし」が「伊勢神宮」の佐賀県神在から三重県への移築だろう。
更に、天武の息子の武市皇子が高市天皇に即位する690年に「式年遷宮」が始まった。
然し、これからと言う時の696年に当の武市天皇が暗殺されてしまう。



● “ とうやん ” @t0hyan
九州王朝「倭国」大宰府王家の高市天皇を「プロト大化の改新」で暗殺した。
王権を奪った「倭国」1分派「難波副都」王家の文武天皇が、奈良朝廷(大和朝廷)を開闢する。
『書紀』は白鳳倭王薩夜麻を「2人1役」の天武天皇とし、薩夜麻の武市皇子の武市天皇即位を持統天皇即位に改ざん ⇒ 実に巧妙!




今、我々が見てる古代史は、九州王朝「倭国」の王権を暗殺・簒奪(さんだつ)した
奈良朝廷が編纂『書紀』の改竄后の世界だ。





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(a0072) 【「潜龍」はそのままですね?ただ一般の「未熟」とか解釈するより 「伏龍鳳雛」の状態で、4爻まで時を伺う。】 2013/10/5(土)





● “ とうやん ” @t0hyan
両書とも、一度は読んでいるはずなんですが、今はもう白紙状態です。今一度読み直し中です。ただ、
▼【古事記序文の南山が長安の「終南山」で、
祢公墓誌「濳龍」と、古事記序文の「僭帝」とは、同一人物だとしたら】

別の感慨があります。



● ジョウモンマン【地域の生活が第一】 @jyoumonjn
う~ん「潜龍」はそのまま易経の「乾」の初爻ですからそのままですね?
ただ一般に「未熟」とか解釈されているより
「伏龍鳳雛」の状態で、乾の卦の4爻(天部)まで時を伺う
という良い意味のほうが強い気がするのですが・・



「伏龍鳳雛(ふくりょう-ほうすう)」の意味
・才能がありながら機会に恵まれず、力を発揮できない者のたとえ。
・機会を得ず、まだ世に隠れているすぐれた人物のたとえ。
・また、将来が期待される若者のたとえとしても用いる。
▽「伏竜」は伏し隠れている竜。「鳳雛」は鳳おおとりのひな。「鳳」は想像上の瑞鳥ずいちょう、鳳凰ほうおうのこと。「竜」は「りゅう」とも読む。



● “ とうやん ” @t0hyan
【一般の(未熟)】と解釈するより
「伏龍鳳雛」の状態で、乾の卦の4爻(天部)【~まで時を伺う】

ですか「なるほど」そうだと「文意もぴったり」合います。
しっくり来てなかったので、感謝。
それにしても「乾の卦の4爻(天部)」の箇所は「チンプンカンプン」ですがね^^



● ジョウモンマン【地域の生活が第一】 @jyoumonjn
乾は上下とも陽爻(下から初爻~3爻=地)(4爻~上爻=天)
潜龍は、4爻以降に活発に動きはじめ5爻で天に飛龍し、6爻で降龍に向かう。
易の変爻ですね?
全陽というのは必ずしもベストではないようです(満つれば欠ける)^^



● “ とうやん ” @t0hyan
▼【「濳龍體元」とは、はじめに、私は(未熟者)だった。】
⇒ 「はじめ、私は(時期が来るのを伺っていた)」
いえね、
唐の高宗は倭王薩夜麻に友情に近い好意を抱いていた
と私は思っているんですよね。
それ故、倭国の再統一を委ねたとね。




● “ とうやん ” @t0hyan
▼【人事、共に給わる】
やはり、ここは「たまわる」と読むほかない。
天武よりも上位者が天武に軍勢をたまわったのである。
 ⇒
古賀達也氏は上記の如く指摘、
然し上位者を唐の高宗とはされていない。
そこ迄思いもしなかったか、気づいてたが知らないふりしたか



● “ とうやん ” @t0hyan
天武の大海人皇子が、おっしゃるには、

『淑人(=唐・高宗)』が、『よしとよく見て(=きっと了解してくれると読んで)』、『好し言ひし(=分かっ たそれで良いと言ってくれた)』更に、『芳野よく見よ(=郭務?除へこの作戦でどうだ、良く検討するように)』と、『多良人よく見(=あの時、倭王薩夜麻の唐・高宗への提言は正しかった)』

流石だなぁー!。
とこの歌を解釈するのが、正しくて、たぶん、最終結論になりますね。



● “ とうやん ” @t0hyan
古事記序文の南山が長安の 「終南山」 で、
祢公墓誌 「濳龍」 と古事記序文の 「僭帝」 とは、同一人物だろう。
▼【(924)『勘違いするな。『古事記・序文』の“どこにも”「壬申の乱」とか、「吉野に入った」とかは、書かれていない』2012年3月12日】




● “ とうやん ” @t0hyan
『古事記』序文に対する考察は、
▼【039】及び
▼【040】
を、ご参照ください




● “ とうやん ” @t0hyan
『祢公墓誌銘并序』についての考察は、
▼【058】及び
▼【059】
『祢公墓誌銘并序』『古事記』序文の対比考察は、
▼【060】
を夫々ご参照ください。





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(a0073) 【戦前、親父が買取って「ひともうけ」した大嶺の「ボタ山」やっと見っけ! 無煙炭で良質な炭だったとか…】 





● “ とうやん ” @t0hyan
親父が買取って「ひともうけ」した大嶺の「ボタ山」やっと見っけ
▼【大嶺炭鉱・軌道めぐり】《魚拓》
▼【山口県美祢市大嶺町奥分麦川・美祢炭鉱】
▼【美祢市の荒川水平坑】《魚拓》



● “ とうやん ” @t0hyan
俺の生まれる前なんでね。
▼【廃墟の風景・美祢の炭鉱跡(2013/6/23)】《魚拓》
▼【 美祢炭坑跡をめぐる 】《魚拓》
▼【最新版!美祢の坑口を回ってみるの巻き・その2】《魚拓》



● “ とうやん ” @t0hyan
小豆(あずき)相場に手を出して、「すってんてん」になった親父は、下松の店をたたんで、叔母からもらった毛布を、下松の切戸川に投げ捨て、汽車に乗って下関に向ったそうだ。
向かいの席の客が「無煙炭のボタ山の再精錬が商いになる」って話してたらしい。
それを聞いた親父は途中下車して、「ボタ山を買った」と言うわけだ。



● “ とうやん ” @t0hyan
「ボタ山を買った」と言っても、「夜逃げ同然」の親父に金は無く、炭が売れたら払うって感じかな…
自分は近くの温泉に泊まり込み毎日「どんちゃん騒ぎ」だったとか、憲兵に見張られて身動きできなかったとか言ってた。
九州の炭鉱の流れ者が大嶺にも働いてて、山が終わった後も、
彼らが「くっ付いて」きたらしい。



● “ とうやん ” @t0hyan
下松に帰った親父は、ついてきた彼らの処遇に困って、思案してたらしいが、彼らを神戸の「空き倉庫」を買い取って「沖中」に上げたらしい。
炭鉱で体を鍛えてるから「沖中」もやれたのだろう。
それが、「神戸の山口組・傘下の松野組」の起こりだとか…
(松野組は解散させられたとも聞くが、その後は良く知らない)




● “ とうやん ” @t0hyan
馬医・白光炫(ペクカンヒョン)の名前が気になって調べてみた。

・ 【辞書 > 中日辞書 > 「《 炫 》」の意味】
 によると、

▽ 《炫》xuàn まぶしく照らす、目を眩(くら)ませる。
・ 「光彩炫目」 華やかでまばゆい。

素晴らしい名前っだった!
「 光 彩 炫目 」 がその名前の由来かと?





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(a0074) 【新庄宗昭氏・日本古代史雑感 『九州王朝と大和王朝の交替?』で、「提起の疑問への回答」である。】 2013/10/9(水)



《ご注意:文字化けがひどい!!》



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
かれら大和の政権にとって、このできごとは政権奪取!というようには見えていなかった、
あるいはそうとは理解していなかったのではないか?
『九州王朝と大和王朝の交替?』
で、
「提起の疑問への回答」
である。



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
『九州王朝と大和王朝の交替?』
で、
『かれら大和の政権にとって、このできごとは政権奪取!というようには見えていなかった、あるいはそうとは理解していなかったのではないか?』
という疑問は現日本人の誰しもが抱く疑問であり、実に「素直な疑問」である。



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
この上記ブログが設問している疑問点を整理してこう。
疑問点 
白村江の戦いが663年、それから701年まで38年。日本書紀には壬申の乱をはじめいろいろな出来事が出来しています。その中で,王朝の交替を臭わす記載は皆無です。これは何故か?という疑問です。



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
疑問点◆
新政府は大宝律令でもって郡県制を施行し、全国統治を宣言したことになるのです。 それにしてもです。こんな晴れがましい政権交代を何故、日本書紀は黙っているのでしょうか?



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
疑問点:
九州王朝の事蹟は抹殺するのではなく、自分たちの事蹟として移し替えているに過ぎないのです。このことから垣間見えることは、かれら大和の政権にとってこのできごとは政権奪取!というようには見えていなかった、あるいはそうとは理解していなかったのではないか?そういうことなのです。



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
疑問点ぁ
禅譲だろうか? あるいはひょっとして九州から政権主体がごっそりやってきたのではないのか?など考えては見るのですが。



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
疑問点ァ
白村江の戦い直前には斉明天皇が九州へ助成に出ます。戦いの後,天武天皇が九州を往復します。九州の政権と大和の政権とは何らかの親近性のある関係がありそうな気配です。白村江の戦い直前に始まる第1次難波宮建設は九州王朝の避難先ではないかとも読める古文書もあります。




● “ とうやん ” ‏@t0hyan
疑問点 Рδの交替を臭わす記載は皆無です。これは何故か?という疑問です。 ⇒
疑問点,紡个垢覯鹽忞
白雉改元儀式652年で発足の九州王朝「倭国」の
「難波副都」が天智近江朝⇒天武朝⇒文武奈良朝に発展したもので、
九州王朝「倭国」内の王家派閥争いで、強いて言えば、奈良朝廷は九州王朝である。



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
疑問点◆Г修譴砲靴討發任后こんな晴れがましい政権交代を何故、日本書紀は黙っているのでしょうか? ⇒
疑問点△紡个垢覯鹽忞
廃評建郡の
「プロト大化の改新」
が、軽皇太子(のちの文武天皇)の高市天皇を「暗殺するクーデター」という結末からである。



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
疑問点:かれら大和の政権にとってこのできごとは政権奪取!というようには見えていなかった、あるいはそうとは理解していなかったのではないか? ⇒
疑問点に対する回答:
「政権奪取」であった事は確かであるが、九州王朝「倭国」内の王家派閥争いで、皇太子が天皇を暗殺の極秘扱いだったからだ。



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
疑問点ぁЯ犠銈世蹐Δ?あるいはひょっとして九州から政権主体がごっそりやってきたのではないのか? ⇒
疑問点い紡个垢覯鹽忞
「暗殺」だから「禅譲」ではない。
「ごっそり」やって来たが、2度に亘って移動してる。
「難波複都」詔649年と、「筑紫地震678年~白鳳地震684年」の間の期間だ。



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
疑問点ァФ綵の政権と大和の政権とは何らかの親近性のある関係がありそう。白村江の戦い直前に始まる第1次難波宮建設は九州王朝の避難先では。 ⇒
疑問点イ紡个垢覯鹽忞
大宰府王家と「難波副都」王家(のちの奈良朝廷)は、いずれも九州王朝「倭国」内の王家である。
難波宮は天下立評の拠点である。


◇◇


● “ とうやん ” ‏@t0hyan
以上は、
▼【(a0009)≪九州王朝と大和王朝の交替?⇒大和朝廷・奈良朝廷は、九州王朝「倭国」の一分派・分王家である≫2012年11月11日(日)】
の続編です。



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
以上は、
▼【(a0012)≪かれら大和政権にとって政権奪取!と見えていなかった。或いはそうと理解していなかったのではないか≫2012年12月8日(土)】 の更なる「続編」でもあります。





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(a0075) 【(続編)『書紀』には、隋書『俀国伝』にある「倭国」・「秦王国」の記載が「そっくり」洩れて消されてる。】 2013/10/11(金)





▼【2013年9月30日(月)
『書紀』には、隋書『俀国伝』にある 「倭国」・「秦王国」 の記載が「そっくり」洩れてて、消されてる。】

下記は、上記の「続編」です。




● “ とうやん ” @t0hyan 10月10日
・唐朝:『どうだ、そういった史書はできるか?』
・日本:『うーん、難しそうですが、やってみましょう。』
そこで、帰国後、急遽“でっち上げ”られたのが、『日本書紀』だったということだ。
当然、『日本書紀』は漢文であり、完成後、唐朝へ復命したはずだ。



● 范蠡 @gunshi_hanrei 10月10日
@t0hyan
とても面白い視点、しかも充分有り得る仮説ですね。
その場合、唐の狙い、メリットは何だったのか?
当然、唐にとって望ましいシナリオが伝えられていたと思うのですが。
倭国と日本国の扱いや万世一系のシナリオはどうだったのか興味が尽きませんね。
古事記支持派との政争も疑える謎?



● “ とうやん ” @t0hyan 10月10日
@gunshi_hanrei
笑われるかも、私は「仮説」というより史実だったと考えています。

▼【(814)『「日本書紀」七二〇年編纂完了後、唐朝では国史編纂資料中から、倭国史五十四年分が抜き取られたのである』2011年10月22日(土)】



● “ とうやん ” @t0hyan 10月10日
@gunshi_hanrei
一方「倭国」から「日本国」への変遷の視点を隋書?蔚国伝が正しいとして次の盛衰想定年表を用意していますご参考迄に

▼【(781)『大和朝廷の生い立ちから倭国滅亡迄の歴史的経緯の想定年表』2011年9月18日(日)】



● 范蠡 @gunshi_hanrei
@t0hyan
有難うございます。DLしてシッカリ勉強します。
しかし相変わらず疑問と言うより興味ある謎と言うべきなのですが、何故、隋や唐が日本書記のシナリオを歓迎したのか?
倭国の存在が好ましくなかった事情があるのか?
唐が新羅と同盟し白村江で倭国と戦った裏事情が有るのか?調べたい。



● “ とうやん ” @t0hyan
@gunshi_hanrei

源氏物語《弾正尹・為尊親王の対唐国・冊封拒否事件》

▼【「古事記」の編纂者達は、「冊封拒否事件632年」以後をどのように扱って良いか“逡巡”したことは明白である】



● “ とうやん ” @t0hyan
@gunshi_hanrei
この
【表仁、綏遠の才無く、王子と礼を争い朝命をのべずして還る。】
を読んだ方は、たくさん居られるでしょうが、たぶん軽く読み流されて、何の事だか「さっぱり」 のはずである。
というのが「書紀」には何らそれに対応の「できごと」が記録されていないからでもある。



● “ とうやん ” @t0hyan
@gunshi_hanrei
「『書紀』には何らそれに対応の「できごと」が記録されていない」 ⇒
白村江戦前の対唐外交史は、
「秦王国」の対唐外交史を日本国の対唐外交史に置き換えている。

▼【『日本書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」】



● 范蠡 @gunshi_hanrei
@t0hyan
目下、興奮と共に勉強中ですが、
支那の史書改竄までして万世一系に拘る執念、千数百年を経た今日も尚、古墳、陵墓の学術発掘を
阻止する執念とその力を勘案すると、本件解明は生命の危険もあるのでは?
杞憂なら良いですが・・



● “ とうやん ” @t0hyan
@gunshi_hanrei
話がとびますね。世界中でどこに「万世一系」の国が有りますか?
明治天皇は伊藤博文が死んだ后「俺は南朝革命したんだ」と言ったとか

▼【17.「北朝」は滅亡していた!!南北朝秘史-其の壹-(1997.11.15)】



● “ とうやん ” @t0hyan
@gunshi_hanrei
現皇室においても、平成天皇は昭和天皇の子供ではない。
平成天皇と美智子妃の実子は秋篠宮だけだ、と言いますからねー、
「万世一系」というのは、「とても・とても、とんでも」な話でしょう。
いわば日本人自身の民族としての統一の「象徴」と見るべきじゃないでしょうか


◇◇


● 范蠡 ‏@gunshi_hanrei
@t0hyan
何故か?トーンが突然、詰問調になりましたね。
生徒としてはオッカナクなって質問も出来なくなりますね・・・。
天照大神から神武天皇の東征・・と万世一系と言う事になっているのは、小生の主張ではありませんし、
どこにそんな国があるのか!と攻寄られましても当惑ですね。



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
@gunshi_hanrei
…ですね。
まー、私の話のほとんどが「古田史学の会の集大成」の「受け売り」ですしね。
ただ、「逸脱」あった箇所を「ものさしで叩いて」修正はしていますが。
ところで、鹿島曻の著書を一度も読まれていませんね。
で、あなたは「万世一系」をどう考えておられますか?



● 范蠡 ‏@gunshi_hanrei
@t0hyan
鹿島曻の著書のみならず日本史の勉強を殆どしていません。
また天皇に関する事は微妙な問題を孕んでいるので敢えて触らぬ神に・・と言う姿勢ですし
「我が祖先は藤原の朝臣XX」と祖父達の口癖と同じく「万世一系」も尊重しておくだけです。
仁徳、武烈、継体などは変だと観ますが・・。



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
@gunshi_hanrei
「天皇に関する事は微妙な問題を孕んでいる」 ⇒
うーん、微妙な問題というと、どういうふうに「微妙」なんでしょうか?



● 范蠡 ‏@gunshi_hanrei
@t0hyan
日本民族に限った事ではありませんが、しかし「情理分離」の出来ない人が指導層にかなり多いと感じますし大東亜戦争敗戦の主因の一つとみています。
天皇の事になると最早宗教と言ってよい狂信的、偏執狂的で論理が吹き飛び感情論一辺倒な人が多く、議論で終わらず「江戸長」なのです。



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
@gunshi_hanrei
なるほど、で、「江戸長」って?



● 范蠡 ‏@gunshi_hanrei
@t0hyan
「江戸の敵を長崎で討つ」を江戸っ子は「江戸長」(えどなが)と言ったそうですが・・何しろ、神武の存在は?とか、継体への移行が怪しい・・などと言おうものなら歴史談義にはならず、お前は赤、とか左翼とか訳の分からない非難になり、ビジネスにも影響するのが実態です。



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
@gunshi_hanrei
「ビジネスにも影響するのが実態です。」 ⇒
えッ?范蠡さんの会社でですか?



● 范蠡 ‏@gunshi_hanrei
@t0hyan
そうですか・・解説を要するほど言論の自由に恵まれた社会に居られるのですね。
天皇に関る歴史論議は、理不尽な江戸長に発展する典型の一つです。
会社と言う狭い社会ではなく日本人の社会と言って良いでしょう。
「君は僕にモノを教えてくれるのかね」などと長老の台詞には剣が有る。



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
@gunshi_hanrei
えッ?国内じゃない。。。? 上海ですか?
わかりました、もう結構です。





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(a0076) 【唐に逆らったのは、ベトナムと倭国だけだと言いますから、倭人に「誇り」が残っているかが勝負ですかねー】 2013/10/12(土)





● “ とうやん ” ‏@t0hyan

▼【平城京で起きた最初の政変・長屋王の変】

「高市天皇」が696年7月暗殺された時、684年生まれの「長屋親王」は12歳。
父親の異変に気付かなかったようだ。
暗殺が、いかに巧妙に秘密裡に実行されたかを示し、
ほとんどの「王朝人」も知らなかった。



● 黒坂三和子 ‏@miwakokuro
@t0hyan
とうやんさんの書いてくださる日本の歴史を学ぶと、暗殺ばかりで、
そういう人達が”良民”を統治してきたのかと少々悲しくなりますし、
今も変わらずに続いているのかと思い、
なんとか“良統治者”を育む道はないのか、と願ってしまいます!



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
@miwakokuro
いつも暇人の「たわごと」をリツイート戴き嬉しいです。
「長屋親王」と「大化の改新」は連続してると「古田史学の会」のみなさんに教えて戴きました。
それらを「1本の糸」で繋げようとしてるだけです。
お話の件は、唐国・米国の「傀儡」事大主義政権が続く限りは無理でしょう



● 黒坂三和子 ‏@miwakokuro
@t0hyan
ご返事ありがとうございます!
歴史はいつも勝った者が綴ってきたと認識はしていましたが、
あの時代から始まっていたと、、学び、”ヒト”の生きる意味を考え込んでしまいます。
<唐国・米国の「傀儡」事大主義政権が続く限りは無理でしょう>そうでしょうか



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
@miwakokuro
為尊親王の遺伝子に期待!

▼【「倭国」と「唐国」との白村江敗戦は、「日本国」と「米国」との太平洋戦争敗戦とで「瓜二つ」である】

▼【弾正尹・為尊親王の対唐国・冊封拒否事件】



● 黒坂三和子 ‏@miwakokuro
@t0hyan
そう今の状況を見れば自ずと一人一人の選択の道が見えるわけですね。
今は普通の”良民”にもパワーがあると知ったわけですし、



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
@miwakokuro
《参るなーこう次々とやられては
「消費増税」だろ、「不正選挙」だろ、「TPP参加」だろ、「秘密保全法」だろ》
なんですね。
この法案が通れば「ネット良民」も窒息死しますね。
唐に逆らったのは、ベトナムと倭国だけだと言いますから、倭人に「誇り」が残っているかが勝負!




● ジョウモンマン【地域の生活が第一】 ‏@jyoumonjn

▼【自動運転、高速でも トヨタ開発 数年後の市販導入計画】

事故の場合はどういう法律で対処できるのだろうか?・・



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
@jyoumonjn
「ペーパー・ドライバー」の「永久(xA級x)ライセンス取得」の女房が傍で、
「そーなれば、私でも運転できるよね。」と、「ほざいて」いましたが・・・



● ジョウモンマン【地域の生活が第一】 ‏@jyoumonjn
あら?アイコンお庭の秋の味覚ですね?^^



● “ とうやん ” ‏@t0hyan
@jyoumonjn
イメチェン!?のPRでーす^^
今、倍賞千恵子さんの講演があったので行ってきました。
講演と言っても「赤城の子守唄」とか「下町の太陽」とかアカペラで歌いながらのですけど、張りのあるすばらしい声でしたね。
すぐ近くにお住まいだとは聞いていたのですが、事実でした^^




● “ とうやん ” ‏@t0hyan
コロンブスの新大陸発見の航海の前

【鄭和が率いた大艦隊】《魚拓》

は東南アジアからインド洋・ペルシア湾にいたり、
一部はアフリカ東岸にまで達し、南海諸国の対明朝貢をさかんにした。
この南海遠征から60年ほど後に、
コロンブスの新大陸発見の航海が行われた。

「大航海時代の幕開け」《魚拓》

となったコロンブスの新大陸発見だが、
挿絵をよく見ると、コロンブスの手に筒状に丸まった「地図」が握られている。
この地図のパイオニアが明の宦官「鄭和」だったということになる。





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(a0077) 【『日本書紀』の時代が九州王朝「倭国」の筑紫朝廷の時代で、『続日本紀』の時代が奈良朝廷(=大和朝廷)の時代である 】





● “ とうやん ” @t0hyan
特に632年、唐国より九州王朝「倭国」に派遣の唐使の高表仁が、【冊封】を「倭国」に強いて、王子の弾正尹・為尊親王が強要の【冊封】受容を拒否しますが、
これが為、高表仁と言い争いになり唐使の高表仁に切られます(のちに死亡)。
傍にいた太政大臣と式部卿は、その場で切り殺されてしまいます。



● “ とうやん ” @t0hyan
《旧唐書》
『貞観五(631)年、使を遣わして方物を献ず。太宗其の道の遠きを矜(あわ)れみ、所司に勅して歳ごとに貢せしむるなし。
また新州の刺史(しし)高表仁を遣わし、節を持して往いて之を撫せしむ。表仁、綏遠(すいえん)の才無く、王子と礼を争い、朝命を宣(の)べずして還(かえ)る。』



● “ とうやん ” @t0hyan
この2ッは、同じ事を表現していますが、 ⇒
《旧唐書》の方は皆さんご存知のフレーズだろう。
が、これは唐国側の表現であり「まずいことしてくれたもんだ!」ってな軽い表現になっている。
然し、倭国側の歴史書は「黙して語らず」と思いきや、
な・なんと『源氏物語』と『和泉式部日記』に書いてあった!



● 暴走若人・日野智貴(政治家志望) @nihonkakuryokai
@t0hyan
それはすごい!



● “ とうやん ” @t0hyan
@nihonkakuryokai
別に、『源氏物語』や『和泉式部日記』にかぎりませんけどね。
『土佐日記』『住吉物語』・・・とかもね^^

【『源氏物語』・『和泉式部日記』は、平安時代「京都の物語」だと思っている貴方には“所詮”わからない】



● 暴走若人・日野智貴(政治家志望) @nihonkakuryokai
@t0hyan
やはり、孝謙天皇の正体が気になる。
東北王朝が奈良時代末期に、日本を支配していたのではないのか。




● “ とうやん ” @t0hyan
@nihonkakuryokai
リツイート、アリガトウゴザイマス!!
⇔ 『源氏物語』や『和泉式部日記』が書き残す、『九州王朝「倭国」の王子の弾正尹・為尊親王が、
「倭国」が唐との【冊封関係】に入るのを拒否した事件』 ⇒
この事件がすべての始まり・発端だったといえます。



● 暴走若人・日野智貴(政治家志望) @nihonkakuryokai
@t0hyan
お久しぶりです。
私は『源氏物語』を読んでいないため、詳しいことは言えませんが、問題は、大和に何があったのか。
前期難波京を作ったのは天武天皇というのが私の解釈ですが、『竹取物語』の「帝」が天武天皇という話もあります。
(さらにいうと、『竹取』で「帝」「国王」の違いが



● “ とうやん ” @t0hyan
@nihonkakuryokai
『竹取物語』の話は藤原不比等で帝は文武天皇でしょ?

『大和朝廷の生い立ちから倭国滅亡迄の歴史的経緯の想定年表』

『「倭国」・主都大宰府:副都難波対比年表 』



● 暴走若人・日野智貴(政治家志望) @nihonkakuryokai
@t0hyan
文武天皇と天武天皇の記録は、意図的に混同されているのでは・・・・。



● “ とうやん ” @t0hyan
@nihonkakuryokai
「文武天皇と天武天皇の記録は、意図的に混同されているのでは」 ⇒
あー、それはないと思いますよ。元々、天武天皇が

「2人1役」

の合成人間ですし、その事を『書紀』自身も「それと分かるように」記していますからね。



● 暴走若人・日野智貴(政治家志望) @nihonkakuryokai
@t0hyan
私は天武天皇の正体を見極めようとずっと考えていたのですが、高市天皇の父の方は、おそらく薩野痲であろうと。すると、もう一人は誰なのか。
そもそも、『古事記』の編集を命じたのは、本当に天武天皇なのかも怪しいわけです。文武天皇の可能性がある。



● 暴走若人・日野智貴(政治家志望) @nihonkakuryokai
@t0hyan
ついでに言うと、私の古代史に関するツイートはブログに載せていただいて構いません。というか、載せてほしい。政治的なのは非公開ですが。



● 暴走若人・日野智貴(政治家志望) @nihonkakuryokai
@t0hyan
私は貴方とは違い、やはり倭国は連邦国家だったと思う。
九州王朝が滅んだのも712年だと思う。また、大和に政権が移ったのは、704年。「ONライン」というのは場所を間違えている。
「大宝」年間にはまだ大和は一分王朝にすぎない。



● “ とうやん ” @t0hyan
@nihonkakuryokai
わたしの解釈は非常にオーソドックスですよ、前にも書きましたが、
・『日本書紀』の時代が九州王朝「倭国」の大宰府王家(=筑紫朝廷)の時代で、
・『続日本紀』の時代が九州王朝「倭国」1分派「難波副都」王家の後継の、即ち、奈良朝廷(=大和朝廷)の時代である。 です。



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