《 大和朝廷の 「はしり」 は、 「 難波朝廷 ( なにわのみかど=九州王朝「倭国」の難波複都 )」 に始まる 》  即ち、大和朝廷「日本国」 は、九州王朝「倭国」の 【 同じ血族・分流・分家 】 である。


九州王朝「倭国」の本体は「白鳳」末年 近畿へ“根こそぎ・東遷”先発に合流 「藤原京」建都

直後の「大化」倭王暗殺696年7月で 実権奪取の大和分王家が 国名を「日本国」へ変えた




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●  「倭国」は“根こそぎ”東遷した‏ @t0_yan · 2019年6月9日
九州から倭国が「ごっそり」やって来て、国名を日本国へ変えた
「九州王朝から大和王朝への交替は明確」
それにしてもです。
こんな晴れがましい政権交代を何故、日本書紀は黙っているのでしょうか?
その中で、王朝の交替を臭わす記載は皆無です。
これは何故か? という疑問です。

◇◇◇

●  「倭国」は“根こそぎ”東遷した‏ @t0_yan · 2019年3月23日
倭国が九州から近畿へ“根こそぎ・東遷”し、日本国へ改名し、倭国史は抹殺され、古事記を隠蔽し、日本書紀を編纂する発端になった大事件。
 ⇒ ◆ 『632年、唐が倭国に遣わした冊封・刺史「高表仁」に対し、26歳の
倭国・王子「弾正尹・為尊親王」が、「唐への冊封強要を敢然と拒否した事件」』

◇◇◇

●  「倭国」は“根こそぎ”東遷した‏ @t0_yan · 2019年3月24日
改竄創作史「日本書紀」を正史と義務教育された国民は、
九州王朝「倭国」が“根こそぎ・東遷”したと言っても誰も聞く耳を持たない。

然し、法隆寺移築、源氏物語が九州「倭国」時代の著作と知れば、
「倭国」が“根こそぎ・東遷”したと同時に、
倭国自身の歴史を抹殺し倭国自身の文化を封印したと分かる。

それを裏付けるのが、建築物の大量移築の痕跡である。 【 米田良三の世界 】

◇◇◇

●  「倭国」は“根こそぎ”東遷した‏ @t0_yan · 2019年6月15日
唐朝側も「倭国史五十四年分を抜き取る」と言った共謀が為された
唐が「百済・高句麗は滅亡させたのに、倭国は存命」を嫌ったのでは?
大化改新クーデターで、696年7月10日倭王・高市天皇を暗殺、政権を奪取の
大和朝廷と唐の則天武后が共謀して、倭国を抹殺し日本国に改名した

◇◇◇

●  「倭国」は“根こそぎ”東遷した@t0_yan · 6月2日
で、則天武后は粟田真人の教養、立ち居振る舞いを高く評価
唐朝が「倭国史五十四年分を抜き取った」事実は、
現に遣使の倭国の存在が、百済・高句麗の如く征伐できなかった証しであり
並み居る服属国に示しが付かない。
窮余の策は「倭国の使者に日本国の使者だ」と名乗らせることだった。




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●  「倭国」は“根こそぎ”東遷した‏ @t0_yan · 43 分43 分前
百済660年、高句麗668年は唐の高宗に滅ばされたが、
倭国は大宰府を占領されるも唐解放帰国の白鳳倭王(=薩夜麻=天武天皇)が
「壬申乱(=筑紫「倭国」・長門以東近江朝「日本国670年建国」再統合戦)672年」
を制し生き延びた。
【九州王朝「倭国」は、白鳳末年 近畿へ “根こそぎ・東遷” した】

 ↓

●  「倭国」は“根こそぎ”東遷した‏ @t0_yan · 52 分52 分前
その后、九州王朝「倭国」の本体「筑紫朝廷」は、
白鳳王(=薩夜麻=天武天皇)の678〜684年に掛け、倭国が、
先の652年近畿へ派遣の “分王朝”( 難波副都朝廷 ⇒近江朝廷 ⇒大和朝廷 ) 周辺へ
広大な北部九州から秘密裡に “根こそぎ・東遷”( ・住民大移動 ・建物大移築 ・遷都 )した。

 ↓

●  「倭国」は“根こそぎ”東遷した‏ @t0_yan · 51 分51 分前
東遷后の新都・藤原京で筑紫朝廷の高市天皇が大化改新詔(=廃評建郡696年正月)。
詔の内容に不満の大和朝廷の軽皇太子が、筑紫朝廷の高市天皇暗殺叛逆(同7月)。

 ↓

●  「倭国」は“根こそぎ”東遷した‏ @t0_yan · 51 分51 分前
暗殺によるクーデターで筑紫朝廷から実権を奪った大和朝廷の軽皇太子が、
大和朝廷で初の文武天皇に即位(697年)。
大和朝廷が正式に開闢、「大宝」建元、新「大宝律令」発布(701年)。
遣唐使・粟田真人派遣(同701年)

 ↓

●  「倭国」は“根こそぎ”東遷した‏ @t0_yan · 49 分49 分前
この派遣以降、国名を「日本国」へ替えさせられ、
倭国史を抹殺、古事記を編纂するも唐に拒否され隠蔽、日本書紀が改竄された。
倭国は元々列島に無かったものとされ、唐朝は「倭国史五十四年分を抜き取った」。
同時に、源氏物語・和泉式部日記・土佐日記・万葉集等文物全てが封印・隠蔽された。

 ↓

●  「倭国」は“根こそぎ”東遷した‏ @t0_yan · 50 分50 分前
今、目にしている源氏物語・和泉式部日記・土佐日記・万葉集等の文物は、
唐のほとぼりが冷めた後世・主に京都時代になって、慎重に封印・隠蔽を開封、
その著作年代・まえがき等を改竄して出版されたものと言える。




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1999年 2月 11日 初掲載



Ⅰ・①『法隆寺は、九州より「移築」 された』

 米田良三著 法隆寺は移築された は、
古代史を解明するうえで、すばらしくも画期的です。

 なんと 法隆寺は、九州王朝「倭国」の版図より   「移築」 されていた。

 なお、この著書の中で移築元が、大宰府 「観世音寺」 (左図は当時をしのぶ絵図) だとする説については、その後、 「異論」 も出されているが、この 「異論」 に対しては、私は 「九州倭国の法興寺を法隆寺へ移築し、その跡地に観世音寺を造った」 と考えています。

 以前より、私は古田武彦氏の著書で九州王朝「倭国」の存在が確かである、と思いつつも、それらを証明する手がかり・物証なるものが得られず、すっきりしませんでした。
 本書に出会い 「法隆寺が九州からの移築である」 と知ったとき、九州王朝『 倭国 』の存在・実在を確信しました。

 法隆寺の移築元の云々はさりながら、彼は「 藥師寺 」・「 東大寺 」 が、宇佐八幡宮にほど近い 倭国の聖地・ 小倉山 より移築されたもの。 「 東大寺 」の正式名称「 金光明四天王護国の寺 」の「 金光 」は 「 倭国の元号(=九州年号) 」 であり、「金光元年(西暦570年)」に完成していると言い。

 また、『これまで世界最古の木造建築とされていた「法隆寺(前身=法興寺)」の創建は607年であり、これより73年前の534年に造られた「薬師寺東塔」が、否、最近では517年創建の「長谷寺」が、これから世界最古の木造建築とされよう』とも述べています。

 さらに、 『今に残る、法隆寺・東大寺・薬師寺・長谷寺・法輪寺・法起寺・興福寺・東福寺・三十三間堂・桂離宮・吉野宮(吉野ヶ里からの移築)・伊勢神宮等々、これらあまたの建物が、九州倭国より移築されたものである。』 と述べています。

 確かに北部九州の、特に宇佐から大宰府、更に吉野ヶ里にかけて 「虚空蔵寺・法鏡寺・相原・垂水・椿市・木山・上坂・天台寺・大分・塔之原・井上・観興寺・塔之塚・大願寺・晴気」などの「…廃寺跡」 が数珠のごとく連なって残されてます、ごっそり倭国から大和へ移築されたのでしょう。 それはまた何故?私に限らず興味の引かれるところです。


Ⅰ・②『源氏物語』 と 『桂離宮(=桂殿)』

 さらに信じられないとお思いでしょうが、平安時代を代表する 『「源氏物語」はもともと九州「倭国」を舞台にした作品で、平安時代に紫式部により今風に手を加えられ世に出たもの、「源氏物語」の本来の中心は現「京都」ではなく、九州王朝の嘗ての都・太宰府都城であり、時空的にはさかのぼること法興寺(=観世音寺の前身)創建の西暦607年以降で、倭国が滅亡する 壬申乱672年迄の間に限定できる。』 とものべています。

「源氏物語」の舞台であるその現在地はというと、

 ★難波が現在の博多、
 ★住吉大社は博多駅の南西にある住吉神社
 ★田蓑島は、住吉神社の南にある美野島、
 ★難波の浦とは袖の湊、
 ★伊勢は加布里の隣・大石(神在?)あたり、
 ★須磨は今津湾の周船寺あたり、
 ★明石は須磨の隣・姪浜あたり、
 ★逢坂の関は関屋あたり、
 ★吉野は佐賀の遺跡のある吉野ヶ里あたり

に比定できると言う。

 紫式部と原著作との距離・方向・位置・気候の微妙な感覚差が伝わりましょうか。雪が降る情景の京都から吉野は無理でも、大宰府からは吉野ヶ里も降ってるとわかるその違いです。

 『「源氏物語」で桂殿はどのように語られているのか見てみよう。源氏は須磨、明石とわびしい日々を送られた。そこで明石の君と出会われ、姫君がお生まれになる。源氏は明石の君の上京を促される。明石の君のために入道(父)は京に住まいを用意する。その場所は「大堰川の近く」「大堰」と表現される。そしてごく近いところに「桂殿」がある。「大堰」とは現在の「水城」であろう。

 桂離宮(=桂殿)は、光源氏が教養を併せ持つ実在の皇子であり、皇子自らが建築・施行したものであり、ずっと後代「源氏物語」の愛読者であった八条宮智仁親王が徳川初期の1600年代に、大宰府水城(=大堰)で奇跡的発見から京都の桂川のほとりへ移築したもの。』 とのべています。



Ⅱ・『旧唐書』 と 『倭国』

 隋・及び初唐期の中国政権と交渉したのは、九州太宰府の『倭国』政権だったことになります。
『旧唐書』で言う 『倭国』 です。
 同書には、 『土地には、女が多く男が少ない。たくさん文字があり、習俗は仏法を敬う。』 とあります。このことは何を意味するか(…もう少し細かく書いてほしかった…が)

 女が多いってことは、男は半島での戦争に狩り出され戦死者多く、内地では女・子供ばかりだったと言うのでしょう。すこぶる文字多しとは、当時既に、ひらがな・カタカナ・サンカ文字・ハングルの元のアビル文字・漢字などがあったということでしょうし、またその上習俗は、仏法を敬うとある。このことは、西暦600年前半頃の北九州一帯は、寺社・仏閣が町にあふれ市民のそれぞれがお経を唱えていたとなりましょう。
当時の九州のイメージがわかりましょうか…、すなわち源氏物語の世界ということになりましょうか。

 このことが、何を意味するか? 今の今まで奈良や京都の文化の証しと信じられていた白鳳文化に代表される重要文化財のほとんどが、九州王朝『倭国』からの文化であり、文物であったということです。
 昔中学の美術史で先生が、 「何故か古い白鳳美術の方が新しい天平美術より優れているんだよな」 ってね、ようやくわけが分かったって感じですかね。
 ともかくも『九州』 の北部一帯には、中国南朝との海上交易の巨利によると思われる非常に豊かで、華美で、贅を尽くした夢のような王朝『倭国』があったことになります。



Ⅲ・①『九州王朝「倭国」は、いつ滅亡したか』 と 『大和朝廷「日本国」は、いつ開闢したか』

 ●〔 九州王朝「倭国」は、いつ滅亡したか?それは「日本書紀」の( おわり )に書いてある。〕

『696年〔持統10年( 持統 {高市天皇}即位7年): 九州年号大化 2年〕7月10日、後皇子尊『 高市皇子 {高市天皇}』が薨じた。
 即ち 《本来の大化改新(=プロト大化改新)》 で、九州王朝「倭国」の末王・高市天皇が 軽皇太子・藤原不比等、らに暗殺された時である。

《以下参照》




 ( X皇極X O高市O )天皇が( X板葺宮X O藤原京O )の大極殿に出御した。 ( X古人大兄X O丹比真人嶋O ) が侍した。

  ( X中臣鎌子連X O藤原朝臣不比等O ) は、 ( X蘇我入鹿臣X O高市天皇O ) が、疑多い性格で、昼夜剣を持っているのを知っていて、俳優をして、たばかって解かした。 ( X入鹿臣X O高市天皇O ) は、笑って剣を解き、入って座に侍した。

  ( X蘇我倉山田麻呂臣X O重臣安倍朝臣御主人O ) が、進んで三韓の表文を読み上げた。

 このとき、 ( X中大兄X O軽皇太子:のちの文武天皇O ) は、衛門府を戒め、同時に( X板葺宮X O藤原京O の )十二の通用門を鎖し、往来させなかった。衛門府を一ヶ所に召集して、まさに禄を給しようとした。

  ( X中大兄X O軽皇太子:のちの文武天皇O ) は、自分で長槍を執りもって、〔大極〕殿の側に隠れた。 ( X中臣鎌子連X O藤原朝臣不比等O ) らが、弓矢を持って助けまもった。

 ( X海犬養連勝麻呂X O当麻真人国見O )をして、箱の中の両剣を ( X佐伯連子麻呂X O路真人跡見O )と( X葛城稚犬養連網田X O巨勢朝臣粟持O ) とに授けさせ「努め努めて、いっきょに斬れ」といった。 ー 以下、略 ー




 ●〔 では、大和朝廷「日本国」は、いつ発足・開闢したか?それは、「続日本紀」の( はじめ )に書かれている。〕

『697年〔文武元年:大化3年〕8月1日、(文武天皇が) 持統天皇から位を譲りうけて {高市天皇を暗殺して}、皇位につかれた。
『698年〔文武2年:大化4年〕11月23日、大嘗祭を行った。

 とはいえ、国として正式に発足・開闢したのは大宝律令制定以降と言えよう。
『701年〔大宝元年:文武5年:大化7年〕3月21日、対馬嶋が金を貢じた。そこで新しく元号をたてて、大宝元年とした。初めて新令(大宝令)に基づいて、官名と位号の制を改正した。


 ●〔 なんの言うことはない。「日本書紀」に書かれている( 時代 )は、九州王朝「倭国」の( 時代 )だったのである。〕

 九州王朝「倭国」の( 時代 )を、さも、大和朝廷「日本国」がずっと昔から奈良に都を置いて、全国を統治していたかの如くした。倭国・秦国の列島史、及び韓半島史を使ってでっちあげたものだったのですね。ということは、これが取りも直さず 「日本書紀の正体」 だったというわけです。

 九州王朝「倭国」がどういう経緯で滅亡に至ったか?更に、大和朝廷「日本国」が、いきなり、バトンタッチできたわけでなく、それには、いつ産声をあげて、どういう経緯で力強く成長したのかを解明したのが、


Ⅲ・②『大和朝廷は難波副都で「天下立評」した九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』

647年、九州王朝「倭国」に「甘木王(=常色王)」が即位する。
「倭国」甘木王は即位后、唐の侵略に対抗する為「常色の大改革」を次々断行する。

649年、「倭国」甘木王が、造複都「難波京」の詔を発す。
652年、天下立評・難波副都の完成、白雉改元儀式を挙行する。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

長門以東の天下立評で「プロト大和」開祖・伊勢王が難波副都に常駐する。
倭国内の大宰府と難波副都とで、権力の2重構造が発生か。

その後、白村江戦前後までに、長門以東の天下立評の進展に伴い、
倭国連邦附庸王国の「出雲・加賀・吉備・秦国・尾張・毛野(常陸)」等が解体を余儀なくされる。

同時に「難波副都倭弟王家」が台頭する。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

660年、百済滅亡。
661年、「倭国」の常色・白雉「甘木王」崩御、伊勢王崩御、白鳳王「薩夜麻」即位。
662 3年、百済復活の白村江戦で敗戦、唐が倭国白鳳王「薩夜麻」を捕獲・捕虜連行。
664年、難波副都の天智が長門以東(本州・四国)守備・防衛・直接支配。唐劉仁願・郭務悰遣倭
665年、唐、司馬上柱国劉徳高・郭務悰254人遣倭。この頃、唐が筑紫都督府(九州島)占領。
666年、唐の高宗が麟徳三年正月、泰山で封禅の儀。
667年、長門以東(本州・四国)難波副都「近江朝」独立・遷都・天智即位。唐・法聡遣倭。
668年、新羅本紀に「阿麻(=近江朝の仮名)来服」、高句麗滅亡。
669年、唐、郭務悰2千余人遣倭・筑紫。
670年、天智天皇の「近江朝」が「倭国」更えて「日本」号す。
671年、李守真遣倭。天智天皇崩御。倭国白鳳王「薩夜麻」帰国。唐、郭務悰2千人・船47隻来倭

672年、壬申大乱で天智「近江朝」滅亡、倭国再統一・白鳳王「薩夜麻」の天武天皇復位。
673年、倭国で復位の白鳳王「薩夜麻」の天武天皇が大嘗祭。
676年、新羅が朝鮮半島を統一。
678年、倭国で筑紫大地震、白村江戦後賠償で疲弊極まる。
682年、倭国太宰丹比真人嶋が大鐘をプロト大和へ貢上。
683年、倭国の丹比真人嶋「三つ足の雀」をプロト大和へ貢上。
684年、白鳳地震、白鳳王「薩夜麻」の天武天皇崩御、倭国大宰府⇒難波京遷都改元。
686年、難波宮焼失で浄御原宮再遷都改元、朱雀王の「大海人」天武天皇崩御。
690年、最後の倭国朱鳥王・高市天皇が即位。
691年、最後の倭国朱鳥王・高市天皇が大嘗祭。
694年、「間借り」大和の浄御原京⇒倭国の藤原京へ遷都。
695年、倭国が藤原京遷都記念で「大化」改元。
696年、倭王大化王・高市天皇が廃評建郡の「プロト大化改新」を発詔、倭王高市天皇を暗殺、倭国滅亡。

697年、「プロト大和朝廷」の軽皇太子が、大和朝廷「日本国」で初の文武天皇に即位。
698年、文武天皇が大和朝廷「日本国」で、初の大嘗祭。
701年、大和朝廷「日本国」が正式に開闢、「大宝」建元、新「大宝律令」発布。
702年、持統太上天皇崩御。
703年、倭王高市天皇暗殺の倭国側下手人3名が、連続死(暗殺死?)。
704年、異変に気付いた倭王天子の一分派?が「大宰府回帰」遷都、「大化」を「大長」改元。
710年、大和朝廷「日本国」が新都・平城京遷都。
712年、「倭国」残兵が「隼人の乱」の反乱を起すも、大和朝廷の追討・掃討で全壊滅。


●〔何が言いたいか、それは斉明天皇・天智天皇・天武天皇が「難波副都倭弟王家」の出身だということだ。〕


 647年、九州王朝「倭国」に甘木王「常色王」即位し、即位后、唐の侵略に対抗する為「常色の大改革」を次々断行する。直轄地の筑紫(=九州島)は早くから評制施行済みだったが、長門以東は連邦附庸国「出雲・加賀・吉備・秦国・尾張・毛野」の地方分権支配だったのだ。

 これを中央集権制の天下立評すべく、649年、造複都・難波京の詔を発し。652年、天下立評、難波副都完成、白雉改元儀式。天下立評で「プロト大和」開祖・伊勢王が難波副都常駐。

 倭国内では、大宰府と難波副都で権力の2重構造が発生。その後白村江戦前後までに、天下立評に伴い、倭国連邦附庸王国の「出雲・加賀・吉備・秦国・尾張・毛野(常陸)」等が解体を余儀なくされる。同時に難波副都倭弟王家が台頭する。

 663年、百済復活戦・白村江戦へ出兵。白村江敗戦で倭国白鳳王薩夜麻が唐に捕獲連行。

 664年、その白村江敗戦后早い時期に、留守居の難波副都の天智天皇が、倭王不在の倭国長門以東(=本州・四国)を唐から守備・防衛・直接支配する。
 665年、倭国直轄地の筑紫(=九州島)大宰府は、唐進駐軍に占領され、筑紫都督府と呼ばれる。

 667年、天智近江朝(=倭国難波副都倭弟王家)は、長門以東(=本州・四国)を分離・独立させ、近江遷都・天智が即位する。
 668年には高句麗が滅亡している。同668年、新羅本紀に「阿麻(=近江朝の仮名)来服」と言わしめ、「長門以東の天智近江朝が倭国から独立」のニュースは新羅から唐へ急報されただろう。
 670年、更に、天智天皇の近江朝が「倭国」更えて「日本」号す。

 「近江朝(=難波副都倭弟王家)」が「倭国」から分離独立したことを、唐国は認めるたくなかったのだ。
 唐は九州筑紫都督府占領軍を帰任させる前に、捕虜の倭国王「薩夜麻」を解放・復位させ倭国の再統合の為の「壬申の乱」を計画・実行したのだろう。

 というのは、672年「壬申の乱」が起きるその前年
 671年に、倭国白鳳王薩夜麻が帰国している。ということは、「壬申の乱」が、
 671年、天智天皇崩御后の近江朝大友皇子と吉野朝天武天皇の跡目争いといった小さなものでなく、唐の倭国再統合戦だったということだ。熊本県大津町内牧瀬田橋戦も含め、記述外の戦がどうだったかだ。
 672年、壬申大乱で天智近江朝は滅亡し、潰えてしまう。

 壬申乱に戦勝、唐筑紫占領軍が引揚げ后は、独立した「筑紫(=九州島)」統治大宰府「倭国」と、「長門以東(=本州・四国)」統治の「真人(=征東将軍)」浄御原宮「天武朝(=難波副都倭弟王家)」とに、取って代わる。

 然し、672年、「壬申乱」で戦勝したはずの倭国のその後は、唐国の傀儡化と過酷な戦後賠償でさらに疲弊してゆくことになる。(残念なことに、白村江敗戦後のこの時期、属国・九州王朝倭国の唐への戦後賠償船派遣記事は、正木裕氏の指摘する34年遡上説でそっくり抹殺・抹消され窺い知ることができないのだが)

 その後大宰府倭国は、悪いことに、678年、筑紫地震をはじめ度重なる地震におそわれる。その窮状を難波副都倭分家弟王家「天武朝」へ訴え救いを求めたふしがあるが、最終的には684年、大宰府から難波京へ遷都することになった。遷都もつかの間、白鳳地震。更に2年后には、難波京が焼失する。止むを得ず、686年、「天武朝(=難波副都倭弟王家)」の浄御原宮へ間借り再遷都する。将に当たり目に祟り目だったのである。

 最後の倭国王「高市天皇」が690年、即位。691年、大嘗祭。倭国の藤原京の建設を急ぎ、694年、「間借り」大和の浄御原京から倭国の藤原京へ遷都。695年、九州年号「大化」改元。696年、建郡「本来の大化改新(=プロト大化改新)」発詔。その后、あろうことか、「本来の乙巳の変(=プロト乙巳の変)」で倭王「高市天皇」が藤原不比等をはじめとする下手人に暗殺され、倭国は滅亡してしまう。

 翌、697年、「天武朝(=難波副都倭弟王家)」大和の文武天皇が 即位する。698年、大嘗祭。701年、「大宝」建元、新・大宝律令発布。はれて、大和朝廷「日本国」の開闢・誕生である。

 これが「あらすじ」である。別紙 『 「倭国」の「大宰府主都」 : 「難波副都」対比年表 .html版 』『 同 .pdf版 』 を、参照方お願いします。


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“ 大和朝廷「日本国」出生秘話 ”

大和朝廷は (難波副都で 「天下立評」 した) 九州王朝倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 だ
《 大和朝廷の 「はしり」 は、ここで言う 「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」 に始まる。
  即ち、大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」 の 【 同じ血族・分流 】 と分かった。 》

隋書・旧唐書の云う九州王朝「倭国」の滅亡経緯と、701年(大宝元年:文武5年:九州年号「大化」7年)
正規に開闢する大和朝廷「日本国」が、その助走期間(プロト大和朝廷)を何時から、 どういう経緯を経て
成立したのか?「粗雑な編集」の日本書紀が垣間見せる史実らしき行間から、その真実を探ることです。

は “ こ ち ら ” か ら。



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大和朝廷「日本国」出生秘話
“ も  く  じ ”


  ◎はじめに
   Ⅰ・① 『法隆寺は、九州より「移築」 された』
   Ⅰ・② 『源氏物語』 と 『桂離宮(=桂殿)』
   Ⅱ・① 『旧唐書』 と 『倭国』
   Ⅲ・① 『九州王朝「倭国」は、いつ滅亡したか』 と 『大和朝廷「日本国」は、いつ開闢したか』
   Ⅲ・② 『大和朝廷は難波副都で「天下立評」した九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』



  ◎九州王朝「倭国」が緊迫のアジア情勢から難波副都建設・「天下立評(=全国評制施行)」
   Ⅳ・① 『大和朝廷は「天下立評」で難波副都に派遣常駐した九州王朝倭国の倭王家分家の弟王家だ』
   Ⅳ・② 『日本書紀』 と 『白村江「以前34年」を「以降34年」に切り貼り』
   Ⅳ・③ 『書紀編纂手法・50年前へ移動』 と 『大化改新詔』
   Ⅳ・④ 『「評と郡」・「都督と評督」』 と 『天下立評』
   Ⅳ・⑤ 『漢委奴国・邪馬壹国・親魏倭国・委国・倭国・大倭国・俀国はどこか? 存在したか?』


  ◎白村江戦以前・「常色の改革」・「天下立評」以降
   Ⅴ・① 『風雲急を告げる大陸の情勢』と『白村江戦い以前』
   Ⅴ・② 『難波朝廷天下立評給時』 と 『天子伊勢王こそ、評制創設の立て役者』
   Ⅴ・③ 『九州王朝倭国「天帰王(あまぎ・甘木)」の「常色の改革」以降』
   Ⅴ・④ 『娜大津の磐瀬宮は伊予国宇摩郡津根・長津の村山神社:合田洋一著』


  ◎白村江戦以降・「近江朝」
   Ⅵ・① 『継体紀の「長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ」とは』
   Ⅵ・② 『壬申乱とは「唐の傀儡・倭国」と「長門以東・近江朝」の唐による倭国再統合戦だった』


  ◎壬申乱以降・「難波遷都」・「プロト大化改新」・「倭国滅亡」
   Ⅶ・① 『筑紫大地震』 と 『倭国の難波への王権の禅譲』
   Ⅶ・② 『白鳳の大地震』 と 『震災後の移築』
   Ⅶ・③ 『遷都後の地理的近接』 と 『王朝交代』
   Ⅶ・④ 『これが倭国王最後の大嘗祭である』 と 『高市天皇の薨去はクーデターによる暗殺だ』
   Ⅶ・⑤ 『「高市天皇」暗殺が、「乙巳の変」のモデルになっている』
   Ⅶ・⑥ 『九州王朝難波副都での評制施行』 と 『天智天皇に続く大和王朝』
   Ⅶ・⑦ 『「大宰府倭兄王家」と「難波副都倭弟王家」の白村江戦後』


  ◎大和朝廷「日本国」誕生
   Ⅷ・① 『日本国』 と 『日本書紀』
   Ⅷ・② 『遣唐使の派遣』 と 『朝貢貿易』
   Ⅷ・③ 『万世一系の皇統譜』 と 『今の歴史教育は間違っている』
   Ⅷ・④ 『大和朝廷「日本国」がどういう経緯で忽然と極東アジアに現れたのか』


  ◎《追紀》
   Ⅸ・a 《追紀》 『継体天皇は越国:福井県の出身か』 と 『日本には東と南の字義が2つある』
   Ⅸ・b 《追紀》 『「日本書紀」が記す「高市天皇暗殺」迄の経緯』
   Ⅸ・c 《追紀》 『「続日本紀」が記す「高市天皇暗殺」後の下手人達の栄達』


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インナー・サイト

◎ 01.大和朝廷「日本国」出生秘話
◎ 02.評制「天下立評649年」を、郡制「大化696年」へ改新の【廃評建郡】が史実
◎ 03.大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 目次編 a 》
◎ 04.「倭国」法興寺の東院・西院を法隆寺へ移築し、跡地に観世音寺を造った
◎ 05.観世音寺は法隆寺への移築元ではないという説がある
◎ 06.ほんとうに太宰府は、九州王朝「倭国」の都(みやこ)だったのか
◎ 07.これが『書紀』のからくり、九州年号で倭国史書を切り貼り
◎ 08.「倭国」難波副都での「天下立評」を「原・大化改新」で覆い隠した
◎ 09.隋唐帝国の北東アジア支配と倭国の政変 : 川端俊一郎著
◎ 10.〔「持統紀」はなかった、本来は「高市紀」だった : 飯田満麿著〕
◎ 11.法隆寺移築説の原点である観世音寺・考 : 米田良三 論
◎ 12.九州年号・書紀天皇表
◎ 13.「倭国」の「大宰府主都」 : 「難波副都」対比年表 .pdf版
◎ 13.「倭国」の「大宰府主都」 : 「難波副都」対比年表 .html版
○ 14.趣味の古代史
○ 15.まぼろし の 邪馬壹(≠臺)国 は、どこか?
○ 16.著書「逆賊磐井は国父倭薈だ」の序論
○ 17.法隆寺の五重塔の芯柱について
○ 18.「大化の改新」は無かった
○ 19.壬申の乱ダイアローグ(お相手は塩川慶子さん)
○ 20. 鹿島昂【高市皇子は新羅軍指揮者】説は、万葉集歌(前書き)による誤謬
○ 21.桓武天皇ご即位の謎
○ 22.平成天皇『韓国とのゆかり』発言
★ 23.twitter @t0_yan “とうやん”
★ 24.倭国のひろば 掲示板を読む
★ 25.旧ヤフーブログ《魚拓》
★ 26. 「筑紫なる飛鳥浄御原宮」を探る:正木裕氏投稿
★ 27. 九州王朝「倭国」:《魚拓》
★ 28. なぜか隠された九州王朝「倭国」の東遷:《魚拓》





参考にした主な外部サイト

・法隆寺五重塔の芯柱:米田良三
・聖地『小倉山』はどこかMAPFANで探そう 
・法隆寺と九州王朝:古田武彦
・釈迦三尊の光背銘に、聖徳太子はいなかった:古田武彦
・世界遺産・法隆寺(現在の様子)
・法隆寺は観世音寺から移設されたとは?:三輪茂雄
・法隆寺は観世音寺の移築か〈その一〉:大越邦生
・法隆寺は観世音寺の移築か〈その二〉:大越邦生
・法隆寺の物差しは中国南朝尺の「材」:川端俊一郎
・法隆寺移築論の史料批判—観世音寺移築説の限界:古賀達也
・法隆寺移築論争の考察:飯田満麿
・善光寺如来と聖徳太子の往復書簡—九州年号—:古賀達也
・筑紫の島で生まれた百済の斯麻王:川端俊一郎
・隋唐帝国の北東アジア支配と倭国の政変:川端俊一郎
・大宰府リンク:櫻井裕子
・観世音寺リンク:櫻井裕子
・古代史獺祭 〔 列島編メニュー 〕 : 古代史獺祭
・皇太神宮儀式帳 『 難波朝廷天下立評給時 』 : 古代史獺祭
・『よみがえる九州王朝』幻の筑紫舞:古田武彦
・延年の舞:毛越寺
・新古代学の扉:古田史学会
・古田史学の会—闘論:古田史学の会及び提供団体・個人
・王朝多元—歴史像(郡と評・都督と評督):古田武彦
・手作り「古田史学いろは歌留多」:水野孝夫
・寛政原本と古田史学:古田武彦
・『宋書』の倭・『隋書』の俀国・『唐書』の倭国と日本:古田武彦
・大嘗祭と九州王朝の系図:古田武彦
・大化の改新と九州王朝 (郡評論争):古田武彦
・九州に2種類の風土記「県」と「郡」:古田武彦
・筑後国風土記の成立:石田泉城
・壬申の乱の大道:古田武彦
・「両京制」の成立—九州王朝の都域と年号論:古田武彦
・壬申の乱に就いての考察—:飯田満麿
・九州王朝の近江遷都『海東諸国紀』の史料批判:古賀達也
・古賀達也の洛中洛外日記:古賀達也
・『二中歴』人代歴と年代歴が示す「九州年号」:古賀達也
・朱鳥改元の史料批判:古賀達也
・最後の九州年号—「大長」年号の史料批判—:古賀達也
・白雉改元の史料批判—盗用された改元記事:古賀達也
・日本書紀の編纂と九州年号—34年遡上分析:正木裕
・白雉年間の難波副都建設と評制の創設:正木裕
・日本書紀、白村江以降に見られる—34年遡上現象:正木裕
・藤原宮と「大化の改新」移された藤原宮記事:正木裕
・朱鳥元年の僧尼献上記事批判—34年遡上問題:正木裕
・中大兄皇子の謎:by web-gorilla5
・尊王思想の研究7―易姓革命:きんたろう
・大友皇子と鞠智城(壬申の乱は九州):日出島哲雄
・天武天皇は二人いた(2人1役):日出島哲雄
・藤原宮には九州王朝の天子がいた:肥さんの夢ブログ
・橘諸兄は九州王朝王族の子孫だった:肥さんの夢ブログ
・高市皇子即位説について:jasminteaの歴史探訪
・もしも高市皇子が即位していたら:凛太郎の徒然草
・もしも長屋王の変がなかったら:凛太郎の徒然草
・万葉集 柿本人麻呂と高市皇子(天皇と皇子の敬称)
・《 真説古代史・近畿王朝草創期 》「伊勢王とは誰か」
・書紀通り忠実な「乙巳の変」 と 「大化改新」:飛鳥の扉
・持統天皇は実在するか?:マヨのぼやき
・九州王朝の落日:前田博司
・「電 称 倭 国 伝」「倭国筑紫王朝(寧楽の都)」:筑紫研
・『旧唐書』の「倭国伝」と「日本伝」:河西良浩
・夢幻と湧源「白雉の政変」「倭と新羅の政変の連動」:夢幻亭
・帝國電網省/歴史再考/小論目次
・明治維新の真実(南朝・明治天皇): INFACT
・文武王(ムンムワン:?−681) 金法敏:邪馬台国大研究
・皇室の系図一覧 : Wikipedia
・古代逸年号目録 : 林研心
・九州年号-皇紀対照表 : EthnoGraphic @ ウィキ
・教員のための社会科学習参考書籍集 : コアラ
・海上交易の世界と歴史:高帆旅人(本名/篠原陽一)
・国名でみる三韓の地域性について : pikupopodemi
・古代史探訪:佐藤章司
・「任那」について : 韓 舜根
・北斗七星,こぐま座と訪問者 : 伊藤紀幸
・「倭の五王」から「日本国」へ(「九州王朝」を中核にして)
・日野智貴さんのブログ
・日本と天皇の起源!そして現代日本政治の源!
・謎の土器に隠された古代日本人ミステリー (YouTube)





参考にした主な著書・文献類

著書・文献類
符号著書名著者発行所
01 まぼろしの邪馬台国 宮崎 康平講談社
02日本列島史抹殺の謎 鹿島昇・吾郷清彦・佐治芳彦新国民社
03 明治維新の生贄(長州忍者外伝) 鹿島昇・松重正・宮崎鉄雄新国民社
04 裏切られた三人の天皇(明治維新の謎) 鹿島昇新国民社
05 日本史のタブーに挑んだ男(明治天皇はすり替えられた) 松重楊江たま出版
06白村江 鈴木 治学生社
07白村江の戦いと壬申の乱(唐初期の朝鮮三国と日本) 小林恵子現代思想新社
08<原本現代訳>日本書記 <訳者>山田宗睦教育社
09古代朝鮮 井上 秀雄日本放送出版協会
10分割された古代天皇系図 坂田 隆青弓社
11旧唐書倭国日本伝 <編訳者>石原 道博岩波書店
12失われた九州王朝 古田 武彦朝日新聞社
13古代は輝いていた 古田 武彦朝日新聞社
14古代の霧の中から 古田 武彦徳間書店
15古代史をゆるがす 古田 武彦原書房
16よみがえる九州王朝 古田 武彦角川書店>
17法隆寺は移築された 米田 良三新泉社
18建築から古代を解く 米田 良三新泉社
19列島合体から倭国を論ず 米田 良三新泉社
20逆賊磐井は国父倭薈だ 米田 良三新泉社
21太宰府は日本の首都だった 内倉 武久ミネルヴァ書房
22法隆寺のものさし(隠された王朝交代の謎) 川端 俊一郎ミネルヴァ書房
23韓国は日本人がつくった 黄 文雄ワック株式会社




ここは、 ”と う や ん” twitter @t0_yan
山本 俊明 のホームページ です 。